国内政治

2023年9月21日 (木)

内閣改造の「おぞましさ」?

 岸田政権の先般の内閣改造で,副大臣と政務官の全員(54人)が男性であったことについて,朝日新聞の高橋純子氏が,テレビ番組で「おぞましい」と述べたことが話題になっています。「おぞましい」という表現の適否はともかく,これを男性差別という(男性)議員がいるのは情けないです。そういうことではないだろうと言いたいですね。問題は,岸田首相が女性閣僚を5人入れたと自慢しているのに,副大臣・政務官クラスはゼロという極端なことをしていることにあります。世間の目を意識するなら,せめて23割は女性にしていてもよいように思いますが,それだけ女性の適任者がいなかったのでしょうか。もしそうだとすると,大臣に5人も「適任者」がいることとギャップがありすぎます。結局,目立つ閣僚ポストにだけ女性を入れておけば,それでアピールできるという,形だけの女性登用であり,これこそ女性軽視であると思えます。高橋氏が,そういうなかで,ネクタイ族だけの記念撮影をみて「おぞましい」と言ったのだとすると,理解できないわけではありません。
 日本経済新聞の920日の社説「女性登用の本気度が問われる」でも指摘されていましたが,「派閥順送りや年功序列型の人事を改め,なにより女性議員の数を着実に増やしていく努力がいる。」というのは,そのとおりです。ただ,最後に指摘されている,「女性登用の低迷打破に向け,候補者などの一定割合を女性に割り当てる『クオータ制』を含め,前向きな議論を始める時期だ」というところは,候補者の「クオータ制」はありえるとしても,やや危険のような気がします。今回の内閣改造も,56人は女性大臣がほしいという一種のクオータ制で,そういうことをすると,どうなるのかということは,実際の人事をみてわかったような気がします。もちろん候補者のクオータ制は,それだけで当選というのではないので,穏健なクオータ制ですが,いずれにせよ大事なのは,登用したいと思わせるような人を育てることです。副大臣や政務官という将来の大臣候補に適切な女性人材がいないということは,この点で大きな問題を抱えていることを示しています。日本の政治がジェンダーの観点から遅れていることは明らかですし,それが今後も続くことを予感させます。そういう状況に気づかずに,無邪気に,にこやかに記念写真におさまっている首相をみると,やはり「おぞましい」と感じる人がいても不思議ではないように思います。

 

2023年9月13日 (水)

内閣改造について

 大臣になるには当選回数が重要ということで,どんなに知事などの経験があり実績があっても,国会議員になると,過去の経験は考慮されないようです。まさに年功型であり,岸田政権が労働市場改革をしたいのならば,まずは自分たちがその模範を示すべきでしょう。労働市場の流動化というのは,他企業での経験による蓄積を評価してもらわなければ進まないわけで,だから職務給が適していることになるのですが,国会議員の世界は,議員になる前の経験は考慮しないようです。三ヶ月章先生の法務大臣,有馬朗人東大元総長の文部大臣等,竹中平蔵氏の特命大臣等はありますが,学者の大臣登用はまれで,政治家枠となると,こつこつ積み上げていくという年功型なのです。政治家の世界にも流動性を入れるべきではないでしょうかね。有力な政治家との会食がいやでも,村社会の人間関係がいやでも,ボスザルのような長老政治家にゴマをすることができない人でも,能力があれば登用するというくらいのことをしなければ,岸田さんは言行不一致となるでしょう。
 と思っていましたが,改造内閣はやっぱり年功型で,70歳以上がぞろそろいる「高齢者内閣」です。女性の登用は結構ですが,年功型が前提なので,不徹底です。女性の登用は能力主義ということでなければならず,能力主義であれば年功は関係ないのです。ついでにいうと世襲型も相変わらずです。女性の新閣僚の自見英子氏も土屋品子氏も加藤鮎子氏も,お父さんは有名な政治家です。血統も年功型と相容れないです。もちろん,年功や血統は,能力と比例することが多いといった反論も考えられますが,どこまで説得力があるでしょうか。加藤氏は子育て中ということで,期待は大きいですが,どこまでやってくれるか,お手並み拝見です。
 ところで,岸田首相は人事が好きだそうです。人事となると,みんなが自分にすり寄ってくるわけで,権力を最も発揮できる場ですが,それをはねのけることこそ重要です。人事で恩を売ったりする取引は,国民に迷惑です。人事権は,ほんとうに良い政治をしようとするときには必須です。私たちが,何かプロジェクトを,責任をもってやれと言われたときには,たしかに,誰をメンバーにするかは選ばせてほしいという気になります。人事権がなければ責任をもった仕事はできません。そして,そうしたときのメンバーには,たしかに自分に近い人を集めることはありますが,それは良い仕事をするためということです。いずれにせよ,内閣となると,もっと次元が違う重要性があるのであり,たんに人事が好きというような無責任なことでは困ります。
 個別の人事をみると,ウクライナ(Ucraina)に行ったばかりの林外務大臣をなぜ変えたのか。こういうことをしていれば,日本外交は信用されなくなるのではないでしょうか。後任は上川陽子氏ですが,この方はどうしても死刑執行のイメージが強いです。国際的な場に出ていく外務大臣として,なぜこの人なのか,という疑問が残ります。女性であれば,対外的なアピールとしてよいということかもしれませんが……。
 そのほかの人事では,私の関心があるのは,厚生労働大臣と文部科学大臣です。前者は,武見敬三氏ですが,どうでしょうかね。有名人ですし,お父さんは,もっと有名な武見太郎です。医療には精通しているでしょうが,労働行政については未知数ではないでしょうか。厚生労働副大臣のときの実績は,どうだったのでしょうね。
 文部科学大臣は,神戸大学大学院法学研究科で博士号を取得している盛山正仁さんです。大学のことをはじめ教育面のことをよく存知だと思うので,その力を存分に発揮して欲しいですね。
 自民党内の人事ですが,選対委員長についた小渕優子氏は,例のドリル問題について,関係者に謝罪していましたが,経済産業省という重要ポストを途中をほっぽりだしたことについて国民に謝罪をしたのでしょうか。

2023年9月 7日 (木)

政治家のお仕事

 秋本真利代議士が逮捕されました。洋上風力発電の業者からお金をもらって,業者に有利な質問をしていたそうです。前にも少し書きましたが,報道されているとおりなら,わかりやすい贈収賄事件であり,言語道断です。ほんとうに再生エネルギーのことを考えているのであれば,お金をもらわずにやらなければなりません。お金をもらった以上,再生エネ利権に乗っかった政治家ということで,政治の世界から追放されるのは当然でしょう。裁判の結果はどうなるかわかりませんが,今後は,地道に社会貢献活動をして生きていってほしいです。
 秋本代議士は河野太郎デジタル大臣の側近だそうです。菅義偉前首相とも近いそうです。岸田首相にとっては,今回の逮捕は,煙たい存在である菅や河野を弱体化させることができるという面もあるのかもしれませんが,しかし,自民党員が国会でやった質問が問題となって,それを受けて実際に公募ルールが大幅に見直されたということなので,野党は徹底的に追及する必要があり,岸田首相は責任をもって,(これくらいは官僚の書いた文章を読まずに)向き合わなければなりません。自民党内に,他にも同様の利権に群がっている政治家がいないかを総点検して,問題があればきちんとペナルティを与えるくらいのことをしてもらわなければなりません。統一教会問題も,なんとなくうやむやで,総点検しても,点検だけで終わりというのでは意味がありません(自民党の政調会長は,かなり黒なのに,なんで重職についているのかと多くの国民は疑問をもっているでしょう。この人は秋本事件でも,当時の経済産業大臣として,名前が出てきます)。
 農林水産大臣の「汚染水」発言もありました。この大臣の悪いうわさは他にも聞こえています。大臣は軽いほうがかつぎやすくてよいと役人は言うかもしれませんが,この大臣については,ちょっと限界を超えているでしょう。農林水産大臣は軽いポストと考えられているのでしょうかね。これからの日本において,とても重要なことを担うところだと思っているのですが。そういえば,安倍内閣のときですが,農林水産大臣であった吉川貴盛も,大臣室などでお金をもらったという贈収賄で有罪判決を受けています。情けないことです。
 ところで,龍谷大学が,農学部に新たに農学科を設置したということを聞きました。従来の資源生物科学科を再編したもので,「農・食・環境」の未来にコミットする原石を発掘したい,というスローガンを掲げています。「農・食・環境」は,まさに人類の未来にとって重要なテーマです。DXでいっそうの発展の可能性があります。大学でこういうことを専門的に研究する場が増えていくのは,すばらしいことです。
 その一方で,政治家たちは,農や食の責任大臣は無能大臣や収賄大臣であり,環境に関係する再生エネビジネスは利権としかみていないということで,ちょっと絶望的です。
 岸田首相にはまったく期待はしていないものの,せめて次の内閣改造では,しっかり日本の将来のことを本気で考えて,仕事ができる大臣を配置してもらいたいものです。当選回数などに縛られるのは,年功型の発想そのものであり,岸田首相のめざす労働市場改革とも方向性は相容れないでしょう。

2023年8月 6日 (日)

抑制された不寛容の重要性

 Karl Popperの言葉に,寛容のパラドックス(paradox of tolerance)というものがあります。
  「社会が寛容であるためには,不寛容な者に不寛容である必要がある」
 この矛盾は今日大きな問題といえます。自身が自由でいるためには,他者が寛容でいてくれる必要があります。私などは,私の周りの人が寛容でいてくれたから,これまで自由に行動することができたのであり,だから,私も他者に対して寛容である必要があると思っています。
 一方,寛容な社会を守るためには,不寛容であることも必要という「寛容のパラドックス」は,これを実践するのは容易ではありません。抑制された自由が必要であるし,また逸脱した者への抑制された不寛容さも大切なのでしょう。アメリカのTrump前大統領の人種差別発言などには,とても寛容であることはできないのですが,このとき彼の主たる発信手段であるツイッター(X)のアカウントを停止することが正しかったのかは難しい問題です。これは憲法論としては,ツイッター(X)はいまや社会的権力であるので,言論の自由を制限することは憲法問題となるというような議論の立て方(State Actionの議論など)も出てきますし,そうではなく私人による有害発言の自主規制の一つという見方もできます。それに加えて,ここでの私の関心は,こういう他人に不寛容な言論に不寛容であるのは自己矛盾であるのか,ということです(古くからある有名な議論ですが)。
 特定のカテゴリーの人たちを排斥するという不寛容な人たちは,社会を分断する危険分子です。かつてカトリックと非カトリックという,私たちからみれば同じキリスト教だろうと思われる人のなかで分断と不寛容が生じて30年戦争が起こり,世界史で最も重要な条約の一つといえるウエストファリア(ドイツ語ではWestfalen[ヴェストファーレン])条約が1648年に締結されて,現在の国際法秩序が生まれたと言われています。寛容の哲学は,そこから生まれてきたものです。
 日本の政治をみても,安倍政権時代,第1次政権の失敗後,多くの仲間が離れていったことをみて,安倍元首相は,信頼できる仲間を核として捲土重来を期し,それを果たしたあとも,仲間を重用したと言われています。しかし,それは石破氏の冷遇など,やはり党内に分断をもたらしました。分断は,自身のグループが圧倒的に多数派となり,吸収してしまえば解消されるのでしょうが,これは不寛容のおそろしい帰結です。自身と考え方が違う人にも寛容な姿勢をもって尊重し,その結果,数的な均衡をもって,いろんな立場の人が併存する自民党こそが,「自由民主」党という党名にふさわしいものであったのです。安倍派は最大多数政党となりましたが,数こそすべてという考え方が,旧統一教会問題を引き起こしたのでしょう(そしていま,分裂の危機を迎えています)。
 一方の野党は,排斥の論理で生まれた希望の党,そして,それを実質的に引き継いでいる現在の国民民主党は,その意味で不寛容な政党といえるでしょう。徹底した共産党の排斥は,共産党自体が不寛容な党ともいえるので,やむを得ないところもあります。もちろん,主義主張で妥協する必要はなく,これは寛容・不寛容とは別次元の話なのかもしれませんが,いずれにせよ,論戦が,互いの憎悪の感情に基づくものに感じられると(最近では,維新と立憲民主党・共産党との間でも,そういう感じがあります),国民は政治劇をみているようではありますが,それを面白がってはいられません。結局,まともな政策論議がなされずに損をするのは国民です。
 日本には縁がなさそうにも思える分断や不寛容ですが,政治の世界でみられる不寛容な態度が気になるところでもあります。抑制された寛容,抑制された自由を,個人が意識的に心がけることが大切なのでしょう。アメリカのような国になってはいけないと思います。

 

 

 

2023年7月 9日 (日)

政治人材の枯渇

 ダイヤモンド・オンラインで,ジャーナリストの清水克彦氏の「米大統領選は『失言製造機vs暴言王』が濃厚,見るに堪えない“醜悪な戦い”に」という記事を読みました。確かに,Bidenの失言はひどく,このままだと,暴言王のTrumpと失言王のBidenという超高齢の候補者どうしの大統領戦ということになり,アメリカってそれほど人材がいなのかと言いたくなります。この記事では,「筆者も日頃,日本の政治を,『見るに堪えない。もっと生きのいい政治家はいないのか』と思いながら取材しているが,バイデン氏とトランプ氏の泥仕合を想像すると,『まだアメリカよりはマシか…』と思ってしまうのである」という文章で締められています。
 ただ,ふと思うのは失言とされている「私が説得し日本は防衛費を増やした」は,ほんとうに失言だったのでしょうかね。首相を大統領と呼んだり,意味不明の「女王陛下,万歳!」と言ったりするのは,前者は,そもそも外国の首脳の肩書など何とも思っていないということで(これはこれで外交儀礼上問題ではあるのですが),後者は,記憶の混戦によるもので,それ自体は困ったものではあるものの,高齢者にはありがちであるのに対して,防衛費問題は妙に具体的で,失言とは思えないのです。あえて自分の手柄とするために事実でないことを発言した可能性もありますが,それよりも実際にそうであったが,confidentialであったものを語ったという意味での失言であったかもしれません。日本の外交政策がアメリカ寄りすぎて,岸田首相はアメリカの「ポチ」だという指摘は前からあって,その真偽はわかりませんが,超高齢者Bidenのいつもの失言(事実ではないことを言ったという意味での失言)だということで片付けてよいでしょうか。
 岸田首相が一連の外交政策でやってきたのは,西側陣営の一員としてウクライナの徹底支援をすることや,ロシアと中国を敵視し,ロシアの日本侵攻や台湾有事の危険性をあおって防衛費を増強してアメリカに満足してもらうことのようにみえます。これだけの対米追従をしたおかげで,アメリカ訪問時には厚遇され,またサミットではBiden訪日を実現させることができ(債務上限問題で議会対応に追われていたにもかかわらず,他の予定はキャンセルしたが,広島サミットだけには参加した),岸田首相は大満足だったでしょうが,国益にかなっているのかは,よくわかりません。グローバルサウス(global south)がやっているような,したたかな外交を願うのは無理なのでしょうかね。
 たしかに日本の政治状況は,アメリカよりはマシのような気がしますが,岸田首相がもし暴走しているのだとすれば,よりおそろしいことが起こっていることになるかもしれません。そうでないことを祈るばかりです。
 

2023年6月18日 (日)

解散騒動に思う

 国会の会期末になると,野党から内閣不信任案が提出されます。与党から造反がでないかぎり,可決されることはないのですが,今回はこれまでも立憲民主党の提案に賛同していなかった日本維新の会が野党でも議席数を増やしているなかでは,いっそう虚しいパフォーマンスのようにみえました。パフォーマンスにすぎないとしても,政権に抗議する姿勢を示すことが必要だという意見もあるようですが,立憲民主党は不信任案の可決に向けた与党の切り崩しや野党への説得の努力もしていなかったようであり,そうなるとこれを評価するのは難しい気がします。内閣不信任案は,可決されれば,内閣は,10日以内に衆議院を解散するか,さもなければ総辞職しなければならないと憲法69条に明記されているもので,衆議院のもつ強力な権限(倒閣権)です。議院内閣制からは当然のことですが,この権限が,通るはずのない内閣不信任案を出して,もっぱら与党への抗議の姿勢を示す手段としてだけで用いられているのであれば,維新がこれを茶番と呼んで同調しないことは理解できないわけではありません。
 一方,内閣不信任案という動きとは関係なく,首相が解散すると思わせぶりの発言をして,国会議員を右往左往させている状況は,あまり良い感じがしません。権力者のおごりのように思えます。そもそも解散というのは,任期4年の途中での「中途解約」の強制という感じで,例外的なものではないのでしょうか。もちろん,選挙時に示された民意とのずれが感じられて,いそいで国民の信を問う必要があるというような状況があれば別ですが,今回はそういうことでもないでしょう。ポピュリスティックな政策を連発して,いまだったら与党の議席を増やせそうだから解散するというのは,解散権の「濫用」とでも言いたくなります。そもそも衆議院の解散については,その根拠を含め,憲法上明確でない部分があり,議論があるところです。解散の「大義」なるものが勝手に語られ,立憲民主党の暴走気味の内閣不信任案提出が,これに藉口した与党から解散の「大義」として使われそうになってくると,解散をめぐる政治の動きそのものが,国民不在の政治遊戯のようにみえてきます。秋に解散をするのであれば,少子化対策にしろ防衛増強にせよ,国民負担の増加を正面から掲げ(負担増がないというような,まやかしはせず),国民の信を問うという形でやってもらいたいです。
 機会があれば,憲法学者の方に,解散の時期や理由などについて,どこまで首相に裁量が与えられていると解すべきなのかについて教えてもらえればと思っています。

2023年5月24日 (水)

育児支援の財源

 今朝の日本経済新聞の社説の「育児支援の財源は消費税を封印するな」は,なんとなくもやもやしていたことを,しっかり書いてくれていると思いました。私は,自民党が次の衆議院選挙に勝つために,現役世代からは,源泉徴収でとりやすく,企業負担もある社会保険料を財源にするのがよく,消費税は日常生活に増税感があるので避けたいという政府の意図がミエミエだと思っていました。しかし,社説でも書かれていたように全世代で負担するためには消費税が一番よく,これだとリッチで消費も多い高齢者世帯からの負担が増加するので公平でもあるといえそうです。そもそも税金も社会保険料も国民の負担としては同じであり,かりに所得税を上げなくても,社会保険料が上がれば,同じように手取り賃金が減るのです。どちらも源泉徴収できるので,政府としては取りやすいものです。ただ,さすがに防衛費の増額でも所得税の引上げ(復興特別所得税を減税して,その分を新たな付加税とする)をしようとしているなかでは難しいということで,社会保険料一でいこうということなのかもしれません。少子化対策にうまく利用できれば,将来における社会保険料の拠出を増やすことができるという「説明」がつく点も,社会保険料の引上げが候補に挙がる理由なのでしょう。
 しかし,社説でも書かれているように,社会保険料の引上げは現役世代だけが負担となりますし,経済界が主張しているように賃上げの努力に水を差すということにもなります。財源を後回しにして「異次元の少子化対策」を打ち出し,財源はあとから考えるという杜撰なことをやっているので,いろいろ問題が出てきます。衆議院を解散するのなら,少子化対策の必要性を首相が自分の言葉でしっかり語り,そのために財源確保の必要があることをきちんと説明して,消費税の引上げを国民に正面から問うという形にしてもらいたいです。私は無責任な減税はすべきではなく,むしろ歳出削減の徹底を図りながら,それでも必要な増税はきちんと政府が説明をしてくれて納得のいくものならやむなしという立場なので,一国民としては,重税感を緩和する源泉徴収で取るということを安易に考えずに,正攻法でやってほしいなと思っています。

2023年5月13日 (土)

国会改革

 5月12日の日本経済新聞の「大機小機」の「国会改革,機会費用で考える」では,3つの無駄な時間があるとされています。
 1つが,「
官僚が国会対応のために費やしている時間」です。「例えば,技術的・専門的な内容については,局長クラスが答弁できるようにすればよい。さらに言えば,そもそも官僚が細かい答弁を準備しないでも議論ができるような大臣を最初から任命してほしい。」は,完全に同感です。無能な大臣が上にいたほうがよいという官僚もいるかもしれませんが,公務員のほんとうの「働き方改革」をするためには,原稿をすべて書いてあげなければ答えられないような大臣を任命してはならず,そのうえで,技術的・専門的な内容はもちろん大臣がすべて把握する必要はないので,そこだけは役人が答えるということにすればよいのです。次の内閣改造には,ぜひしっかりした大臣人事を期待したいです。無能な大臣に時間を奪われるという無駄をなくしていかなければ,優秀な人はバカバカしくなって国家公務員になろうとは思わなくなるでしょう。
 第2の無駄は「大臣の拘束時間が長いこと」です。これもそのとおりで,上記の有能な大臣を任命することに加え,大臣を無意味に国会に拘束せず,本来やるべき仕事に集中してもらえるようにすることが大切です。なお大臣になった以上,選挙対策などのために地元に頻繁に帰るということもやめてもらいたいですね。大臣在任中は国の仕事に集中すべきです。
 第3の「国会審議優先のため,外交的な成果が得られにくい場合がある」というのも,先般の林外務大臣のケースをみれば深刻な問題です。このケースでは,たいした案件もないのに国会に拘束され,インドでの重要な国際会議に出られないという事態が起きてしまいました。優先順位をきちんと付けられない国会”村”の住民の発想にはあきれかえります。Bidenがアメリカの国内事情でG7に来れないかもしれないということを聞いて,ようやく日本政府は自分たちがインド政府にやったことの意味に気づいたことでしょう。

2023年4月18日 (火)

首相襲撃事件に思う

 岸田首相の遊説場所に爆弾が投げ込まれて,あわや大惨事となるところでした。いくら屈強なSPがいても,爆弾が投げ込まれたらどうしようもありません。今回は人的被害がほとんどなかったようですが,警官(?)がカバンではねのけた爆弾は一般聴衆のほうに向かって転がっていたようであり,おそろしいことです。今回のようなことをしでかす人は例外的ですし,こんなことで怯んでは民主主義の敗北だという勇ましい意見もあるのですが,もちろん加害者が悪いのは当然とはいえ,いくら統一地方選が重要といっても,サミットも控えた重要な時期で,すでに各地で国際会議が開かれているなかで,和歌山の漁港で魚を食べて遊説というようなことまでして候補者の応援をしている首相の行動に違和感をおぼえた人も多かったのではないでしょうか。選挙が大苦戦だから首相でも来なければ大変ということで,わざわざ来たのか,よくわかりませんが,重点の置き方がどうかという気がしますね。国会の都合で林外務大臣がインドで行われたG20の外相会議の欠席をしたときも同様の疑問がありました。プライオリティをきちんと判断できない政府は問題です。
 「高齢者集団自決」発言でも話題になった成田悠輔氏の『22世紀の民主主義』(SB新書)という本があります。彼はエビデンスにもとづき目的を発見し,エビデンスにもとづき政策を立案するという「無意識データ民主主義」を提案しています。エビデンスは,インターネット上にある膨大なデータの分析が中心であり,選挙の結果は単に目的発見のための一つにすぎないものであるとします。民意はデータで集積できるのであり,それを中心に据えることこそ,民主主義的ということでしょう。彼は選挙について「みんなの体と心が同期するお祭りなので,空気に身を任せる同調行動にうってつけである」と述べています。そして,「数百年前であれば,同調は狭い村落内に閉じた内輪ウケでいてくれた」が,現在は同調の幅が地球規模に広がり,政策論点も微細化・多様化が進んでいるのに,「いまだに投票の対象はなぜか政治家・政党でしかない」として現在の政治システムに疑問を呈し,「こうした環境下では,政治家は単純明快で極端なキャラを作るしかなくなっていく。キャラの両極としての偽善的リベラリズムと露悪的ポピュリズムのジェットコースターで世界の政治が気絶状態である」という独特の表現で現状を批判し,「民主主義が意識を失っている間に,手綱を失った資本主義は加速化している」と述べています(8384頁)。
 彼の言葉についていくことは難しいのですが,現在,すさまじい貧富の差が生じつつあるということは実感しており,成田氏の主張が資本主義による社会的な階層の分断の拡大に民主主義が十分に対応できていないというものであるとすると,そのとおりという気がします。百貨店や高級ホテルは,富裕層向けのサービスに力を入れると公言し,たいしてお金を使わない中流階級は切り捨てられつつあります。さらにその下にいるのがコロナでいたんだ貧困層であり,その範囲が広がりつつあるのかもしれません。再チャレンジや逆転が難しいと感じたとき,若者は「人生100年時代」の残りをどう生きていくかを考えて絶望し,過激な行動をとる危険性があるのです。今回の岸田首相の襲撃が,どのような動機によるのかは,よくわかりませんが,昨年の安倍元首相の襲撃をみていると,(母親が旧統一教会に入れ込んだために,家庭崩壊になってしまった)若者の絶望的な悲しみの声が聞こえてくるような気がします(だからといって,彼の犯罪を正当化できるわけではありません)。理不尽な貧困に陥り,その打開の可能性がないとわかったとき,人は過激な行動をとるのです。そういう社会的風潮が置きつつあることに鈍感な政治家が,オールドスタイルの同調を求めて国民のなかに物理的に飛び込み,テロに屈すれば民主主義の終わりと言わんばかりに,あえて果敢に遊説を続けるというのは,なにかがおかしいという気がしてしまいます。
 成田氏の見方が正しいかはともかく,私は彼の極端に思えるような民主主義論についても聞くべきところが多いと感じています(私は,『会社員が消える』(文春新書)のなかでも,別のテーマですが,成田氏の言説を引用しています[126頁])。
 いずれにせよ,今回の事故は被害がほとんどなくほんとうによかったです。しかし,どんなに警備を強化しても,一般人を巻き込む政治テロが起こる危険があります。遊説によって守られる民主主義ではなく,もっと違った民主主義を模索したらどうでしょうか。
 もし和歌山のあの事件で,はねのけられた爆弾がもう少し勢いづいて聴衆のなかに転がりこみ,そして,もっと早く爆発していたら,どうなっていたでしょうか。加害者が悪いというだけでは,すまないように思います。

 

2023年3月21日 (火)

議員のポストの軽さ

 アメリカの前大統領で,次期大統領に出馬を表明している人に逮捕の噂が流れたり,ロシアの「皇帝」的大統領に国際刑事裁判所から逮捕状が出されたりするなど,普通ならびっくり仰天しそうな話だと思いますが,誰もそれほど驚かないような世界になってしまいました。日本でも,参議院議員から,一転して逮捕状が出されて「お尋ね者」になった人がいました。三人は嫌疑の内容も社会的な地位や重要性も異なるのですが,要するに,こういう人であっても(もちろん有罪と決まったわけではありませんが),選挙というものがあると選ばれてしまうことがあるというのが民主主義です。
 ところで,経済安全保障担当大臣の高市早苗氏は,立憲民主党の小西洋之議員からつきつけられた,放送法関係の文書(小西文書)について,国会において,その内容が真実であれば議員辞職をすると言ったそうです。真実でない自信があったからかもしれませんが,私には,議員のポストを軽く考えているのではないか,という気がしてしまいました。自信があれば,堂々と論駁すればいいだけです。放送の中立性はとても重要なことです(アメリカのようにメディアは正しいことを伝えないというような国になってしまっては困るのは確かです)が,かりに文書の内容が真実であっても,総務大臣はもとより,大臣適格性に欠けるということはいえても,議員を辞めるほどのことではないと思います。簡単に議員のポストを賭けてしまうという点に,このポストを軽く扱っているなという印象をもってしまったのです。2021年の衆議院選挙の結果をみると,奈良2区で彼女は圧勝でした。辞職しても,次の選挙でまた勝てるという自信があるのでしょう。もちろん辞職する気はないのでしょうが,緊張感のなさが,議員辞職という言葉が簡単に出てくる背景にあるのではないかと思います。そして,そういうことを言うこと自体,もしかしたら議員にふさわしくないように思えてきます(どうも奈良知事選をめぐる自民党内の争いのようなことも,この騒動の背後にはありそうですが,ほんとうのところは,よくわかりません)。
 それだけではありません。安倍元総理も,森友問題で,簡単に議員辞職を口にし,その辻褄合わせをするために財務省が忖度した結果,赤木事件が起きてしまったと言われています。安倍さんも,選挙に負ける可能性は実質的になかったから,簡単に議員ポストを賭けることができたのかもしれませんが,議員ポストを賭けるのは,普通の人はとても深刻に受け止めるので(だらかこそ,その発言が効果的でもあるのですが),赤木事件という悲劇が起きたのかもしれないのです。安倍さんのケースでも,森友問題は大きいことですが,妻がしたことにすぎないので,総理大臣を辞めるのはともかく,議員ポストを賭けるほどのものではなかったように思います。死者に鞭打つ気はありませんが,やはり軽率な発言でした。何も仕事をしようとせずに除名されてしまうような議員と同様,議員辞職を軽々しく口にするような大臣や議員も,国会を軽視していると言われても仕方ないでしょう。
 話は変わりますが,上記の放送関係で問題発言をしたとされる磯崎洋輔という元議員(当時は安倍さんの側近の首相補佐官)は,私が気にいっていたNHKの「ちむどんどん」の内容を酷評し続けていた人ですね。テレビ番組にいろいろと文句を言いたい人のようですね。