法律

2022年11月21日 (月)

近代法と日本

 前回の学部の少人数授業では,小塚荘一郎さんの『AIの時代と法』(岩波書店)の最終章「法の前提と限界」を読んで議論をしました。私は主たる教材は,拙著『デジタル変革後の「労働」と「法」』(日本法令)をつかっているのですが,これは主として予習・復習用で,授業の中では,関連する文献を指定して議論をするということにしています。今回の小塚さんの本は,2年生相手にデジタル技術と法の問題を考える際の非常に良い教材と思って指定しました。デジタル技術との関係だけでなく,一般的な「法の前提と限界」論の勉強にもなります。
 最終章のはじめに,「科学技術の発展によって新しい状況が出現したとき,専門家の中には,『それに適合した新しい枠組みが必要だ』と言い出す人と,『これまでも似たような状況はあった』と主張する人が,常に現れる」と書かれています(200頁)。デジタル技術と労働という問題においても同様で,私は新しい枠組み派ですが,従来の枠組みを活用しようとする人のほうが多数でしょう。後者は解釈論でなんとか対応しようとする人もいれば,立法をする際も従来の延長線上でという人もいます。従来枠組み派のほうが,法的安定性という点でも,また立法を手早く,比較的容易にできるという点でもメリットがありますが,法の内容が時代後れとなる危険性が高いというデメリットもあります。
 また小塚さんの本は,日本では,欧州から継受した近代法を,「サイズの合わない既製服」であるという意見があることを紹介し,その理由について,近代法の沿革やそれを日本が継受した経緯を簡潔にまとめて説明してくれています。これも学生にとって良い勉強になったと思います。
 また日本の多くの経営者は,「法的な義務がなくとも,ステークホルダーの理解を得て,納得してもらうことが必要である」と考えているとします(218頁)。ここでいうステークホルダーには従業員も含まれます。小塚さんは,日本ではこういう法的な義務ではない規範があるところに,権利・義務の体系で成り立っている近代法と違うものがあると指摘しています(220頁)。私が『人事労働法』(弘文堂)で展開している納得規範は,これを法的な義務論に組み入れていくものであり,その意味で近代法から逸脱していることになるのでしょう。周回遅れのポストモダンということでしょうかね。

 

2022年11月11日 (金)

死刑を軽く語るな

 葉梨康弘法務大臣の「死刑はんこ」発言が問題となっていますね。このブログを書いている途中に更迭というニュースが飛び込んできました。当初,首相は個人の説明責任の問題ということで,いつものように任命責任を放棄していました。国民が選んだ議員ポストの辞職とは違って,大臣は首相自身で選んだのですから,首相自ら責任をとるべきです。最初からスパッと更迭しておけばよかったのですが,いろいろ言われてから更迭ということですと,首相もやはり事の重大性がわかっていなかったと思われても仕方がありません。いずれにせよ,山際氏にしてもそうですが,大臣の質が悪いのであり,自民党の人材不足は深刻に思えますね。
  葉梨氏は,問題が起きた当初は,発言全体を聞いてもらうと,法務行政の重要性を指摘したことがわかってもらえると反論していましたが,問題はそこではなく,死刑をジョークのようにして語る人権意識の希薄さです。そこに,この人の大臣不適格性があるのです。更迭は当然ですが,首相も同じように人権意識が低いと思われても仕方がないでしょう。なお葉梨氏は発言を撤回しているようですが,撤回ということの意味がよくわかりません。
  ところで,刑事訴訟法475条では,第1項で,「死刑の執行は,法務大臣の命令による」,第2項で,「前項の命令は、判決確定の日から6箇月以内にこれをしなければならない。但し、上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であった者に対する判決が確定するまでの期間は,これをその期間に算入しない。」とされています。
 かつて鳩山邦夫が,法務大臣のときに,死刑を自動的に行うべきとした発言に民主党議員がかみついたことがありました。死刑は,法務大臣の責任でやるべきことであるということでしょう。死刑判決が裁判で確定しているのなら,むしろ淡々と行うべきということかもしれません。そうだとすると,淡々とハンコを押しそうな大臣のほうがよいことになるのかもしれません。
 しかし,それはやはりおかしいのです。鳩山邦夫の言葉のほうが,人間としてまともです。死刑という制度には,いろいろな考え方がありますし,イタリアのように死刑がない国もあります。個人の死生観にもかかわるでしょう。そう簡単に死刑の命令を出せるわけがないというのは,人間として当然です。そこを,自分自身で事件を精査し,自身を納得させ,遺族感情もふまえて心を鬼にし,最後には法の執行という自分の責務に忠実であるべきと言い聞かせてハンコを押すのでしょう。国家により禁止している殺人を,刑罰としてであれ命じるということの重みをかみしめない人は,法務大臣としてふさわしくありません。もっと言えば議員としてもどうかな,と思います。選挙民は,よく考えて投票してもらいたいです。

2022年10月 1日 (土)

営業秘密侵害罪

 かっぱ寿司を経営するカッパ・クリエイトの田辺社長が逮捕されました。容疑は,不正競争防止法の営業秘密侵害罪だそうです(21条)。法人も両罰規定(22条)により送検されるようです。
 報道されているところによれば,はま寿司の取締役であった田辺社長が,カッパ・クリエイトに移籍することになり,それにともない仕入れ先データなどを持ち出して,社内で共有し,使用したということのようであり,これをサポートした社員も逮捕されています。かっぱ寿司も,はま寿司も行ったことがありません(どちらも,神戸にはほとんど店舗はないようです)が,両者は似たビジネスモデルを採用していたそうで,ライバルに差をつけられていたかっぱ寿司はかなり危機感をもっていたようです。いかによい品質のネタを安く仕入れるかが勝負の業界だそうで,そうなると,仕入れ先のデータは,業績に直結する最重要データなのでしょう。それを盗まれては,たまったものではありません。同業他社間の移籍となると,当然,こういう秘密持ち出しの危険性は出てくるわけですが,これまで耳にすることが多かった,従業員による技術情報の持ち出しのケースとは異なり,経営幹部が仕入れ先などの営業情報の持ち出しをしたということで,カッパ・クリエイトの企業イメージは大きな打撃を受けることになるでしょう。営業秘密侵害罪では,たとえば営業秘密の取得は「十年以下の懲役若しくは二千万円以下の罰金に処し,又はこれを併科する」となっていて,決して軽い犯罪ではありません(211項柱書)。営業秘密の取得についての法人に対する罰金は,5億円以下となっています(2212号)。
 営業秘密の定義は,「秘密として管理されている生産方法,販売方法その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報であって,公然と知られていないもの」(2条6項)で,秘密管理性,有用性,非公知性という3要件が定められています。実際には,営業秘密とは何かをめぐって争われることもあります。企業としては,事後的に,損害賠償請求をしたり(不正競争防止法では,立証活動の困難性を考慮して,損害額の算定規定があります[5条]),行為者や法人に処罰を求めたりするよりも,事前に侵害を防止することが大切であり,そのためにも秘密管理の強化が求められることになるでしょう。労働法的には,退職時に秘密保持契約を厳格に結んだときの,その有効性というのが典型的な論点としてありますが,実は,これは民法90条の公序良俗違反という一般条項を用いるものにすぎず,その有効性の判断基準は明確ではありません。労働法では,この問題はむしろ不正競争防止法の問題であるという意識が強く,授業でもほとんど扱わないように思います。
 秘密保持契約を結ぼうが,不正競争防止法での刑事罰の厳格化がなされようが,一定の効果は期待できるもののやはり限界があり,根本的な解決手段は,データの持ち出しをいかにしてテクノロジーで阻止するかにかかっているように思います(デジタル・フォレンジック(Digital forensics)の導入なども予防効果があるでしょう)。

2022年9月24日 (土)

警察官の発砲

 2日前の深夜に近所で発砲事件がありました。某○○組の本拠地だったところが近くにあるので,抗争が始まれば怖いなと思っていたのですが,実は発砲したのは警察官で,コンビニの近くでカッターナイフをもって暴れていた男に対するものでした。3発撃って,1発は下腹部にあたったのですが,あとの2発は外れたということで,もしその場に居合わせていたらと思うとぞっとします。
 カッターナイフでも十分に殺傷能力はあるのですが,発砲までする必要があったのかはよくわかりません。ナイフをもった者には,まずはさすまたで対応と思いますが,手元になかったのでしょうかね。日中もっと人が多い時間でしたら,拳銃はぎりぎりまでやめてもらいたいので,警察官にはナイフ男を抑えるだけの技を身につけてもらいたいものです。
 とはいえ,これをあまり言い過ぎるのも問題があるのはわかっています。むしろ日本の警察官は発砲しないというという評価がかなり定着しているので,それを見越して凶悪な犯人が行動をエスカレートさせる危険があるからです。
 市民としては,凶器をもって暴れている者に対して発砲をするのは仕方ないと思う一方,発砲せずに抑えられる技をできるだけ身につけてもらいたいし,やむを得ず発砲するならしっかり犯人に命中するようにしてもらいたいです。
 実は警察官の武器使用については,警察官職務執行法7条に次のような規定があります。
警察官は,犯人の逮捕若しくは逃走の防止,自己若しくは他人に対する防護又は公務執行に対する抵抗の抑止のため必要であると認める相当な理由のある場合においては,その事態に応じ合理的に必要と判断される限度において,武器を使用することができる。但し,刑法……第三十六条(正当防衛)若しくは同法第三十七条(緊急避難)に該当する場合又は左の各号の一に該当する場合を除いては,人に危害を与えてはならない。
 一 死刑又は無期若しくは長期三年以上の懲役若しくは禁こ(ヽ)にあたる兇悪な罪を現に犯し,若しくは既に犯したと疑うに足りる充分な理由のある者がその者に対する警察官の職務の執行に対して抵抗し,若しくは逃亡しようとするとき又は第三者がその者を逃がそうとして警察官に抵抗するとき,これを防ぎ,又は逮捕するために他に手段がないと警察官において信ずるに足りる相当な理由のある場合。
 二 逮捕状により逮捕する際又は勾引状若しくは勾留状を執行する際その本人がその者に対する警察官の職務の執行に対して抵抗し,若しくは逃亡しようとするとき又は第三者がその者を逃がそうとして警察官に抵抗するとき,これを防ぎ,又は逮捕するために他に手段がないと警察官において信ずるに足りる相当な理由のある場合。」
 つまり,警察官は,犯人の逮捕や逃走の防止,自分や他人の防護,または公務執行に対する抵抗の抑止のために「必要であると認める相当な理由のある場合」には,「その事態に応じ合理的に必要と判断される限度」において,武器の使用が認められるのです。
 この規定をめぐって,最高裁は,1999217日の判決で,警察官が武器使用で市民Aを死亡させたケースで,特別公務員暴行陵虐致死罪(改正前の刑法196条)で有罪(懲役3年,執行猶予3年)とされた事件において,次のように述べて,発砲について違法と判断しています。
 「Aが第二現場以降前記ナイフを不法に携帯していたことが明らかであり,また,少なくとも第三,第四現場におけるAの行為が公務執行妨害罪を構成することも明らかであるから,被告人[筆者注:警察官]の二回にわたる発砲行為は,銃砲刀剣類所持等取締法違反及び公務執行妨害の犯人を逮捕し,自己を防護するために行われたものと認められる。しかしながら,Aが所持していた前記ナイフは比較的小型である上,Aの抵抗の態様は,相当強度のものであったとはいえ,一貫して,被告人の接近を阻もうとするにとどまり,被告人が接近しない限りは積極的加害が為に出たり,付近住民に危害を加えるなど他の犯罪行為に出ることをうかがわせるような客観的状况は全くなく,被告人が性急にAを逮捕しようとしなければ,そのような抵抗に遭うことはなかったものと認められ,その罪質,抵抗の態様等に照らすと,被告人としては,逮捕行為を一時中断し,相勤の警察官の到を待ってその協力を得て逮捕行為に出るなど他の手段を採ることも十分可能であって,いまだ,Aに対しけん銃の発砲により危害を加えることが許容される状况にあったと認めることはできない,そうすると,被告人の各発砲行為は,いずれも,警察官職務執行法七条に定める『必要であると認める相当な理由のある場合』に当たらず,かつ,『その事態に応じ合理的に必要と判断される限度』を逸脱したものというべきであって(なお,仮に所論のように,第三現場におけるけん銃の発砲が威嚇の意図によるものであったとしても,右判断を左右するものではない。),本件各発砲を違法と認め,被告人に特別公務員暴行陵虐致死罪の成立を認めた原判断は,正当である」。
 Aは近所でも不審人物とされていたようで市民から不安視する声が出ていたなかでの事件だったのですが,発砲は行き過ぎだということです。「必要であると認める相当な理由のある場合」や「その事態に応じ合理的に必要と判断される限度」は,判断が難しい基準に思えますが,発砲には厳しい制限をかける趣旨であることはうかがわれます。今回のケースも,法に照らして,適正に対応してもらう必要があります。そして,その結果については,市民,発表されて負傷した人,また起訴するなら当該警察官にも,当局側が納得のいくように説明をしてもらいたいです。いずれにせよ,警察官には,市民の安心と安全のために大きな期待を寄せていることに変わりはありません。

2022年8月 9日 (火)

契約と信頼とブロックチェーン

 フリーワーカーの時代になったときに,一つの障壁となるのは,日本に契約文化が根付いていないことに起因する問題です。日本人は,自分で契約書をかわして取引をするのに慣れていない人が大半であり,フリーワーカーとして契約社会にいきなり放り込まれると,いろいろなトラブルが起こる心配があります。私はフリーワーカーの契約の書面化を義務づけることを提案してきましたが,実は書面化しても,契約内容を理解するリテラシーに欠けていれば,かえって危険です。相手はできるだけ契約をうまく締結して,自分の利益を守ろうとするわけで,裁判となれば,そういう「プロ契約者」に負けてしまうのです。そのため,フリーワーカー時代の今後の教育という点では,法律や契約のリテラシーの学習が必要だということを,私は前から提案しています。
 根底にあるのは,日本人の契約リテラシーの低さです。ここでいう契約とは,口約束のようなものではなく,きちんと書面でかわしたものが想定されています。もちろん法的には,ほとんど契約は諾成契約でよく,書面などの要式性を欠いても契約は成立します(民法522条を参照)が,いざトラブルになったとき,口約束では,裁判所で契約内容を証明できないことが多いでしょう。逆に言うと,裁判を必要とするようなトラブルが起こらないという信頼関係があれば,契約書などをいちいちかわす必要はないともいえます。
 契約書というのは,信頼関係がない人と取引するからこそ必要となるものなのです。それは逆の視点からいえば,信頼関係がなくても契約書があれば取引ができるので,取引の範囲を広げることができるともいえます。日本でも借家契約では契約書をかわしますが,これにより,大家さんは見ず知らずの人にも家を貸すことができます(もちろん,それだけでは不十分なので,いろいろ信用調査をしたり,保証人をつけたり,敷金をとったりするのですが)。
 しかし,日本社会は,かつては,多くの取引が,社会のなかの構成員相互の目が届く範囲でなされていて信頼関係があったため(裏切ることが難しかったため),いちいち契約書をかわすといった契約文化が,あまり広がってこなかったのかもしれません。
 インターネットが発達して,クラウドソーシングのようなものが出てくると,見ず知らずの個人と契約をすることになるので,信頼は重要な問題となってきました。”Trust me” と言われても,そのこと自体,信頼できません(鳩山由紀夫が,首相時代にObama大統領に言った,沖縄の米軍基地移設問題をめぐる無責任な発言は有名ですね)。プラットフォームというのは,そういう信頼を担保する存在となるのです。もちろん怪しいプラットフォームを介したクラウドソーシングであれば,取引は広がらないでしょう。これに対し,信頼性のあるプラットフォームには発注側も受注側も人が集まり,ネットワーク効果で,その集中が加速化し,寡占状態が生まれてきて,Winnerーtakesーall の状態が生じることになります。
 それはさておき,フリーワーカーの時代に契約書が重要となるのは,契約書をきちんとかわせないようでは,取引を広げることができないからです。相手方も,どこの馬の骨ともわからないような者と取引をするのですから,しっかり契約書をかわそうとするでしょう。ただ契約書だけでは安心できない面もあります。契約違反の場合の訴訟コストは非常に高いからです。ここを乗り越えることができなければ,フリーワーカーとしての働き方は広がりません。上記のプラットフォームは,この問題の解決方法の一つですが,寡占・独占状態になると,プラットフォーム手数料で足下をみられやすくなります(独禁法で救うことも理論的には可能でしょうが)。
 いま注目されているのは,Trustlessを特徴とするブロックチェーン技術です。この技術は,ビットコインで有名ですが,そこでの分散型信用システムは,チェーンでつながるすべての者により信頼を担保しているようなものです。これからのWeb3.0の時代は,互いに知らない者どうしでも取引をしやすくなります。プラットフォームの「信用保証」のようなものがなくてもいいのです。これにより,取引をはばんでいた様々なリスクやコストが取り除かれていく可能性があるのです。
 Web3.0は,労働の面でもDAO(分散型自律組織:Decentralized Autonomous Organization)のような新たな可能性が指摘されています。DAOについては,日を改めて論じることにしますが,ここではフリーワーカーの就労の主たる舞台が,WEB3.0の主役であるメタバースになる可能性に言及するにとどめます。

契約と信頼とブロックチェーン

 フリーワーカーの時代になったときに,一つの障壁となるのは,日本に契約文化が根付いていないことに起因する問題です。日本人は,自分で契約書をかわして取引をするのに慣れていない人が大半であり,フリーワーカーとして契約社会にいきなり放り込まれると,いろいろなトラブルが起こる心配があります。私はフリーワーカーの契約の書面化を義務づけることを提案してきましたが,実は書面化しても,契約内容を理解するリテラシーに欠けていれば,かえって危険です。相手はできるだけ契約をうまく締結して,自分の利益を守ろうとするわけで,裁判となれば,そういう「プロ契約者」に負けてしまうのです。そのため,フリーワーカー時代の今後の教育という点では,法律や契約のリテラシーの学習が必要だということを,私は前から提案しています。
 根底にあるのは,日本人の契約リテラシーの低さです。ここでいう契約とは,口約束のようなものではなく,きちんと書面でかわしたものが想定されています。もちろん法的には,ほとんど契約は諾成契約でよく,書面などの要式性を欠いても契約は成立します(民法522条を参照)が,いざトラブルになったとき,口約束では,裁判所で契約内容を証明できないことが多いでしょう。逆に言うと,裁判を必要とするようなトラブルが起こらないという信頼関係があれば,契約書などをいちいちかわす必要はないともいえます。
 契約書というのは,信頼関係がない人と取引するからこそ必要となるものなのです。それは逆の視点からいえば,信頼関係がなくても契約書があれば取引ができるので,取引の範囲を広げることができるともいえます。日本でも借家契約では契約書をかわしますが,これにより,大家さんは見ず知らずの人にも家を貸すことができます(もちろん,それだけでは不十分なので,いろいろ信用調査をしたり,保証人をつけたり,敷金をとったりするのですが)。
 しかし,日本社会は,かつては,多くの取引が,社会のなかの構成員相互の目が届く範囲でなされていて信頼関係があったため(裏切ることが難しかったため),いちいち契約書をかわすといった契約文化が,あまり広がってこなかったのかもしれません。
 インターネットが発達して,クラウドソーシングのようなものが出てくると,見ず知らずの個人と契約をすることになるので,信頼は重要な問題となってきました。”Trust me” と言われても,そのこと自体,信頼できません(鳩山由紀夫が,首相時代にObama大統領に言った,沖縄の米軍基地移設問題をめぐる無責任な発言は有名ですね)。プラットフォームというのは,そういう信頼を担保する存在となるのです。もちろん怪しいプラットフォームを介したクラウドソーシングであれば,取引は広がらないでしょう。これに対し,信頼性のあるプラットフォームには発注側も受注側も人が集まり,ネットワーク効果で,その集中が加速化し,寡占状態が生まれてきて,Winnerーtakesーall の状態が生じることになります。
 それはさておき,フリーワーカーの時代に契約書が重要となるのは,契約書をきちんとかわせないようでは,取引を広げることができないからです。相手方も,どこの馬の骨ともわからないような者と取引をするのですから,しっかり契約書をかわそうとするでしょう。ただ契約書だけでは安心できない面もあります。契約違反の場合の訴訟コストは非常に高いからです。ここを乗り越えることができなければ,フリーワーカーとしての働き方は広がりません。上記のプラットフォームは,この問題の解決方法の一つですが,寡占・独占状態になると,プラットフォーム手数料で足下をみられやすくなります(独禁法で救うことも理論的には可能でしょうが)。
 いま注目されているのは,Turstlessを特徴とするブロックチェーン技術です。この技術は,ビットコインで有名ですが,そこでの分散型信用システムは,チェーンでつながるすべての者により信頼を担保しているようなものです。これからのWeb3.0の時代は,互いに知らない者どうしでも取引をしやすくなります。プラットフォームの「信用保証」のようなものがなくてもいいのです。これにより,取引をはばんでいた様々なリスクやコストが取り除かれていく可能性があるのです。
 Web3.0は,労働の面でもDAO(分散型自律組織:Decentralized Autonomous Organization)のような新たな可能性が指摘されています。DAOについては,日を改めて論じることにしますが,ここではフリーワーカーの就労の主たる舞台が,WEB3.0の主役であるメタバースになる可能性に言及するにとどめます。

2022年8月 6日 (土)

人権デューディリジェンスガイドライン

 ビジネスと人権は,ホットなテーマです。季刊労働法276号で,特集されていた「労働と人権をめぐる新たな動き」でも,岡山大学の土岐将仁さんが「ビジネスと人権」という論文を執筆しており,これは,このテーマの最新の状況を知るうえでの重要文献です。
 ところで85日に,人権デューディリジェンスに関するガイドライン案が出されたということが報道されていました。私も,ビジネスガイド(日本法令)で連載中の「キーワードからみた労働法」の最新号では,「企業の社会的責任」というテーマを採り上げて,そのなかで,このテーマも扱っています。いまさらCSRかと言われそうですが,これは,いま一度注目されるべきものだと考えて,いろんな論考で言及しています。
 法的な強制があるかどうかに関係なく,サプライチェーンにおける人権侵害の有無に敏感になることは,企業の社会的責任として強く要請されるものです。もっとも一般の法律家の発想では,社会的責任というだけでは,法的強制力もなく,効果は期待できないということかもしれません。そうしたなか,私は,伝統的な法的手法とは異なる形での政策目的の実現手法に関心をもっており,例えば世界人権宣言にしろ,ILOの中核的労働基準にしろ,こういうものをどうやって企業に実行してもらえるかという手法に関心があります。CSRについてはISO26000のようなガイドライン規格が興味深いですし,国連グローバル・コンパクトは,官民協力の規範実現手法という視点でみることもできます。今回の人権デューディリジェンスガイドラインの詳細はまだよくわかりませんが,国際人権問題について,政府が本格的に国内企業に働きかけるものとして注目されます。
 企業にとっても,政府に言われるまでもなく,ESG投資に傾く投資家(とくに海外投資家)を意識すると,人権問題への対応は必要ですし,ユニクロ商品がアメリカで輸入を差し止められたりした問題などをみると,海外との取引で人権対応は不可欠となっています。ただ,個々の企業だけでは,どうしようもないところもあります。例えば,悪名が海外にとどろいてしまっている技能実習制度の見直しに政府が乗り出そうとしているのは,外国人の人権保障という面だけでなく,こういう評判が立つことで,日本のフラッグが日本企業に不利に働くことを防ぐ必要があるからでしょう。同様の観点から,今回の人権デューディリジェンスへの取組も,ガイドラインであっても,意味があるものなのです。
 もちろん,より重要なのは,こういう取組を実際に人権侵害状況の改善につなげることです。その点で必要とされるのは,企業自身の道徳的・倫理的な責任とされてきたものを,どのように企業を刺激して望ましい行動に誘導していくかという,制度設計をするための知恵です。これからの法律家は,こういう問題にも取り組んでいく必要があると考えています。

2022年7月13日 (水)

侮辱罪の厳罰化への疑問

 

 刑法231条(侮辱罪)の法定刑が引き上げられ,懲役または禁錮,罰金が追加されました。懲役または禁錮は,将来的には,拘禁刑に統合されますが,侮辱罪の改正のほうが先に施行されましたので,当面は懲役または禁錮という刑は残ります(拘禁刑の導入される改正刑法は,公布の日から3年以内の施行とされています)。
 侮辱罪は,事実を摘示せず,公然と人を侮辱する場合に適用されるものであり,侮辱とは,「他人の人格を蔑視する価値判断を表示すること」と解されています。今回の改正の理由は,「近年における公然と人を侮辱する犯罪の実情等に鑑み,侮辱罪の法定刑を引き上げる必要がある」とされていますが,とくにネット上の誹謗中傷への適用を想定したものと言われています。政治家の言動や政策への批判は,侮辱にあたると解すべきではないのですが,それが必ずしも明確ではないことから,懲役刑まであるとなると,政治的言論についての重大な制約となるおそれがあります。ちなみに関西弁のアホは,関東弁のアホとはずいぶんとニュアンスが違うものであり(「探偵ナイトスクープ」の「アホ・バカ分布図」も参照),通常は,少なくとも主観的には侮辱の意味が含まれていませんが,私が政治家をアホ呼ばわりすると,侮辱罪でつかまらないかという心配が出てくるわけです。
 ネット上の誹謗中傷が人権侵害になることがあるのは,よくわかります。それへの対処は必要です。しかし,そのための方法として,法定刑の厳罰化をするというのは,はたして効果的な方法でしょうか。公訴時効の関係もあるのでしょう(従来は1年でしたが,改正後は3年となりました。刑事訴訟法2502項の7号適用犯罪から6号適用犯罪に変わったからです)が,むしろ刑事訴訟法25027号で,軽い犯罪であっても公訴時効が1年というのが短すぎるので,こちらのほうを,たとえば2年に引き上げるというような改正もありえたかもしれません。
 刑罰は劇薬であり,別の目的(上記の政治的な言論に対する弾圧目的)に悪用されることが心配です。著名人の自殺などのショッキングなことがあり,処罰感情が高まっていることは理解できますが,性急な法改正であったような気がします。そもそも,厳罰化によっては,ネット上の誹謗中傷を抑止することはできないでしょう。デジタル時代における個人の人権保護は,デジタル技術を使って図るという,ここでもデジタルファーストの考え方で臨むべきだったのではないでしょうか。たとえば,刑法学者やこの分野に詳しい弁護士に集まってもらって,何が侮辱であるかの具体例をデータ化してAIに学習させ,侮辱に該当する発言をネット上で発信すれば,アラームが出て,それにもかかわらず発信したら処罰可能というようなことはできないでしょうか。アラームが出たときに,すぐに削除すれば許されることにするのですが,このようなソフトなやり方のほうが言論に対する対応としては妥当でないかと思います。

2022年6月19日 (日)

有罪率99.9%の功罪

 一昨日に続いて刑法の話です。司法統計年報(令和2年)によると,地方裁判所で無罪となった事件が72件(総数が47117件なので,無罪率は0.0015です)です。有罪率99.8%です。つまり日本では起訴されるとほぼ100%近く有罪となるとして,カルロス・ゴーン(Carlos Ghosn)やそれに乗った外国人(や日本人)が批判していました。人質司法がどうかはさておき,有罪率が高いことだけをみれば,有罪となるような事案だけが起訴されているからだと考えることは十分可能でしょう。
 ところで日本では,逮捕されても,起訴されないことが多いと言われており(不起訴処分),この点が一昨日に再掲したイタリアの事情とは異なっています。また起訴されて有罪判決となっても,執行猶予がつくことが多いと言われています。冤罪事件もあるのですが,圧倒的多数のケースでは被疑事実がほんとうにあるのであり,ただ,そのときでも,実刑をうけないことが多いという事実のほうが非常に重要だと思えます。日本の刑事司法は,犯罪をしたから処罰をするということだけを考えているのではなく,犯罪の種類によりますが,被疑事実を認め,被害者と示談をしたり,反省していたりするなど,悔い改める姿勢をとっていれば,できるかぎり許そうとしているのでしょう。このような扱いが,実は再犯を防止し,治安の維持につながっているとも言われており,そこは非常に評価すべき点ではないかと思います。ただし,ほんとうに身に覚えのない事実であるために否認している場合もあるのであり(男性諸兄にとっては,痴漢の冤罪がこわいですし,教員であれば,ハラスメントの冤罪がこわいです),そのときに否認しているがゆえに長期的に勾留され,あげくに嘘の自供をさせられるというのは,重大な人権侵害となります。とくに社会的に有名な人が関わる事件で,検察の威信をかけたものとなると,逮捕した以上は,起訴し,有罪にもちこまなければ面子にかかわることになり,そこにひょっとしたら無理が生じて,村木厚子さんのケースのような証拠捏造という恐ろしいことが起きてしまうのかもしれません。最近でも一部上場企業の社長の事件が,起訴されたものの,無罪判決で確定したものがあり,国家賠償事件となっています。
 こういうことが起きてしまうのは,実は,被疑事実を認めない人の圧倒的に多数は,犯罪をおかしているにもかかわらず,それでも自分の罪を認めないというきわめて悪質な人であり,それが99%の範囲の人なのでしょう。しかし,ほぼ100%という数字が,わずかに紛れ込んでいるかもしれない,ほんとうに無実の人の叫びを聞き落としてしまう危険性があり,検察官には,そこをきちんと見極めてほしいのです。検察官が起訴の段階でしっかりスクリーニングしているという信頼が高い日本社会では,起訴だけで社会的信頼は失墜するので,裁判で無罪となっても,そこから信頼回復するのは,普通の人は不可能に近いのです。こうしたことになるのは検察官に高い信頼があるからであり,それだけ検察官には重い責任があるといえます。
 起訴便宜主義には,メリットとデメリットがあると言われています。デメリットの一つは,巨悪を見逃しているのではないかという批判ですが,私は,検察官は,実体法の範囲でやれる限りのことはやっているのではないかと思っています。検察審査会という民主的チェックもあります。むしろ,上記のような治安面でのプラスの効果も考えて,起訴便宜主義を評価しなければならないと思っています。問題は,犯罪者の発言とはいえゴーンの批判が,海外にも大きく報道されて日本は後進的という印象を国際的に植え付けられそうな点です。そうしたことが起こらないように,検察には頑張ってもらいたいところです。
 取調べの可視化は重要ではありますが,それだけでは十分でありません。検察官にも(岸田首相流の?)被疑者の供述の「聴く力」をしっかりもってもらい,同時に供述の嘘を見破るスマートなスキルを身につけてもらえればと思います(嘘の供述を意図的にさせてしまうのは論外です)。
 そして,ここでもAIは活用されるべきではないでしょうか。刑事分野でのAIの活用というと,プロファイリングを活用した容疑者捜しや再犯可能性の予測などが典型的ですが,画像解析による供述の信憑性の判定などにおいても,利用できるでしょう。「デジタルファースト」は刑事司法でも重要な原則ではないかと思います。

 

2022年6月17日 (金)

刑法の改正

 刑法が改正され,懲役と禁錮が拘禁刑に変わることになりました(刑法9条改正)。これにより,多くの法律の改正が必要となります。「刑法等の一部を改正する法律の施行に伴う関係法律の整理等に関する法律案」も同時に可決され,関連法の対応が書かれています。労働基準法や労働組合法でも懲役や禁錮刑が定められていたので,3年以内の改正刑法の施行に合わせて条文が修正されます。以前にイタリア語のreclusione はどう訳すべきであろうか,というようなことをブログで書いたことがありますが,今後は「拘禁刑」と訳すことができそうです。そこで,ふと以前に,イタリアの刑法のことについて,いろいろ考えたことをブログで書いたことを思い出しました。ネット上では消えてしまっていますが,手元に昔のメモが残っていたので(掲載したものと同じかどうかは不明ですが,ほぼ同じだと思います),再掲します。おそらく2018年の52日と3日に書かれたもので,ちょうどTOKIOのメンバーの事件があったころの話がネタになっています。

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201852日 起訴便宜主義について思う

 「山口メンバー」は「山口さん」になりました。起訴猶予になったからだそうです。
 日本の刑事訴訟法248条は,「犯人の性格,年齢及び境遇,犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは,公訴を提起しないことができる」と定めています。これを起訴便宜主義といいます。検察官は,状況によっては,起訴(公訴提起)しないこともできるのです。
 強制わいせつにおいて,犯罪行為があっても,被害者と示談が成立していて,初犯であるというようなことがあれば,起訴猶予となるのが相場なのかもしれません。ただ示談が成立していれば起訴しないのであれば,非親告罪にした意味がないような気がします。もちろん公訴提起により被害者が裁判に出廷することなどによる二次被害が起こらないようにするための配慮は必要ですが,性犯罪が社会にとって危険な犯罪であり,かつ加害者本人が社会復帰を望んでいることを考慮すると,社会にとっての危険性はいまだ軽微とはいえない可能性があります。
 ところで,イタリアでは憲法112条に次のような規定があります。
 「Il pubblico ministero ha l'obbligo di esercitare l'azione penale.」
  検察官は公訴提起をする義務がある,という規定です。これを起訴法定主義といいます。犯罪行為があったと確認した以上は,起訴しなければならないということです。あとは裁判官が量刑も含めて判断するということでしょう。検察官は行政官であり,犯罪の嫌疑があるのに,司法の判断に服せしめるかどうかまでを判断してしまってはだめということでしょう。
 日本の検察官を信用していないわけではないのですが,起訴猶予によって(元)容疑者の扱いが一変してしまったことで,ちょっと驚きです。禊ぎが終わったとまでは誰も考えていないでしょうが,そういうムードがやや現れているような気もします。
 性犯罪は再犯率が比較的高いようです。データは裁判で有罪判決を得た場合のものがありますが,起訴猶予になったものもありますでしょうか。別に今回の「山口さん」に個人的な恨みはありませんが,書類送検までされる性犯罪は相当悪質なものであったはずです(クラブで酔ってホステスの胸をむりやり触ったというたぐいのものではないでしょうそれでもダメですが[加筆])。マスコミも,そのあたりをよく考えたうえで,横並びではなく,各社で報道姿勢を考えてほしいものです。
 なお,直接この話に関係しませんが,イタリアでは,対象が存在してない場合(たとえばカーテンの向こうに殺そうとしている人間がいると思ってそこに向かってピストルの引き金をひいたが,そこには誰もいなかったとか),犯罪を引き起こすことに適しない行為(単なる胃腸薬を毒薬と誤信して,それを飲ませて殺そうとしたとか)である場合は不能犯(reato impossibile)とされ罪には問われません(イタリア刑法典492項),その場合には,裁判所は保安処分(misura di sicurezza)を命じることができます(同条4項)。不能犯は,当該行為については犯罪を起こす可能性がなく,問題なく無罪ですが,それでも社会への危険はある以上,裁判官は一定の処分を命じるのです。日本の刑法では,そもそも不能犯の規定がないですし,保安措置を命じるといった規定はありませんが,イタリアに歴史的に濃厚にあると思われる「新派」的な立場によれば,犯罪をする危険のある者から,いかに社会を守るかということが大事になってくるのです(刑法における旧派と新派の議論については,ぜひ刑法の専門書を読んで確認してください)。無罪であっても,起訴猶予であっても,社会を守るということが大切です。それはとくに性犯罪にあてはまることではないかということです。加害者の人権も大切というのが私の基本的スタンスですが,マスコミ報道をみながら,少しバランスをとった意見もいうべきだということで,あえて書いてみました。

201853日 請願権
 昨日,イタリアの刑法のことを語ったので,そのついでに,ぜひ紹介しておきたい本があります。それがBeccariaの『Dei Delitti e delle Pene(犯罪と刑罰について)』です。大学で法律を勉強したことがある人なら,誰でも知っているものですが,有りがたいことに,この本の訳書があります。ずいぶん前にいただいて,たぶん紹介をしていなかったと思うのですが,それがお茶の水大学の小谷眞男さんの翻訳したチェーザレ・ベッカリーア『犯罪と刑罰』(東京大学出版会)です。小谷さんには心より御礼を申し上げます。素晴らしい訳であり,解説もきわめて充実しています。
 ところで,この本のなかにBeccariaが死刑について語ったところがあります(第28章)。彼は死刑反対論者です。終身刑の支持者です(ちなみにイタリアでは死刑は憲法で禁止されています[274項])。なぜ死刑がダメなのかということが,実に説得的に論じられています。ここでは紹介しきれませんが,最も有力な論拠は,死刑では,犯罪抑止につながらないということです。
 死刑というものを,犯罪の予防という刑事政策的な観点から考えた場合(これが新派的な発想),死刑という手段のもつデメリットと,死刑により解決される政策課題との間の関係を検証するというアプローチが必要となります。Beccariaは,終身刑で長期間隷属的な状況が続くほうが,犯人に過酷なものとなり,それだけ市民に対して抑止力が働くというのです。死刑でこの世から消えることができるというのでは,本人の犯罪抑止力は弱い,ということです。[これには宗教的な背景があるかもしれません:加筆]
 Beccariaは,賢明なる君主は死刑廃止論のもつ真理性に気づくはずだけれど,それを妨害するのが中間的特権層だというのです。君主には,ローマ時代の五賢帝のような人も出てくるが,おそらく中間的特権層は徳も見識もなく,権力をほしいままにしたい存在ということなのでしょう。特権層は変化を望まず,先例を踏襲するものであり,新しい提案に耳を傾けません。Beccariaは,「もし王座にまで届くようなことがあれば,つねに傾聴されたであろう人々の率直な請願を,さえぎり押し殺してきたのは,中間層の専制なのだ!」と述べています(小谷訳)。「だからこそ,光で照らされた市民たちは,ますます熱心に君主たちの権威の継続的増大を求めているのだ」(小谷訳,100頁)。
 
君主の権威の増大をいうのは現代の感覚からはおかしいような気もしますが,当時を考えるとそうおかしいことではありません。国家の統治を社会契約的に考えた場合,ボッズブ(Hobbes)のいうような「リバイアサン(Leviathan)」が生まれますが,それをプラトン(Platon)的な哲人政治に変えるためにも,中間的な権力を排除し,権力をもつ君主を教化していくことが必要だということでしょう(この本が出た25年後にフランス革命が起きていますが,中間団体の否認が革命時の思想として重要となっています)。
 その意味で請願権というものは,ひょっとするともっと注目されてもいいのかもしれません。実は日本国憲法にも請願権の規定があります。それが16条です。長谷部恭男『憲法(第7版)』(新世社)では,「請願は,議会制度が十分に発達していなかった過去においては,被治者の意見を為政者に伝える一つの経路として機能したが,国民主権が確立し,国民の参政権が十分に保障された現代社会においては,もはや意義は有しないと考えられている」と書かれています(305頁)。
 しかし,アメリカでTrumpが登場して民主主義のプロセスに十分な信用がおけなくなりつつある現在,Beccariaのいう「光に照らされた市民たち」による請願のプロセスというのは,もっと考えられてもいいのかもしれません。CNNでアメリカの元国務長官Albrightさんが,Trump政権を暗に批判するために,HitlerMussoliniも民主主義から生まれたと言っていました。民主主義は手段ではありますが,唯一絶対的なものではないというのは,Churchillに言われるまでもなく,多くの人がわかっていることです。間違った人が選ばれたときの対策を,暗殺やクーデターのような暴力的な方法に頼るべきではないでしょう。これでは民主主義の正面からの否定です。民主主義から生まれた強大な権力を抑制するのは,最後は「知の力」であると信じたいものです。 
 翻って日本はどうでしょうか。現在の首相は,直近の選挙でも大勝し,民主的なプロセスで大きな権力をもつようになっています。側近や忖度する官僚が中間的専制者になっているとすれば賢明な市民が立ち上がらなければなりません。Beccariaなら,打倒安倍にエネルギーをかけるよりも,中間的専制者を排除して,いかにして首相を知の力で賢政に導くかを考えるべきだと言ってくれるかもしれません。憲法学者は,こうしたことは非民主的として否定するでしょうか。憲法記念日にみんなで考えてもらいたいことです。

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