映画

2024年10月11日 (金)

Terminator(映画)

 AIが発展したあとの世界のこととして,よく映画「ターミネータ(The Terminator)」が話題になります。この映画は1984年のもので,2029年の未来を予測し,殺人ロボットが跋扈する社会と人間との戦いを描きました。アーノルド・シュワルツネッガー(Arnold Schwarzenegger)の出世作でもあります(後半は彼の顔はつぶされた状態で出ていましたね)。当時は,新たなSFアクション映画ということでした。
 ロボットが人間の逆襲を受けていたため,その人間側のリーダーであるJohn Connorsが生まれてこないようにするために,その母親であるSarah Connorsを暗殺する(シュワルツネッガーが扮する)殺人ロボット「T-800モデル101」がタイムマシーンで送り込まれるということで,それを阻止するためにJohnも部下のKyleを同じようにタイムマシーンで送り込み,両者が戦うということでしたが,その間にSarah とKyleが結ばれてしまい,Johnを妊娠するというところで終わってしまいました。KyleはJohnの部下であったはずが,父親になってしまうというのは,どういうことかという疑問が残りました。Johnが生まれることを阻止するというロボット側の作戦は食い止められて未来は変わらなかったといえますが,Johnの父が変わるという形で未来は変えられたということでしょうか。よくタイムマシーンで戻ってきた者が両親を殺したとき,その者(生まれる可能性がなくなる)はどうなるのかという問題と似ています。
 話を戻すと,私たちは映画で描かれていた2029年に近づいています。実際,現代のテクノロジーの進化は目覚ましく,AIやロボット技術は日々進化を遂げています(映画では,ロボットが電話帳を使って,Sarahを探していますが,アナログ的なのはちょっと笑えます。携帯電話の進化が予想できていなかったのでしょうね)。もちろん,現実の2029年は「ターミネータ」が描いたディストピアとは異なります。私たちはまだ殺人ロボットとの戦いには直面していません。ただ,戦争で無人ドローンが使われているという点では,部分的には同様のことが起きているともいえます。ということで,「ターミネータ」の未来像は,依然として,警鐘として受けとめておく必要があるのでしょう。私たちは,技術の進歩を歓迎しつつも、それが人間の価値観や倫理観とどのように調和するかを考え続けなければなりません。
 そんなことを考えているとき,2040年の未来を語るという趣旨のエッセイの依頼が来ました。2040年は予測困難な未来ですが,生成AIには書けそうにない,人間ならではの想像力を駆使して構想を練ることにします。

 ところで,この映画でシュワルツネッガーが言った「I’ll be back.」というセリフは有名です。Sarahを探して警察署に来たときに,担当者から受付を断られたあと,この発言をして,そのあとすぐに車で扉をぶちやぶって入ってきたというシーンでのものです。普通の言葉ですが,あまりにも印象的なシーンなので,それに合わせてこの言葉が有名になります。「また戻って来る」というとき,「I’ll be back」と,ちょっと気取って言うと,映画を知っている人は,くすっと笑うでしょう。

2024年8月 8日 (木)

Minnesota

  民主党の次期副大統領候補にミネソタ(Minnesota)州の知事のTim Walz氏が指名されました。Harris次期大統領候補にはない属性(白人,男性,北部州の政治家など)をもつ人が選ばれたのでしょう。Minnesotaというと,最近,たまたまFargoという映画(1996年。監督は,Joel Coen, Ethan Coen)を観たところだったので,びっくりしました。偶然です。Fargoというのは,土地の名前で,North Dakota州の都市ですが,Minnesotaとの州境にあります。ただ,映画のなかで登場する事件(テロップでは実話に基づいていると出ていましたが,フィクションだそうです)は,ほとんどMinnesotaで置きています。
 義父の経営する自動車販売会社の営業部長をしているJerryは借金に苦しんでおり,妻Jeanを偽装誘拐して,金持ちの義父に身代金を払わせて,借金の返済をしようと考えます(妻の承諾はなし)。Jerryは,会社で働く一人の修理工にチンピラの紹介を頼み,彼らに誘拐をさせるのですが,いろいろな手違いが重なり,人々が次々と死んでいくという話です。Frances McDormanが演じる妊婦の警察署長のMarge Gunderson 役がとても良かったです。残虐な事件が次々と起こるのです(最後のほうで,チンピラが仲間割れして,殺されたほうがwoodchipperで粉砕されていくところは吐き気がしました)が,Jerryの間抜けぶりがひどくて,どこか喜劇的な要素のあるブラック・コメディという感じです。映画のなかの風景は雪景色が多く,寒そうな田舎の州というのが,Minnesotaにもったイメージでした。
 Walz氏の名は今回はじめて知りましたが,田舎者で,人の良さそうなおじさんという印象です(60歳にはみえないですが)。この面でも,検事上がりのHarrisとは好対照です。共和党の副大統領候補のVanceとは正反対の印象です。Walz氏は,どこまでrust belt の白人労働者の心をつかめるでしょうかね。

2024年5月 1日 (水)

映画「Nomadland」

 夫の故郷でともに生活し働いていた女性(Fern)が,夫に先立たれ,また企業が倒産して企業城下町が丸ごと消失するなか,財産を処分してVanに乗って始めたノマド生活を追った映画です(実際のノマドも出演しているそうですが,ノンフィクションではありません)。とくに何かストーリーがあるわけではなく,かといってドキュメンタリーでもないという不思議な作品ですが,いろんな感想がありそうです。
 Fernは,わずかな年金と蓄えだけでは生きていけないので,Amazonの倉庫で働いたり,レストランで働いたりなど,職を転々とし,またVanで住居の拠点も転々とします(彼女は自分はhomeless ではなく,houselessだと言います)。まさにノマドという言葉にふさわしいのです。ノマド生活には,ほんとうはいろいろなサバイバル術があり,それを
知らないまま始めるのは無謀なことなのですが,Fernは,いろんな人に助けられて,少しずつ学んでいきます。

 ある意味では,究極の自由な生活です。Fernには姉がいてほんとうは帰るところがあるのですが,あえて一人の生活を選んでいます。一緒に住もうと言ってくれる男性もいましたが,その申し出も断ります。とはいえ,完全に一人では生きていけないのであり,ノマドのコミュニティなどにも頼りながら生きていくのです。印象的な台詞がありました。ノマドには,「Good-byeは,finalな別れではない」というのです。ノマドだから,またどこかで会うことがあるのです。この感覚がいいなと思いました。

 この映画では,大自然が描かれていて,資本主義から背を向け,人間らしい生活の原点に帰ることが重要だというようなメッセージも感じられるのですが,資本主義の象徴でもある自動車(Van)が不可欠であるところからすると,しょせんは贅沢な自由生活ではないかと思ったりもしました。

 日本でノマドを描くなら,もっと違った映画になるかもしれませんね。私は積極的にノマドになりたいと思うほど,資本主義に傷つけられた意識はありませんが,でもノマドのようになってもやっていけるようなたくましさはもっていなければならないと思っています。といっても,いまさら運転免許は取れないので,アメリカ型ノマドは無理そうです。

 

 

2024年4月29日 (月)

映画「The Burial」

 邦語タイトルは「眠りの地」ですが,直訳すると「埋葬」というタイトルです。葬儀ビジネスにおける全国展開の大企業とローカルな中小企業との間の戦いという法廷ドラマですが,根底には,名もなき黒人奴隷たちの墓石もないままの埋葬とその上にたつ白人の銅像ということに象徴されるような人種差別問題が扱われています。主演はJamie Foxx,共演者に日本のCMでもおなじみのTommy Lee Jones。監督は,Maggie Betts。 実話に基づくもので,Willie Garyという連戦連勝で成金的な匂いがプンプンする黒人弁護士と,資金難で州の当局からも目をつけられ,Loewenグループにつけ込まれて,先祖から引き継いでいる会社の一部を二束三文で売る羽目に陥りそうなO’Keefeが主人公です。彼には多くの子や孫がいて,しっかり資産を残すことが最大の願いです。戦争にも功績があり,市長経験があり,家族思いであるという人格者です。
 O’Keefeは,Loewenグループとの契約が履行されていないとして,裁判を起こすことを決断します。彼の友人である弁護士Mikeは白人ですが,裁判が行われる地では,黒人が陪審員の多数派になり,裁判官も黒人となる可能性が高いので,白人よりも黒人の弁護士のほうが有利となりそうです。新たに採用した若い弁護士Halのアドバイスで,Garyに弁護団に入ってもらうことにします。Garyは,人身傷害(personal injury)専門で,契約は専門ではないし,白人は弁護しないということで当初は依頼を断っていたのですが,大企業相手に勝つことによって栄誉も得られるというHalの説得に応じて事件を引き受けます。Loewen側も,HarvardLSの首席で反対尋問が厳しいことで有名な女性弁護士Mame Downesを立てます。
 Garyは,仲間の反対を押し切り,O’Keefeの人格を強調するために,彼を準備不足のまま証言台に立たせますが,Downesによって資金難に陥った過程を追及され窮地に陥ります。自分をきちんと守れなかったことに立腹したO’KeefeはGaryを主任弁護士から外し,Mikeが主任弁護士となりますが,今度はMikeが,Downesから彼の祖父がKKKのメンバーで黒人虐待に加担していた事実について追及されます。これによりMikeも弁護団から外れます。勝訴への見込みなとして,O’Keefeは訴訟を取り下げようとしていたとき,Halが,Loewenグループと黒人のBaptist教会との間の疑惑に気づき,教会を通して黒人に不当に高額のパッケージを販売していたことを明らかにします。次々とLoewenグループに不利な証言が出てきて,ついにDownesは,Loewenグループの総帥のRaymondを証言台に立たせることにします。しかし今度は,これが失敗でした。Garyが反対尋問で,契約の内容についての尋問ではなく,契約を交わした場所である豪華船のことについてしつこく尋問し,Raymondが黒人から吸い上げた金で豪勢な生活をしていることを,陪審員に印象付けます。契約の専門家ではないGaryが,人身傷害事件で勝ってきたときの戦法が使えたようなシーンです。
 不利を悟ったLoewen側は和解をもちかけます。もともとGary1億ドルの和解案を提示していました(Mikeは,提訴時は800万ドルの和解を提示していましたがGaryがそれをキャンセルして釣り上げていました)が,Loewen側は最終的に7500万ドルまで譲歩します(この和解交渉は興味深いです)。しかし,それすらもO’Keefe夫婦は拒否します。彼らにとっては大金ですが,応じませんでした。そして,陪審員の評決が出ます。なんとO’Keefeの勝利であるだけでなく,賠償額は1億ドル,さらにアメリカ特有の懲罰的損害賠償額が4億ドルという巨額の賠償命令が出ました。最後に,控訴審で和解をしました(和解金は1億7500万ドル)が,Raymondは解任され,最終的にLoewenは破産したことがエンドロールで説明されていました。
 実話なので,何かものすごいドンデン返しがあるわけではなく,悪い白人Raymond が,訴訟内でいったん挫折をしながらもめげずに立ち向かい最後は黒人陪審員を味方につけた黒人弁護士Garyによって,最後はやっつけられるというわかりやすい筋で,しかも黒人と白人の友情,家族愛の強調など,あまりにも典型的なストーリーではあるのですが,それでも十分にスリリングであり,最後に懲罰的損害が命じられるところは,すっきりさせてくれます。
 Garyは,8歳から砂糖きび農場で働いていたそうです。不動産を黒人ゆえに売却してくれなかったという屈辱的な差別体験から,猛勉強して弁護士になりました。母親思いで優しく,でも巨悪には立ち向かうという正義の味方の弁護士(自家用ジェットには,wings of justiceと書かれているが,同時にジェットをもつだけの大金持ちだということでもある)ということですが,その成功話よりも,その生い立ちにおいて経験していた,かつて奴隷州であったアメリカ南部の凄まじい黒人差別の名残りや,加えて,そうした黒人をなお食い物にしている白人のビジネスの欲深さが印象的です。映画のなかのMikeRaymond からうかがわれる黒人に対する抑えきれない嫌悪や差別意識(俳優の名演技なのですが)に,あらためてアメリカの闇を知るような気がしました。

2024年3月 6日 (水)

「ある男」

 「親ガチャ」と言われる世の中です。どの親から生まれてくるかによって,人生は大きく左右されるという意見が強まっているようです。これはある程度は実証的な分析が可能なものでしょう(親の年収と子の年収の相関関係を調べるとか)が,「ある男」という映画に出てくるのは,そういうレベルを超えている話でした(監督は石川慶)。以下,ネタバレ注意。
   映画は,宮崎のひなびた町で文房具屋の店番をしている里枝(安藤サクラ)が涙ぐんでいるシーンから始まります。そこに暗い印象の青年(窪田正孝)がやってきて,スケッチブックを買います。里枝は,2歳の次男を脳腫瘍で亡くし,そのときの治療法をめぐって夫婦のいさかいが始まり,それがひどくなって離婚をして,実家に帰っていました。泣いていたのは,実父が亡くなったばかりだからです。谷口というこの青年は,何度かこの文房具屋に通ううちに顔見知りになった里枝に「友だちになってください」と言います。こうして二人は付き合い始め,結婚し,女の子も生まれます。連れ子の長男の悠人も,谷口に懐いており,幸せな家庭生活を送っていました。そんな生活が39ヶ月続いたところで,谷口は不慮の事故で亡くなってしまいます。谷口は,実家が伊香保温泉の旅館を経営していて,その次男でしたが,実家との折り合いが悪くて逃げ出していると言っていました。そのためか,里枝は谷口の死のことを,彼の実家に連絡をしていなかったようです。ようやく1年後,里枝はお墓を作る必要があることから,彼の実家に連絡をし,それを受けて実家の長男が焼香をしにやってきたのですが,そこで彼は,写真の谷口を見て弟ではないと言いました。衝撃を受けた里枝は,かつての離婚手続のときに世話になった弁護士の城戸(妻夫木聡)に調査を依頼します。谷口を名乗った男Xが,谷口でないことはDNA鑑定で明らかになりました。ではいったいXは誰なのか。城戸は,ひょんなことから,戸籍交換の可能性を疑い,すでに刑務所にいる戸籍交換の犯人の元締めの小見浦(柄本明)に話を聞きます。小見浦はその場では答えてくれませんでしたが,後から曽根崎との戸籍交換を示唆する絵葉書を送ってきます。しかし,Xと曽根崎がどうしてもつながりません。あるとき城戸は,自身が関係している死刑囚の絵画展において,里枝のところで見た,Xがスケッチブックに書いていた絵と同じような,目の部分をつぶした印象的な絵があるのに気づきました。絵画展のパンフレットには,死刑囚の写真も掲載されており,それをみるとXと瓜二つでした。Xはその死刑囚の子だったのです。城戸はXの過去を洗い出すことができました。Xの父は,放火殺人をしていた死刑囚でした。Xの本名は原誠です。原はボクサーとして活躍していましたが,新人王になる一歩手前のところで,自分の過去をジムの会長に打ち明けます。この会長によると,原は父と顔が似ていて,父の血が流れている自分のことを嫌悪していると語っていました。その後,自殺未遂を引き起こし,消息をたち,そして里枝の前に現れるのです。その間に,原は,曽根崎という男といったん戸籍交換し,さらに谷口と戸籍交換していました。映画では曽根崎の話はでてきませんし,なぜ二度目の戸籍交換をしたかはわかりません(原作では書かれているようです)。
 原は,死刑囚の父をもち,激しい差別を受けていたのでしょう。彼がこの世で生きていくためには,父を変えるしかありません。それが戸籍交換だったのでしょう。原は里枝の息子の悠人に優しかったです。申し分のない夫であり,父でした。里枝は,最後に,本当のことを知らなくてよかったかもしれないと城戸に言います。自分が知っている優しい原は,すべて事実だったからであり,それで十分であり,彼の過去などは関係がないからでしょう。
 この話は城戸の物語でもあります。城戸は在日三世です。裕福な家庭の娘と結婚し,可愛らしい4歳の男がいて,他人からみれば何不自由ない生活をしているようにみえますが,家庭内ではどこかギスギスしています。妻やその両親は,城戸に対し,どこか上から目線です(最後には妻の浮気も発覚します)。城戸もまた,在日という自分ではどうしようもないものに縛られていたのでしょう。映画の最後のシーンで,城戸は,どこかのバーで,たまたま隣に座った人に,自分のことを語っています。でも,その内容は,実家は伊香保の温泉をやっていて,13歳と4歳の子がいるというものです。彼は,谷口に,あるいは谷口に成り代わった原に成り代わっていたのでしょう。最後に城戸は名前を聞かれたときに,答えようとしたところで,映画は終わります。彼は誰の名を語ったのでしょうか。
 死んだ夫が別人であったというミステリー調の出だしで,それだけなら山ほど類似作品はあるのですが,本作はまったくそれとは別です。
 ところで,この映画では,Magritteの絵画である「禁じられた複製」(La reproduction interdite)が何度か登場します。鏡に写っているのは,自分の後ろ姿であるという絵です。自分の姿を正面からみることができないという不思議な絵なのですが,映画では,自分を正面から観ることができない人物が描かれています。原が,愛する女性の前でガラスに映った自分の顔(父そっくりの顔)をみてしまい,取り乱すシーンが出てきます。城戸は,刑務所で面会した初対面の小見浦から,いきなりお前は二枚目だが,朝鮮人であることはわかるということを言われます。自分の顔は,親から受け継いだものです。顔は,自分が生まれつきこの社会に置かれている位置づけを象徴しているのでしょう。映画では,城戸の後ろ姿のシーンが何度も出てきます。でも,城戸も原も,とてつもなく優しいのです。その優しさに救われますが,哀しさも感じます。
 平野啓一郎の原作も読んでみたいと思います。

2024年2月 5日 (月)

ペトルーニャに祝福を

 欧州の知らない言語の映画を観たいと思ってAmazon Prime Videoで見つけたのが,北マケドニアの「ペトルーニャに祝福を」です。英語での題は,「God Exists. Her name is Petrunya.」。監督は,同国の女性Teona Strugar Mitevska(テオナ・ストゥルガー・ミテフスカ)。タイトルは挑発的です。神が女性になっています。
 主人公のペトルーニャは,32歳の独身女性です。両親と一緒に住んでいます。大学では歴史を専攻しましたが,就職はできず,ウエイトレスのアルバイトをしているだけです。太めで,化粧っ気もあまりなく,男に好かれる感じではありません。父は娘の優しい理解者であり,母も娘を愛していますが過保護で,それが娘にはうっとうしく思えています。母は伝統的な考え方の女性で,娘にもそれを押し付けているようなところがあります。娘は学があるのですが,それを発揮する機会がありません。
 あるとき,ペトルーニャは,母の知人の紹介で,就職面接に行きますが,面接官の男性にはやる気がありません。コネの入社ということなので,もともとスキルなどは期待されていなかったでしょう。しかし先方の希望は若い娘だったようです。母からは25歳と言うようにと言われていました。彼女は年齢を聞かれて嘘をつこうとしましたが,思い直して正直に言いました。そうすると,面接官には42歳にみえると言われました。それでも男は彼女に近寄り太ももを触り始めました。彼女も覚悟を決めて,男の要求に応じようとしたのですが,男は手のひらを返したように,彼女に対して,そそるものがないと言い放ちました。屈辱と怒りに満ちた彼女が帰宅途中に,上半身裸の男性の行列に巻き込まれます。この日は,ギリシャ正教の神現祭の日で,司祭が橋の上から川に十字架を投げこむという行事がありました。その十字架を取った人は,その1年幸福になれるということで,半裸の若者たちは,冷たい川(冬の行事)に飛び込むのです。今年も司祭が投げ込んだのですが,たまたま十字架が,川端にいたペトルーニャの近くに流れてきたので,彼女は飛び込んで取ってしまいました。男たちはペトルーニャから十字架を取り上げますが,司祭は彼女が先に取ったとして男から十字架を取り上げます。ペトルーニャはその十字架を奪い,逃げていきます。
 この儀式では,十字架をとる資格は男性にしかないとされていました。しかし,それは法律ではありません。ペトルーニャが最初に十字架を取ったのは確かであり,彼女が十字架を持って逃げたのは犯罪ではありませんでした。しかし十字架を女性がもって逃げたということはテレビで報道されてしまい,自宅に帰っていたペトルーニャは,娘がその女性であることを知った母親から叱責されることになります。母親は宗教の伝統に反するような行為をした娘が許せず,警察に通報します。ペトルーニャは警察で事情聴取を受けることになりましたが,犯罪ではないので逮捕されたわけではありません。
 警察も司祭も,ペトルーニャの行為を非難し,十字架を返すように求めますが,彼女はそれに応じません。理由のない事実上の拘留状況に置かれながら,彼女は次々に現れる男たちの言動に冷静に応答し,理不尽な要求ははねつけます。一方,この事件を,テレビの女性レポーターは,男女差別の問題として取り上げようとしますが,ペトルーニャは,それには協力しません。彼女は,これが個人の信念の問題だと考えていたのかもしれません。
 彼女はいったん釈放されますが,警察の前には,彼女に十字架をとられた若者たちが怒り狂って集まっていました。彼らは彼女のことを激しくののしり,現れた彼女を小突き,そして水をかけます。彼女は再び,警察に逃げ戻ります。もちろん司祭も,十字架を返してもらえず困惑していましたが,基本的には暴力は許されません。司祭は若者を説得して,その場を退散させます。
 警察署長は,ペトルーニャに十字架をみせてほしいと騙して,それを警察の金庫に入れてしまいます。その後,検事がやってきます。検事も彼女の味方ではありませんでしたが,十字架が彼女の手にないことは問題と考えたようで,警察署長に返還を指示します。
 ペトルーニャは決して激しいフェミニストではありませんでした。その日の就職面接で受けたあまりにもひどい屈辱のなかで,発作的に川に飛び込んでしまったのです。でも彼女は,法律に違反したわけではありません。そして,なぜ女性が宗教行事に参加してはだめなのか,彼女が十字架をもっていてはなぜダメなのかを問いかけているのです。警察に連行したものの,誰も彼女の問いにはきちんと答えられません。警察官も司祭も,懇請するか,おどすかしかできません。署長は詐欺的手法で十字架を取り上げたので,検事に叱られたのでしょう。若者たちは暴徒と化して,暴力的な手法しかとれません。こういう男たちの情けない状況を,この映画は,ペトルーニャの落ち着いた対応と対比して巧みに描き出しています。 
 警察内にもペトルーニャの味方が一人だけいまいた。Darkoという若い男性警察官です。彼は当初はペトルーニャに冷ややかでしたが,徐々に彼女に理解を示すようになります。若者に水をかけられて寒がっているペトルーニャに上着をかけるなどして,親切にしてあげます。自分は組織の一員として上司に仕えるしかできないなか,信念をもって行動をしているペトルーニャを尊敬し,,共感したのかもしれません。
 十字架を返してもらったペトルーニャは,警察から出るときに,Darkoからまた連絡をするという言葉をかけられました。彼女は,うなずいて去っていきますが,その表情はにこやかです(恋の予感もしますが,それよりも誰かから認めてもらったという満足感が強かったのかもしれません)。ずっと暗い表情であった彼女がはじめて笑顔をみせてくれたのです。そして,警察署の外で出会った司祭に十字架を返します。彼女はもう十字架を必要としていませんでした。そして,くだらないことにこだわる男たちにこそ,幸福が来ますようにと考えたのでしょう。男性社会で押さえつけられていた自分が,男性たちと戦うなかで,確かな自信を得たのでしょう。この満足感により,男性たちの情けない姿を「あなたちこそ不幸だね」とみる余裕ができたのでしょう。このラストシーンの逆転が,カタルシスを感じさせます。
 フェミニズム映画のようでもありますが,男性の私にも,この女性に感情移入しやすかったです。男性優位の社会の掟があり,法律の外で,社会を縛っていて,それが女性の生きづらさをもたらしているという状況は,これは男女問題にかぎらず,若者が伝統や因習に支配された社会で行きづらく感じることとも共通するものといえるでしょう。とくに宗教が大きな力をもっている社会における男性優位というものは,女性にとって宗教とは何かということを問いかけるものでもありました。映画のなかで,ペトルーニャの知人の男性が,彼女を擁護しながら,神は女性かもしれないという趣旨の発言をしていました。そして,映画のタイトルは,ペトルーニャこそ神であるということを示唆しています。人々は,キリストも,当時の社会から理解されずに迫害を受けた(最後は処刑までされてしまいました)ということ(受難物語)を想起させるタイトルでもあります。

 

2023年4月21日 (金)

映画「タリーと私の秘密の時間」

 2018年の映画で,原題は「Tully」です。監督は,Jason Reitman,主演は,Charlize Theronです。育児における母親の孤独や辛さを教えてくれる映画です。ファンタジー的な要素もあるのですが,でも実はファンタジーではないというところに,この映画のうまさがあります。
 予期せず3人目を妊娠したMarloは,すでに小学校に通う女の子と男の子がいます。しかし男の子は,他人との協調性などに問題があり,癇癪を起こすこともあり,学校が手に負えなくなり,Marloに転校させるよう求めてきます。そんなような育児で大変なところに,新たに3人目の赤ちゃんがやってきました。彼女の兄はベビーシッターを夜だけでも雇うように勧めますが,彼女は乗り気ではありません。しかし,ある晩,Tullyという若い女性がやってきます。彼女は完璧なベビーシッターでした。おかげでMarloは夜の睡眠も取れるようになり,元気が出てきます。子供に冷凍食品以外のものを食べさせたり,性的欲求不満を晴らすために夫好みのコスプレをして誘ったりするなどの積極性が出てきます。しかし,あるときTullyは気晴らしのために,赤ちゃんをおいて二人で飲みにいうよう誘い,その場でベビーシッターはもうできないと言いはじめます。帰りの運転中に極度の疲労で寝込んでしまったMarloは,車ごと川に転落します。彼女を助けたのは,人魚のようなTullyでした。彼女はそれまでも夢の中で人魚をみていました。そして,彼女が入院している病院に,Tullyがやってきて最後の別れを告げます。
 夫は,実はTullyをみたことがないと言います。しかし,映画のなかでは,Tullyがメイドの格好で夫のベッドのところに行くシーンが出てきます。実はTullyは実在の人物ではなく,Marloの若いころの姿だったのです。出生したばかりの子に母乳を与え,おむつ替えをすることにひたすら追われ,息子の問題もあり,極度の睡眠不足とそれによる疲労のなかで,彼女は幻覚をみていたのです。TullyMarloのもう一人の人格でした。若くて自由な人生を送っていた自分と現実の人物が同居してしまっていました。しかしMarloに対して,Tullyは語りかけるのです。この繰り返しが続く毎日こそが幸せであるということを。これはMarloが自分自身に言い聞かせていたことなのです。でもTullyであるときの彼女は頑張りすぎて,ついに燃え尽きてしまいました。
 この映画では,夫がものすごく非協力的なわけではなく,妻も夫を非常に愛しています。たしかに夫は仕事をしっかりこなしていて,家族のために頑張ってくれています。とはいえ,母乳を与える作業は妻にしかできません。それがあるから,夜眠れなくなります(ミルクを使えばという意見もありそうですが,彼女は母乳を与えたいのです)。そして精神が限界を越えてしまったのです。育児のたいへんさを教えてくれる映画です。ワンオペでなんとかやりきろうとする妻。そして,すぐそばにいるにもかかわらず,あまりにも無力な夫(寝る前にベッドでやっているゲームがそれを象徴しています)。
 日本でも,夫の育児休業の促進という話はありますが,もちろん,それもよいのですが,ただ休業をとればよいということではありません。夫にできることは限られていても,妻の実情や苦悩を理解し,寄り添うことが大切なのでしょう。最後に,iPod(?) につないだイヤホンを二人がそれぞれの片耳で音楽を聞きながら,炊事をしている後ろ姿のシーンが出てきます。育児の問題で,何が大切かを考えさせる映画でしょう。

2023年3月 4日 (土)

映画「ヒポクラテスたち」

 Prime Videoでやっていたので観ました。一度観たことがあるはずですが,ストーリーはすっかり忘れていたので,観てみました。1980年のATGの映画です。大森一樹監督,古尾谷雅人主演,キャンディーズを解散して「普通の女の子」に戻ったはずの伊藤蘭ちゃんはこの作品で復活です。柄本明,内藤剛志,斎藤洋介らも出演しています。鈴木清順が,こそ泥(病院荒し)役で出ているのは,笑ってしまいました。卒業間近の医学生の青春ストーリーです。医師の倫理を説いたヒポクラテスの誓いは有名ですが,実際の医療業界はそうきれい事を言ってられません。しかし,まだ国家試験に通る前の医師の卵たちには,若者らしい潔癖性や正義感があります。いろいろな悩みを抱えながら,懸命に生きている若者たちが描かれていて,私は医学部生ではありませんが,学生時代の気分に戻った感じがして懐かしかったです。
 主人公の荻野愛作ら医学部の6回生は,臨床実習では白衣を着て,周りからは「先生」扱いです。しかし,知識はあっても,臨床の現場では,いろんな人に接することになり,自分たちが未熟であることがわかってきます。堕胎希望の女子学生と面談したり,ヤクザから血を抜いたり,胃がんである可能性が高い患者の腹部を触診したり,緊急搬送の現場で悲嘆にくれている親族らしき人たちに直面したり,これまで経験していなかったようなことが次々とふりかかってきます。
 寮生活をしている愛作には恋人がいて,ときどき彼女のところに行っていました。そんなとき,愛作は,彼女が妊娠していることを知ります。彼女は町の産婦人科医で堕胎するのですが,その後,体調不良となります。彼女は結局体調が戻らず,故郷に帰ってしまいます。その後,その産婦人科の医師は無免許医で,被害者を多く出していたことを報道により知った愛作は衝撃を受けます。彼は白衣を黒く塗りつぶして仲間の前に現れます。精神がおかしくなってしまったのです。
 古尾谷のピュアな若者の演技は印象的です。その後の彼の自殺は信じられませんが,いろんな苦悩があったのでしょう。よい役者だったのでもったいないです。
 ところでATGの映画は,若いころはよく観ていた記憶があります。江藤潤と竹下景子が出ていた「祭りの準備」も印象的です。江藤潤といえば,「純」という映画も,ありました。故郷の軍艦島から集団就職で都会に出てきた青年が,痴漢という行為にのめり込む映画であり,興奮して観ていた覚えがあります。ATGではないようですが,ATGっぽい映画です。ただ,痴漢行為が出てくるので,いまの時代であればクレームがでるでしょうね。そういえば,「ヒポクラテスたち」では,タバコを吸うシーンがずっと出てきて(蘭ちゃんも喫茶店で一本吸うシーンがありますが,これはアイドルをやめて女優になるという決意を監督が後押ししたのではないかと解釈しています),ちょっとタバコの煙に酔ってしまいそうになり,そこは残念でした。あれだけ喫煙シーンが出てくると,現在なら,クレームがつくことがあるかもしれませんね。あの時代の若者には,タバコを吸わせるシーンが必要だったのでしょうか。他人の健康を守る仕事をしながら,自分たちはストレスなどもあってタバコが手放せないという葛藤を描く必要があったのでしょうかね。

2023年2月28日 (火)

映画「スーツケース・マーダー」

 原題は「Suitcase Killer」という映画です。2022年のアメリカ映画で,実話に基づくものです。スーツケースに詰められた夫のバラバラ死体が発見され,その犯人として逮捕された妻が,陪審で有罪判決を受けて服役中であるという実話に基づく映画です。しかし,有罪判決後も,妻のMelanie(Candice Accolaが演じる)は,一貫して無罪を主張しています。
 夫のBillはギャンブル中毒で,女遊びも派手です。夫婦は新居を入手し,住宅ローンの審査も通りました。Melanieはローンの返済があるので,Billは浪費しなくなるであろうと期待していました。しかし彼の浮気に我慢できなくなるなか,看護師として勤務する病院の医師Millerとダブル不倫関係に陥ります。そういうなかでの夫の死体発見でした。Billが最後に自宅で目撃された日は確定しています。検察は,Melanieが数日前に拳銃を購入していること,病院からMillerのサインを偽造して睡眠薬を入手していることなどから,彼女が自宅で夫に睡眠薬を飲ませて銃殺し,風呂場で死体を解体して,スーツケースに詰めて,車で運んで,川に投げ捨てたとしています。一方,Melanie は,その晩,Billに暴力をふるわれたため,バスルームに逃げ込み,その間に夫が荷物をスーツケースに詰め込んで家を出ていったのが,Billをみた最後であると証言しています。そして,Billは,ギャンブルのためにヤミ金融から多額の借金をしていたので,その関係で殺されたのであろうと述べます。検察の主張のうち,自宅で殺人や死体の解体があったとすればあるはずのluminol(ルミノール)反応がないことは弱点となりそうですが,これは清掃をきちんとしたら消せるともいえます。むしろMelanieが運転した車にBillの皮膚の切片がみつかっており,これが検察の強力な証拠となりました。一方,警察は,Millerに捜査協力を依頼し,Melanieからの電話の内容を録音します。Melanieは信頼するMillerとの会話のなかで,(盗聴されているとは知らないのですが)Millerに自分は無実であると言います。Melanieは裏切られたのですが,弁護側は,この会話を逆に証拠として,彼女が最も信頼しているMillerとの会話においても,犯罪をうかがわせることは何もなかったとするのですが,検察側はMillerが共犯ではなかったことが明らかになっただけであると判断します(当初は,MelanieMillerが結婚するために,邪魔となるBillを殺したという動機の線もありました)。Melanieは,拳銃の購入については,Billに前科があり,彼が拳銃を購入できなかったから,自分が代わりに購入して彼に渡したと主張しています。一方,二人の子を大事に育てている母親であるMelanieがこんな短絡的な殺人をするであろうかという点については,映画の前半のほうで,昔のボーイフレンドと喧嘩をしたとき,外は極寒であるのに家から追い出したという話が出てきて,そういう向こう見ずな行動をする女性であるということを暗に述べています。また彼女は殺人犯には似つかわしくない美し笑顔で話をしており,嘘をついているとは思えないという点についても,彼女はBillの浮気場所をつきとめて,彼の浮気中に,外にとめていた車を勝手に遠くに持ち去るという行動をとったことがあり,帰宅して激怒したBillが彼女に「お前がやったのだろう」と詰め寄りましたが,彼女は平然とやっていないとシラを切り通しました。このときの表情から,彼女は嘘をついても表情からは読み取れないような人である(Billは彼女が嘘をつくときの表情を知っていましたが)ということがわかります。
 ということで,彼女が犯人ではないかという疑惑はぷんぷんとしているのですが,映画では検察の強引な論証も紹介しており,結果として,彼女が犯人であることについては合理的な疑いが残るのではないか,という印象を残して映画が終わっています。アメリカの犯罪映画にはよくわることですが,陪審制の怖さを感じさせられる映画です。

2023年2月24日 (金)

ロシア人になったフランス人俳優

 フランスの俳優Gérard Depardieu(ジェラールドパルデュー)は,フランスが富裕層に高額の納税を課していることに反発してロシア国籍をとったと言われている人です。たまたま,この人が主演している映画を,AmazonPrime Videoで観ました。IMFの専務理事であるフランス人のDominique Strauss-Kahn(ドミニク・ストロスカーン)のセクハラ疑惑を素材とした「ハニートラップ 大統領になり損ねた男」(原題は,Welcome to New York)です(監督はAbel Ferrara)。主人公のDevereauxは,セックス依存症で,乱交パーティを繰り返す生活をしていましたが,世界経済を動かしうる人物で,次のフランス大統領選での有力候補でした。彼の妻もDevereauxを大統領にしようとして尽力していました。そんなとき,彼がホテルの清掃係の黒人女性に対してセクシュアルな行為を働いたとして逮捕されます。最終的には,無罪となりますが,彼の乱れた生活などが明らかになり,大統領になる可能性もなくなり,妻も大いに失望して去って行きます。映画の詳細はさておき,実在の著名な大物を素材にしてここまで赤裸々な内容で映画にしたことやDepardieuの身体をはった演技に驚きました。2011年のStrauss-Kahnの逮捕は,日本でも報道されて,私もよく覚えています。汚職などではなく,婦女暴行事件ということなので,非常に不可解に思った記憶があります。この映画の邦題は,この事件がハニートラップであったという理解から付けられたのでしょうか。しかし映画を観た限りでは,ハニートラップかどうかははっきりしていないように思えるので,邦語タイトルは踏み込んだものといえそうです。原題は,DevereauxがNew Yorkから帰国しようとして飛行機に搭乗したところ,警察に連れ戻されて再び入国したときにみえた看板であり,もちろん皮肉がこめられているのでしょう。
 ちなみに,このときのフランス大統領はUMP(国民運動連合[Union pour un Mouvement Populaire]。現在の共和党[Les Républicains])のNicolas Sarközy(ニコラ・サルコジ)でしたが,社会党のStrauss-Kahn は,映画と同様,国民の人気が高く次期大統領の有力候補でした。しかし,Strauss-Kahnが失脚したため,それほど人気があったわけではないFrançois Hollande(フランソワ・オランド)が社会党の候補となり,Sarközyを破って大統領となりました。ハニートラップをしかけたとすれば,Sarközyだったのでしょうかね。彼は,現在も,刑事事件を抱えていますが,安倍元首相の国葬で来日したのは記憶に新しいですね(普通の感覚では,刑事裁判で係争中の人を,いくら元大統領といっても,日本に送らないと思いますが,日本側も,それなりの人なら誰でもいいから来て欲しいと思っていたから,文句は言えなかったのでしょうかね)。
 ところで,Depardieuは,ロシアのウクライナ侵攻問題をみて,どう思っているのでしょうか。Putinを批判したという話がメディアに出ていましたが……。西欧からロシアに逃避することは,欧州では日本ほどはハードルが高くないのかもしれません。Putinと仲の良い欧州人は多いようなので,Depardieu以外にも,いま後悔している人は少なくないかもしれませんね。

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