労働法

2026年9月30日 (水)

『詳説 労働契約法(第3版)』

 荒木尚志・菅野和夫・山川隆一『詳説 労働契約法〔第3版〕』(弘文堂)をいただきました。いつも,どうもありがとうございます。労働契約法について何か調べるときには,まず参照しなければならない本です。その最新版が出たことは,大変ありがたいことです。第2版が2014年刊行でしたから,実に12年ぶりの改訂ということになります。
 この12年間の大きな変化の一つは,旧労働契約法20条が削除され,有期雇用労働者の不合理な労働条件の禁止に関する規定が,短時間・有期雇用労働法に移されたことでしょう。これに伴い,第3版では,新たにパート・有期労働者の均等・均衡待遇に関する節が設けられ,多くのページが割かれています。本のタイトルの下にも,「パート・有期労働者の均衡・均等待遇を含む」と注記されています。体系的にみれば,短時間・有期雇用労働法は,部分的には,いまや労働契約法の特別法のような位置づけかもしれません。
 もう一つ目を引いたのが,「労働者」の定義を扱う箇所に,「非労働者の法的保護」が新たに加えられていることです。フリーランス法の制定もあり,労働者か非労働者かという境界領域をどう扱うかが,現在の労働法における重要な問題となっていることを示すものといえるでしょう。
 そして,おそらく今後とくに重要になるのが,第4章「今後の課題」です。基本的には第2版の議論が踏襲されているように思いますが,今回は従業員代表制にかなり力を入れた内容となっています。これは,過半数代表者制度のあり方などが改めて政策課題となっている現在の政府の議論の動向とも重なります。労働契約法の将来を考えるうえで,個別の労働契約ルールだけでなく,職場における集団的な意思形成をどのように制度化するかが重要になっているということでしょう。
 私自身は,短時間・有期雇用労働法8条の効力をどう考えるか,あるいは過半数代表者制度を今後どのように制度設計していくべきかといった点では,本書の著者たちとは異なる立場をとっています。しかし,それは見解の違いというだけのことです。自分の見解をもつためにも,まず現在の労働契約法についての正統的な解釈がどのようなものであるかを知る必要があります。
 その意味で,本書は,研究者や実務家はもちろん,労働法を本格的に学ぼうとする学生にとっても,まず参照すべき基本文献であり続けるでしょう。もちろん,いつまでも,この3先生に頼っていてはいけません。第4版で,フレッシュなメンバーが入るかが注目ですね。

2026年9月 2日 (水)

パワハラ首長の出現をどう防ぐ―断罪と辞職からの脱却?

 横浜市の山中竹春市長が,職員に対するパワーハラスメント問題を受けて,市議会議長に辞職願を提出しました。今年1月の告発を受けて行われた第三者調査では,「ポンコツ」「人間のクズ」といった人格を傷つける発言など,7項目がパワハラに当たると認定されました。その後,市議会の主要会派が辞職を求め,山中氏は最終的に辞職を決断しました(横浜市「第三者による調査にかかる調査報告書について」)。
 今回認定された発言は,仕事上の指導として許されるものではありません。職員の人格を否定するような言葉を,組織のトップが口にすることを正当化する余地はないでしょう。
 ただ,この種の問題を,パワハラをしたトップが辞職するということだけで終わらせてよいのかについては,もう少し考えてみる必要があると思っています(今回の件がどうであるかということではありません)。
 セクハラを伴わないパワハラの少なくとも一部は,仕事上の指導や叱責が行き過ぎたものです。上司が仕事に熱心で,部下の仕事ぶりに強い不満を抱いた結果,感情を制御できず,仕事上の問題についての指摘を人格の否定にまで広げてしまうことがあります。もちろん,仕事への熱心さはパワハラの免罪符にはなりません。しかし,問題となる言動を本人に具体的に理解させ,指導方法を改めさせることができるのであれば,直ちにその人材を失うよりも,組織にとって有益な場合もあります。
 とくに首長は,住民が選挙によって選んだ人です。パワハラ問題が起きるたびに,その人物を断罪して辞職させ,再び選挙を行うことが常に最善とは限りません。首長選挙をやり直すには,多額の公費と行政上の労力が必要です。選挙期間中には,自治体の重要な政策判断が停滞する可能性もあります。住民が選んだ人材を,改善の可能性を十分に検討しないまま失うことにもなります。
 パワハラをする人のなかには,過去の職場文化のなかで身につけた指導観を引きずり,「厳しく叱ることが人を育てる」「結果を出すためには強い言葉も必要だ」と考えている人もいるでしょう。いわば昭和型の指導観から抜け出せていないのです。そのような人であっても,何が現在の職場では許されないのか,なぜその言動が相手の尊厳を傷つけ,組織の機能を損なうのかをきちんと教育すれば,指導方法を改める可能性があります。
 パワハラをしたというだけで,その人のすべての能力や実績まで否定する必要はありません。問題となる行動と,その人物がもつ政策遂行能力とは,いったん分けて考えるべきです。問題行動を改めることができるのであれば,住民が選んだ人材を生かし続ける道もあってよいと考えます。
 もちろん,あらゆるパワハラが教育によって解決できるわけではありません。暴力を伴う場合,重大な被害が生じた場合,問題を指摘されても事実を認めず,被害者に報復する場合,研修や警告を受けた後も同じ言動を繰り返す場合には,辞職が必要になることもあります。重要なのは,パワハラが認定されたら直ちに辞職という一律の発想ではなく,行為の重大性,本人の認識,改善の可能性,再発の有無を区別して考えることです。
 厚生労働省の指針においても,適正な業務指示や指導はパワハラに当たらず,「業務上必要かつ相当な範囲を超えた」言動との区別を求めています(労働施策総合推進法30条の2第1項,「事業主が職場における優越的な関係を背景とした言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」を参照)。しかし,この境界は,条文や指針を読んだだけではなかなか理解できません。どのような場面で,どのような言葉を使うと危険なのかを,具体例によって学ぶ必要があります。
 とりわけ注意が必要なのは,民間人が選挙によって,いきなり自治体のトップに就く場合です。それまで優秀な研究者や企業人であったとしても,多数の職員を指揮し,異論を聞きながら組織を運営する訓練を受けているとは限りません。他方,職員の側は,選挙で選ばれたトップに対して,通常の上司以上に異議を述べにくい立場に置かれます。そこで,首長選挙の候補者には,パワハラ防止やアンガーマネジメントに関する講習を受け(とくに首長が陥りがちなパワハラをピックアップして重点的に行うことが効果的でしょう),その受講状況を住民に公開することを求めてはどうでしょうか。
 ただ単に修了証を掲げるだけでは十分ではありません。どのようなことを学び,自分のどのような言動に注意しようと考えたのかを,候補者本人が短い動画で説明するのです。たとえば,「人前で職員を叱責しない」「仕事上の失敗についての指摘を人格の否定に広げない」「怒っているときには,直ちにメールやメッセージを送らない」「反対意見を述べた職員に不利益を与えない」といった具体的な行動原則を示し,その動画を公開します。研修のカリキュラム,受講時間,実施機関,修了証明なども併せて開示すれば,住民は,候補者がどの程度真剣に取り組んだかを判断できます。もっとも,研修の全過程を公開する必要はないでしょう。すべてを撮影されていては,受講者が模範的な受講態度を演じるだけになり,自分の弱点を率直に振り返ることが難しくなるからです。研修そのものは非公開でしっかり行い,その内容と受講実績,受講後の振り返り,今後守るべき行動原則を公開するのがよいでしょう。
 また,一度だけの研修では,選挙前の儀式になりかねません。当選後にも定期的にフォローアップ研修を受け,その実施状況を公開する必要があります。さらに,首長の言動や組織の風通しについて職員に匿名アンケートを行い,その集計結果を毎年公表する仕組みも考えられます。問題が深刻になる前に,トップ自身と住民の双方が兆候を知ることができるからです。
 このような仕組みには,二つの効果が期待できます。一つは,トップに就こうとする人が,自分の言動の危険性を事前に学ぶことです。もう一つは,本人が住民に向けて述べた約束を,後から検証できる記録として残すことです。問題が生じた場合,住民や議会は,その言動を本人が示した行動原則と照らし合わせることができます。
 パワハラへの厳正な対応は必要です。しかし,第三者調査による認定,謝罪,辞職,再選挙という流れだけでは,同じ問題が別の自治体で繰り返されるだけかもしれません。多額の費用をかけて選挙をやり直しても,次に選ばれた人が適切な組織運営の方法を知っているとは限りません。必要なのは,問題を起こしたトップを排除する仕組みだけではありません。権力を持つ人に,その権力の使い方を事前に学ばせ,問題が生じたときには,被害者を保護したうえで,本人に改善の機会を与える仕組みです。それでも改善しない場合に,初めて(任期満了前の)辞職という選択肢が出てくるのではないでしょうか。

2026年8月23日 (日)

My Obscure Article

 私の修士論文では,イタリアの不当労働行為制度のことを扱ったのですが,そのときLuisa Riva Sanseverinoの論文(Parere pro veritate sull'art. 28 dello Statuto dei lavoratori, in Orientamenti della giurisprudenza del lavoro, 1970, p. 371)で,ずいぶん勉強しました。彼女は,私が留学したときには,すでに亡くなっていましたが,その権威はとどろいており,それとは似合わないような平易な文体は,外国人である私にはとても助かりました。明晰な論理だったからでしょう。その「労働組合法(Diritto Sindacale)」の教科書は,たぶん山口浩一郎先生からいただいたものではないかと思うのですが,いまでも研究室に置いています。
 労働者憲章法28条は,使用者による「反組合的行為(condotta antisindacale)」に対する救済を定めた規定で,日本の不当労働行為制度に相当するものです。イタリアでは司法における特別な救済手続(簡易・迅速な手続)を設けたものであり,アメリカや日本のような行政委員会による救済とは異なる司法救済制度が,どのような仕組みになっているのかを検討したのが私の修士論文でした。
 Riva Sanseverinoの論文では,労働者憲章法28条が,「1次規範(norma primaria)」か「2次規範(norma secondaria)」かという論点が扱われており,彼女は後者と解する立場でした。28条は組合に新たな権利を創設するものではなく,他の規範によって保障された権利が侵害された場合に適用される制裁メカニズムを定めるにとどまるという解釈です。たしかに28条は,救済手続について定めたものであり,彼女の見解はオーソドックスな解釈を展開したものといえましたが,イタリアで労働組合の権利について定める初めての規定を含む労働者憲章法に大きな期待をする学者からは,これによって労働組合に保障される権利が広がったという解釈もあったのです。正直にいって,当時,この論点がどれくらい重要な意味をもつかわかっていませんでした。
 むしろ私が注目したのは,労働者憲章法28条が,救済の申立適格を労働組合(全国組合の地方組織)に限定していたことから,組合員の解雇など個人を対象とした行為について,28条の手続を利用できるのか,という点が論点となっていたことです。もし利用できないとすれば,28条の救済の実効性は大きく損なわれるます。これについてイタリアの学説は,複層侵害(二重侵害)(plurioffensività)の法理により,解雇なども労働者個人の権利・利益だけでなく,労働組合の権利・利益も侵害するものなので,28条の手続での申立適格があるという理論を構築し,判例にも取り入れられていきました。
 私はこのテーマをずっと温めており,いつか日本法の解釈論として展開したいと思っていました。それで執筆したのが,石川正先生古稀記念論文集『経済社会と法の役割』(2013年,商事法務)に寄稿した「不当労働行為救済制度における集団的利益の優越について:複層侵害事案における申立適格をめぐる一試論」でした。そこでは,もし組合員が解雇された事案で,不当労働行為の可能性があっても,所属組合が争わないとしたらどうなるか,という問題を中心に論じています。複層侵害事案における労働組合の利益と個人の利益の衝突を,申立適格,救済利益などの議論において,どう処理するかということについての「試論」を提示したものです。試論でしたので,ツッコミどころは満載ですが,私の知るかぎり,この論文は引用されたこともなく,ひょっとしたら学会では全く知られていない論文(obscure article)ではないかと思っています。過去にこのブログで取り上げたこともありましたが,おそらく内容に問題があるので黙殺されているのでしょう。
 ところが,最近,評釈の依頼があったある高裁判決は,この集団的利益と個別的利益の衝突というのが正面から問題となるものでした。私の立場からは,高裁判決には反対なのですが,ようやく論文に日の目を見せる機会が生まれ,喜んでいます。
 私の2013年の論文には,イタリア法はまったく出てきません。しかし,発想の源にはイタリア法研究があります。特定の外国法の議論をそのまま日本法にもってくるのではなく,そこで得た発想をいったん抽象化し,日本法のなかで新たな解釈論として組み立て直す。私にとって比較法研究はそういうものなのだと思っています。その出発点の一つに,Riva Sanseverinoの手堅く明晰な解釈論がありました。

2026年7月19日 (日)

水町勇一郎『同一労働同一賃金のすべて〔第3版〕』

 水町勇一郎さんから『同一労働同一賃金のすべて〔第3版〕』(有斐閣)をお送りいただきました(名前を間違っていたので修正しました。たいへん失礼しました)。いつもお気遣いいただき,本当にありがとうございます。今年10月から新しい「同一労働同一賃金ガイドライン」が適用されることもあり,まさにタイムリーな一冊です。この分野に関心のある実務家にとって,まず読んでおくべき本といえるでしょう。
 もっとも,このテーマについては,私は水町さんとは根本的に見解を異にしています。短時間有期雇用労働法8条をどのように理解するのか,日本型雇用システムをどのように評価するのか,比較法をどのように位置づけるのかなど,ほぼすべての点で考え方が異なっています。ここまで見解が対立するというのも,そう多くはないでしょう。まさに「水と油」です。
 とはいえ,立法や行政の世界では,水町さんの考え方が政策の方向性として採用されていて,その影響力は圧倒的です。その意味では,政策論としては私は勝てない戦いをしています。とはいえ,私も研究者の端くれである以上,たとえドン・キホーテのような存在になったとしても,自分が正しいと考える理論は貫くしかないと思っています。最後には,こちらの考え方にも理があったと評価される日が来ることを期待しています。
 実は,判例,とりわけ最高裁の判断は,必ずしも立法や行政と同じ方向を向いているようには見えません。メトロコマース事件,大阪医科大学事件でも高裁の行き過ぎを最高裁が適切に制止しているところがあり,名古屋自動車学校事件でも,そうでした。差戻し審は,かなり疑問のある判断を示しており,最高裁が最終的にどのような判断を示すのか注目しています。
 このテーマについては,次号の『ビジネスガイド』でも,「基本給」をテーマとして取り上げました。名古屋自動車学校事件そのものを論じるものではありませんが,後半ではこの事件を素材として,基本給格差の問題を検討しています。基本給という賃金項目について,裁判所がどこまで踏み込んで不合理性を判断することが妥当なのか,その点についても考えていただければ幸いです。
 水町さんも,彼の理論こそがより良い雇用社会を実現すると信じて,本書を書かれているのでしょう。その姿勢には,私も深い敬意を抱いています。信念の戦いとなっては,学説は発展しないのですが,とはいえ,ここはなかなか難しいところがあるような気がします。

 

2026年6月20日 (土)

季刊労働法に登場

 季刊労働法の最新号に登場しています。昨年から,労働者の個人情報保護に関する比較法の研究会を立ち上げており,そのメンバーを中心に科研費Bも取ることができましたので,徐々に成果を発表させていただくということで,今回の連載企画が生まれました。まず初回は,この研究会の背景のそのまた背景にあるようなAI論について,私の見解を書かせてもらったもので,これは新刊の『労働政策の再創造』(弘文堂)の問題意識に基づくものです。個人情報保護の問題がなぜ大切か,そして,それにどのようにアプローチすべきなのかについての問題提起をいささか挑発的にさせてもらったものです。とはいえ,これは研究会で共有している問題意識ではありません。研究会そのものは,まだ探索的なものであり,各国の比較をとおして,どのようなものが生まれてくるかは注目していきたいです。AIを活用するためにはデータが不可欠で,とりわけ個人情報は重要です。私はAIを積極的に人類に役立てるためには,個人情報の活用は不可避であると考えていますが,それは法学の分野ではおそらく少数派でしょう。比較法分析をとおして,そのあたりの各国の現状がわかれば面白いです。そして,今回の研究会では,なかでも労働者の個人情報保護の特殊性にもっと配慮しなければならないという問題意識をもって臨んでいます。これは私の先の主張と矛盾するところもありそうですが,そうでもありません。というのは,労働関係における個人情報のあり方は,労働関係の特殊性をふまえると別途検討する必要があると思っているからです。私は将来的には,伝統的な意味での雇用関係というのはなくなっていくと思うので,私の頭のなかのプランでは時限的・経過的な問題ではあるのですが,個人情報を適正に扱いながらAI共生社会を実現していくというプロセスでは,労働関係における適正な個人情報の取扱いという課題はどうしても避けられないと考えています。
 日本では現在の国会でも個人情報保護法の改正が実現しそうで(とくに注目されるのは「個人データ等の第三者提供及び公開されている要配慮個人情報の取得について,統計情報等の作成にのみ利用される場合は本人同意を不要とすること」,「顔特徴データ等についてその取扱いに関する一定の事項の周知を義務化し,利用停止等請求の要件を緩和するとともに,オプトアウト制度に基づく第三者提供を禁止すること」など),AI時代に向けた取り組みが進みそうです。また,EUでは,AI法やGDPRのような一般法以外に,プラットフォーム就労者の就労条件の改善に関する指令が出たり,昨年12月には職場でのアルゴリズム管理に関する欧州議会の勧告が出たりするなど,労働分野に関する注目すべき動向もあります。
 このテーマについても,ぜひ数年後には成果を出して,できれば英語で世界に発信できればと願っていますが,どうなるでしょうか。
 

2026年6月18日 (木)

書斎の窓「労働契約をめぐる冒険」を読んで

 ここ1年くらいは,本の執筆に専念していたこともあり,昨年刊行された森田修『「民法と労働法」講義』(有斐閣)という本の存在を知りませんでした。書斎の窓(703号,705号)で紹介されていてよかったです。早速注文することにしました。ということで,まだ読んでいないので,きちんとしたことは言えないのですが,神吉千郁子さんと石黒駿さんが労働法学代表として議論してくれていますので,それに対する森田さんの応答もみながら,ある程度の推測はできました。森田式の「四層把握」はたいへん興味深い枠組みです。
 ただ,強行法規の捉え方が違うような気もしました。私は,強行法規には,労働者の保護のために絶対に動かせないものと,そのレベルにまで至っていないものとがあると考えています。また「主体拘泥性」という言葉が出てくるのですが,労働者性を出発点として契約をみていくアプローチについて,その主体にもグラデーションがあるという認識が重要だと考えています(労働者の多様化)。強行規定のグラデーションと労働者のグラデーションとが組み合わさると,強行規定の柔軟化(デロゲーション)が必要だという議論が出てきます。その際に強行規定からの逸脱という効力を認めるうえで重要となる要件が,対等性ではないかというのが私の立場です。自由意思というものは,雲をつかむようなもので,これは実質的には裁判官の直感的な把握にすぎないので,より客観的に捉える枠組みが必要だと考えています。対等性をどのように測るかということを,かつて書いたこともあります(拙稿「労働契約における対等性の条件-私的自治と労働者保護」根本到他編『西谷敏先生古稀記念 労働法と現代法の理論(上)』(2013年,日本評論社)415頁以下)。
 昨年,季刊労働法に発表した「労使紛争の調整的解決と強行規定ー公的紛争解決機関の行為規範に関する一試論」季刊労働法289号149頁以下)では,強行規定をめぐる問題を労働委員会での紛争解決(和解など)という局面にフォーカスして,より動態的に論じたつもりです。紛争解決の現場では,強行法規による縛りよりも,当事者が真に納得しているかどうかを委員の目で確認し,合意の達成を目指すことこそ重要だからです。それでも絶対に許されない合意もあるという視点も必要だというのが,私の強行規定論です。
 一方,労働法の規制目的からすると,企業がいかにすれば労働法の理念が実現するように行動できるようにするかが重要であり,そこでは明確な強行規定があればよいものの,規範的概念をつかった強行規定であったり,その逸脱(適用除外)が客観的判断の難しい当事者の自由意思に委ねられることがあったりすると法的安定性が損なわれることから,労働者の納得同意があればそれを尊重する(それは企業に労働者にきちんと説明して納得してもらうよう行動するインセンティブとして機能し,紛争の回避にもつながる)という解釈論を提唱していました(これは半強行規定的なものを増やすという整理になるでしょう)。その具体的な制度設計として,どのような就業規則を設計すべきかを論じたのが,拙著『人事労働法』(2021年,弘文堂)です。民法の方は,就業規則の機能というものに,あまり注目されていないかもしれませんが,労働法の議論において,就業規則を抜きにした議論はできません。就業規則のもつデフォルト機能と半強行的規定のコンビネーションが,この拙著の特徴なのですが,どの程度理解されているでしょうか。
 さらに,この座談会でも取り上げられていた「自由意思法理」(「合理的自由意思法理」)について,労働者の限定合理性という観点から論じるための基礎作業的報告をしたのが,先週の研究会での報告でした。その際には,消費者契約との相違について扱ったのですが,座談会のなかで,森田さんが,消費者契約と労働契約の違いについて,不利益な内容の契約について,労働者は「不利とわかっていても,心ならずもサインする」のに対し,消費者は「不利と知らずに,うっかりサインする」という違いを挙げておられました(山梨県民信用組合事件の事案では,労働者が不利益の程度についてよく認識していなかった事案ですが)。限定合理性の議論からみると,労働者も消費者も,十分に情報を集められず,分析能力も劣るという点では共通性はあります。ただ,労働者は,生活のためにわかっていてもサインをせざるをえないが,消費者は,(生活必需品を除き)必ずしもそうではない,という点に大きな違いがあります。アウトサイド・オプションの問題です。
 労働契約では,労働者の限定合理性を前提に,裁判官が労働者を助けるということがなされていますが,前述のように,裁判官が労働者の自由意思を推測できるわけはなく,それを客観的に合理的な理由により判断するのであれば,それは労働者の自由意思とは違うものであろうと考えています。むしろ労働者も,そして裁判官も,限定合理性から免れられないものだと考えたほうがよく,だからアウトサイド・オプションを充実化させる政策(様々なセーフティネットの強化)が重要だという議論となるし,そうすべきだというのが民法にはない労働法の特徴なのです。ただ,真の論点はその先にあります。以上のことを前提としたうえで,AIが労働者の限定合理性という前提をどう変えるかという問題があるのです。これこそが,私が現在,複数走らせている研究課題の中の一つです。
 ところで,「半強行法規」という言葉が座談会のなかで普通に使われていますが,強行法規の効力を弱めるという文脈で,この概念を使ったのは私が初めてではないかと思っています(もし誰か先行者がいれば申し訳ありません)。私は「従属労働者と自営業者の均衡を求めて-労働保護法の再構成のための一つの試み」『中嶋士元也先生還暦記念論集 労働関係法の現代的展開』47-69頁(信山社,2004年)という論文のなかで,「半強行的規定群」という言葉を使っています。この論文の執筆中に,民法において,この種の概念がないか調べたことがあって,四宮和夫『民法総則』(弘文堂)に,「半強行法規」という言葉があることを確認したという記憶があるのです(20年以上前のことなので,少し記憶が怪しいのですが)。民法は,デロゲーションの文脈ではなく,それとは逆の任意法規から半強行法規へという流れなので,私が用いたのとは機能的には真逆の概念ですが,効力論としては任意法規と強行法規の中間という点で同じです。ただ,労働法学では,当時は誰も使っていなかったと思うので,今回の座談会で森田さんの議論に合わせてということかもしれませんが,若い労働法研究者が,普通にこの概念を使っているのには時代の変化を感じました。

2026年5月18日 (月)

ユニオン・ショップと団結権

 先日の法科大学院の授業で解雇に関する日本食塩製造事件を扱ったので,その事件で問題となっていたユニオン・ショップの話もすることにしました。今年度は,あまり体系的に教えるということではなく,各判例に関連する論点はできるだけそこで説明するということにしています。そのため,早々に労働組合の話をすることになったのですが,いまさらながら気になったのが,「団結権」と「団結の自由」という言葉です。
 憲法28条では「団結する権利」と書かれていますので「権利」ですが,この権利には「自由権的要素」も含まれているので,「団結の自由」はいわば「団結権」の下位概念ということもできそうです。もっとも「自由」と「自由権」は異なる概念であり,本来は「団結の自由」は国家とは無関係の(indifferentな)自由を意味するときに使うものですが,国家に対して不作為を求める「権利」という意味で使うならば,やはり「団結権」という言葉を使うべきということになりそうです。
 最高裁は日本食塩製造事件において,「労働者が労働組合の組合員たる資格を取得せず又はこれを失った場合に,使用者をして当該労働者との雇用関係を終了させることにより間接的に労働組合の組織の拡大強化をはかろうとする制度であり,このような制度としての正当な機能を果たすものと認められるかぎりにおいてのみその効力を承認することができる」と述べています。この言い方は,解雇が認められる範囲を限定するかのようです(実際,この判例は解雇権濫用法理を定立した判例として位置づけられています)が,そもそも労働組合の組織の拡大強化をはかるという機能に,解雇を根拠づける客観的合理性・社会的相当性があるとしているところに問題があります。
 ところで,憲法28条の文言上は勤労者の団結権としか述べていません。判例は労働組合の団結権も承認していますが,文言に忠実に考えると,団結権は勤労者個人の権利であり,労働組合の団結権は認められないという解釈も十分に可能です。ただ,いったん労働組合の団結権を認めてしまうと,その後に複数組合並存の場面で組合間の権利衝突というような問題が生じます。日本の判例はその後の三井倉庫港運事件で,ユニオン・ショップ協定締結組合の団結権と並んで,労働者が別組合に加入した場合のその労働組合の団結権,そして労働者の組合選択の自由に言及し,解雇された組合員が別組合に加入した場合(あるいは別組合を結成した場合)には,ユニオン・ショップ協定により解雇義務が及ばないとする判断をしています。労働組合の団結権を認める以上,このような論理構成をとらなければ妥当な結論を導けないということです。
 ドイツでは基本法(憲法)9条1項で結社の権利(Recht)が保障され,さらに3項で労働条件や経済条件を守るための結社の権利が別途に保障され,それを制限するような約定は無効とされています。ドイツでは,労働組合は,条文上は「団結」(Koalition)という言葉は用いられず,一般的な「結社」(Vereinigung)と区別されていません。学説上は9条3項の結社については「団結」という言葉を使いますが,これは講学上の概念にすぎません。
 一方,日本では憲法上,結社(21条)と団結(28条)が明確に区別されています。そこから団結を結社とは別の独自のものとして解釈する根拠があるという説明がなされており,とくに消極的団結権が否定されることもそこから説明されます。これに対し,ドイツでは労働組合は「結社」の一種であり,講学上の「団結」も結社の概念の内側に位置づけられるため,消極的団結権も消極的結社の権利から当然に導かれます。
 仮に日本の憲法もドイツ法と同様に解釈すればどうなるでしょうか。たしかに21条と28条は条文上は別個の規定ですが,団結の自由も結社の自由と少なくとも組織原理は共通であるとし,ただ権利の適用場面の特殊性(歴史的背景の違いなども含む)から条文上別途に規定され,特別に団体行動権を保障したと説明することもできないわけではありません。団体行動権が保障されるとしても,結社の自由との組織原理上の差異までもたらすものではないという解釈もありうるということです。この試論を推し進めると,団結についても消極的団結権が認められることになり,さらに「個人」の消極的団結権が肯定されれば「個人」の積極的団結権も肯定され,それが「労働組合」の団結権に優越するという解釈もありえます。その最も強力な根拠は,憲法が明示的に言及しているのは「勤労者」の(積極的ないし消極的)団結権だけだという点にあります。
 これ以外にも,ユニオン・ショップは,組合自治の問題,バックペイの帰責事由の問題など,興味深い論点もあります。試験に合格したあとでもよいので,学生には,実務の中でも考え続けてもらいたいです。

2026年4月28日 (火)

差別意思

 大学院の授業で,AIによる人事と差別の問題を扱っていると,いつも難問にぶつかります。とくに悩ましいのは,「差別意思」をどのように位置づけるかという問題です。使用者の差別意思を問題にすることは,場合によっては思想・良心の自由との関係で問題を生じうるのではないか,という疑問が頭をよぎります。もちろん,内心における差別意思と,それが外部に現れた差別行為(差別的取扱い)とは区別されるべきであるという説明は理解できます。しかし,実際に差別行為に該当するかどうかを判断する際に,差別意思を基準とするのであれば,結局は内心への一定の踏み込みがなされているのではないか,という疑問が残ります。
 こうした問題は従来から議論されてきたものかもしれませんが,AIという,悪意も感情ももたない存在による差別を考えるとき,この点の問題を避けて通ることはできません。AIは「意思」をもたない以上,差別を意思に結びつけて理解すること自体が難しくなるからです。では,AIを用いると,差別の問題が出てこないのでしょうか。それは,あまり支持されないでしょう。
 たとえば,差別とは何かを「結果」,すなわち特定の属性をもつ者に不利益が生じているかどうかだけで判断すればどうでしょうか。このような帰結主義(Consequentialism)的なアプローチは,一見すると明快で魅力的です。しかし,それを徹底すると,規制の対象が広がり,さまざまな人事措置が過剰に制約されるおそれもあります。間接差別の話しにもつながります。
 とはいえ,私は差別問題については,動機や意図を重視する義務論(Deontology)的な立場とは,いまのところ距離を置くべきではないかと考えています。むしろ使用者のやるべきことは,「説明責任(accountability)」をはたすことです。すなわち,人事措置について差別であると主張された場合に,なぜその措置をとったのかを説明できるかどうかを重視するという考え方です。その前提として,企業があらかじめ明確な人事方針を定めており,かつ当該措置がその方針に沿っていることが示される必要があります。このような方針は通常,就業規則などの形でルール化されているはずです。したがって,ポイントは,就業規則に基づいた措置であることが適正に(相手が納得できる程度に)説明できるかどうかであり,それによって一定の正当性が担保されるという構成になります(拙著『人事労働法』(弘文堂)61頁等を参照)。でも,そのような解釈論を展開しています)。実際には,これは「当該措置に合理的な理由がある」というのと変わらないかもしれません。その場合には,通常は,「差別意思がない」という判断がなされるのでしょうが,「差別意思の有無」を直接問題とするのか,それとも「結果とその合理的説明」を重視するのかでは,理論的な意味は大きく異なります。前者は内心に踏み込む議論であり,後者はあくまで外形に焦点を当てる議論だからです。

2026年4月21日 (火)

季刊労働法292号

 季刊労働法の最新号(292号)の第1特集の集団的労働条件決定に関する論稿は,残念ながら,第1特集とするほどのものではないというのが私の印象です。問題設定を限定して,団体に対する規律のあり方を論じること自体はよいとしても,そもそも組合内部の意思形成過程に法が介入することそれ自体が適切かという団体自治論を踏まえなければ,この問題は十分には論じられないのです。そしてそのためには,労働組合規制の歴史的過程(弾圧の歴史),すなわち団結権や団結の自由,さらには労使自治や組合自治の背景にある憲法的価値を論じる必要があると思います。特集の意義自体は否定しませんが,理論的に刺激を受けるものにはなっていません。ただ,これはあくまで私の印象にすぎず,おそらく私の見方が偏っているのでしょう。
 ちなみに,私が若い頃に取り組んでいたユニオン・ショップの議論は,労働組合がなぜ組合員に対する統制力をもつのかという正統性の問題にこだわり,具体的には,労働協約による労働条件の不利益変更における司法審査のあり方について考察したものです(これは『労働条件変更法理の再構成』(1999年,有斐閣)でも論じており,その後『労働者代表法制に関する研究』(2007年,有斐閣)に所収されている,神戸法学論集掲載の「ユニオン・ショップ協定が労働団体法理論に及ぼした影響」という論文で展開しています)。私の考察はユニオン・ショップ無効論として紹介されるにとどまっていますが,ユニオン・ショップを有効とする判例の下で,労働組合の正統性がどのように変質し,それが司法審査の可能性にどのような影響を与えるかまで論じている点は,あまり知られていないのかもしれません。ただ,いまや四半世紀以上前の議論であり,すでに顧みる必要のない過去の議論なのかもしれません。とはいえ現時点でも,私は労働組合をめぐる解釈論にはあまり関心をもっていませんが,何か大きな議論や基礎的な議論を行う際には,私がかつて格闘した理論的問題(組合民主主義と労使自治・組合自治の理論的緊張関係)を抜きにしては議論ができないのではないかと思っています。もっとも,労働法学以外の立場から論じる場合には,そうした問題設定は不要なのかもしれませんね(田代さんの論稿では,注でわずかに私の論稿に言及されています)。
 この号には,阿部泰隆先生があんしん財団事件をめぐって論じた渾身の論文も掲載されています。阿部節が全開です。季刊労働法には,以前に興津征雄さんにも神戸労働法研究会で報告いただき,同テーマの論文が掲載されており,同じ雑誌に再び掲載されていることに驚きました。阿部先生の主張の特徴は,労災保険の支給処分が取り消されても,その効果は過去の支給分には遡及しない(すなわち労働者には既支給分の返還義務はない)とする点にあります。それが認められるのであれば苦労しないと言いたいところですが,阿部先生は解釈論としてこれを可能としています(ただ私は,労働者の生活に重大な影響を及ぼすことを理由に返還義務を否定するのは,少し無理ではないでしょうかね)。このテーマについては,厚生労働省側の理論的支柱になり,最高裁判決に影響したとみられる太田匡彦氏も含め,まずは行政法の分野で,議論を深めてもらいたいところです。

2026年4月14日 (火)

コースの定理

 JILPTの山本陽大さんから,労働政策研究報告書238号「諸外国における解雇の金銭解決をめぐる制度構造・運用実態・政策評価―独・仏・英における有識者ヒアリングを踏まえた調査研究―」をお送りいただきました。厚生労働省は,解雇の金銭解決について,もう一度本格的に取り組む意向なのでしょうかね。
 今回の調査結果自体はとくに新規性の高いものではありませんが,ドイツにおいても,法制度上は雇用維持を重視する解雇無効ルールが採られている一方で,実務上は和解による金銭解決が広く機能しているという点は,すでに山本さんが指摘されてきたところですが,それが改めて確認されたといえるでしょう。フランスやイギリスについても,法制度の建付けはさておき,実務上は金銭解決が中心となっています。となると,日本はどのような制度設計を採るべきなのでしょうか。すでに私たちが提示した完全補償ルール(大内伸哉・川口大司編,山本陽大・川田恵介共著『解雇規制を問い直す―金銭解決の制度設計』(有斐閣))は,どの程度,政策の場で考慮されるのでしょうか。
 いまさらですが,法と経済学における最も有名なコースの定理によれば,取引コストが無視できる状況では,権利の初期配分が明確であれば,当事者間の交渉を通じて効率的な資源配分が実現されます。解雇の問題に即していえば,使用者に「解雇権」を認めるのか,それとも労働者に「補償請求権」を認めるのかという制度選択の問題となります。現状の日本では,解雇権濫用法理により権利の所在が事後的にしか確定しないため,この「不透明性」が大きな取引コスト(紛争コスト)を生み出しています。仮に権利関係が明確であれば,例えば,労働者が雇用維持の価値を120万円,使用者が雇用維持による不利益を100万円と評価する場合には,労働者が20万円を超える賃金減額に応じることで雇用は維持されます。逆に,不利益が130万円であれば,労働者が120万円まで減額に応じても解雇のほうが合理的となり,それが選択されます。一方で,労働者に120万円の補償請求権が認められる場合にも,同様の比較が行われ,結論自体は変わりません。これがコースの定理の帰結ですが,後者では労働者の手元に金銭が残ることになります。すなわち,制度構成によって「効率性」は変わらないとしても,「分配」の結果は大きく異なるのです。補償請求権構成は,労働者に一定の富を配分しつつ,適切な基準設定によって「社会的に望ましい離職」のみを促す制度として機能し得ます。これが金銭解決制度のメリットです。私たちが補償基準として提案する「生涯年収の減少分」は,解雇に伴う外部性を企業に適切に認識させる「価格」として機能するものです。このような基準が設定されれば,企業は真にやむを得ない場合にのみ解雇を選択することになり,他方で労働者にとっても,十分な補償を得たうえで次のキャリアに進むことが合理的な選択となります。
 もちろん細部についてはなお検討すべき点が多く残されていますが,以上のような制度設計は,経済学的観点からみても基本的に整合的な発想であり,解雇法制の再設計にあたって十分に考慮に値するものではないかと思われます。大事なのは取引コストをいかにして下げるかであり,さらに労働者の交渉力のサポートをする行政支援体制を整備するということにすれば,役所としては権限拡大であり,悪い話ではないのではないでしょうか。

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