デジタル技術

2022年8月 3日 (水)

期末試験にデジタルを

 81日は,LSの期末試験でした。授業はリモートでしたが,期末試験は対面型ということで,今学期はじめて学生と対面となりました。とはいえ,学生も私もマスクをしているので,対面といっても,半分くらいという感じです。
 それにしても,いつも思うのですが,90分の試験中,学生はずっと集中しており,それはすごいと思いました。私にはとてもまねができません。法曹になるためには,こういうことができなければダメなのですよね。
 それに手書きです。手書きであれだけの字数書くのは,私には無理です。そもそも最近では自分の名前を書くのも,上手に書けなくて情けなく思っています。
 でも法曹も,いまはみんなパソコンをつかって文章を書いているのでしょうから,試験もキーボードで入力ということにしてよいのではないでしょうか。採点者も読みやすいですしね。大学がパソコンを貸与して,そこに答案を書いてもらって,メールで提出あるいはGoogle Classroom で提出というようなことにすればどうでしょうか。もちろんカンニングの危険はあるのですが,インターネットサイトにアクセスしたことがわかれば一発で退学というような厳罰を科しておけばよいのです。大学教員は,こういう厳罰を科す勇気がないので,不正の予防に力を入れるのですが,そのコストは大きいように思います。ほとんどのLS学生は不正などしないのですから,最低限の予防はして,あとは厳罰というほうが,試験をやるほうも受けるほうもハッピーです。抜き打ちで利用したパソコンのチェックをするということにすればよいのです。これは,(いまはどうか知りませんが)イタリアではバス乗車の際は事前に切符を買うことになっていて,実際に切符をもっているかのチェックはないのです(運転手の仕事は運転するだけ)が,あるとき突然,監視員が乗り込んできて,切符を持っていなければ多額の罰金を払わせるということになっているので,ほとんどの人は正規の切符(あるいは定期券のようなもの)をもっているというのと同じ発想です。試験の時期になると,いつも同じようなことを書いていますが,なかなか世の中は変わりません。
 今日はGEILという学生団体から講演を頼まれて,オンラインで60分話をし,30分は質疑応答でした。これからの労働というようなテーマでの依頼です。事前に質問を出すように頼んだら,よく勉強した良い質問が出てきました。講演のなかでは,学生たちに,思わずデジタル化が進まない社会の硬直性を愚痴ってしまいました。まだ大学1年生の将来有望な彼ら,彼女らに改革を託したい気持ちです。

2022年7月24日 (日)

これからの社会保障への不安

  7月22日の日本経済新聞の経済教室で,八代尚宏先生が「参院選後の岸田政権の課題(下) 高齢化社会の不安払拭急げ」という論考を発表されていました。全世代型社会保障構築会議の中間整理において,年金や医療・介護の費用の膨張にどう対応するかという論点が欠落していることを批判されていました。年金制度は,祖父母が孫からお年玉を取り上げているようなものだとし,高齢者の定義を75歳とすべきだと主張されています。75歳現役社会を前提に,制度設計をし直すべきということで,これは雇用政策にも関係してきます。私はこうした改革は不可避だと考えており,激変緩和は必要ですが,できるだけ早く着手すべきでしょう。高年法の改正で,20214月から70歳までの高年齢者就業確保措置の努力義務が導入されましたが,こうした措置の年齢上限はさらに5歳引き上げることも必要でしょう。しかし,より根本的には,雇用も自営もふまえた75歳までの就業促進策をどう実行するかが重要で,その鍵となるのは,高齢者が持続的に能力を発揮できるようにするためのデジタル技術の活用です。
 年金については,国民年金の保険料を廃止して,年金目的消費税を導入すべきという提言もされています。かつて八田達夫先生は,日本労働研究雑誌605号(2010年)の提言「国民年金は,所得税や消費税で賄うべきか,人頭保険料で賄うべきか」 で,国民年金の保険料は,所得税でまかなうべきという提言をされています。私も消費税よりは所得税のほうがよいと思っています。ただ,八代先生も,「豊かな高齢者から貧しい高齢者への同一世代内の所得再分配を強化し,後世代の負担を減らす工夫も必要だろう」と述べておられており,そうした工夫の一つは,年齢に関係なく,豊かな人から,貧しい「高齢者」への所得再分配が可能な税制の活用ではないかと思っています。
 一方,医療・介護については,財政の問題と同時に,マンパワーの問題もあります。医療人材のことについては,宇沢弘文の社会的共通資本の考え方に賛同するということを何度も述べていますが,それとは別に,ここでもデジタル技術の活用が求められると思います。急速に医療人材や介護人材を増やすことができない以上,いかにしてデジタル技術を活用して,省力化・効率化を図るかがポイントです(これも何度も述べています)。デジタル技術の活用は,高齢化社会への対応にしろ,医療・介護人材の不足への対応にしろ必要不可欠なものであり,政策の基本は,常にここから始まるのです。

2022年7月13日 (水)

侮辱罪の厳罰化への疑問

 

 刑法231条(侮辱罪)の法定刑が引き上げられ,懲役または禁錮,罰金が追加されました。懲役または禁錮は,将来的には,拘禁刑に統合されますが,侮辱罪の改正のほうが先に施行されましたので,当面は懲役または禁錮という刑は残ります(拘禁刑の導入される改正刑法は,公布の日から3年以内の施行とされています)。
 侮辱罪は,事実を摘示せず,公然と人を侮辱する場合に適用されるものであり,侮辱とは,「他人の人格を蔑視する価値判断を表示すること」と解されています。今回の改正の理由は,「近年における公然と人を侮辱する犯罪の実情等に鑑み,侮辱罪の法定刑を引き上げる必要がある」とされていますが,とくにネット上の誹謗中傷への適用を想定したものと言われています。政治家の言動や政策への批判は,侮辱にあたると解すべきではないのですが,それが必ずしも明確ではないことから,懲役刑まであるとなると,政治的言論についての重大な制約となるおそれがあります。ちなみに関西弁のアホは,関東弁のアホとはずいぶんとニュアンスが違うものであり(「探偵ナイトスクープ」の「アホ・バカ分布図」も参照),通常は,少なくとも主観的には侮辱の意味が含まれていませんが,私が政治家をアホ呼ばわりすると,侮辱罪でつかまらないかという心配が出てくるわけです。
 ネット上の誹謗中傷が人権侵害になることがあるのは,よくわかります。それへの対処は必要です。しかし,そのための方法として,法定刑の厳罰化をするというのは,はたして効果的な方法でしょうか。公訴時効の関係もあるのでしょう(従来は1年でしたが,改正後は3年となりました。刑事訴訟法2502項の7号適用犯罪から6号適用犯罪に変わったからです)が,むしろ刑事訴訟法25027号で,軽い犯罪であっても公訴時効が1年というのが短すぎるので,こちらのほうを,たとえば2年に引き上げるというような改正もありえたかもしれません。
 刑罰は劇薬であり,別の目的(上記の政治的な言論に対する弾圧目的)に悪用されることが心配です。著名人の自殺などのショッキングなことがあり,処罰感情が高まっていることは理解できますが,性急な法改正であったような気がします。そもそも,厳罰化によっては,ネット上の誹謗中傷を抑止することはできないでしょう。デジタル時代における個人の人権保護は,デジタル技術を使って図るという,ここでもデジタルファーストの考え方で臨むべきだったのではないでしょうか。たとえば,刑法学者やこの分野に詳しい弁護士に集まってもらって,何が侮辱であるかの具体例をデータ化してAIに学習させ,侮辱に該当する発言をネット上で発信すれば,アラームが出て,それにもかかわらず発信したら処罰可能というようなことはできないでしょうか。アラームが出たときに,すぐに削除すれば許されることにするのですが,このようなソフトなやり方のほうが言論に対する対応としては妥当でないかと思います。

2022年7月 6日 (水)

ユーザーインターフェイス

 630日の日本経済新聞の「私見卓見」でマイナポータルのユーザーインターフェイス(UI)の質の悪さが指摘されていました。政府の提供するアプリは使いにくいことが多いです。なぜそうなのか,ほんとうのところは,よくわかりませんが,おそらくユーザー目線で仕事をしていないことが原因でしょう。お役所仕事という言葉で済まされては困ります。これだけ不満の声が出ているのに改善されないのは,なぜか。上にたつ人に問題意識がない,あるいはやる気がないからではないでしょうか。例えば,いまデジタル大臣って存在感がないですが,何か仕事をしているのでしょうかね。それに政治家は,政府の提供するスマホアプリを使っているのでしょうか。使っていたら少しは違うのではないかと思うのですが。ITを使って生活していない人に,これからの時代の政治をされてはたまったものではありません。
 ただ,おじさん大臣たちが,スマホを使っていないのは,これもUIの問題かもしれません。おじさんたちが使いにくい仕様になっているかもしれないからです。もっとも,偉い人は,自分でスマホを使わなくてもよいから,結局は,UIはあまり気にならないのかもしれませんが,もし自分で全部やるとなると,UIが気になるでしょう。スマホを買って,政府関係のアプリも使ってUIを実感してもらいたいですね。
 スマホアプリのUIでは,目的達成までのステップができるだけ少ないことが重要です。見やすさやボタンの位置の配置なども重要です。父がスマホを断念したのには,いくつかの理由がありますが,それは父側に問題があるというより,UIに問題があったと思います。私は,現在のiPhone でそれほど不満がありませんが,ただそれは慣れているだけで,使いやすいものが出てくれば,とっとと乗り換える気持ちは十分にあります。
 ちなみにパソコンのECサイトは,楽天市場が妙に使いにくいと思うのは私だけでしょうか。情報がゴチャゴチャしていて,Amazonのほうが使いやすいです。でも,これは慣れのせいかもしれません。
 iPhone やAmazonが良いと思えてしまうのは,UIがすぐれているからなのか,それとも,すでに取り込まれてしまっていて,その慣れによるにすぎないのか,ということを冷静に見極めると,もっと快適なユーザー生活ができるのでしょうね。ただ年齢がいってくると,この慣れの要素が重くなって,スイッチングコストが高くなってしまうところが問題なのでしょう(父には,ガラケーから無理にスマホに変えてしまったことを,申し訳なく思っています。結局,いまは固定電話ですが,LINEでのやりとりができなくなってしまいました)。高齢化とデジタル化が進行するなか,高齢化仕様のデジタル機器のUIの質の向上に期待したいです。サービス業者のスイッチも簡単にできるようになれば,なお良しです。

2022年6月19日 (日)

有罪率99.9%の功罪

 一昨日に続いて刑法の話です。司法統計年報(令和2年)によると,地方裁判所で無罪となった事件が72件(総数が47117件なので,無罪率は0.0015です)です。有罪率99.8%です。つまり日本では起訴されるとほぼ100%近く有罪となるとして,カルロス・ゴーン(Carlos Ghosn)やそれに乗った外国人(や日本人)が批判していました。人質司法がどうかはさておき,有罪率が高いことだけをみれば,有罪となるような事案だけが起訴されているからだと考えることは十分可能でしょう。
 ところで日本では,逮捕されても,起訴されないことが多いと言われており(不起訴処分),この点が一昨日に再掲したイタリアの事情とは異なっています。また起訴されて有罪判決となっても,執行猶予がつくことが多いと言われています。冤罪事件もあるのですが,圧倒的多数のケースでは被疑事実がほんとうにあるのであり,ただ,そのときでも,実刑をうけないことが多いという事実のほうが非常に重要だと思えます。日本の刑事司法は,犯罪をしたから処罰をするということだけを考えているのではなく,犯罪の種類によりますが,被疑事実を認め,被害者と示談をしたり,反省していたりするなど,悔い改める姿勢をとっていれば,できるかぎり許そうとしているのでしょう。このような扱いが,実は再犯を防止し,治安の維持につながっているとも言われており,そこは非常に評価すべき点ではないかと思います。ただし,ほんとうに身に覚えのない事実であるために否認している場合もあるのであり(男性諸兄にとっては,痴漢の冤罪がこわいですし,教員であれば,ハラスメントの冤罪がこわいです),そのときに否認しているがゆえに長期的に勾留され,あげくに嘘の自供をさせられるというのは,重大な人権侵害となります。とくに社会的に有名な人が関わる事件で,検察の威信をかけたものとなると,逮捕した以上は,起訴し,有罪にもちこまなければ面子にかかわることになり,そこにひょっとしたら無理が生じて,村木厚子さんのケースのような証拠捏造という恐ろしいことが起きてしまうのかもしれません。最近でも一部上場企業の社長の事件が,起訴されたものの,無罪判決で確定したものがあり,国家賠償事件となっています。
 こういうことが起きてしまうのは,実は,被疑事実を認めない人の圧倒的に多数は,犯罪をおかしているにもかかわらず,それでも自分の罪を認めないというきわめて悪質な人であり,それが99%の範囲の人なのでしょう。しかし,ほぼ100%という数字が,わずかに紛れ込んでいるかもしれない,ほんとうに無実の人の叫びを聞き落としてしまう危険性があり,検察官には,そこをきちんと見極めてほしいのです。検察官が起訴の段階でしっかりスクリーニングしているという信頼が高い日本社会では,起訴だけで社会的信頼は失墜するので,裁判で無罪となっても,そこから信頼回復するのは,普通の人は不可能に近いのです。こうしたことになるのは検察官に高い信頼があるからであり,それだけ検察官には重い責任があるといえます。
 起訴便宜主義には,メリットとデメリットがあると言われています。デメリットの一つは,巨悪を見逃しているのではないかという批判ですが,私は,検察官は,実体法の範囲でやれる限りのことはやっているのではないかと思っています。検察審査会という民主的チェックもあります。むしろ,上記のような治安面でのプラスの効果も考えて,起訴便宜主義を評価しなければならないと思っています。問題は,犯罪者の発言とはいえゴーンの批判が,海外にも大きく報道されて日本は後進的という印象を国際的に植え付けられそうな点です。そうしたことが起こらないように,検察には頑張ってもらいたいところです。
 取調べの可視化は重要ではありますが,それだけでは十分でありません。検察官にも(岸田首相流の?)被疑者の供述の「聴く力」をしっかりもってもらい,同時に供述の嘘を見破るスマートなスキルを身につけてもらえればと思います(嘘の供述を意図的にさせてしまうのは論外です)。
 そして,ここでもAIは活用されるべきではないでしょうか。刑事分野でのAIの活用というと,プロファイリングを活用した容疑者捜しや再犯可能性の予測などが典型的ですが,画像解析による供述の信憑性の判定などにおいても,利用できるでしょう。「デジタルファースト」は刑事司法でも重要な原則ではないかと思います。

 

2022年4月30日 (土)

教育の目的

 昨日の話の続きです。自分自身の「優勝」をめざすという話です。
 私自身を振り返っても,若いときには競争社会に巻き込まれていました。そもそも小学校に入学したときから,成績をつけられて,競争せよと言われていたわけです。試験で良い点をとるのは,自分にとっての満足感があるし,親も喜ぶし,周りの人からは尊敬されるし,良いことばかりです。そして,知らぬうちに,良い点を取れない人に対して優越感をもつようになります。しかし例えば私が小学校4年生で到達したことを,誰かが5年生でようやく到達できたとして,その1年の差は大人になったときに,どれだけの違いを生むのでしょうか。50歳くらいになると,無視しえる程度の差でしょう。
 まえにこのブログで,教育における修得主義と履修主義のことを書いたことがあります。修得主義で行こうということです。修得主義を徹底させて,早く進める人はどんどん進んでもらい,そうでない人はゆっくり進んでもらうというのでよいのです。そういうことになると,教師は対応がたいへんとなりそうですが,それを回避するために,AIを使うのです。アダプティブラーニングです。いつも書いている話ですが,いまこの話が重要と思うのは,教師の労働時間が問題となっているからです。
 NHKの番組でも,この問題は採り上げられていました。このままでは教師のなり手がいなくなる危険があります。学校側が労働時間の規制を遵守するのは当然ですが,問題の根幹は,医師の場合と同様に,業務量の多さにあります。これを解決しなければどうしようもありません。教師の仕事をできるだけ軽減し,本来の知的労働中心のものに変えるためには,デジタル技術の活用は不可欠です。介護労働なども同じですが,今後はデジタル技術を活用して業務軽減ができない職場には誰も来なくなるでしょう。アナログ職場の教育現場には良い人材は来なくなります。そうすると教師の質は下がり,意識が高く裕福な家庭は,デジタル対応ができて職場環境が良く優秀な先生が集まってくる一部の学校に子どもを行かせるようになり,教育格差が生まれます。働き方のデジタル対応は,待ったなしの課題です。
 もちろん,より重要なのは,教育内容です。実は修得主義だけでは不十分なのです。これもNHKの番組で,山中伸弥先生が,「VW」の重要性を語っておられました。「VW」は「Vision Work hard」の略です。「Work hard」のメッセージは多少気を付けなければなりませんが,日本人には(幸い?)あまり難しいことではありません。問題は「Vision」です。山中先生にとっては,これは研究における「Vision」なのですが,人生における「Vision」に置き換えることもできます。私は人生のVisionは「社会課題の解決のための貢献」に置き換えることができると思っています。その貢献の仕方は,個人の特性に応じて変わってしかるべきです。教育の目的とは,子どもたちが,どのような方法で,自分なりに社会課題の解決に貢献できるかを探すことの手助けをすることなのです。山中先生の場合は,生命の謎にせまり,いま治すことができない病気も治せるようにすること,というVisionを,30歳くらいのときに見つけたと言われていました。「社会課題の解決のための貢献」というのは大きすぎるVisionなので,それをこのように具体的なVisionにして明確化することが必要です
 この意味の具体的なVisionレベルの探索についてまで,アダプティブラーニングに採り入れていくことが,これからの教育に求められています。教員の問題は,こういう新たな教育に携わることができる人をいかにして探し(あるいは育成し),そうした人に,いかにして意欲をもって教育を取り組んでもらえるかということにあります。教育政策から,教員の人事管理まで,多様な問題がそこには横たわっています。業務量が増えるかもしれませんが,業務の質は大きく変わります。おそらくここでもデジタル技術の活用が重要なポイントとなることでしょう。

2022年4月27日 (水)

感謝されない日本

 日本経済新聞の電子版で「ウクライナ政府がツイッターに投稿した各国の支援に感謝を示す動画に日本への言及がなかったことがわかった。」という記事が出ていました。武器支援をしていない国は,感謝対象から除外されたようです。後から追加で「感謝」されたようですが,武器を提供しない支援など,やっている国の自己満足程度のもので,やられたほうはさほどは感謝していないのでしょう。命が危険にさらされ,祖国滅亡危機にあるともいえるわけですから,武器支援国こそ感謝の対象となるのは,わからないではありません。日本のほうも,他人に感謝してもらうためにやっているわけではないから,別に感謝されるかどうかは関係ないと格好つけたいところでもあります。ただ,国民の税金を使ってウクライナ支援をしているのですから,感謝されていないとなると,あまり意味のない支援にお金を無駄に使っているのではないかという疑問が出てきます。なぜ感謝されないような支援をしているのか。ウクライナは,そもそもアメリカの議会で真珠湾攻撃発言をしたり,昭和天皇とヒトラーと同列にしてみたり,日本に十分に配慮をしているとは思えません。基本的には利害関係がないので,うまく支援をもらえれば有り難いという程度の国に思われている可能性もあります。近くにいない外国というのは,その程度のものかもしれず,それがとくに問題とは思えません。日本も,ウクライナ支援は,ウクライナへの同情もありますが,国益にかなうからやっているという冷徹な計算があると思います。それでもいいのですが,感謝対象国から外されてしまうのは,世界に日本のプレゼンスの小ささを露呈してしまったことにはなっていないでしょうか。これではかえって国益を損ないます。もっとお金を有効に使う必要があります。
 ところで日本に来たウクライナ人の不満として,英語が通じないことがある,ということが報道されていました。これはウクライナ人にかぎらず,日本に来た外国人が共通して言うことです。私たちが,昔タイに行ったときに不安に感じたのは,英語が通じないことでした。外国に行って通じる言葉がないというのは不安なものです。現在,日本人のなかにウクライナ語を学ぼうという人が出てきているようで,やりたい人はやってもらってよいのですが,ウクライナ人の支援にはつながらないでしょう。ウクライナの人が求めているのは,おそらくサバイバルするのに必要なコミュニケーションであり,現在なら,ポケトークなどの翻訳機械を提供するほうが,よほど意味があるのではないかと思います。デジタル技術がここでも課題解決のために最優先されるべきなのです。
 意味のある支援,感謝される支援とは何か。自分たちの自己満足で行動していると,善意の押し売りになってしまいます。国民の善意の行動は止められませんが,政府レベルは,よく考えて行動してもらいたいです。とりあえず何かやればよいというのは,安倍政権で終わりにしてもらいたいです。

2022年3月24日 (木)

情報を学ぶとは

 323日の日本経済新聞に出ていた西垣通さんの「情報教育」に関するインタビューの内容は重要だと思います。
 西垣さんは,情報教育の拡充は望ましいと評価しながらも,「内容がプログラミングなどの理系(工学系)のデータ処理に偏りすぎているのです。職業としてのプログラミングには向き不向きがあります。その能力を国民全員に求めるのは無理です。」と述べ,「もっと根本的なことを教えてほしい。情報社会でいかに生きていくか。そのための基礎的な教養が教えられていない。」と注文をつけています。
 そして,情報の「本質」の正しい理解を強調し,「情報は生命活動から生まれるのです。動物は,敵が来たとか食べ物があるとか,身体と結びついた生命的な情報を交換しながら生きています。動物的本能をもつ赤ちゃんが,話し始める。そうして生まれる社会的な情報を,効率的に伝えるために,機械的なデジタル情報があるのです。」とコメントしています。最後に,「我々が生きている現実の世界をAIなどのデジタル技術で補強すること自体は,とても大事です。高速道路などインフラの老朽化対策や病気の診断にも活用できる。少しずつ慎重に,人間が生きるためのIT社会をつくっていく。そういう道筋をつけるのが,真の情報教育ではないかと思いますね」と述べています。
 情報の重要性は,私も『デジタル変革後の「労働」と「法」―真の働き方改革とは何か―』(日本法令)において,梅棹忠夫の情報論を引用しながら論じています。私は人間の労働の中心が,これからは情報(とくにデジタル情報)のやりとりというタイプのものにシフトしていくと考えています。そして,情報は,人間が生きていくために必要なもので,それを蓄積し,後世に伝えていくのが教育なのです。教育によって伝えられた情報に,新たに個人が価値を付加しながら互いに提供して社会課題の解決に貢献するというのが労働の本質なのです。この意味で,教育と労働は,密接な関係にあります。そうした情報の伝達や蓄積に活用されるのがデジタル技術ですが,これは専門の技術者にならない限り手段的なものにすぎないので,すべての人が同じ程度に学ぶ必要はありません。デジタル技術をどう活用するかは,例えばパソコンの原理を知らなくてもパソコンの使い方を知っていればよいというのと同じです。もちろん,より深く知った方が,より広い活用ができて望ましいのですが,DX時代に誰もが求められる基礎的なデジタル教育と,それ以上の専門的な教育とを適切に振り分けておかなければ,過剰教育をもたらし,他の重要な教育・学習に割く時間が奪われる危険があります。足の遅い人には,足が速くなる方法を教えるよりも,足を使わなくてもやっていける方法を教えたほうがよいのです。デジタルが苦手な人は苦手でよいのです。そういう人もデジタルを活用できるようにすることこそ,デジタル技術の専門家に考えていってもらいたいことで,重要な社会課題の解決となります。
 デジタル技術は,あくまで手段であるということを忘れてはならないわけで,文理融合の「文」は,そうした手段をどういう目的で活用するかの知恵の部分を担当することになるのだと思います。理想は一人の人間が文理を兼ね備えることですが,複数の人間でうまく分業することでもよいでしょう。

2022年3月19日 (土)

技能承継とデジタル技術

 3月17日の日本経済新聞の朝刊の「DX TREND」に,「中小企業で遅れていたデジタル化による経営革新が動き出した。染色加工の艶金(岐阜県大垣市)は品質検査で過去2000件分の熟練社員のノウハウを分析し,人工知能(AI)が若手を指導するシステムを開発」という記事が出ていました。
 これは,DX関係で私がよくやっている話であり,大きく言えば,熟練労働者の技能も,デジタル化(AIに学習させることなど)により,技能承継が容易になるということです。このことは,二つの意味があります。一つは,「匠の技」の後継者がもしいなくても,その技は引き継がれるということです。この点は,拙著『誰のためのテレワーク?―近未来社会の働き方と法』(明石書店)においても採り上げています(139頁以下)。テレワークとなると技能承継が難しくなるのではないかという企業側の不安に対して,そもそも技能承継のあり方が変わるので,テレワークであるということのデメリットは減少するということを書いています。このほかにもICTの発達のなか,ARの技術などを活用することによって,遠隔地であっても熟練労働者からのサポートを受けることができやすくなるという話もあり,これは熟練労働者が減る中で,なんとか効率的に技能承継しようという文脈で出てくる話です(この点は,拙著『デジタル変革後の「労働」と「法」―真の働き方改革とは何か?』(日本法令)233頁以下も参照)。
 その一方で,承継技能の容易化は,人間の熟練を要する仕事であっても機械によって代替できてしまうことを意味しており,いわゆる「AIが仕事を奪う」という話につながります。人手不足になっても大丈夫ということは,当初はAIやロボットが人間を補完してくれるから大丈夫という意味なのですが,ゆくゆくはAIやロボットが人間を代替するということになるのです。
 この種の話は,すでに起きていたことですが,日本企業での実例が少なかったことから,私のような法律家が語っても,リアリティをもって受け止められていなかったのですが,実例が今後は増えていくであろうし,そうなると世間の受け止め方も違ってくるでしょう。5~6年前に言っていたような銀行のリアル店舗がなくなる(ATMや窓口がなくなる)という話も,当初は相手にされていなかったのが,いまは誰もがそうなるだろうねと考えているのと同じです。
  私の本には,『君の働き方に未来はあるか?』(光文社新書),『会社員が消える―働き方の未来図』(文春新書),上記の『誰のためのテレワーク?―近未来社会の働き方と法』のように,タイトルやサブタイトルに「未来」という言葉が入っているものがありますが,そこで語った未来は,ほとんど実現してきています。それは偶然ではなく,デジタル技術を活用してすでになされていることは,必ず数年後には一般化するという「法則」のようなものがあるからです。あとは,そのスピードの問題です。
 先日の学内のある研究会でも議論したのですが,個人のキャリアは,デジタル技術の発達を見据えたものでなければなりません。ほんとうの競争相手は機械です。まさにエリック・ブリニョルフソン= アンドリュー・マカフィ『機械との競争』の世界なのです。そしてこの機械との競争は,正面から行うのではなく,いかにしてデジタルとアナログを組み合わせるかというデジアナ・バランス指向(つまり機械との共生)が,この競争に勝ち抜くために必要な発想だと思っています。
 いずれにせよ,記事が採り上げている,AIが若手を指導するという話の背景には,着実にAIが人間の仕事の領域を深く浸透してきているという現実があることを,私たちは気づいておかなければなりません。

 

2022年3月 4日 (金)

ワクチン接種

 3回目のワクチン接種券が届きました。大学で再来週に職域接種となります。すでに2回モデルナを打っているので,つぎはファイザーをといきたいところですが,ファイザーは不足しているそうなので,素直に職域接種のモデルナにすることにしました。それにしても接種券は紙で送られてきて,予診票も紙に記入ということで困ったものです。いつもの愚痴ですが,接種券が入っている封書にはいろいろと紙が入っているのですが,そこに書かれている情報の大半は,メールで所定のサイトのURLを送ってもらって,そこに情報をアップしていてくればすむことで,また予診票に相当するものも,所定のサイトの画面に入力すれば情報が接種会場に渡るというようなことにしておいてもらえれば助かるのですが。送る自治体のほうも,私たち市民も,また接種をする側の医療機関(私の場合は大学)も大変なのです。みんな我慢して乗り切ってしまうので,いつまで経ってもデジタル化が進まないのですよね。
 先日,父のワクチン接種について,近くのかかりつけ医ではワクチンが足りないので予約できないと言われて,仕方がないので,少し遠方のところにまで連れていき接種してもらってきました。やっと初回です。父のかかりつけ医が,父が高齢なので,副反応もあることから,あまり接種を積極的に勧めていなかった(むしろ消極的であった)こともあり,この時期でようやく1回目となりました。本人の感染や副反応のリスクよりも,接種していなければ,周りの人に不安を与え,人間関係が困るであろうということで,本人を説得して連れていきました。父の場合,自力歩行ができないので,移動がたいへんですし,副反応も心配なので,近くのかかりつけ医でと思っていたのですが,そうはいきませんでした。しかも2回目は初回と同じところでなければならないということで,また3週間後に連れていかなければなりません。その日は私のワクチン3回目接種と同じ日なので,もし私が接種で調子がわるくなれば,父の2回目はキャンセルになってしまいます。事前に日程を調整しておけばよかったのですが,うまく予定がつきませんでした。ワクチンがもっとたくさんあって,近くでいつでも簡単に打てるということであればよいのですが,そうではないために窮屈な日程調整をしなければなりません。しかも接種券やら予診票やら紙を持ち歩かなければならないのも面倒です。
 こういう不満は小さなものなのでしょうが,私たちは日常のこうした,なんか気が利かないことが多いなという感じを抱くことをとおして,政府や行政への不満をつのらせていくのです。みんな大変なんだから,我慢しなければいけないというと,日本人はそうだとすぐ考えてしまいがちですが,我慢は進歩を止めてしまい,次の世代の人にさせなくてもよい我慢を引き渡してしまうことになりかねません。少なくとも簡単に使えるデジタル技術を使わないがための非効率については,我慢をせずにもっと文句を言ってよいのではないでしょうかね。