AI

2025年11月 3日 (月)

公訴時効について

 先日,名古屋で26年前の殺人事件の容疑者が逮捕されたというニュースがありました。この事件は,発生当時の法律であれば公訴時効が成立していたはずですが,遺族の方の努力もあり,2010年の法改正によって殺人罪の時効が廃止されたため(刑事訴訟法250条を参照),26年経っても訴追が可能となっています。
  
そもそも公訴時効という制度は,時間の経過によって証拠が失われ,公正な裁判を行うことが難しくなるという理由で設けられてきました。また,いつまでも事件が人々を縛りつけることのないよう,社会的安定や法的確定性を確保するという目的もあります。さらに,長い年月が経過すれば,犯人が更生して社会に適応している可能性もあり,刑罰の実効性が薄れるという理由もありました。
 しかし,殺人という行為は人の生命を奪うという最も重大な犯罪であり,その重みは時間の経過で薄れるものではありません。しかも近年では,DNA鑑定技術の進歩によって,事件から何十年経っても有力な証拠が得られるようになりました。今回の名古屋の事件でも,遺族が長年にわたって現場を保存していたことが,DNA照合による決定的な証拠の発見につながりました。技術と人の努力が結びついて,時間が経てば立証が困難となるという時効制度の前提が,崩れてきているのです。
 個人的には,児童への性犯罪についても時効の撤廃を検討すべきだと思います。こうした犯罪は被害者に深刻な心の傷を残し,告発までに長い時間を要することが多いからです。さらに再犯の可能性も高く,社会としても被害を未然に防ぐ視点が求められます。
 時効制度を支持しうる理由には,刑事司法におけるマンパワーの限界という現実的な事情もあるかもしれません。捜査や起訴には膨大な人手と時間が必要であり,限られた捜査資源を新しい事件に集中させるために,一定期間を過ぎた事件は優先順位を下げざるを得なかった,という可能性です。しかし,現在ではAIによるプロファイリングや監視カメラ映像の解析などが格段に進歩しています。これらを組み合わせれば,マンパワーにあまり依存しない効率的な捜査体制が可能でしょう。私自身は,私的な空間を除いては監視カメラの設置を認めることは仕方ないと思っています。AIによる画像解析や顔認識技術を適切に運用すれば,事件発生後の追跡だけでなく,犯罪の未然防止にも大きく役立ちます。こうした省力化・効率化の流れは,まさに「デジタル優先主義」が刑事司法にも当てはまる好例だと思います。
 科学技術や社会の価値観が変われば,法制度もまた見直されていくべきです。こう考えると,公訴時効のあり方は,人間とデジタル技術との関係といういつものテーマの応用例といえるかもしれません。

2025年10月10日 (金)

イタリアのAI(IA)新法

 イタリアで,2025923日に「人工知能に関する規定と政府への委任」を定めた法律第132号が成立しました。この法律は,一部の事項を直接定めつつ,その他の部分は政府への委任立法(delega legislativa)によって詳細を定めるという構成になっています。
 ちなみにイタリアでは,「人工知能」は AI ではなく IAIntelligenza Artificiale) と呼ばれ,定冠詞がつくと「lIA(リア)」になります。最初は現地で「リア」と言われても何のことか分からず戸惑いました。こちらが話すときも,文脈なしに「リア」とだけ言っても通じないことが多く,結局フルで言う必要があって,これが意外と面倒です。EUという言葉も同様で,イタリア語では UEUnione Europea)です。これも略すと通じづらいので,なるべくフルで言ったほうが確実です。
 ところで,この法律はEUAI法(AI Act)に基づく国内法整備としては,EU諸国で初のものです。とくに労働関係に関して興味深い規定が多く,現地の研究者にも話を聞きました。その内容は,帰国後にまとめたいと思います(現地でというのは,いま,私はイタリアに滞在中なのです)。
 ところで,現地で alfabetizzazione digitale という言葉も,ネット上で見かけることがありました。 Alfabetizzazione は本来,「アルファベットを習得すること」=「読み書きができるようになること」を意味します。そこに digitale(デジタル)がつくので,要するに「デジタルリテラシー」のことですね。 英語では literacy という言葉を使いますが,イタリア語ではこの語を使わないのはなぜでしょうかね。聞くのを忘れていたので,あとで自分で調べてみようと思います。

2025年9月12日 (金)

教育の質の低下と宇沢理論

 最近,教育の現場に対する信頼が揺らいでいると感じます。学力の低下や教員の過重労働といった構造的な問題に加え,信じがたい事件が報じられることも増えました。たとえば,小学校の男性教員が女子児童を盗撮し,SNSで画像を共有していたという報道は,教育者としての倫理以前に,人間としてのモラルが崩壊しているとしか言いようがありません。このような事件が起きてしまう教育現場に,子どもを安心して預けられるのかと,深い不安を覚えます。
 最近,経済学者・宇沢弘文氏の『社会的共通資本』(岩波新書)を読み直しています。宇沢氏は,教育・医療・環境など,人間が豊かに生きるために不可欠な制度や資源は,市場原理に委ねるべきではなく,専門家集団が公共性と倫理に基づいて運営すべきだと説いています。何を社会的共通資本と捉えるかは人によって異なりますし,私は労働それ自体も含められるのではないかと考えていますが,いずれにせよ教育はまさに社会的共通資本の典型だと思います。
 本来,教育は,人類社会が築いてきた文化と価値の継承であるはずです。しかし,近年の教育の現場では,成果主義的な発想や効率重視の姿勢が強すぎて,教師は,現場の成果管理者のような扱いになってしまっていないでしょうか。その結果,教育の本質が見落とされ,倫理や使命感が後回しにされてしまっているのではないでしょうか。
今回のような教員による性加害事件は,教育の「商品化」がもたらした副作用の一端かもしれません。
 子どもたちの未来を守るために,教育のあり方を根本から問い直す必要があると強く感じます。そしてその問い直しの出発点として,宇沢弘文氏の思想は,教育をどのような公的サービスと位置づけ,そして,そこにどのような人を配置すべきかということを考える際の重要な示唆を与えてくれます。そして,この面でも,AIの活用は重要なポイントとなると思います。人類の文化や価値の継承をAIにゆだねるのは情けないと考える人もいるかもしれませんが,むしろAIを活用して,どう人類の文化や価値を継承するかということを考えていく必要があるのです(AIという魔物をうまく使ってやれ,という気概でしょうかね)。

2025年9月 6日 (土)

読書の秋

 毎年,多くの本が刊行されます。そのなかのごく一部しか読むことはできませんが,少しでも多くの本を読まなければ損だという気持ちになります。せっかく他人が知識を提供してくれているのに,それを活用しない手はないからです。最近ではデジタル本であれば,見事な要約をしてくれるAIもあり,全文を読む必要すらありません。Marxの『資本論』やLockeの『市民政府二論』のような古典もインターネット上で参照でき,要約も容易に得られます。たとえばロックが労働による所有について述べた箇所や,生存権的な発想が見られる部分を生成AIに尋ね,その引用が正しいかどうかを原文で確認することもできます。
 自分の書いた文章も忘れていることが多いため,NotebookLMに読み込ませて要約や確認をしています。質はともかく量的には膨大なので,AIに頼らなければ自分でも整理ができません。
 自宅の本棚はそれほど大きくはないものの,それでもかなりの数の本があります。眺めていると「まだ読んでいない」「もう一度読んでみたい」「読まなければならない」と思う本が目につきます。また研究室に行けば本だらけで,地震が来れば本に埋もれてしまうほどです。つまり,私の周囲だけでも膨大な情報が眠っており,それを一生のうちにすべて吸収することは到底できないのです。だからAIを活用して,少しでも吸収できないかと考えています。もっとも,自分のよく知っている分野については,生成AIに尋ねても正しい答えがすぐに返ってくるわけではありません。数度のやりとりを経てようやく正解にやや近づくということもよくあります。ただ,これも,こちらが誤答への注意を払いながら,プロンプトの工夫をすることで改善が期待できます。いずれにせよ,AIの可能性を理解し,これをうまく使うことは,手書きからキーボード入力へと移行したときと同様,少なくとも私たちの業界では避けられないでしょう。

2025年7月 5日 (土)

松尾剛行『ChatGPTと法律事務(増補版)』

 弁護士の松尾剛行さんからChatGPTと法律事務―AIとリーガルテックがひらく弁護士/法務の未来(増補版)』(弘文堂)をお送りいただきました。つい先日,生成AIの本(『生成AIの法律実務』(弘文堂))をいただいたばかりであり,その生産量には脱帽です。
 いまや知的生産活動は,生成AIなしでは無理という状況になってきています。だからこそ,この驚異的な技術にどう向き合うべきかは,国民的な課題なのです。
本書は弁護士など法律事務家を読者に想定して書かれたものですが,一般の人にも参考になるところがあるのは,『生成AIの法律実務』と同様です。
 今回は増補版であり,すでに書かれていた内容について,情報をアップデートしたものです。帯には「<2040年の法律実務>を見すえつつ考える」となっていますが,おそらく2040年までに,本書は何度も改訂されることになるでしょう。それくらい技術の進歩は急です。そこは松尾さんは,丁寧にも,別の本で
『法学部生のためのキャリアエデュケーション』(2024年,有斐閣)を刊行されており,これから法律実務家になろうとする人,さらには一般の人向けに,AI時代においてどのようにキャリアデザインを描くべきかについてアドバイスをしてくれています。
 とはいえ,生成AIの広がりに漠然とした不安をもっている人は多いでしょう。政策の動きもリードしている松尾弁護士の著作をしっかり読んで,まずは基本的なところから勉強していくことが必要でしょう。

 

松尾剛行『ChatGPTと法律事務(増補版)』

 弁護士の松尾剛行さんから『ChatGPTと法律事務(増補版)』(弘文堂)をお送りいただきました。つい先日,生成AIの本(『生成AIの法律実務』(弘文堂))をいただいたばかりであり,その生産量には脱帽です。
 いまや知的生産活動は,生成AIなしでは無理という状況になってきています。だからこそ,この驚異的な技術にどう向き合うべきかは,国民的な課題なのです。
本書は弁護士など法律事務家を読者に想定して書かれたものですが,一般の人にも参考になるところがあるのは,『生成AIの法律実務』と同様です。
 今回は増補版であり,すでに書かれていた内容について,情報をアップデートしたものです。帯には「<2040年の法律実務>を見すえつつ考える」となっていますが,おそらく2040年までに,本書は何度も改訂されることになるでしょう。それくらい技術の新法は急です。丁寧にも,松尾さんは,別の本で
『法学部生のためのキャリアエデュケーション』(2024年,有斐閣)も刊行されており,これからの法律実務家になろうとする人,さらには一般の人向けに,AI時代においてどのようにキャリアデザインを描くべきかについてレクチャーしてくれています。
 とはいえ,生成AIの広がりに漠然とした不安をもっている人は多いでしょう。政策の動きもリードしている松尾弁護士の著作をしっかり読んで,まずは基本的なところから勉強していくことが必要でしょう。

 

2025年6月28日 (土)

生成AIはイタリア人?

 生成AIを使っていて,だんだんわかってきたのは,彼ら(?)は「知らない」や「わからない」とは,あまり言わないということです。何か質問して,ネット上にそれほど情報がなくても,なんとか答えを見つけ出してきてくれます。でも,それが正しい答えかどうかは別の話で,とにかく「答える」ということ自体が目的になっているようです。明らかに情報がないような最新の話題とか,質問の内容が曖昧なときは,さすがに自分では答えず,「ここを参照するといいでしょう」というようなことを言います。これはとても誠実な対応です。ただ,中途半端にしか答えられそうにないときに,無理をして(?)答えてくれることがあって,そこでは間違いが起こりやすいです。とても自信ありげに言ってくるので,うっかりこちらが信じてしまうことがあるからです。
 これでふと思い出したのですが,イタリアで道を聞いたときに,イタリア人は「知らない」とはあまり言わないということです。今はどうか知りませんが,昔は「イタリア人3人に道を聞くと,3人とも違うことを言う」なんて言われたものです。それはイタリア人の親切心からのもので,困っている人を助けようとしてくれているのです(その親切心に助けられたことは,数え切れないくらいです)。それに,自分の町のことだから,よその土地の人を相手に「知らない」とはいえないというプライドもあるのでしょう。とはいえ,こちらとしては,確信がないなら,そう言ってもらわなければ困ります。堂々とこうだと言われると信じてしまいますよね。ということなので,イタリアで道を聞くときは,少なくとも3人ぐらいには聞けというのが鉄則です。集団になっている人に聞いたら,その場でそれぞれが違った意見を出して,議論が始まったりすることがありますので,急いでいるときには,要注意です。
 ほとんど笑い話ですが,生成AIにも,なんとなくそれに似た感じがあります。「自分は知らない」と言いたくないのかもしれません。そうなると,生成AIに質問するときも,イタリアで道を聞くのと同じで,3人くらいに聞いてみないと安心できない,なんてことになります。これもまた,AIリテラシーのひとつ,ということなのでしょうね。

2025年3月22日 (土)

自己とは何か

 昨日,組織のアイデンティティなので,今日は,その流れで個人のアイデンティティのことを考えると,実は免疫というのがヒントになるという趣旨のことを,YouTubeの何かの番組のなかで養老孟司さんが言っていました。生まれたばかりの赤ちゃんは自己の免疫はなく,半年くらいは母親の免疫がありますが,その後はなくなり,自分で免疫をつけていきます。そこで「自己」と「非自己」を見極めて,「非自己」を異物と認識して排除します。ここに生理学的には,自己の始まりがあるといえそうです。もしかしたら,この免疫の確立と自我の確立は関係しているのかもしれません。
 免疫との関係でいうと,たとえばiPS細胞のようなものは,自己の体細胞とはいえ,体外で培養したものなのですが,免疫拒絶反応がない(あるいは小さい)ということのようです。これは自己の範囲が広がったということでしょうか。
 そもそも私たちの細胞は数年経てば,すべて入れ替わっているので,細胞レベルでは,同一性は維持されていません。それでも前の自分と今の自分が同じ自己であるというのは,どういうことなのでしょうか。そう考えると,法律の世界では,法人と自然人という区別をして,前者は人為的に人の集合体や財産の集合体に法人格を与えたものという説明をしますが,自然人だって,動的平衡で何とか維持している「人という器」に法人格を与えているだけかもしれません。
 ところで,今日は,神戸労働法研究会で,弁護士の松尾剛行さんより,ブレインテックの話を聞きました。ブレインテックを使うと,脳にまでテクノロジーが侵入してきます。テックを使って脳のパワーアップもできる可能性も教えてもらいました。テックであれば免疫で排除しないでしょうが,その侵入は「異物」なのでしょうか,それとも,「自己」の一部となるのでしょうか。

2024年12月 6日 (金)

誰を信用すればよいのか

 野村證券の社員が取引先の老夫婦に対する強盗殺人未遂,現住建造物等放火の罪で起訴されたという記事が出ていました。産経新聞の記事でみると,「元社員は広島支店に勤務しており,顧客だった広島市の80代の夫婦宅に放火し,現金を奪った。起訴状によると,728日午後535分~745分ごろ,夫婦宅で妻に睡眠作用のある薬物を服用させて昏睡状態にした上,2階寝室の押し入れにあった現金約1787万円を盗み,放火して殺害しようとしたとしている。」
 もう無茶苦茶です。強盗殺人(強盗致死傷罪)は,刑法240条で,「強盗が,人を……死亡させたときは死刑又は無期懲役に処する」となっていて,法定刑は死刑と無期懲役しかありません。現住建造物等放火罪は,刑法108条で,「放火して,現に人が住居に使用し又は現に人がいる建造物……を焼損した者は,死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する」となっていて,死刑,無期懲役または5年以上の有期懲役で,これは殺人罪(刑法199条)と同じです。強盗殺人が未遂であっても,放火のほうは既遂である可能性があり,こうなると強盗殺人が未遂でも死刑の可能性さえあるのではないでしょうか。
 大学を出て,大企業に就職し,妻や子どももいるかもしれず,そうした人生を捨ててしまうほどの動機があったのでしょうか。お金はおそろしいです。闇バイトによる凶暴な強盗殺人犯とは違った意味で,ある面では,それ以上に恐ろしいところがあります。野村證券は,社員教育ができていたのかということを問われても仕方がないでしょう。社員教育というのは,信用が何よりも大切な会社では,たんに良き市民であるためのものにとどまらず,ビジネスに必須のものなのです。資産運用を考えている人の資産は,長年こつこつと貯めた貯金であったかもしれません。それを少しでも老後の資金を増やしたいということで,リスクも感じながらも投資などの運用をするのです。証券マンは,それをプロとしてサポートする仕事です。他人の人生に寄り添い,しかも他人の懐事情も知り尽くしたうえで,老後の資金を確保できるように行動することが求められているのです。信用ができない人には任せられません。
 富裕層は,複雑でオーダーメイドの運用戦略を求めることが多いので,人間に頼る人が多かったと思いますが,一番大切な信頼関係が不安になってくると,やっぱりAIに任せたほうがよいと思うようになっていくかもしれません。高齢になると,「オレオレ詐欺」などもあるので,他人に騙されないように,慎重な行動がする人が多いはずです。現時点では,デジタル嫌いの人が多いので,AIに直ちに移行することはないかもしれませんが,これからの高齢層は,AIにも慣れていて,人間の関与なしに資産運用をしていくほうがよいと考える人が増えていくでしょう。ロボットアドバイザーの最大手のウェルスナビが伸びてきているのもそのためだと思われます(先日,三菱UFJの傘下に入ると発表されていましたが,これは一層の飛躍が期待されることを意味していそうです)。

2024年11月21日 (木)

未来予測

 福田雅樹ほか編著『AIがつなげる社会―AIネットワーク時代の法・政策』(2017年,弘文堂)のなかに,未来の労働社会を予測したシナリオを書いた私の論考「変わる雇用環境と労働法―2025年にタイムスリップしたら」(以下,「2025年」)が掲載されています。同じ弘文堂から単著AI時代の働き方と法―2035年の労働法を考える』(以下,「2035年」)を同年に出版しているので,未来予測をする気が満々であったころの執筆ですが,「2035年」のほうは,だいたいそこで想定している方向で動いているものの,「2025年」のほうでは具体的なピンポイントの予測をあえて書いているので,そのほとんどは全然実現していません。ということで,予測は外れたということです。言い訳をすると,「2025年」のほうは,かなり希望と期待を込めた部分があり,少し無理があることは調子でした。ただコロナ禍の前の論考なので,コロナ禍があったことにより,それだけ予測が実現しやすい状況にあったような気がしますが,実際にはそれほどデジタル化や技術革新は加速化しなかったということでしょう。
 では「2025年」では何を予測していたのでしょうか。2019年のラグビーワールドカップは,日本はニュージーランドに負けて準優勝と予想していました。実際には予選は4連勝で突破しましたが,優勝した南アフリカに敗れ,ベスト8でした。東京オリンピックは2020年であるはずが2021年にずれこみ,金メダル予想は32としていましたが27でした。デジタル技術をつかった活躍を期待した予測でした。外れはしましたが,大外れというほどではないでしょう。
 また,2020年に年金の支給開始年齢が70歳になるという予測は外れましたし,合計特殊出生率が2.0になるという予測も大外れです(どうして2.0になると予測したかは,ぜひ本を読んで確認してみてください)。
 2022年に日本労働法学会が解散して,科学的エビデンスに基づいて政策論を戦わす日本労働法政策学会が立ち上がるということを書いていましたが,これも外れました。ただ,2023年には,制度・規制改革学会が創設され,そのなかの雇用分科会では,これに近いことが議論されているといえます。
 一番大きな外れは,厚生労働省が,2020年にAIネットワーク社会を見越して,労働時間規制を見直し,私が提唱するような直接的な健康確保措置を検討する場を設定するという予測です。まったくそうした兆候はありません。2020年には日本型雇用システムの余韻は消え,解雇の金銭解決制度が導入されるといった予測もしていますが,これもまた見事に外れました。
 教育はMOOC(大規模公開オンライン講座)が一般化し,2023年には中学と高校は統合され,大学は専門研究機関となるという予測も外れ,若者が次々と10代で起業するという予測も当たっていません。
 しかし,私はめげていません。2025年は早かったかもしれませんが,2035年はどうでしょうか。「2025年」は大胆な予想をするということでしたので,少し尖ったことを書きましたが,荒唐無稽なことを書いたつもりはなく,多少の誤差があるだけと言いたい気分です。実際にはどうでしょうか。2035年,2040年に向けてどういう変化が起きるかをみていきたいと思います。