福間香奈さんの要望書について考える
福間香奈さんは,誰もが認める女流棋士の第一人者であり,歴代最強の女流棋士と呼んでよい存在でしょう。現在,女流の八大タイトルのうち六つを保持し,男性プロ棋士を相手にした対局でもかなり高い勝率を残しています。その結果,来年1月からは,2度目の棋士編入試験に挑戦する予定です(男性棋士相手に一定以上の勝率を維持しなければ受験資格は得られません)。仮にプロ棋士になったとしても,5割以上の成績を残す可能性は十分にあると考えられます。
そのような福間さんが,日本将棋連盟が今年4月に設けた「出産予定日を基準とした産前6週間から産後8週間までの期間と番勝負の日程が重複する場合には,対局者の変更を行う」という規定に異議を唱えたという報道が出ていました。昨年,福間さんは妊娠中にタイトル戦を戦うことになりました。女流王座戦では,対局日を出産後に延期する配慮がなされ,無事にタイトルを防衛しています。一方,白玲戦では挑戦者として2勝2敗のあと,残る2局が不戦敗となり,タイトル奪取を逃しました。王将戦でも挑戦者として初戦を勝利したものの,その後の2局が不戦敗となり,やはりタイトル獲得には至りませんでした。いずれも相手は西山朋佳女流二冠であり,敗退した二つの棋戦はいずれも,流れとしては福間さんに勢いがあっただけに,悔しさは大きかったでしょう。
もっとも,敗退したのはいずれも挑戦者の立場でのことでした。しかし,新しいルールの下では,妊娠した場合,事実上,タイトル保持者であっても,番勝負から外れざるを得ず,タイトルを失う可能性が高くなります。また,福間さんはすでに六つのタイトルを保持し,女流棋士相手にはほとんど負けない状況にあります。そのため,西山さんの保持する白玲や王将のタイトルについても,将来的に福間さんが挑戦者となる可能性は高く,その際に妊娠していれば,挑戦そのものを断念せざるを得なくなるという問題があります。
福間さんは,女流王座戦(RICOH主催,日本経済新聞社特別協力)のときのような,対局日程の延長といった柔軟な配慮を求めているようです。ところで,労働基準法では,産前6週間の休業は任意であり,女性労働者が請求すれば就労が可能とされています。他方,産後については,6週間は就業が原則禁止され,その後の2週間については,女性が請求し,医師の許可があれば就労可能とされています(65条1項,2項)。これは雇用労働者を前提とした規定であり,福間さんのような女流棋士は雇用契約を結んでいないと考えられるため,労働基準法の直接の適用はありません。また,契約内容の詳細は不明ですが,仮にフリーランス法の適用があるとすれば,同法にも妊娠・出産への配慮を求める規定があります(13条)。現行法の枠組みでは,妊娠・出産をする働く女性への配慮は,契約類型を問わず,仕事を依頼する側が考慮すべきものだといえるでしょう。
もちろん,妊娠は私的な問題であり,仕事にそれを持ち込むことは甘えであるという意見もあるかもしれません。スポーツ選手が妊娠によってオリンピック出場を断念せざるを得ない場合と同様に考えるべきだという意見も理解できます。その意味で,日本将棋連盟の対応を直ちに非難することは難しい面もあります。体調不良にもかかわらず無理に対局に臨むことになれば,母子ともに危険な結果を招きかねないので,そのような事態を避けるために,休んでもらう必要があるという考え方は,雇用労働者のアナロジーからすれば,理解できるところでもあります。ただ,もう少しできることがないかという気もします。
実は,この問題は,法的なものというよりも,スポンサーの姿勢に関係するものであるともいえます。棋戦は,スポンサーの支援によって成り立っています。最強の女流棋士が,妊娠を理由にタイトル戦に出場できず,事実上,自動的に失冠するという状況を,スポンサーはどのように受け止めるのでしょうか。興行上の都合や,相手棋士の不利益といった事情があるのは確かですが,エンターテインメントの分野において,妊娠・出産に厳しい対応をとることは,スポンサーのイメージにとっても大きなダメージになりかねません。今回,大山名人杯倉敷藤花戦の主催者である倉敷市が,日本将棋連盟に対して要望書を提出したと報じられています。福間さんの意見を,より前向きに取り入れるべきだという趣旨でしょう。私は,倉敷市の対応はきわめて自然なものだと思います。逆に日本将棋連盟の現在の方針を全面的に支持するスポンサー企業があるとすれば,個人的には,その企業にあまり好感を持つことはできないでしょう。ESGの「S(社会)」の視点は,投資家の判断にも,一般消費者の行動にも影響を及ぼし得ます。自分の娘が努力の末に頂点に立ち,なお高い実力を持ちながら,妊娠・出産という理由だけでその地位から引きずり降ろされるとしたら,親としてどう感じるでしょうか。そうした親のような視点をもつ人が多いとするならば,スポンサーも再考するのではないでしょうか。

