テレビ

2025年11月11日 (火)

ショパン・コンクール2025

 NHKスペシャルで放送されたショパン国際コンクール(International Fryderyk Chopin Piano Competition)2025のドキュメンタリーを見ました。日本人の桑原詩織さんが第4位という見事な結果を残しました。彼女は30歳で,年齢制限の関係から今回が最後の挑戦だったそうです。YouTubeで彼女の演奏を聴きましたが,心に残る素晴らしい演奏でした。
 前回の大会では反田恭平さんが2位となり,その後大きくブレイクしましたが,やはりショパン・コンクールというのは演奏家にとって特別な舞台なのだと思います。技術だけでなく,極限の緊張のなかで精神的な強さを保つことができる人こそが,最終的にこの舞台で輝けるのでしょう。結果の善し悪しを問わず,あのステージで全力で挑戦したすべての演奏者に,心から敬意を表したいと思います。
 今回は,日本から15歳の中島結里愛さんも出場していました。今回の最年少出場者です。まだ高校生なので,お母さんが付き添っていました。少しナーバスな様子でしたが,第一次予選で敗退したものの,自分なりに納得のいく演奏ができたようです。あの年齢であの舞台に立つというだけで,大きな経験だったでしょう。これが次につながると信じています。 それにしても,ピアニストという道は本当に過酷ですね。有名なコンクールでは,世界の才能が集まる世界であり,家族の支えや経済的な負担も大きいでしょう。何より,あの極限の空気に飲まれないだけの強い意志が求められます。私たちはただ「いい演奏だな」と気楽に感想を言っているだけですが,その背後にある努力と苦悩は想像を絶するものでしょう。
 今回優勝したのはアメリカのエリック・ルー(Eric Lu)です。NHKスペシャルでは,日本人ピアニストの島田隼さんを追っていて,その先生が,10年前にこのコンクールで4位になっていたルーでした。番組では,島田さんを熱心に指導する姿が印象的でしたが,その彼自身が同じ舞台で競い合い,最終的に頂点に立つという,まるでドラマのような展開でした。NHKも,まさかルーが優勝すると思っていなかったのではないでしょうか。
 ルーの優勝には,現地ではいろいろ批判があったようです。しかし,勝ったのは彼で,それがすべてであり,これから大きく活躍していくでしょう。桑原さんもスターになっていくでしょう。中島さんや島田さんは1回戦で敗退したので,捲土重来を期すでしょう。番組でもう一人とりあげられていたのがドイツ在住の中川優芽花さんで,彼女は惜しくも2回戦で敗退でしたが,そのガッツは番組をとおして伝わってきました。進藤実優さんは見事なファイナリストでした。前回は3回戦だったので,着実に進化しています。彼ら・彼女らの活躍を,これからも注目していきたいと思います。

2025年9月26日 (金)

あんぱん最終回

 NHKの朝の連続テレビ小説「あんぱん」が最終回を迎えました。長く続いた物語が終わってしまい,少し寂しい気持ちもありますが,見応えのある作品だったと思います。これまでほぼ全回通して視聴した「ちむどんどん」「ブギウギ」「おむすび」も印象に残っていますが,今回の「あんぱん」はとりわけ印象深いです。主人公ノブを演じた今田美桜さんは,まさに旬の女優として大きな存在感を放っていました(世界陸上の番組では,織田裕二さんと共演(?)して頑張っていましたね)。今回のドラマでは若い頃から老年期までをしっかりと演じ分け,役柄の幅広さと表現力を見せてくれました。華やかさだけでなく,年齢を重ねる姿を自然に演じた点も印象的でした。
 とはいえ,この作品の真の主役は,やはり,やなせたかしさんだったでしょう。実際,この番組も,彼の創作活動が中心に描かれており,その世界観を深く知ることができたことは大きかったです。「アンパンマンのマーチ」に込められた思いや,「手のひらを太陽に」が生まれた経緯など,よく知っている歌に新しい意味を見出せたことは,大きな収穫だったと思います。また,この番組には反戦のメッセージがしっかりと込められていました。アンパンマンは決してバイキンマンを滅ぼすことはないのです。人間は欲深い存在として争いを繰り返すけれど,本当は愛すべき部分もあることを伝えていました。勧善懲悪の物語が多い中で,このような視点を提示した作品は稀であり,それこそがこの作品が広く支持された理由の一つだったのではないでしょうか。子どもたちはわかっているのです。徹底的に殺し合うなんておかしいのです。いじめっ子は,いつの世にもいるし,どうにもならない困ったちゃんもいる。でも,そんな子にも,どこか愛すべきところはある。これが子どもたちが,おそらく本能的に知っている世界であり,それがアンパンマンの世界だったのでしょう。
 アンパンマンの誕生には,やなせたかし自身のつらい戦争体験から生まれてきたことを知ることができたのも,とても意義深いことでした。今も世界で悲惨な戦争が続いている状況を思えば,この作品が投げかけたメッセージは一層重みを増しているように思います。
 私自身,このドラマの影響もあり,高知を訪ねてしまうほど強い関心を抱きました。「鉄腕アトム」がかつて社会に大きな影響を与えたように,「アンパンマン」もまた,いまや日本の文化に深く根付いているのだと言えるかもしれません。
 番組としては,蘭子や八木社長の今後といった物語も,もう少し見てみたかった気持ちはあります。ただ,主人公をノブに据えた以上,彼女の人生に焦点を当てて描き切るということだったのですね。

2025年7月 2日 (水)

復員兵

 朝ドラの「あんぱん」は,いよいよ戦争時代が終わりましたが,その後もまた大変です。嵩はなんとか生きて復員してきましたが,当時,こういう人たちが700万くらいいて,海外からの復員が完了するには3年近くかかったとされています(NHKニュース)。軍隊で人格を徹底的に否定されるような経験をしたあとに戻ってきた兵士たちの社会復帰がいかに大変であったかは想像に難くありません。嵩もそうですが,いまは職探しに苦労しています(暢は新聞記者となることができました)。
 軍隊という場所は確かに過酷な環境だったでしょうが,そこでの厳しい上下関係や規律が,その後の日本の労働社会にどのような影響を与えたのかは,興味深い問題です。特に幹部クラスの兵士たちは,戦後に比較的よい就職先を得た可能性があり,そうした職場に軍隊的な規律や文化が持ち込まれた可能性は否定できません。もっとも,こうした「軍隊的な規律」が,戦争をきっかけに新たに社会に導入されたものかというと,必ずしもそうではないかもしれません。日本社会にはもともと,農村的な文化や儒教道徳に根ざした,上下関係や集団の規律といった価値観があり,それが軍隊という極端な環境で凝縮・強化されただけとも考えられます。もしこれが文化的な根の深い要素だとすれば,現在の人権感覚と相容れない側面があったとしても,そう簡単には消えてなくなるものではないのかもしれません。戦前から存在するような大企業では,復員者を多数受け入れており,そこでどのような雇用管理がなされていたのか,またそれが戦後に設立された新興企業とどう異なっていたのか,興味のあるところです。すでに研究もあると思いますが,まだ私自身は勉強不足なので,少しずつ調べてみたいと思っています。

 

 

2025年6月17日 (火)

殴る文化?

 軍隊の上下関係は,階級よりも,年次が重視される傾向があるようです。「あんぱん」では,妻夫木聡が演じる八木は,古参兵として,それなりに力をもっているようです。嵩もかなり助けられていました。
 軍隊では,入るまえの社会的身分などは関係ないので,東大の助教授であり,政治学の大権威となる丸山眞男も二等兵で入隊し,殴られたそうです。かつて赤木智弘氏が,2007年に『論座』(朝日新聞社)で,「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」という投稿をして話題になりました。戦争は,秩序をひっくり返すことになるのです。ちなみに丸山は,大卒なので,幹部候補生の試験を受けることもできたが,あえて受けなかったために,嵩と同様,最初は二等兵となってしまったようです。
 嵩は試験を受けさせてもらい合格したため伍長になれたので,下士官の最下位の階級ではありますが,理不尽に殴られる立場からは脱したようです。
 しかし,そもそもどうして殴る必要があったのでしょうかね。それは馬鹿げた疑問なのでしょうか。軍隊の影響が,戦後でも昭和の間は残っていたと思います。とくにスポーツ関係では,先輩後輩の関係が厳しくて,先輩や監督が殴るということは,よく見られた光景だったと思います。そういえば,阪神の監督もした星野仙一は,鉄拳制裁で有名でした。愛のムチということかもしれませんが,いまではとても許されないでしょうね。そして現在でも,相撲部屋では,そうした風習が一部に残っていたのではないかが問題となっています。「かわいがり」という名のいじめがあるのではないか,という話です。ネットニュースによると,佐渡ヶ嶽部屋関係で民事事件になっています(判決は27日に出るそうです)。

2025年6月13日 (金)

戦争はいやだ

 NHKの朝ドラの「あんぱん」は,戦争のディープな話になっています。「ちむどんどん」や「ブギウギ」でも,戦争の話はでてきましたが,今回は嵩が戦争に実際に行って,理不尽な目にあわされるシーンがたくさん出てくるので,その重みが全然違います。弟の千尋は志願して海軍に入り,駆逐艦での出撃が決まっています。帰ってこれないことがわかっているので,兄弟での分かれの宴が悲しかったです。母親っぽい感じがなかった登美子が嵩に対して発した「何があっても生きて帰ってきなさい」という愛情あふれた叫びもよかったです。「お国のために死ぬより,愛する人のために生きたい」という嵩の言葉は,あの時代にはとてつもなく弱虫の発言であったのでしょうが,人間である以上,当然の思いです。あの時代が狂っていたのです。のぶもようやく気づき始めました。学校の先生が子どもを軍国少年に育ててしまったことの罪の重さに,さいなまれていくことになるでしょう。
 RADWIMPS(野田洋次郎)の主題歌「賜物」を,YouTubeで,フルコーラスで聴いてみました。これはすごい曲です。歌詞も深いもので,この作品にぴったりと言えます。すごい才能のアーティストがいたものです。私が知らなかっただけですが。

 

 

2025年5月22日 (木)

「あんぱん」と反戦

 「あんぱん」は出演者の熱演で素晴らしいです。最近の朝ドラのなかでも,格段に充実しているような気もします。テーマは重いですが,実在した人の話を扱っていて,最終的にどうなるかはわかっているものの,それでもこの出征と残された家族や恋人の悲劇は心が打たれます。第2次世界大戦での日本の戦死者は約230万人(それに加えて市民の死者は80万人)であり,どれだけ多くの家庭が同じような悲劇を味わったかということをかみしめなければなりません。尋常小学校の先生になったのぶですが,愛国一辺倒の教育に少しずつ疑問を持ち始めています。お国のために立派に死んで英霊になりたいと言っている子どもたちにどう声をかければいいか。そんな洗脳された子どもをつくりだしてよいのか。彼女の悩みは現代にもつながります。あの時代,私たちの祖父に近い世代で,祖父たちの仲間が,なんの意味もない戦争に駆り出されて,天皇陛下万歳と言って死んでいったという歴史をしっかり伝えていかなければなりません。それだけでも,この朝ドラの意味は十分にあると思います。いまからみれば滑稽な愛国の強制ということを,普通の人たちが行っていたのです。このほか,この時代の女性の不自由な生き方もテーマとなっていますが,これは,ひょっとしたら今でも緩和したとはいえ残っているかもしれませんね。

2025年5月 4日 (日)

前の万博の忘れ物

 5月3日のNHKの番組で,1970年の大阪万博のシンボルであった太陽の塔の4つの顔のうち,地下で展示されていた「地底の太陽」が,閉幕後,半世紀もの間,行方不明になっており,それを追うというものがありました。福岡伸一氏がナビゲータです。
 70年の万博のころも,万博反対の議論が多く,岡本太郎もその一人でした。いまや万博のシンボルである太陽の塔ですが,これは岡本太郎が反万博の象徴としてつくったものでした。未来に向けた安易な楽観論を排し,それを諌めようとして,縄文時代の人類を示すような巨大な塔をつくったそうです。 
 それで「地下の太陽」はどうなったかというと,なんと産業廃棄物として廃棄されていました。ひょっとしたら,現在の万博の会場の夢洲の下に眠っているかもしれず,それを掘り起こせるかもしれないという期待もありましたが,夢洲に廃棄物が持ち込まれ始めた時期よりも前に廃棄されていました。結局わかったのは,神戸にある産業廃棄物処理場に無惨に細断されて埋められているということでした。
 人間は死んでも自然界に帰って,また別の生き物として再生します。しかし,産業廃棄物は自然に戻りません。生物学者の福岡氏が廃棄物処理場でプラスチックの破片をみて,生を感じないと述べたのが印象的です。地底の太陽が,そんなところに廃棄されたのでは,岡本太郎も浮かばれません。

2025年4月21日 (月)

あんぱんの正義

 NHKの朝ドラは,「おむすび」に続いて,同じひらがな4文字の「あんぱん」を,前にも書いたように,ずっと観ています。「おむすび」とは違い,歴史上の人物を,脚色が入っているとはいえ扱っているので,それだけ興味ももちやすくなっています。先週から子ども編が終わり,今田美桜さんの生き生きとした演技に惹かれます。視聴率があまり高くないということですが,私と同様,ほぼNHKプラスで観ている人はカウントできないので,どれくらい視聴されているドラマかどうか,本当のところはわかりくいのではないでしょうか。
 ところで,やなせたかしさんは,NHKのニュースで,過去のインタビューのなかで,「正義は簡単にひっくり返ってしまうことがある」とし,「決してひっくり返らない正義ってなんだろう」と問いかけ,それが「お腹を空かせて困っている人がいたら一切れのパンを届けてあげることだ」と語り,それがこのドラマのナレーションでも使われていました。私は,これこそ「生存権」だと思いました。生きていくのに困っている人に必要なのは「一切れのパン」(食事)であり,政府がそれを保障したり,国民が互いに助け合ったりして生きていけるようにするというのが,国民にとっての根源的な権利である「生存権」なのでしょう。正義とは生存権だということです。もっとも,権利というような法学的なタームではなく,むしろこれは国民の道徳的な義務であり,政府への権利などということは言わないほうが,やなせさんの言わんとすることに合致しているかもしれません。政府が関与すると,そんな正義なんてすぐにひっくり返ると言われてしまいそうです。
 ところで,この番組の主題歌は,ドラマに合っていないという批判があるようで,私も最初に聴いたときは,ちょっと違和感を覚えましたが,いまは何も感じなくなっています。音楽家の野田洋次郎氏のほうが,何枚も上手だったのでしょうね。

2025年4月 2日 (水)

朝ドラ

 朝ドラの「おむすび」は,よくわからないまま終わりましたね。神戸編から観始めましたが,面白そうなエピソードを盛り込み,いろいろな仕掛けをつくったのですが,なにか十分に回収されないまま,強引に終わってしまった感じです。完成度が低いドラマだったような気がしますね。神戸が話題になっていたので残念ですし,神戸の良さが,あまり出ていなかったです。「ギャル」というのを中心にするのか,タイトルにちなんで「むすぶ」ということを中心にするのか,もう少しうまい締め方があったと思います。橋本環奈ありきでやってしまったので,ドラマの筋はどうでもよかったのかもしれません。
 ということで,気を取り直して,引き続いて「あんぱん」を観ています。アンパンマンのやなせたかしの自伝的ドラマですが,やなせたかしの奥さんの暢(のぶ)が主役(あるいはダブル主役)のようです。暢の前半生はよくわかっていないようであり,ドラマのなかの高知で小学生のときにたかしと会ったというのは架空の設定のようです。たかしの人生のほうは,史実をたどるのでしょうね。今日は,たかしのお母さんが再婚するということで,たかしのもとを去っていくシーンでした。たかしは父の兄弟の家に置いていかれることになりました。切なかったです。幼い少年が,お母さんと別れるというのは,どれだけ辛いことでしょうか。お母さん役の松嶋菜々子の美しさが,妙に悲しいものとなりました。でも夫を失った妻が,昭和初期の時代に生きていくためには,仕方がないことだったのでしょうね。

2025年3月24日 (月)

日本人と東大

 NHKでNHK100年,東大150年ということで企画された番組があり,第1回は『エリートの条件花の28年組はなぜ敗北したのか』というものでした。明治28年の東大卒(とくに法学部卒)は,藩閥政治を打破して新たな政党政治の担い手となる俊英たちが集まっていました。その代表が,後に首相となる浜口雄幸でした。大蔵省を経て,国会議員となった浜口は,国のために何ができるかということを考えていたエリートでした。番組では,エリートとは何かということを考えていきます。花の28年組は,民主主義の力を信じながら,軍部に破れ,浜口自身も東京駅で狙撃されて重傷を負い,翌年(1931年),志半ばで亡くなります。その後,515事件では犬養毅首相が暗殺されるなど,テロが続き,無謀な戦争に突入します。当時の国民は,戦争を支持していました。メディアもそれを煽りました。しかし,浜口ら真の国益を考えていたエリートたちが目指していたのは軍縮でした。それが国民にはよく理解されなかったようです。さらに悪いことに恐慌が重なりました。国民に「食べさせることができない」政府は,いくら高邁な理想を掲げても支持されないのでしょう。
 しかし,ここからエリートの無力という結論を導き出してはいけないと思います。私は,エリートが支えない国は滅ぶと考えています。ほんとうに国のことを考えてくれる優秀なエリートたちが,この国を支えてくれなければ困ります。現在の東大生の進学先の第1位はアクセンチュアだそうです。個人の可能性を引き出してくれて,良い仲間もいて,報酬もいいとなると,若者を惹きつけるのも仕方がないと思います。問題は,官僚の仕事に,それ以上の魅力がないことです。今日でも国士的な気概をもっている東大生は少なくないと信じています。官僚という仕事が,そういう人たちを惹きつけて,その能力を発揮できる場になってもらいたいです。
 番組では,広渡清吾先生が出てきて,東京大学憲章のなかに出てくる,東大生がめざすべき「世界的視野をもった市民的エリート」という言葉について説明されていました。世界の公共性に奉仕するための人材になれ,自分たちの社会を自覚的に形成していこうとする市民になれ,というメッセージがこめられているそうです。なかなか言葉からは伝わりにくいかもしれませんが,世界のために,社会のために,何ができるかを考えて,そのもてる能力を存分に発揮せよということかなと思っています。そのためには,エリートとしての矜持をもちながら,目線は市民レベルで,ということでしょう。そういうエリートが,現在の官僚や政治家にどれくらいいるでしょうか。

より以前の記事一覧