教育

2026年8月 6日 (木)

対話によって学ぶということ

  ソクラテス(Socrates)は,自ら文書を残さず,対話を通じて人々に問いを投げかけました。私たちが今日,ソクラテスの思想を知ることができるのは,プラトン(Plato)がその内容を対話篇として書き残したからです。しかし,ここで考えてみたいのは,文書を通じて知恵や情報を伝えることと,その場で対話をしながら知恵を授けることとは,同じなのでしょうか,ということです
 たとえば,プラトンの『ソクラテスの弁明』を読んで深く感銘を受けたとしても,それだけでソクラテスの弟子になったとは言えないでしょう。師弟関係というものは,師が書いたものを読んだというだけで成立するものではありません。対話を重ね,問いを投げかけられ,ときには考えを否定されながら,師の思考の進め方を直接学ぶ。そのような過程を経て初めて,「師から教えを受けた」と言えるのではないかと思います。
  もちろん,書物から学ぶことは大切です。むしろ,本当に教えを受けたいのであれば,まずその人の著書や論文を読み,何を考えているのかを自分なりに理解したうえで,会いに行くのが本来の筋でしょう。私はこれまで,「とりあえず一度会って話を聞きたい」という依頼は,基本的にお断りしてきました。まず書いたものを読んでもらわなければ,対話の出発点すらつくれないからです。
 とはいえ,教育という点でみると,書物だけで完結するものではありません。対面での授業には,言葉の内容だけでなく,間の取り方,表情,声の調子,その場での応答など,文章には残らない多くのものがあります。リモート授業も,物理的には離れていても,相手の反応を見ながら言葉を交わすことができるという点では,一種の対面です。少なくとも,書物を一方的に読むだけの学びとは違います。
  では,対面であれば,しっかり学生に知恵を授けるというようなことはできるかというと,私には自信はあまりありません。自分にもよくわからないことが多いので,少人数授業では,学生と一緒に考えるという形にならざるを得ませんでした。授業方法自体も試行錯誤で,とくに学部の授業は,毎年大きく違います。師がしっかりした知識を授けるというような。古典的な師弟関係と呼べるようなものを,結局,誰とも築けないまま,教師人生を終えることになるのかもしれません。それでも,ソクラテス的な方法で,学生に「自分がいかにわかっていないか」に気づいてもらう教育は,多少なりともできたのではないかと思っています。知識を与えるのではなく,問いによって思考を揺さぶり,自分の理解の不十分さに気づかせるという教育です。こうしたソクラティック・メソッドは,明確な答えや知識をすぐに得たい学生には,あまり向いていないかもしれません。しかし,本当に賢くなりたいのであれば,これほど有効な方法はないと思っています。
 師の思想や考え方を,書物だけでなく,対話を通じて肌感覚で学びたいという関係は,どこか寺子屋的でもあります。大学を定年になった後も,理想的な「師」となれるかはともかく,小さな学びの場を続けることができればと思っています。

2026年5月 8日 (金)

大学の授業

 大学は,今日は「みなし火曜日」,明日は「みなし水曜日」という扱いで,私としては授業が1週間飛ぶことになりました。この時期に1回休みが入るのは,正直かなり助かります。今学期は昨年までとはかなり違った形で授業を行っており,授業準備用の資料も,ほぼ全面的に作り直しているからです。
 法科大学院では,これまでは弘文堂の『ケースブック労働法』を使ってやっていました。現在も,基本的には,判例をベースに授業をする点に変わりはないのですが,私の『最新重要判例200労働法(第9版)』(弘文堂)にある判例を扱うこととし,判決原文は各自読むようにとの指示はしていますが,授業では判例に関するものだけでなく,細かな設問を通して,判例の理解だけでなく,関連知識を深めていくという形式を採っています。ケースブックであると,当該判例の理解に重点が置かれますが,それよりももっと広く理解してもらおうということです。基本的には従来型のソクラティック・メソッドですが,労働法の一般的な知識も対話型でやるという点が新しいところです。『ケースブック労働法』はしばらく改訂されていないため,新しい判例が追加できず,法改正にも対応できていないというところもありましたので,オリジナル編者の一人ではあったのですが,独立させてもらったという感じです。
 学部の授業については,学生のニーズに合った授業とは何かということを,いろいろ考えてきました。私が学生時代に菅野和夫先生から受けた,体系的で理論的な労働法の授業は,本当に素晴らしいものでしたが,現在の学部教育では,そうしたスタイルの授業ではなかなか学生に届きにくい面もあるように感じています。そこで,歴史や現実の問題と結びつけた話に重点を置き,法律の細かな知識はできるだけさらっと流し,将来もっと勉強したいと思ったときのとっかかりになる程度の基礎的な情報を提供するにとどめるよう意識しています。また,今年は初めて期末試験をやめ,レポート形式に変更することにしました(コロナ禍の完全オンラインのときに1度やったことがあります)。定年が近づいているにもかかわらず,いまだに授業スタイルが固まっていないというのは,情けないと言われそうですが,ただ,毎年,自分なりに工夫を続けていると,前向きに受け止めてもらえればありがたいですね。
 大学時代の授業のノートはかなり長く保管していたのですが,引っ越しを重ねるうちに,ほとんど散逸してしまいました。しかし,唯一ずっと持ち続けているのが,菅野先生の授業ノートです。これは私にとって宝物であり,同時に,当時,本当に真剣に勉強していたのだということを再確認させてくれるものでもあります。あの頃は,授業中に先生の話を必死にノートに速記し,家に帰ったあと忘れないうちに清書をし,試験前には少し調べて赤字で補充するという生活をしていました。もっとも,菅野先生の講義は,ほとんど赤字を書き加える必要がないくらい完成度の高いものであり,本来,大学の講義とはこうあるべきなのかもしれません。実際,教員になったばかりの若い頃の私は,そういう授業を目指していたのも事実です。しかし現在の大学では,そうした純粋に理論中心の授業に対するニーズは,以前よりかなり小さくなっているように感じます。もちろん,本当の意味で理論的な勉強をする機会それ自体は,やはり必要でしょうが,それは大学ではなく,むしろ有志の集まった「労働法塾」のようなところで,教えるということになるのかもしれません。大学の起源の一つとされるBologna大学は,本来,そういうものであったのです。

2026年3月25日 (水)

共学は是か

 少子化が進む中,男子校が女子に門戸を開放し,逆に女子校が男子に門戸を開放する例が目立ってきています(周りでは,かつては男子校であった関西学院の中高の共学化しており,かつて非常勤で教えていたこともある神戸松蔭女子学院大学も,つい最近,共学化となりました)。共学化はいろんな事情があるのでしょうが,私自身は,もともと共学支持者でした。男女が別々に学ぶというのは不自然と思っていたからです。
 ところで,儒教の礼記には,「男女七歳にして席を同じうせず」という言葉がありますが,6歳までは性を意識することもなく,男女が同じように過ごしても問題はないが,7歳頃になるとそうはいかなくなる,という意味で理解されることが多いでしょう。この頃の子どもは,いわゆる「センス・オブ・ワンダー(sense of wonder)」に満ちた世界から少しずつ離れ,社会性を身につけ始めます。そして,徐々に異性を意識するようになっていきます。性的な成熟は,さまざまな感受性や純粋さの変化とも結びついているように見えるかもしれません。もっとも,これは人間が単なる動物ではなく,社会的な存在として成熟していく過程であり,避けることのできないものでもあります。そもそも,生物にとって子孫を残すことは重要な役割である以上,こうした変化は自然なものともいえるでしょう。親の立場からすると,この時期に子どもの「純粋さ」が失われていくように感じられ,どこか寂しさを覚えるのも無理はありませんが,見方を変えれば,幼い時期の子どもが示す愛らしさや無垢さは,親から十分な保護と養育を受けるための重要な特性であるともいえます。
 教育の場に話を戻すと,女子校や男子校の存在は,「男女が必ずしも同じ環境で学ばなくてもよい」という一つの考え方を体現しているようにも見えます。他方で,将来の社会では男女がともに働き,生活していく以上,子どもの頃からその環境に慣れておくべきだという意見にも一定の説得力があります。異性に関心を持つようになった後も,長く単一の性別だけの環境に置かれることは,不自然だと感じる人もいるでしょう。その意味で,共学には大きな意義があるともいえます。しかし,本当にそうなのでしょうか。上述のように,私自身,これまで共学に肯定的な立場でしたが,最近では少し考えが変わってきました。社会に出れば男女が交流するのは当然ですが,子どもの発達段階において,常に男女が同じ空間にいる必要があるのかについては,再考の余地があるのではないかと思うようになっています。特に,学習に集中すべき時期においては,男女を分けた教育にも一定の合理性がありうるでしょう。古代ギリシャのスパルタでは,国家が子どもの教育を担い,男性は鍛錬のために,家族からも引き離して育成していました。もちろん,これは目的は違うものではありますが,教育環境の設計について多様な可能性があることを示しています。また,現代社会においても,男女が同じ空間にいることが常に望ましいとは限りません。職場や公共空間においてセクシュアル・ハラスメントが問題となることもあり,男女が混在することの難しさが指摘される場面もあります。このように考えると,異性の目を過度に意識することなく,安心して過ごせる環境を整えること,そして異性との関係はあくまで個人の選択に基づく私的な領域で形成されるべきだとする考え方にも,一定の意味があるのかもしれません。共学と別学のどちらが望ましいかは,一概には決められません。それぞれにメリットと課題があり,子どもの発達段階や教育の目的に応じて,柔軟に考えていく必要があるのでしょう。

2025年9月12日 (金)

教育の質の低下と宇沢理論

 最近,教育の現場に対する信頼が揺らいでいると感じます。学力の低下や教員の過重労働といった構造的な問題に加え,信じがたい事件が報じられることも増えました。たとえば,小学校の男性教員が女子児童を盗撮し,SNSで画像を共有していたという報道は,教育者としての倫理以前に,人間としてのモラルが崩壊しているとしか言いようがありません。このような事件が起きてしまう教育現場に,子どもを安心して預けられるのかと,深い不安を覚えます。
 最近,経済学者・宇沢弘文氏の『社会的共通資本』(岩波新書)を読み直しています。宇沢氏は,教育・医療・環境など,人間が豊かに生きるために不可欠な制度や資源は,市場原理に委ねるべきではなく,専門家集団が公共性と倫理に基づいて運営すべきだと説いています。何を社会的共通資本と捉えるかは人によって異なりますし,私は労働それ自体も含められるのではないかと考えていますが,いずれにせよ教育はまさに社会的共通資本の典型だと思います。
 本来,教育は,人類社会が築いてきた文化と価値の継承であるはずです。しかし,近年の教育の現場では,成果主義的な発想や効率重視の姿勢が強すぎて,教師は,現場の成果管理者のような扱いになってしまっていないでしょうか。その結果,教育の本質が見落とされ,倫理や使命感が後回しにされてしまっているのではないでしょうか。
今回のような教員による性加害事件は,教育の「商品化」がもたらした副作用の一端かもしれません。
 子どもたちの未来を守るために,教育のあり方を根本から問い直す必要があると強く感じます。そしてその問い直しの出発点として,宇沢弘文氏の思想は,教育をどのような公的サービスと位置づけ,そして,そこにどのような人を配置すべきかということを考える際の重要な示唆を与えてくれます。そして,この面でも,AIの活用は重要なポイントとなると思います。人類の文化や価値の継承をAIにゆだねるのは情けないと考える人もいるかもしれませんが,むしろAIを活用して,どう人類の文化や価値を継承するかということを考えていく必要があるのです(AIという魔物をうまく使ってやれ,という気概でしょうかね)。

2025年2月13日 (木)

クリティカル・シンキング

 文部科学省の学習指導要領で,クリティカル・シンキング(批判的思考)の重要性が指摘されています。他人の意見に耳を傾けながらも,それを多様な視点から妥当性や信頼性を検討することの大切さを子どもたちに教えることは,とても重要です。SNS社会において「エコーチェンバー(echo chamber)」現象が起こりがちであり,それが選挙にも影響するという時代になっていることに鑑みると,ますますその教育の必要性は高まっているでしょう。
 その一方で,「エコーチェンバー」などが起こる原因が,その人が論理的思考に欠けるとか,(より端的に)バカだからそうなるということではない点も抑えておく必要があります。これは脳のクセであり,認知バイアスなのです。集団のなかで広がっている意見に同調するのは,人類が進化の過程で身につけてきたものであり,同調しなければ村八分になったりして生きていけなかったということがDNAに刻み込まれているのです。つまり、同調圧力は人類が生き延びる知恵でした。これが、SNSが形成する特殊な閉鎖的環境において行われている点に問題があるのですが,そういう世界に入り込むと脳がある意味で誤作動してしまうのは仕方がないところがあります。だからこそ教育が必要ということなのですが,より根本的には,どうしてエコーチェンバーのようなことが起こるかということも,教える必要があるでしょう。定説はないのかもしれないのですが,認知バイアスというものが人間にはあり,なぜそういうものがあるのかということについて,いろいろなありうる見解を教えるということはやってよいのではないかと思います。
 ところでクリティカル・シンキングを子どもたちに教えるということは,教師の話に対しても,批判的に向き合うべきことを教えるということでもあります。教師は,子どもたちからの批判的な質問にも立ち向かわなければなりません。たとえば,「親の言うことは聞かなければならないと教わってきたので,親の言うことは批判的に聞くなんてできない」と生徒が言ったときに,教師はどう答えるか,ということです。批判的な精神がない人については,幼いときから,親や目上の人の言うことに素直に従う「良い子」であることが多いでしょう。そういう人が実は社会の中枢にいることもあります。「親の言うことは例外です」という答えでよいか,あるいは「親の言うことだって批判的に聞くべきなのです」と答えるのか。クリティカル・シンキングがなぜ必要かは,そうしたこともふまえて,生徒にとって説得力をもった教育しなければならないのでしょう。

 

 

2025年2月 9日 (日)

小学校での英語教育必修化の成果について

 2020年に小学校での英語教育が必修化・教科化がなされました(5年生以上は教科化により成績評価あり)が,その成果についてはあまり良い評判を聞きません。公立学校において,他の科目でも課題はあるかもしれませんが,英語のように新しく必修化・教科化された科目では,特に教育の在り方が問題になっている可能性があります。その一因として,国語や算数とは異なり,親世代の理解や関心にばらつきがあることが考えられます。幼児期に家庭で英語学習の経験がある子と,そうでない子の間には大きな差が生じる可能性があるからです。ひらがなや足し算のような基礎的な学習は,ほとんどの家庭で幼児期から何らかの形で教えられています。しかし,英語についてはそうではありません。そのため,小学校に入学した時点での学習経験の違いが,顕著な差となって表れるのです。言語の習得は時間さえかければ一定のレベルに到達できますが,小学生の特定の時点で比較すると,先行学習の有無が大きな差を生みます。この差を問題視し,全体のレベルを低い基準に合わせようとすれば,すでに一定のレベルに達している子どもの学習意欲を損ない,結果的に平均レベルが低下する可能性があります。また,評価の際にも,妙に進んだ解答をすると✕になるといった困った事態が発生することも懸念されます。
 実際に聞いた話ですが,「Because」の意味を学ぶ授業で,「Because」以下を英語で続けて書いた生徒が,先生から注意されたそうです。Becauseの意味さえ理解できれば十分ということなのかもしれませんが,英語で続けて書くこと自体を誤りとするのは,学習の目的と矛盾しているように思えます。こうした事態が起こる背景には,そもそも小学校の英語教育の目標が明確でないことが挙げられます。「Becauseの意味を理解する」というのは,英語習得という大きな目標の一部分に過ぎません。目標を細かく分断し,個々の小さな課題に固執すると,学習の本来の流れが断絶されてしまいます。これは,マラソンを5キロごとにいったん全員で止まりながら走るようなもので,最終的には最も遅い人のペースに合わせることになってしまいます。この問題の背景には,「競争は悪である」という思想が影響しているのかもしれません。しかし,それ以上に教師側の指導能力の限界が要因となっている可能性もあります。例えば,Becauseの後に英語で文章を書いた生徒に,教師は適切な指導をすることが難しいため,結果として生徒の自由な表現を制限せざるを得ないのかもしれません。AIを活用すれば対応可能でしょうが,現時点では十分に普及していないのが実情です。
 また,自由に「走らせる」と,学習の進度が遅い子が劣等感を抱くという懸念もあるでしょう。特に英語は,幼児期の家庭環境の影響を受けやすいため,学校としては,義務教育の中でその差を容認することに抵抗を感じるのもわからないではありません。しかし,そのために教育の質を下げるのは本末転倒でしょう。
 そもそも,小学校で英語を必修化すること自体に問題があるのではないかとも思います。英語学習は中学からでも十分対応可能であり,しかもAIを活用したアダプティブ・ラーニングを導入して,個々の進度に応じた最適な学習が求められます。もしどうしても小学校で英語を学ばせるというのであれば,アダプティブ・ラーニングの活用は必須でしょう。
 小学校の教師には英語やプログラミングのようなことにエネルギーを使うのではなく,もっと基礎的な教育に力を入れてほしいと考えます。例えば,社会生活の重要性や,人との関わり方といったことは,学校ならではの教育内容です。
 AI時代において,真に充実した人生を送るための教育とは,知識を詰め込み,試験で評価することではありません。大切なのは,子ども一人ひとりの意欲や能力に合った教育を提供し,本人に合った真の意味での実力を身につけてもらうことです。そのために,学校現場でも文部科学省でも,AIの活用を中心に据えながら,より的確な教育手法を開発してもらえればと思います。

2025年2月 6日 (木)

教育無償化に思う

 日本維新の会は,教育無償化を推進する前原誠司共同代表が国会議員のリーダーとなり,この政策を進めようとしています。当面は高校授業料の就学支援金制度の所得制限撤廃と支給上限の引上げが論点となっているようです。大学も含めた高等教育の教育無償化は,一見よそうさな政策ですが,賛否両論がありえます。否定論としては,「高等教育機関に行かなくてもよい人々を過剰に誘導するのではないか」という懸念があります。現代において大切なのは,特定のスキルを磨くことです。高校や大学での総合的な教育よりも,専門学校などで尖ったスキルを身につける方がよいということもあるのです。つまり教育無償化が全ての学生にとって最適であるとは限らず,多様な進路選択を支援する制度こそ求められるといえます。
 一方で,教育無償化は,人的投資という観点から極めて重要です。昨日のBSフジのプライムニュースでは,土地問題について論じられていましたが,評論家の人が,現在の親たちは,子どもに残すべき資産としては,土地などの不動産ではなく,教育であると考える人が増えているのではないかと指摘していました。金銭的なものではなく,子どもが稼得能力を高めたり,豊かな人生を送る可能性を広げたりできる教育への投資こそが,不動産に投資するより重要ということです。日本人の間では土地神話が強いといいますが,それも変わっていくのではないかということでしょう。人口が減少していく日本では,住宅が余り,住宅政策の優先順位が下がっていく可能性があるのです。多くの国民は,効果がでるまでに時間のかかる教育への投資は,ややもすれば後回しにしがちであり(現在バイアス),だからこそ国家が介入する意味があるのです。これからのデジタル時代に対応できる能力格差(デジタル・デバイド)は貧富の差に直結する可能性があり,それを防止することこそ最も優先度が高い政策なのです。
 そうみると,教育無償化の意義は小さくありません。今後は,多様な教育の選択肢を整備しつつ,デジタル社会に適応できる学びを提供することが重要です。とくに重要なのは,AI時代にふさわしい教育システムを構築すること(カリキュラムだけでなく,AIを活用した教育など)であり,それがなければ,無償化の効果もでないということも忘れてはなりません。

2025年2月 3日 (月)

別府大分毎日マラソン

 節分が終わり,立春となりましたが,これから寒い日が到来します。これまでの慣行で,こういう悪い時期に試験をやり続けているのですが,そろそろ変えたらどうですかね。良い季節に試験をやったほうが学生も実力を発揮できてよいでしょう。4月入学の見直しこそ必要です。将来の教育というのは,それを専門とする役所をつくるべきで,そこで思い切った教育改革に臨んでもらいたいものです。いつも同じようなことを言っていますが。
 ところで,昨日の別府大分毎日マラソンは,ずっとみていましたが,見ごたえがありました。優勝したケニア選手(キプチュンバ)はさすがでしたが,青山学院の若林選手の激走には,多くの視聴者がくぎづけになったことでしょう。最後は少し引き離されましたが,わずかな差です。でも彼は競技生活を引退するそうで,これがラストランとしてマラソンを走り,それで初マラソン最高記録(もちろん学生最高記録)の2時間6分7秒を出しました。すばらしい記録です。箱根の5区の激走も印象的でした。もったいないという声もありますが,彼が競技をやめるという気持ちは,理解できるような気がします。おそらく彼は出し切ったのでしょう。それで2時間2分で走ったのならともかく(世界記録は2時間0分35秒),2時間6分です。トップのキプチュンバとはわずかな差であるとはいえ,その差が大きいのです。これからマラソン練習に本格的に取り組んだとしても,2時間2分レベルには到達する可能性は小さいでしょう。記録より勝負ということだとしても,オリンピックとなると,キプチュンバクラスの選手がたくさんいるのです。レースの展開によっては,8位くらいに入ることはできるかもしれませんが,そのためにこれからの生活の大半を練習に捧げるのはもったいないと考えたのではないでしょうか。そして燃え尽きていなければ競技を続けたのかもしれませんが,彼なりにもう十分に達成できたのでしょう。
 ところで,このレースでは,ノーベル賞受賞者の山中伸弥先生も走っていました。62歳で,3時間20分32秒の自己ベスト更新というのは,すごいことです。ただ,なぜ彼が走っているのかというと,どうもそれは,iPS細胞研究所の名誉所長として,「iPS細胞研究基金」をマラソン出場を通じてPRし,その抱える財政的な課題を解決するためのようなのです。日本が世界に誇るiPS細胞について,その研究に対して十分な公的助成がなされていないとするならば,それは嘆かわしいことです。どのような事情があるか詳細はよくわかりませんが,教育や研究のお金をもっと戦略的に使ってもらえないかと思います。それだけでなく,山中先生が(身を削りながら?)走らなければならないというのは,夢のない話であり,若い人たちが研究の道に進むことをためらうことにならないか心配です。

2024年7月31日 (水)

教育機会の平等化

 昨日の日本経済新聞の経済教室で,神戸大学の佐野晋平さんの,「家計支援 どうあるべきか(下) 家庭の教育投資 格差是正を」という記事が出ていました。興味を引いたのは,コロナ禍で休校になったことの学力への影響についての研究をとおして,オンライン教育や学校以外での教育機会の差が重要とされ,「私立に通う子供や,親が高所得・高学歴の家計の子供はコロナ期間中のオンライン教育機会や経験に恵まれている」,「休校以前にオンライン環境が整備されていないと家庭のオンライン学習時間が短くなること」,「休校期間中にスクリーンタイム(画面を見ている時間)は増加したが,それは世帯構成により差がある」という他の研究者の発見を紹介しています。佐野さんは,家計への支援のあり方として,教育バウチャーの活用と公教育の質的な充実を挙げています。
 教育の重要性は労働政策においても注目すべきなのですが,とりわけ公教育が職業教育に果たすべき役割が重要です。「質的な充実」という場合,デジタル時代における教育カリキュラムをいかにして策定するか,そして,そこにおける公教育と自学との役割分担をどうするか(基本的には,自学を支えるための公教育という視点)が政策のポイントとなります。
 自学の中心は,オンラインでの学習であり,それは就学前の幼児から,リスキリングの世代,そして高齢者まで幅広い人たちに関係します。幼児をみても,外国語,ひらがな,カタカナ,算数というような読み書き算盤に始まり,いろんな学習がオンラインで可能であり,親が自分の子どもの能力や興味などに応じて,自由に選択できます。少なくとも教育に関心がある親が,インターネットに接続できる環境にあれば,子どもの学習機会を飛躍的に増やすことができると思います。もちろん,その内容は文科省のチェックを受けたようなものではなく質の保証はありません。親の判断にゆだねられて,それでは心もとないところがあるので,公教育の存在価値があるのです。つまり公教育で幹となる学習をし,プラスアルファの追加部分が任意でなされる自学なのです。かつては,これは学校+塾で,塾に行けない子どもは,その任意の教育機会が限定されていたのですが,いまは,インターネットの発達で,学校外での学習コストがぐんと下がっています。こうみると,大切なのは,だれもがインターネットやパソコンのようなデジタル技術の活用機会を低コストで得られるようにすることで,これはデジタル・デバイド(digital divide)の解消の一側面です。教育面では,教育機会の平等化ということになります。教育だけではありませんが,デジタル技術を安価で使える国民が増えるようにすることが,個人のさまざまな可能性を高めることにつながります。まずは国会議員がみなスマホやパソコンをつかって生活してもらいたいです。そうしなければ,ネットの便利さもリスクもわからないので,政策はいつまで経っても進まず,日本は後進国に沈んでしまいます。いつもの心配ごとの話になってしまいました。

2024年2月21日 (水)

文理融合について思う

 昨日の日本経済新聞の「Deep Insight」に,編集委員の矢野寿彦氏の「『理系か文系か』やめませんか」というタイトルの記事が出ていました。そのなかで,高橋祥子氏が「文理分け」はイノベーションを求める今の社会になじまないと述べたという話が紹介されています。文理を分けるのは,効率的な勉強につながり,外国の文明水準へのキャッチアップをしなければならない時代であればよいとしても,イノベーションが求められる時代であれば,文理の区分は無意味で,かえって思考を既存の学問の枠におしとどめてしまい,有害無益であるということなのでしょう。
 だからこそいまでは,文理融合ということがよく言われます。これまでは,どちらかというと,文科系のほうが理科系にはコンプレックスをもっている傾向があり,理に近づくことに臆病であったような気がします。理科系のほうが,専門技術性が高く,その分だけ障壁が高く,その理解が難しいというイメージがあるからです。しかも,理科系の人は,文科系の人が理解系のものを勉強しようとしない姿勢に厳しい言葉を投げかけることもあります。だから,みんなもっと数学を学ぶべきだというような意見が出てくるのです(この点では経済学部は理科系に近い科目です)。しかし,その逆はどうでしょうか。たとえば,とくに法律のような分野になると,法律のことはよくわからないので,と言う理科系の人はよくいます。謙遜なのかもしれませんが,法律のことを知らなくても仕方ないかな,という態度がみられることもあります。他方で,人によっては法律を過剰に「おそれる」人もいます。遵法意識が高いことはよいのですが,そういう人は,法律を刑法のイメージでとらえている場合が多いように思います。日本人の一般の人の法意識では,法は処罰につながっているのです。しかし,それは法の一部にすぎません(重要な部分ではありますが)。法学の立場からみたときの,バランスのとれた文理融合というのもまた難しそうです。
 いずれにせよ,文か理かに関係なく,自分の得意な分野で専門性を伸ばせばよく,大切なのは,子どものころから,あなたは文科系だから,数学は勉強しなくてよいというようなことを言ったり,逆に理系だから,国語の学習は不要というようなことを言ったりして,その子の可能性を狭めないということでしょう。文理を分けることはやめ,同時に,文理ともに学べというのもやめ,個人が関心のあることを,好きなように極めることが大切ですし,また,そういう人がふと別のことを勉強したくなったときに,いつでもその勉強ができるような環境を用意することが大切です。そう考えると,問題の根源は「文理分け」や文理で分けられた試験にあるではなく,子どものときに,勉強というものを受験のためにやるものと意識づけてしまうことにこそあるといえそうです。