デジタル技術

2024年9月16日 (月)

所得税の源泉徴収廃止提案について考える

 河野太郎氏が国民全員に確定申告を義務づけ,源泉徴収を廃止する提案をして話題になっています。現在,源泉徴収されている会社員が全員確定申告を行うようになると,税務職員の負担が増すという反対意見もありますが,全員がe-Taxを利用すれば,負担はそれほど増えないのではないかと思います(マイナンバーカードも,もっと広がるでしょう。返納したような軽率な人は後悔しているのではないでしょうか)。むしろ,気にすべきことは,現在の制度における企業の負担です。年末調整の事務料は半端ではないでしょう。今年の定額減税でも,大変だったのではないでしょうか。
 納税者の負担も指摘されていますが,これまで確定申告をしてこなかった普通の会社員であれば,申告はシンプルに行えるはずです。慣れれば,パソコン上で15分ほどで終わると思います。私のように原稿料などの雑所得がある場合は,それを手作業で入力する必要がありますが,手元に源泉徴収票があれば,時間はそれほどかかりません。私はパソコンで申告していますが,スマホを使えばもっと簡単にできるかもしれません(実際には試したことがないので何とも言えませんが)。
 
副業が一般化し,フリーランスになることが増えると予想されるなか,若者は今から確定申告に慣れておいたほうがよいでしょう。確定申告を導入すると,未納者が増えることが懸念されていますが,これは国のサービスを受けるためには税金を支払うことが当然であるという教育を子供のころからしっかり行うことで改善を図るべきことがらです(ちなみに自民党の裏金問題は,所得税の未納問題に関係しています。日本という国のことをほんとうに考える保守政治家であれば,自身の納税がクリアにすることは最低限の義務でしょう)。
 確定申告すると,自分たちの払った税金がどう使われるかに対する意識も向上するはずです。所得控除や税額控除の項目については,その背景にどのような政策的意図があるかを探るのも勉強になるでしょう。政治への関心も高まり,そうなると民主主義の活性化につながるかもしれません。
 もちろん,将来的には,納税が自動的に行われ,確定申告も不要となる時代が来るかもしれません。これについては,費用の控除は自動化できないという意見もありますが,AIが自動的に算定し,異議がある人だけが申告するという方法も考えられます。現在でも,給与所得控除において概算的な費用計算が行われているため,費用計算の自動化はそれほど突飛な発想ではないと思いますが,いかがでしょうか。

2024年7月31日 (水)

教育機会の平等化

 昨日の日本経済新聞の経済教室で,神戸大学の佐野晋平さんの,「家計支援 どうあるべきか(下) 家庭の教育投資 格差是正を」という記事が出ていました。興味を引いたのは,コロナ禍で休校になったことの学力への影響についての研究をとおして,オンライン教育や学校以外での教育機会の差が重要とされ,「私立に通う子供や,親が高所得・高学歴の家計の子供はコロナ期間中のオンライン教育機会や経験に恵まれている」,「休校以前にオンライン環境が整備されていないと家庭のオンライン学習時間が短くなること」,「休校期間中にスクリーンタイム(画面を見ている時間)は増加したが,それは世帯構成により差がある」という他の研究者の発見を紹介しています。佐野さんは,家計への支援のあり方として,教育バウチャーの活用と公教育の質的な充実を挙げています。
 教育の重要性は労働政策においても注目すべきなのですが,とりわけ公教育が職業教育に果たすべき役割が重要です。「質的な充実」という場合,デジタル時代における教育カリキュラムをいかにして策定するか,そして,そこにおける公教育と自学との役割分担をどうするか(基本的には,自学を支えるための公教育という視点)が政策のポイントとなります。
 自学の中心は,オンラインでの学習であり,それは就学前の幼児から,リスキリングの世代,そして高齢者まで幅広い人たちに関係します。幼児をみても,外国語,ひらがな,カタカナ,算数というような読み書き算盤に始まり,いろんな学習がオンラインで可能であり,親が自分の子どもの能力や興味などに応じて,自由に選択できます。少なくとも教育に関心がある親が,インターネットに接続できる環境にあれば,子どもの学習機会を飛躍的に増やすことができると思います。もちろん,その内容は文科省のチェックを受けたようなものではなく質の保証はありません。親の判断にゆだねられて,それでは心もとないところがあるので,公教育の存在価値があるのです。つまり公教育で幹となる学習をし,プラスアルファの追加部分が任意でなされる自学なのです。かつては,これは学校+塾で,塾に行けない子どもは,その任意の教育機会が限定されていたのですが,いまは,インターネットの発達で,学校外での学習コストがぐんと下がっています。こうみると,大切なのは,だれもがインターネットやパソコンのようなデジタル技術の活用機会を低コストで得られるようにすることで,これはデジタル・デバイド(digital divide)の解消の一側面です。教育面では,教育機会の平等化ということになります。教育だけではありませんが,デジタル技術を安価で使える国民が増えるようにすることが,個人のさまざまな可能性を高めることにつながります。まずは国会議員がみなスマホやパソコンをつかって生活してもらいたいです。そうしなければ,ネットの便利さもリスクもわからないので,政策はいつまで経っても進まず,日本は後進国に沈んでしまいます。いつもの心配ごとの話になってしまいました。

2024年7月23日 (火)

JR東海の社会的使命とその果たし方

 昨日,愛知県で起きた事故により,大混乱が生じました。日本の大動脈といえる東海道新幹線のど真ん中で事故が起きると,たった1日だけでも大きな影響が生じます。新幹線の重要性を改めて知ることになりました。

 ちょうど昨日は,大学院で,JR東海事件の年休に関する東京高等裁判所の判決(2024228日)を扱ったところでした。私も連載中の「キーワードからみた労働法」の「第201回 年次有給休暇における企業の配慮義務」のなかで,この事件の第1審判決を扱っていましたので,控訴審には関心をもっていました。控訴審判決は,会社側の逆転勝訴となっています。年次有給休暇の取得において,時季変更権の行使時期が遅すぎて,年休が取得できるかどうかが直前までわからないことへの不満があり,また恒常的な要員不足がある状況で,はたして会社は時季変更権を適法に行使できるのか,といった点が問題となったのですが,裁判所は,前者との関係では,「使用者が、事業の正常な運営を妨げる事由の存否を判断するのに必要な合理的期間を超えて,不当に遅延して行った時季変更権の行使については,労働者の円滑な年休取得を合理的な理由なく妨げるものとして信義則違反又は権利濫用により無効になる余地があるものと解される」とし,「使用者の無効な時季変更権の行使によって労働者が年休を取得できなかった場合,使用者は労働者に対し,労働契約上の債務不履行責任を負うことになる」という一般論を述べたうえで,このケースでは,東海道新幹線の運行という事業の性格やその内容,東海道新幹線の乗務員としての業務の性質、時季変更権行使の必要性、労働者側の不利益等を考慮すると,「勤務日の5日前に時季変更権を行使したことについては,事業の正常な運営を妨げる事由の存否を判断するのに必要な合理的期間を超えてされたものということはできない」としました。また,後者については,「使用者による時季変更権の行使は,他の時季に年休を与える可能性が存在していることが前提となっているものと解されることを踏まえると,使用者が恒常的な要員不足状態に陥っており,常時,代替要員の確保が困難な状況にある場合には,たとえ労働者が年休を取得することにより事業の運営に支障が生じるとしても,それは労基法395項ただし書にいう『事業の正常な運営を妨げる場合』に当たらず,そのような使用者による時季変更権の行使は許されないものと解するのが相当である」という重要な一般論を述べたうえで,本件では,配置人数が十分であったし,それだけでなく,代替要員確保の努力までも考慮して,恒常的な要員不足状況であったことを否定しています。

 この判決において,とくに前者の論点との関係で,「鉄道事業法が,鉄道等の利用者の利益を保護することを目的の一つに掲げ(1条),国土交通大臣に,鉄道事業者の事業について輸送の安全,利用者の利便その他公共の利益を阻害している事実があると認めるときには,鉄道事業者に対して列車の運行計画の変更等を命じる権限を付与していること(23条),とりわけ,東海道新幹線は,東京,名古屋,大阪を結ぶ大規模高速輸送手段として日本の社会・経済の維持,発展に必要不可欠な産業基盤の一つと位置付けられていることも考慮すると,JR東海には,需要に応じた東海道新幹線の列車の運行を確保することが,JR東海の社会的使命として強く期待されていたことが明らかである」と述べており,こうした判断が判決の結論にも影響しているように思えます。

 労働供給の確保の重要性を強調すると,労働者の希望に沿った年休取得への配慮には限界があるという議論になりやすいですし,その一方で,労働供給の確保といっても,それは事業者側の都合であり,労働者の年休権に優越するものではないという考え方もあります。控訴審は,労働供給の確保は,社会的使命であるというように,ワンランクその重要性を引き上げて,「事業の正常な運営を妨げる場合」の該当性を広げたという見方もできるでしょう。

 授業のなかでは,社会的使命は労働者の権利を制限するのに十分であるのか,他方,権利を制限するとしても,年休の取得時期の変更だけであり,権利制限の程度は大きくないのではないか,その一方で,日本の休暇文化の遅れなどを考えると,解釈としても使用者の「通常の配慮」はもう少し使用者に厳しいものであってよいのではないか,他方で,JR東海での年休取得の仕組みは,新幹線運行の重要性に鑑みると,合理性がないものとはいえないのではないか,などいろいろな観点からの議論がなされました。

 労働供給の確保という点では,労働関係調整法の公益事業において,争議行為の際の通知義務というような手続的規制があり(37条,8条),憲法上の団体行動権への一定の制限が認められていることもふまえると,労働基準法395項ただし書でいう「事業の正常な運営を妨げる場合」該当性を解釈するときにも,その事業の性質を考慮するということは,それほど突飛なことではないといえないか,というような問題提起もしてみました。ただ,これは社会的使命論に,法的な根拠付けを与えるとすればどのような可能性があるかということからの,やや無理なこじづけかもしれません。むしろ個人的には,事業に関する社会的使命をふりかざす議論は,労働者の保護をめざす労働法ではかなり危険であると思っています。ということで,この事件の判断は難しいのですが,JR東海における年休の取得システムには,制度としては,乗務員の意向を事前に把握する形になっていたり,競合した場合の優先順位をきちんと決めたりするなど,合理性がないわけではないように思える一方,個々の乗務員レベルとの関係では,もう少し早めに時季変更権の行使をする余地がなかったのかは気になるところです。

 さらにデジタル時代の議論としてこの事件を論じると,他の労働供給制約問題と同様のアプローチが必要ではないかと思います。すなわち,新幹線などの列車運行の自動化を進めて人手に頼らないようにすること(これは乗務員側には有り難くない話かもしれません),そしてAIを活用した精度の高い需要予測ができるようにして,もっと早期に余裕をもって人員配置を行い,時季変更権を可能なかぎりしなくてすむ態勢をつくることです。今後の「通常の配慮」には,こういう判断要素を組み入れるのが,デジタル時代の労働法の解釈論といえるでしょう。

 

 

2024年7月 9日 (火)

司法試験のデジタル化

 今週は司法試験期間なので,LSの授業はありません。試験日程は,10日から14日(12日は休み)の長丁場です。会場は,札幌市,仙台市,東京都,名古屋市,大阪市,広島市,福岡市,那覇市(又はその他周辺)ということですが,受験生はこれらの都市に住んでいるとは限らず,猛暑のなかで移動しなければならない受験生は大変でしょうね。2026年度からは,CBT(Computer Based Testing)方式になり,パソコンの利用となりますが,試験会場への移動は必要となります。ゆくゆくは,IBT(Internet Based Testing)方式で,リモートで受験できるようになればいいですね。司法試験に知的体力以外の要素をできるだけ取り除いてあげたほうがよいでしょう。法曹の仕事もデジタル化していくのであり,それに合致したような試験方式も必要です。もちろん不正対策は決定的に重要なことですが,それをデジタル技術により克服できれば,いろんなところに応用が聞きます。いちばん遅れていそうだった司法の世界において,司法試験をとおして,そうしたデジタル技術の活用の最先端を走ることになれば,イメージも変わってよいと思います。ぜひ法務省関係者には頑張ってもらいたいです。
 各法科大学院でも,本番の司法試験に先行して,期末試験でCBT方式を導入することが検討されています。学生に慣れさせるためには,望ましいことですが,ここでも不正対策などの観点から現時点ではいろいろと問題がありそうです。不正を避けるために,パソコンを貸与するとなると,保管場所の確保など,お金のない国立大学では難しいです。指定業者などを作って,不正ができないような設定(通信機能の停止など)にして,期末試験時にのみ学生に貸与するというjust in timeのレンタル方式などは無理でしょうかね。いずれにせよ,大学関係者の知恵だけでは限界がありますから,技術者の方にゼロベースで考えてもらって,費用と効率の折り合いをつけながら試験方式を開拓してもらいたいです。その際に重要なのは,不正が1件でも起きれば失敗というゼロリスクを目指さないことです。リスク低減は必要ですが,ゼロをめざすと時間がかかるので,ある程度のリスク低減を見込むことができれば,あとは不正行為者には,司法試験受験資格の永久剥奪のような強い制裁による抑止で対応すべきでしょう。そして,さらにIBTについても,遅くとも2030年くらいには司法試験への導入ができればよいですね。

2024年6月11日 (火)

季刊労働法284号

 季刊労働法284は,前に土岐将仁さんの評釈を紹介しましたが,その他にも,いろいろ読み応えがある論稿が掲載されていました。なかでも,石田眞先生の,豊川義明『現代労働法論―開かれた法との対話』(日本評論社)の書評では,率直に批判的なことが書かれていて興味深かったです。
 石田先生は,豊川弁護士の「法解釈方法論」について,豊川弁護士の主張する「事実と法の相互媒介」の意味が必ずしも明確ではないと指摘しています。法的三段論法を重視すると,法規範どうしの比較や法律の違憲性の評価などのプロセスが判断外となる危険性があるとする豊川弁護士に対して,石田先生は,裁判の恣意を抑えるための法的三段論法の形式論理の重要性を指摘します。
 末弘厳太郎の「三つ巴」論にもあるように,事実認定,法律解釈,結論は,相互に独立した段階的なプロセスではなく,一体的なプロセスといえますが,ただ裁判として示されるときには,外形的には法的三段論法は維持される必要があり,このことにはあまり異論がないと思います。裁判では,結論を出すことを避けることはできません。どのような結論であれ,そこに至るまでの法的な形式論理がきちんとあるからこそ,裁判が恣意的な感情的な判断によるものでないことを,少なくとも外形的に示すことができ,裁判の信用性を担保することになります。
 一方で,裁判での事実認定は,純然たる客観的な事実の発見ではなく,裁判官による法的なフィルターにかけたうえでの「法的事実」の創出という面があります。そうした「法的事実」は,当然,適用すべき法律についての裁判所の解釈の影響を受けているわけで,純然たる客観的なものではないのです。「三つ巴論」のプロセスは,客観的な作業ではなく,裁判官の価値観に基づく事実認定や法解釈がなされています。判例評釈では,事実認定についての論評はしないものの,法解釈への論評は,事実認定への論評も包摂していることになります。
 ところで,話は少し変わりますが,季刊労働法の同じ号に掲載されている,新屋敷恵美子さんは「イギリスにおける労働者(Worker)概念と経済的従属性・コントロール・事業統合性」という論文のなかで,集団的労使関係法上の労働者概念について,イギリスの最高裁が,条文の文言の法解釈を重視しているのに対して,日本の労働組合法3条について,「どこか法から離れたものとなっている印象である」と書かれています(132頁)。イギリスでも,Uber判決にあるように, 法の規制目的は,法解釈で考慮はされるのですが,判決文のなかではそれをストレートに押し出すということはないということでしょう。これは先の議論でいうと,イギリスでは,形式的な法的三段論法を意識し,裁判所は,文言に忠実に解釈した法律を適用して事実にあてはめて結論を出すという形を厳格に維持しているといえるのかもしれません。この点で,日本の労組法3条のINAXメンテナンス事件などで,最高裁はもちろん法律を事実にあてはめて結論を出すという形はとってはいるのですが,適用すべき法律についての解釈が示されていないため,裁判所がピックアップした事実(あるいは判断要素)から,裁判所がしたであろう法解釈を推測するしかないということになっています。
 ところで,先般の事業場外労働のみなし労働時間制に関する協同組合グローブ事件の最高裁判決(2024416日)では,労働基準法38条の2の「労働時間を算定し難いとき」 について,従来の判例と同様,それをどのように解釈すべきかは示さないまま,たんに業務日報の正確性の担保に関する具体的な事情の検討不足を指摘して原審に差し戻しています。この事件については,ビジネスガイドで連載中の「キーワードからみた労働法」の最新号でも採り上げていて,実務的にこの事件をどうみるかという観点から論評していますが,判決自体が「労働時間を算定し難いとき」をどう解釈すべきかを示していないので,その点の理論的論評は今回はしませんでした(同連載の以前の号ではやったことがあります)。
 ここであえて書くと,事業場外の労働であっても,GPS(Global Positioning System)機能を使えば技術的には移動履歴の把握は可能ですし,そのようにしてリモート監視下に置き,かつスマホなどで常時連絡が可能な状況にすることにより,具体的な指揮監督下に置くことができるので,労働時間の算定はできると考えられます。そうだとすると,技術的には労働時間の算定が困難な場合はほとんどなくなり,あとはそうした(情報通信)技術の導入についての費用面からの困難性をどう考えるか,そして在宅勤務の場合,リモート監視下に置くことがプライバシーとの関係でどうなるかというような,いわば規範的困難性をどう考えるかが論点となってくると思います。そして,こういう技術的,経済的,規範的な困難性についてどう解す
べきかこそ,本来,裁判所に判断を示してもらいたいところです。協同組合グローブ事件でいうと,GPSの導入可能性について経済的困難性がどれくらいあったか,また業務でGPSを活用することによる本人ないし訪問先(外国人研修生や研修実施企業)のプライバシー保護などの法的な問題による制約がどの程度あるのかなどのような,まったく異なる争点が出てくることになります。セルトリオン・ヘルスケア・ジャパン事件(季刊労働法では,この事件の高裁判決の評釈も掲載されています)のようなMRに勤怠管理システムが導入されている事案で上告されれば,最高裁も何らかの法解釈の判断をすると思うのですが。

 

 

2024年4月 8日 (月)

国会でのタブレット禁止に思う

 Yahooニュースで,「うんざり」「全く意味不明」...国民・玉木代表が嘆息 本会議場のタブレット使用に歴代正副議長が「拒否権」発動という記事が出ていました。国会の本会議場でのタブレット使用は,品位や権威の観点から禁止されているということのようです。玉木代表が嘆息するのは当然です。そういえば,河野太郎デジタル大臣がスマホでメモ内容を確認しながら質問をしようとして,制止されたこともありましたね。
 自分で作成した原稿を紙で印刷して持ち込まなければならないなど,どれだけ時代錯誤であるか。他人に作ってもらった原稿を読んでいるだけの人にはわからないのかもしれません。デジタル化を政府が本気で進めるなら,まず国会議員から紙を禁止にし,全員,原稿はタブレットかスマホ上のものを読むことを義務づけたらいいのだと思います。これなら裏方作業をしている役人の仕事の軽減化にもつながるでしょう。
 国会におけるデジタル化を阻む慣行こそ,その権威を損なっているといえます。おそらくタブレットなどを禁止しようとしている人は,議員にしろ,事務局にしろ,タブレットやスマホをミニパソコンとして使ったことがないのではないでしょうか。私たちの生活において,スマホは携帯電話としての利用はごくわずかで,主として情報収集・発信の手段であるわけで,何か調べたいときにスマホを使ったり,自分のメモをスマホで確認したりすることが禁じられるなど,現代社会ではありえないのです。
 ライドシェアも解禁されたとはいえ,安全性を重視して,規制のがんじがらめです。新しい時代に対応できていません。高プロ(労働基準法41条の2)を,健康確保といった観点から,規制のがんじがらめにして,使い勝手の悪いものとしているのと同じようなことです。
 このように,いろんな面で世間から遊離しているようにみえる国会ですが,実は,それは日本社会におけるデジタル格差を映し出しているのかもしれません。格差をつけられているほうが,日本の支配層にいるのは嘆かわしいことです。

 

 

 

 

2024年3月13日 (水)

ロボ配達

 東京の日本橋で,ウーバーイーツが,ロボを使った配達をする試みを始めたというニュースをみました。アメリカで始まっているという話を聞いたことがありますが,いよいよ日本でもか,という感じです。ギグワークの典型とされるフードデリバリーサービスの配達員ですが,私は将来的にはこの仕事は人間の仕事ではなくなっていくので,こうした業界を念頭において未来の労働政策を論じるのは適切でないという立場にあります。フードデリバリーサービスのように,人々の生活において必要とされるものであっても,実は今回のロボ配達のように機械を用いて対応できるものが多いのであって,人間が必ずしもやらなくてもよいのです。定型的な業務はAIや機械が対応するというのが,今後の労働政策の大前提です(さらに生成AIによって,機械の進出は,非定型的な業務にまで及ぶでしょうが)。
 もちろん,いつも述べているように,そうした技術革新の方向性はわかっても,完全な(あるいはそれに近い)省人化の実現時期が,30年後か5年後かでは議論の仕方が変わってきます。ロボ配達についても,実際にどれくらいのスピードで普及していくかは何とも言えません。ただ,技術的に可能である以上,社会実装はちょっとしたきっかけで一挙に広がるとみています。その他の業界でも,たとえば規制が少し変わるだけで,がらっと状況が変わり,社会実装が進む可能性はあります。

 とくに配達の自動化は,高齢者が増えて買い物困難者が増えることが予想される一方,人手不足が広がるなかで,デジタル技術がその解決策になるということを示すものです。ウーバーイーツのロボ配達の試みは,これからの社会課題の解決方法の一例として注目したいと思っています。それと同時に,こうした動きを,人間と機械との協働関係を考えるきっかけとすべきであると思います。

 

 

2024年3月 2日 (土)

ドライバーに日本語は必要か

 昨日のテレ東のWBCを観ていると,タクシードライバー不足のため,外国人を採用する必要があるものの,日本語能力の向上が問題となっているということが言われていました。実際に働いている外国人ドライバーのインタビューでも,日本語でのコミュニケーションが大切と語っていました。もちろん,日本語ができたほうがよいのですが,できなくても十分にやれる仕事だと思います。これはいつも書いているように,海外に言ってみると,何も会話をしなくても,行き先まで運んでもらえる経験を何度もしているからです。たしかに,かつては多少,不便なこともありました。タイのスワンナプーム(Suvarnabhumi国際空港からタクシーに乗るとき,空港のタクシー乗り場の担当者に英語で行き先を伝えて,それを紙にタイ語で書いてもらい,それを運転手に渡すということをしていました(いまも同じであるかわかりませんが)。運転手はタイ語しかできないので全く会話はありませんが,きちんとホテルまで連れて行ってもらっていました。町中でタクシーを拾うと同じようには行きませんが,乗るときに地図で行き先を示すとか,行きたい場所の名前を言うと,だいたい通じました。いまならGooglemap があるので行き先の指示に困ることはありませんし,アプリに入力すれば,それで十分でしょう。実際,数年前のマレーシアでは,ライドシェアサービスのGrabを利用したときは,アプリだけで問題はありませんでした。大切なのは,事前に料金が確定していることです。時間帯と距離で決まっているので,予期せぬ渋滞があっても料金が上がったりすることはありません。行き先は事前にアプリに入れていますし,料金は事前決済なので,あえて会話をする必要はないのです。同じことを日本のタクシーでもやれないことはないでしょう。何か法的制約があるのか知りませんが,技術的には可能です(もちろんライドシェアがほんとうに解禁されれば,いっそう問題がないでしょう )。

 つまりタクシードライバーに日本語能力は必須ではなく,あればよいという程度のことだと思います。コミュニケーションがとれて,サービスが良かったと思えば,チップをはずむことにすればよいということで,つまり付加的なサービスにすぎないのです。ということは,問題は,アプリの利用を私たちのほうができるかどうかにあるのです。スマホをもたなかったり,アプリを使えなかったりする人がいればダメですが,いまやスマホを使えないのは,電話をかけられないのと同じようなことです。つまりこれは,日本人側で解決しなければならないことなのです。外国人ドライバーの活用の障壁は,日本語の難しさではなく,日本人側のデジタルデバイドであるかもしれないのです。

 

 

2024年1月 7日 (日)

大地震に備える

 能登地震の悲惨な状況をみて,改めて家屋倒壊の怖さがわかりました。被災地域では耐震構造でない家屋も多かったようです。これを教訓として,住宅の耐震度を全国的にチェックし,必要な補修などについて,ある程度は強制的にやってもよいのではないかと思います。家屋の倒壊は,本人たちだけの問題ではなく,周りにも被害を与える可能性がありますし,救出のためのマンパワーがとられ,他の救出を困難にするなどの影響が出てしまうからです。費用をどこまで公費でまかなうかは議論があるでしょうが,とにかく事前にやれることをやっておくことが必要です(現在でも一定の要件を満たせば,税額控除や固定資産税の減額があるようです)。
 道路の寸断により陸の孤島と化しているような地域には,ドローンの活用ができるはずです。日頃からドローンで物資を運搬することを,各地域でシミュレーションしておくのが望ましいでしょう。充電不要のスマホ,スターリンク(Starlink)などの人工衛星を使った通信網なども,情報不足による孤立を防ぐために必要でしょう。水は,WOTAの水循環型シャワーなどが役立つでしょう(お湯は出るのでしょうかね)。仮設住宅の迅速な建設技術も役立つでしょう。こういういろんなアイデアや技術を結集して,たとえ災害があっても,迅速に日常生活を復興できるシステムを平時から準備しておく必要があると思います。
 地震と共生しなければならない国土に住む私たちは,はたしてどこまで地震に備えたシステムを構築できているでしょうか。最悪の場合,死者が約32万,全壊家屋が約240万と想定されている南海トラフ地震は,明日にでも起こる可能性があるのです。今回も,人々の献身的な救助活動や医療活動,ボランティア活動などがされていて,それには頭が下がりますが,人力以外に,もっと活用できる先端技術があるようにも思えます(実情がわかっていないだけかもしれませんが)。それに住民のほうにデジタル化が浸透していれば,たとえば緊急SOSの発信などにより,救えた命がもっとあったかもしれません。とくに高齢者こそ,スマホが頼りになるはずです。デジタル技術は,弱者にとってこそ力強い武器となりえるのです。今後の復興においてもデジタル技術は頼りになるでしょう。この面でも政府の早急な対応が必要です。

 

2023年12月10日 (日)

国会でのスマホ使用

 少し前に,河野太郎デジタル大臣が,参議院の予算委員会で辻元議員の質問に,スマホで検索をして内容を確認しながら返答しようとしたところ,議長から注意されたことが話題になりました。どうも審議中のスマホの使用は認められていなかったようです。 
 一昔前までなら,スマホの持ち込みや使用の禁止はわからないではないですが,いまはどうでしょうか。スマホはネーミングがミスリーディングで,実は電話ではなく,超小型コンピュータのようなものです(私も電話として使用することはほとんどありません)。スマホでの検索は時間がかかるので,質問時間が減らされるという批判もありますが,その場でわからないという返答よりも良いという見方もありえます。
 スマホをみながら授業中に報告をする学生は,私の経験では何年か前から現れ始めました。授業での報告は,紙媒体でなくてもよいとしており,本人が事前にメールで送った資料を,こちらは授業中ノートパソコンでみて,本人はスマホをみながら報告するということもありました。何も問題を感じませんでした(いまではスマホよりも,ノートパソコン持参学生がほとんどなので,学生はそれをみながら報告することになります)。スマホの利用は,人々がメモをみながら話すのと同じで,しかも通信機能をつかって内容を確認できるという点では,メモより優れているのです。
 単に相手をやりこめるということだけを考えていれば,スマホの検索で一呼吸を置かれるのはいやかもしれませんが,いまや世間では利用が当たり前の道具です。私もよく考えると,テレビや日常の会話で少しでも何か不明な点があれば,机の前ならPC,居間などであればiPad,それ以外であればスマホで,すぐに調べて解決を試みます。よほど時間がないときでないかぎり,あとで調べて確認するということはしません。それに単純なことであれば,Siriに聞けますし,少し複雑になっても,ChatGPTの利用で,迅速に解決ができます。いずれにせよ,近くにPCなどがないときに,スマホを使えないとなると,とても困ります。どんな会議であっても,きちんと議論をするための道具としてのスマホの活用を制限したりしているようではいけません。これでは,ますますデジタル後進国になるでしょう。

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