法律

2022年8月 9日 (火)

契約と信頼とブロックチェーン

 フリーワーカーの時代になったときに,一つの障壁となるのは,日本に契約文化が根付いていないことに起因する問題です。日本人は,自分で契約書をかわして取引をするのに慣れていない人が大半であり,フリーワーカーとして契約社会にいきなり放り込まれると,いろいろなトラブルが起こる心配があります。私はフリーワーカーの契約の書面化を義務づけることを提案してきましたが,実は書面化しても,契約内容を理解するリテラシーに欠けていれば,かえって危険です。相手はできるだけ契約をうまく締結して,自分の利益を守ろうとするわけで,裁判となれば,そういう「プロ契約者」に負けてしまうのです。そのため,フリーワーカー時代の今後の教育という点では,法律や契約のリテラシーの学習が必要だということを,私は前から提案しています。
 根底にあるのは,日本人の契約リテラシーの低さです。ここでいう契約とは,口約束のようなものではなく,きちんと書面でかわしたものが想定されています。もちろん法的には,ほとんど契約は諾成契約でよく,書面などの要式性を欠いても契約は成立します(民法522条を参照)が,いざトラブルになったとき,口約束では,裁判所で契約内容を証明できないことが多いでしょう。逆に言うと,裁判を必要とするようなトラブルが起こらないという信頼関係があれば,契約書などをいちいちかわす必要はないともいえます。
 契約書というのは,信頼関係がない人と取引するからこそ必要となるものなのです。それは逆の視点からいえば,信頼関係がなくても契約書があれば取引ができるので,取引の範囲を広げることができるともいえます。日本でも借家契約では契約書をかわしますが,これにより,大家さんは見ず知らずの人にも家を貸すことができます(もちろん,それだけでは不十分なので,いろいろ信用調査をしたり,保証人をつけたり,敷金をとったりするのですが)。
 しかし,日本社会は,かつては,多くの取引が,社会のなかの構成員相互の目が届く範囲でなされていて信頼関係があったため(裏切ることが難しかったため),いちいち契約書をかわすといった契約文化が,あまり広がってこなかったのかもしれません。
 インターネットが発達して,クラウドソーシングのようなものが出てくると,見ず知らずの個人と契約をすることになるので,信頼は重要な問題となってきました。”Trust me” と言われても,そのこと自体,信頼できません(鳩山由紀夫が,首相時代にObama大統領に言った,沖縄の米軍基地移設問題をめぐる無責任な発言は有名ですね)。プラットフォームというのは,そういう信頼を担保する存在となるのです。もちろん怪しいプラットフォームを介したクラウドソーシングであれば,取引は広がらないでしょう。これに対し,信頼性のあるプラットフォームには発注側も受注側も人が集まり,ネットワーク効果で,その集中が加速化し,寡占状態が生まれてきて,Winnerーtakesーall の状態が生じることになります。
 それはさておき,フリーワーカーの時代に契約書が重要となるのは,契約書をきちんとかわせないようでは,取引を広げることができないからです。相手方も,どこの馬の骨ともわからないような者と取引をするのですから,しっかり契約書をかわそうとするでしょう。ただ契約書だけでは安心できない面もあります。契約違反の場合の訴訟コストは非常に高いからです。ここを乗り越えることができなければ,フリーワーカーとしての働き方は広がりません。上記のプラットフォームは,この問題の解決方法の一つですが,寡占・独占状態になると,プラットフォーム手数料で足下をみられやすくなります(独禁法で救うことも理論的には可能でしょうが)。
 いま注目されているのは,Trustlessを特徴とするブロックチェーン技術です。この技術は,ビットコインで有名ですが,そこでの分散型信用システムは,チェーンでつながるすべての者により信頼を担保しているようなものです。これからのWeb3.0の時代は,互いに知らない者どうしでも取引をしやすくなります。プラットフォームの「信用保証」のようなものがなくてもいいのです。これにより,取引をはばんでいた様々なリスクやコストが取り除かれていく可能性があるのです。
 Web3.0は,労働の面でもDAO(分散型自律組織:Decentralized Autonomous Organization)のような新たな可能性が指摘されています。DAOについては,日を改めて論じることにしますが,ここではフリーワーカーの就労の主たる舞台が,WEB3.0の主役であるメタバースになる可能性に言及するにとどめます。

契約と信頼とブロックチェーン

 フリーワーカーの時代になったときに,一つの障壁となるのは,日本に契約文化が根付いていないことに起因する問題です。日本人は,自分で契約書をかわして取引をするのに慣れていない人が大半であり,フリーワーカーとして契約社会にいきなり放り込まれると,いろいろなトラブルが起こる心配があります。私はフリーワーカーの契約の書面化を義務づけることを提案してきましたが,実は書面化しても,契約内容を理解するリテラシーに欠けていれば,かえって危険です。相手はできるだけ契約をうまく締結して,自分の利益を守ろうとするわけで,裁判となれば,そういう「プロ契約者」に負けてしまうのです。そのため,フリーワーカー時代の今後の教育という点では,法律や契約のリテラシーの学習が必要だということを,私は前から提案しています。
 根底にあるのは,日本人の契約リテラシーの低さです。ここでいう契約とは,口約束のようなものではなく,きちんと書面でかわしたものが想定されています。もちろん法的には,ほとんど契約は諾成契約でよく,書面などの要式性を欠いても契約は成立します(民法522条を参照)が,いざトラブルになったとき,口約束では,裁判所で契約内容を証明できないことが多いでしょう。逆に言うと,裁判を必要とするようなトラブルが起こらないという信頼関係があれば,契約書などをいちいちかわす必要はないともいえます。
 契約書というのは,信頼関係がない人と取引するからこそ必要となるものなのです。それは逆の視点からいえば,信頼関係がなくても契約書があれば取引ができるので,取引の範囲を広げることができるともいえます。日本でも借家契約では契約書をかわしますが,これにより,大家さんは見ず知らずの人にも家を貸すことができます(もちろん,それだけでは不十分なので,いろいろ信用調査をしたり,保証人をつけたり,敷金をとったりするのですが)。
 しかし,日本社会は,かつては,多くの取引が,社会のなかの構成員相互の目が届く範囲でなされていて信頼関係があったため(裏切ることが難しかったため),いちいち契約書をかわすといった契約文化が,あまり広がってこなかったのかもしれません。
 インターネットが発達して,クラウドソーシングのようなものが出てくると,見ず知らずの個人と契約をすることになるので,信頼は重要な問題となってきました。”Trust me” と言われても,そのこと自体,信頼できません(鳩山由紀夫が,首相時代にObama大統領に言った,沖縄の米軍基地移設問題をめぐる無責任な発言は有名ですね)。プラットフォームというのは,そういう信頼を担保する存在となるのです。もちろん怪しいプラットフォームを介したクラウドソーシングであれば,取引は広がらないでしょう。これに対し,信頼性のあるプラットフォームには発注側も受注側も人が集まり,ネットワーク効果で,その集中が加速化し,寡占状態が生まれてきて,Winnerーtakesーall の状態が生じることになります。
 それはさておき,フリーワーカーの時代に契約書が重要となるのは,契約書をきちんとかわせないようでは,取引を広げることができないからです。相手方も,どこの馬の骨ともわからないような者と取引をするのですから,しっかり契約書をかわそうとするでしょう。ただ契約書だけでは安心できない面もあります。契約違反の場合の訴訟コストは非常に高いからです。ここを乗り越えることができなければ,フリーワーカーとしての働き方は広がりません。上記のプラットフォームは,この問題の解決方法の一つですが,寡占・独占状態になると,プラットフォーム手数料で足下をみられやすくなります(独禁法で救うことも理論的には可能でしょうが)。
 いま注目されているのは,Turstlessを特徴とするブロックチェーン技術です。この技術は,ビットコインで有名ですが,そこでの分散型信用システムは,チェーンでつながるすべての者により信頼を担保しているようなものです。これからのWeb3.0の時代は,互いに知らない者どうしでも取引をしやすくなります。プラットフォームの「信用保証」のようなものがなくてもいいのです。これにより,取引をはばんでいた様々なリスクやコストが取り除かれていく可能性があるのです。
 Web3.0は,労働の面でもDAO(分散型自律組織:Decentralized Autonomous Organization)のような新たな可能性が指摘されています。DAOについては,日を改めて論じることにしますが,ここではフリーワーカーの就労の主たる舞台が,WEB3.0の主役であるメタバースになる可能性に言及するにとどめます。

2022年8月 6日 (土)

人権デューディリジェンスガイドライン

 ビジネスと人権は,ホットなテーマです。季刊労働法276号で,特集されていた「労働と人権をめぐる新たな動き」でも,岡山大学の土岐将仁さんが「ビジネスと人権」という論文を執筆しており,これは,このテーマの最新の状況を知るうえでの重要文献です。
 ところで85日に,人権デューディリジェンスに関するガイドライン案が出されたということが報道されていました。私も,ビジネスガイド(日本法令)で連載中の「キーワードからみた労働法」の最新号では,「企業の社会的責任」というテーマを採り上げて,そのなかで,このテーマも扱っています。いまさらCSRかと言われそうですが,これは,いま一度注目されるべきものだと考えて,いろんな論考で言及しています。
 法的な強制があるかどうかに関係なく,サプライチェーンにおける人権侵害の有無に敏感になることは,企業の社会的責任として強く要請されるものです。もっとも一般の法律家の発想では,社会的責任というだけでは,法的強制力もなく,効果は期待できないということかもしれません。そうしたなか,私は,伝統的な法的手法とは異なる形での政策目的の実現手法に関心をもっており,例えば世界人権宣言にしろ,ILOの中核的労働基準にしろ,こういうものをどうやって企業に実行してもらえるかという手法に関心があります。CSRについてはISO26000のようなガイドライン規格が興味深いですし,国連グローバル・コンパクトは,官民協力の規範実現手法という視点でみることもできます。今回の人権デューディリジェンスガイドラインの詳細はまだよくわかりませんが,国際人権問題について,政府が本格的に国内企業に働きかけるものとして注目されます。
 企業にとっても,政府に言われるまでもなく,ESG投資に傾く投資家(とくに海外投資家)を意識すると,人権問題への対応は必要ですし,ユニクロ商品がアメリカで輸入を差し止められたりした問題などをみると,海外との取引で人権対応は不可欠となっています。ただ,個々の企業だけでは,どうしようもないところもあります。例えば,悪名が海外にとどろいてしまっている技能実習制度の見直しに政府が乗り出そうとしているのは,外国人の人権保障という面だけでなく,こういう評判が立つことで,日本のフラッグが日本企業に不利に働くことを防ぐ必要があるからでしょう。同様の観点から,今回の人権デューディリジェンスへの取組も,ガイドラインであっても,意味があるものなのです。
 もちろん,より重要なのは,こういう取組を実際に人権侵害状況の改善につなげることです。その点で必要とされるのは,企業自身の道徳的・倫理的な責任とされてきたものを,どのように企業を刺激して望ましい行動に誘導していくかという,制度設計をするための知恵です。これからの法律家は,こういう問題にも取り組んでいく必要があると考えています。

2022年7月13日 (水)

侮辱罪の厳罰化への疑問

 

 刑法231条(侮辱罪)の法定刑が引き上げられ,懲役または禁錮,罰金が追加されました。懲役または禁錮は,将来的には,拘禁刑に統合されますが,侮辱罪の改正のほうが先に施行されましたので,当面は懲役または禁錮という刑は残ります(拘禁刑の導入される改正刑法は,公布の日から3年以内の施行とされています)。
 侮辱罪は,事実を摘示せず,公然と人を侮辱する場合に適用されるものであり,侮辱とは,「他人の人格を蔑視する価値判断を表示すること」と解されています。今回の改正の理由は,「近年における公然と人を侮辱する犯罪の実情等に鑑み,侮辱罪の法定刑を引き上げる必要がある」とされていますが,とくにネット上の誹謗中傷への適用を想定したものと言われています。政治家の言動や政策への批判は,侮辱にあたると解すべきではないのですが,それが必ずしも明確ではないことから,懲役刑まであるとなると,政治的言論についての重大な制約となるおそれがあります。ちなみに関西弁のアホは,関東弁のアホとはずいぶんとニュアンスが違うものであり(「探偵ナイトスクープ」の「アホ・バカ分布図」も参照),通常は,少なくとも主観的には侮辱の意味が含まれていませんが,私が政治家をアホ呼ばわりすると,侮辱罪でつかまらないかという心配が出てくるわけです。
 ネット上の誹謗中傷が人権侵害になることがあるのは,よくわかります。それへの対処は必要です。しかし,そのための方法として,法定刑の厳罰化をするというのは,はたして効果的な方法でしょうか。公訴時効の関係もあるのでしょう(従来は1年でしたが,改正後は3年となりました。刑事訴訟法2502項の7号適用犯罪から6号適用犯罪に変わったからです)が,むしろ刑事訴訟法25027号で,軽い犯罪であっても公訴時効が1年というのが短すぎるので,こちらのほうを,たとえば2年に引き上げるというような改正もありえたかもしれません。
 刑罰は劇薬であり,別の目的(上記の政治的な言論に対する弾圧目的)に悪用されることが心配です。著名人の自殺などのショッキングなことがあり,処罰感情が高まっていることは理解できますが,性急な法改正であったような気がします。そもそも,厳罰化によっては,ネット上の誹謗中傷を抑止することはできないでしょう。デジタル時代における個人の人権保護は,デジタル技術を使って図るという,ここでもデジタルファーストの考え方で臨むべきだったのではないでしょうか。たとえば,刑法学者やこの分野に詳しい弁護士に集まってもらって,何が侮辱であるかの具体例をデータ化してAIに学習させ,侮辱に該当する発言をネット上で発信すれば,アラームが出て,それにもかかわらず発信したら処罰可能というようなことはできないでしょうか。アラームが出たときに,すぐに削除すれば許されることにするのですが,このようなソフトなやり方のほうが言論に対する対応としては妥当でないかと思います。

2022年6月19日 (日)

有罪率99.9%の功罪

 一昨日に続いて刑法の話です。司法統計年報(令和2年)によると,地方裁判所で無罪となった事件が72件(総数が47117件なので,無罪率は0.0015です)です。有罪率99.8%です。つまり日本では起訴されるとほぼ100%近く有罪となるとして,カルロス・ゴーン(Carlos Ghosn)やそれに乗った外国人(や日本人)が批判していました。人質司法がどうかはさておき,有罪率が高いことだけをみれば,有罪となるような事案だけが起訴されているからだと考えることは十分可能でしょう。
 ところで日本では,逮捕されても,起訴されないことが多いと言われており(不起訴処分),この点が一昨日に再掲したイタリアの事情とは異なっています。また起訴されて有罪判決となっても,執行猶予がつくことが多いと言われています。冤罪事件もあるのですが,圧倒的多数のケースでは被疑事実がほんとうにあるのであり,ただ,そのときでも,実刑をうけないことが多いという事実のほうが非常に重要だと思えます。日本の刑事司法は,犯罪をしたから処罰をするということだけを考えているのではなく,犯罪の種類によりますが,被疑事実を認め,被害者と示談をしたり,反省していたりするなど,悔い改める姿勢をとっていれば,できるかぎり許そうとしているのでしょう。このような扱いが,実は再犯を防止し,治安の維持につながっているとも言われており,そこは非常に評価すべき点ではないかと思います。ただし,ほんとうに身に覚えのない事実であるために否認している場合もあるのであり(男性諸兄にとっては,痴漢の冤罪がこわいですし,教員であれば,ハラスメントの冤罪がこわいです),そのときに否認しているがゆえに長期的に勾留され,あげくに嘘の自供をさせられるというのは,重大な人権侵害となります。とくに社会的に有名な人が関わる事件で,検察の威信をかけたものとなると,逮捕した以上は,起訴し,有罪にもちこまなければ面子にかかわることになり,そこにひょっとしたら無理が生じて,村木厚子さんのケースのような証拠捏造という恐ろしいことが起きてしまうのかもしれません。最近でも一部上場企業の社長の事件が,起訴されたものの,無罪判決で確定したものがあり,国家賠償事件となっています。
 こういうことが起きてしまうのは,実は,被疑事実を認めない人の圧倒的に多数は,犯罪をおかしているにもかかわらず,それでも自分の罪を認めないというきわめて悪質な人であり,それが99%の範囲の人なのでしょう。しかし,ほぼ100%という数字が,わずかに紛れ込んでいるかもしれない,ほんとうに無実の人の叫びを聞き落としてしまう危険性があり,検察官には,そこをきちんと見極めてほしいのです。検察官が起訴の段階でしっかりスクリーニングしているという信頼が高い日本社会では,起訴だけで社会的信頼は失墜するので,裁判で無罪となっても,そこから信頼回復するのは,普通の人は不可能に近いのです。こうしたことになるのは検察官に高い信頼があるからであり,それだけ検察官には重い責任があるといえます。
 起訴便宜主義には,メリットとデメリットがあると言われています。デメリットの一つは,巨悪を見逃しているのではないかという批判ですが,私は,検察官は,実体法の範囲でやれる限りのことはやっているのではないかと思っています。検察審査会という民主的チェックもあります。むしろ,上記のような治安面でのプラスの効果も考えて,起訴便宜主義を評価しなければならないと思っています。問題は,犯罪者の発言とはいえゴーンの批判が,海外にも大きく報道されて日本は後進的という印象を国際的に植え付けられそうな点です。そうしたことが起こらないように,検察には頑張ってもらいたいところです。
 取調べの可視化は重要ではありますが,それだけでは十分でありません。検察官にも(岸田首相流の?)被疑者の供述の「聴く力」をしっかりもってもらい,同時に供述の嘘を見破るスマートなスキルを身につけてもらえればと思います(嘘の供述を意図的にさせてしまうのは論外です)。
 そして,ここでもAIは活用されるべきではないでしょうか。刑事分野でのAIの活用というと,プロファイリングを活用した容疑者捜しや再犯可能性の予測などが典型的ですが,画像解析による供述の信憑性の判定などにおいても,利用できるでしょう。「デジタルファースト」は刑事司法でも重要な原則ではないかと思います。

 

2022年6月17日 (金)

刑法の改正

 刑法が改正され,懲役と禁錮が拘禁刑に変わることになりました(刑法9条改正)。これにより,多くの法律の改正が必要となります。「刑法等の一部を改正する法律の施行に伴う関係法律の整理等に関する法律案」も同時に可決され,関連法の対応が書かれています。労働基準法や労働組合法でも懲役や禁錮刑が定められていたので,3年以内の改正刑法の施行に合わせて条文が修正されます。以前にイタリア語のreclusione はどう訳すべきであろうか,というようなことをブログで書いたことがありますが,今後は「拘禁刑」と訳すことができそうです。そこで,ふと以前に,イタリアの刑法のことについて,いろいろ考えたことをブログで書いたことを思い出しました。ネット上では消えてしまっていますが,手元に昔のメモが残っていたので(掲載したものと同じかどうかは不明ですが,ほぼ同じだと思います),再掲します。おそらく2018年の52日と3日に書かれたもので,ちょうどTOKIOのメンバーの事件があったころの話がネタになっています。

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201852日 起訴便宜主義について思う

 「山口メンバー」は「山口さん」になりました。起訴猶予になったからだそうです。
 日本の刑事訴訟法248条は,「犯人の性格,年齢及び境遇,犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは,公訴を提起しないことができる」と定めています。これを起訴便宜主義といいます。検察官は,状況によっては,起訴(公訴提起)しないこともできるのです。
 強制わいせつにおいて,犯罪行為があっても,被害者と示談が成立していて,初犯であるというようなことがあれば,起訴猶予となるのが相場なのかもしれません。ただ示談が成立していれば起訴しないのであれば,非親告罪にした意味がないような気がします。もちろん公訴提起により被害者が裁判に出廷することなどによる二次被害が起こらないようにするための配慮は必要ですが,性犯罪が社会にとって危険な犯罪であり,かつ加害者本人が社会復帰を望んでいることを考慮すると,社会にとっての危険性はいまだ軽微とはいえない可能性があります。
 ところで,イタリアでは憲法112条に次のような規定があります。
 「Il pubblico ministero ha l'obbligo di esercitare l'azione penale.」
  検察官は公訴提起をする義務がある,という規定です。これを起訴法定主義といいます。犯罪行為があったと確認した以上は,起訴しなければならないということです。あとは裁判官が量刑も含めて判断するということでしょう。検察官は行政官であり,犯罪の嫌疑があるのに,司法の判断に服せしめるかどうかまでを判断してしまってはだめということでしょう。
 日本の検察官を信用していないわけではないのですが,起訴猶予によって(元)容疑者の扱いが一変してしまったことで,ちょっと驚きです。禊ぎが終わったとまでは誰も考えていないでしょうが,そういうムードがやや現れているような気もします。
 性犯罪は再犯率が比較的高いようです。データは裁判で有罪判決を得た場合のものがありますが,起訴猶予になったものもありますでしょうか。別に今回の「山口さん」に個人的な恨みはありませんが,書類送検までされる性犯罪は相当悪質なものであったはずです(クラブで酔ってホステスの胸をむりやり触ったというたぐいのものではないでしょうそれでもダメですが[加筆])。マスコミも,そのあたりをよく考えたうえで,横並びではなく,各社で報道姿勢を考えてほしいものです。
 なお,直接この話に関係しませんが,イタリアでは,対象が存在してない場合(たとえばカーテンの向こうに殺そうとしている人間がいると思ってそこに向かってピストルの引き金をひいたが,そこには誰もいなかったとか),犯罪を引き起こすことに適しない行為(単なる胃腸薬を毒薬と誤信して,それを飲ませて殺そうとしたとか)である場合は不能犯(reato impossibile)とされ罪には問われません(イタリア刑法典492項),その場合には,裁判所は保安処分(misura di sicurezza)を命じることができます(同条4項)。不能犯は,当該行為については犯罪を起こす可能性がなく,問題なく無罪ですが,それでも社会への危険はある以上,裁判官は一定の処分を命じるのです。日本の刑法では,そもそも不能犯の規定がないですし,保安措置を命じるといった規定はありませんが,イタリアに歴史的に濃厚にあると思われる「新派」的な立場によれば,犯罪をする危険のある者から,いかに社会を守るかということが大事になってくるのです(刑法における旧派と新派の議論については,ぜひ刑法の専門書を読んで確認してください)。無罪であっても,起訴猶予であっても,社会を守るということが大切です。それはとくに性犯罪にあてはまることではないかということです。加害者の人権も大切というのが私の基本的スタンスですが,マスコミ報道をみながら,少しバランスをとった意見もいうべきだということで,あえて書いてみました。

201853日 請願権
 昨日,イタリアの刑法のことを語ったので,そのついでに,ぜひ紹介しておきたい本があります。それがBeccariaの『Dei Delitti e delle Pene(犯罪と刑罰について)』です。大学で法律を勉強したことがある人なら,誰でも知っているものですが,有りがたいことに,この本の訳書があります。ずいぶん前にいただいて,たぶん紹介をしていなかったと思うのですが,それがお茶の水大学の小谷眞男さんの翻訳したチェーザレ・ベッカリーア『犯罪と刑罰』(東京大学出版会)です。小谷さんには心より御礼を申し上げます。素晴らしい訳であり,解説もきわめて充実しています。
 ところで,この本のなかにBeccariaが死刑について語ったところがあります(第28章)。彼は死刑反対論者です。終身刑の支持者です(ちなみにイタリアでは死刑は憲法で禁止されています[274項])。なぜ死刑がダメなのかということが,実に説得的に論じられています。ここでは紹介しきれませんが,最も有力な論拠は,死刑では,犯罪抑止につながらないということです。
 死刑というものを,犯罪の予防という刑事政策的な観点から考えた場合(これが新派的な発想),死刑という手段のもつデメリットと,死刑により解決される政策課題との間の関係を検証するというアプローチが必要となります。Beccariaは,終身刑で長期間隷属的な状況が続くほうが,犯人に過酷なものとなり,それだけ市民に対して抑止力が働くというのです。死刑でこの世から消えることができるというのでは,本人の犯罪抑止力は弱い,ということです。[これには宗教的な背景があるかもしれません:加筆]
 Beccariaは,賢明なる君主は死刑廃止論のもつ真理性に気づくはずだけれど,それを妨害するのが中間的特権層だというのです。君主には,ローマ時代の五賢帝のような人も出てくるが,おそらく中間的特権層は徳も見識もなく,権力をほしいままにしたい存在ということなのでしょう。特権層は変化を望まず,先例を踏襲するものであり,新しい提案に耳を傾けません。Beccariaは,「もし王座にまで届くようなことがあれば,つねに傾聴されたであろう人々の率直な請願を,さえぎり押し殺してきたのは,中間層の専制なのだ!」と述べています(小谷訳)。「だからこそ,光で照らされた市民たちは,ますます熱心に君主たちの権威の継続的増大を求めているのだ」(小谷訳,100頁)。
 
君主の権威の増大をいうのは現代の感覚からはおかしいような気もしますが,当時を考えるとそうおかしいことではありません。国家の統治を社会契約的に考えた場合,ボッズブ(Hobbes)のいうような「リバイアサン(Leviathan)」が生まれますが,それをプラトン(Platon)的な哲人政治に変えるためにも,中間的な権力を排除し,権力をもつ君主を教化していくことが必要だということでしょう(この本が出た25年後にフランス革命が起きていますが,中間団体の否認が革命時の思想として重要となっています)。
 その意味で請願権というものは,ひょっとするともっと注目されてもいいのかもしれません。実は日本国憲法にも請願権の規定があります。それが16条です。長谷部恭男『憲法(第7版)』(新世社)では,「請願は,議会制度が十分に発達していなかった過去においては,被治者の意見を為政者に伝える一つの経路として機能したが,国民主権が確立し,国民の参政権が十分に保障された現代社会においては,もはや意義は有しないと考えられている」と書かれています(305頁)。
 しかし,アメリカでTrumpが登場して民主主義のプロセスに十分な信用がおけなくなりつつある現在,Beccariaのいう「光に照らされた市民たち」による請願のプロセスというのは,もっと考えられてもいいのかもしれません。CNNでアメリカの元国務長官Albrightさんが,Trump政権を暗に批判するために,HitlerMussoliniも民主主義から生まれたと言っていました。民主主義は手段ではありますが,唯一絶対的なものではないというのは,Churchillに言われるまでもなく,多くの人がわかっていることです。間違った人が選ばれたときの対策を,暗殺やクーデターのような暴力的な方法に頼るべきではないでしょう。これでは民主主義の正面からの否定です。民主主義から生まれた強大な権力を抑制するのは,最後は「知の力」であると信じたいものです。 
 翻って日本はどうでしょうか。現在の首相は,直近の選挙でも大勝し,民主的なプロセスで大きな権力をもつようになっています。側近や忖度する官僚が中間的専制者になっているとすれば賢明な市民が立ち上がらなければなりません。Beccariaなら,打倒安倍にエネルギーをかけるよりも,中間的専制者を排除して,いかにして首相を知の力で賢政に導くかを考えるべきだと言ってくれるかもしれません。憲法学者は,こうしたことは非民主的として否定するでしょうか。憲法記念日にみんなで考えてもらいたいことです。

2022年5月 3日 (火)

憲法記念日に思う

 施行から75年が経った日本国憲法をめぐっては,改憲勢力を勢いづかせるようなロシアのウクライナ侵攻があり,その見直しも視野に入れて議論しようとする意識が国民の間でも広がりつつあるようです。この機会に憲法に向き合って,自分たちの国のことを真剣に考えてみることは大切です。
 憲法は,それほど長いものではないので,一度,しっかり読んでみるのもよいのですが,いきなりつまずいてしまうかもしれません。
 本則の最初にある第1条は「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く」と規定されています。このように天皇の地位は,日本国民の総意に基づくのですが,この「総意」とは何なのでしょう。天皇を日本国民統合の象徴と認めない人が増えれば,天皇の地位はどうなるのでしょうか。あるいは象徴と認めよ,ということを憲法が定めているのでしょうか。そうなると,憲法自体が,19条で保障している思想・信条の自由を侵害していることになります。
 このように憲法を前から読み始めると,いきなり天皇制にぶちあたります。憲法と向き合うためには,天皇をめぐる議論をタブー視しないことが大切です(私は別に,ここで天皇制を見直せということを言いたいわけではありません)。
 それはさておき,憲法は人権を保障するものであり,とくに重要なのはマイノリティの人権だということが,よく言われます。民主主義社会においてマジョリティの意思により法律が制定され,執行されていくという権力構造のなかで,マイノリティの自由を守るのが,法律より上位にある憲法の役割であるということからすると,マイノリティの人権と憲法は密接な関係にあるといえるでしょう。
 人権の本来の機能は,政府が国民の権利を侵害しないようにすることにあります。人類は,社会をうまく動かしていくために,誰かに統治を委ねるということをしてきたのですが(動物の世界でも,いろいろな形でリーダーやボスがいて,その集団の安全と持続的発展のために尽くす役割をしています),そのために必要となる「権力」がときに濫用されてきたという歴史にかんがみ,権力を抑制するために,国民主権を明確にし,権力は法律に基づいて行使されるものとしたのです。法律を制定する国会を国権の最高機関とし,その国会は,全国民を代表する選挙された議員で組織されるものとし,内閣は国会で制定された法律を誠実に執行し,裁判官は法律に拘束されます。このように国家権力の行使は,究極的には,国民が選挙をとおして国会議員にゆだねているといえるのですが,絶対君主でなくても,権力がきちんと行使されないことがあるので,憲法というものが最高法規として君臨することになり,これに反する法律は効力を有しないものとされています。
 憲法のことを考えるとは,こうした統治構造の特質と,そのなかでの権力の濫用による人権侵害の危険性を考えることと同義であり,現実の政治の動きをきちんとチェックするということから始めなければなりません。たとえば政治家がやろうとしている憲法改正は,自分たちを縛る最高法規を動かそうとしていることですから,そこに不当な動機がないかは厳重にチェックする必要があるのです。最終的に国民投票で決着をつけるとはいえ,昨今のロシアの動きをみると,住民をうまく情報統制して投票を操作しようとすることがあるのであり,立憲民主党が広告規制に神経をつかっているのは,わからないではありません。
 話を戻すと,人権の意義が国家権力からの防御にあるとすると,私たちの社会におけるマイノリティ差別のような問題は,広い意味での人権問題であると呼ぶことはかまわないものの,やはり本来の人権問題とは区別したほうがよいと私は考えています。たとえばLGBTQは,法律により明示的に差別対象となっているものではないので,むしろ社会の道徳的な成熟度の問題という面が強いと思っています。もちろん,たとえば同性婚などの問題は,法律問題ではあるのですが,それは憲法論として「上から」論じるべきものではなく,私たちの社会の価値観をベースにしてマジョリティの価値観を変えながら実現していくべき問題ではないかと思っています。個人の尊重は憲法13条にも規定はありますが,これは憲法でそう書いているから守るべきなのではなく,基本にあるのは個人が人間として守るべき道徳であり,それを憲法で実定化しているにすぎないとみることもできるのです。
 この視点が重要なのは,憲法は法律による人権侵害を危険視していることからすると,個人どうしの間にある逸脱行為については,できるだけ法律に頼らずに,社会の構成員である一人ひとりの道徳的成熟により対処することを目指すべきという方向性を明確にできることです。国会議員を信用するなとまでは言いませんが,権力の危険性は忘れてはならないことです。これこそが憲法の教えなのです。もちろん,こうした憲法観は古くさいもので,憲法は法律を超越したものなので,積極的に私人間にも適用して,憲法の理念を浸透させていくべきであるという議論のほうが,いまでは普通の考え方なのかもしれません。しかし,私は道徳で対処できる問題を憲法問題にまで拡大するのは,憲法の本来はたすべき使命をあいまいにしてしまい,過剰に国家権力に「頼る」という意識を広げてしまわないかを懸念しています。前述のLGBTQに対する差別という問題も,憲法問題として取り組むよりも,個人の多様性を重視する個人の意識の向上をいかにめざすかという視点で,法ではなく道徳の問題として扱ったほうがよいということです。道徳教育は,どうしても国民の思想・良心の自由を侵害する懸念から,積極的にその重要性を指摘することに警戒感があるのは,よくわかるのです(なお,現在の道徳教育についての内容や影響については,十分な情報がないので,まだ私にはよくわかっていません)が,法も道徳も社会統制の規範であり,法学教育があるのであれば,道徳教育もあってしかるべきだと思います。国家による道徳教育の暴走の危険性を抑制しながら,いかにして民主的なルールという危ういもの(権力の正当化)に乗せずに,私たちを自律的に良き行動に導くことができるかということを考えていく必要があります(そのためにも道徳を共有しにくい分断社会にならないようにすることが重要です)。以上は,憲法の限界を考えようという議論です。
 もう一つ憲法というと,平和があります。国家権力と人権の関係を上記のように考えると,他国の侵略により人権を侵害されるというのは,本来,憲法問題ではないことになります。ただ日本では,必ずしもそういうことにはなりません。
 どのようにしたら平和を実現できるかは,憲法では答えを出せない問題であり,それゆえにみんなが自らの頭で考えていかなければならないのですが,そのときに想起されるのが,やはりカントの永久平和論でしょう。カントは常備軍の廃止を唱えています。常備軍があるということは,臨戦態勢であるということであり,他国に脅威を与えてしまい,これでは平和は遠のきます。現在,ロシアのウクライナ侵攻で自国の防衛の重要性を唱える意見が高まってきており,自衛隊の増強論も出てきそうです。しかし憲法をみると,その第9条は,永久平和への高らかな宣言でした。自衛隊の存在は,他国からみると常備軍であり,憲法9条との整合性は普通に考えれば否定されることになりそうです。だからといって憲法9条を改正すべきかというと,そこはなお疑問で,理想としての9条はあってよいという意見もあるでしょう。カントも理想主義的すぎるという批判を受けたそうです(カントの考え方を継承している国際連盟は失敗に終わり,現在の国際連合も,危機的な状況になってきています)。自衛隊に批判的な意見は,現実の脅威の下にかすみつつあるようですが,そういうなかで,日本の安全保障のあり方について,憲法9条のもつ理想主義と現実の折り合いをどうつけるかという難問に,とくに若者たちに真剣に取り組んでもらえればと思っています。

2022年3月21日 (月)

権利のために闘うとは

 ウクライナ人の必死の抵抗に根源にあるものを知るためには,あの有名なJhering (イェーリング)の『Der Kampf um’s Recht』(権利のための闘争)の冒頭の一節が参考になるかもしれません。岩波文庫版の村上淳一先生(かつてドイツ法の外書講読の授業に出たことがあります)の翻訳も参照すると,それは「Rechtの目標は平和であり,そのための手段は闘争である」というものです。「Recht」は,村上先生は「権利=法」と訳されていて,研究者らしいこだわりがあります。欧州の言語では,Rechtやそれに相当する言葉(フランス語のdroitやイタリア語のdirittoなど)には,「法」と「権利」の両義があるために,通常は文脈に応じて訳し分けるわけですが,本書では両義性をもっているため,村上先生はそのように訳されたのでしょう(先生が執筆された解説も参照)。ただ本のタイトルは「権利」だけです。
 Jhering は,「闘争を伴わない平和,労働を伴わない享受は,ただ人間が楽園を追放される前にのみ可能であった。その後の歴史においては,平和と享受は絶えざる刻苦の結果としてのみ可能なのである」と述べています(岩波文庫の31頁)。ちなみに,この本には労働のこともよく出てきます。「享受」の原語は,「Genuß」です。
 国家間の闘争も,平和を求めた闘争であり,そのためには武力行使もいとわないのです。ロシアが侵攻を正当化するために自国の平和を挙げ,ウクライナが自国を守るために武器をもって立ち上がるのは,どちらも権利のための闘争なのかもしれません。そうした闘争は,Jheringによると,国民の倫理的な義務でもあるのです。権利(Recht)を守る,法(Recht)を守る,さらには正義(Gerechtigkeit)を守るというのは,それを破る者が出てきたときに,戦うということも含意しているのです。もちろん,何がRecht で,gerecht かが大切なのですが。
 私が『人事労働法』(弘文堂)において権利論を批判したのには,法学のもつこうしたマッチョな部分に対する基本的な拒否反応があったことも関係しています。むしろ法学のよさを,秩序だった法廷において,暴力ではなく,言語と論理で解決を模索する仕組みに見いだしたいのです。平和性こそが法学の良さだということです。権利論より義務論を重視する私の姿勢は,権利論のもつ紛争誘発的なものに対する否定的評価から来ています。
 とはいえ「秩序だった法廷」というイメージの法を理想に掲げても,武力で壊されてしまえば,どうしようもないとも言えそうです。ただ,このときに,現実は理想とは違うと諦め,法が目指す平和は,武力でなければ維持できないというアイロニーを嘆くだけで終わってしまってはいけないと思っています。武力なき平和の追求を,臆病者の戯言として馬鹿にする風潮もありそうな気がしますが,そうした風潮に抵抗して,「秩序だった法廷」的な平和的法学を追求する知的営みは大切なことだと思っています。これこそ権利のための(平和的な知的)闘争なのです。Jhering の掲げた「Rechtの目標は平和であり,そのための手段は闘争である」の前半だけを活かすということです。それは同時に,私たちホモ・サピエンスにある凶暴性を理性によって克服する試みでもあります。
 ……それでは,ストライキに対して肯定的であった,お前のこれまでの議論はどうなるのだ,という心の内からの批判的問いかけもあります。そこには葛藤がありますが,おそらく改説する必要があるのだろうと思っています。

 

2022年2月21日 (月)

労働者情報保護法の必要性?

 最近では,労働法においてもガイドライン(あるいは指針)が使われることが多く,ガイドラインをみることも,法律の勉強をする際に必要となりつつあります。とくに法律において大臣の指針策定権限を規定し,指針の法的根拠が明確になっているものは,重要性が高いといえるでしょう(短時間有期雇用法15条に基づく指針など)。もちろん,指針の内容は司法を拘束するものではありませんが,そこでは行政の解釈が前提となっており,とくに新しく制定された法律においては,立法趣旨(実際の立法担当者は,労働法規でいえば多くの場合,国会ではなく,厚生労働省といってよいでしょう)は行政が示した指針で具体的に示されているとみることができるので,事実上,大きな影響力があるといえます(なお,菅野和夫『労働法(第12版)』(弘文堂)275頁では,男女雇用機会均等法の指針について,「専門的行政機関が専門家の研究会の検討と関係審議会の審議を経て提示したものであり,客観的に妥当な法解釈として裁判所によって是認される可能性が大きい」とされています)。
 ところで,一昨日のこのブログで,個人情報法保護法19条(不適正な利用の禁止規定。条文は2022年4月施行後のもの。以下も同じ)の「不当」概念の不明確性にふれましたが,この点についてもガイドラインで一定の明確化が図られています。例えば,19条に抵触する例としてガイドラインが挙げているものに「採用選考を通じて個人情報を取得した事業者が,性別,国籍等の特定の属性のみにより,正当な理由なく本人に対する違法な差別的取扱いを行うために,個人情報を利用する場合」があります。言わんとする気持ちはわかりますが,「正当な理由」(不当でないこと)と「違法」が概念として混在していて,わかりにくい気がします。違法な差別であれば,正当な理由があってもダメなわけで,差別があっても正当な理由があれば違法ではありません……。これは揚げ足をとるような指摘で大して重要ではないのですが,いずれにせよ,研究者は,ガイドラインや指針について,たんに実務上の運用ルールや行政機関の公式見解を知るということで満足せず,もっとその妥当性も含めて批判的な目を向けて分析対象とする必要があるのかもしれません(ちなみに,短時間有期雇用法15条に基づく指針については,その原案のときから私は批判的です)。
 ところで個人情報保護法のガイドラインにおける性別による差別の例でいうと,差別は法律で禁止されており(男女雇用機会均等法5条,6条),個人の性情報を利用しない性差別というのは考えにくいので,性差別と性情報の差別的利用は一体のように思えます。この場合,実はより重要な問題は,差別につながるような個人情報を,そもそも取得してよいのかということです。個人情報保護法は,事前の同意が必要な要配慮個人情報を除くと,情報取得のところの規制が比較的緩やかで(20条),利用のところに重点をおいた規制をしているように思えますが,労働法の立場からはこれでは不十分な可能性もあります(加えて,要配慮個人情報の取得などにおいて,同意があればよいという点も,その同意がどういうものでなければならないかについては,労働法的な観点からの固有の議論ができます)。個人情報保護法は,デジタル社会の基盤となる重要な法律ですが,労働関係については,職安法上の規定や指針をはじめとして,労働法規に点在している関連規定を包括的に扱う一つの法分野として,労働法独自の考察を加えていく必要があるかもしれません。そこで労働者情報保護法という分野の創設を提唱したいです。いまのところ,この分野では,弁護士の松尾剛行さんの『AI・HRテック対応 人事労務管理の法律問題』(2019年,弘文堂)が最良のテキストでしょう。

 

2022年2月18日 (金)

違法と不当

 改正個人情報保護法の19条は,「個人情報取扱事業者は,違法又は不当な行為を助長し,又は誘発するおそれがある方法により個人情報を利用してはならない」とさだめています(41日施行で,現時点では16条の2)。「違法」はわかるとして,「不当」とは何かというのは,気になるところでしょう。通常は,「不当」とは「違法」ではないけれど,法の目的に照らして適切でないことを指す,というような説明がなされます。行政不服審査法の冒頭(11項)にも,「行政庁の違法又は不当な処分」という言葉が出てきます。個人情報保護法のガイドライン(通則編)では,上記の規定の文言について「直ちに違法とはいえないものの,法(個人情報の保護に関する法律)その他の法令の制度趣旨又は公序良俗に反する等,社会通念上適正とは認められない行為をいう」という解釈が示されています。
 概念的には「違法」と「不当」は違うのですが,一般の人にとってみれば,あまり区別に意味があるものではありませんし,より重要なのは「不当」とは具体的にどういう場合を指すのかが明確でないことです。個人情報の保護自体が歴史があるものではありませんし,社会通念上の適正さは現在揺れ動いているようにも思います。
 解雇についても,違法解雇と不当解雇を分けて議論することがあります。違法解雇とは,法律の明文で禁止されている解雇です。例えば,育児休業を取得したことを理由とする解雇は,法律で禁止されています(育児介護休業法10条)ので,違法解雇です。一方,解雇に客観的合理的理由がなく,社会通念上相当と是認できない場合,つまり権利濫用の場合は,形式的には労働契約法16条に反するという言い方もできますけれども,実質的には一般的な権利濫用法理に照らして無効になるということなので不当解雇と分類できます。ただ,法律の具体的な内容の規定によらないので,どのような場合に不当解雇となるかが明確でないということが,解雇法理の予想可能性の欠如といった問題を引き起こすことになります。労働法上は,不当労働行為という言葉もありますが,これは「不当」という言葉がややミスリーディングであり(アメリカのunfair labor practice unfair の訳語)ますが,いずれにせよ,その内容については,労組法7条に規定があり,さらに具体的な内容について膨大な判例や命令例により,かなり明確にされてきています。しかし個人情報保護法での「不当」は,どういうものであるかは,法律では定義しないということで(裁判所や行政に任せる),規制の名宛人となる当事者は,何をしてはならないかがわからず困惑することになるでしょう。とくに個人情報というのは,どのように利用してゆくべきかという基本的な方向性が法律上必ずしも明確ではなく,十分な社会的コンセンサスもありません(前述のように社会通念も揺れ動いています)。具体的に言うと,個人情報はできるだけ利活用したほうがよく,ただプライバシーを侵害するような場合だけは規制に服せしめるべきであるという立場が一つの極にあれば,いやそうではなく個人情報というのはそれ自身個人がしっかりコントロールすべきであり,かつそうできるものであって,他方,個人でコントロールしきれないものはしっかりと政府がパターナリスティックに保護すべきであって,その利用をとりわけ営利目的等で行う場合については厳しく規制しなければならないという立場も,もう一方の極にあるように思います。このどちらの立場に立つか(あるいはその中間的な立場もあると思いますけれども)によって,「不当」という概念の内容も変わってくるように思います(たとえばプロファイリングのように,既存情報から推知することも19条に抵触する利用と考えるかなど)。
 「違法又は不当」という概念の使い分けは法律家的には違和感がないものですが,実際にこの規定をふまえて行動しようとする人にとっては「不当とはなんぞや」ということになるわけで,こういう行為規範を意識した法律論というのを我々はもっとやっていかなければならないというのが『人事労働法』(弘文堂)を執筆したときの問題意識です。

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