デジタル技術

2022年11月20日 (日)

天彦の気持ちがわかるかも

 法科大学院の入試が終わりました。コロナ以降,いろんな試験の監督をしているとき,ほとんどの学生はきちんとマスクを着用していますが,ときどき,試験時間終了間近になると,マスクをはずしたままにしている学生が出てきます。マスクに対する適応性は人それぞれですが,日本人の多くは他人の目を気にして我慢してつけています。ただ,このマスクのために,集中できない人もいるでしょう。試験の場合には,みな同じ条件でやるべきとはいいながら,黙って試験に取り組んでいて,少なくとも他人への感染リスクはかなり低いのでマスク着用をそれほど厳格に求める必要はないような気もします(咳がでる人はエチケットとしてマスクをする必要はあるでしょう)。
 こういうことを考えると,佐藤天彦九段の反則負けのことが気になります。棋士は,対局中は普通は喋りませんので,感染リスクは比較的低いでしょう。終盤の大詰めで集中して考えている時間帯に,マスク不着用をとがめられて敗戦となるというのは,やはり厳しすぎる感じがしますね。高度な集中力が求められる知的な世界において,マスクごときに影響を受けるのはどうかという気もします。
 もちろん私は,少しでも感染リスクがあるところに出ていかなければならないときはマスクを着用しますし,他人にもマスクをつけておいて欲しいと思います。でも,それもときと場合によるでしょう。受験生や棋士に,どこまでうるさく言うべきかは,よくわかりませんね。私自身は,マスクをつけていると苦しくなるし,口内が乾燥するなど身体によくないし,階段を降りているとき下がよくみえなくて危ないこともあるなどの理由で,できるだけマスクを付けなければならないようなところには行かないようにしています。幸い,私の現在の仕事の多くは,リモートでできるので,マスク着用機会は最小限に抑えられていますが,これからも同じようにいくかは何ともいえません。いまは対面型は少人数のゼミ形式の授業しでかしていませんが,やりにくさはあります。いつも書いているように,学生の言葉がマスク越しでは聞き取りにくかったり,こちらも声を張り上げて話すので喉が痛くなったりします。教師は大学でも自宅でも出張先でも,どこからでも授業をできることとし,学生のほうも,大学でも自宅でも下宿先でも,どこででも授業を聴講できるような状況を,はやく実現してほしいです(規制やローカルルールの改正が必要)が,私の定年までに実現しますかね。

2022年10月21日 (金)

オンラインと孤独と孤立

 テレワークと孤独という問題に言及するものが目につくようになってきました。実態はよくわからないところがあるのですが,孤独問題が,長時間労働のためプライベートでも他人と会う時間をとれず,そして,一番長い時間付き合う職場の人とも直接話ができない状態であることから孤独を感じているというのであれば,やや深刻な問題です。1日中,誰とも直接に話すことがない生活が続くと,かなりストレスがたまるでしょう。おじさんなら,それでもスナックでママに話を聞いてもらったり,バーでマスターと話をしたり,すし屋のカウンターに座って大将と話をしたりするなどして機会をつくれるのですが,若者では少し難しいかもしれません。
 テレワークはそれだけをとれば通勤しない働き方ということなのですが,そのうえで,どのような働き方が上乗せされるかによって,ずいぶんと評価が変わりえます。これはテレワークそのものの問題というよりも,テレワークの活用の仕方の問題といえます。テレワークに向く仕事とそうでない仕事があるでしょうし,テレワークに適した人とそうでない人もいるでしょう。働き方に大きな変化が起きること自体にストレスを感じる人もいるでしょう。
 ただ最初からテレワークをするつもりで入社する人もこれからは増えるでしょう。そういう人からすると,テレワークができなければストレスになるでしょう。そして,そういう人は,テレワークで場所的に孤立して働くことは覚悟のうえであり,私生活が忙しいので,できるだけ効率的に仕事をこなせるテレワークがよいと考えたりするのです。私生活で人に囲まれている状態ですので,孤独問題とは無縁でしょう。
 ところで,よく孤独と孤立は区別せよと言われます。孤独はひとりぼっちであるという心理的な状態を示すのに対して,孤立は他人とのつながりから切り離されていることを示すと言われます。孤独は,独身の人が増えつつあるので,今後いっそう大きな社会問題となっていくことが考えられます。政府は,自殺予防などの観点からも,この問題に力を入れて取り組んでいるようです。一方,ICTは,つながりの可能性を広げるので,孤立問題の解決には役立ちうるものです(もっともSNSの世界での孤立というものもあるので,簡単なことではありません)。いずれにせよ,テレワークと対面とのハイブリッド型でやっている企業で,テレワークの人が孤立し,孤独感をおぼえるようになるのは,テレワークの失敗例となりえます。孤独感については個人差があるでしょう。わりとワイワイ仕事をするのが好きな人はテレワークになると孤独感を感じやすいかもしれません(もともと群れたがらない人は逆でしょう)。ただ,企業は,孤独感を個人の問題とせずに,少なくとも孤立が生じないような業務体制にしたほうがよいでしょう。
 最近,私一人だけリモート参加で,あとの参加者は現場にいるということが増えてきている感じがします。先日の政府関係の仕事でもそうでした。カメラの位置が下のほうにあるせいか,全体がよくみえないし,人がひっきりなしに私の前を歩いて行くなど,やりにくかったです(カメラの存在に気づいてなかったのでしょう)。カメラの設置場所を少しでも考えてほしかったです。こういう状況は,私には孤独感はありませんが,孤立していた気がします。リモート会議をするのなら,孤立が生じないように,しっかり現場とリモートで「つながる」ようにしてもらいたいです。音声がつながれば十分と考えるのなら,電話参加で音声をスピーカーで聴いてもらえれば十分です。その会議ではデジタル担当大臣もいたのですが,少し残念でした。

 

2022年10月11日 (火)

久しぶりの対面授業

 水際対策が緩和されて,外国人がドンドン来るようになるようです。これで景気も大きく改善するでしょうか。外国人がいないうちに旅行をと思ったりもしていましたが,結局ステイホームでした。飛行機・新幹線に乗らない期間記録は,どこまで伸びるでしょうかね。
 先週から授業が始まりました。対面型です。うちの大学も対面型推進です。遠隔授業をするには,面倒な手続をふまなければなりません。それに卒業要件単位数に含めることのできる「遠隔授業」の単位数の上限は60単位となっており,遠隔授業をすると学生に迷惑がかかります。だから教員にはできるだけ対面授業をやってほしいということになっているのです。これは間違った方針ですが,一労働者としては従わずにはいられません。従属労働者の悲哀です。
 遠隔授業といっても,オンデマンド型とオンラインリアルタイム型とでは全く違います。オンデマンド型だと通信教育と何が違うんだという議論もわからないではありませんが,オンラインリアルタイム型は,ICTの適切な活用方法であり,これをあえて封印しろというのは,理解できません。
 少人数授業では対話があるので,間隔をあけて座りますが,マスクを着用しなければならないので,話しづらいし聞きづらいことになります。声を張り上げると喉を痛めやすく,感染しやすくなります。これから冬になって寒くなると,喚起のために窓をあけていると風邪をひきやすくなります(電気代の節約のため温度も上げられません)。講義資料はネット経由での提供ですが,スマホしかもってこない学生には,やや大変でしょう。自宅でならパソコンにつなぎ,もっと楽にいろんな資料を参照しながら授業に参加できます。マスクなしでエアコンの効いた状況で授業に参加できるでしょう。教師の側も自宅でなら,多くの資料を手元におきながらできるので,授業の質も充実したものとなります。議論が少し脱線して事前に準備していない方向にいっても,次の授業までに確認するというようなことをせず、その場ですぐに確認することもできます。どう考えても,少なくとも私の授業では,対面授業は遠隔授業より効率が悪いです。せめてマスクが不要となるときがくるまでは,遠隔授業が原則であるべきです。60単位というような上限もなくすべきです。緊急事態宣言が出たばかりのころは対面型期待の学生にとって,遠隔授業は失望感を与えることがあったでしょうが,いまの1年生は,そういうことでもありません。すでにリモート環境に慣れているのであり,そういうことも考慮すべきなのです。学生も,オンラインリアルタイム型に積極的でない大学は,時代に乗り遅れているかもしれないので,大学選びの際には注意したほうがよいでしょう。
 いつも同じようなことを言っていますが,現場の声を無視した一律の対面授業重視(対面型のほうがよい授業もあるとは思いますし,理系などはそういう授業が多いのでしょう)は,大学授業の質の向上のチャンスを阻むものであり,社会の流れから遅れていることを,文科省も大学の幹部たちも気づくべきでしょうね。

2022年9月14日 (水)

無電柱化

 明日はRandstadのランチセミナー(Webinar)で佐藤博樹さんと対談します。これからの時代の対談はオンラインでのものも含むのです。テーマは,それにふさわしい「テレワーク」です。佐藤さんとは久しぶりに「お会い」してお話しできるので楽しみです。興味のある方は, お申し込みください(無料です)。
 ところで,13日の日本経済新聞の朝刊の文化面で,石山蓮華さんの「見上げてご覧,夜の電線」という面白いエッセイが掲載されていました。電線を礼賛するのは,面白い感性だなと思いましたが,私は電線や電柱にはどうも肯定的になれません。欧州では電柱は見ないですよね。電柱の地中化は世界的な現象のようです。
 私はフードデリバリーなどの多くの宅配サービスは,人間によるのではなく,ドローンなどによる省人化が進むと考えていますが,その前提として,電柱の地中化が進むことを想定しています。電柱や電線の存在が,デジタル化を阻むことになるのは困ります。ドローンは電線が少ない場所での利用にとどまるということでは,ますます世界から後れをとるでしょう。
 こういうことを言うと,日本は日本のやり方でいいではないかという意見もありそうですが,いっときの宅配クライシスを忘れてはならないでしょう。人間がいつまでも運んでくれると思っているのは想定が甘いと思います。そのときにあわてて機械化を考えるのではなく,先手を打つべきです。
 生産年齢人口は,定義を変えて70歳に上限を引き上げても,減少傾向は変わりません。また人々は高齢化にともないきつい仕事はいやがるようになるでしょう。それに現状においても,ギグワークに対する否定的な評価があり,そのことが,この仕事に就こうとする人を減らす可能性があります。
 ドローンを安心して飛ばせる状況は,私たちのこれからの生活にとって不可欠なのです。景観だけの問題ではありません。電柱は地震のときに倒壊したり,電線にふれて感電したりする危険性もあります。無電柱化のためには,大規模な工事が必要となるでしょうから,政府には早く取り組んでもらう必要があります。
 2016年に成立した「無電柱化の推進に関する法律」は,地方自治体にも責務を課しており,兵庫県もHPを調べると,「無電柱化推進計画(20192023」を策定していました。まだ,あまり意欲的とは言えませんが,生活に必須のインフラの整備という視点をもって積極的に取り組んでもらえればと思います。

2022年8月18日 (木)

DAOの可能性

 これからの企業経営は「プロジェクト型」になり,会社員ではなく,プロ人材がそこに集まって,自己の得意分野で貢献するような働き方になるということは『会社員が消える』(文春新書)48頁で書いていますし,そこでも参照した「働き方の未来2035:一人ひとりが輝くために」でも言及されています。このときには,バーチャル空間に結集して働くプロジェクト型も頭のなかでは想定していましたが,WEB3.0は,さらに先に進んだものとなるかもしれません。
 メタバース,ブロックチェーン,NFTといったWEB3.0のキーワードを耳にすることが増えていますが,これに加えて注目されるのが,DAOです。Decentralized Autonomous Organizationの略称で,「分散型自律組織」という訳語があてられるのが一般的です。
 DAOは,その掲げるプロジェクトに賛同する者が,そのDAOの発行するトークンを所有して,プロジェクトに参加し,その事業遂行はトークンを所有する者の決議により決めていくというものです。そこでは経営者も従業員もない民主的な組織であるということが謳い文句です。各人はコントリビューションに応じてトークンを与えられます。
 ネット上のプロジェクト労働なのでしょうが,その実態はよくわからないところが多いですし,法的な位置づけも不明です。いずれにせよ,会社で雇用されて労働法の適用を受けて働くというのとは,まったく異なるものです。個人が自律的に自らのスキルや能力をいかして社会課題の解決のための諸プロジェクトに参加し貢献するというものであれば,悪いものではありません。これはWEB3.0でなければ実現できないものではないのでしょうが,ブロックチェーンを用いた技術(スマートコントラクト)で,誰でも場所や国籍や性別に関係なく参加でき,様々な活動がすべて透明化されている点が興味深いです。プラットフォームに支配されずに,各人がトークンによって,自分の価値を所有し,処分できるという構造も魅力的です。
 WEB3.0の時代には,多くの人がDAOで働くようになるかもしれません(もちろんネット上でやるのに適しない仕事は別です)。そこに至るまでに,いろいろ工夫すべき課題はありそうです。「民主的な」ガバナンス体制で,ほんとうに仕事がうまくいくのかは,やや疑問もあります。ただクラウドファンディングでもそうですが,誰かがリーダーシップをとって,この指止まれという形でプロジェクトを立ち上げると,それに賛同する人からお金が集まるというのと似たようなものだと考えると,それをネットでやっているようなものと言えそうです。
 もう少し勉強して,DAOの可能性について探ってみたいと思います。

 

2022年8月 3日 (水)

期末試験にデジタルを

 81日は,LSの期末試験でした。授業はリモートでしたが,期末試験は対面型ということで,今学期はじめて学生と対面となりました。とはいえ,学生も私もマスクをしているので,対面といっても,半分くらいという感じです。
 それにしても,いつも思うのですが,90分の試験中,学生はずっと集中しており,それはすごいと思いました。私にはとてもまねができません。法曹になるためには,こういうことができなければダメなのですよね。
 それに手書きです。手書きであれだけの字数書くのは,私には無理です。そもそも最近では自分の名前を書くのも,上手に書けなくて情けなく思っています。
 でも法曹も,いまはみんなパソコンをつかって文章を書いているのでしょうから,試験もキーボードで入力ということにしてよいのではないでしょうか。採点者も読みやすいですしね。大学がパソコンを貸与して,そこに答案を書いてもらって,メールで提出あるいはGoogle Classroom で提出というようなことにすればどうでしょうか。もちろんカンニングの危険はあるのですが,インターネットサイトにアクセスしたことがわかれば一発で退学というような厳罰を科しておけばよいのです。大学教員は,こういう厳罰を科す勇気がないので,不正の予防に力を入れるのですが,そのコストは大きいように思います。ほとんどのLS学生は不正などしないのですから,最低限の予防はして,あとは厳罰というほうが,試験をやるほうも受けるほうもハッピーです。抜き打ちで利用したパソコンのチェックをするということにすればよいのです。これは,(いまはどうか知りませんが)イタリアではバス乗車の際は事前に切符を買うことになっていて,実際に切符をもっているかのチェックはないのです(運転手の仕事は運転するだけ)が,あるとき突然,監視員が乗り込んできて,切符を持っていなければ多額の罰金を払わせるということになっているので,ほとんどの人は正規の切符(あるいは定期券のようなもの)をもっているというのと同じ発想です。試験の時期になると,いつも同じようなことを書いていますが,なかなか世の中は変わりません。
 今日はGEILという学生団体から講演を頼まれて,オンラインで60分話をし,30分は質疑応答でした。これからの労働というようなテーマでの依頼です。事前に質問を出すように頼んだら,よく勉強した良い質問が出てきました。講演のなかでは,学生たちに,思わずデジタル化が進まない社会の硬直性を愚痴ってしまいました。まだ大学1年生の将来有望な彼ら,彼女らに改革を託したい気持ちです。

2022年7月24日 (日)

これからの社会保障への不安

  7月22日の日本経済新聞の経済教室で,八代尚宏先生が「参院選後の岸田政権の課題(下) 高齢化社会の不安払拭急げ」という論考を発表されていました。全世代型社会保障構築会議の中間整理において,年金や医療・介護の費用の膨張にどう対応するかという論点が欠落していることを批判されていました。年金制度は,祖父母が孫からお年玉を取り上げているようなものだとし,高齢者の定義を75歳とすべきだと主張されています。75歳現役社会を前提に,制度設計をし直すべきということで,これは雇用政策にも関係してきます。私はこうした改革は不可避だと考えており,激変緩和は必要ですが,できるだけ早く着手すべきでしょう。高年法の改正で,20214月から70歳までの高年齢者就業確保措置の努力義務が導入されましたが,こうした措置の年齢上限はさらに5歳引き上げることも必要でしょう。しかし,より根本的には,雇用も自営もふまえた75歳までの就業促進策をどう実行するかが重要で,その鍵となるのは,高齢者が持続的に能力を発揮できるようにするためのデジタル技術の活用です。
 年金については,国民年金の保険料を廃止して,年金目的消費税を導入すべきという提言もされています。かつて八田達夫先生は,日本労働研究雑誌605号(2010年)の提言「国民年金は,所得税や消費税で賄うべきか,人頭保険料で賄うべきか」 で,国民年金の保険料は,所得税でまかなうべきという提言をされています。私も消費税よりは所得税のほうがよいと思っています。ただ,八代先生も,「豊かな高齢者から貧しい高齢者への同一世代内の所得再分配を強化し,後世代の負担を減らす工夫も必要だろう」と述べておられており,そうした工夫の一つは,年齢に関係なく,豊かな人から,貧しい「高齢者」への所得再分配が可能な税制の活用ではないかと思っています。
 一方,医療・介護については,財政の問題と同時に,マンパワーの問題もあります。医療人材のことについては,宇沢弘文の社会的共通資本の考え方に賛同するということを何度も述べていますが,それとは別に,ここでもデジタル技術の活用が求められると思います。急速に医療人材や介護人材を増やすことができない以上,いかにしてデジタル技術を活用して,省力化・効率化を図るかがポイントです(これも何度も述べています)。デジタル技術の活用は,高齢化社会への対応にしろ,医療・介護人材の不足への対応にしろ必要不可欠なものであり,政策の基本は,常にここから始まるのです。

2022年7月13日 (水)

侮辱罪の厳罰化への疑問

 

 刑法231条(侮辱罪)の法定刑が引き上げられ,懲役または禁錮,罰金が追加されました。懲役または禁錮は,将来的には,拘禁刑に統合されますが,侮辱罪の改正のほうが先に施行されましたので,当面は懲役または禁錮という刑は残ります(拘禁刑の導入される改正刑法は,公布の日から3年以内の施行とされています)。
 侮辱罪は,事実を摘示せず,公然と人を侮辱する場合に適用されるものであり,侮辱とは,「他人の人格を蔑視する価値判断を表示すること」と解されています。今回の改正の理由は,「近年における公然と人を侮辱する犯罪の実情等に鑑み,侮辱罪の法定刑を引き上げる必要がある」とされていますが,とくにネット上の誹謗中傷への適用を想定したものと言われています。政治家の言動や政策への批判は,侮辱にあたると解すべきではないのですが,それが必ずしも明確ではないことから,懲役刑まであるとなると,政治的言論についての重大な制約となるおそれがあります。ちなみに関西弁のアホは,関東弁のアホとはずいぶんとニュアンスが違うものであり(「探偵ナイトスクープ」の「アホ・バカ分布図」も参照),通常は,少なくとも主観的には侮辱の意味が含まれていませんが,私が政治家をアホ呼ばわりすると,侮辱罪でつかまらないかという心配が出てくるわけです。
 ネット上の誹謗中傷が人権侵害になることがあるのは,よくわかります。それへの対処は必要です。しかし,そのための方法として,法定刑の厳罰化をするというのは,はたして効果的な方法でしょうか。公訴時効の関係もあるのでしょう(従来は1年でしたが,改正後は3年となりました。刑事訴訟法2502項の7号適用犯罪から6号適用犯罪に変わったからです)が,むしろ刑事訴訟法25027号で,軽い犯罪であっても公訴時効が1年というのが短すぎるので,こちらのほうを,たとえば2年に引き上げるというような改正もありえたかもしれません。
 刑罰は劇薬であり,別の目的(上記の政治的な言論に対する弾圧目的)に悪用されることが心配です。著名人の自殺などのショッキングなことがあり,処罰感情が高まっていることは理解できますが,性急な法改正であったような気がします。そもそも,厳罰化によっては,ネット上の誹謗中傷を抑止することはできないでしょう。デジタル時代における個人の人権保護は,デジタル技術を使って図るという,ここでもデジタルファーストの考え方で臨むべきだったのではないでしょうか。たとえば,刑法学者やこの分野に詳しい弁護士に集まってもらって,何が侮辱であるかの具体例をデータ化してAIに学習させ,侮辱に該当する発言をネット上で発信すれば,アラームが出て,それにもかかわらず発信したら処罰可能というようなことはできないでしょうか。アラームが出たときに,すぐに削除すれば許されることにするのですが,このようなソフトなやり方のほうが言論に対する対応としては妥当でないかと思います。

2022年7月 6日 (水)

ユーザーインターフェイス

 630日の日本経済新聞の「私見卓見」でマイナポータルのユーザーインターフェイス(UI)の質の悪さが指摘されていました。政府の提供するアプリは使いにくいことが多いです。なぜそうなのか,ほんとうのところは,よくわかりませんが,おそらくユーザー目線で仕事をしていないことが原因でしょう。お役所仕事という言葉で済まされては困ります。これだけ不満の声が出ているのに改善されないのは,なぜか。上にたつ人に問題意識がない,あるいはやる気がないからではないでしょうか。例えば,いまデジタル大臣って存在感がないですが,何か仕事をしているのでしょうかね。それに政治家は,政府の提供するスマホアプリを使っているのでしょうか。使っていたら少しは違うのではないかと思うのですが。ITを使って生活していない人に,これからの時代の政治をされてはたまったものではありません。
 ただ,おじさん大臣たちが,スマホを使っていないのは,これもUIの問題かもしれません。おじさんたちが使いにくい仕様になっているかもしれないからです。もっとも,偉い人は,自分でスマホを使わなくてもよいから,結局は,UIはあまり気にならないのかもしれませんが,もし自分で全部やるとなると,UIが気になるでしょう。スマホを買って,政府関係のアプリも使ってUIを実感してもらいたいですね。
 スマホアプリのUIでは,目的達成までのステップができるだけ少ないことが重要です。見やすさやボタンの位置の配置なども重要です。父がスマホを断念したのには,いくつかの理由がありますが,それは父側に問題があるというより,UIに問題があったと思います。私は,現在のiPhone でそれほど不満がありませんが,ただそれは慣れているだけで,使いやすいものが出てくれば,とっとと乗り換える気持ちは十分にあります。
 ちなみにパソコンのECサイトは,楽天市場が妙に使いにくいと思うのは私だけでしょうか。情報がゴチャゴチャしていて,Amazonのほうが使いやすいです。でも,これは慣れのせいかもしれません。
 iPhone やAmazonが良いと思えてしまうのは,UIがすぐれているからなのか,それとも,すでに取り込まれてしまっていて,その慣れによるにすぎないのか,ということを冷静に見極めると,もっと快適なユーザー生活ができるのでしょうね。ただ年齢がいってくると,この慣れの要素が重くなって,スイッチングコストが高くなってしまうところが問題なのでしょう(父には,ガラケーから無理にスマホに変えてしまったことを,申し訳なく思っています。結局,いまは固定電話ですが,LINEでのやりとりができなくなってしまいました)。高齢化とデジタル化が進行するなか,高齢化仕様のデジタル機器のUIの質の向上に期待したいです。サービス業者のスイッチも簡単にできるようになれば,なお良しです。

2022年6月19日 (日)

有罪率99.9%の功罪

 一昨日に続いて刑法の話です。司法統計年報(令和2年)によると,地方裁判所で無罪となった事件が72件(総数が47117件なので,無罪率は0.0015です)です。有罪率99.8%です。つまり日本では起訴されるとほぼ100%近く有罪となるとして,カルロス・ゴーン(Carlos Ghosn)やそれに乗った外国人(や日本人)が批判していました。人質司法がどうかはさておき,有罪率が高いことだけをみれば,有罪となるような事案だけが起訴されているからだと考えることは十分可能でしょう。
 ところで日本では,逮捕されても,起訴されないことが多いと言われており(不起訴処分),この点が一昨日に再掲したイタリアの事情とは異なっています。また起訴されて有罪判決となっても,執行猶予がつくことが多いと言われています。冤罪事件もあるのですが,圧倒的多数のケースでは被疑事実がほんとうにあるのであり,ただ,そのときでも,実刑をうけないことが多いという事実のほうが非常に重要だと思えます。日本の刑事司法は,犯罪をしたから処罰をするということだけを考えているのではなく,犯罪の種類によりますが,被疑事実を認め,被害者と示談をしたり,反省していたりするなど,悔い改める姿勢をとっていれば,できるかぎり許そうとしているのでしょう。このような扱いが,実は再犯を防止し,治安の維持につながっているとも言われており,そこは非常に評価すべき点ではないかと思います。ただし,ほんとうに身に覚えのない事実であるために否認している場合もあるのであり(男性諸兄にとっては,痴漢の冤罪がこわいですし,教員であれば,ハラスメントの冤罪がこわいです),そのときに否認しているがゆえに長期的に勾留され,あげくに嘘の自供をさせられるというのは,重大な人権侵害となります。とくに社会的に有名な人が関わる事件で,検察の威信をかけたものとなると,逮捕した以上は,起訴し,有罪にもちこまなければ面子にかかわることになり,そこにひょっとしたら無理が生じて,村木厚子さんのケースのような証拠捏造という恐ろしいことが起きてしまうのかもしれません。最近でも一部上場企業の社長の事件が,起訴されたものの,無罪判決で確定したものがあり,国家賠償事件となっています。
 こういうことが起きてしまうのは,実は,被疑事実を認めない人の圧倒的に多数は,犯罪をおかしているにもかかわらず,それでも自分の罪を認めないというきわめて悪質な人であり,それが99%の範囲の人なのでしょう。しかし,ほぼ100%という数字が,わずかに紛れ込んでいるかもしれない,ほんとうに無実の人の叫びを聞き落としてしまう危険性があり,検察官には,そこをきちんと見極めてほしいのです。検察官が起訴の段階でしっかりスクリーニングしているという信頼が高い日本社会では,起訴だけで社会的信頼は失墜するので,裁判で無罪となっても,そこから信頼回復するのは,普通の人は不可能に近いのです。こうしたことになるのは検察官に高い信頼があるからであり,それだけ検察官には重い責任があるといえます。
 起訴便宜主義には,メリットとデメリットがあると言われています。デメリットの一つは,巨悪を見逃しているのではないかという批判ですが,私は,検察官は,実体法の範囲でやれる限りのことはやっているのではないかと思っています。検察審査会という民主的チェックもあります。むしろ,上記のような治安面でのプラスの効果も考えて,起訴便宜主義を評価しなければならないと思っています。問題は,犯罪者の発言とはいえゴーンの批判が,海外にも大きく報道されて日本は後進的という印象を国際的に植え付けられそうな点です。そうしたことが起こらないように,検察には頑張ってもらいたいところです。
 取調べの可視化は重要ではありますが,それだけでは十分でありません。検察官にも(岸田首相流の?)被疑者の供述の「聴く力」をしっかりもってもらい,同時に供述の嘘を見破るスマートなスキルを身につけてもらえればと思います(嘘の供述を意図的にさせてしまうのは論外です)。
 そして,ここでもAIは活用されるべきではないでしょうか。刑事分野でのAIの活用というと,プロファイリングを活用した容疑者捜しや再犯可能性の予測などが典型的ですが,画像解析による供述の信憑性の判定などにおいても,利用できるでしょう。「デジタルファースト」は刑事司法でも重要な原則ではないかと思います。