教育

2023年1月27日 (金)

学部授業終了

 悪天候の危険があるなか,リモート授業に切り替えようかどうか悩んでいました。勝手にリモートにすると事務に叱られるかもしれないと思う反面(ルールがよく変わり,以前の感覚でやっているとルール違反となってしまうことがあるので,臆病になっているのです),学生みんながリモート希望なら問題ないだろうという気持ちも半分ありながら,結局,完全リモートに切り替えることができず,私と一部の学生は教室にいて,一部の学生がリモート参加のハイブリッドになりました。天気は悪かったですが,それほどひどいことにならなかったので,よかったです。
 今日が最終回でした。報告担当の学生は,AIやロボットでほんとうに人間の雇用がなくなるのか,ということについて,そうではなかろうという具体的な仮説を立て,実例を調べて検証し,結論を出すということをしてくれました。議論のなかでは,AI時代において,人間はどう生きていくのか,というところにまで議論が進み,最終回にふさわしい深い議論ができたと思います。
 また先週は,報告担当の学生が,医師の過重労働が進むなかで,デジタルツインで代替できれば,その解決ができるのではないかという斬新な問題意識の下に,その可能性を探る報告をしてくれました。技術的可能性と倫理的可能性を検討し,結論は否定的なものでした。
 学生たちが,私の『デジタル変革後の「労働」と「法」』(日本法令)を教材として,自由に問題意識をふくらませ,独創的な問題提起をして,今日の報告のように私の見解に批判的な立場からプレゼンを組み立てたりするなどしてくれて,とても楽しく,私にも勉強になる授業であったと思います。
 学生たちには,法学部に入ったことが不利とならないように,法学の知識+広い視野で論理的に議論できる能力を武器に,デジタル時代を生き延びていってもらえればと願っています。

2023年1月24日 (火)

賃金格差の懸念と教育の重要性

 今日は神戸の平野部でも雪が積もりました。寒い日となりましたが,テレビでは東電の電気代値上げのニュースが出ていました。関西電力も時間の問題でしょう。すでに電気代はびっくりするくらい上がっていて,雪が降って寒くても,できるだけ暖房は抑え気味にしたいと思っています。
 春闘が始まり,政府も賃上げの要請をするポーズはとっていますが,中小企業などでは無理なところもあるでしょう。賃上げは,本来,労働市場の需給関係で決まるので,需要が多いデジタル人材は市場メカニズムにより賃金が上がります。スキルが劣り,単純業務しかできない人は供給過剰となりがちなので,賃金は上がらないでしょう。この構造を変えることは,政府が介入しても限界があるでしょう。
 一方で,若者が大企業に入社しても,つまらない仕事ばかりさせられると言って辞めていく例が増えていると,今朝のNHKのニュースが伝えていました。ブルシット・ジョブ(bullshit job)は,大きな問題です。スキルが上がらなければ将来のキャリア展望が開けてこないことがわかっている若者は,大企業に入社して期待しているのは,自分のスキルアップなのです。終身雇用を期待しても,スキルが上がらないまま組織の一員としてやっていくことには不安を感じているのでしょう。だから,できれば汎用性のあるスキルを習得したいと思っています。もっとも企業は,汎用性のあるスキルを習得させると,辞められる可能性があるので,長期雇用を期待する幹部候補の従業員には,下働きから始めさせ,その企業組織の一員としてのしきたりなどを教え込んでいこうとします。ここに企業と若手従業員の期待のミスマッチがあり,結局,若者は辞めていくのでしょう。とはいえ,スキルのない若者は,いったい,どこでスキルの習得をすればよいのかが問題です。賃上げの恩恵に浴するのは,現時点では,大学や高専でスキルを習得できる理系人材か,すでにデジタル関係の仕事をしてきた中堅以上の労働者くらいでしょう。多くの労働者にとっては,自力でスキルを習得していくことが必要となります。しかも政府が目指す流動化政策が進むと,いっそう企業内の技能習得は機能しなくなります。教育投資をしても,回収できる可能性が低いからです。一方,教育しなくても高いスキルをもっている即戦力には,教育費用は不要なので,企業は高い賃金を提示できます。それに他企業との競争という要因から賃金がつり上がる可能性があります。
 教育によるスキルの底上げがうまくいかなければ,すでにスキルをもっている人とそうでない人の格差が大きくなっていくことが予想されます。社会の分断を生みだしかねない危険性があります。正社員と非正社員の格差という図式で物事をみている人も多いのですが,デジタル格差のほうが,はるかに深刻な問題なのです。教育(職業教育)について,政府がとりくむことの重要性はしつこく言い続けていますが,なかなか変わっていません。親は,自分の子どもの数十年後の社会は,いまと全く異なっていることを想定して,政府に頼らずに,子どもの教育に取り組む必要があります。今後は,民間の有志による「寺子屋」的な教育の場が,デジタル時代にふさわしい形で展開していくのではないかと予想し,また期待をしています。

 

 

 

2022年7月31日 (日)

労働事件と数学は相性が悪い?

 労働委員会の仕事で扱う現実の事件は,和解で解決することも多く,そこでは労働法の専門的な知見は,正しい紛争解決の大きな道筋を立てる意味はありますが,実際の紛争の解決には,法的な論理的解決よりも,説得の技法などの心理的な要素が大きいです。和解がうまくいかなかった場合には,命令が出され,さらに取消訴訟などで判決が出ることになりますが,そこでも事実関係を意識した実質的妥当性を追求する解決を模索しており,論理だけに頼っているわけではありません。
 労働法研究者は,労働委員会の委員になって命令を出す仕事をすることがある一方,今度はそうした命令や判例について,判例(命令)評釈という形で分析する仕事もします。そこでは労働法の知見が最も重要となりますが,事実関係からみて,なぜそういう解決に至ったのかという実質的妥当性もみなければ適切な分析にはなりません。これは定性的分析といえます。ただ,ある論点についての判例全般をまとめて研究するとなると,個々の事件の事実関係や結果の実質的妥当性までは細かくみていられなくなり,定性的に分析することはかなり難しくなります。だからといって,定量的な統計分析になじむかというと,そうはいえません。経済学において実証的な判例分析がほとんど行われてこなかったのは,このことに関係しているかもしれません。ただし,労働事件のような紛争一つひとつの個性が大きいものとは違い,紛争がある程度パターン化している法分野であれば,統計的な処理や定量的な分析ができるかもしれません。そういう場合は,データを集めて,AIに学習させることができ,それによって,ある程度の判決予測をできるようになるでしょう。これは文理融合の研究として,ぜひ進めてもらいたいです。
 ところで,ポアン・カレ(Jules-Henri Poincaré)というフランスの有名な数学者の有名な言葉に,「La mathématique est l'art de donner le même nom à des choses différentes.」(数学は,異なるものに同じ名を与える技法である)というものがあります。定量的な分析をとおして,いろいろな出来事の連関性(因果関係など)を明らかにすることができるというのは,数学の本質です。(以下は,私が勝手に話をふくらませたものですが)黄色人種5人,黒人3人,白人4人がいて,合計で12人と算定できるのは,人種の違いを超えて同じ「名」を与えたからです。しかし,異なる人種を同じ「人」というレベルで抽象化することによって,みえなくなるものもありそうです。抽象化は平等という理念に結びつきそうですが,それは形式的な平等であり,実質的な平等とは異なります。数学のもつ形式的な割り切りは,現実の多様性に溺れてしまわずに,現状を的確に捉えるときには必要不可欠ですが,生身の人間の現実の生活からみると,見落とされる部分(たとえば差別の存在)が多いアプローチといえそうです。上記の例でいうと,5+3+4=12 は,左辺から右辺に移ったとたん,世界が変わるということであり,ほんとうに両者はイコールなのかという疑問があるのです。黄色人種と黒人と白人に「同じ名」を与えてよいのか,ということです。
 これと関係したことではないのでしょうが,数学者は,かけ算よりもたし算のほうが難しいと考えているという話が,NHKの望月理論(ABC予想という難問を証明したという望月新一教授の理論)を特集していた番組で出てきました。鍵となるのは素因数分解です。(以下は,私が勝手に解釈しているものですが)例えば4×624という式の場合,それぞれを素因数分解すると,(2×2)×(2×3)=(2×2×2×3) となり,左右両辺は同じものといえます。ところが,同じ数字をたし算した場合,4610 は,左辺は(2×2)と(2×3)で,右辺は102×5)なので,右辺にいくと,左辺の32つの2が消えて,新たに5が増えて,構成要素が大きく変わっています。たし算には,こうした変異が起こるのです。
 黒人3人のグループが4つあるという場合の総人数は,3×412となり,このような構成要素の変異は起きません。ただ,ここでは左辺の「3」と「4」の意味が違っています。「3」はある同質グループの人数で,「4」はグループの数です。たし算のときのような異なるものに「同じ名」を与えているわけではありません。かけ算は,同質グループのものを,そのまま増やしているから,本質には変異が生じず,量的な変化が生じているだけなのです(こうみると,小学校の算数における「かけ算の順序問題」,すなわち乗数と被乗数の順番をまちがえて書くと先生が×をつけるのはおかしいかという問題は,×をつけた先生側に理があることになります)。かけ算は,左辺の被乗数(かけられる数)の選別で,異質のものを排除しているということもできそうです。かけ算には,本質的な変異が起こらず,おさまりがよいのですが,このことが私たちの社会にどのような意味をもっているのかは,よくわかりません(たとえば,右辺が一定の場合,左辺の被乗数が大きくなると,乗数は少なくなり,社会の分断が少ない状況となる,というような捉え方はできるかもしれませんが,これは除法の話でしょうかね)。
 いずれにせよ,子どもたちが算数を習う前に,親たちは,たし算やかけ算とはどういうものかを,自分自身で一度よく考えてみてもよいかもしれません。とはいえ,5+3+4≠12どというと,子どもを混乱させるとして叱られるでしょうが。
 話を元に戻すと,ポアン・カレのいうような数学的技法は,抽象的な思考を要するものであり,こういうことが得意な人は高度な思考も可能となり,世間では優秀といわれるでしょう。具体的な例で示してもらわなければ理解できない人というのは,どことなく頭脳レベルが低い人とみられがちです。しかし,抽象的な思考は,AIが得意とするものであり,それよりは,現実の黄色人種と黒人と白人の違いをみて,それを全部足した数字にどんな意味があるのだというような思考をする人のほうが,これからは重要となるのかもしれません(後者はAIではできないので,人間が比較優位をもっている)。労働事件の解決も,こうした具体的な思考こそが大切なのでしょう。抽象的な思考で臨むと,たいてい和解はうまくいきません。
 数学教育の重要性がよく言われますが,それは実は,数学の限界を教えるというような逆説的な意味でとらえたほうがよいのかもしれません。数学素人の放言ですが。

2022年6月27日 (月)

ムーブレス・スタディ

 「中央教育審議会大学分科会は22日,大学のオンライン授業の単位上限を緩和する文部科学省令改正の骨子案を大筋で了承した」ということのようです(日本経済新聞622日電子版)。現在の60単位の上限を緩和するということには賛成です。
 昨日のムーブレス・ワークの話の延長で,大学教員もどこからでも授業をリアルタイムないしオンデマンドで提供できるようにしてもらい,学生も大学で受講してもよいし,自宅など好きなところで受講してよいということにすればよいのです。学生にとっては「ムーブレス・スタディ」です。
 これからの大学は,学部だけでなく大学院も重要なのであり,18歳以上の人なら誰でも教育資源にアクセスできるようにすることが要請されるでしょう。既存の大学のイメージを壊す必要があります。大学の成績評価では,平常点というようなものもありますが,本来は,出席しようがしまいが,きちんと一定のレベルに到達するかどうかで単位認定をするということでよいと思います。重要なのは,どの先生のどの科目で単位をとったかです。成績が甘い先生の単位は価値がないということが社会の評判として広がると,先生も厳格な評価をするでしょうし,それに応じて学生も勉強するようになるでしょう。オンライン授業の時代は,そういうようになっていかなければなりません。
 一般に,他大学から編入してくる学生について,他大学で修得した単位を,既修得単位と認めるかどうかは,授業内容と教員の名前をみて評価されていると思います。今後ジョブ型が広がり,企業の人事担当者が,当該ジョブについて学生がどのような能力をもっているかをほんとうにみたければ,習得した単位について,シラバス(通常公開されている)をみて,どの教員のどういう授業をとって,どのような成績がついているかまでリサーチしたほうがよいのです。そのためには,教員のことについても,ある程度,情報を得なければなりません。人事担当者も勉強する必要があるということです。従来は,大学での学習は重視されていなかったので,そんな細かいところまでみる必要はなかったのでしょうが。
 将来的には,例えば,教師はオンラインセミナーを開講し,受講生の到達度をテストして,TOEFLのように点数をつけて,その証明書が就職に活用される(流動型社会が想定されています)といったことが出てくるかもしれません。どこの大学を卒業したかよりも,どの先生のどのような授業を聞いてdiplomaをもっているかが重視されるようになるかもしれません。経済学なら○先生,人事管理論なら○先生というように,とくに文系であれば,著名な先生が私塾的なセミナーを開講し,その合格者のdiplomaを発行し,その分野の「品質保証」をするというようなことになるかもしれません。大学卒業資格というのは,あまり意味のない時代がくるでしょう。小さな子どもを抱えている親御さんは気をつけたほうがよいです。

2022年6月21日 (火)

読売クオータリーで紹介されました

 少し前の話になりましたが,読売クオータリー61号(2022春号)の高橋徹さん(調査研究本部主任研究員)が,「コロナ禍で深刻化 労働力不足を克服するには」という論考のなかで,拙著『会社員が消える―働き方の未来図』(文春新書)を採り上げてくださいました。この雑誌のことは,今回初めて知りました。取材はリモートで受けて,会社員が消える展望について,いろいろお話しをしましたが,ここでも最後は,教育の重要性という話になりました。高橋さんの論考では,宮本弘暁さんの「自己開発優遇税制」が興味深く,「社会保障や税制は転職に中立になるように改革すべきだ」というコメントも紹介されています。これも教育に関係しますね。
 労働法において,職業教育を正面から論じた業績は,ほとんどないと思います。職業教育を労働法の枠組みにおいて論じるときは,現在では「キャリア権」というテーマで議論するが定番となっており,日本労働法学会の『講座労働法の再生』(日本評論社)でも,「キャリア権の意義」(第4巻で,両角道代さんが執筆)という項目が採り上げられていました。諏訪康雄先生がこの概念を提唱されて以降,私も含めて,なかなかうまくこの概念を発展させることに成功できていない感じがします。いま必要なのは,企業による職業教育それ自体が,広義の職業教育の一部にすぎず,まさに憲法26条の問題として,政府が広義の職業教育にどうコミットするかを論じていくことです。そういう意味での「職業教育法」は,自営的就労者(フリーワーカー)の時代が来ることにより,いっそう重要性を高めると思います。最近の講演では,いつもそういう話で終わるのですが,問題は,これを具体的にどう政策提言に組み入れていくかです。人的資本への関心が高まっているなか,経済学者や教育学者の方たちとも共同して研究を深めていかなければならないでしょうね。

2022年5月26日 (木)

高校生の前で話す

 今日は神戸大学Dayというイベントで,神戸大学附属中等教育学校に出張講義に行くという仕事をしてきました。対象者は5年生(高校2年生)で,各学部の教員と学生が,それぞれの学部のことを話して,進路選択の判断材料にしてもらおうという企画でした。
 対面型の講義自体が久しぶりで,しかも高校の教室での授業というのは経験がないことで,少し緊張しました。「起立,礼」から始まり,びっくりしましたし,最後には「お礼の言葉」までいただきました。高校生までは,こういう礼儀正しさを教わっているのですね。
 生徒の机が教壇のすぐ近くまであり,これがどうも落ち着かなかったのですが,教室というのものは,こういうものだったのですね。
 「法学を学ぶとはどういうことか」というテーマで話をしましたが,いま思えば,もっと簡単な話をしたほうがよかったのかもしれません。むしろ雑談で話した,これからの雇用社会がどうなるのか,という話のほうが学生には興味があったようです。AIが仕事を奪うなか,どうすればよいか,というような余計なことを話してしまいました。
 ところで,5月24日の日本経済新聞で法学部離れが進んでいるという記事が出ていました。法学部の人気が下がってきているのは,理解できないではありません。法学にはどうしても保守的であるというイメージがあって,現在のような大きな社会の変革があるなかでは,あまり魅力的に映らないのかもしれません。ほんとうは新しい社会のニーズに合致した法的なルールをつくっていくということは知的刺激にあふれた作業なのですが,それは法学の枠組みから離れていくことになります。法学部離れの背景には,こういうことが子どもたちに伝わっているからかもしれません。もしいま私が学部を選択するとすれば,法学部を選択しない可能性が高いでしょう。そう考えると,法学部自身が変わっていかなければならないですし,そもそも法学や経済学といった既存の学部の分類そのものを抜本的に見直して行く必要があるでしょう。私立大学では,一見すると「怪しげな」(何を学べるのかわからないような)名前の学部や研究科が新設されることがありますが,実はそういうところのほうが,これからの社会のニーズに合致した教育を提供してくれる可能性があるのかもしれません。伝統的な学部でないからといって軽視することはできないでしょう。むしろ従来の看板を背負いつづけているほうが,知的怠慢ということになるのかもしれません。
 いずれにせよ,いまの中高生,小学生に話したいことはたくさんあります。今回は,時間も限られていて,しかもミッションがあったので,個人的にはもっと伝えることができたらという気持ちも残りましたが,それでも,とてもよい機会をいただいたと思っています。

2022年5月25日 (水)

天性を発見し,個性的に輝かせる

 これからは定型的作業が機械化され,人間は自らの才覚を発揮していかなければならない,というようなことを言うと,そのような能力がない人はどうすればいいのかという質問を受けます。この質問者の頭には,人々の能力にはある種の序列があって,高い能力をもつ人と低い能力しかもたない人がいるという考え方があるのでしょう。しかし,私は,世の中にある様々な社会課題について,それを解決するための能力というのは多種多様であり,そしてそういう能力を備えている人も多種多様であると考えています。そこには垂直的な序列があるのではなく,水平的な広がりがあるのです。それは小学校のクラスでも,かならず算数が得意な子,歌が上手な子,運動が得意な子,字がきれいな子,手先が器用な子,絵が上手に描ける子などがいて,クラスの種々の活動では,そうした能力をうまく組み合わせて取り組んでいくことができるということを,子どもたちはおそらく実感しているはずです。ところが受験なるものが,そのなかの特定の科目を重要視して評価し,それを社会の序列につなげてしまっていたのです。そもそも学校で教わるのは特定の科目にすぎず,大学入試もその中のさらに特定の科目だけを試験科目として合否判定に利用するのであり,これは非常に偏ったことをやっているのです。センター試験(現在は大学入学共通テスト)のいろんな科目についてまんべんなく総合的に良い点を取れることは,ある時代においては社会に貢献できる能力を測るうえで有用であったのかもしれないですが,これからの社会においては違っています。もっと一つのことに尖っている人が必要なのです。そういう意味で,いつも述べているように,大学入試は根本的に変えなければいけないと思っています。
 要するに,苦手を克服するのではなく,得意を伸ばすことこそ大切なのです。勉強すべきなのは得意分野なのであって,苦手分野は勉強しなくてもいいのです。これは日本人にとってみれば,大きな発想の転換になると思います。 自分の苦手分野が何かを知っておくことは大切ですが,それを必死になって克服しようとしても時間の無駄であることが多いのです。そこでうけた挫折感が,将来の生き方に悪影響を及ぼす可能性もあります。苦手なところはどうやったら他人を利用したり,機械や技術を利用したりすればよいかということを学んだ方がよいのです。例えば,私は英語のヒアリングが得意ではありませんが, 実は日本語のヒアリングも得意ではありません。聴覚検査では出てこないことですけれども,騒音がある場所や小さな声については,聞き取ることが苦手です。歳をとってくるとその弱点が一層はっきりとしてきましたが,若いころからそういう傾向がありました。日本語でさえそうなのだから,外国語がたいへんであることは言うまでもありません。私のような場合,もちろんヒアリング能力を高める訓練をすることは,一定の効果はあるわけですが,時間がかかってしまうのであり,それだったら最初から機械を使うことを考えた方がよい(いまならポケトークなどに頼る)ということになります。これは一例ですが,苦手分野は苦手分野として自分で理解して,それをどう克服するかについては,自分の能力を高めることではなく(その努力に意味があることもあるでしょうが),その時間とエネルギーは,どうそれを別の方法でうまく乗り切るかという観点で実践的なスキルを磨くほうに費やしたほうがよいと思っています。 
  たまたまノーベル賞受賞者の江崎玲於奈博士のWikipedia をみることがあったのですが,そのなかで非常に印象的な言葉がそこで紹介されていました。江崎博士の実際の発言かどうかはわかりませんが,その内容は素晴らしいものです。要点は,人間の能力は,天性という遺伝情報と,環境による育成という遺伝外情報取得の要因で決まるのであり,「天性を見いだし,育成に努める」のが 教育の基本理念である,ということです。自分の「天性」の発見(それは自分のゲノム解読)をして,それが個性的な光彩を放つよう「天性」を最大限生かすように「育成」するのが,教育の目標である,というのです。親や教師だけでなく,これこそが政府の取り組むべき教育の最も重要な目標です。私の考えていたことが,ここに見事に語られると思い感激しました。

2022年5月23日 (月)

スキップされる授業

 いまはテレビ番組は,リアルタイムではなくても動画配信されるので,パソコンなどで,好きな時間にいつでも,適当に再生速度を調整したり,スキップしたりしながら,視聴するというのが普通になってきています。映画はさすがにスキップはしませんが,ときどき再視聴することもあり,そういうときはスキップもします。ということなので,学生のなかには,私のオンデマンド型の授業も,スキップしたり,再生速度を上げたりして視聴しているんだろうなと想像しています。私は,授業が長くなりすぎないように気にしながら話していて,それでも結局,長いものになってしまって学生に詫びたりもしているのですが,学生は私が思っている以上には長さを気にしていないかもしれません。
 学生も忙しいでしょうから,効率的に早まわしで視聴してもらって結構ですが,ただ学生が考えながら聞いていることを前提に話している面もあるので,復習時の倍速やスキップはよいですが,初めて視聴するときに倍速だと,理解が浅くならないかが心配です。ただ,理解しづらいときには,そのときは止めて聴き直せばよいともいえるので,こちらが心配するほどのことではないのかもしれません。こういうように,学生の方で,講義を好きなように,自分にあった方法で視聴できるというのがオンデマンドのよいところです。こうなると,大講義で聴くよりも,こっちのほうがよいということになりそうですね。もちろん学生に完全に自由にさせると,オンデマンドだと,ためこんで後でまとめて視聴しようということになりがちで,結局,試験前に超倍速で視聴しても,よくわからなかったということになりかねないので,私は授業時間割(オンデマンドでも時間割はあるのです)の日にあわせてアップロードし,それから一定期間が経てば視聴できないようにするという方法をとることにしています。
 これまでオンデマンドのときにはビデオオフにしていたのですが,対面型に近いものをということで,今回はビデオオンにしています。学生が目の前にいないので,対面に近いといっても限界があるのですが,要するに,教師の方が学生が面前にいなくても話せるかということのほうが大切で,学生側にとっては,対面であろうが,オンデマンドであろうが,オンライン・リアルタイム型であろうが,それほど差がないし,むしろ学習効果という点では,学生に好きなように対応できるオンデマンド型のほうが高いのではないかという気がします(もちろん科目の内容にもよるのでしょうが)。 
 これがこれからの学習のあり方だとすると,定年後は,どこの大学にも所属しなくても,労働法などのコンテンツを配信するユーチューバーとして頑張るという方法もあるような気がしてきました。そのためには視聴者にスキップされず,じっくり視聴してもらえるような「講義力」を身につけなければなりませんね。私のこれからの課題です。技能訓練は,生涯,続くのでしょうね。

2022年5月20日 (金)

やっぱりオンライン

 昨日は,「ビジネス+IT WEBセミナー」に登場しました。テーマは,「なぜいまテレワークなのか~その将来性と課題~」というもので,私は事前収録した動画の配信という形での参加です。拙著『誰のためのテレワーク?―近未来社会の働き方と法』(明石書店)のエッセンスを40分の講演にまとめました。大学でのオンデマンド型の授業も,同様の事前収録で,最近ではこのパターンにも慣れてきました。録画されているので,最初のころからは,ちょっとでもミスをすれば撮り直したくなるのですが,徐々に言い間違えや救急車の音が入ってきたりなどのことは気にならなくなりました。撮り直しができるというのは危険なことで,A型人間ならなかなか完了しないかもしれませんが,私はそうではないので,踏ん切りを付けることができるようになってきました(途中で声が枯れてあまりにも聞き苦しくなったときは撮り直したことはありましたが)。
 ところで,現時点でのテレワークの普及度はよくわかりませんが,出勤しない働き方は着実に増えていると思います。とくに学校でのオンライン授業がなんだかんだ言って少しずつ広がっており,そのメリットを実感している学生も増えているはずです。今朝のNHKの朝のニュースでは,北海道の地方の高校で,専門の教師がいない科目を,オンライン授業で補っているという話が紹介されていました。実家から離れず,自然豊かなところで,高度な勉強もできるというのは,まさに良いとこ取りであり,ICTの活用により,そういうことが可能となっているのです。今後は種々の教育コンテンツが,ネット配信されるようになり,自分の関心次第で,場所と時間に関係なく学習できるようになるでしょう。
 こういう学生が増えてくれば,企業だって,仕事のために特定の場所に集合させるという発想が時代後れとなる可能性があるのです。テレワークの将来性というのは,様々な点から根拠付けることができますが,オンライン慣れして,そのメリットを実感した「移動しない優秀人材」(正確には,自分の好きなところに住んだり,観光したりするためには移動するが,仕事のためという理由では移動しない人たち)に合わせた就業環境を用意する必要性からも,テレワークへの移行が進むと予想できます。

 

2022年4月30日 (土)

教育の目的

 昨日の話の続きです。自分自身の「優勝」をめざすという話です。
 私自身を振り返っても,若いときには競争社会に巻き込まれていました。そもそも小学校に入学したときから,成績をつけられて,競争せよと言われていたわけです。試験で良い点をとるのは,自分にとっての満足感があるし,親も喜ぶし,周りの人からは尊敬されるし,良いことばかりです。そして,知らぬうちに,良い点を取れない人に対して優越感をもつようになります。しかし例えば私が小学校4年生で到達したことを,誰かが5年生でようやく到達できたとして,その1年の差は大人になったときに,どれだけの違いを生むのでしょうか。50歳くらいになると,無視しえる程度の差でしょう。
 まえにこのブログで,教育における修得主義と履修主義のことを書いたことがあります。修得主義で行こうということです。修得主義を徹底させて,早く進める人はどんどん進んでもらい,そうでない人はゆっくり進んでもらうというのでよいのです。そういうことになると,教師は対応がたいへんとなりそうですが,それを回避するために,AIを使うのです。アダプティブラーニングです。いつも書いている話ですが,いまこの話が重要と思うのは,教師の労働時間が問題となっているからです。
 NHKの番組でも,この問題は採り上げられていました。このままでは教師のなり手がいなくなる危険があります。学校側が労働時間の規制を遵守するのは当然ですが,問題の根幹は,医師の場合と同様に,業務量の多さにあります。これを解決しなければどうしようもありません。教師の仕事をできるだけ軽減し,本来の知的労働中心のものに変えるためには,デジタル技術の活用は不可欠です。介護労働なども同じですが,今後はデジタル技術を活用して業務軽減ができない職場には誰も来なくなるでしょう。アナログ職場の教育現場には良い人材は来なくなります。そうすると教師の質は下がり,意識が高く裕福な家庭は,デジタル対応ができて職場環境が良く優秀な先生が集まってくる一部の学校に子どもを行かせるようになり,教育格差が生まれます。働き方のデジタル対応は,待ったなしの課題です。
 もちろん,より重要なのは,教育内容です。実は修得主義だけでは不十分なのです。これもNHKの番組で,山中伸弥先生が,「VW」の重要性を語っておられました。「VW」は「Vision Work hard」の略です。「Work hard」のメッセージは多少気を付けなければなりませんが,日本人には(幸い?)あまり難しいことではありません。問題は「Vision」です。山中先生にとっては,これは研究における「Vision」なのですが,人生における「Vision」に置き換えることもできます。私は人生のVisionは「社会課題の解決のための貢献」に置き換えることができると思っています。その貢献の仕方は,個人の特性に応じて変わってしかるべきです。教育の目的とは,子どもたちが,どのような方法で,自分なりに社会課題の解決に貢献できるかを探すことの手助けをすることなのです。山中先生の場合は,生命の謎にせまり,いま治すことができない病気も治せるようにすること,というVisionを,30歳くらいのときに見つけたと言われていました。「社会課題の解決のための貢献」というのは大きすぎるVisionなので,それをこのように具体的なVisionにして明確化することが必要です
 この意味の具体的なVisionレベルの探索についてまで,アダプティブラーニングに採り入れていくことが,これからの教育に求められています。教員の問題は,こういう新たな教育に携わることができる人をいかにして探し(あるいは育成し),そうした人に,いかにして意欲をもって教育を取り組んでもらえるかということにあります。教育政策から,教員の人事管理まで,多様な問題がそこには横たわっています。業務量が増えるかもしれませんが,業務の質は大きく変わります。おそらくここでもデジタル技術の活用が重要なポイントとなることでしょう。