教育

2025年9月12日 (金)

教育の質の低下と宇沢理論

 最近,教育の現場に対する信頼が揺らいでいると感じます。学力の低下や教員の過重労働といった構造的な問題に加え,信じがたい事件が報じられることも増えました。たとえば,小学校の男性教員が女子児童を盗撮し,SNSで画像を共有していたという報道は,教育者としての倫理以前に,人間としてのモラルが崩壊しているとしか言いようがありません。このような事件が起きてしまう教育現場に,子どもを安心して預けられるのかと,深い不安を覚えます。
 最近,経済学者・宇沢弘文氏の『社会的共通資本』(岩波新書)を読み直しています。宇沢氏は,教育・医療・環境など,人間が豊かに生きるために不可欠な制度や資源は,市場原理に委ねるべきではなく,専門家集団が公共性と倫理に基づいて運営すべきだと説いています。何を社会的共通資本と捉えるかは人によって異なりますし,私は労働それ自体も含められるのではないかと考えていますが,いずれにせよ教育はまさに社会的共通資本の典型だと思います。
 本来,教育は,人類社会が築いてきた文化と価値の継承であるはずです。しかし,近年の教育の現場では,成果主義的な発想や効率重視の姿勢が強すぎて,教師は,現場の成果管理者のような扱いになってしまっていないでしょうか。その結果,教育の本質が見落とされ,倫理や使命感が後回しにされてしまっているのではないでしょうか。
今回のような教員による性加害事件は,教育の「商品化」がもたらした副作用の一端かもしれません。
 子どもたちの未来を守るために,教育のあり方を根本から問い直す必要があると強く感じます。そしてその問い直しの出発点として,宇沢弘文氏の思想は,教育をどのような公的サービスと位置づけ,そして,そこにどのような人を配置すべきかということを考える際の重要な示唆を与えてくれます。そして,この面でも,AIの活用は重要なポイントとなると思います。人類の文化や価値の継承をAIにゆだねるのは情けないと考える人もいるかもしれませんが,むしろAIを活用して,どう人類の文化や価値を継承するかということを考えていく必要があるのです(AIという魔物をうまく使ってやれ,という気概でしょうかね)。

2025年2月13日 (木)

クリティカル・シンキング

 文部科学省の学習指導要領で,クリティカル・シンキング(批判的思考)の重要性が指摘されています。他人の意見に耳を傾けながらも,それを多様な視点から妥当性や信頼性を検討することの大切さを子どもたちに教えることは,とても重要です。SNS社会において「エコーチェンバー(echo chamber)」現象が起こりがちであり,それが選挙にも影響するという時代になっていることに鑑みると,ますますその教育の必要性は高まっているでしょう。
 その一方で,「エコーチェンバー」などが起こる原因が,その人が論理的思考に欠けるとか,(より端的に)バカだからそうなるということではない点も抑えておく必要があります。これは脳のクセであり,認知バイアスなのです。集団のなかで広がっている意見に同調するのは,人類が進化の過程で身につけてきたものであり,同調しなければ村八分になったりして生きていけなかったということがDNAに刻み込まれているのです。つまり、同調圧力は人類が生き延びる知恵でした。これが、SNSが形成する特殊な閉鎖的環境において行われている点に問題があるのですが,そういう世界に入り込むと脳がある意味で誤作動してしまうのは仕方がないところがあります。だからこそ教育が必要ということなのですが,より根本的には,どうしてエコーチェンバーのようなことが起こるかということも,教える必要があるでしょう。定説はないのかもしれないのですが,認知バイアスというものが人間にはあり,なぜそういうものがあるのかということについて,いろいろなありうる見解を教えるということはやってよいのではないかと思います。
 ところでクリティカル・シンキングを子どもたちに教えるということは,教師の話に対しても,批判的に向き合うべきことを教えるということでもあります。教師は,子どもたちからの批判的な質問にも立ち向かわなければなりません。たとえば,「親の言うことは聞かなければならないと教わってきたので,親の言うことは批判的に聞くなんてできない」と生徒が言ったときに,教師はどう答えるか,ということです。批判的な精神がない人については,幼いときから,親や目上の人の言うことに素直に従う「良い子」であることが多いでしょう。そういう人が実は社会の中枢にいることもあります。「親の言うことは例外です」という答えでよいか,あるいは「親の言うことだって批判的に聞くべきなのです」と答えるのか。クリティカル・シンキングがなぜ必要かは,そうしたこともふまえて,生徒にとって説得力をもった教育しなければならないのでしょう。

 

 

2025年2月 9日 (日)

小学校での英語教育必修化の成果について

 2020年に小学校での英語教育が必修化・教科化がなされました(5年生以上は教科化により成績評価あり)が,その成果についてはあまり良い評判を聞きません。公立学校において,他の科目でも課題はあるかもしれませんが,英語のように新しく必修化・教科化された科目では,特に教育の在り方が問題になっている可能性があります。その一因として,国語や算数とは異なり,親世代の理解や関心にばらつきがあることが考えられます。幼児期に家庭で英語学習の経験がある子と,そうでない子の間には大きな差が生じる可能性があるからです。ひらがなや足し算のような基礎的な学習は,ほとんどの家庭で幼児期から何らかの形で教えられています。しかし,英語についてはそうではありません。そのため,小学校に入学した時点での学習経験の違いが,顕著な差となって表れるのです。言語の習得は時間さえかければ一定のレベルに到達できますが,小学生の特定の時点で比較すると,先行学習の有無が大きな差を生みます。この差を問題視し,全体のレベルを低い基準に合わせようとすれば,すでに一定のレベルに達している子どもの学習意欲を損ない,結果的に平均レベルが低下する可能性があります。また,評価の際にも,妙に進んだ解答をするとになるといった困った事態が発生することも懸念されます。
 実際に聞いた話ですが,「Because」の意味を学ぶ授業で,「Because」以下を英語で続けて書いた生徒が,先生から注意されたそうです。Becauseの意味さえ理解できれば十分ということなのかもしれませんが,英語で続けて書くこと自体を誤りとするのは,学習の目的と矛盾しているように思えます。こうした事態が起こる背景には,そもそも小学校の英語教育の目標が明確でないことが挙げられます。「Becauseの意味を理解する」というのは,英語習得という大きな目標の一部分に過ぎません。目標を細かく分断し,個々の小さな課題に固執すると,学習の本来の流れが断絶されてしまいます。これは,マラソンを5キロごとにいったん全員で止まりながら走るようなもので,最終的には最も遅い人のペースに合わせることになってしまいます。この問題の背景には,「競争は悪である」という思想が影響しているのかもしれません。しかし,それ以上に教師側の指導能力の限界が要因となっている可能性もあります。例えば,Becauseの後に英語で文章を書いた生徒に,教師は適切な指導をすることが難しいため,結果として生徒の自由な表現を制限せざるを得ないのかもしれません。AIを活用すれば対応可能でしょうが,現時点では十分に普及していないのが実情です。
 また,自由に「走らせる」と,学習の進度が遅い子が劣等感を抱くという懸念もあるでしょう。特に英語は,幼児期の家庭環境の影響を受けやすいため,学校としては,義務教育の中でその差を容認することに抵抗を感じるのもわからないではありません。しかし,そのために教育の質を下げるのは本末転倒でしょう。
 そもそも,小学校で英語を必修化すること自体に問題があるのではないかとも思います。英語学習は中学からでも十分対応可能であり,しかもAIを活用したアダプティブ・ラーニングを導入して,個々の進度に応じた最適な学習が求められます。もしどうしても小学校で英語を学ばせるというのであれば,アダプティブ・ラーニングの活用は必須でしょう。
 小学校の教師には英語やプログラミングのようなことにエネルギーを使うのではなく,もっと基礎的な教育に力を入れてほしいと考えます。例えば,社会生活の重要性や,人との関わり方といったことは,学校ならではの教育内容です。
 AI時代において,真に充実した人生を送るための教育とは,知識を詰め込み,試験で評価することではありません。大切なのは,子ども一人ひとりの意欲や能力に合った教育を提供し,本人に合った真の意味での実力を身につけてもらうことです。そのために,学校現場でも文部科学省でも,AIの活用を中心に据えながら,より的確な教育手法を開発してもらえればと思います。

2025年2月 6日 (木)

教育無償化に思う

 日本維新の会は,教育無償化を推進する前原誠司共同代表が国会議員のリーダーとなり,この政策を進めようとしています。当面は高校授業料の就学支援金制度の所得制限撤廃と支給上限の引上げが論点となっているようです。大学も含めた高等教育の教育無償化は,一見よそうさな政策ですが,賛否両論がありえます。否定論としては,「高等教育機関に行かなくてもよい人々を過剰に誘導するのではないか」という懸念があります。現代において大切なのは,特定のスキルを磨くことです。高校や大学での総合的な教育よりも,専門学校などで尖ったスキルを身につける方がよいということもあるのです。つまり教育無償化が全ての学生にとって最適であるとは限らず,多様な進路選択を支援する制度こそ求められるといえます。
 一方で,教育無償化は,人的投資という観点から極めて重要です。昨日のBSフジのプライムニュースでは,土地問題について論じられていましたが,評論家の人が,現在の親たちは,子どもに残すべき資産としては,土地などの不動産ではなく,教育であると考える人が増えているのではないかと指摘していました。金銭的なものではなく,子どもが稼得能力を高めたり,豊かな人生を送る可能性を広げたりできる教育への投資こそが,不動産に投資するより重要ということです。日本人の間では土地神話が強いといいますが,それも変わっていくのではないかということでしょう。人口が減少していく日本では,住宅が余り,住宅政策の優先順位が下がっていく可能性があるのです。多くの国民は,効果がでるまでに時間のかかる教育への投資は,ややもすれば後回しにしがちであり(現在バイアス),だからこそ国家が介入する意味があるのです。これからのデジタル時代に対応できる能力格差(デジタル・デバイド)は貧富の差に直結する可能性があり,それを防止することこそ最も優先度が高い政策なのです。
 そうみると,教育無償化の意義は小さくありません。今後は,多様な教育の選択肢を整備しつつ,デジタル社会に適応できる学びを提供することが重要です。とくに重要なのは,AI時代にふさわしい教育システムを構築すること(カリキュラムだけでなく,AIを活用した教育など)であり,それがなければ,無償化の効果もでないということも忘れてはなりません。

2025年2月 3日 (月)

別府大分毎日マラソン

 節分が終わり,立春となりましたが,これから寒い日が到来します。これまでの慣行で,こういう悪い時期に試験をやり続けているのですが,そろそろ変えたらどうですかね。良い季節に試験をやったほうが学生も実力を発揮できてよいでしょう。4月入学の見直しこそ必要です。将来の教育というのは,それを専門とする役所をつくるべきで,そこで思い切った教育改革に臨んでもらいたいものです。いつも同じようなことを言っていますが。
 ところで,昨日の別府大分毎日マラソンは,ずっとみていましたが,見ごたえがありました。優勝したケニア選手(キプチュンバ)はさすがでしたが,青山学院の若林選手の激走には,多くの視聴者がくぎづけになったことでしょう。最後は少し引き離されましたが,わずかな差です。でも彼は競技生活を引退するそうで,これがラストランとしてマラソンを走り,それで初マラソン最高記録(もちろん学生最高記録)の2時間67秒を出しました。すばらしい記録です。箱根の5区の激走も印象的でした。もったいないという声もありますが,彼が競技をやめるという気持ちは,理解できるような気がします。おそらく彼は出し切ったのでしょう。それで2時間2分で走ったのならともかく(世界記録は2時間035秒),2時間6分です。トップのキプチュンバとはわずかな差であるとはいえ,その差が大きいのです。これからマラソン練習に本格的に取り組んだとしても,2時間2分レベルには到達する可能性は小さいでしょう。記録より勝負ということだとしても,オリンピックとなると,キプチュンバクラスの選手がたくさんいるのです。レースの展開によっては,8位くらいに入ることはできるかもしれませんが,そのためにこれからの生活の大半を練習に捧げるのはもったいないと考えたのではないでしょうか。そして燃え尽きていなければ競技を続けたのかもしれませんが,彼なりにもう十分に達成できたのでしょう。
 ところで,このレースでは,ノーベル賞受賞者の山中伸弥先生も走っていました。62歳で,3時間2032秒の自己ベスト更新というのは,すごいことです。ただ,なぜ彼が走っているのかというと,どうもそれは,iPS細胞研究所の名誉所長として,「iPS細胞研究基金」をマラソン出場を通じてPRし,その抱える財政的な課題を解決するためのようなのです。日本が世界に誇るiPS細胞について,その研究に対して十分な公的助成がなされていないとするならば,それは嘆かわしいことです。どのような事情があるか詳細はよくわかりませんが,教育や研究のお金をもっと戦略的に使ってもらえないかと思います。それだけでなく,山中先生が(身を削りながら?)走らなければならないというのは,夢のない話であり,若い人たちが研究の道に進むことをためらうことにならないか心配です。

2024年7月31日 (水)

教育機会の平等化

 昨日の日本経済新聞の経済教室で,神戸大学の佐野晋平さんの,「家計支援 どうあるべきか(下) 家庭の教育投資 格差是正を」という記事が出ていました。興味を引いたのは,コロナ禍で休校になったことの学力への影響についての研究をとおして,オンライン教育や学校以外での教育機会の差が重要とされ,「私立に通う子供や,親が高所得・高学歴の家計の子供はコロナ期間中のオンライン教育機会や経験に恵まれている」,「休校以前にオンライン環境が整備されていないと家庭のオンライン学習時間が短くなること」,「休校期間中にスクリーンタイム(画面を見ている時間)は増加したが,それは世帯構成により差がある」という他の研究者の発見を紹介しています。佐野さんは,家計への支援のあり方として,教育バウチャーの活用と公教育の質的な充実を挙げています。
 教育の重要性は労働政策においても注目すべきなのですが,とりわけ公教育が職業教育に果たすべき役割が重要です。「質的な充実」という場合,デジタル時代における教育カリキュラムをいかにして策定するか,そして,そこにおける公教育と自学との役割分担をどうするか(基本的には,自学を支えるための公教育という視点)が政策のポイントとなります。
 自学の中心は,オンラインでの学習であり,それは就学前の幼児から,リスキリングの世代,そして高齢者まで幅広い人たちに関係します。幼児をみても,外国語,ひらがな,カタカナ,算数というような読み書き算盤に始まり,いろんな学習がオンラインで可能であり,親が自分の子どもの能力や興味などに応じて,自由に選択できます。少なくとも教育に関心がある親が,インターネットに接続できる環境にあれば,子どもの学習機会を飛躍的に増やすことができると思います。もちろん,その内容は文科省のチェックを受けたようなものではなく質の保証はありません。親の判断にゆだねられて,それでは心もとないところがあるので,公教育の存在価値があるのです。つまり公教育で幹となる学習をし,プラスアルファの追加部分が任意でなされる自学なのです。かつては,これは学校+塾で,塾に行けない子どもは,その任意の教育機会が限定されていたのですが,いまは,インターネットの発達で,学校外での学習コストがぐんと下がっています。こうみると,大切なのは,だれもがインターネットやパソコンのようなデジタル技術の活用機会を低コストで得られるようにすることで,これはデジタル・デバイド(digital divide)の解消の一側面です。教育面では,教育機会の平等化ということになります。教育だけではありませんが,デジタル技術を安価で使える国民が増えるようにすることが,個人のさまざまな可能性を高めることにつながります。まずは国会議員がみなスマホやパソコンをつかって生活してもらいたいです。そうしなければ,ネットの便利さもリスクもわからないので,政策はいつまで経っても進まず,日本は後進国に沈んでしまいます。いつもの心配ごとの話になってしまいました。

2024年2月21日 (水)

文理融合について思う

 昨日の日本経済新聞の「Deep Insight」に,編集委員の矢野寿彦氏の「『理系か文系かやめませんか」というタイトルの記事が出ていました。そのなかで,高橋祥子氏が「文理分け」はイノベーションを求める今の社会になじまないと述べたという話が紹介されています。文理を分けるのは,効率的な勉強につながり,外国の文明水準へのキャッチアップをしなければならない時代であればよいとしても,イノベーションが求められる時代であれば,文理の区分は無意味で,かえって思考を既存の学問の枠におしとどめてしまい,有害無益であるということなのでしょう。
 だからこそいまでは,文理融合ということがよく言われます。これまでは,どちらかというと,文科系のほうが理科系にはコンプレックスをもっている傾向があり,理に近づくことに臆病であったような気がします。理科系のほうが,専門技術性が高く,その分だけ障壁が高く,その理解が難しいというイメージがあるからです。しかも,理科系の人は,文科系の人が理解系のものを勉強しようとしない姿勢に厳しい言葉を投げかけることもあります。だから,みんなもっと数学を学ぶべきだというような意見が出てくるのです(この点では経済学部は理科系に近い科目です)。しかし,その逆はどうでしょうか。たとえば,とくに法律のような分野になると,法律のことはよくわからないので,と言う理科系の人はよくいます。謙遜なのかもしれませんが,法律のことを知らなくても仕方ないかな,という態度がみられることもあります。他方で,人によっては法律を過剰に「おそれる」人もいます。遵法意識が高いことはよいのですが,そういう人は,法律を刑法のイメージでとらえている場合が多いように思います。日本人の一般の人の法意識では,法は処罰につながっているのです。しかし,それは法の一部にすぎません(重要な部分ではありますが)。法学の立場からみたときの,バランスのとれた文理融合というのもまた難しそうです。
 いずれにせよ,文か理かに関係なく,自分の得意な分野で専門性を伸ばせばよく,大切なのは,子どものころから,あなたは文科系だから,数学は勉強しなくてよいというようなことを言ったり,逆に理系だから,国語の学習は不要というようなことを言ったりして,その子の可能性を狭めないということでしょう。文理を分けることはやめ,同時に,文理ともに学べというのもやめ,個人が関心のあることを,好きなように極めることが大切ですし,また,そういう人がふと別のことを勉強したくなったときに,いつでもその勉強ができるような環境を用意することが大切です。そう考えると,問題の根源は「文理分け」や文理で分けられた試験にあるではなく,子どものときに,勉強というものを受験のためにやるものと意識づけてしまうことにこそあるといえそうです。

2024年1月14日 (日)

AIと大学入試

 昨日から大学入学共通テストが実施されています。知的な作業が,生成AIにより大きく変わりつつあるなか,大学入試で問われる知識について再考していく必要があります。
 子どもを抱えている親は,いずれ自分の子供が同じ試験を受けるところを想像しているかもしれませんが,現在10歳くらいの子どもから下の世代の大学入試の予測はかなり難しいです。大学入試そのものが存在しなくなっているかもしれません。というのは,これからは,AIが個人の学習の到達度をスコア化できるようになるからです。入試をしなくても,本人の能力がわかるのです。各大学は,特定の科目のスコアが高い人を集めるといった形で,差別化を図っていくでしょう。こうしたスコア選抜は,受験に特有の一発勝負の不確実性をなくすこともできます。
 どの科目もそこそこ点数がとれる者が,偏差値の高い国立大学に合格しやすいといった状況は変わっていくでしょう。苦手科目の克服といった苦行もなくなるでしょう。もちろん本人の苦手な科目の学習に意味がないとは言いません。とくに苦手かどうかが主観的ではなく,AIによって客観的に把握できることは意味があります。AIによると苦手とされたけれど,それにあえて挑戦してみようというのは意味がある場合もあります。それにAIを疑うということもありえます。将棋の藤井聡太八冠はAIを活用して勉強していますが,実戦では,AIの評価値を上回る好手を指すこともあるのです。これは藤井八冠だからだともいえますが,AIが万能ではないことの証しでもあります。
 AIは道具であり,それをどう使うかは人間次第です。効率化が必要であれば, AIを使ったほうがよいでしょうし,効率化がそれほど重要でない場合は,あえてAIを使わなくても構いません。では,大学入試はどうか。これはおそらく効率的にすませたほうがよいタイプのことでしょう。若い時期の貴重な時間を有意義に使ったほうがよいからです。このように考える人が増えると,ますますAIの導入が進み,大学入試も廃止される方向に進んでいくでしょう。そもそもAI関連の社会実装に関する予測が,ほぼ当たってきたのは,人間がこの新しい道具への好奇心を抑えられないからだということも忘れてはなりません。

2023年11月19日 (日)

N高

 先日のテレビ東京のカンブリア宮殿でN高とその校長の奥平博一氏のことが採り上げられていました。この学校のことは,前から気になっていましたが,改めて番組を観て,よい学校だなと思いました。大学もつくるということで期待しています。とにかく「教える」ということに限界が感じられるなか,教育の目的は,若者たちの考える力,なにかをしようとする意欲というものなどを,どう喚起し,サポートするかに力点が置かれるべきだと思っています。知識は,何歳になっても,その気になれば学ぶことができます。どうしても必要な知識は学校などで教えておく必要がありますが,学習べきもののなかには,それだけでない部分もたくさんあるのです。
 人間は,共同体社会の一員であり,人とのつながりなしには生きていけません。しかし,それは人為的にできたゲゼルシャフト(Gesellschaft)におけるつながりとは区別する必要があります。ゲゼルシャフトが問題なのは,過剰な組織優位の思想になりがちなところです。労働法の諸問題の多くは,そういうところに起因しています。これまでの学校教育は,意図していたかどうかはともかく,組織で活躍できる従順で,かつ,そこそこ優秀な人材を育てるのに適したものでした。しかし,ほんとうに必要なのは,私たちの住んでいるゲマインシャフト(Gemeinschaft)の共同利益のために貢献できることを自分で考えたり,そのために人々を結集させたり,互いに連携したりできるような人材を育てることなのです。そういう人材こそが私の定義するプロ人材であり,企業としても,これから生き残るためには,そういう人材を集めることができなければいけません。
 N校というのは,そういう人材を育成するのに適した学校として,たいへん期待できると思います。入学者が増えているのも理解できます。もちろんテレビで観た情報だけしかなく,実際の姿を知っているわけではありません。それでも,学校の打ち出しているコンセプトには賛同できます。通信制への偏見を打ち破り,DX時代に適した教育方法として,またテレワークにもつながる教育として,今後の発展に大いに期待したいです。

2023年11月10日 (金)

考える力

 昨日,NHKの朝のニュースで,「夏の甲子園が示したもの 野球が育む『考える力』」で,優勝した慶應義塾高校の練習スタイルが紹介されていました。キャッチボール一つとっても,個人が自身で課題をみつけ,考えながらやっているということで,そんなの当たり前ではないかという気もしますが,おそらくこれまでの高校野球のスタイルからすると超例外的なのでしょう。有力高校になると,監督が君臨してすべての練習メニューを考えて,そのとおりに選手も練習するということのようであり,慶応方式は,それとは対極的に監督は指示せず,選手に考えさせるというのです。別の高校では,練習試合で監督はサインは出さないそうです。選手に考えさせ,そこでの失敗は折りこみ済みで,失敗したあとに反省して考えることが大切だという方針で臨んでいるようです。練習試合が終わった後,「アフターマッチファンクション」という,将棋でいえば感想戦のようなことをやって,対戦したチームと一緒にその日の試合を振り返り,互いに意見を交換するということもしていました。
 高校野球が教育の一環である以上,「野球しかできない」では困るのです。社会人としてやっていけるような人材を育成することができなければ意味がなく,その観点からは,こうした取組みはすばらしいと思いました。
 「考える」というのは,高校野球だけでなく,日本社会全般において,とくに重要なキーワードです。学校では,実は「考えるな」という圧力をずっと受け続け,社会に出てもそれは続きます。大学教員に対しても「考えるな」という圧力があります。研究者は「考えること」が仕事なのですが,そういう仕事をしている者でも,組織というものに所属すると,「考えるな」(黙って従え)と言われることが多いのです。大学ですらそうですから,日本社会において「考えない」というのは,なかば(ネカティブな意味での)日本文化になってしまっているように思います。
 しかしAI時代の到来で「考えない」人間は,機械の下僕になりさがるだけです。社会が大きく変わるなか,常識は一変し,既存の組織も大きく変容します。そこで生き残るために必要なのが「考える力」です。拙著『会社員が消える―働き方の未来図』(2019年,文春新書)では,デジタル社会やAI社会が到来し,人々の生き方や働き方が大きく変わるなか,最後に人間にとって大切なのは「考える」ということだという,ある意味では平凡すぎるのですが,しかし日本社会においてとても重要と思える結論にたどりついています。考えなくてすむのは,社会があまり変動せず,保守的な価値観だけで十分にやっていける時代だけです。激動の時代には,自分たちでこれまでの常識や価値観を疑い,そこから考えていくことがどうしても必要となるのです。
 高校野球のような古い教育方式が濃厚に残っていそうな領域で,個人の考える力を養う教育がなされているのは,とても素晴らしいことです。もし,こういうスタイルが日本中の教育機関に広がっていけば,日本の未来は暗くないと思いました。