あんしん財団事件・最高裁判決
先日の神戸労働法研究会において,同僚の行政法学者の興津征雄さんに,あんしん財団事件・最高裁判決(2024年7月4日判決)についての判例報告をしていただきました。以前にこの事件と類似の争点が問題となった総生会事件でもご報告いただいたことがあり,再登板をお願いしました。労災保険の支給決定について,メリット制の適用をうける特定事業主に支給決定処分の違法性を争う原告適格があるかは,行政事件訴訟法の問題だからです。興津さんの論評は,季刊労働法に掲載される予定ですので,そちらをご覧になってください。
ただ,この問題は,行政法だけで決着がつくものではなく,労働法の観点からの議論も必要となります。私は,この判決には反対ということではないのですが,すっきりしないところが残っています。そのすっきりしなさの原因の一つは,2022年12月に出された厚生労働省の「労働保険徴収法第 12 条第3項の適用事業主の不服の取扱いに関する検討会報告書」です。同報告書は,「労災支給処分に関する特定事業主の不服申立適格等」という項目で,次のように書かれています。
「審査請求人の不服申立適格については,基本的には行政事件訴訟法第9条第1項に規定する「法律上の利益を有する者」と同一と解釈してよく,当該処分により自己の権利若しくは法律上保護された利益を侵害され又は必然的に侵害されるおそれのある者をいう。そして,当該処分を定めた行政法規が,不特定多数者の具体的利益を専ら一般的公益の中に吸収解消させるにとどめず,それが帰属する個々人の個別的利益としてもこれを保護すべきものとする趣旨を含むと解される場合には,このような利益もここにいう法律上保護された利益に当たると解するのが判例の立場である。
行政事件訴訟法第9条第2項では,処分又は裁決の相手方以外の者について前項に規定する法律上の利益の有無を判断するに当たっては処分の根拠法令の趣旨及び目的を考慮する際に,当該法令と目的を共通にする関係法令があるときはその趣旨及び目的を考慮することを裁判所に求めている。
労災支給処分の根拠法規は,労働者の業務上の負傷,疾病,障害又は死亡とい う保険事故の発生を要件として処分がなされるとしており,事業主の保険料に係る経済上の利益に係る要件は見当たらない。
労災保険法の目的は迅速かつ公正な保護により労働者の福祉を増進することにあり,仮に労働保険徴収法が行政事件訴訟法第9条第2項の関係法令に当たるとして,労働保険の事業の効率的な運営を図るという目的を勘案したとしても,特定事業主の保険料に係る経済的な利益を労災保険法に基づく労災支給処分の中で保護していると読み込むことはできないと解される。また,労災支給処分が行われた段階では,未だ被災労働者が発生した事業場の特定事業主において具体的にどのような不利益が発生するのかが明確になっておらず,将来の労働保険料の支払いにおいて不利益が一定程度発生する可能性があるということにとどまるということ,……仮に特定事業主に労災支給処分の不服申立適格等を認めると被災労働者等にとって看過できない重大な不利益が生じる恐れがあること及び……保険料認定処分の不服申立等において労災支給処分の支給要件非該当性を主張することができ,特定事業主にも実効的な手続的保障を図る途があることも,この結論を支持する要素となる。」
この報告書は,あんしん財団事件・高裁判決(2022年11月29日)の結論に正面から異を唱えたものであり,最高裁もその影響を受けたものといえます。厚生労働省が設置した検討会で,たった2回の会合しかなく,しかも2回目の会合ではその間に出された高裁判決(原告適格を肯定)を批判する委員の意見が並べられており,そして開始から2カ月も経たないうちに報告書を仕上げて(1回目の会合が2022年10月26日,2回目の会合が12月7日,報告書が12月13日),原告適格を否定する結論を提示するというのは,行政が最高裁に何らかの影響を及ぼそうとしたとしか思えません。そして,その狙いは十分に成功しました。これが,この判決にすっきりしないものを感じる理由です。
もちろん,労働法の研究者のなかで,事業主の原告適格を否定することに異論がある人は少ないと思います。たしかに,被災労働者にはまず迅速な救済をし,特定事業主の保険料への反映はまた別の手続で検討するということであれば,それで問題はないと言えそうな気がします。しかし,労災保険の支給要件に該当しないにもかかわらずになされる支給は適法ではなく,本来は許されないものでしょう。それでも労働者に有利なものであるので,たとえ事実上の不利益な影響(当該事業主に対するメリット制だけでなく,保険の支出が増えて,全体の保険料に軽微とはいえ影響を与える可能性があります) が事業主に及ぶとしても仕方がないということであれば,これは非常に違和感のある議論です。報告書は,以下にみるように,この点について説明しようとしていますが,支給決定処分が司法によりチェックされないこと自体,行政の無謬性ということを想起させ,いやな感触があります。
もし「迅速」な救済を重視するのであれば,せめて事後の保険料額の決定手続で,支給要件の該当性が否定された場合には,遡って支給決定を取り消すということにしなければおかしいのではないでしょうか(被災労働者のために,既払い額の返還については,上限を設けるというような配慮はあってよいと思いますが)。
報告書では,この点について,「労災保険制度の趣旨に照らすと,一度確定した労災支給処分を事後に取り消すことに伴い被災労働者等に生じる不利益は極めて大きく,他方で,当該労災支給処分は,労災支給処分とは当事者や主張・立証も異なる保険料認定処分の不服申立等においてその支給要件非該当性が判断されたものに過ぎず,被災労働者等の法的地位の安定性の要請に重きをおくべきと考えられる。よって,労災支給処分の支給要件非該当性を理由として裁決又は判決による保険料認定処分の取消しが行われた場合であっても,そのことを理由に労災支給処分を取り消すことはしないという対応をとるのが適当と考えられる。そのように考えても,法律による行政の要請に抵触しないと言える。」と述べています。
「法律による行政の要請に抵触しない」というのは,そういう説明もできるというだけで,堂々とまったく問題はないといえるものではないと思います。
法学全体からみるとマイナーな論点かもしれませんが,労働者,事業主,行政のさまざまな立場の利害が交錯するこの問題は,その理論的な問題点だけでなく,厚生労働省がとった動きや1審から最高裁までの判決の推移も含め,学部ゼミなどで議論をするのに適した素材であるといえそうです。