社会問題

2025年10月27日 (月)

地熱発電

 再生エネルギー嫌いと言われていたトランプ(Trump)大統領が,地熱発電に熱心であるという日経新聞の記事(高橋徹「トランプ氏が推す次世代地熱発電,日本に『国産化』の強み」)を見て,やや驚きました。その記事にあるように,トランプは,「地球温暖化なんて噓。愚かな連中による史上最大の詐欺だ」と公言し,「化石燃料を掘りまくれとたきつける」人です。
 なぜ地熱発電なのでしょうか。地熱発電は,地中深くにある高温の蒸気や熱水を取り出してタービンを回し,電気をつくるという仕組みです。地球の内部では放射性元素の崩壊によって絶えず熱が生まれており,この熱エネルギーを利用するわけです。これは地球の資源を枯渇させないという点で,再生可能エネルギーの一つではありますが,太陽光発電,風力発電,水力発電,バイオマス発電といった,太陽由来のものとは性質がまったく異なります。いわば「太陽の力」ではなく,「地球の力」を使うエネルギーなのです。従来,地熱発電があまり広がらなかったのは,コストとリスクの問題が大きかったからです。地中数千メートルを掘り進めるには膨大な費用がかかり,また熱源が安定して得られる場所は限られています。さらに日本などでは国立公園との位置関係から環境規制が厳しく,開発が容易ではありませんでした。
 ところが近年になって,コストの観点からは,掘削技術が飛躍的に進化していることが大きいようです。シェールオイルやシェールガスの採掘で培われたアメリカ企業の技術が,そのまま地熱開発にも応用できるようになってきたのです。つまり「掘ることが得意な国」であるアメリカにとって,地熱発電は自国の強みをそのまま生かせる分野だというわけです。
 この「アメリカらしさ」がトランプ氏の琴線に触れたようです。もちろん,AIの発達などにより今後ますます増大する電力需要に対応するためには,環境との折り合いをつけるという至上命題の下で,再生エネルギーに期待せざるをえません。そうした中で,これまで難しいとされてきた地熱発電が有力な選択肢として浮上してきたのだとすれば,注目すべきところです。
 記事のなかでは,「風力や太陽光と違い,サプライチェーンをほぼ国内で賄えるのは,円安進行によるコスト上昇を避け,経済安全保障を担保する観点からも見逃せない利点だ」とされています。エネルギーは,できるだけ国産化で対応してもらったほうが安心ではありますが,どこまで地熱発電に期待ができるでしょうか。

2025年10月 5日 (日)

ハッシーの事件に思う

 元将棋棋士のハッシー(橋本崇載)が,102日,大津地裁で,殺人未遂などの罪で懲役5年の実刑判決を受けました。元妻とその父親が住む住宅に侵入し,クワで2人を襲ってけがを負わせたとされています。弁護側は精神障害の影響を主張しましたが,裁判所は完全責任能力を認定したようです。
 ハッシーはA級まで上り詰めた実力者であり,人気者でした。私も大好きな棋士の一人でした。そのような人が,なぜここまで転落してしまったのか。多くの人が衝撃を受けたのではないでしょうか。もちろん,彼が重い法的責任を問われるのは当然ですし,被害者の受けた恐怖は残り続けるでしょうから,これで解決ということではないでしょう。ただ,あらためて,この事件を通じて考えさせられるのは,「家庭」という空間の特異性です。
 家庭は最も身近でありながら,最も閉ざされた場所です。そこでは愛情や支えが生まれる一方で,暴力や支配,そしてときとして孤立も生まれます。今回の事件の背景にも,離婚や親権などの家庭問題があったようです。家庭の中で起きることは「プライバシー」として外部から見えにくく,問題があっても周囲が気づきにくいのが現実です。 私たちは,家庭のことには他人が口を出すべきではないと考えがちですが,この考え方が行きすぎると,家庭内での暴力や心理的支配や孤立が見過ごされる危険があります。実際,日本で起きる殺人のうち,被疑者と被害者が親族関係にあるものが半数近くを占めるとされています。家庭は愛と平和の場であると同時に,最も深刻な犯罪の現場にもなりうるということです。
 多くの人は,普通の人は犯罪などおかさないと思っているでしょう。しかし,私は,ハッシーの事件は特別なものではなく,誰にでも起こりうることではないかと思っています。家庭という閉ざされた場所で起きるちょっとした暴力が,少しこじれて暴走すれば,何が起こるかわかりません。
 私的領域と公的領域の線引きはたしかに難しい問題です。プライバシーを守ることは大切ですが,隔離されて,みえなくなってしまうことの危険性もあります。その危険性は,ときに親族間の問題にとどまらず,無差別殺人など社会全体への脅威に発展しかねません。つまり,家庭という私的領域を完全に不可侵なものとして扱うことは,社会全体の安全をも脅かすことにつながりかねないのです。
 個人も社会も守るためには,私的領域を絶対視しすぎないということも必要です。家庭の問題だから仕方がないと片づけてしまわず,かといって国家が家庭のなかにずかずかと入り込むことも許されるべきではないので,そのバランスをどうとるべきか。ハッシーの事件はまさにこうした問いを私たちに突きつけているように思えます。

2025年9月11日 (木)

新浪氏の辞任に思う

 最近,違法サプリの問題を通じて「THC」や「CBD」といった成分について知る機会がありました。私は普段,サプリメントは「酒豪伝説」くらいしか服用していませんが,今回の新浪剛史氏(元サントリー会長)の辞任報道には驚かされました。
 サントリーは健康食品も扱う企業ですから,会長が違法成分を含むサプリを持っていたという疑惑が持ち上がればまずいですね。本人も,少なくともそのサプリにグレーな成分が含まれている可能性は認識していたでしょうし,それゆえ適法性の確認はしていたはずです。しかし,報道によればその成分は日本では違法とされていたとのことです。
 これに関係する麻薬取締法は,過失犯は処罰されないので,新浪氏がいう合法だと信じていたという主張がとおれば,故意が否定されて処罰されないことになります。経済同友会代表の辞任がまだ決まっていないのも,そうした法的判断が確定していないからかもしれません。とはいえ,仮に違法とは思わなかったとしても,リスクのあるサプリを服用していたという事実は残ります。会長辞任はそのためでしょう。
 依存症などでなければ,睡眠障害への対策だったのでしょうか。体質にもよりますが,眠れないまま重要な仕事をこなすのは並大抵のことではありません。私自身,時差ボケがひどく,頻繁に海外を飛び回るような仕事は到底できません。
新浪氏は体力的には恵まれていたのでしょうが,それでもサプリに頼らざるを得なかったのでしょうか。民間企業のトップでありながら,経済同友会など公的な役割も担っていた“スーパーマン”が,睡眠のためにサプリを必要としていたという事実は,現代の働き方の過酷さを象徴しているようにも思えます。
 もしそのような過剰な働き方がトップ層に常態化していたとすれば,周囲の社員や関係者にも同様の働き方を暗黙のうちに強要していた可能性はないか,という懸念も生じます。トップが休息を犠牲にして働き続ける姿勢を見せれば,それが「美徳」として共有され,結果として健康や法令遵守よりも成果やスピードが優先される風土が生まれてしまう危険性があります。「もっとゆっくり働いたらどうですか」と言いたくなるのは,単なる皮肉ではなく,現代社会における働き方の在り方への問いかけでもあります。過剰な責任を背負い,休息すら確保できない状況が,結果として法的リスクを招くのであれば,それは個人の問題にとどまらないともいえます。

2025年8月30日 (土)

三菱商事の風力発電事業からの撤退に思う

 三菱商事が,秋田県・千葉県沖で予定されていた大規模な洋上風力発電事業からの撤退を発表しました。これは,日本の再生可能エネルギー政策を代表する事業の一つと位置付けられていましたが,想定を大幅に上回る建設費や風車コストの上昇を理由に,事業継続は困難と判断されました。
 政府は「2050年カーボンニュートラル」に向け,2030年に洋上風力1000万kWの導入を目標に掲げています。今回の事業はその達成に向けた先行事例であり,国策を象徴するプロジェクトでした。それだけに,三菱商事の撤退は単なる一企業の経営判断にとどまらず,国の温暖化対策全体に影を落とす出来事となっています。入札を通じて事業を担う立場を選んだ以上,三菱商事には重い公共的責任があり,採算が合わないから撤退するというだけでは済まされません。地域社会にとっては雇用や経済効果への期待があり,国民にとっては再エネ導入の遅れが気候変動リスクの増大につながります。その意味で,今回の撤退によって企業が国策を遅らせた責任は小さくありません。
 もっとも,企業だけを非難することは適切ではないかもしれません。洋上風力は莫大な投資と長期的リスクをともなう事業であり,民間企業が単独で負担するには限界があります。それにもかかわらず,政府はコスト上昇や国際的な供給不安といったリスクを吸収できる制度を十分に整備できませんでした。入札制度を設計し,民間に国策を担わせた以上,政府自身も大きな責任を負っているといわざるを得ません。したがって今回の撤退は,企業と政府の双方の共同責任であり,どちらか一方を非難して済む問題ではありません。今回の事例を契機に,企業が安心して挑戦できる制度設計を進めてもらいたいものです。

2025年8月23日 (土)

ハッピーセット問題に思う

 私はもう長いことマクドナルドのハンバーガーを口にしたことはなく,ハッピーセットのことも詳しく知らないのですが,食事が粗末に捨てられているということを聞いて,それだけで,強い不快感をおぼえます。
 昭和中期世代の私としては,よほどの体調不良でないかぎり,外食であっても出された食事を残すことがそもそもできません。これは「フードロス」といった言葉では片付けられない,もっと根本的な嫌悪感です。自分の金で買ったから,食べるも捨てるも自由であるという考え方にはついていけません。他人がつくったものは,たとえ代金を払ったとしても,リスペクトすべきだと思うのです。所有することには,ある種の責任をともなうということにも通じるのかもしれません。
 もっとも,ファーストフードと呼ばれるものに「リスペクトに値する」要素があるのか,という問題はあります。アルバイトがマニュアルに従って機械的に調理した食品に対してまで,リスペクトすべきであるということには,どこか違和感があります。要するに,そうした食品はそもそも食べない方がよいということなのでしょう。もちろん,そこは好みの問題なので,他人に対しては強くは言いません。ただ,大量廃棄が問題となっている以上,企業としては,「うちの商品をそんなに粗末に扱わないでください」と言ってほしいです。それが自社商品へのプライドです。
 転売それ自体は違法ではありません。ポケモンカードが転売されることは,マクドナルドとしても想定していたでしょう。買い占めをする人が出てくることも予想していたはずです。そして,食品廃棄をする人も予想していたかもしれません。それでも売れれば構わないと考えていたのではないかという疑いがあるのです。
 カードをつけるのなら,グリコのおまけのように「買えば必ずついている」仕組みにすればよかったのです。それができないのなら,このような販売方法はやめ,誰も捨てたいと思わないような,魅力あるハンバーガーをつくってもらいたいものです。

2025年8月19日 (火)

クマと人間

 クマとの距離感をどう考えるか最近,日本ではヒグマが人を襲う事件が増えています。一度人間の肉を覚えたクマは必ず人を襲うようになるのだから射殺すべきだ,という意見もあれば,人間がクマの生息域に近づくから悪いのだから,クマを撃つのはかわいそうだ,と猟師などを非難する声もあります。社会にはこの両極の考え方が共存しています。
 そもそもクマは本来「人食い動物」ではありません。しかし雑食性であり,人間と同じように,食べられるものはなんでも食べる習性を持っています。通常は人間を恐れて距離を保ちますが,餌付けなどで人間への警戒心を失うと,食料不足の際に生活圏へ入り込んでしまうのです。つまり,人間の行為そのものがリスクを高める要因になっているのです。
 私たちがクマに抱くイメージには,大きなねじれがあります。セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)の逸話をきっかけに生まれた「テディ・ベア(Teddy Bear)」(テディはセオドアの愛称)は,世界中で愛される存在となり,クマの「かわいい動物」としてのイメージを定着させたと言われていました。しかし,現実のおとなのクマは猛獣であり,私たちが無邪気に近づける相手ではありません。
 思えば,人間そのものも,自然界ではもともと弱い存在でした。サバンナに暮らしていたころは,ライオンやハイエナなどに襲われることもあったのです。火の利用や集団での協力,さらに動物を特定の地域に囲い込むといった知恵によって,ようやく捕食者から身を守り,安全な暮らしを得てきました。しかしクマは今もなお,人間の生活圏のすぐそばに生息しています。
 アイヌの人々にとってクマは「山の神(カムイ)」とされ,イオマンテという儀式を通じて,人間の姿を借りて現れた神を,本来のカムイの世界へ送り返していました。そこには,畏れと敬いが同居していたのです。単に,私たちが,かわいそうだから殺すなと言っても解決にはなりません。クマを観光資源として利用したり,旅行者が安易に接近して餌を与えたりするのは愚かな行為です。
 必要なのは,クマと人間がどう共生していくかを冷静に考えることです。そのとき,観光という営みのあり方が大きな課題になるでしょう。

2025年7月18日 (金)

冤罪事件

 今週は司法試験が行われている週です。これに伴い,今日のLSの授業は休講でした。在学中に受験している学生もいるからです。この暑さの中,大変ですね。期間中に司法試験があるため,授業スケジュールがやや変則的になりますが,今日の回は飛んで,来週の授業が最終回となります。その次はいよいよ期末試験です。LSの期末試験については,例年,少し凝りすぎた出題をしてしまう傾向があるので,今年はややシンプルにしようかと考えています。ただ,まだ試験問題の提出締切までは少し時間があるので,もう少し悩んでみるつもりです。
 話は変わりますが,今日,福井女子中学生殺人事件の再審で無罪が確定しました。およそ40年間,「殺人犯」とされていた方の名誉がようやく回復されたことになります。こうした再審事件が目立ちますね。もちろん,事件そのものはずっと以前に起きたものですが,村木厚子さんの事件などはそんなに昔のことではないでしょう。法律に携わる者として,検察官が冤罪に加担し,裁判所がそれを見抜くことができなかったという事実は,極めて深刻な問題だと思います(真犯人を取り逃がしたということは,より大きな問題ですが)。自分の描いたストーリーに執着し,証拠と誠実に向き合うことができなくなるとすれば,これはきわめて危険なことです。それによって,無実の人の自由が奪われるのだとすれば,法の根幹を揺るがす重大事です。
 「何が真実なのか」という問いは,どれほど証拠と向き合っても,そう簡単に答えが出るものではありません。まずは仮説,つまり事前のストーリーをもって証拠を検討することは,ある意味でやむを得ないことです。証拠を調べるという作業は能動的なものであり,ただ受け身に証言を聞いたり,物証を眺めているだけでは,真実が見えてこないことが多いように思えるからです。だからこそ,複数の目で厳正にチェックする体制が必要です。確証バイアスもあります。そもそも仮説は仮説にすぎないので,何度も見直す必要があるのです。危険なのは,組織全体が間違った方向で統一されてしまうとか,一定のストーリーが優勢になってしまい,仮説がきちんと検証されないまま定説になってしまうことです。いったん,そうなると組織の論理が働き,そこから抜け出すのは難しくなりそうです。
 本来,法律家というのは,絶対的な正義や真理に疑いの目を向け,対立する当事者,原告と被告,弁護人と検察官が互いに主張をぶつけ合う中で,真実に近づいていくという考え方を前提にしているはずです。その原点に立ち直る姿勢が,いま,求められているように思います。

2025年7月 4日 (金)

経歴詐称

 公職選挙法235条は,虚偽事項公表罪について定めています。「当選を得又は得させる目的をもつて公職の候補者若しくは公職の候補者となろうとする者の身分,職業若しくは経歴,その者の政党その他の団体への所属,その者に係る候補者届出政党の候補者の届出,その者に係る参議院名簿届出政党等の届出又はその者に対する人若しくは政党その他の団体の推薦若しくは支持に関し虚偽の事項を公にした者は,二年以下の拘禁刑又は三十万円以下の罰金に処する」(1項)。
 伊藤市の市長が,市の広報誌に記載されていた「東洋大学卒業」が虚偽であった可能性が高いと報道されています。選挙期間中にこのような虚偽の経歴を公表していた場合は,上記の罪に該当するおそれがありますが,市長は「選挙中に公表したわけではない」と説明しているようです。もしそれが事実であれば,本罪に問われない可能性もあるでしょう。東洋大学の卒業であったかどうかが市長としての職責をするうえでどの程度の意味があるかは,よくわかりませんが,日本社会では,最終学歴が社会的評価に大きな影響をもつため,市民の関心が高まるのも当然です。市の広報誌とはいえ,「卒業」と明記していたにもかかわらず,実際には「除籍」だったとすれば,厳しい批判を受けるのは避けられないでしょう。
 個人的には,なぜ除籍となったのかが気になります。一般的には授業料未納や在籍年限超過などが理由として考えられます。もし,大学時代に「授業には出ず,”社会勉強”をしまくっていて,気づけば除籍になっていた」などと語っていれば,一種の武勇伝として受け取られたかもしれませんが……。
 ところで,「経歴詐称」という論点は,昨日扱った日本版DBSにも関係しています。労働法の通常の解釈では,業務と密接に関連する重要な事項について経歴を詐称した場合,懲戒解雇が認められることがあります。性犯罪歴がある場合についての経歴詐称をめぐる議論は,それほどないと思いますが,少なくとも企業は従業員や顧客の安全に配慮する義務の観点から,そうした人物を採用しないようにする必要があるでしょう。とりわけ,小児に対してサービスを提供する企業においては,小児やその保護者に対する広義の安全配慮義務が問われる可能性が高いでしょう(もっとも,実際に義務違反として損害賠償責任が認められるかどうかは,事案によります)。
 経歴詐称は,現在では,企業が関心をもつ従業員の個人情報の取得のあり方という観点からも議論されます。とくにそれが要配慮個人情報であれば,真実を答えなくてもよいということもありうるため,難しい論点となります。企業が,性犯罪歴の有無について調査をすることは,通常の職場であれば許容せざるをえないのですが,その調査の方法は,本人にとってきわめて高度なプライバシー情報であることを考慮し,それについて虚偽の回答をすることも含め,本人に真実告知義務を厳格に求めることは適切ではないように思います。他方で,本人のプライバシーに配慮したうえで,事業者が調査をすることは認められ,そこで得た情報は,事業者が責任をもって厳正に管理したうえで,採否の判断に利用することは認められるべきだと思います(性犯罪歴があり,それを秘匿していたことがわかった場合,採用拒否や採用後の普通解雇はできるが,懲戒解雇はできないということです)。おそらく日本版DBSを労働法の面からみていくと,このようなことになるのかなと思いますが,詳しいことはもう少し考えていきたいと思います(勉強すべきことがたくさんありすぎて,時間が足らないのですが)。

2025年7月 3日 (木)

日本版DBS

 最近,学校の教員による盗撮などの性加害行為が次々と報道されています。子どもたちの成長を支えるべき教員の中に,性的な対象として児童を見るような者が紛れているとすれば,それはもはや教育制度の根幹を揺るがす深刻な問題です。
 性的嗜好の幅広さや多様性について,私自身は頭ごなしに否定するつもりはありませんが,社会的に守られるべき子どもを対象とした性的関心は,それが表面化した時点で,もはや「多様性」などとは呼べません。たとえ一線を越えていなかったとしても,そのような嗜好が子どもに近づく職業に結びついたとき,そのリスクはもはや許容限度を超えるものであり,そこは厳しくチェックしなければなりません。
 昨年,「こども性暴力防止法」(学校設置者等及び民間教育保育等事業者による児童対象性暴力等の防止等のための措置に関する法律)が成立しました。現在は,施行に向けた準備が進められています。この法律の第41項では,「学校設置者等は,教員等としてその本来の業務に従事させようとする者について……,当該業務を行わせるまでに,……犯罪事実確認書……による特定性犯罪事実該当者であるか否かの確認……を行わなければならない」とされています。つまり,教員などを採用する際に,過去の性犯罪歴を「犯罪事実確認書」により確認することが義務づけられているということです。いわゆる「日本版DBS」と呼ばれる制度で,イギリスのDisclosure and Barring Serviceにならった仕組みです。
 子どもを狙う性加害は,本人や保護者の信頼を巧妙に利用し,優越的な地位を悪用して行われる卑劣な犯罪です。そしてこの種の加害者は,自己抑制が効かず,反復的に同じ行動に至る傾向があるとも指摘されています。すべての事例がそうだとは限りませんが,一種の依存症に近いものがあるのではないかという見解は,専門家の間でもあるようです。もちろん,医学的な確定的知見は専門家に委ねるべきですが,こうした行為の 深刻さと繰り返される性質を考えれば,より踏み込んだ措置で子どもの安全を守る必要があると思います。
 ところで,この問題は,学校等が雇った労働者の行為の規制という点では労働法上の問題がありますし,犯罪歴という個人情報を使うものであるので,労働法上の経歴詐称が関係するし,個人情報保護法上の問題もあります。加えて,憲法上のプライバシー問題も関係してくるでしょう。
 しかし,こうした法的問題に加えて,私はもう一歩踏み込んだ措置が必要ではないかと考えています。たとえば,小学校や学習塾の教室を原則としてガラス張りとし,授業の様子を学校関係者や保護者が見える形にすること,さらにAIなどを活用し,不審な動作を検出するような監視を導入することも,検討されてよいのではないでしょうか。
 もちろん,こうした措置は,労働者の人格的利益,とくにプライバシーや尊厳との間に緊張を生みます。すべての教員を「疑ってかかる」ような仕組みに見えるのも事実です。しかしながら,性的に子どもを標的にするような加害者が,年に何人も見つかっている現実の前に,私たちはより現実的な犯罪防止策を考えていくべきではないかとも思います。
 日本版DBSも,初犯には無力でしょう。初犯を防ぐにはどうすればよいでしょうか。そのためには,無責任な教育運営,教員への丸投げ,密室での授業といった現状を根本的に問い直さなければなりません。労働者の人格的利益は重要ですが,子どもの安全も,きわめて大きな価値です。とくに後者が侵されるときの回復不能性に注目すべきでしょう。
 現行法の枠を超えることかもしれませんが,立法論の観点も含めて,子どもを守るためにどうすればよいかということを,技術も活用しながら,そしてプライバシー概念についての根本的な再検討をしながら,議論が進められることを期待したいです。

2025年5月15日 (木)

子どもが安心して通学できる社会を

 「あんぱん」では,主人公の浅田のぶが,子ども時代に「ハチキン」と呼ばれくらい活発で,走り回っていたシーンが印象的です。いまでも地方では,子どもが走って学校に行くなんてことは普通にあることなのでしょう。しかし,私の家の周りでは,子どもが走って学校や幼稚園に行けるような環境にありません。車がひっきりなしに走っています。ガードレールに守られた歩道はあるのですが,アクセルとブレーキがわからなくなるような人が運転して,ガードレールを突っ切ってくるかもしれません。朝であっても飲酒運転をしている人がいるかもしれません。それに歩道を自転車がスピードを出して,歩行者を縫うように進んでいきますので,ちょっとでも歩行者がよろめくと衝突するおそれもあります。いつも同じようなことを言っていますが,自動車には車体自体に安全措置をつけ,自転車には運転手に厳格なルールを身につけさせるということでなければ,危険でたまりません。
 現在の文明社会は,そういうものと諦めるべきなのでしょうか。いやなら田舎に行けばということでしょうか。田舎に行って,自動車の有り難さを感じてこいと言われるかもしれません。
 でも小学生たちが自動車事故で亡くなったり,ケガをしたりすることが,運が悪かったですまされる社会でいいとは思えません。自動車は,関税問題で大変なのでしょうが,これをもっと安全な機械(イタリア語では,自動車も機械と同じくmacchina と呼ばれる)にするために,業界で努力すべきことがあるように思います。

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