教育

2024年7月31日 (水)

教育機会の平等化

 昨日の日本経済新聞の経済教室で,神戸大学の佐野晋平さんの,「家計支援 どうあるべきか(下) 家庭の教育投資 格差是正を」という記事が出ていました。興味を引いたのは,コロナ禍で休校になったことの学力への影響についての研究をとおして,オンライン教育や学校以外での教育機会の差が重要とされ,「私立に通う子供や,親が高所得・高学歴の家計の子供はコロナ期間中のオンライン教育機会や経験に恵まれている」,「休校以前にオンライン環境が整備されていないと家庭のオンライン学習時間が短くなること」,「休校期間中にスクリーンタイム(画面を見ている時間)は増加したが,それは世帯構成により差がある」という他の研究者の発見を紹介しています。佐野さんは,家計への支援のあり方として,教育バウチャーの活用と公教育の質的な充実を挙げています。
 教育の重要性は労働政策においても注目すべきなのですが,とりわけ公教育が職業教育に果たすべき役割が重要です。「質的な充実」という場合,デジタル時代における教育カリキュラムをいかにして策定するか,そして,そこにおける公教育と自学との役割分担をどうするか(基本的には,自学を支えるための公教育という視点)が政策のポイントとなります。
 自学の中心は,オンラインでの学習であり,それは就学前の幼児から,リスキリングの世代,そして高齢者まで幅広い人たちに関係します。幼児をみても,外国語,ひらがな,カタカナ,算数というような読み書き算盤に始まり,いろんな学習がオンラインで可能であり,親が自分の子どもの能力や興味などに応じて,自由に選択できます。少なくとも教育に関心がある親が,インターネットに接続できる環境にあれば,子どもの学習機会を飛躍的に増やすことができると思います。もちろん,その内容は文科省のチェックを受けたようなものではなく質の保証はありません。親の判断にゆだねられて,それでは心もとないところがあるので,公教育の存在価値があるのです。つまり公教育で幹となる学習をし,プラスアルファの追加部分が任意でなされる自学なのです。かつては,これは学校+塾で,塾に行けない子どもは,その任意の教育機会が限定されていたのですが,いまは,インターネットの発達で,学校外での学習コストがぐんと下がっています。こうみると,大切なのは,だれもがインターネットやパソコンのようなデジタル技術の活用機会を低コストで得られるようにすることで,これはデジタル・デバイド(digital divide)の解消の一側面です。教育面では,教育機会の平等化ということになります。教育だけではありませんが,デジタル技術を安価で使える国民が増えるようにすることが,個人のさまざまな可能性を高めることにつながります。まずは国会議員がみなスマホやパソコンをつかって生活してもらいたいです。そうしなければ,ネットの便利さもリスクもわからないので,政策はいつまで経っても進まず,日本は後進国に沈んでしまいます。いつもの心配ごとの話になってしまいました。

2024年2月21日 (水)

文理融合について思う

 昨日の日本経済新聞の「Deep Insight」に,編集委員の矢野寿彦氏の「『理系か文系かやめませんか」というタイトルの記事が出ていました。そのなかで,高橋祥子氏が「文理分け」はイノベーションを求める今の社会になじまないと述べたという話が紹介されています。文理を分けるのは,効率的な勉強につながり,外国の文明水準へのキャッチアップをしなければならない時代であればよいとしても,イノベーションが求められる時代であれば,文理の区分は無意味で,かえって思考を既存の学問の枠におしとどめてしまい,有害無益であるということなのでしょう。
 だからこそいまでは,文理融合ということがよく言われます。これまでは,どちらかというと,文科系のほうが理科系にはコンプレックスをもっている傾向があり,理に近づくことに臆病であったような気がします。理科系のほうが,専門技術性が高く,その分だけ障壁が高く,その理解が難しいというイメージがあるからです。しかも,理科系の人は,文科系の人が理解系のものを勉強しようとしない姿勢に厳しい言葉を投げかけることもあります。だから,みんなもっと数学を学ぶべきだというような意見が出てくるのです(この点では経済学部は理科系に近い科目です)。しかし,その逆はどうでしょうか。たとえば,とくに法律のような分野になると,法律のことはよくわからないので,と言う理科系の人はよくいます。謙遜なのかもしれませんが,法律のことを知らなくても仕方ないかな,という態度がみられることもあります。他方で,人によっては法律を過剰に「おそれる」人もいます。遵法意識が高いことはよいのですが,そういう人は,法律を刑法のイメージでとらえている場合が多いように思います。日本人の一般の人の法意識では,法は処罰につながっているのです。しかし,それは法の一部にすぎません(重要な部分ではありますが)。法学の立場からみたときの,バランスのとれた文理融合というのもまた難しそうです。
 いずれにせよ,文か理かに関係なく,自分の得意な分野で専門性を伸ばせばよく,大切なのは,子どものころから,あなたは文科系だから,数学は勉強しなくてよいというようなことを言ったり,逆に理系だから,国語の学習は不要というようなことを言ったりして,その子の可能性を狭めないということでしょう。文理を分けることはやめ,同時に,文理ともに学べというのもやめ,個人が関心のあることを,好きなように極めることが大切ですし,また,そういう人がふと別のことを勉強したくなったときに,いつでもその勉強ができるような環境を用意することが大切です。そう考えると,問題の根源は「文理分け」や文理で分けられた試験にあるではなく,子どものときに,勉強というものを受験のためにやるものと意識づけてしまうことにこそあるといえそうです。

2024年1月14日 (日)

AIと大学入試

 昨日から大学入学共通テストが実施されています。知的な作業が,生成AIにより大きく変わりつつあるなか,大学入試で問われる知識について再考していく必要があります。
 子どもを抱えている親は,いずれ自分の子供が同じ試験を受けるところを想像しているかもしれませんが,現在10歳くらいの子どもから下の世代の大学入試の予測はかなり難しいです。大学入試そのものが存在しなくなっているかもしれません。というのは,これからは,AIが個人の学習の到達度をスコア化できるようになるからです。入試をしなくても,本人の能力がわかるのです。各大学は,特定の科目のスコアが高い人を集めるといった形で,差別化を図っていくでしょう。こうしたスコア選抜は,受験に特有の一発勝負の不確実性をなくすこともできます。
 どの科目もそこそこ点数がとれる者が,偏差値の高い国立大学に合格しやすいといった状況は変わっていくでしょう。苦手科目の克服といった苦行もなくなるでしょう。もちろん本人の苦手な科目の学習に意味がないとは言いません。とくに苦手かどうかが主観的ではなく,AIによって客観的に把握できることは意味があります。AIによると苦手とされたけれど,それにあえて挑戦してみようというのは意味がある場合もあります。それにAIを疑うということもありえます。将棋の藤井聡太八冠はAIを活用して勉強していますが,実戦では,AIの評価値を上回る好手を指すこともあるのです。これは藤井八冠だからだともいえますが,AIが万能ではないことの証しでもあります。
 AIは道具であり,それをどう使うかは人間次第です。効率化が必要であれば, AIを使ったほうがよいでしょうし,効率化がそれほど重要でない場合は,あえてAIを使わなくても構いません。では,大学入試はどうか。これはおそらく効率的にすませたほうがよいタイプのことでしょう。若い時期の貴重な時間を有意義に使ったほうがよいからです。このように考える人が増えると,ますますAIの導入が進み,大学入試も廃止される方向に進んでいくでしょう。そもそもAI関連の社会実装に関する予測が,ほぼ当たってきたのは,人間がこの新しい道具への好奇心を抑えられないからだということも忘れてはなりません。

2023年11月19日 (日)

N高

 先日のテレビ東京のカンブリア宮殿でN高とその校長の奥平博一氏のことが採り上げられていました。この学校のことは,前から気になっていましたが,改めて番組を観て,よい学校だなと思いました。大学もつくるということで期待しています。とにかく「教える」ということに限界が感じられるなか,教育の目的は,若者たちの考える力,なにかをしようとする意欲というものなどを,どう喚起し,サポートするかに力点が置かれるべきだと思っています。知識は,何歳になっても,その気になれば学ぶことができます。どうしても必要な知識は学校などで教えておく必要がありますが,学習べきもののなかには,それだけでない部分もたくさんあるのです。
 人間は,共同体社会の一員であり,人とのつながりなしには生きていけません。しかし,それは人為的にできたゲゼルシャフト(Gesellschaft)におけるつながりとは区別する必要があります。ゲゼルシャフトが問題なのは,過剰な組織優位の思想になりがちなところです。労働法の諸問題の多くは,そういうところに起因しています。これまでの学校教育は,意図していたかどうかはともかく,組織で活躍できる従順で,かつ,そこそこ優秀な人材を育てるのに適したものでした。しかし,ほんとうに必要なのは,私たちの住んでいるゲマインシャフト(Gemeinschaft)の共同利益のために貢献できることを自分で考えたり,そのために人々を結集させたり,互いに連携したりできるような人材を育てることなのです。そういう人材こそが私の定義するプロ人材であり,企業としても,これから生き残るためには,そういう人材を集めることができなければいけません。
 N校というのは,そういう人材を育成するのに適した学校として,たいへん期待できると思います。入学者が増えているのも理解できます。もちろんテレビで観た情報だけしかなく,実際の姿を知っているわけではありません。それでも,学校の打ち出しているコンセプトには賛同できます。通信制への偏見を打ち破り,DX時代に適した教育方法として,またテレワークにもつながる教育として,今後の発展に大いに期待したいです。

2023年11月10日 (金)

考える力

 昨日,NHKの朝のニュースで,「夏の甲子園が示したもの 野球が育む『考える力』」で,優勝した慶應義塾高校の練習スタイルが紹介されていました。キャッチボール一つとっても,個人が自身で課題をみつけ,考えながらやっているということで,そんなの当たり前ではないかという気もしますが,おそらくこれまでの高校野球のスタイルからすると超例外的なのでしょう。有力高校になると,監督が君臨してすべての練習メニューを考えて,そのとおりに選手も練習するということのようであり,慶応方式は,それとは対極的に監督は指示せず,選手に考えさせるというのです。別の高校では,練習試合で監督はサインは出さないそうです。選手に考えさせ,そこでの失敗は折りこみ済みで,失敗したあとに反省して考えることが大切だという方針で臨んでいるようです。練習試合が終わった後,「アフターマッチファンクション」という,将棋でいえば感想戦のようなことをやって,対戦したチームと一緒にその日の試合を振り返り,互いに意見を交換するということもしていました。
 高校野球が教育の一環である以上,「野球しかできない」では困るのです。社会人としてやっていけるような人材を育成することができなければ意味がなく,その観点からは,こうした取組みはすばらしいと思いました。
 「考える」というのは,高校野球だけでなく,日本社会全般において,とくに重要なキーワードです。学校では,実は「考えるな」という圧力をずっと受け続け,社会に出てもそれは続きます。大学教員に対しても「考えるな」という圧力があります。研究者は「考えること」が仕事なのですが,そういう仕事をしている者でも,組織というものに所属すると,「考えるな」(黙って従え)と言われることが多いのです。大学ですらそうですから,日本社会において「考えない」というのは,なかば(ネカティブな意味での)日本文化になってしまっているように思います。
 しかしAI時代の到来で「考えない」人間は,機械の下僕になりさがるだけです。社会が大きく変わるなか,常識は一変し,既存の組織も大きく変容します。そこで生き残るために必要なのが「考える力」です。拙著『会社員が消える―働き方の未来図』(2019年,文春新書)では,デジタル社会やAI社会が到来し,人々の生き方や働き方が大きく変わるなか,最後に人間にとって大切なのは「考える」ということだという,ある意味では平凡すぎるのですが,しかし日本社会においてとても重要と思える結論にたどりついています。考えなくてすむのは,社会があまり変動せず,保守的な価値観だけで十分にやっていける時代だけです。激動の時代には,自分たちでこれまでの常識や価値観を疑い,そこから考えていくことがどうしても必要となるのです。
 高校野球のような古い教育方式が濃厚に残っていそうな領域で,個人の考える力を養う教育がなされているのは,とても素晴らしいことです。もし,こういうスタイルが日本中の教育機関に広がっていけば,日本の未来は暗くないと思いました。

2023年10月24日 (火)

的外れのフリースクール発言

 東近江市の市長が,フリースクールへの財政支援に対して批判をしたことがネット上で話題となっています。本人は問題提起のために一石を投じたつもりでしょうが,常識のある普通の国民は無理してでも子供を学校に行かすよう努力しているとの発言は余計です。こういうことを言いたがる爺さんはいるけれど,自分が恥をかくだけです。自分は「常識のある普通の国民」と思っているのでしょうかね。
 あの戦争だって,常識のある普通の国民なら戦争に協力すべきだということから,国民は戦争に巻き込まれていったのです。その場の雰囲気で通用しているかもしれない常識が間違っているかもしれないという批判精神がなければ,社会は間違った方向に進んでいくのです(日本社会を支配してきた「空気」については,山本七平『「空気」の研究』を参照)。
 もちろん,常識のすべてがおかしいわけではありません。でも,常識のなかに,どこかおかしいものがないかを見分けるのが知性であり,そのためには教養が必要です。
 この市長は法学部出身だそうですが,法律は常識を強制するものととらえる人もいますが,ぜんぜん違うのです。私はいまでも忘れられないのは,憲法の樋口陽一先生が,憲法の講義の最後に,一番大切なのは,なぜ基本的人権が大切かを常に考え続けることだという趣旨のことをおっしゃったことです。正確な表現は違っていたかもしれませんが,先生が講義のなかで教えてこられたことについて,最後に,それが正しいかは自分たちで批判的に判断しろとおっしゃったのです。ここに法学的思考のエッセンスが現れていると思います。何が正義かは常に問い続けなければならないのです。基本的人権のような,一見普遍性があるようなことであっても,そうなのです。この市長が考えているような,「子ども学校には通うもの,親は子を学校に通わせるもの」というたぐいの常識となると,もっと根拠があやしいもので,常に問い続けることが必要なのです。
 もちろん,行政の長になれば,現行ルールを前提にしなければ執行ができないので,在任中はそれにしたがうことになるのはやむをえません。それがいやならそういう仕事につかなければいいのです。しかし,今回の市長は,文科省の方針に反対しているので,現行ルールに背を向けて,独自に自分の見解を述べているのです。それだけで市長として失格でしょうし,しかも常識にしたがえという無知性な態度をとっている点で,二重に失格です。
 フリースクールに通う子が出てくるのは親の責任というのは,大きな誤解です。かつてNEETが話題になったときに,本人の問題であるとして,NEETに冷ややかな視線が向けられたことがありましたが,いまではNEET問題は労働市場の構造や不十分な雇用政策など本人以外のところに主たる原因があるというのが共通理解だと思います。国や行政は,すぐに国民の責任にせずに,まずは自分たちに非がないかということを考えるべきでしょう。子どもが普通の学校に行かずに,もっと自由な環境で学べるフリースクールに行きたがるのはなぜか,なぜ親がそれを認めたり,奨めたりするのか。それは学校側,さらには教育側に原因があるのではないかという視点をもって,問題にとりくむのが誠実な態度でしょう。文科省もそのことを意識しているから財政支援をしているのだと思います。
 こういう無知性な市長が出てこないようにするためにも,好きな学校に行って多様な価値観を身につけ,偏狭なものの見方にしばられないようにすることが大切だと思います。保守層は価値の多様化に批判的ですが,彼ら,彼女らが維持しようとしているものの大半は,それほど古い歴史があるものではありません。これからの時代の教育は,むしろ教養ある者による寺子屋的なものであってよいのです。まさにフリースクールです。もし普通の学校に来てほしいのなら,まずは公立学校を魅力的なものにするよう尽力するというのが,市長のやるべきことでしょう。

2023年10月12日 (木)

インターナショナルスクールに流れる親たち

 NHKの「かんさい熱視線」で,106日に,「開校ラッシュ!インターナショナルスクール 日本の教育になにが」という番組をやっていました。大阪でインターナショナルスクールに通う子どもが増えていることが紹介されていました。インターナショナルスクールというと富裕層の子どもたちが行くというイメージですが,いまは参入事業者が増えて,庶民でもなんとか通えるくらいに学費を引き下げているところもあるようです。一方,親の意識としても,英語を勉強させたいとか,子どもに国際的に活躍してもらいたいといった目的だけでなく,とくに若い親たちの間で,子どもに日本の教育を受けさせたくないと考える人が増えているようなのです。こうした親の需要に敏感に反応して,ビジネスチャンスと感じている海外の事業者が増えているのでしょう。とくに大阪は巨大な潜在顧客がいると見込まれているようです。
 いつも言っているように,DX時代・AI時代は教育政策の根本的な見直しが必要です。文科省も手をこまねいているわけではなく,探求型学習を,わずかではありますが,すでに取り入れています(とくに重要視しているようにはみえませんが)。しかし問題は,誰がそれを教えるのかです。現在の教師は,自分自身は,探究型学習の経験がないはずですし,先輩教師たちから教わることもできません。日常の仕事も,どんどん忙しくなっています。これで探求型学習に対応する授業に取り組めといっても無理があります(106日の日本経済新聞の「大機小機」の「教員負担の軽減で必要なこと」では,国会の要請で文科省が実施する実態調査への対応が,教師の仕事を増やしているということが書かれていました)。
 これからは,日本の小学校でやっている授業のうち,基礎的なものはAIに担当させ,人間の教師は探求型授業と呼ばれるものに集中するという役割分担が必要となるでしょう。もちろんDXにより,教師を雑務から開放することも不可欠です。
 ところで,日本人は,人前で自分の意見を言うことを推奨されていません(大学のゼミ型の授業では,このあたりから学生の意識を変えていかなければならないので,たいへんです)。探究型学習というのは,自分のなかに知的好奇心がめらめらと燃え上がり,自分で情報を追い求め,そこから,いろいろな仮説を立て,検証をし,失敗をし,仮説をつくり直すということを繰り返し,その過程において人前でプレゼンをして,さまざまな意見をもらい,それを受けてさらに考え直し,仮説をブラッシュアップしていくというようなことを,ひたすら繰り返す学習なのだと思います。昭和の時代は,そういう作業は,知的遊戯であり,実務に役立たないとして軽視されがちでしたが,現在では,そういうことを言う人はさすがに減ってきていると思います。こうした時代の変化を受けて,教師は,学生の知的活動のよき伴走者になることが求められているのです。人間には,結論を教える(知識を単に伝える)よりも,むしろテクニカルなこと(情報収集の仕方,プレゼンに関する種々のテクニックなど)を教えることが期待されるのかもしれません。あとは個人がAIを活用しながら自力で考えを磨いていくのです。
 冒頭のNHKの番組に話を戻すと,そこに出ていた評論家は,日本の公立学校にも希望があると言っていました。自宅の近くにあって,子どもたちに情熱をもって接してくれる先生がいる学校に無償で通えるということは,世界では決して当たり前のことではなく,その価値は高いというのです。たしかに,そのとおりです。あとは,政府が,インターナショナルスクールに流れる親たちの気持ちを理解し,どうしたらこのような人たち(決して特別な人たちではない)に公立学校に子どもを行かせたいと思ってもらえるかを考える必要があります。もし子どもの近い未来に直結するような教育体制を,カリキュラムと教師という面で,きちんと用意できなければ,インターナショナルスクールに流れる動きはますます拡大することになるでしょう。

2023年10月10日 (火)

埼玉県の児童虐待条例問題

 埼玉県の児童虐待条例の改正が問題となっていました。私も親戚で,この条例の影響を直接受ける者がいるので,他人事ではありません。今日,取り下げたそうですが,採決の可能性が高いと言われていたので,心配していました。とくに昨日,朝日新聞Digitalで,自民党埼玉県議団の田村琢実団長に,西村有里記者がインタビューした記事の内容を見て心配になっていたのです(10910時アップ「『留守番も虐待』条例改正案,提出は自民埼玉県議団 団長の発言詳報」)。「虐待」という言い方はともかく,子どもの安全を重視するという意図は理解できるものの,執行部分について,行政に投げてしまったり,あるいは場合によっては親の判断や通報を受けた人の判断に任せたりしていて,不十分であることは否めないと思いました。国の法律の場合は,政府が主導しているので,法律で抽象的な規定を設けても,それをどう具体化するかについては,ある程度の青写真があるのですが,今回はどうもそういうのがなさそうなので,混乱を招くことが予想できました。罰則がないから理念規定のように思いますが,やはり政策の順番が違っています。子どもが放置されるケースのなかには,どうしようもない親による場合もあって,それに対する教育は必要であるし,ときには罰則をつかった強力な規制は必要であるものの,大多数の親はそうではないのであって,子どもを放置する状況があるとすれば,そうしなければならない原因があるのです。このタイプの親に対しては,放置の原因を取り除くような政策をきちんととることこそが重要であり,それをしていないなかで,県の無策の責任を親に押し付けていることになるのです。議員たちは,問題提起をしたつもりだったのかもしれませんが,やり方が稚拙でした。
 ただ,たとえば小学生の登校を,子どもたちだけでやらせてよいのかということについては,私も問題意識はもっています。昔イタリアに住んでいたときには,小学生の子ども(低学年に限定されていたかどうかは忘れました)の送り迎えは親の責任であり,子どもだけで登下校することは禁じられていました(どのレベルの強い禁止規制であったかわかりませんが,少なくともMilano日本人学校は禁止していました)。日本はいくら治安がよいとはいえ,危険であるように思います。地域のボランティアなどで見守るという方法もあり,実際やっているところもあるので,私も時間に余裕ができれば,そういうことをしたいと思っています。
 問題は,仕事のためということであれば,子どもを放置してもやむを得ないという価値観が,日本社会にあることであり,そこを根本的に変えなければならないのです。子どもファーストとは,仕事よりも優先という意味です。それは綺麗事と言われるかもしれませんが,それができるように行政がサポートすることこそ大切です。たとえば,小学生の子どもの送り迎えをするための休暇を認めている企業への補助金を支給するというのはどうでしょうか。そういう補助金こそ,「こどもまんなか社会」にふさわしいです。子どもの数を増やすことばかりではなく,子どもが安心して暮らせる社会をつくることも,重要な政策でしょう。公園で小学校の低学年の子たちで遊んでいることも,たしかに気になります。子どもの遊具のある公園は,まさに「公」の場所であるので,監視カメラを設置するなどの安全対策をとったほうがよいと思います(親に責任を課すのではなく,子どもが安全に遊べるような状況をつくることが大切で,日本版DBSもそのための手段の一つとなるでしょう)。自宅内での子どもの放置は微妙な問題ですが,現在の仕組みをもっと活用できると思っています。私は,子どもは社会の「共有財産」という面もあると思っており,だから自分の子だけでなく,他人の子にも,もっと社会が関心を向けるべきだと思っています。そのかぎりでは,家庭のプライバシーがある程度犠牲になることは仕方がないと思っています。虐待についての合理的な疑いがある場合(健康診断で外傷がみつかったとか),近所の通報などもあることが多いので,その場合は児童相談所が本来もっている権限をもっと積極的に活用して踏み込んで調査をしてもよいと思っています。また,ここでもDXをつかい,虐待の可能性を,外部から収集可能なデータにより推知するようなこともやってよいと思います。プライバシーの侵害はできるだけ避けるべきですが,最終的には子どもの生命や安全を優先することは仕方がないと思います。
 ところで,田村氏の発言のなかで一番問題と思われるのは,実は,「今後議論の余地はない? 今後,議論する予定はもうない?」という質問に対して,「もうですから,議論は,条例案は今,いま委員会で通ったところで,本会議で通るまでは猶予があると思いますけれども,議会制民主主義のこの埼玉県議会のルールにのっとって言えば,もう今議論するところはないですよね。」というところです。これは多数派の横暴であり,非常に危険な発想です。とくにこうした意見が二分するような論点については,いったんは多数決で進めるが,議論は常にオープンであるということにしておかなければ民主主義は成り立たないのです。埼玉県の自民党だけは,違った民主主義をやるのでしょうかね。こういう方たちが議員をやっていてよいのか,おせっかいかもしれませんが,他県に波及するおそれもあるので,きちんと埼玉県民には判断していただきたいです。今回,おそらく自民党の国会議員からもクレームがあって,取り下げに応じたのでしょうが,この県会議員たちの本質は露呈してしまったと思えます。

2023年8月 9日 (水)

これからの大学

 期末試験も終わり,これからは入試の仕事が少しずつ入ってくる時期になります。入試というと,なんとなく年中行事で,割り当てられた仕事を言われたとおりにこなしている感じですが,ほんとうは大学が何のためのものなのかを,もっと真剣に考えて発信していく必要があるという気もしています。入試というのは,毎年やるべきものなのでしょうか。大学がほんとうに集めたい学生を集め,第一線の研究者によって徹底的に教育をし,年限を設けずに一定のレベルに到達した人に学位を与え,そうして卒業をして欠員が出た時に入試を実施するということにしてはどうでしょうか。ただ,そういうのは,大学ではなく,寺子屋的な私塾でやるべきなのでしょうね。
 一方で,若者のほうも,キャリア意識が変わりつつあり,18歳のときに勝負をかけて大学に入ることに大きな価値を見出すことができなくなりつつあるように思います。現在の大卒資格は,そう遠からず,大きな意味がなくなるでしょう。それでも多くの子どもたちは,大学に入るために塾に行ったり,親も良い大学にいくことを期待したりしています。なんだかんだ言って,大学くらいは出ておかなければねという惰性が蔓延しています。
 実際には,いわゆるFランクと呼ばれる大学だけでなく,多くの大学が,大卒資格を得るためだけの存在であり,それは受験産業に乗せられた親や子どもたちの願いを実現する場にはなりますが,そうした大学で何かを身につけて将来のキャリアに備えることなどできるわけがないのです。そうなると,そうでなくても少子化にともない減ってくる入学者が,いっそう減ってくることになるし,無理に入学者をかき集めても,その後の就職の実績などで良くない評価はすぐに広がります。私立大学の経営は,今後は厳しさがいっそう増し,私学助成金やOBOGたちの愛校心からくる寄付がなければ,続かなくなるでしょう。教員の雇用にも影響が及ぶのは確実です。
 国公立大学も統廃合が進むことになるでしょう。おそらく教育機関としての国公立大学の使命は著しく減少し,研究機関としての生き残りこそ重要となります。最先端の研究ができる環境が用意できているかが生き残りの鍵です。
 法学研究科では,研究の要素がない法科大学院は職業専門学校として大学から完全に切り離すべきでしょう。とくに法科大学院が問題なのは,最高裁判決が絶対という権力秩序のなかに取り込まれ,従来の科目の分類にしばられた試験のための教育が重視されていることです。法科大学院で教育されてしまうと,そのあと知的格闘こそが命である研究者の世界に転身することは容易ではありません(もちろん見事に転身して活躍している人もいるのですが)。いまいちど法学研究者のエネルギーを,法科大学院ではなく,本来の理論教育に振り向け,真の意味での研究者の養成に力を入れなければ,法学の未来は暗いでしょう。法科大学院は実務家教員(あるいは法科大学院修了の研究者教員)に委ねればよいのです(そのほうが教育の効果も高まります)。法科大学院を出ていない人のなかにこそ,法学の未来を切り開く逸材が眠っているような気もします。ずっと前から法学教育の危機は言われているのですが,そろそろ危険水域に来ている気がしています。いま若手研究者のうち,どれだけの人が,しっかりした論文を書いているでしょうか。

2023年7月30日 (日)

幼児期の比較学習

 文部省唱歌の「海」は,「海は広いな,大きいな」で始まりますが,小さな子どもに「広い」や「大きい」はどういうことかを説明するのは難しいです。たとえば3歳の言葉に,海が「大きい」と言うとき,海というものは大きいものであると教えることはできても,「大きい」の定義をしていないので,あまりよい説明になっていません。結局は比較なので,「大きい」自体の定義はできず,何かより「大きい」かどうかが言えるだけなのです。あえて言うなら,海は人間よりも「大きい」し,自分の住んでいる家などより「広い」ということかもしれませんが,でもほんとうはこの歌詞は,そういうことを言っているのではなく,感覚的なものです。比較の視点がない絶対的な広さ,大きさを言っているように思えます。そこがどうも気に入りません。
 「大きい」,「広い」,「多い」,「長い」,「重い」などは,比較して決まることで,絶対的に「大きい」,「広い」などといったものはないということを,子どもたちに教える必要があります。3歳児健診に長短比較というのがあるのも,子どもが物事の相対性を理解しているかを問うものだからだと思っています。
 私の好きなEテレの番組「ピタゴラスイッチ」に出てくる「しめじソート」というのは,いろんな長さのしめじを,順番に並べる方法を教えてくれます。ただ見ているだけでは,しめじの長さの順番をつけるのは簡単ではありませんが,適切な分類をして,11でみていくと,長いか短いかを決めることができ,そういうことをとおして,結果として全体の順番をつけることができます。このソート・アルゴリズムは,長さの本質は比較であるということをわかりやすく示してくれています。すべてを測量して数値化して順序をつけるよりもエレガントなやり方です。測量はデジタルになじむ感じがしますが,測量しないソート・アルゴリズムはアナログ的です。
 測量を学ぶ前の幼児期における未測量での比較の学習は,デジタル化時代に見落とされがちなアナログ的な視点を習得するためにも,とても大事なことだと思います。長短はメジャー(measure)で測定すればわかるよ,なんてことは幼児には安易に教えないほうがよいのです。測定して答えを出すこと(効率的に結果を出せばよいということ)ではなく,長いものと短いものとがあること,でも長いとされているものも,それよりも長いものとの関係では短いものとなることを知ることこそ大切なのでしょう(ついでにいうと,そのアナログ的な世界でも,効率的に答えを出す方法を模索することは大切で,それこそ数学的思考なのであり,それは幼児期を終えたあとの次のステップなのだと思います)。