社会問題

2022年11月26日 (土)

リスクコントロール

 学部の少人数授業で,AIとリスクという問題について少し議論をしました。新しい技術のリスクを重視しすぎると,利便性を高めるチャンスを逸することになりますが,それはリスクの内容と程度によるということでしょう。日本人はリスク回避的な傾向があると言われますが,それが悪いことばかりとはいえません。もっとも資産形成において,あまりにリスク回避的であると,老後の生活資金が不安になることはあります。学生たちは金融教育を受けていないようであり,したがって投資についても,やたらとリスク回避的になったり,逆に無謀なことをしたりする可能性があるのです。岸田政権はNISAの恒久化などを言っていますが,金融教育がもっと広がらなければならないでしょうね。
 ところで技術とリスクの話に戻ると,そこで必ず出てくるのが,原発のリスクです。私は原発問題については,定まった意見がないのですが,この夏に岸田政権が原発稼働に積極的な立場を打ち出しこともあり,少し不安になりはじめているところでした。
 ということで,かなり前に入手していた樋口英明『私が原発を止めた理由』(旬報社)を読んでみました。元福井地裁裁判長で,福島の事故後において,大飯原発の運転の差止めを命じた裁判官が書いた本です。裁判官が自分の裁判の内容について解説するのは,非常に珍しいことでしょうが,それだけこの裁判は,樋口氏の魂がこもったものだったのでしょう。樋口氏の考えや裁判官としての姿勢に賛同するかどうかはともかく,この本は読むに値すると思いました。
 樋口氏は,原発稼働の判断は,専門技術者にゆだねてしまうべきものではく,普通の人であっても理性と良心に基づき行うことができるものだと述べ,その理由を丁寧に説明しています。要するに,原発の想定している地震は700ガル以下であり,それ以上の地震が来れば安全ではないが,そうした地震が来る可能性はないので,原発は安心だという電力会社の論理は,おかしいだろうということです。過去に700ガルを超える地震は起きており,原発の耐震性はきわめて脆弱であるから,彼は原発を止める判断をしたのです(しかし,控訴審で覆されました)。
 興味深いのは,裁判官の役割とは何かについての,樋口氏のスタンスです。共感したのは,専門的なことだからといって,専門家の判断に任せてしまってよいのかという疑問をもち,専門外であっても自分なりに納得できる判断をしたいという姿勢を貫いていることです。文系には理系コンプレクッスがあり,専門技術的な話に入り込むと手も足も出なくなりますが,実はほんとうに優秀な専門家は,理系,文系に関係なく,素人にわかりやすく説明できるのであり,それができないということは,実は専門技術的な話に巻き込んで素人を煙に巻いてしまおうという作戦である可能性もあるのです。賢い人は,プライドもあって,自分がわからないことにはノータッチであろうとしますが,それは知的怠慢なのかもしれません。
 樋口氏は,この本の最後のほうで,「この本を読んでしまった皆さんにも責任が生じます。自ら考えて自分ができることを実行していただきたいのです。」と書いています。私も自分でまずはしっかり考えてみたいと思います。
 いずれにせよ,樋口裁判長の判決は,たんなるゼロリスク信奉からくるバランスの欠いた判断であるという批判が的外れであることは,よくわかりました。理系の人からは,そうした批判もあるのですが,樋口氏がゼロリスク論者でないことは,この本を読めば明らかです。むしろ人間の生命や健康に多大な影響をもたらすリスクを,どうコントロールするのかに真摯に向き合っています。それについて国民を安心させる「説得責任」は,やはり原発推進派のほうにあるのでしょう。高校生にもわかるようなロジックで説明してもらいたいですし,もし岸田政権が原発推進論に乗っかるのであれば,首相自らきちんと説明をする責任があると思います。電力供給不足(一時的な問題にすぎない)や脱炭素(原発事故の環境破壊のほうがすさまじい)などをもちだすのは,論理のすり替えであり,ぜひ原発事故のリスクについて,それをきちんとコントロールできるということを正面から私たちに対して説得してもらいたいのです。要するに私たちは安心したいのですが,政府にそれができるでしょうか。

 

2022年11月22日 (火)

カスタマーハラスメントの背景

 大学院の授業で扱ったNHKセンター事件(横浜地裁川崎支部20211130日判決)は,NHKの放送普及などを行う一般社団法人においてコールセンターのコミュニケーターに従事している労働者で,約17年間,有期労働契約を更新したあと,20198月に無期転換した者が,60歳定年を理由に同年末に継続雇用の拒否が通知されたというケースです。判決は,この拒否を適法としました。本来は高年法9条の私法上の効力という論点が関係しており,これについては,たとえ私法上の効力を否定したとしても,就業規則や再雇用規程を根拠とするなど,いろいろな解釈的手法をもちいて,定年後の雇用継続を認めようとする議論が展開されてきました。かりに高年法9条に私法上の効力がないとしても,それは,同条を直接の根拠として継続雇用が認められるわけではないというだけで,別の法的可能性は否定されていないわけです。実は,本判決は,継続雇用拒否が妥当性を欠くわけではないと述べているのですが,その「妥当性」が何についての判断なのかが明確ではありません。もし「妥当性」が欠けていれば,いったいどのような結論になっていたのでしょうか。雇用が継続するという結論になったとしても,それは何が根拠となるのでしょうか。明確なのは,原告労働者が定年に到達していることと,高年法には私法上の効力を認めない立場であること(学説上はもちろん異論はあります)であり,そうするとなぜ雇用継続が認められるかの法的根拠が必要となるわけです。この判決は,そのような法的な判断根拠を示さず,ただ結果だけ述べた不十分なものと思われます。
 それはさておき,私は無期転換組と当初からの無期雇用組では,雇用保障の程度が異なることには合理性があると考えています。その点では,本判決の結論が「実質的にも」妥当といえる余地がありそうです。また,客からすると,客と議論してしまうようなコミュニケーターは困ったものであるという気もします。電話での対応がよければ,企業への好感度が高まることからすると,やはりコミュニケーターの接客力は重要です(個人的には,ソニー銀行のお客様対応がこれまで一番よかったので,いまでも好印象です)。とはいえ,猥褻目的のものも含め,困った問題顧客にまで丁寧に対応すべきとはいえないでしょう。
 これはカスタマーハラスメントへの対応という問題と関係します。本件は,この点も問題となっており,裁判所は,使用者側の対応に問題はなかったとしています。一般論として,困った顧客がいるとき,「お客様は神様」という姿勢での対応を従業員に求めるのは,そのこと自体が従業員にとってのハラスメントになるでしょう。また本件では,判決は委託元のNHKへの配慮という点も考慮していますが,それを言い出すと受託法人の従業員の立場はきわめて弱いものとなるでしょう。委託元もお客様で,それも神様となってしまうでしょうかね。これは業務を外注化するアウトソーシングのもたらす弊害といえそうです。
 かつて私は『雇用はなぜ壊れたのか―会社の論理vs. 労働者の論理』(ちくま新書)という本のなかで,会社の論理と労働者の論理の対立を論じたうえで,最後に労働者の論理と生活者の論理との対立にふれています。日本では両者の論理が絶妙のバランスをとっているというのが,同書を書いた約15年前の私の見解でした。もっとも,その後は,生活者の論理,さらには消費者の論理が徐々に強まってきているような印象ももっています。労働者もまた消費者です。自分が労働者として虐げられているから,消費者になったときには同じことをするというのでは,世の中はよくなりません。そこを逆転させるのは,本来は,労働組合の役割なのかもしれません。労働者の論理を通し,自分が消費者になったときには不便を我慢するということが広がれば,カスタマーハラスメントの状況も,変わっていくかもしれません(以前にも同じようなことを書いた記憶があります)。
 カスタマーハラスメントの法的問題については,ビジネスガイド(日本法令)に連載中の「キーワードからみた労働法」の次々号のテーマで採り上げたいと思っていますので,詳細はそちらに譲ります。

2022年10月20日 (木)

現世代バイアス

  10月18日の日本経済新聞の「大機小機」で,「現世代バイアス」ということが書かれていました。現在の政策の影響は,将来世代にも及ぶにもかかわらず,その意思決定は現世代だけで行われるから,どうしても現世代に有利で将来世代につけを残すような政策が採用されがちになるということを,このように呼んでいます。
  その対策としては,赤ちゃんにも投票権を与えて,親が代理人として投票するという方法が提案されています。もう一つは,政治家が現世代の要求に安易に応じてしまうことを防ぐために,専門家からなる独立機関を作って意思決定をさせるという方法も提案されています。もう一つ紹介されているのが,「フューチャー・デザイン」という手法です。これは,意思決定の際に仮想将来人をグループに入れて,例えば20年後の人になったつもりでプロジェクトを考え,意見を出してもらう,ということです。 日本でも実践例があるようです。
  こうした将来構想をとりいれる自治体が増えていくのは望ましいことです。人口減少が進む地方ほど,本気でこういうことを考えていく必要を自覚しているのでしょうが,ほんとうは都市部も同じことのはずです。
  環境問題は,まさに「現世代バイアス」に関わります。原発問題もそうでしょう。将来世代にツケを残さず,現世代の利益もある程度守られるような社会設計は容易ではないでしょうが,テクノロジーもうまく活用して実現していかなければなりません。
  国民みんなが次世代のことを少しでも考えるだけで,ずいぶんと社会が変わるような気がします。何が何でも選挙に通りたいと考える政治家こそが,「現世代バイアス」を増幅させる元凶となっています。政治から距離を置いた独立した意思決定機関に委ねるのは,民主主義の否定をみるべきではなく,民主主義の補完形態としてうまく活用すべきものでしょう。本来は,参議院にこそ,そういう機能をはたしてもらいたいのですが……。

2022年10月 7日 (金)

ミサイルと海の環境被害

 北朝鮮がミサイルを撃ち続けていますが,陸地や船舶・飛行機などに落ちてきて人的被害が出ないかとても心配で,ほんとうにやめてもらいたいです。もしJアラートが鳴ったらどうしましょうかね。どこに逃げたらいいのか,よくわかりません。あんなミサイルが落ち来たら,家の中にいても意味がありませんよね。各自治体はあちこちに巨大なシェルターをつくる必要があるのかもしれませんね。
 人的被害がでなければよかったというものでもありません。ミサイルが海に落ちたあと,どうなるのでしょうか。海はゴミ箱ではないのであり,落とした以上,拾ってもらいたいものです。それに有毒な物質が含まれている可能性が高いでしょう。
 人的被害が一番の懸念事項ではありますが,環境問題という観点からも,ミサイルを撃つこと,さらには軍事演習で海にミサイルを落とすことについて,もっと批判的な目を向ける必要があると思っています。どうしても演習でデータを得ることが必要というのであれば,デジタルツインの活用などもできるのではないでしょうか。
 「海は広いな大きな」ということで,有害物質を流し込んだり,いろんなものを投棄したりしても大丈夫と考えがちです。原発の汚染水の海洋放出なども,政府は健康に被害がないといいます。たしかに,少々のことならそうなのかもしれませんが,世界中でそういう小さなことが積み重ねられると,長い年月を経て海の生態系に影響し,ひいては人間の健康にも影響がでるのではないかと気になるところです。
 日本には水俣病などの悲惨な過去があります。あそこまでひどい有害物質(有機水銀)が放出されることは,今日ではないと信じたいですが,それでも不安はあります。動物性のたんぱく源は,歴史的にも長い間,陸上の動物の肉ではなく,魚に頼ってきた日本人にとって,海や川のきれいさにはこだわるという感覚が,DNA的にあるはずだと思うのです。
 北朝鮮の暴挙は論外ですが,軍事演習でも人的被害や物的被害がないだけで安心せず,要するに,「お魚さん」に被害がでないようにしてもらいたいものです。そういうことを言うと,どれだけの被害があるかの科学的データを出し,軍事演習の効果と照らして判断すべきというような議論になるのかもしれませんが,環境被害の数値化はできるのでしょうか。国土を守るためだから,環境は二の次というのにはやや抵抗があります。甘い議論なのかもしれませんが。

2022年9月23日 (金)

霞ヶ関はホワイトになれるか

 21日の日本経済新聞で,河野太郎デジタル大臣が,「霞が関の崩壊が始まっている」と述べて,中央官庁の人材流出に危機感を示し,優秀な人材の確保へ業務内容や人事評価を改革する必要性を訴えたと報道されていました。
 15日のランチセミナーで,霞ヶ関はブラックで人材が集まらないということを口にして失言したかなと思っていたのですが,大臣の口から語ってもらえたので,私の発言は失言にはならないでしょう。
 このブログでも書いたことがありますが,私のゼミ生をみても,厚生労働省を辞めてしまったことを始め,霞ヶ関以外でも,大企業に就職したけれど,そう長い年数を経ずに転職している人が少なくありません。期待していたことと,実際にやらされることとのギャップに耐えられない若者が多いのです。多少の期待外れというのは,どうしても避けられませんが,問題は,それが耐えられない程度であるかです。組織に自分を合わせていく人と,そうでない人がいます。最近の若者には後者のタイプが増えているように思います。昭和世代の上司からすると,そういう若者は根気がないと評価してしまいそうですが,根気などの問題ではないのです。価値観が違うのです。価値観が多様化しており,仕事に重点を置いている人はそれほど多くないということを,昭和世代の上司は知っておくべきでしょう。給料は高いほうがよいでしょうが,そのために犠牲にしてもよいと思えるものはそれほど多くないということです。出世もそんなに望んでいません。もちろん,昭和世代の感覚にマッチする若者もまだ少なからずいるでしょうから,気づかないかもしれませんが,それは類は友を呼び,自分の周りには同じ価値観の人が集まっているだけで,全体でみると少数派かもしれないのです。
 とはいえ,企業が若手に迎合して,人を集めたとしても,長くいてもらうのは大変です。むしろ企業は明確に自社の理念やパーパスを掲げ,それに合致する人だけ来てもらえば十分とする一方,それでも社員が辞めていくことを前提に人員体制を組み立てていくべきではないかと思います。とりあえず人を集め,じっくり育てて行くというスタイルでは,その企業によほどフィットしないかぎり人は残らないでしょう。前述のように,かつては社員から企業に合わせていったのですが,社員はすり寄ってこないわけですから,退職者がある程度多く発生するのも仕方がないのです。
 こういうなかでも事業を継続して展開できるような柔軟でかつ強靱な企業が生き残るでしょうが,そもそも企業というものの形も大きく変わっていくでしょう。それが,よく言及するプロジェクト型企業というものです。特定のプロジェクトを立ち上げて,そこにプロ人材が集まり,プロジェクトが終了すれば解散するというタイプです。
 それでは霞ヶ関はどうかです。中央官庁の行政は継続的でなければ困るのですが,それでも持続的な行政組織であるためには,実は内部はつねに変化をしていかなければならないのだと思います。それは仕事の仕方もそうですし,仕事の内容もそうです。昭和世代の上司がやってきた方法で,平成生まれの若者がついていく可能性はきわめて低いと考えたほうがよいでしょう。
 国をよくしたいと考えている人は,どの世代にもいます。そういう人が集まって,国のためのプロジェクトを作り,そして提案をして行政に生かしていく,というようなあり方も考えていくべきでしょう。プロジェクト型行政です。次官レースがどうだとか,大企業の幹部と癒着したりとか,そういうことをやっている上司がおらず,そして政治家に怒鳴られたり,ペコペコしたりしなくてよい環境で,ほんとうにやりがいのある仕事をできる場を提供することが,いまの霞ヶ関には求められているでしょう(テレワーク時代ですから,霞ヶ関に集まらなくても仕事ができるようにしなければなりませんが)。
 河野大臣の方向性は賛成ですが,本気でそれをやるなら,よほどのリーダーシップを発揮して組織改革に取り組むことが必要です。かけ声だけで,あとは若手に任せてやっておけというのであれば,従来と同じです。ブラックの改善をホワイトなやり方で実現する。これが河野大臣にやってもらいたいことです。

 

2022年9月 8日 (木)

幼い子どもを守れ

 牧之原の認定こども園の子ども置き去り死亡事故は,あまりにも可哀想で言葉を失います。酷暑のなか,水を飲み尽くし,必死に助けを求めていたであろう3歳児のことを思うと,関係者の人命軽視への怒りが収まりません。最初にうっかり置き去りにしてしまっても,その後も,子どもを救う機会は十分にあったはずであり,関係者の誰か一人でも気がついてくれていたら助かっていたのです。大事に育てていたはずのご両親や親族の悲しみを思うと胸が引き裂かれる思いです。
 これはバスでの送迎のチェックの徹底とか,そういうことをすれば十分という話ではないように思います。普通の保育所は,そんなことは言うまでもなくやっているのです。こういう事故を起こすところは,幼い子を預かるということの重みをわかっていない人が経営に携わっていると疑いたくなります。いくらチェック体制を強化しても,人の問題であれば限界があるような気もします。
 ところで,児童福祉法45条に基づき設けられている「児童福祉施設の設備及び運営に関する基準」の33条2項によると,職員配置基準は,(「おおむね」ということですが)0歳児の場合,3人に保育士1人, 1・2歳児の場合,6人に保育士1人,3歳児の場合は,20人に保育士1人,4歳児以上の場合は,30人に保育士1人となっています。3歳児20人を保育士1人がみるのは,かなり無理があるでしょう。2歳児6人を1人でみるのも,いくらプロの保育士でも限界ぎりぎりでしょう。日本は世界的にも基準が緩い国のようです。とくに3歳児以降は,危険水準です。たしかに,基準を強化すると,人件費負担で運営できない保育所も出てくるかもしれません。しかし,これは生命や安全の問題であると考えると,コストがかかるなら,税金を投入すべきなのです。国葬など無駄なことにカネをかけるくらいなら,もっと意味のあることに税金を使ってほしいです。
 人手不足も深刻なのでしょうが,有資格の潜在保育士がいるのであり,処遇改善すれば労働市場に戻ってくる可能性は十分にあります。
 岸田政権は,「人への投資」と言っていますが,幼い子が命を危険にさらしながら育っていること自体,「人への投資」の前提の問題として,対策に手をつけるべきでしょう。また預ける親が,安心して仕事ができないということも,「人への投資」の前提の問題と考えるべきでしょう。
 さらに言うと,ここでもデジタル技術が使われるべきなのです。韓国では,送迎バスの置き去りがないようにIT技術を使っている(運転手らが最後方のボタンを押さなければアラームが鳴るなど)と報道されていました。人為的なミスをできるだけ避けるための工夫が必要です。できれば,保育所内にカメラを設置して,保護者はいつでも子どもの状況をPCやスマホでチェックできるようにするということも検討してもらいたいです。今回ももしそういうシステムがあれば,親が子どもがいないことに気づいて,すぐに保育園に連絡できたかもしれません。企業は,職場で親がリモートで子どもをチェックしていることを,職務専念義務違反と言わないようにしてもらいたいです。
 もちろん,普通は,親は保育所を全面的に信用していますし,多くの保育所は信用に値するところです。それでも,こういうことがあると,全面的に信用してしまってはいけないのだと思います。誰でもミスはあります。それに幼い子どもたちは,何かあっても親には伝えることができません。保育現場をガラス張りにしてもらえれば,ずいぶんと安心感が高まります(実際,職場のすぐ横に保育所を設置して,文字どおりガラス張りにして,働く親が常に子どもの状況をチェックできるようにするサービスを展開している企業の話を聞いたことがあります)。そういうところにこそ,税金を投入してもらいたいのです。

2022年7月22日 (金)

国民葬の正しいやり方

 安倍元首相の葬儀は国葬でやることが閣議決定されたそうです。国葬とすることによって,国家行事となるのでしょう。この葬儀は,安倍元首相への弔意に基づき行うというのは違った性格をもつことになるでしょう。人の死亡の政治的利用と思えなくもありません。多くの税金が使われる可能性もあります。すっきりしないものがあります。
 読売新聞オンライン(https://www.yomiuri.co.jp/politics/20220714-OYT1T50431/)によると,岸田首相は,多大な功績があったからだと言っているようですが,政治家の功績について,同じ自民党内で評価するだけでは国葬の理由としては不十分に思えます。もし自民党内でそういう声が多いのであれば,自民党で葬儀をやればよいと思います。
 多くの国民が,葬儀の行われた増上寺や奈良の亡くなった場所に詰めかけているのは,その非業の死を悼む気持ちからであり,その政治的な功績とは関係がありません。安倍元首相は有名人であり,スターだったのです。彼が来るといえば,見に行きたくなるという人だったのです。そういう人だから多くの国民が悼んでいるのです。私だって近くに住んでいれば,手をあわせにいくでしょうが,だからといって国葬を望んでいるわけではありません。
 時代の流れは,葬儀はシンプルにというものです。安倍元首相のご家族がどのような葬儀をするかについては,他人がとやかく言うことではありませんが,政府が,国葬として盛大な葬儀をすることが,故人をしのぶ良いやり方であるという発想に基づいて行動しているのであれば,それに違和感をおぼえる国民は多いでしょう。
 かりに政府で何かやりたいのであれば,クラウドファンディングで資金を集めればよいのです。あっというまに億単位のお金が集まるでしょう。葬儀の費用って,いくらでもかけることができるものですが,クラウドファンディングで集まった資金が民意であるとみて,その範囲でできることをやるというのが,ほんとうに国民の気持ちに寄り添った葬儀になるのではないでしょうか。
 多額の税金を使うとなると,アベノマスクなどの安倍政権時代のネガティブなことが想起させられて,かえって国民の弔意に水を差すような気がします。物価高で国民の生活苦が本格化すると予想される秋に,こういう国家行事をやることの政治的センスも問われることになるでしょう。
 首相が私人として安倍元首相追悼プロジェクトを立ち上げて,クラウドファンディングで資金を集め,国民の弔意を全面に受けながら国民葬を主催するというのであれば,反対する人はいないでしょうし,野党も反対できないでしょう。そして,岸田首相は若者も含め多くの国民から大喝采をもって迎えられるでしょう(そういうときに,補助的に国費を投入するということも,あまり反対する人はいないと思います)。
 どうやったら自民党の保守派に気に入ってもらえるかということではなく,どうやったら国民の多く(自民党支持者だけでない)に気に入られるかを考えてほしいものです。税金は,国民のことを考えて,大切につかってください。
 

2022年7月14日 (木)

ジェンダーギャップ指数の読み方

 恒例の世界経済フォーラム(WEF:World Economic Forum)のGlobal Gender Gap Report2022年版が発表されました。日本の総合順位は116位で,先進国のなかでも,また東アジア・太平洋地域のなかでも最下位ということで,みっともない感じです。もっとも,こういうランキングは,何に着目して評価されたかが重要です。主たる評価項目は,Economic participation and opportunityEducational Attainment, Health and SurvivalPolitical Empowerment4つで,それぞれ経済,教育,健康,政治と略することができるでしょう。このうち,日本は,教育は1位ですが,経済が121位,健康が63位,政治が139位です。たしかに,経済と政治が低いのはわかるのであり,ここは改善しなければならないところですが,健康が63位というのは解せません。WWFは,Sex ratio at birthHealthy life expectancy でみたようです。つまり,出生時の男女比率と健康寿命です。実は日本は,前者は1位,後者は69位なのです。日本は平均寿命も健康寿命も女性のほうが高いのですが,健康寿命の男女差はそれほど大きくありません。ここがマイナス評価となったのでしょうか(レポートを詳しくみれば説明してあるかもしれませんが,それは他の方の分析に任せます)。健康寿命の男女差が順位を引き下げている(比重はそれほど大きくないかもしれませんが)とすると,大いに疑問があります。むしろ平均寿命が女性のほうが男性よりかなり長いことなどもふまえると,健康面での格差があるとは考えられず,それに教育レベルでの格差がないにもかかわらず,管理職の女性比率や政治面での議員・閣僚の女性比率が小さいということを,どう読み説くかというこそ大切です。教育水準が上がっても,そういう女性人材を,日本社会は十分に使いこなせていないことが問題なのです。これは人権問題というようなことではなく,日本社会の仕組みが非効率になっていると捉えるべきでしょう。人権問題とみてしまうと,実は女性の幸福度はそれほど低くないといった議論も出てきて,話が混乱してしまいます。私は個人的には,政治家になりたくない,管理職や経営者になりたくないと女性が思うのなら,それを尊重すべきであるので,結果としてのジェンダーギャップだけながら必ずしも問題視しませんが,実は,その根底にある日本社会の(かつての成功の基礎となった)「男の論理」で,女性の能力発揮が妨げられている状況があることが,真の問題だと思っています。能力ある女性が,大企業から離れて,フリーランスになったり,スタートアップで活躍したりするのは,組織文化に愛想をつかしているという面もあるはずです。能力ある女性に見捨てられるような組織が社会に数多く存在している状況こそ,日本の危機なのです。
 政治の世界はなかなか変わりそうにありません。今回の参議院選挙で,女性の当選者が増えたとはいえ,まだわずかです。それのみならず,その選挙スタイルは旧来型のようです。全員をみたわけではありませんが,当選したら支援者に囲まれて万歳をして,深々と頭を下げてお礼をするというようなところに象徴されています。これでは男性文化に染まった女性が増えただけではないかという懸念があります。そういう女性が増えてジェンダーギャップの数値が減少しても意味がないのです。男女は別であることを前提に,男性中心の論理,文化,考え方を揺るがせて,新しい風を吹き込むことこそ,女性に期待したいのです。それは,新しい価値観をもつ人が増えている若い男性にもフィットするものです。こうして男女ともに,生きていくうえでの様々な場面で選択機会が広がっていくことが理想です。
 ところで,私の周りをみてみると,大学は,普通の社会よりも比較的男女平等が進んでいるところだと思いますが,労働委員会の委員をみると,どうでしょうか。全国における労働委員会委員の女性比率,さらには会長,会長代理の比率を一度,調べてみてもよいでしょう。絶望的な数字が出てくる予感があります。さすがに中央労働委員会は,公益委員は,(名前だけからの推測ですが)女性が7人いて約半分です。会長代理には,両角さんがいます(いつかは,女性会長が誕生するかもしれませんね)。

2022年7月10日 (日)

安倍元首相事件の影響

 暑さとコロナのぶり返しや,安倍元首相の死亡という暗いニュース(何度もテレビで流されたものをみて,脳に残ってしまい,その夜は寝苦しかったです)で,陰鬱な日曜日でしたが,そういうなか,参議院選挙の投票に行ってきました。投票場は,歩いて15分くらいの近所の小学校ですが,行って帰ってくるだけでぐったりです。オンライン投票に変えてもらいたいものです。投票場でのあまり手際のよくないアナログ的な手順も,不快指数を高めました。現場で働く方は頑張っているのでしょうが。
 ところで,安倍元首相の襲撃事件について,奈良県警の不手際が指摘されていますね。起きたことがあまりにも重大なので,警備態勢が批判されても,しかたがありません。ただ,あのような無防備な場所で演説ができること自体が,日本が平和で安全であることの証しともいえます。前の参議院選で当時の安倍首相の遊説に対して,野次を飛ばした人が排除された事件で,今年の325日に札幌地裁で国家賠償を認める判決が出ていますが,その当時から,警察が聴衆の野次などに神経質に対応していたことがわかります。襲撃者がいるとすれば,政治的な背景がある人で,そういう人は本人に向かって野次を飛ばしたり,何か叫んだりするだろう,という思い込みがあったとすると,どうしても背後は警備の死角になってしまいますが,今回もそういうことだったのでしょうか。
 警察としては,個人的な逆恨みによる強い殺意をもっていて,しかも銃の扱いに長けているような人の犯行となると,その対策は難しかったのかもしれませんが,言い訳にはならないのでしょうね。今後,日本で外国の要人を招いた会議などを実施するためには,日本の警察の信用を回復する必要があるでしょう(来年は広島サミットもあります)。テロリストに狙われる危険性のある外国の要人からすると,政治家として日本で最も重要な人の一人(元首相で,首相退陣後も与党の最大派閥の領袖であった)が,白昼堂々と,演説中に背後から銃弾を1回のみならず2回も発射されて殺されるような国には,怖くていけないでしょう。安倍氏の事件は,自民党の勝利に貢献した可能性があります(香典票)が,そのような影響だけでなく,警備についての国際的な信用を失墜させた影響も心配です(アメリカのBlinken国務長官は,弔問に日本に立ち寄ってくれるそうですが)。

2022年7月 8日 (金)

平和と言論の大切さ

 この日本で,政治家が銃弾に斃れることがあるなんて信じられないことですが,そういうことが起こってしまいました。安倍晋三氏のご冥福を,心よりお祈りします。岸信介の娘である安倍氏の母も,逆縁はほんとうにお気の毒です。
 私の生まれる前の事件でしたが,当時の野党第一党の社会党の浅沼稲次郎委員長の暗殺事件は,子どものころから,誰に教えられたわけでもなく,何となく知っていて,政治家というのは大きな危険と背中合わせの仕事だという思いをもっていました。あれから半世紀以上が経ち,この浅沼事件やさらに戦前の原敬暗殺,515事件,226事件などは,はるか昔の歴史上の出来事となり,政治活動とは平和的なものだというように多くの人が思うようになっていたと思います。元総理大臣で,なお与党内で権力をもっていた人が,選挙遊説中に殺されるなど,とても想像できないことでした。
 ただ,Putinの戦争が連日,メディアで報道され,アメリカで頻発している銃の乱射事件(個人だけでなく,警官も起こしている)も伝えられているなかで,なにか暴力的なものが私たちの日常に入り込んで,慣れを生んでしまうのではないかという懸念がありました。もちろん,これが今回の事件と関係しているのか,よくわかりませんが。
 今回の犯人に政治的な動機があったかよくわかりませんが,もし犯人が暴力で政治を変えようとしたのであれば,それは大きな間違いです。政治への不満は,言論と投票で表明すべきなのです。何のための普通選挙でしょうか。男女に関係なく,財産に関係なく,誰でも18歳以上であれば選挙できるのです。このことのもつ価値と力は重いものです。
 もちろん,今回の参議院選挙で,安倍氏の死への同情というだけで,自民党に投票するという行動はすべきではありません。「野党の言うことは聞かない」といったような民主主義の根幹を崩す発言をする大臣がいる与党内閣には,厳しい目を向けなければなりません。いずれにせよ,国民は,冷静に,どの政党や議員が平和と人権を守ることを最も真剣に考えているのかを判断し,そういう政党や議員に託すしかないのです。その努力を惜しんで,暴力に訴えても,何も変えることはできません。暴力は,結局は,権力者を利することになります。権力者による国民の自由の抑圧を正当化することになりかねないからです。たとえ権力の壁は厚くても,そこで歯を食いしばって言論を守ることこそ,私たちの社会の未来にとって大事なのです。選挙に負けた大統領が,議会を占拠するよう呼びかけるような野蛮な国になってはいけないのです。安倍氏の死を無駄にしないためにも,平和と言論の大切さを,私たちはいま一度しっかりかみしめ,子どもたちに伝えていかなければならないでしょう。