労働法

2025年9月25日 (木)

労働時間規制の見直し論

 最近,経営サイドから労働時間制度の見直しを求める声が高まってきています。裁量労働制や高度プロフェッショナル制度の使い勝手の悪さに対する不満が背景にあるようです。たしかに現行制度には不都合もありますが,もう少し要件を緩めてほしいという程度の希望を伝えるだけでは,大きな成果は生まれにくいのではないでしょうか。
 そもそも,現行の労働時間制度があることによってどれほど多くの支障があるのかは,冷静に検証する必要があります。もちろん,企業によっては,ほんとうに困っているところもあるでしょう。しかし,多くの場合,労働時間の管理はそれほど厳格にされているわけではなく,労働者が自らの意欲さえあれば,長時間働くことができてしまうというケースも多いのではないかと思います(もちろん業種や職種によります)。過労死のような事態は絶対に避けなければなりませんが,そうした極端なケースに至らない限り,労働者自身が満足して働いている場合も少なくありません。そうした労働者からすると,たとえサービス残業をしていても,とくに現在の法制度に異を唱える気持ちはないでしょう。
 労働時間制度が話題になることがあるのは,企業が労働者を過剰に働かせて健康障害を招き,労災の対象になる場合や,サービス残業を強いるようなケースです。このような企業が「制度に不満だ」と言っても聞き入れる必要はないでしょう。問題は,真面目に制度を守ろうとしている企業が,はたして本当に困っているのかどうかです(労働者のやりがい搾取になっているだけという声もありえますが)。
 私は,労働時間制度の根本的見直しは必要だとは考えています。ただ,前提となるのは,企業が労働者に成果に応じた公正な評価と処遇を行い,労働者もそれに納得しているという関係が成立していることです。そのうえで,労働者のほうから,成果をあげたくても,労働時間規制(1週40時間しか働けないとか,法定の時間外労働しか認められないとか)があるから,それができなくなっているという不満がでてきてはじめて,規制緩和論は説得力をもつのです。日本社会にとっては,そうした成果意欲が高い人材が数多く育つことが望ましいと思いますが,現状はまだそこに至っていないのではないかと感じています。ほんとうの意味での成果に応じた賃金という体系が確立していないのではないかという疑問です。賃金体系の透明化が,労働者のモチベーションを高め,そこではじめて労働時間規制の桎梏が浮かび上がってくるのではないでしょうか。
 労働時間制度があるから,こうした人材が育たない,という主張もありますが,本当にそうなのかは疑問です。もし制度の見直しが必要ならば,労働者の側からもそのような声が出てきても不思議ではありません。そうした声が出てくる状況になって初めて,経営者サイドが考えているような労働時間制度の見直しが,社会的に受け入れられることになるのだと思います。

2025年7月 4日 (金)

経歴詐称

 公職選挙法235条は,虚偽事項公表罪について定めています。「当選を得又は得させる目的をもつて公職の候補者若しくは公職の候補者となろうとする者の身分,職業若しくは経歴,その者の政党その他の団体への所属,その者に係る候補者届出政党の候補者の届出,その者に係る参議院名簿届出政党等の届出又はその者に対する人若しくは政党その他の団体の推薦若しくは支持に関し虚偽の事項を公にした者は,二年以下の拘禁刑又は三十万円以下の罰金に処する」(1項)。
 伊藤市の市長が,市の広報誌に記載されていた「東洋大学卒業」が虚偽であった可能性が高いと報道されています。選挙期間中にこのような虚偽の経歴を公表していた場合は,上記の罪に該当するおそれがありますが,市長は「選挙中に公表したわけではない」と説明しているようです。もしそれが事実であれば,本罪に問われない可能性もあるでしょう。東洋大学の卒業であったかどうかが市長としての職責をするうえでどの程度の意味があるかは,よくわかりませんが,日本社会では,最終学歴が社会的評価に大きな影響をもつため,市民の関心が高まるのも当然です。市の広報誌とはいえ,「卒業」と明記していたにもかかわらず,実際には「除籍」だったとすれば,厳しい批判を受けるのは避けられないでしょう。
 個人的には,なぜ除籍となったのかが気になります。一般的には授業料未納や在籍年限超過などが理由として考えられます。もし,大学時代に「授業には出ず,”社会勉強”をしまくっていて,気づけば除籍になっていた」などと語っていれば,一種の武勇伝として受け取られたかもしれませんが……。
 ところで,「経歴詐称」という論点は,昨日扱った日本版DBSにも関係しています。労働法の通常の解釈では,業務と密接に関連する重要な事項について経歴を詐称した場合,懲戒解雇が認められることがあります。性犯罪歴がある場合についての経歴詐称をめぐる議論は,それほどないと思いますが,少なくとも企業は従業員や顧客の安全に配慮する義務の観点から,そうした人物を採用しないようにする必要があるでしょう。とりわけ,小児に対してサービスを提供する企業においては,小児やその保護者に対する広義の安全配慮義務が問われる可能性が高いでしょう(もっとも,実際に義務違反として損害賠償責任が認められるかどうかは,事案によります)。
 経歴詐称は,現在では,企業が関心をもつ従業員の個人情報の取得のあり方という観点からも議論されます。とくにそれが要配慮個人情報であれば,真実を答えなくてもよいということもありうるため,難しい論点となります。企業が,性犯罪歴の有無について調査をすることは,通常の職場であれば許容せざるをえないのですが,その調査の方法は,本人にとってきわめて高度なプライバシー情報であることを考慮し,それについて虚偽の回答をすることも含め,本人に真実告知義務を厳格に求めることは適切ではないように思います。他方で,本人のプライバシーに配慮したうえで,事業者が調査をすることは認められ,そこで得た情報は,事業者が責任をもって厳正に管理したうえで,採否の判断に利用することは認められるべきだと思います(性犯罪歴があり,それを秘匿していたことがわかった場合,採用拒否や採用後の普通解雇はできるが,懲戒解雇はできないということです)。おそらく日本版DBSを労働法の面からみていくと,このようなことになるのかなと思いますが,詳しいことはもう少し考えていきたいと思います(勉強すべきことがたくさんありすぎて,時間が足らないのですが)。

2025年6月16日 (月)

ストライキについて

 今日もまた大学院の授業で,ストライキのことについて議論をしました。憲法28条が制定されたとき,資本主義経済の下での勤労者の団結権や団体行動権にどれだけの規範的意義を盛り込むことができるか。それをめぐってプロレイバーとプロキャピタルの対立が生じたこと(プロキャピタルは自分たちがそうだとは思っていなかったでしょうが),受忍義務説や違法性阻却説の対立は,たんなる組合活動の正当性をめぐる学説の対立以上に,資本主義社会において労働法ができることの限界を探るという深い意味があることなどを語りました。昔は学部の授業でやっていたような内容ですが,徐々に学部では扱わなくなりましたね。
 労働者の戦う手段としてのストライキは,若いときには非常に重要な権利だと思っていましたし,いまでも理屈のうえではそういう気持ちはありますが,やっぱりストライキよりもっと良いやり方はないかという気もしています。SNSも,使い方によっては,強力な争議手段となるでしょう。そう書きながら,でも最近の公職選挙などにおけるSNSの「暴力的な」使い方を目の当たりにすると,やっぱりアナログ世界の戦いのほうが良いのかなという気もしています。感情をむき出しにして「肉弾戦」をしたからこそ,「雨降って地固まる」ということもありそうです。
 私は少し前にオンライン交渉をもっと認めるべきというスタンスで論文を書いていますし,その気持に変わりはないのですが,リアル交渉にはそれなりの意味もあるとは思っています。
 というように迷っていますが,やっぱりいちばん良いのは,平和的な労使コミュニケーションで,それはオンラインでもいいのでしょうし,ときどき「オフ会」的に対面で協議をすればよいというところでしょう。

 

 

2025年6月 7日 (土)

フリーランス法をLSで扱うか

 昨日のLSでは解雇以外の退職というテーマでしたので,定年のことを扱い,そこで高年齢者雇用安定法8条や9条について,解釈上の問題の解説をし,津田電気計器事件を素材に対話型授業をしました。そうすると,どうしても高年齢者就業確保措置(同法10条の2)のことも話したくなり,そうすると創業支援等措置の関係で,フリーランスの話もしたくなりましたが,時間の関係があるので控えました。
 ただ,これからのLSの労働法では,フリーランスの話をしなくて大丈夫でしょうかね。フリーランス法も制定され,実務上は徐々に重要性が高まるでしょう。公益通報者保護法でも,今回の改正で,特定受託事業者が保護対象となりました。労災保険の特別加入は,すでに特定受託事業者に開放されました。私たちも現在,フリーランスに関する本を執筆していますし,その他にもすでにいろいろと専門書が出ています。フリーランスの重要性は徐々に高まっています。まだ統計上は,フリーランスは少数ですが,プラットフォーム就労にまで視野を広げると,プラットフォームとそれを利用した自営的な働き方を抜きには労働を語れない時代が来るでしょう。私の定年まではLSでフリーランスのことを扱う必要はないかもしれませんが,そう遠くない時代に,裁判例も次々と出てきて,少なくともLSの労働法の1回分はフリーランスに当てなければならない時代が来ると思います。

 

 

2025年5月28日 (水)

「そうすると」

 判決文で「そうすると」という接続詞が使われることがよくあります。私が知らないだけなのかもしれませんが,これは正式な法律用語であったり,あるいは慣用的な法律用語であったりというわけではありませんよね。一般用語としてみたら,「そうすると」というあとに来る結論は,「それゆえ」「このような理由により」「したがって」などと比べると,かなり説得力が小さいものでしょう。あまり論理としてクリアでない場合に使うものだと思っています。逆にいうと,個人的には,労働委員会の命令などでも,できれば「そうすると」という接続詞を使わなくてすむようなクリアな論理が展開できればいいなと思っています。
 なんてことを日頃思っていたのですが,たまたま最近届いた『最新不当労働行為事件重要/命令・判例』(菅野和夫先生が監修ということは知りませんでした)の最新号(2025年4月号)に,学研エデュケーショナル事件の都労委命令(令和6年2月20日)が掲載されていて,それを読んでおやっと思うことがありました。この事件は,以前の公文の事件と同様,フランチャイズ経営の学習塾におけるフランチャイジーの労働者性が争点となっているものです。公文事件では,都労委の初審命令では労働者性を肯定していました。学研のほうは,これと違う判断がされて,労働者性は否定されました。事案が違うのでしょうかね。命令文を読んでいると,労働者性を否定する要素もあるし,肯定する要素もあるなか,どっちに転ぶのかはっきりしないまま,「そうすると」という接続詞が来て,労働者性が否定されていました。「そうすると」というのが,どういう論理で結論に結びついているのかよくわかりません。微妙なケースであったので,仕方がなかったのかもしれませんし,和解がうまくいかず,白黒つけなければならないことになったので,こういう書き方になったのかもしれません。気持ちはわかるのですが,申立人からすると納得がいかないところもあるでしょうね。
 こういう場合,せめて労働者性の判断だけを専門に迅速にする特別な手続をつくったらどうか,そしてその認定にAIを使ったらどうかというのが,いつもしつこく書いている私の提案です。じっくり審査して正確性を期すという観点からは雑に思えるかもしれませんが,そもそも実体ルールとして労働者性の判断基準がよくわからないものなので,とくに複雑な事案や先進的な事案になれば,正確性の期しようがないのです。それだったら迅速にやってしまったらどうかというのが私の提案の趣旨です。生成AIのクセからすると,「そうすると」と書かずに,「それゆえ」と書いて,思い切った結論を出すでしょう。労働者性については,立法論としては,これを論じる実益がどこまであるのかということに疑問を感じているので,どうしてもラディカルな提案になってしまいますね。

2025年5月21日 (水)

労働者性の問題

 やはり江口農水大臣は更迭されました(辞表の提出ということですが)。すぐに更迭していたら石破首相の株も上がっていたでしょうが,野党から追い詰められての対応という印象なので,あまりポイントにはならないでしょう。
 話はかわり,厚生労働省で,労働基準法における「労働者」に関する研究会というものが始まったようです。最終的には,EUのプラットフォーム就労者の指令などを参考にした提案が出てくることになるような予感がします。また,予測可能性を高めるということも書かれていますが,せいぜい推定くらいであり,私の推奨しているAIの活用というところまでいくでしょうか。
 労働者性のことを考えるなら,私は,ワーカーズ・コレクティブの議論に立ち返る必要があると思っています。東京高裁の2019年6月4日の企業組合ワーカーズ・コレクティブ轍・東村山事件判決で,企業組合の組合員の労働者性を否定したものです。その後に,労働者協同組合法ができて,組合は組合員と労働契約を締結しなければならないという規定を置いたので(20条),労働者性を肯定するということで問題は解決したかのようですが,法律がどう定めるかに関係なく,そもそも組合員を労働法令上の労働者として保護すべきかどうかという価値判断は残っているのです。労働法の歴史を考えたときに,ある種の階級的従属性という視点からみた労働者の保護という思想があったことは明らかでしょう。階級的従属性を乗り越えるために協同組合が結成されたことも事実です。資本家なき事業経営です(ただマルクスは協同組合には警戒感を示していました)。協同組合の組合員は出資するという点で資本家の要素をもち,また経営者ともなり,そして労務を提供するという意味では労働者でもあるのです。こうした組合員を,通常の労働者性の判断基準にあてはめて労働者かどうかを判断することに,あまり意味があるとは思えません(裁判所としては,そうせざるをえないのでしょうが)。この事件で争われたような割増賃金の請求を認めるべき組合員かどうかを判断する最も正しい基準は,割増賃金規制によって保護すべき労働者の利益は何かを明らかにし,それに照らして,要保護性があると判断される者かどうかという基準です。そう考えると,現在の労働者性の判断基準とされているものには余計なものが多く含まれていることがわかるでしょう。それを進めると,統一的な労働者概念を放棄して,労働保護法上の種々の規定についてその趣旨などを明確にし,それに応じて主体的適用範囲を決めていくということになります。そのうえで,経済的従属性に関係するような規定については,デロゲーションの可能性も認めていく必要があるだろうという議論になっていくというのが,20年くらい前に私が中嶋士元也先生の還暦記念論文集に寄稿した論文で書いたことです。もちろん,その後は,こういうアプローチとは別に,前述のようにAIの活用により割り切って労働者性の判断をするとか,さらに,労働者性というものを論じることをやめて,フリーランスも含めた就労者全体の共通のルールを設けるものといったことも提言しています。時代の変化をみるとき,現在の労働者性の基準では無理ということはわかっていますし,海外をみたからといって何か大きな発見ができるわけではなさそうです。どこまでラディカルにいくかによって政策提言の在り方も変わるでしょう。これまでの判例を分析するというような作業は,来るべきAI審査に向けた学習データの作成としては意味があるでしょうが,それ以上に大きな意味があるとは思えません。21世紀も4分の1を過ぎた現在,そろそろブレイクスルーが求められています。この研究会の成果に注目したいです。

2025年5月19日 (月)

ストライキ

   今日の大学院の授業では,台湾からの留学生が争議行為の予告制度に関するテーマで報告してくれました。このテーマで日本に来て学ぶ意義があるのだろうかと,正直,最初は疑問に思っていたのですが,報告を聞いて認識が変わりました。数年前の航空会社のストライキを契機に,予告を法律で義務づけるべきかどうかという議論が台湾でも起こったとのことで,理論的にも発展の余地があり,非常に興味深い内容でした。
 台湾では争議行為については調停前置主義が採られており,あえて予告の義務化を追加する必要はないのではないかとも感じました(もう少し詳しく確認する必要があります)。公益事業に限らず,すべての争議行為について調停前置が法律で定められているという点は,日本との比較において非常に興味深い点です。ちょうど現在,日本でも電気事業などを対象とするスト規制法の見直し作業が,労政審の部会で進められているようです。このタイミングで,日本のストライキ規制についても,現代的な視点からあらためて再考する必要があると思っています。
 そもそもストライキとは,労働者が自らの権利や利益を守るために行う集団的な労務の不提供という実力行使であり,本質的に「尋常ではない」行為です。しかし,他に交渉手段を持たない労働者にとっては,やむを得ない手段として歴史的に認められてきたものです。私がイタリアで直接見たストライキは,怒りに満ちた強いエネルギーが注ぎ込まれており,単なる労務提供の停止にとどまらず,デモやテレビ出演などを通じて,自らの行動の大義を社会に訴えるものでした。やる側も,やられる側も,ともに疲弊します。まさに「戦争」であり,だからこそ,労働協約は「休戦協定」なのです。こうした事態は,できれば避けられるに越したことはありません。ストライキとは,そういうものなのです。 それでもイタリアでは,ストライキは憲法上の権利として明確に承認されています(日本のように団体行動権という表現はなく,明確に「ストライキ権(diritto di sciopero)」として保障されています)。ストライキ権があるからこそ,労働者の交渉力は担保されるのですが,それでも現実に行使されるべきではない,まさに,伝家の宝刀なのです。
 ストライキは,歴史的には,未熟練労働者の集団的な違法行為から出発し,やがて憲法上の権利にまで高められたという劇的な変遷をたどってきました(団結も同様の面がありますが,ストライキは,企業に対する実力行使という点で,より強い違法性があったといえます)。だからこそ,その行使に際しては慎重さが求められ,そこで誤れば大きな社会的損失を招きかねません。産業平和という観点からも,本来であれば避けられることが望ましいのです。しかし,過度な抑制がなされると,かつての全体主義時代のドイツやイタリアのように,ストライキの全面禁止につながる危険性もあるため,(とくに憲法的にスト権保障がある国においては)政府の介入には慎重さが必要です。先述の調停前置主義の是非も,この観点から議論の余地があるでしょう。他方で,公益事業においては,継続的な労務の提供の重要性という観点もあり,日本の現行の労働関係調整法による規制が適切かどうかについて,規制強化と緩和の両面から検討する余地があります(公務員の争議行為禁止との均衡,他方で,そもそも公務員の争議行為禁止自体の是非も問われるべき問題です)。このように,スト規制法の見直しは,複雑な難しい論点をはらんでおり,慎重な議論が求められます。
 いずれにせよ,ストライキを紛争解決の手段の一つととらえるならば,これが必ずしも最も効率的な方法とは思えません。ちょうど『日本労働研究雑誌』の最新号でも,ストライキを特集していました。その中で最も印象に残ったのは,特集の最後の座談会における労働組合関係者の最後の発言でした。それは,顕在課題の解決よりも,課題の予測や潜在課題の察知に力を入れ,それについて労働組合の立場から企業を変えていこうとする活動の重要性に関するものでした。そして,「未来視点で想像・創造していくアクションを心掛け活動しています」と語られていたことに,非常に感銘を受けました。この言葉は,ストライキという手段にこだわらず,組合員の利益を中期的視点でどう守るかという問題に真摯に向き合っているからこそ出てきたものでしょう。これが労働組合の方の言葉であるという点に意義があると感じました。

2025年5月13日 (火)

4派13流

 先日の神戸労働法研究会で,JILPTの山本陽大さんの報告(灰孝小野田レミコン外2社事件・中労委命令)を聞いて刺激を受けたので,次号の「キーワードからみた労働法」(ビジネスガイド)では,そこで争点となっていた労働組合法上の使用者概念をテーマにしました。朝日放送事件・最高裁判決を中心に解説して,最高裁判決の法理がどのように形成され,そこにどのような問題があり,最後は実務上どういうことに心がけたらよいか,立法論としてどういう課題があるかということを書いてみました。朝日放送事件・最高裁判決のことは,これまでもいろんなところで論じていますが,何回読み直してみても,よくわからないところがある判決です。この判決については私なりの理解もあるし,私なりに考えている使用者性論もあります。学説の対立も深刻なように思えます。かつての就業規則の法的性質論と同様,きちんと分析すると,◯派◯流ということになるかもしれません。
 就業規則については,いまの若い研究者はあまり知らないかもしれませんが,かつて諏訪康雄先生が,文献研究で学説を分析をされ,「413流」と命名されたことがあります。これは新左翼の「5流13派」をもじったものですね。
 ところで,先日,LSで就業規則を扱う回があり,そのときに法的性質論についても,少し時間を使って話しました。労働契約法が制定されてから,重要性は下がっているかもしれませんが,私たちの世代は,この議論についてはしっかり話しておきたくなります。そのうえで,就業規則の不利益変更について,もし労働契約法が制定される前の時点であれば,答案に書く時に,どう論証しますか,というような質問もしてしまいました。「労働契約法10条によると」ということが書けない時代の司法試験受験生になってもらったということです。実務的には,労働契約法が制定される前のことをやっても仕方がないかもしれず,どこまでLSの授業でやるべきなのかはよくわかりません。労働契約法後に労働法を学んだ若い世代の先生たちは,どのような授業をしているのでしょうかね。

2025年5月12日 (月)

差別的取扱い禁止規定の片面性と両面性

 今日の大学院の授業で,AIと差別の問題を扱っていたとき,労働基準法4条の片面性と両面性について少し議論となりました。私は片面説,すなわち,労働基準法4条は,女性に有利な取扱いは禁じていないという立場です。3条も同様です(拙著『労働法実務講義(第4版)』(2024年,日本法令)827頁Column40を参照)が,学説は,両面説,すなわち有利な取扱いも禁止するという立場です。たしかに行政解釈も,寺本廣作『労働基準法』でも両面説ですが,社会的弱者に対する不利益な取扱いを禁止する趣旨であると考えると,片面説をとるべきようにも思います。
 かつては片面説もあったようですが,いまでは論点にもなっていません。たしかに4条についていうと,均等法でも性差別法となっているので,それにあわせるなら両面説のほうがいいような気がします。平等を重視すればそうなるでしょう。
 ただ労働基準法は,刑罰法規でもあります。社会的弱者に対して有利な扱いも刑罰も禁止するという規定だとすると,それはちょっとやりすぎではないでしょうか。差別的取扱いという言葉の通常の意味にも反します。
 賃金について女性であることを理由として有利な取扱いをすれば,労働基準法4条違反となるのか。労働条件について国籍を理由として有利な取扱いをすれば,労働基準法3条違反となるのか。そうした結論は,普通に考えればおかしいと思うのです。かつて,どのような片面説(私からすると正しい学説)が唱えられていたのかについて,詳しく検討してみてみたいと思います。

2025年5月 2日 (金)

次の感染症に備えて

 今朝のNHKのニュースで,ダイヤモンド・プリンセス号でコロナ感染が発症したときの医師の苦労話が報道されていました。このときのことをテーマとした映画「フロントライン」がもうすぐ公開されるそうです。次の感染症に備えて,しっかり反省しておくべきことがありそうです。
 労働法の問題もあるのですが,こうしたことを考えるうえで,JILPTの山本陽大さんの執筆した報告書「新興感染症と職場における健康保護をめぐる法と政策―コロナ禍(COVID19­Pandemic)を素材とした日・独比較法研究」は参考になるでしょう。そこで紹介されているドイツの精緻な議論は,日本法の問題を考えるうえでも貴重な情報です。
 個人的には,コロナ禍での出社命令のことが気になっていたので,報告書内の記述を確認してみました。企業には出社命令権はあるものの,権利濫用性の審査に服することを前提に,そこでどのような事項が考慮要素となるかが,ドイツ法と比較して検討されていました(97頁)。出社命令を拒否して懲戒処分を受けたり,賃金カットを受けたりした場合には,そこで示されている判断枠組みで審査されることになりそうです。
 ただ問題は,出社命令を受けた時点で,労働者はどう行動すればよいのかです。個人で権利濫用かどうかの判断がきちんとできるはずがありませんので大いに迷うところでしょう。実際には,よほどの強い意思があるか,出社しづらい事情がない限り,出社命令に従ってしまうでしょう。実は私見では,企業の必要性などをあまり考慮しない解釈を提示しています。拙著『人事労働法』(2021年,弘文堂)112~3頁で,労働者は安全(健康も含む)に疑念のあるときは,就労を拒否できるべきという大胆な解釈を唱えています(「安全就労の抗弁」と名付けており,このブログでも何度も採り上げています)。そんなものを認めたら労働者の濫用が心配されるという意見が出てきそうですが,私は,だから就業規則でこういう場合の対応方法をルール化したらよいという提案も同時にしています。すなわち,どのような場合に安全の危険があると判断されるかも含めて,危険時の就労に関するルールを,企業はきちんと手順をふんで就業規則で定めていれば(「◯◯の場合は,◯◯の事情がなければ出社しなければならない」「〇〇の場合は,〇〇の申告をすれば,出社しなくてもよい」など),そのルールに従って,企業は出社命令を出せるかどうかを判断し,また労働者もそれに従わなければならないか判断できるということです(手順というのは,「人事労働法」では「納得規範」に基づいたルール化です)。ルールに基づいて出社命令を発する場合も,企業は納得同意を得るように誠実説明をしなければなりませんが,それを尽くしていれば出社命令は有効となり,原則として権利濫用として無効となる余地はありません(これは人事労働法では,企業の人事権などの行使一般にあてはまる解釈です)。なお,このルール自体に解釈の余地のある曖昧な要素があれば,それは労働者に有利に解釈をすべきであり,そのことは企業に明確なルールをつくるインセンティブを付与するものとなります。
 以上の私見は,要するに,災害時などの危機のときに当事者がどう行動したらよいかの対応をしやすいように,事前に明確なルールを定めるように促すこととし,そのための法解釈として,出社命令の有効性やその拒否の有効性について,事後的な裁判所の権利濫用性に依存せずに確定させるようにしたものです。次なる感染症や自然災害に備えて,こういう解釈が必要だと思いますが,普通の法律論ではないので,残念ながら,支持者はいなさそうです。

より以前の記事一覧