社会問題

2023年3月 2日 (木)

共産党の除名騒動に思う

  共産党が,書籍のなかで党首公選制を提案した党員(ジャーナリスト)を除名したことが話題になっています。志位和夫委員長の「長期政権」の是非に問題提起をしたものといえそうですが,執行部は厳しい対応をしたようです。共産党の対応を批判した朝日新聞の社説に猛反発した志位委員長の会見をテレビで観ましたが,産経新聞と朝日新聞と言い間違えたことなども含め,感情的な反発をしている印象を与え,なんとなく余裕のないように感じたのは私だけではないでしょう。志井体制が盤石であれば,今回の一党員の意見など聞き流すことができたのでしょうが,除名という厳しい対応をしたところに,共産党の弱体化が現れているのかもしれません。連合の会長から露骨に嫌われたり,幹部のパワハラが問題となったりと,共産党にとって面白くない話題が多かったなかでの,今回の騒動です。
 党首公選制は民主的な党首の選出方法といえるでしょうが,それがベストだとは限りません。志位委員長は,直接選挙は,党首に権限が集中するので民主的ではないとする趣旨の発言をしたようです。民主的であることは必要ですが,直接選挙はそれとは違うということのようです。
 共産党は,「党内に派閥・分派はつくらない」ことを綱領に定めています。直接選挙にすると,多数派をめざした競い合いがあり,派閥や分派ができてしまい,党の統一と団結が損なわれてしまうことをおそれているのです。共産党のような主義主張が明確な党は,一枚岩であることが大切であり,直接民主制的な党首選挙は合わないような気もします。そもそも,党の方針として,こういうことを定めるのは自由だと思います。党首の選び方も,各党が自由に決められることです。さらに,どのような人を除名するかのルールも,党が自由に決められるものです。
 一方で,共産党も政党として議席をもつ公けの存在である以上,メディアが批判的な意見を書くこともまた自由です(国家権力が政党を弾圧するのとは違います)。朝日新聞の批判を,結社の自由への加入という趣旨のことも志井委員長は言っていましたが,これは筋違いでしょう。共産党は不快であっても,朝日の批判は受け流すべきだったのだと思います。
 ところで,団結を重視して,自由を制限するのは,労働組合において,ユニオン・ショップを適法とする議論とどことなく似たものを感じます。団結それ自体に優先的な価値を認めると,個人の団結の自由は制限されても仕方がないということになります。私は,この考えに反対で,オープンショップにして労働者・組合員の自由を尊重してこそ,団結は強化されるのであり,逆に組合員の自由を制限した団結は衰退していくであろうと考えてきました。そのアナロジーでいくと,政党も,意見の自由を尊重してこそ,団結は強化されるのではないかと思います。今回のことは,共産党を弱体化させることにつながらないでしょうか。お節介なことかもしれませんが,共産党が一定の存在感をもつことが,日本の政治において必要と考える立場からは,心配となるのです。
 いずれにせよ,今回の騒動は,団体と個人の関係を考えるうえでの一つの材料を提供するものであり,大学のゼミで論じるのに適切なテーマだと思います。

2023年3月 1日 (水)

東京新聞に登場

 3月に入りました。今日は4月のような陽気で,外出するのにコートは不要でした。
 2月は28日までしかないので,あっという間に終わる感じですね。なんで28日までしかないのかは歴史的な経緯があるのですが,もともとは,奇数月は31日,偶数月は30日でした。これだと366日となるので,たとえば奇数月を一つでも30日にしていれば,2月を28日にしなくてもすんだのです。8月が31日になったので,おかしくなったのです。Augustusが悪いのです。そもそも7月以降が,9月以降にずれこんだのは,8月にAugustusが割り込み,その前に7月にCaesarが入り込んでからです。イタリア語でいえば,7sette)から来ているsettembre(英語のSeptember)が9月に,8otto)から来ているottobre(英語のOctober)が10月に,9nove)から来ているnovembre(英語のNovember)が11月に,10dieci)から来ているdicembre(英語のDecember)が12月になってしまっています。ローマの皇帝に左右されてしまっている暦ですが,とにかく2月が28日までというのは,月の感覚が狂ってしまいいやなものです。
 ところで話は変わり,今朝の東京新聞に,私のコメントが掲載されています。前日の15時くらいに大学の総務に取材依頼があって,それが転送されてきました。私はこの日は大学本部の用務中でしたが,予定よりその日は早く業務が終了したので,電話で取材に応じることにしました。Googleの解雇を採り上げるということで,私には解雇一般のことについて質問があったので,お答えしました。いつものように,記事にはそのごく一部が圧縮して掲載されていて,なんだか全体の筋の中ではピンボケのようなコメントになっていますが,こういうことは新聞コメントの場合はよくあるので,あまり気にしないことにしています。驚いたのは,私と並んで登場していたのが,脇田滋先生だったことです。脇田先生と私は学説上の立場はかなり異なりますが,もし今回,私に労働組合の結成についてどう考えるかというような質問があれば,脇田先生と同じようなことを話していたでしょう(ちなみに脇田先生と私はイタリア労働法の研究という点では共通項があり,昔はイタリアの話題でお話しさせてもらったこともあります)。
 私はデジタル化が進むと深刻な解雇問題は不可避となると考えています。今回の巨大IT企業については,必ずしもデジタル化のインパクトということではないのかもしれませんが,ただ急速な技術革新は,一部の産業や職種において,大量の労働需要を生むものの,さらなる急速な技術革新で,成長産業から衰退産業に転落することがありえて,その影響で大量の雇用調整が起こることは十分に想定できました。Googleが衰退産業にあるとは言いませんが,Googleといえども,技術革新の競争の波に飲み込まれていることは間違いないのであり,そのようななかで,どうしてもこういう大量解雇ということは起きてしまうのです。こうしたことは,解雇規制ではどうしようもないところもあるので,雇用不安定時代を念頭に置いた政策的対応が必要というのが,私がずっと主張してきたことです。解雇規制はあっても(外資系企業でも同じように適用されます),それだけでは安心できないのであり,ここは政府がほんとうの意味での労働市場の流動化に対応した政策をとる必要があるのです。最も重要なのは,月並みとはいえ,スキルの習得のサポートであり,流行の言葉でいえば,リスキリング政策となります。

2023年2月17日 (金)

安全と安心―原発問題―

 安全と安心というのは,東京で築地市場の豊洲移転のときにも,結構問題となった記憶がありますが,先般の原子力規制委員会をめぐる話も,安心と安全がかかわるような気がしました。
 BSフジのプライムニュースで,少し前に,いまは自民党にいる細野豪志氏,立憲民主党の小川淳也氏,研究者の橘川武郎氏が原発問題について討論する番組をやっていました。すごく面白かったのですが,とくに橘川氏の発言に興味をもちました。記憶が正しいか自信がないのですが,橘川氏は,電力需給の問題を考えると,最終的には原発は減らすべきであるが,そうはいっても,当面は原発は必要となるのであり,その際には,安全性の面から古い原発は危険なので,新しい技術を活用して安全性が高い新規の原発にリプレイスしていくべきだというような主張をされていたと思います。そこでなんとか時間稼ぎをして,原発の「ゴミ」の処理方法も考えていくべきだということです。たいへん説得的な意見だと思って聞いていたのですが,どうも政府のほうは,原発の運転期間の延長を画策していたようです。そうした事情が背景にあり,原子力規制委員会における会合で石渡委員の反対という事態が生じたのではないかと想像しています。
 今回の法改正は,日本経済新聞の213日の電子版の記事によると,次のようなものです。原子炉等規制法は,原発の運転期間を原則40年,安全性が確認できれば1回にかぎり延長が可能(上限は60年)と定めているのですが,その規定を削除したうえで,電気事業法に,原則40年,例外60年という規定を移したうえで,審査のために停止した期間については,運転期間の延長を認めるという内容を追加する改正(安全性は30年経過時点で10年ごとに委員会が審査する)が提案されたようです。なお,原子炉等規制法は条文をみてみましたが,とても原発の素人に読みこなせるものではなく,上記のことについて,条文で確認するのは断念しました。
 原子力規制委員会は,HPをみると,その組織理念について,次のように書かれています。
「原子力規制委員会は,2011311日に発生した東京電力福島原子力発電所事故の教訓に学び,二度とこのような事故を起こさないために,そして,我が国の原子力規制組織に対する国内外の信頼回復を図り,国民の安全を最優先に,原子力の安全管理を立て直し,真の安全文化を確立すべく,設置された。
 原子力にかかわる者はすべからく高い倫理観を持ち,常に世界最高水準の安全を目指さなければならない。
 我々は,これを自覚し,たゆまず努力することを誓う。」
 この委員会は,日本の安全の砦となるべく組織された専門家集団だということです。ところで,今回の改正について,多数派は,運転期間の問題は,規制委員会が意見を述べるような立場にはないということのようです。しかし,反対した石渡委員は,厳密な審査をして期間が延長するほど,運転期間が長くなるのはおかしいというのです。この主張が当を得ているかを判断するうえでは,老朽化した原発は危険という先の話を議論の出発点としなければならないように思えます。福島でも40年経っていた老朽原発が事故を起こしたようであり,40年はすでにかなり危険ということです。もともと原則40年を撤廃しようとすること自体が問題とされるべきであるなかで(海外では40年を超える運転を認める傾向にあるということのようですが),いろいろな妥協を経て,今回の改正案が出てきたのでしょう。とはいえ,そもそも運転期間の規制を緩和すること自体おかしいのではないかというのが,石渡氏の考えなのかもしれません。
 さらに今回の議決については,賛成をした委員からも,急かされた感があるという声がでています。実際に比較的短い期間に多くの会合が開かれたようであり,事務局側が急いでいたことが推察されます。石渡氏は28日に反対意見を出しているのに13日に議決をするというのも,急ぎすぎの感じがします。
 もう一つ出てきているのが,原子力規制庁と経済産業省資源エネルギー庁(エネ庁)の事前面談問題です。結局のところ,原子力規制委員会は,政府(経産省)に言いくるめられて,独立して安全を守るという役割をはたしていないのではないかという印象を与えることになってしまいました。実際には,そんなことはないのでしょうが,事務方の動きがあらぬ疑念をうむことになったような気がします。 
 先のテレビ番組で,細野氏は,原発の再稼働を進めることの重要性を力説したうえで,安全性は規制委員会がしっかりチェックし,政治は関与しないので安心してもらいたいという趣旨のことを言っていたように思います。かなり説得力があると思って聞いていましたが,今回のことで委員会はほんとうに大丈夫かという不安が出てきました。石渡氏の信念と勇気が,一石を投じたということでしょう。
 岸田首相は,原発利用について,国民の不安払拭のため説明できる準備をするようにと環境大臣に指示をしたということですが,この大臣に原発の問題についてしっかり仕事をしてもらうことは期待できますでしょうか。いずれにせよ,今回の問題は,細野氏の説明の根幹をゆるがしかねないものであり,首相は事態を深刻に受け止め,自らがしっかり国民に向かって自分の言葉で説明してもらいたいです。
 細野氏も小川氏も,エネルギー政策の重要性については意見が一致していました。エネルギー政策がしっかりしていなければ,デジタル社会も崩壊します。政府が原発の重要性を考えるのもよく理解できます。だからこそ,丁寧に丁寧に説明をする必要があるのです。経産省が暴走しているのなら,それをしっかり抑える政治的リーダーシップを発揮してもらう必要があります。何のために総理大臣をやっているのかをよく自覚して,この問題に取り組んでもらえればと心から願っています。

2023年2月12日 (日)

「ルフィ」事件に思う

 無慈悲な連続強盗が,世間を震撼させています。この犯罪は,ちょっと金持ちそうな家だから入ってみたというようなものではなく,確実にそこに金品があるという情報をつかんでやっていたようです。問題は,その情報がどこから流れてきたかということです。
 犯罪者は,あの手この手で資産情報をつかもうとするのでしょう。そう思うと,日頃でも,いろいろな理由で他人が自宅に入り込んでくることが怖くなってきます(購入した大型家電の搬入,エアコンの清掃,水道の修理など)。私も含めて多くの人は,この家はお金がないということがわかるでしょうから,かえって安心かもしれませんが,資産家となると危険でしょう。とくに高齢者,一人住まい,資産がある(たとえば,家に大きな金庫がある)という情報があれば,狙われてしまいます。狙われてしまうと,むこうは暴力を使っても,さらに殺してさえもよいと思っているのですから,どんなに対策をとっても限界があります。
 名簿などから情報がもれることもあります。大学の研究室にマンション投資の営業電話がかかってくることが,かつてはよくありましたが,誰かが名簿を横流ししているのです。住所や電話が書かれている名簿はつくるべきではないでしょうね。名前とメールアドレスで十分だと思います。
 クレジットカードの作成やマンションの部屋を借りるときなどに,資産情報の提示を求められることがありますが,これも気持ち悪いです。情報銀行に個人情報を預けて,必要な情報はそこに問い合わせてくださいとすることができればよいと思っています。もちろん情報銀行のセキュリティは万全である必要があり,また情報銀行には顧客の個人情報を提供した先の企業が不正な取扱いをしないかをしっかり監督してもらう必要がありますが,そうした仕組みが完備されているならば,個人は日常生活では,自分で個人情報の開示をする必要性から解放され,さらに自分の個人情報がどこからどう伝わったか追跡できるようになるでしょう。個人情報を完全に隠して生活することができない以上,個人情報の管理を安心できるプロに託すことができるシステムの必要性は,今回の事件で改めて確認されたのではないかと思います。最近,情報銀行の話をあまり聞かないような気がしますが,どこまで進んでいるのでしょうか。
 いずれにせよ,今回の「ルフィ」事件は,その黒幕が誰かも含めて全容を解明してもらわなければ困ります。日本に住むことの最大のメリットは,安全性にありました。それが昼間,「闇バイト」のサイトで高額の報酬に群がって集まってきた互いに見ず知らずの男たちに,白昼に自宅にいた90歳の老女が撲殺されるなどという野蛮なことが起こることを許してはなりません。しかも,それは計画的にされていて,実行者は半ばゲーム感覚でやっているようなのです。Philippineから好き勝手にされていたことも含めて,日本の警察の威信が問われています。岸田首相は,Philippine政府に,インフラ整備として6000億円の支援をするそうですが,その前に,公務員が買収されて,日本の重大犯罪に関わっていることについて,きちんと言うべきことを言っていたかが心配です。朝日新聞デジタルでは,「日本政府関係者によると,首相はフィリピンを拠点とした特殊詐欺グループの幹部が日本に移送・逮捕された事件への協力に謝意を示した」と書かれていました(https://www.asahi.com/articles/ASR295GNFR29UTFK00Q.html)が,これだけをみると,政府の対応はちょっと甘すぎるのではないかと思います。

2023年1月11日 (水)

移住者を集めるよりも……

 昨日の過疎の話の続きですが,ICTを活用すると,仕事の問題だけでなく,そこで住んでいくうえで重要な医療や教育の問題も解決できます。オンデマンドバスなどにより,公共交通機関の問題も解決できるでしょう。そうなると良好な自然環境などに囲まれるというメリットが大きくみえそうです。ただ,これは都会人の幻想であり,実際には,地方には様々な習慣(因習)があり,プライバシーはなく,生活しづらいことも多いようです。地方というのは静かな場所というイメージもありますが,鳥の声,その他の動物の声,海の波,風,川の流れの音などは意外にうるさく,慣れていなければ睡眠を妨げられてしまうこともあるようです。現実は甘くないのであり,誰もがそう簡単に地方の生活にフィットできるわけではないのでしょう。村おこしは,ICTなどの技術的な面だけでなく,地方の人と移住を考える都会の人の双方の意識のすりあわせがうまくいかなければ成功しないものかもしれません。
 こう考えると,過疎地では,住む人を集めるのではなく,むしろ旅行者を集めることで村おこしをするほうがよいのかもしれません。外国人は,日本にしかないみられない物を観に来ているのであり,最初の訪問地は京都や奈良かもしれませんが,リピーターとなると,日本の鄙びた村を訪問する人も多いでしょう。私がイタリアの田舎の町に行きたがるのと同じです(Milanoの友人に,SiciliaCastelmolaに旅行したと言ったとき,「なんでそんなところに行ったんだ」と怪訝な表情をされました)。一時滞在者に来てもらってお金を落としてもらい,それでインフラを整備して,その地方に住んでいる人も持続的に生活できるようになるというのが,理想的なのかもしれませんね。

2023年1月10日 (火)

学校の重要性

 今日の学部の授業で,過疎地出身の学生が,過疎問題の解決にテレワークはどこまで有効かというテーマで報告をしてくれました。テレワークによって,勤務場所が多様化することは間違いないのですが,それによって地方の過疎問題の解決ができるわけではなく,報告者の主張は,むしろ小学校をきちんと整備することが地方に移住者を呼び込むために必要というものでした。これについては,他の学生から,過疎問題の解決において,学校の充実は優先度が高いものではなく,もっとやるべき政策が他にあるのではないかという(当然の)批判もありました。それに対しては,学校はいったん廃校にされたらもう復活できないので,なんとか廃校されないようにすることが優先度の高い課題であるという反論がなされました。
 私が驚いたのは,学生が出してくれた文科省の「公立学校の年度別廃校発生数」のデータです。これほど廃校があるとは知りませんでした。背景には,少子化や市町村合併があるようですが,公立学校がこれだけ減少しているのは,ちょっとショックです。
 17日の日経新聞の夕刊の「廃校が変身,集客の一翼」という記事では,「廃校が集客施設や工場に生まれ変わっている」ということが紹介されていました。廃校はやむなしだが,それをうまく利用して地域活性化をすればよいということなのでしょうが,それよりも学校が減ること自体のデメリットをもっと真剣に考えるべきだというのが,報告した学生の問題意識だと思います。集客施設や工場ができると,人は集まるので,そうなると生徒も増え,学校も減らなくなるのではないか,とも言えそうですが,そのシナリオがどこまで当てにできるかは不明ですし,それによって元の町や村が,変貌してしまう可能性があることをどう考えるべきかという問題もあるようです。
 他方で,日本経済新聞の15日の朝刊の「大機小機」では,吉田茂の「日本を決定した百年」という論考をとりあげて,「『現在でも田舎を旅行すると,小学校の校舎が村で一番よい建物であることが多い』『政府に参加しなかった知識人の多くは私立学校をつくって教育にあたった』とある。教育を重んじたことが日本の近代化の大きな特徴であったことを指摘している」と書かれています。
 こうみると,国力を支えるのは教育であり,学校の存在はまさに教育の重要性を象徴するものなのです。それが次々と廃止されていくことに危機感をおぼえた学生の主張は,傾聴に値するものといえるでしょう。

2023年1月 4日 (水)

Withコロナ

  今年はコロナとどう向き合うことになるのでしょうかね。マスクは着用するけれど,それほど恐れないで生活することになるのでしょうか。周りをみれば,「密集」は事実上解禁されていて,あとは個人の自覚ということになっているようです。
 振り返れば,当初は,「集団免疫」戦略を唱える人もいて,社会のなかで免疫をもつ人が多数になれば感染は収まるという意見もありました。イギリスも最初はその戦略でいきましたが,結局,集団免疫を獲得するまでに多くの犠牲者が出るので,社会的に受け入れられずに,行動制限という戦略に転換せざるを得ませんでした。ただ行動制限は,これを徹底すると中国のように国民から反発が出るし,半端にやると効果がそれほどでないままダラダラと続いてしまい,それはそれで国民から反発が出るので,政府は難しい判断が求められます。
 一方,医学的な対策は,ワクチンによる予防と薬による治療です。後者は現状において,どうなっているかよくわかりませんが,ワクチンはそれなりに効果はありそうです。
 またリスクのある行動をする際には検査を受けて、その結果をみてからというのが定着していると思いますが,そこで気になるのは検査結果の信憑性です。医学には感度と特異度という難しい言葉がありますが,感度は,感染者のうち,実際に陽性反応が出る人の割合で,特異度は逆に感染していない人のうち,実際に陰性反応が出る人の割合です。どちらも偽陽性,偽陰性がいるので,100%にはなりません。感度や特異度はPCR検査のほうが,抗原検査よりも高いとされているようです。
 感度の高い検査であれば,陽性の人を(余分に)識別できてしまう検査といえるので,それでも陰性反応が出れば感染していないと考えてよいのでしょう。また特異度が高い検査であれば,逆に陰性の人を(余分に)識別できてしまう検査といえるので,それでも陽性反応が出れば感染していると考えてよいのでしょう。PCR検査の感度は7割ほどで,特異度は99パーセントくらいであるという情報をみたことがありますが,ほんとうのところはよくわかりません(みなさんも各人で確認してください)。

2022年11月26日 (土)

リスクコントロール

 学部の少人数授業で,AIとリスクという問題について少し議論をしました。新しい技術のリスクを重視しすぎると,利便性を高めるチャンスを逸することになりますが,それはリスクの内容と程度によるということでしょう。日本人はリスク回避的な傾向があると言われますが,それが悪いことばかりとはいえません。もっとも資産形成において,あまりにリスク回避的であると,老後の生活資金が不安になることはあります。学生たちは金融教育を受けていないようであり,したがって投資についても,やたらとリスク回避的になったり,逆に無謀なことをしたりする可能性があるのです。岸田政権はNISAの恒久化などを言っていますが,金融教育がもっと広がらなければならないでしょうね。
 ところで技術とリスクの話に戻ると,そこで必ず出てくるのが,原発のリスクです。私は原発問題については,定まった意見がないのですが,この夏に岸田政権が原発稼働に積極的な立場を打ち出しこともあり,少し不安になりはじめているところでした。
 ということで,かなり前に入手していた樋口英明『私が原発を止めた理由』(旬報社)を読んでみました。元福井地裁裁判長で,福島の事故後において,大飯原発の運転の差止めを命じた裁判官が書いた本です。裁判官が自分の裁判の内容について解説するのは,非常に珍しいことでしょうが,それだけこの裁判は,樋口氏の魂がこもったものだったのでしょう。樋口氏の考えや裁判官としての姿勢に賛同するかどうかはともかく,この本は読むに値すると思いました。
 樋口氏は,原発稼働の判断は,専門技術者にゆだねてしまうべきものではく,普通の人であっても理性と良心に基づき行うことができるものだと述べ,その理由を丁寧に説明しています。要するに,原発の想定している地震は700ガル以下であり,それ以上の地震が来れば安全ではないが,そうした地震が来る可能性はないので,原発は安心だという電力会社の論理は,おかしいだろうということです。過去に700ガルを超える地震は起きており,原発の耐震性はきわめて脆弱であるから,彼は原発を止める判断をしたのです(しかし,控訴審で覆されました)。
 興味深いのは,裁判官の役割とは何かについての,樋口氏のスタンスです。共感したのは,専門的なことだからといって,専門家の判断に任せてしまってよいのかという疑問をもち,専門外であっても自分なりに納得できる判断をしたいという姿勢を貫いていることです。文系には理系コンプレクッスがあり,専門技術的な話に入り込むと手も足も出なくなりますが,実はほんとうに優秀な専門家は,理系,文系に関係なく,素人にわかりやすく説明できるのであり,それができないということは,実は専門技術的な話に巻き込んで素人を煙に巻いてしまおうという作戦である可能性もあるのです。賢い人は,プライドもあって,自分がわからないことにはノータッチであろうとしますが,それは知的怠慢なのかもしれません。
 樋口氏は,この本の最後のほうで,「この本を読んでしまった皆さんにも責任が生じます。自ら考えて自分ができることを実行していただきたいのです。」と書いています。私も自分でまずはしっかり考えてみたいと思います。
 いずれにせよ,樋口裁判長の判決は,たんなるゼロリスク信奉からくるバランスの欠いた判断であるという批判が的外れであることは,よくわかりました。理系の人からは,そうした批判もあるのですが,樋口氏がゼロリスク論者でないことは,この本を読めば明らかです。むしろ人間の生命や健康に多大な影響をもたらすリスクを,どうコントロールするのかに真摯に向き合っています。それについて国民を安心させる「説得責任」は,やはり原発推進派のほうにあるのでしょう。高校生にもわかるようなロジックで説明してもらいたいですし,もし岸田政権が原発推進論に乗っかるのであれば,首相自らきちんと説明をする責任があると思います。電力供給不足(一時的な問題にすぎない)や脱炭素(原発事故の環境破壊のほうがすさまじい)などをもちだすのは,論理のすり替えであり,ぜひ原発事故のリスクについて,それをきちんとコントロールできるということを正面から私たちに対して説得してもらいたいのです。要するに私たちは安心したいのですが,政府にそれができるでしょうか。

 

2022年11月22日 (火)

カスタマーハラスメントの背景

 大学院の授業で扱ったNHKセンター事件(横浜地裁川崎支部20211130日判決)は,NHKの放送普及などを行う一般社団法人においてコールセンターのコミュニケーターに従事している労働者で,約17年間,有期労働契約を更新したあと,20198月に無期転換した者が,60歳定年を理由に同年末に継続雇用の拒否が通知されたというケースです。判決は,この拒否を適法としました。本来は高年法9条の私法上の効力という論点が関係しており,これについては,たとえ私法上の効力を否定したとしても,就業規則や再雇用規程を根拠とするなど,いろいろな解釈的手法をもちいて,定年後の雇用継続を認めようとする議論が展開されてきました。かりに高年法9条に私法上の効力がないとしても,それは,同条を直接の根拠として継続雇用が認められるわけではないというだけで,別の法的可能性は否定されていないわけです。実は,本判決は,継続雇用拒否が妥当性を欠くわけではないと述べているのですが,その「妥当性」が何についての判断なのかが明確ではありません。もし「妥当性」が欠けていれば,いったいどのような結論になっていたのでしょうか。雇用が継続するという結論になったとしても,それは何が根拠となるのでしょうか。明確なのは,原告労働者が定年に到達していることと,高年法には私法上の効力を認めない立場であること(学説上はもちろん異論はあります)であり,そうするとなぜ雇用継続が認められるかの法的根拠が必要となるわけです。この判決は,そのような法的な判断根拠を示さず,ただ結果だけ述べた不十分なものと思われます。
 それはさておき,私は無期転換組と当初からの無期雇用組では,雇用保障の程度が異なることには合理性があると考えています。その点では,本判決の結論が「実質的にも」妥当といえる余地がありそうです。また,客からすると,客と議論してしまうようなコミュニケーターは困ったものであるという気もします。電話での対応がよければ,企業への好感度が高まることからすると,やはりコミュニケーターの接客力は重要です(個人的には,ソニー銀行のお客様対応がこれまで一番よかったので,いまでも好印象です)。とはいえ,猥褻目的のものも含め,困った問題顧客にまで丁寧に対応すべきとはいえないでしょう。
 これはカスタマーハラスメントへの対応という問題と関係します。本件は,この点も問題となっており,裁判所は,使用者側の対応に問題はなかったとしています。一般論として,困った顧客がいるとき,「お客様は神様」という姿勢での対応を従業員に求めるのは,そのこと自体が従業員にとってのハラスメントになるでしょう。また本件では,判決は委託元のNHKへの配慮という点も考慮していますが,それを言い出すと受託法人の従業員の立場はきわめて弱いものとなるでしょう。委託元もお客様で,それも神様となってしまうでしょうかね。これは業務を外注化するアウトソーシングのもたらす弊害といえそうです。
 かつて私は『雇用はなぜ壊れたのか―会社の論理vs. 労働者の論理』(ちくま新書)という本のなかで,会社の論理と労働者の論理の対立を論じたうえで,最後に労働者の論理と生活者の論理との対立にふれています。日本では両者の論理が絶妙のバランスをとっているというのが,同書を書いた約15年前の私の見解でした。もっとも,その後は,生活者の論理,さらには消費者の論理が徐々に強まってきているような印象ももっています。労働者もまた消費者です。自分が労働者として虐げられているから,消費者になったときには同じことをするというのでは,世の中はよくなりません。そこを逆転させるのは,本来は,労働組合の役割なのかもしれません。労働者の論理を通し,自分が消費者になったときには不便を我慢するということが広がれば,カスタマーハラスメントの状況も,変わっていくかもしれません(以前にも同じようなことを書いた記憶があります)。
 カスタマーハラスメントの法的問題については,ビジネスガイド(日本法令)に連載中の「キーワードからみた労働法」の次々号のテーマで採り上げたいと思っていますので,詳細はそちらに譲ります。

2022年10月20日 (木)

現世代バイアス

  10月18日の日本経済新聞の「大機小機」で,「現世代バイアス」ということが書かれていました。現在の政策の影響は,将来世代にも及ぶにもかかわらず,その意思決定は現世代だけで行われるから,どうしても現世代に有利で将来世代につけを残すような政策が採用されがちになるということを,このように呼んでいます。
  その対策としては,赤ちゃんにも投票権を与えて,親が代理人として投票するという方法が提案されています。もう一つは,政治家が現世代の要求に安易に応じてしまうことを防ぐために,専門家からなる独立機関を作って意思決定をさせるという方法も提案されています。もう一つ紹介されているのが,「フューチャー・デザイン」という手法です。これは,意思決定の際に仮想将来人をグループに入れて,例えば20年後の人になったつもりでプロジェクトを考え,意見を出してもらう,ということです。 日本でも実践例があるようです。
  こうした将来構想をとりいれる自治体が増えていくのは望ましいことです。人口減少が進む地方ほど,本気でこういうことを考えていく必要を自覚しているのでしょうが,ほんとうは都市部も同じことのはずです。
  環境問題は,まさに「現世代バイアス」に関わります。原発問題もそうでしょう。将来世代にツケを残さず,現世代の利益もある程度守られるような社会設計は容易ではないでしょうが,テクノロジーもうまく活用して実現していかなければなりません。
  国民みんなが次世代のことを少しでも考えるだけで,ずいぶんと社会が変わるような気がします。何が何でも選挙に通りたいと考える政治家こそが,「現世代バイアス」を増幅させる元凶となっています。政治から距離を置いた独立した意思決定機関に委ねるのは,民主主義の否定をみるべきではなく,民主主義の補完形態としてうまく活用すべきものでしょう。本来は,参議院にこそ,そういう機能をはたしてもらいたいのですが……。