教育

2022年6月27日 (月)

ムーブレス・スタディ

 「中央教育審議会大学分科会は22日,大学のオンライン授業の単位上限を緩和する文部科学省令改正の骨子案を大筋で了承した」ということのようです(日本経済新聞622日電子版)。現在の60単位の上限を緩和するということには賛成です。
 昨日のムーブレス・ワークの話の延長で,大学教員もどこからでも授業をリアルタイムないしオンデマンドで提供できるようにしてもらい,学生も大学で受講してもよいし,自宅など好きなところで受講してよいということにすればよいのです。学生にとっては「ムーブレス・スタディ」です。
 これからの大学は,学部だけでなく大学院も重要なのであり,18歳以上の人なら誰でも教育資源にアクセスできるようにすることが要請されるでしょう。既存の大学のイメージを壊す必要があります。大学の成績評価では,平常点というようなものもありますが,本来は,出席しようがしまいが,きちんと一定のレベルに到達するかどうかで単位認定をするということでよいと思います。重要なのは,どの先生のどの科目で単位をとったかです。成績が甘い先生の単位は価値がないということが社会の評判として広がると,先生も厳格な評価をするでしょうし,それに応じて学生も勉強するようになるでしょう。オンライン授業の時代は,そういうようになっていかなければなりません。
 一般に,他大学から編入してくる学生について,他大学で修得した単位を,既修得単位と認めるかどうかは,授業内容と教員の名前をみて評価されていると思います。今後ジョブ型が広がり,企業の人事担当者が,当該ジョブについて学生がどのような能力をもっているかをほんとうにみたければ,習得した単位について,シラバス(通常公開されている)をみて,どの教員のどういう授業をとって,どのような成績がついているかまでリサーチしたほうがよいのです。そのためには,教員のことについても,ある程度,情報を得なければなりません。人事担当者も勉強する必要があるということです。従来は,大学での学習は重視されていなかったので,そんな細かいところまでみる必要はなかったのでしょうが。
 将来的には,例えば,教師はオンラインセミナーを開講し,受講生の到達度をテストして,TOEFLのように点数をつけて,その証明書が就職に活用される(流動型社会が想定されています)といったことが出てくるかもしれません。どこの大学を卒業したかよりも,どの先生のどのような授業を聞いてdiplomaをもっているかが重視されるようになるかもしれません。経済学なら○先生,人事管理論なら○先生というように,とくに文系であれば,著名な先生が私塾的なセミナーを開講し,その合格者のdiplomaを発行し,その分野の「品質保証」をするというようなことになるかもしれません。大学卒業資格というのは,あまり意味のない時代がくるでしょう。小さな子どもを抱えている親御さんは気をつけたほうがよいです。

2022年6月21日 (火)

読売クオータリーで紹介されました

 少し前の話になりましたが,読売クオータリー61号(2022春号)の高橋徹さん(調査研究本部主任研究員)が,「コロナ禍で深刻化 労働力不足を克服するには」という論考のなかで,拙著『会社員が消える―働き方の未来図』(文春新書)を採り上げてくださいました。この雑誌のことは,今回初めて知りました。取材はリモートで受けて,会社員が消える展望について,いろいろお話しをしましたが,ここでも最後は,教育の重要性という話になりました。高橋さんの論考では,宮本弘暁さんの「自己開発優遇税制」が興味深く,「社会保障や税制は転職に中立になるように改革すべきだ」というコメントも紹介されています。これも教育に関係しますね。
 労働法において,職業教育を正面から論じた業績は,ほとんどないと思います。職業教育を労働法の枠組みにおいて論じるときは,現在では「キャリア権」というテーマで議論するが定番となっており,日本労働法学会の『講座労働法の再生』(日本評論社)でも,「キャリア権の意義」(第4巻で,両角道代さんが執筆)という項目が採り上げられていました。諏訪康雄先生がこの概念を提唱されて以降,私も含めて,なかなかうまくこの概念を発展させることに成功できていない感じがします。いま必要なのは,企業による職業教育それ自体が,広義の職業教育の一部にすぎず,まさに憲法26条の問題として,政府が広義の職業教育にどうコミットするかを論じていくことです。そういう意味での「職業教育法」は,自営的就労者(フリーワーカー)の時代が来ることにより,いっそう重要性を高めると思います。最近の講演では,いつもそういう話で終わるのですが,問題は,これを具体的にどう政策提言に組み入れていくかです。人的資本への関心が高まっているなか,経済学者や教育学者の方たちとも共同して研究を深めていかなければならないでしょうね。

2022年5月26日 (木)

高校生の前で話す

 今日は神戸大学Dayというイベントで,神戸大学附属中等教育学校に出張講義に行くという仕事をしてきました。対象者は5年生(高校2年生)で,各学部の教員と学生が,それぞれの学部のことを話して,進路選択の判断材料にしてもらおうという企画でした。
 対面型の講義自体が久しぶりで,しかも高校の教室での授業というのは経験がないことで,少し緊張しました。「起立,礼」から始まり,びっくりしましたし,最後には「お礼の言葉」までいただきました。高校生までは,こういう礼儀正しさを教わっているのですね。
 生徒の机が教壇のすぐ近くまであり,これがどうも落ち着かなかったのですが,教室というのものは,こういうものだったのですね。
 「法学を学ぶとはどういうことか」というテーマで話をしましたが,いま思えば,もっと簡単な話をしたほうがよかったのかもしれません。むしろ雑談で話した,これからの雇用社会がどうなるのか,という話のほうが学生には興味があったようです。AIが仕事を奪うなか,どうすればよいか,というような余計なことを話してしまいました。
 ところで,5月24日の日本経済新聞で法学部離れが進んでいるという記事が出ていました。法学部の人気が下がってきているのは,理解できないではありません。法学にはどうしても保守的であるというイメージがあって,現在のような大きな社会の変革があるなかでは,あまり魅力的に映らないのかもしれません。ほんとうは新しい社会のニーズに合致した法的なルールをつくっていくということは知的刺激にあふれた作業なのですが,それは法学の枠組みから離れていくことになります。法学部離れの背景には,こういうことが子どもたちに伝わっているからかもしれません。もしいま私が学部を選択するとすれば,法学部を選択しない可能性が高いでしょう。そう考えると,法学部自身が変わっていかなければならないですし,そもそも法学や経済学といった既存の学部の分類そのものを抜本的に見直して行く必要があるでしょう。私立大学では,一見すると「怪しげな」(何を学べるのかわからないような)名前の学部や研究科が新設されることがありますが,実はそういうところのほうが,これからの社会のニーズに合致した教育を提供してくれる可能性があるのかもしれません。伝統的な学部でないからといって軽視することはできないでしょう。むしろ従来の看板を背負いつづけているほうが,知的怠慢ということになるのかもしれません。
 いずれにせよ,いまの中高生,小学生に話したいことはたくさんあります。今回は,時間も限られていて,しかもミッションがあったので,個人的にはもっと伝えることができたらという気持ちも残りましたが,それでも,とてもよい機会をいただいたと思っています。

2022年5月25日 (水)

天性を発見し,個性的に輝かせる

 これからは定型的作業が機械化され,人間は自らの才覚を発揮していかなければならない,というようなことを言うと,そのような能力がない人はどうすればいいのかという質問を受けます。この質問者の頭には,人々の能力にはある種の序列があって,高い能力をもつ人と低い能力しかもたない人がいるという考え方があるのでしょう。しかし,私は,世の中にある様々な社会課題について,それを解決するための能力というのは多種多様であり,そしてそういう能力を備えている人も多種多様であると考えています。そこには垂直的な序列があるのではなく,水平的な広がりがあるのです。それは小学校のクラスでも,かならず算数が得意な子,歌が上手な子,運動が得意な子,字がきれいな子,手先が器用な子,絵が上手に描ける子などがいて,クラスの種々の活動では,そうした能力をうまく組み合わせて取り組んでいくことができるということを,子どもたちはおそらく実感しているはずです。ところが受験なるものが,そのなかの特定の科目を重要視して評価し,それを社会の序列につなげてしまっていたのです。そもそも学校で教わるのは特定の科目にすぎず,大学入試もその中のさらに特定の科目だけを試験科目として合否判定に利用するのであり,これは非常に偏ったことをやっているのです。センター試験(現在は大学入学共通テスト)のいろんな科目についてまんべんなく総合的に良い点を取れることは,ある時代においては社会に貢献できる能力を測るうえで有用であったのかもしれないですが,これからの社会においては違っています。もっと一つのことに尖っている人が必要なのです。そういう意味で,いつも述べているように,大学入試は根本的に変えなければいけないと思っています。
 要するに,苦手を克服するのではなく,得意を伸ばすことこそ大切なのです。勉強すべきなのは得意分野なのであって,苦手分野は勉強しなくてもいいのです。これは日本人にとってみれば,大きな発想の転換になると思います。 自分の苦手分野が何かを知っておくことは大切ですが,それを必死になって克服しようとしても時間の無駄であることが多いのです。そこでうけた挫折感が,将来の生き方に悪影響を及ぼす可能性もあります。苦手なところはどうやったら他人を利用したり,機械や技術を利用したりすればよいかということを学んだ方がよいのです。例えば,私は英語のヒアリングが得意ではありませんが, 実は日本語のヒアリングも得意ではありません。聴覚検査では出てこないことですけれども,騒音がある場所や小さな声については,聞き取ることが苦手です。歳をとってくるとその弱点が一層はっきりとしてきましたが,若いころからそういう傾向がありました。日本語でさえそうなのだから,外国語がたいへんであることは言うまでもありません。私のような場合,もちろんヒアリング能力を高める訓練をすることは,一定の効果はあるわけですが,時間がかかってしまうのであり,それだったら最初から機械を使うことを考えた方がよい(いまならポケトークなどに頼る)ということになります。これは一例ですが,苦手分野は苦手分野として自分で理解して,それをどう克服するかについては,自分の能力を高めることではなく(その努力に意味があることもあるでしょうが),その時間とエネルギーは,どうそれを別の方法でうまく乗り切るかという観点で実践的なスキルを磨くほうに費やしたほうがよいと思っています。 
  たまたまノーベル賞受賞者の江崎玲於奈博士のWikipedia をみることがあったのですが,そのなかで非常に印象的な言葉がそこで紹介されていました。江崎博士の実際の発言かどうかはわかりませんが,その内容は素晴らしいものです。要点は,人間の能力は,天性という遺伝情報と,環境による育成という遺伝外情報取得の要因で決まるのであり,「天性を見いだし,育成に努める」のが 教育の基本理念である,ということです。自分の「天性」の発見(それは自分のゲノム解読)をして,それが個性的な光彩を放つよう「天性」を最大限生かすように「育成」するのが,教育の目標である,というのです。親や教師だけでなく,これこそが政府の取り組むべき教育の最も重要な目標です。私の考えていたことが,ここに見事に語られると思い感激しました。

2022年5月23日 (月)

スキップされる授業

 いまはテレビ番組は,リアルタイムではなくても動画配信されるので,パソコンなどで,好きな時間にいつでも,適当に再生速度を調整したり,スキップしたりしながら,視聴するというのが普通になってきています。映画はさすがにスキップはしませんが,ときどき再視聴することもあり,そういうときはスキップもします。ということなので,学生のなかには,私のオンデマンド型の授業も,スキップしたり,再生速度を上げたりして視聴しているんだろうなと想像しています。私は,授業が長くなりすぎないように気にしながら話していて,それでも結局,長いものになってしまって学生に詫びたりもしているのですが,学生は私が思っている以上には長さを気にしていないかもしれません。
 学生も忙しいでしょうから,効率的に早まわしで視聴してもらって結構ですが,ただ学生が考えながら聞いていることを前提に話している面もあるので,復習時の倍速やスキップはよいですが,初めて視聴するときに倍速だと,理解が浅くならないかが心配です。ただ,理解しづらいときには,そのときは止めて聴き直せばよいともいえるので,こちらが心配するほどのことではないのかもしれません。こういうように,学生の方で,講義を好きなように,自分にあった方法で視聴できるというのがオンデマンドのよいところです。こうなると,大講義で聴くよりも,こっちのほうがよいということになりそうですね。もちろん学生に完全に自由にさせると,オンデマンドだと,ためこんで後でまとめて視聴しようということになりがちで,結局,試験前に超倍速で視聴しても,よくわからなかったということになりかねないので,私は授業時間割(オンデマンドでも時間割はあるのです)の日にあわせてアップロードし,それから一定期間が経てば視聴できないようにするという方法をとることにしています。
 これまでオンデマンドのときにはビデオオフにしていたのですが,対面型に近いものをということで,今回はビデオオンにしています。学生が目の前にいないので,対面に近いといっても限界があるのですが,要するに,教師の方が学生が面前にいなくても話せるかということのほうが大切で,学生側にとっては,対面であろうが,オンデマンドであろうが,オンライン・リアルタイム型であろうが,それほど差がないし,むしろ学習効果という点では,学生に好きなように対応できるオンデマンド型のほうが高いのではないかという気がします(もちろん科目の内容にもよるのでしょうが)。 
 これがこれからの学習のあり方だとすると,定年後は,どこの大学にも所属しなくても,労働法などのコンテンツを配信するユーチューバーとして頑張るという方法もあるような気がしてきました。そのためには視聴者にスキップされず,じっくり視聴してもらえるような「講義力」を身につけなければなりませんね。私のこれからの課題です。技能訓練は,生涯,続くのでしょうね。

2022年5月20日 (金)

やっぱりオンライン

 昨日は,「ビジネス+IT WEBセミナー」に登場しました。テーマは,「なぜいまテレワークなのか~その将来性と課題~」というもので,私は事前収録した動画の配信という形での参加です。拙著『誰のためのテレワーク?―近未来社会の働き方と法』(明石書店)のエッセンスを40分の講演にまとめました。大学でのオンデマンド型の授業も,同様の事前収録で,最近ではこのパターンにも慣れてきました。録画されているので,最初のころからは,ちょっとでもミスをすれば撮り直したくなるのですが,徐々に言い間違えや救急車の音が入ってきたりなどのことは気にならなくなりました。撮り直しができるというのは危険なことで,A型人間ならなかなか完了しないかもしれませんが,私はそうではないので,踏ん切りを付けることができるようになってきました(途中で声が枯れてあまりにも聞き苦しくなったときは撮り直したことはありましたが)。
 ところで,現時点でのテレワークの普及度はよくわかりませんが,出勤しない働き方は着実に増えていると思います。とくに学校でのオンライン授業がなんだかんだ言って少しずつ広がっており,そのメリットを実感している学生も増えているはずです。今朝のNHKの朝のニュースでは,北海道の地方の高校で,専門の教師がいない科目を,オンライン授業で補っているという話が紹介されていました。実家から離れず,自然豊かなところで,高度な勉強もできるというのは,まさに良いとこ取りであり,ICTの活用により,そういうことが可能となっているのです。今後は種々の教育コンテンツが,ネット配信されるようになり,自分の関心次第で,場所と時間に関係なく学習できるようになるでしょう。
 こういう学生が増えてくれば,企業だって,仕事のために特定の場所に集合させるという発想が時代後れとなる可能性があるのです。テレワークの将来性というのは,様々な点から根拠付けることができますが,オンライン慣れして,そのメリットを実感した「移動しない優秀人材」(正確には,自分の好きなところに住んだり,観光したりするためには移動するが,仕事のためという理由では移動しない人たち)に合わせた就業環境を用意する必要性からも,テレワークへの移行が進むと予想できます。

 

2022年4月30日 (土)

教育の目的

 昨日の話の続きです。自分自身の「優勝」をめざすという話です。
 私自身を振り返っても,若いときには競争社会に巻き込まれていました。そもそも小学校に入学したときから,成績をつけられて,競争せよと言われていたわけです。試験で良い点をとるのは,自分にとっての満足感があるし,親も喜ぶし,周りの人からは尊敬されるし,良いことばかりです。そして,知らぬうちに,良い点を取れない人に対して優越感をもつようになります。しかし例えば私が小学校4年生で到達したことを,誰かが5年生でようやく到達できたとして,その1年の差は大人になったときに,どれだけの違いを生むのでしょうか。50歳くらいになると,無視しえる程度の差でしょう。
 まえにこのブログで,教育における修得主義と履修主義のことを書いたことがあります。修得主義で行こうということです。修得主義を徹底させて,早く進める人はどんどん進んでもらい,そうでない人はゆっくり進んでもらうというのでよいのです。そういうことになると,教師は対応がたいへんとなりそうですが,それを回避するために,AIを使うのです。アダプティブラーニングです。いつも書いている話ですが,いまこの話が重要と思うのは,教師の労働時間が問題となっているからです。
 NHKの番組でも,この問題は採り上げられていました。このままでは教師のなり手がいなくなる危険があります。学校側が労働時間の規制を遵守するのは当然ですが,問題の根幹は,医師の場合と同様に,業務量の多さにあります。これを解決しなければどうしようもありません。教師の仕事をできるだけ軽減し,本来の知的労働中心のものに変えるためには,デジタル技術の活用は不可欠です。介護労働なども同じですが,今後はデジタル技術を活用して業務軽減ができない職場には誰も来なくなるでしょう。アナログ職場の教育現場には良い人材は来なくなります。そうすると教師の質は下がり,意識が高く裕福な家庭は,デジタル対応ができて職場環境が良く優秀な先生が集まってくる一部の学校に子どもを行かせるようになり,教育格差が生まれます。働き方のデジタル対応は,待ったなしの課題です。
 もちろん,より重要なのは,教育内容です。実は修得主義だけでは不十分なのです。これもNHKの番組で,山中伸弥先生が,「VW」の重要性を語っておられました。「VW」は「Vision Work hard」の略です。「Work hard」のメッセージは多少気を付けなければなりませんが,日本人には(幸い?)あまり難しいことではありません。問題は「Vision」です。山中先生にとっては,これは研究における「Vision」なのですが,人生における「Vision」に置き換えることもできます。私は人生のVisionは「社会課題の解決のための貢献」に置き換えることができると思っています。その貢献の仕方は,個人の特性に応じて変わってしかるべきです。教育の目的とは,子どもたちが,どのような方法で,自分なりに社会課題の解決に貢献できるかを探すことの手助けをすることなのです。山中先生の場合は,生命の謎にせまり,いま治すことができない病気も治せるようにすること,というVisionを,30歳くらいのときに見つけたと言われていました。「社会課題の解決のための貢献」というのは大きすぎるVisionなので,それをこのように具体的なVisionにして明確化することが必要です
 この意味の具体的なVisionレベルの探索についてまで,アダプティブラーニングに採り入れていくことが,これからの教育に求められています。教員の問題は,こういう新たな教育に携わることができる人をいかにして探し(あるいは育成し),そうした人に,いかにして意欲をもって教育を取り組んでもらえるかということにあります。教育政策から,教員の人事管理まで,多様な問題がそこには横たわっています。業務量が増えるかもしれませんが,業務の質は大きく変わります。おそらくここでもデジタル技術の活用が重要なポイントとなることでしょう。

2022年3月24日 (木)

情報を学ぶとは

 323日の日本経済新聞に出ていた西垣通さんの「情報教育」に関するインタビューの内容は重要だと思います。
 西垣さんは,情報教育の拡充は望ましいと評価しながらも,「内容がプログラミングなどの理系(工学系)のデータ処理に偏りすぎているのです。職業としてのプログラミングには向き不向きがあります。その能力を国民全員に求めるのは無理です。」と述べ,「もっと根本的なことを教えてほしい。情報社会でいかに生きていくか。そのための基礎的な教養が教えられていない。」と注文をつけています。
 そして,情報の「本質」の正しい理解を強調し,「情報は生命活動から生まれるのです。動物は,敵が来たとか食べ物があるとか,身体と結びついた生命的な情報を交換しながら生きています。動物的本能をもつ赤ちゃんが,話し始める。そうして生まれる社会的な情報を,効率的に伝えるために,機械的なデジタル情報があるのです。」とコメントしています。最後に,「我々が生きている現実の世界をAIなどのデジタル技術で補強すること自体は,とても大事です。高速道路などインフラの老朽化対策や病気の診断にも活用できる。少しずつ慎重に,人間が生きるためのIT社会をつくっていく。そういう道筋をつけるのが,真の情報教育ではないかと思いますね」と述べています。
 情報の重要性は,私も『デジタル変革後の「労働」と「法」―真の働き方改革とは何か―』(日本法令)において,梅棹忠夫の情報論を引用しながら論じています。私は人間の労働の中心が,これからは情報(とくにデジタル情報)のやりとりというタイプのものにシフトしていくと考えています。そして,情報は,人間が生きていくために必要なもので,それを蓄積し,後世に伝えていくのが教育なのです。教育によって伝えられた情報に,新たに個人が価値を付加しながら互いに提供して社会課題の解決に貢献するというのが労働の本質なのです。この意味で,教育と労働は,密接な関係にあります。そうした情報の伝達や蓄積に活用されるのがデジタル技術ですが,これは専門の技術者にならない限り手段的なものにすぎないので,すべての人が同じ程度に学ぶ必要はありません。デジタル技術をどう活用するかは,例えばパソコンの原理を知らなくてもパソコンの使い方を知っていればよいというのと同じです。もちろん,より深く知った方が,より広い活用ができて望ましいのですが,DX時代に誰もが求められる基礎的なデジタル教育と,それ以上の専門的な教育とを適切に振り分けておかなければ,過剰教育をもたらし,他の重要な教育・学習に割く時間が奪われる危険があります。足の遅い人には,足が速くなる方法を教えるよりも,足を使わなくてもやっていける方法を教えたほうがよいのです。デジタルが苦手な人は苦手でよいのです。そういう人もデジタルを活用できるようにすることこそ,デジタル技術の専門家に考えていってもらいたいことで,重要な社会課題の解決となります。
 デジタル技術は,あくまで手段であるということを忘れてはならないわけで,文理融合の「文」は,そうした手段をどういう目的で活用するかの知恵の部分を担当することになるのだと思います。理想は一人の人間が文理を兼ね備えることですが,複数の人間でうまく分業することでもよいでしょう。

2022年3月13日 (日)

子どもたちにかかわりたい?

 ネットニュースで,タレントのつるの剛士さんが,幼稚園免許の取得をしたというのが出ていました。彼が保育士資格をとることをめざしながら,受験資格がなかったというところまでは知っていたのですが,短大にかよって資格をとろうとしていたことまでは知りませんでした。今回短大を卒業し,幼稚園教諭Ⅱ種免許をとり,いよいよ保育士の国家資格をめざすのでしょう。なぜ,このニュースが気になったかというと,それは二つの点からです。一つは,私も定年後の仕事の候補として保育士にチャレンジできないか,ということを少し思ったことがあったからです。筆記試験はいまの記憶力では心もとないですが,頑張ればできるかもと思ったのと,実技試験のほうは,それほど苦手ではないので(音楽と言語。造形は絶対にダメですが),そんなに甘いものではないとわかっていながら,老後のチャレンジの目標にできればと思っていたからです。定年になっても,何かやっていかなければ生活できませんし,できれば同じ教育の世界に携わることも悪くないなと,セカンドキャリアのことを考えていたのです。つるのさんの挑戦はとても励みになりますね。いまはとても勉強の時間はないですが,少なくともピアノの練習だけは仕事の合間をみてやっておきたいです。二つ目は,実は,少し前に読んだ塩谷隆英『21世紀の人と国土―下河辺淳小伝』(商事法務)のなかに,下河辺淳さんが,(本気かどうかわからないのですが)若手からの「もし,生まれ変わったら何になりたいですか」という質問に,「幼稚園の先生になりたい」と答えられた部分を思い出したからです(343頁)。私自身,上記の保育士のことだけでなく,江戸時代の寺子屋のようなことが,老後にできればいいかなと思っていたところでもあったので,下河辺さんの「幼稚園の先生」という答えが記憶に残っていました。
 ところで,この本は,連合総研のお仕事をしたときなどにご一緒したことがある薦田隆成さんからいただいたものです(お礼が遅くなり申し訳ありません)。下河辺さんという立派な大官僚の伝記的な内容で,こういうものは読むと,こちらの小人物ぶりを思い知らされて辛くなるので,なかなか読む気にならずに,本棚に積んでいたのですが,あるとき,なんとなく手に取ってページをめくっているうちに,彼の活躍のすごさに驚きながら,全部読んでしまいました。この本のなかで,とくに印象に残ったのが,2002年に行っていた講演の収録部分です(303頁以下)。公共性を重視するというスタンスで,情報技術にもふれながら,精神復興のことも語られていました。「専門」から「統合」へ,「国家」から「個人」へという重要な問題提起もされていました。私は,社会の構成員である個人が深い教養を身につけて,社会のために何をやれるのかを考える社会,そして,その際には,デジタル技術を十分に活用しながら,それとアナログ的なヒューマンな要素とを融合させていけるような社会を目指さなければならないと思っているのですが,そういう考え方がこの講演にはしっかり詰まっていました。その箇所をスキャナでとってデジタル保存しました(私は大事な書類や文書はデジタル保存しています)。
 下河辺さんは「生まれ変わったら」と言われていましたが,ほんとうはこういう立派な方が,幼稚園や小学校低学年の先生になってもらう必要があるのだと思います。いまも同じかわかりませんが,東京大学の教養課程の「法学」(正式な科目名は忘れました)の授業は,定年直前の先生が担当するという伝統があり,法学部生(教養学部文科1類)が最初に聴く専門科目の授業の一つが,最もシニアの教授の授業なのです。これは大学のことですが,次世代のことを真剣に考えている経験あるシニアが,若い人や子どもの教育に携わるのは,良いことだと思います。

2022年2月16日 (水)

日本の教育が危ない? 日本の教育が危ない?

 215日の日本経済新聞朝刊のインサイドアウトの「学校パソコン,もう返したい 1人1台ばらまき先行,教師なお「紙と鉛筆」」という記事は衝撃的でした。教師が簡単にデジタル対応できないのは予想できていましたが,それでも「GIGAスクール構想」が失敗に終わりそうな現実を目の当たりすると絶望的な気分になってきました。問題意識をもっている親たちは,自分の子を公立学校には行かせたくないと考えるようになるでしょう。子に十分なデジタル教育をしてくれる私立学校や海外の学校へと退避するかもしれません。 現時点のデジタルデバイドに配慮して,低いほうに合わせた教育を継続するのは,格差をつけないようにする優しい政策のようですが,根本的な解決にはならず,いっそう深刻なデジタルデバイドを生んでしまうのです。これは労働政策の面で,労働者の能力開発についての政策を後回しにして,現時点の生産性の低い労働者の賃金を格差是正という理由で引き上げる政策を進めると,よりいっそう格差を固定化するというのと似た面があります。しかも教育のほうは,教師側のデジタルデバイドも原因ということなので,問題はいっそう深刻です。
 現在の子どもたちは,デジタルネイティブです。ゼロ歳児でも,1歳近くになると,スマホやタブレットを触り,適当にスクロールしながら画面を変えていきます。もう少し大きくなると,パスワードも突破してしまいます。ももちろん,昔から赤ちゃんのリモコン好きは有名です。子どもにデジタル機器を触らせないようにしようと思っても,おそらく現代の生活ではそれは不可能に近いことでしょう。まだ言葉を話せなくても,Siriに語りかけたりもします(そうすると,Siri は片言でも聞き取って答えたりもします)。在宅就労が増えて,親が子を膝に乗せてパソコン作業をすることも増えているでしょう。(良いか悪いかはさておき)デジタル環境にどっぷりつかった子どもたちが次々と入園,入学してくるなかで,「紙と鉛筆」しか対応できない教師は,親だけでなく,子との間でもコミュニケーションがとれないでしょう。学校に入ったとたん,途上国レベルの教育ということになっては困ります(実はいま途上国とされている国は,デジタル的にはもっと進んだ教育に取り組んでいるようです)。
 良い教育ができなければ,人材劣化が起こったり,あるいは人材流出が進んだりするので,どっちにしろ日本の将来は大変なことになります。首相をはじめ偉い人たちは,自分たちの孫に対してどのような教育を受けさせたいかということをよく考えて,公教育の改革に真剣に取り組んでもらいたいです。教育委員会の幹部にも,デジタルスキルのある人に加わってもらわなければ困ります。

 

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