つぶやき

2026年10月 5日 (月)

アレルギー検査

 アレルギーという言葉は,1906年にオーストリアの医師ピルケ(Pirquet)が提唱したもののようです(次のURLを参照)。ギリシャ語のallos(異なった)とergon(働き)を組み合わせた言葉で,もともとは「反応の仕方が変わる」という意味でした。最初から現在のように,体に有害な反応だけを指していたわけではなく,体を守る反応も含む,もっと広い概念だったそうです。
 なぜこのようなことを調べたのかというと,人間ドックの際に受けたアレルギー検査で,何も検出されなかったからです。私は年に1回は,喘息のように感じる症状が出て,数回咳き込むことがあります。何かにアレルギー反応を起こしているのだろうと思っていたので,意外な結果でした。何も出なかったのはよいことなのでしょうが,では,あの咳は何だったのかという疑問が残ります。
 日本アレルギー学会の「アレルギーとは」によると,医学でいうアレルギーとは,免疫の仕組みによって,体に有害な症状が引き起こされることをいいます。本来,免疫は細菌やウイルスなどから体を守る仕組みですが,花粉や食物など,通常は害を及ぼさないものに対しても過剰に反応してしまうことがあります。花粉症などでは,IgEという種類の抗体が関わり,ヒスタミンなどの物質が放出されることで症状が起こります。体を守る仕組みが,かえって本人を困らせるわけです。単に「免疫は強ければよい」とはいかないところに,人間の体の難しさがあります。
 では,検査で何も見つからなければ,アレルギーがないと判断してよいのでしょうか。私が受けたのは,「View39」という血液検査でした。花粉やダニなどの吸入系と,卵や牛乳,小麦などの食物系を合わせた39項目について,それぞれの原因物質に対する「特異的IgE抗体」を調べるものです。今回は,これらがすべて陰性だったということです。
 ただし,39項目を調べたといっても,世の中にあるすべての原因物質を調べたわけではありません。また,金属によるかぶれのように,IgE抗体とは別の仕組みで起きるアレルギーもあり,その場合には,皮膚に試薬を貼るパッチテストなどが用いられます。「アレルギー検査」という名前から想像していたほど,あらゆるアレルギーをカバーする検査ではないようです。
 さらに,検査の対象に含まれるものでも,血液検査が陰性だからといって,必ずアレルギーを否定できるわけではありません。逆に,抗体が見つかっても,実際には症状が出ないこともあります。たとえば食物アレルギーでは,何を食べたときに,どのような症状が出たかということと,検査結果とを合わせて判断する必要があります。検査結果だけで「ある」「ない」がきれいに分かれると思っていたのですが,そう単純ではありませんでした。
 もう一つ,私が区別していなかったのは,喘息とアレルギーとの関係です。喘息には,特定のアレルゲンを確認できないタイプもあります。また,冷たい空気や香りなどの刺激で症状が誘発されることもあり,咳が出るからといって,何かにアレルギー反応を起こしているとは限らなかったのです。結局,喘息かどうかは,症状の出方を確認し,必要に応じて呼吸機能などを調べて判断するもののようです。
 ということですが,「何も検出されなかった」と「何もない」とは,同じではありません。人間ドックで疑問が一つ解消するつもりが,かえって新しい疑問が生まれました。ただ,自分の体について,安易に分かったつもりになっていたことに気づけたのも,検査を受けた意味でした。

2026年8月26日 (水)

歌詞のないスペイン国歌

 サッカーのワールドカップはスペイン(Spain)の優勝で終わりましたが,試合前には両国の国歌が流れますが,スペイン代表の選手たちは歌いませんでした。というより,歌えないのです。スペイン国歌《Marcha Real》(王室行進曲)には,公式の歌詞がないからです。
 国歌というと,普通は歌詞が重要です。フランス(France)の《La Marseillaise》は革命歌ですし,イタリア(Italia)の《Il Canto degli Italiani》も,祖国の統一を強く訴える歌で,「われらは死ぬ覚悟ができている」と繰り返すなど,現代の感覚からするとかなり勇ましい歌詞です。アメリカ(United States)の《The Star-Spangled Banner》も,米英戦争中,英国軍による激しい砲撃の後にも星条旗が翻っていたことに感動したFrancis Scott Keyが書いた詩がもとになっています。日本の「君が代」にも,もちろん歌詞があり,政府の現在の解釈によれば,天皇を日本国および日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものとされていますが,その歴史的背景もあって,立場によって好き嫌いがあるでしょう。
 では,《Marcha Real》にはなぜ公式の歌詞がないのでしょうか。以前にもこのブログで書いたことがありますが,スペインは,一つの言語,一つの民族意識によって簡単にまとめられる国ではありません。Castilla,Catalunya,País Vasco,Galiciaなどには独自の言語と強い地域的アイデンティティがあります。さらに20世紀には内戦があり,Franco独裁を経験しました。こうした歴史を考えると,国歌にどのような言葉を付けるかについて国民的な合意を得ることが容易でないことは想像できます。2007年にはスペイン・オリンピック委員会が歌詞を公募し,翌年には採用候補まで決まりました。しかし,その内容をめぐって批判が起こり,結局,正式採用を目指す計画そのものが,すぐさま撤回されました。何を歌うかについて国民的な合意をつくることは,やはり簡単ではないのでしょう。現在のスペイン政府も,《Marcha Real》について「歌詞はなく,音楽だけ」と明記しています。
 国歌とは,本来,国民が一緒に歌うことによって国家への帰属意識を確認するものだと思いがちです。しかし,スペインでは,歌詞のない曲が国歌になっています。何を歌うかについて合意できないのであれば,無理に言葉を付けない。そのほうが,多様な人々を包摂する国家の象徴としては適切なのかもしれません。
 そう考えると,日本では1999年に国旗国歌法が制定され,「君が代」が国歌として法律上明確に位置づけられました。それから27年になります。もちろん,それ以前から「君が代」は事実上の国歌として長く用いられていましたので,1999年に突然新しい国歌がつくられたということではありません。しかし,法律によって特定の歌詞をもつ歌を国歌として定めることには,国家として「この歌を国歌とする」という選択を国民に示すという側面があります。これを歌詞の押し付けと感じる人がいることも,理解できないわけではありません。
 ただ,国歌を大声で歌うことと,国を愛することは同じではありません。歌詞がなくても,スペイン代表の選手たちは国を代表して必死に戦い,そして優勝しました。そう考えると,歌詞のない国歌というのも,悪くないのかもしれません。
 もちろん,国歌を歌いたい人が歌うことも自由です。日本代表の森保一監督が,国歌を口ずさみながら涙を浮かべる姿が話題になりましたが,それもまた,自然な感情の表れなのでしょう。国家への帰属意識は,みんなが同じ言葉を唱えることによってしか生まれないものではありません。歌う人がいてもよいし,静かに聴く人がいてもよいし,スペインのように,そもそも歌う言葉を決めないという選択もあるのです。この夏,日本では,国旗損壊罪が制定,施行されました。国家への敬意や帰属意識とは何なのか,改めて考えてみるのも悪くないでしょう。

2026年8月18日 (火)

弱起

 音楽用語にはイタリア語が多いです。allegro,vivace,andante,adagio,forte,piano,crescendo……。ところが,「弱起」はドイツ語で Auftakt (アウフタクト)といいます。なぜ,ここだけドイツ語なのでしょうか。
 これは,allegro や vivace,andante などが,基本的には「どのように演奏するか」を示す演奏指示であるのに対して,Auftakt は,楽曲の拍節構造を捉えるための分析概念であることと関係しているようです。演奏用語ではイタリア語が国際語となりましたが,音楽理論や音楽学ではドイツ語圏が大きな影響力をもっていました。そのため,Auftakt のようなドイツ語の概念が広く使われるようになったのでしょう。
 ところで,「弱起」という日本語は,考えてみると少し不思議な訳です。Auftakt は,直訳すれば「弱く始まる」という意味ではありません。auf は「上へ」,Takt は「拍」「小節」などを意味します(指揮者の指揮棒もこの言葉です)。指揮をするとき,強拍を下に振るのに対して,その前の拍ではタクトを上に振り上げます。そこから強拍へ向かって音楽が動き出す。したがって,「弱起」というより,いわば勢いをつけて次の強拍へ向かうような感じなのです。実際,イタリア語にも弱起についてin levare という表現が使われることがあります。levare は「上げる」「持ち上げる」という意味です。これも,強拍に向かって指揮棒を上に振り上げることから来ています。英語のupbeatも同じ発想でしょう。ドイツ語,イタリア語,英語では,いずれも「弱い」というより,「上へ」という運動として捉えているわけです。
  ちなみに,イタリア語で,日の出についてsol levante (昇る太陽)という表現があります。日本はヨーロッパから見て太陽の昇る東方の国なので,イタリア語では日本をPaese del Sol Levante あるいは,たんにSol Levante(「日出づる国」)と表現することもあります。
 話を戻すと,日本語の「弱起」は,意味が通じないわけではありませんが,Auftakt のもつニュアンスを十分には伝えていないように思います。「弱い拍から始まる」という静的な説明よりも,次の強拍に向かって,音楽に勢いをつけるというような動的なイメージのほうが,本来の言葉に近いのかもしれません。そうすると,弱起の曲を弾くときにも,「最初は弱い拍だから弱く弾こう」と考えるのではなく,「ここから次の強拍へ音楽が動き出す」と考えるほうがよいこといなります。ただし,これは素人の意見であり,もちろん指導者の意見をきちんと聞いて演奏すべきなのは,言うまでもありません。いずれにせよ,Auftakt という言葉の意味を知ると,楽譜の見え方も少し変わってくる気がします。
 

2026年8月 5日 (水)

アピールの時代 

  いまは,何でも「アピール」の時代になったのだと感じます。大学教員の世界でも,研究業績は,まず数で評価される傾向が強くなっています。もちろん,研究成果を社会に発信することは重要です。しかし,「活字になっていればよい」「とりあえず論文の本数があればよい」という方向に傾いてしまうと,本当にそれでよいのだろうかと思うことがあります。
 外国の研究者と交流する場面では,自分の研究を積極的にアピールすることは確かに必要です。文化も言語も異なる相手には,「自分はこういう研究をしています」ということを,ある程度強く伝えなければ関心を持ってもらえません。
  もっとも,それはあくまでも入口の話です。アピールは,相手に関心を持ってもらうための手段であって,目的ではありません。中身が伴わなければ,やがて「あの人はアピールばかりで,中身がない」という評価に変わってしまいます。以前であれば,論文とは呼ばれなかったようなものまで,いまでは「論文」として業績に数えられることがありますが,これは危険な兆候です。
  ところで,高市首相が熊本の被災地を視察した際の様子を,BGM付きの動画として首相官邸が公開したという報道を目にしました(私もインスタグラムで確認しました)。もちろん,被災地を視察し,被災者の声を直接聞くこと自体には意味があります。その経験が,今後の政策に生かされるのであれば,大切な仕事でしょう。しかし,それをBGM付きの映像として発信することには,少し違和感を覚えました。被災地支援そのものよりも,「私はこれだけやっています」というアピールのほうが前面に出てしまっているように感じるからです。
 そもそも,首相が現地へ行くこと自体についても,慎重に考える必要があります。もちろん,現場に足を運ぶことでしか得られない情報はあるでしょう。しかし,現在では映像や各種データによって把握できることも非常に多くなっています。一方で,首相が現地入りすれば,警備や交通規制などに相当な人的資源が割かれます。その結果として,被災者支援に充てられるエネルギーが減ってしまう面もあるでしょう。現地視察のメリットとコストの双方を,冷静に比較する必要があります。
 大学教員の業績評価と,政治家の広報は,まったく違うので,こじつけのようではありますが,でも,何が本当に評価されるべき成果なのか,何が単なるアピールなのか,その区別が曖昧になってきている点では共通性はあるといえるかもしれません。
  アピールすること自体が悪いと言っているわけではありません。現代社会では,良い仕事をしていても,何も発信しなければやっていないのと同じになってしまうかもしれません。だから,適切な情報発信は必要です。しかし,大切なのは節度でしょう。本当の価値は,演出やアピールだけで決まるものではありません。見る人は見ています。結局,最後に人を動かすのは,発信の巧みさではなく,仕事そのものの質なのだと考えたいです。

2026年8月 4日 (火)

 大学教員の夏休み

 たぶん毎年同じようなことを書いていると思います。最近は,大学でも8月に入試関係の業務が詰め込まれるようになり,お盆前の3日間の夏季一斉休暇を除けば,年次有給休暇を取得するにも何となく気を遣います。しかも,入試業務の割当ては比較的ショートノーティスで知らされることもあり,すでに予定していた年休とぶつかることがあります。 
 労働法屋としては,「時季変更権の要件を満たしているのであれば,業務指示に従いますが」と言いたくなることもあります。もちろん,職場ですので,法律論を振りかざして周囲との関係を悪くするのも望ましくありません。できるだけうるさいことは言わないように心がけていますが,だからといって,年休を取ることに後ろめたさを感じなければならないというのも,少し違うように思います。
 欧州に留学した経験のある人間としては,8月にまとまった休暇を取ることが難しいという状況には,かなり違和感があります。欧州のすべてが同じというわけではないでしょうが,夏には一定期間しっかり休むという文化が社会に根づいています。それに比べると,日本では,休暇を取得することそのものが,いまだに周囲への配慮を必要とする特別な行為のように扱われがちです。
 私が大学教員になった頃には,8月だけでなく9月のほとんどで業務がなく,まとまった時間を研究や休養に使えることが,大学教員という仕事の大きな魅力の一つでした。 いまでは入試,採点,会議など,さまざまな学内業務が夏にも入り,かつてのような大学教員の夏休みはほとんどなくなってしまいました。大学を取り巻く事情が変わった以上,仕方のない面もあるのでしょう。しかし,まとまって休むことができるという大学教員の利点が,いつの間にか完全に失われてしまったことには,やはり少し寂しさを感じます。
 日頃,時間的余裕があるのだから,それくらい我慢しろと言われるのかもしれません。しかし,大学教員の仕事は,授業や会議だけではありません。新しい知識やアイデアを生み出す研究こそが,本来の重要な役割です。そのためには,日常業務から少し距離を置き,まとまった時間のなかでじっくり考える期間がどうしても必要になります。そう考えると,夏季休暇をはじめとするまとまった研究時間が失われていくことは,単に大学教員個人の働き方の問題ではありません。大学教員の研究の生産性というものを真剣に考えると,日本の今後の知的生産力にも直結する問題ではないかと思うのです。

2026年8月 3日 (月)

東野圭吾さんを悼む

 もう東野圭吾さんの新しい作品を読むことができなくなるというのは,たいへんショックです。8月5日には新刊『永遠の記憶』が刊行される予定とのことですが,それが最後の新作になるのでしょう。
 東野さんの作品は,おそらくほとんどすべて読んできたのではないかと思います。ミステリーとして純粋に面白いだけでなく,社会派的な問題意識があり,さらに物理学をはじめとする理系的な要素も巧みに取り入れられていました。こうした要素を組み合わせながら,それまでにはなかった独特の作品世界をつくり上げ,多くの読者を魅了してきました。もちろん,私もその一人です。
 最初に読んだ東野作品が何だったのかは,いまとなってはよく思い出せません。ただ,とくに強く記憶に残っているのは,直木賞を受賞した『容疑者Xの献身』です。 たしか飛行機のなかで読み始め,途中で寝るつもりだったのに,先が気になって眠ることができず,最後まで読みふけってしまった覚えがあります。それくらい衝撃的で,面白い作品でした。
 その後も,新作が出るたびに読み,このブログでも何度も紹介してきました。最近では新作の刊行間隔が少し空くようになり,ブログで取り上げる機会も減っていましたが,少し前にも『魔女と過ごした七日間』を読み,顔認証,AIによる仕事の代替,DNA情報の収集,ラプラスの悪魔と未来予測などについて,いろいろと考えさせられたばかりでした。最後まで,現代社会の変化に目を向けながら,技術革新の要素もとりいれ,読者を楽しませる作品を書き続けてきたのだと思います。東野さんは,106冊もの著書を残したとされています。これだけ多くの作品がありながら,それぞれに違った仕掛けがあり,読者を飽きさせなかったというのは,驚くべきことです。
 いまはまだ,突然の訃報を前に,東野作品についてまとまったことを書く気持ちにはなれません。ただ,いずれあらためて,どの作品が心に残っているのか,東野作品のどこに惹かれてきたのかを,自分なりに整理して書いてみたいと思います。それは東野圭吾さんへの感謝を表すことであると同時に,長年,作品を楽しませてもらった自分自身の読書の記憶を残しておくことにもなるでしょう。

2026年8月 2日 (日)

熱中症対策

 環境への影響を抑えるため,電気を無駄に使わず,できるだけ省エネに努めなければならないと言われてきました。その一方で,近年の猛暑のなかでは,熱中症を防ぐために,エアコンをためらわず適切に使用するよう求められています。どちらも正しいのでしょうが,受け取る側には,少し混乱があるのではないでしょうか。
 とくに私より上の世代には,「エアコンは贅沢である」「電気代がもったいない」「環境にもよくない」という感覚が強く残っていると思います。暑くても扇風機や自然の風でできるだけ耐えることが,当然のこととされていました。私自身は,さすがに現在ではそこまで我慢しようとは思いませんが,そのような感覚はよく理解できます。しかも,電気料金が上がっているなかでは,エアコンを控えることが生活防衛にもなります。 
 熱中症予防,電気代,環境への影響という,相反する要請がある以上,政府には,優先順位を明確にしたメッセージを発する責任があります。危険な暑さの日には,まず生命と健康を守ることを最優先にし,エアコンの適切な使用を促し,そのうえで,電気料金への支援や,省エネ性能の高い機器への買替え補助,住宅の断熱化などによって,家計と環境への負担を軽減するという筋道を示すべきでしょう。
 ここでも,デジタル技術を活用できる余地は大きいと思います。室温や湿度だけでなく,体温,心拍数,睡眠状態,水分摂取の状況などをセンサーで把握し,危険が高まれば本人や家族に知らせることができます。ただでさえ高齢者は暑さや喉の渇きを感じにくく,身体から熱を逃がす機能も低下します。本人が危険を感じていなくても,自動的に冷房を作動させたり,家族や地域の見守り担当者につないだりする仕組みも考えられます。電力使用量についても,スマートメーターを活用すれば,危険な暑さの日に冷房を我慢している世帯を一定の条件のもとで把握し,支援につなげることができるかもしれません。もちろん,プライバシーへの配慮は必要ですが,生命を守るための制度設計は十分に可能なはずです。
 環境対策と熱中症対策は,本来,対立するものではありません。「エアコンを使うな」と我慢を求めるのではなく,エアコンを安全に使用しながらも,環境への負担をできるだけ小さくできる住宅,電力供給,都市構造をつくることが政策の仕事です。人間に暑さを耐えさせるのではなく,技術と制度によって,人間が無理をしなくても生きられる環境を整えるべきなのです。
 政府も,酷暑日は,必要に応じて外出やイベントの中止・延期,リモートワークへの変更まで検討するよう求めています。つまり,個人に水を飲ませるだけでなく,社会活動の側を暑さに合わせて変える段階に来ているのです。
 自らの短い睡眠時間を仕事ぶりの一部として語る高市首相に,国民の健康を最優先する一貫したメッセージを発してもらえるのか,少し心配です。しかし,国民を病気や死から守ることは,政府の最も基本的な役割です。猛暑の時代にふさわしい,わかりやすく,実効性のある政策を打ち出してもらいたいと思います。

2026年7月28日 (火)

『リア王』は成果主義の悲劇か

 先週の金曜日に学部の授業の最終回があり,授業全体を総括するなかで,年功型処遇と成果型処遇の対比についても触れました。成果型というと,働いた成果に応じて処遇するのですから,一見すると公正な制度に思えます。しかし,そもそも成果を公正に評価することが難しいという根本的な問題があります。その点,勤続年数や年齢のような客観的で動かしにくい基準を用いる年功型は,少なくとも評価者の主観が入りにくいという意味では,ある種の公正さをもっているのではないかと思います。
 この話をしていて,シェイクスピア(Shakespeare)の『リア王』(King Lear)を思い出しました。リア王は,老後を迎えるにあたり,王国を3人の娘に分け与えようとします。その際,娘たちに,自分をどれほど愛しているかを言葉で表現させ,その内容によって領土の分配を決めようとしました。長女のゴネリルGoneril,次女のリーガン(Regan)は,父への愛情を巧みな言葉で表現し,大いにアピールします。
 これに対して,末娘のコーディリア(Cordelia)は,愛情を言葉で飾ることを拒みます。自分は父と娘という関係にふさわしい仕方で父を愛しているのであり,それ以上でもそれ以下でもないという態度を示しました。父への愛情は,いまさら競争的に言語化して見せるようなものではないということでしょう。しかし,リア王はこれに激怒し,コーディリアを勘当してしまいます。この判断が,その後の悲劇の出発点となります。
 こうしてみると,リア王は,娘たちの本当の愛情ではなく,言葉によって可視化された愛情を「成果」として評価したことになります。しかも,その評価方法では,実際に父をどれほど大切に思っているかよりも,どれほど上手にアピールできるかが重要になります。評価される側も,評価基準がわかれば,それに合わせて行動するでしょう。ゴネリルとリーガンは,リア王が聞きたがっている言葉を与えました。もっとも誠実だったコーディリアが,もっとも低い評価を受けたのです。
 これは,成果主義のもつ問題と少し似ています。成果を評価しようとすると,まず何を成果とみなすかを決めなければなりません。しかし,測定しやすいものが,本当に重要なものとは限りません。目立つ成果や巧みな自己アピールばかりが評価され,長期的な貢献や目に見えにくい仕事が軽視されることもあります。評価制度が,成果を発見する仕組みではなく,評価者に対するアピール競争になってしまう危険があるのです。
 これに対して,年功型における勤続年数や年齢は,基本的には本人が操作できない基準です。その意味では,評価をめぐる駆け引きやごまかしが入りにくいという利点があります。『リア王』でいえば,父と娘という関係それ自体は3人に共通しています。その関係を基準にするなら,領土を均等に分けることが,もっとも公正だったのかもしれません。もっとも,年齢を重視する年功型を徹底すれば,長女ほど相続分が多くなるということになるかもしれませんが。
 いずれにせよ,リア王の失敗は,成果を評価したことそれ自体というよりも,愛情という,本来は簡単に比較できないものを,短い言葉によるアピールだけで測ろうとしたことにあったといえます。成果主義がうまく機能するかどうかも,結局は,何を成果とし,それをどのように評価するかにかかっています。
 『リア王』は成果主義の悲劇を描いた作品であると言うのは,さすがに強引でしょう。しかし,成果評価の危うさを考えるための古典として読むと,なかなか興味深い作品ではないかと思います。

2026年7月25日 (土)

礼儀とは何だろうか

 大相撲には,さまざまな所作があり,その一つひとつに意味があります。土俵入りや仕切りの際に,力士が手のひらを見せたり,両手を広げたりする一連の所作には,武器を持っていないことを示すという説明があります。激しくぶつかり合う競技でありながら,その前提として,相手に対する礼と信頼を身体で示しているのでしょう。
 幕内の土俵入りを見ていると,力士が審判委員の前を通る際に,手で軽く前を切るような所作をすることがあります。相撲協会による公式な意味づけがあるのかはわかりませんが,私には,日本人が人の前を横切るときに,「失礼します」という気持ちを示す手刀のように見えます。
 そういえば,大学の授業でも,人の前を横切ることについて驚かされたことがあります。教壇がなく,教卓だけが置かれている教室で講義をしていたときのことです。遅刻して入ってきた学生が,私と学生たちとの間を,何のためらいもなく横切って自分の席へ向かいました。さすがに唖然としました。大多数の学生はそのようなことをしませんが,ときどき,こちらの常識では理解しにくい行動を平然とする学生がいます。
 正直に言えば,それだけで不可を付けたくなるくらいですし,社会人になってから大丈夫だろうかと心配にもなります。授業をしている教師と学生との間を横切るというのは,単に移動しているだけではなく,そこに存在する人間関係や場の意味をまったく意識していない行為のように見えるからです。
 もっとも,私はこういう礼儀について学生を注意することには,実は少し臆病です。私が当然だと思っている常識が,すでに時代とともに変わっている可能性もあるからです。また,その場で注意をすると,こちらも不快になりますし,授業の流れも止まります。私は,話の流れをできるだけ切らずに講義を続けたいほうなので,一度リズムが崩れると,その後の授業のパフォーマンスまで下がってしまいます。学生は,少し休めてよかったと思うかもしれませんが。
 礼儀は,国や文化によっても違います。私がイタリアにいたときには,人の前を横切って肩や背を向ける際に,一言謝る場面を何度か見ました。他人の前に自分の身体をどのように置くかということにも,それぞれの文化的な作法があるのです。
 礼儀とは,決められた形式を機械的に守ることではないのでしょう。自分の行動が相手にどのように受け取られるかを想像し,相手への敬意を何らかの形で示すことです。その具体的な作法は,国や時代によって変わっていくでしょう。しかし,相手を尊重しようとする気持ちまで失われてよいとは思いません。
 力士が審判委員の前を通るときに見せる小さな所作には,そうした礼儀の本質が表れているような気がします。

2026年7月24日 (金)

「寝ていない」アピールに共感できない理由

 高市首相が,自身のSNSで「就任以来,0~3時間睡眠が常態化している」と投稿し,多忙ぶりを紹介しました。しかし,国民の反応は必ずしも好意的なものではないようです。自己管理ができていない,判断力が心配だ,ワークライフバランスの時代に逆行しているといった声も少なくなかったようです。この反応は,日本人の働き方に対する価値観の変化を象徴しているように思います。
 かつての日本型雇用システムのもとでは,「猛烈社員」という言葉に象徴されるように,長時間働くことが美徳とされていました。政治家が「自分も皆さんと同じように寝る間も惜しんで働いています」と語れば,共感を得やすい時代だったのでしょう。
 しかし,現在は状況が大きく変わっています。ワークライフバランスが重視され,いかに長時間働くかではなく,いかに効率的に仕事を終え,家族や私生活の時間を確保するかが望ましい働き方と考えられるようになっています。長時間労働を誇ること自体が,むしろ時代遅れと受け止められるようになっていると思います。
 しかも,長時間労働には「外部性」があります。上司が深夜まで働いていれば,部下は先に帰りにくくなります。管理職が休日も仕事を続けていれば,若手もそれに付き合わざるを得ない雰囲気が生まれます。働き方は個人だけの問題ではないのです。その意味で,上司世代の長時間労働は,部下世代のワークライフバランスを損なう要因にもなり得ます。
 そのように考えると,高市首相の投稿があまり共感を呼ばなかったのも理解できます。いま求められているリーダー像は,自ら長時間働く人ではなく,組織全体が持続可能な働き方を実現できるようにマネジメントできる人だからです。
 もっとも,今回の反発は,単に働き方だけの問題ではないかもしれません。皇室典範をめぐる議論では,国民世論とは距離のある形で,与党内の合意を優先して進めようとしているとの印象を持った人も少なくありませんでした。そうした政治姿勢への評価があるからこそ,「寝ていないほど頑張っている」というメッセージも,素直には受け止められなかったのでしょう。
 リーダーには,しっかり働いてもらう必要はありますが,寝る時間を削ってまでやるようなことが求められているわけではありません。個人的にも知的労働については,睡眠時間が少なければ,生産性は明らかに下がります。高市首相が,よほどタフで優れた頭脳を持っているのでなければ,きちんと総理大臣の仕事ができるのだろうかと疑問を持たざるを得なくなります。

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