法律

2025年11月 3日 (月)

公訴時効について

 先日,名古屋で26年前の殺人事件の容疑者が逮捕されたというニュースがありました。この事件は,発生当時の法律であれば公訴時効が成立していたはずですが,遺族の方の努力もあり,2010年の法改正によって殺人罪の時効が廃止されたため(刑事訴訟法250条を参照),26年経っても訴追が可能となっています。
  
そもそも公訴時効という制度は,時間の経過によって証拠が失われ,公正な裁判を行うことが難しくなるという理由で設けられてきました。また,いつまでも事件が人々を縛りつけることのないよう,社会的安定や法的確定性を確保するという目的もあります。さらに,長い年月が経過すれば,犯人が更生して社会に適応している可能性もあり,刑罰の実効性が薄れるという理由もありました。
 しかし,殺人という行為は人の生命を奪うという最も重大な犯罪であり,その重みは時間の経過で薄れるものではありません。しかも近年では,DNA鑑定技術の進歩によって,事件から何十年経っても有力な証拠が得られるようになりました。今回の名古屋の事件でも,遺族が長年にわたって現場を保存していたことが,DNA照合による決定的な証拠の発見につながりました。技術と人の努力が結びついて,時間が経てば立証が困難となるという時効制度の前提が,崩れてきているのです。
 個人的には,児童への性犯罪についても時効の撤廃を検討すべきだと思います。こうした犯罪は被害者に深刻な心の傷を残し,告発までに長い時間を要することが多いからです。さらに再犯の可能性も高く,社会としても被害を未然に防ぐ視点が求められます。
 時効制度を支持しうる理由には,刑事司法におけるマンパワーの限界という現実的な事情もあるかもしれません。捜査や起訴には膨大な人手と時間が必要であり,限られた捜査資源を新しい事件に集中させるために,一定期間を過ぎた事件は優先順位を下げざるを得なかった,という可能性です。しかし,現在ではAIによるプロファイリングや監視カメラ映像の解析などが格段に進歩しています。これらを組み合わせれば,マンパワーにあまり依存しない効率的な捜査体制が可能でしょう。私自身は,私的な空間を除いては監視カメラの設置を認めることは仕方ないと思っています。AIによる画像解析や顔認識技術を適切に運用すれば,事件発生後の追跡だけでなく,犯罪の未然防止にも大きく役立ちます。こうした省力化・効率化の流れは,まさに「デジタル優先主義」が刑事司法にも当てはまる好例だと思います。
 科学技術や社会の価値観が変われば,法制度もまた見直されていくべきです。こう考えると,公訴時効のあり方は,人間とデジタル技術との関係といういつものテーマの応用例といえるかもしれません。

2025年8月25日 (月)

職業の貴賎?

 NHKの大河ドラマ「べらぼう」は吉原を舞台としています。現在では赤線は廃止され,1958年の売春防止法の施行により,売春は表の世界から姿を消しました。売春についての評価は男女間で大きく異なるでしょうが,労働問題としては,女性にとっての職業選択の自由という観点からみたとき,これは難しい問題となります。
 この点を考えるうえで興味深い最高裁判決が,今年の616日に出されています。メディアでも報道されたのでご存知の方も多いと思います。コロナのときの持続化給付金の対象に,風営法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)271号の定める「無店舗型性風俗特殊営業」(「人の住居又は人の宿泊の用に供する施設において異性の客の性的好奇心に応じてその客に接触する役務を提供する営業で,当該役務を行う者を,その客の依頼を受けて派遣することにより営むもの」),つまり,世間で「デリヘル」と呼ばれる営業(以下,本件特殊営業)を行う事業者が排除されたことが,法の下の平等を定める憲法141項に反して違憲ではないかが問題となりました(他のタイプの風俗営業の事業者は対象となっていました)。
 多数意見は違憲ではないということですが,宮川美津子裁判長の反対意見があり,両者は正面から見解が対立しています。宮川裁判長は,給付の対象となる風俗営業と本件特殊営業は,「規制をしなければ善良の風俗や清浄な風俗環境が害されるなどのおそれがあるものとして位置付けられている点に違いはない」とし,「多数意見がいうように,本件特殊営業がその健全化を観念し得ないものと位置付けられていると考えることは相当でない」し,「本件特殊営業については,接客サービスを提供して生計を立てる接客従業者が存在するとともに,当該サービスを求める顧客も存在しており,一定の社会的な需要があることは否定し難いところ,現行法上,本件特殊営業は禁止ではなく規制がされているにとどまり,そこで提供される接客サービスは,人としての尊厳を害するものとして禁止されている『売春』とは異なり(売春防止法1条ないし3条),法律上接客従業者の尊厳を害するものと位置付けられていないことも考慮すべきである」し,多数意見がいう「接客従業者の尊厳を害するおそれ」については,「本件特殊営業において接客従業者が顧客から意に反する身体的な接触や性行為を求められる危険も含まれ得るところ,そのような危険の存在は事業者が接客従業者と顧客との間に入ることで予防できる面があり,このような事業者との適法な契約関係の下で自律的に当該サービスを提供している接客従業者について,当然に当人の尊厳を害するおそれがあるとまでは断じられない」と述べています。
 これに対し,安浪亮介裁判官は補足意見で「多数意見は,風営法上の規制目的や,本件特殊営業に届出制が採られている点など現行法の位置付けを考慮して結論を導いており,抽象的な性道徳の観点から事業者や従業者を他より劣位に置いたわけではない」と説明しています。補足意見は職業の貴賎論に踏み込んだものではないと強調していますが,宮川反対意見はむしろそれを否定する立場に近いものです。
 多数意見は一見,接客女性の立場に配慮しているようにみえますが,逆に軽視しているともいえそうです。もちろん,意図的にそうしているわけではないでしょう。しかし,古い価値観に基づき,無意識のうちに意図せざる軽視をしている可能性は否定できません。給付金の不支給は職業選択の自由を直接侵害するものではありませんが,「公費を投じて継続させるに値しない職業である」という評価それ自体が,間接的に自由を侵害しているとも考えられますし,これを選択した女性の尊厳を傷つけかねません。憲法違反とまでいえるかはともかく,最高裁がある種の職業に序列を付ける判断を(意図せずとも)示したことに違和感があります。
 もっとも,これとはまったく異なる見方も可能です。職業選択の自由は無制限の自由ではなく,公共の福祉や公序良俗の枠内で認められるものです。たとえば,犯罪行為を「職業」とすることは,それが貧しい人々の生活維持のためであっても許されません。社会においてどこまでの職業が公共の福祉や公序良俗の範囲に含まれるかを判断するのは,最高裁の役割の一つともいえます。そうみると,補足意見の説明は余分であり,最高裁としては「本件特殊営業を全面的に禁圧するわけではないが,望ましい職業ともいえない」と判断したのだと整理すれば,これは職業選択の自由に対する公共の福祉による制限であると理解でき,宮川反対意見はそれに対立する見解だと位置付けられるでしょう。そのほうが議論として明確になります。
 では私自身の立場はどうかといえば,憲法論はさておき,根源的には,社会にとって意味のある職業かどうかを人類史的な観点から考える必要があると思います。そうすると,性風俗産業全般を単純に「望ましくない職業」とは言い切ることにはためらいを感じます。法的な議論としてみても,本件特殊営業と他の風俗営業とを区別する十分な理由は見当たりません。いずれも所定の要件を満たす限り合法とされている以上,給付金制度を設けたのであれば,支給対象とする際には平等に扱うべきだと思えます。法的な論点については,憲法学や行政法学の観点から,精緻な検討がされるべきでしょうが,同時に,職業の貴賎とは何かを考える上で,ゼミなどでもとりあげる価値のあるテーマであると思います。性風俗にかかわるので,扱いにくい面はあるかもしれませんが,避けるべきではないと思います。

 

 

2025年7月14日 (月)

生活保護と外国人

 ネット上では,「外国人への生活保護は2014年に最高裁で違法判決が出て確定している」といった主張が複数拡散していますが,それが誤りであることが,日本ファクトチェックセンターのサイトでも明確に記されています。
 日本人ファーストのような主張をする政党が出てきていますが,Trumpと同じようなことは言わないでほしいです。ただこういう主張が出てくるのは,そこに現在の日本人の本音が隠れている気もします。生活保護をもらうような外国人は来るな,日本に富をもたらす外国人だけwelcomeということなのでしょう。
 ところで,上記の2014年の最高裁判決とは,2014718日の第2小法廷の判決です。この判決は,「現行の生活保護法は,1条及び2条において,その適用の対象につき『国民』と定めたものであり,このように同法の適用の対象につき定めた上記各条にいう『国民』とは日本国民を意味するものであって,外国人はこれに含まれないものと解される」し,「生活保護法を始めとする現行法令上,生活保護法が一定の範囲の外国人に適用され又は準用されると解すべき根拠は見当たらない」として,「一定の範囲の外国人も生活保護法の準用による法的保護の対象になるものと解するのが相当であり,永住的外国人である被上告人はその対象となるものというべきである」とした原判決を否定しました。そして,「外国人は,行政庁の通達等に基づく行政措置により事実上の保護の対象となり得る」が,それにとどまり,「生活保護法に基づく保護の対象となるものではなく,同法に基づく受給権を有しないものというべきである」としています。
 この判決は,永住者の資格をもつ中国籍の人が,生活保護申請却下処分の取消しを求めた行政訴訟において,この処分は違法ではないとした第1審の判断を支持したものです。要するに,生活保護を支給しなかったことは適法としたものにすぎず,生活保護をしたことが違憲であるとした判決ではありません。しかも,最高裁は,「行政庁の通達等に基づく行政措置により事実上の保護の対象」とすることは否定していないと読めるので,外国人に事実上の生活保護を支給することは否定していないのです。
  とはいえ,悪意でデマを流そうとする人は論外ですが,普通の人でも,生活保護を支給しないことが適法であれば,もし生活保護の支給をすればそれは違法であるということではないのか,と考えても不思議ではありません。「外国人への生活保護は2014年に最高裁で違法判決が出て確定している」という言説は上述のように誤りですが,外国人への生活保護を法がどう考えているのか,という視点で考えると,生活保護法は,国民を対象としたもので,外国人を対象としていないということは事実ですので,そのうえで,外国人に対して行政上の裁量で生活保護を認めることが妥当なのかどうか,という問題提起はあり得るでしょう。その際には,この判決の原告のような永住者の在留資格をもつ外国人とそうでない外国人を区別すべきかどうかという点も問題となるでしょう。
 いずれにせよ,上記のフェイク情報は,日本人の国際的な地位が低下しつつあるなか,国民に余裕がなくなり,デマでもいいから排外的議論を支えるもっともらしい根拠がほしい」と考える人たちの存在があることの現れのように思えます。困ったことです。

2025年2月15日 (土)

選択的夫婦別姓

 選択的夫婦別姓にこだわる自民党の重鎮たちは,これが自民党の存続を左右する重要な問題と考えているようです。自民党のコアの支持層が,夫婦同姓にこだわっているからのようです。しかし,多くの人は,夫婦同姓になぜそこまでこだわるのか理解できないでしょう。家族の一体感が損なわれるといっても,夫婦別姓の国では,ほんとうに家族一体感が損なわれているのでしょうか。同姓に固執するのは,自分が慣れしたしんだものとは違うから嫌だというくらいのことではないでしょうか。
 法務省のHPに,夫婦同姓に関する歴史が書かれていますが,夫婦が同じ氏にするというのは,明治以降の話です。それまでは,そもそも大多数の日本人は農民であり,氏はなかったのです(苗字を勝手に名乗っていた人はいたようですが)。夫婦同姓は日本の伝統を守るというほどのことではないのです。しかも,現在提案されている夫婦別姓は強制ではなく選択制です。かりに夫婦同姓が本当に伝統に根ざしているもので,それを国民がよいと考えているのであれば,同姓を選択する人が多数となるでしょう。選択制ですらダメというのは,まさに自己決定に関わることだと思います。すでに最高裁では,婚姻の自由を定める憲法24条との関係から,合憲判決を出しています(最も新しいもので令和3623日)が,違憲性を認める4人の意見(3人の反対意見と結論は多数意見と同じだが違憲性を認める1人の意見)と,状況次第では違憲となりうるとする3人の補足意見も付いていました。夫婦同姓は憲法論としても盤石なものではないのです。もちろん自民党は,現行の民法750条が,将来,最高裁の多数意見で違憲と判断されることに備えて,旧姓の通称使用を拡大する案を出していますが,これは理屈はともかく,夫婦同姓の不都合を軽減することに力点を置いたものでしょう。ただ,不都合を感じている人(実際には女性)のニーズに合うような改正に踏み込めるか疑問ですし,そこまでして夫婦同姓を原則としなければならない理由がそもそもはっきりしないのです。
 「守るべきものは守る」というのは大切です。でも「守るべきもの」かどうかをきちんと選別できなければダメです。日本の伝統を守ることは大切で,それを外国の価値観によってぶち壊すような政治勢力とは断固戦ってもらう必要があります。保守政党の存在理由は,真に守るべき伝統を守ろうとしている点にあります。しかし夫婦同姓というのは,伝統に値するようなものではないのです。こういうものを「守るべきもの」として執拗にこだわるのは,一見,信念をもった政治家という印象を与えながら,特定の支持勢力に尻尾を振っているだけではないかという疑念を私たちに抱かせます。

 

 

2025年1月27日 (月)

法律学小辞典(第6版)

 私も少しだけ執筆に加わった高橋和之他編『法律学小辞典(第6版)』(有斐閣)が届きました。有斐閣の判例六法やポケット六法は,元編集協力者ということで現役から引退していますが,法律学小辞典ではまだかろうじて現役です。でも,次の版では,世代交代となるでしょうね。
 ところで,労働法に関する分野では,法学者以外の方もいろいろな政策提言をされることが増えていますが,法学特有の用語もあるので,法学の領域に立ち入って建設的な議論をするためには,用語については法学の用語を尊重してもらう必要があるように思います。その意味でも,こういうハンディな「法律学小辞典」はとても有用です(強行法規や任意法規という言葉は,法律の専門家以外の人は,あまり正確に理解していないように思います。そうなるとデロゲーションの議論も混乱が生じてしまいます。あるいは,「不当労働行為」という言葉は,法律家の間であっても,労働法の専門家以外の人には,よく誤解されています)。それだけでなく,法律用語の修正(平易化など)も進んでいるので,その点では,古い法学教育を受けている人間が,情報をアップデートするためにも,本書は役立ちます。たとえば刑法では,強姦罪は強制性交等罪となり,さらに最近,不同意性交等罪となり,その間に処罰対象となる行為の範囲が徐々に広がっています。もちろん新しい法律の内容を詳しく知りたければ,教科書や専門書で確認しなければなりませんが,この小辞典を読むだけでも,かなりの情報が得られます。
 私も,これまで
本書を旧版のときから座右の書としてきましたが,今回の第6版も同様です。

 

 

2024年12月 4日 (水)

マイナ保険証

 122日から健康保険証の新規発行がなくなりました。マイナンバーカードに保険証の機能を載せた「マイナ保険証」に一本化するそうです。そのようななか,厚生労働省の省令(療養担当規則)によって,医療機関に対してマイナ保険証による「オンライン資格確認」を義務付けられたことについて,その義務がないことの確認を求めて国を訴えた裁判で,先月28日,東京地方裁判所は,医師たちの訴えを退けたようです。法律論としては,省令でそのような措置を定めることは憲法41条(国会が国の唯一の立法機関であるとする規定)に違反するという主張であったようです(弁護士JP記事を参照しました)。
 マイナ保険証は,医療機関にも負担をかけているということで,困ったものではあります。ただ,デジタル推進派の立場からは,マイナ保険証はもっと活用すべきで,できればマイナンバーカードを持ち歩かずに,スマホを提示すればOKというようにしてほしいですし,政府もその方向で進めているようです。上記裁判での原告たちも,マイナ保険証一本というのが困るということにすぎず,マイナ保険証それ自体がダメと言っているわけではなさそうです。
 ところで,マイナンバーカード反対派(返納者ら)は,その主たる根拠として,情報漏洩への不安と監視社会になることへの不安を挙げていたと思います。情報漏洩については,国の安全対策への信用ができていないことが理由でしょうし,マイナンバーを活用した国家の監視の強化のおそれについても,政府への信用の問題です。とくに後者については,国家権力は権力を濫用するものだから,マイナンバーカードだって目的外利用をするにちがいないと考えて,自分たちはマイナンバーカードを使わず,できるだけ私的領域を守りたいというのは一つの考え方でしょう。ただ私は,マイナンバーカードの利用については,現時点では,リスクと利便性の天秤の問題と考えており,利便性を活かし,リスクをできるかぎり抑えるという方向で対応してもらえればと思っています。
 いずれにせよ,マイナンバーカード一般の問題とマイナ保険証は,ひとまず切り離して考えてよいでしょう。マイナンバーカードは良しとしても健康保険証は使えるようにしてほしいという意見はありえますし,その具体的な現れが,医療機関側の声(の一部)が上記の裁判ですし,利用者側にも,そのような声があるでしょう。
 ところで,健康保険証とは何のためのものなのでしょうか。私たちは医療機関で診療サービス(療養の給付)を受ければ,その対価として医療費を支払わなければならないのですが,皆保険ということで,原則として,国民健康保険か健康保険に加入して保険料を支払っており,その保険でカバーされる保険診療については,保険機関から医療費(診療報酬)が支払われ,私たちは一部負担金として原則3割だけ支払うことになっています。健康保険証は,どの保険機関から残額を支払われるかを確認するための書類ですので,医療機関からすると医療費を確実に受領できるように,保険証の確認は重要な意味をもっているわけです。逆にいうと,この書類がなければ,私たちは医療費を全額支払わなければなりません。健康保険証が新規発行されないとなれば,それに代わる保険証がなければ困ります。それがマイナ保険証(あるいは資格確認書)です。マイナ保険証は,マイナンバーカードを取得して,それに健康保険証の登録をすればよいものです。この登録作業はスマホ(あるいはPC)でやるのですが,上述のように,近い将来,スマホのマイナポータルをつかってマイナ保険証を提示できるようになりそうです。マイナンバーカードの携行率が低いことが問題であると言われますが,私のようにスマホ一つしか持ち歩かない人間にとっては,マイナンバーカードだけ携行しなければならないのは面倒です(紛失の危険大です)。同じように思っている人も多いでしょう。スマホ化ができなければ,マイナンバーカードは所有している人は増えても,利用者はそれほど増えないでしょう。
 ただ,こうしたことを高齢者にやらせるのは大変かもしれません。今後,行政サービスのデジタル化を一挙に進めることにし,必要なスマホなどでの手続ができていない家庭のサポートのために,自治体がこういうことに精通しているアルバイト職員を雇って,各家庭に訪問させて設定などをすべて代行し,そこでマイナ保険証の登録なども一緒にやってしまうということができればよいと思います(医療機関のオンライン資格確認についても,コスト面に不安のある中小の機関には補助金で支援したり,技術的な問題があるとすれば,サポート員を派遣するなどをしてもよいでしょう)。
 というように思うのですが,現実には,そう簡単にはいかないのでしょうね。ただ,結局のところは,マイナ保険証などのようなデジタル化は,どこまで政府が本気でデジタル化を進めるつもりなのか(デジタル化がなぜ必要なのかを理解することが,まずは出発点です),そして,そのために政府全体が緊張感をもって国民にデジタル化の意義や必要性を理解してもらうために努力をするのか,にかかっています。役人のなかには,なんでマイナンバーカードなんて導入するのだろうか,マイナ保険証なんてなくてもいいだろう,と思っている人が必ずいるはず。そういう人がいるかぎり,国民への対応もいい加減になり,説得力も下がります。このあたりも含めて,政府の姿勢が問われることになります。

2024年11月30日 (土)

再び公益通報者保護法について

 27日の日本経済新聞の「大機小機」は,公益通報者保護法について批判的な記事が書かれていますが,「真実相当性」の意味を取り違えているようなので,説得力のない論考となりました。同法の「真実相当性」は,通報対象者において,「通報対象事実が生じ,又はまさに生じようとしていると信ずるに足りる相当の理由」がある場合であり,これは告発対象の「社長」が「真実相当性」がないと判断するかどうかは関係がありません。上記の論考では,社長からみて真実相当性がないことが明白であったという設例で論じられており,それがそもそもおかしいのです。公益通報者保護法は,社長や経営陣が独断で判断して揉みけすことがないようにするための法律であり,告発者の真実相当性の有無は,通常は,事後的な調査をしなければわからないはずです。
 それでは悪意ある通報に対処できず,言われ放題で,株価はその間にどんどん下がったらどうするんだという疑問が,この論考の前提にあり,その問題意識自体はよくわかります。ただ,故意に虚偽の通報をした際の罰則を設ける」といった対応は,この法律がなんのために制定されたかということを考えると,やはり適切ではないでしょう。それに,公益通報者保護法は,「不正の利益を得る目的,他人に損害を加える目的その他の不正の目的」がないことが保護要件であるので,図利加害目的の通報は,同法では保護されず,就業規則に基づき懲戒解雇とすることができます。刑事罰がなくても,これで一般社員には十分に抑止効果があるでしょう。懲戒解雇くらいどうでもよいと思って悪意をもった通報する人は,刑事罰があるかどうかに関係なくやるでしょう。それに,「故意に虚偽の通報をした」ことの立証のハードルはかなり高いものです。実際にそうかはともかく,人々がそう考えるならば,罰則を設けても,あまり効果はないと思われます。
 では,どうすればよいか。従業員が会社の改善のために不祥事を外部に通報するという行為は,それだけで「社長」からすれば「悪意ある通報」に思えるものです。そうした「本能的」な反応をしてはならないというのが,公益通報者保護法の精神です(しかも同法は,不祥事のなかの犯罪行為に関係するものしか扱わないという意味で,最小限の対応しかしていません)。この法律は,企業がコンプライアンスを意識し,(理想を言えば,違法性の疑惑が生じることがないように透明性のある経営をめざして)何か問題があれば内部でうまく解決することを求める法律だということです。兵庫県知事の例を出して,「悪意ある通報」の犠牲者であるというような書きぶりは不適切であると思います。
 多くの企業内の不正行為が,企業内の自浄作用が機能せず,従業員の外部への告発などから明らかになったという事実を忘れてはなりません。しかも,それは日本を代表するような大企業においても,よく起きているのです。公益通報者保護法について文句を言う前に,コンプライアンス経営を目指し,不祥事をたとえ根絶できないとしても,これはきわめてレアなケースにすぎないと堂々と言えるような状況が出てこないかぎり,公益通報の必要性は残り,公益通報者保護法の規制強化の動きは止まらないでしょう。
 個人的には,従業員が簡単に外部に通報をすることがないよう,企業がしっかり内部通報システムを整え,そこに不祥事情報を集中させ,それへの対応を企業が自ら率先して行うという自浄作用を働かせることが大切で,公益通報者保護法は,そうした目的に合致したものだと考えています。公益通報者保護法の保護要件に照らすと,同法は内部通報前置主義を採用したといえるのです。内部通報前置主義は,企業にとって大きな意味があるのです。そして,その点からは,告発した従業員へのペナルティをまず考えるというようなことはあってはならないのです。
 以上については,公益通報者保護法の制定の直前に刊行している『コンプライアンスと内部告発』(2004年,日本労務研究会)の第6章(大内執筆)も読んでもらえればと思います。

 

 

2024年11月25日 (月)

ルールと罰金

 WBSCプレミア12は,決勝戦で台湾が日本に快勝しました。打線は水もので,これまで好調だった日本打線は沈黙し,東京ドームを本拠とする巨人の戸郷が打たれて万事休しました。日本人としては残念ですが,台湾は強かったです。もっとも,先発の林昱珉投手の入れ墨はちょっと驚きました。あれは日本人としては見ていて気持ちのよいものではなかったですが,投球は見事でした。
 林投手は,前日の予告先発投手でした。台湾は,決勝進出が決まったあと,予告先発の変更をしていました。これには約3000ドルの罰金のペナルティがあるそうです。決勝進出が決まったあとの消化ゲームに,エースを投入するわけにはいきません。最初から駅伝でいうエントリー変更するくらいの感覚だったのでしょう。約45万円程度の罰金なんて大したことはないということです。しかし,予告先発を,負傷などの正当な理由なく変えることができれば,予告先発の意味はないですよね。罰金を払えば変更してよいと考えるのか,そもそも変更はできないのであり,その違反に対する罰則なのかによって,ルールや規範という観点からは意味が違ってくるのですが,実際の機能は,どっちであれ,金を払えば変更できるということです。
 これは,ちょうど債務不履行に対する損害賠償責任について,債務を実際に履行するか,金を払って履行しないかの二択であると考えるのか,債務は履行すべきである(法的にも,あるいは道徳的にも)が,それに違反した場合には損害賠償というペナルティを課すと考えるかという話と似ています。さらに広げると,Trump次期大統領が,中国に対して,台湾を侵攻するなら関税を200%引き上げるといっているが,これは台湾を侵攻するな(侵攻すれば関税のペナルティを課す)と言っているのか,関税を支払えば台湾侵攻してよいと言っているのか,という話にも似ています。これを労働法に結びつければ,解雇の金銭解決は,雇用継続をするか,金を払って解雇をするかの二択か,雇用継続が義務であり,金銭の支払いはペナルティとみるのか,という話とも似ています。金銭解決の話でいえば,個人的には,雇用継続義務はないが,解雇が簡単に行われるのは望ましいことではないので,然るべき高い賠償額を設定して,解雇が軽率に行われないように抑止し,結果として雇用継続が増えることになれば,それでよしとする発想です。金銭にはこうした種々の機能があるということでしょう。
 これは刑罰の応報機能と抑止機能に似ているかもしれません。死刑は抑止機能には効果があるかもしれませんが,だからといって軽微な犯罪に対する応報としては死刑は不当です。逆に重い犯罪に対して罰金刑では困ります。結局のところ,ペナルティはそれによって抑止しようとするものが,どの程度の非違行為であるか(非違行為をしないことが法的ないし道徳的にどの程度強く義務づけられているか)によって,どの程度のペナルティにとどめるのかが決まるということです。
 予告先発の変更は,たいした金銭的ペナルティではないので,それほど強く履行が求められているルールではないということなのかもしれません(スポーツマンシップに反するという主張はありえますが,それだったら,罰金はないほうがよいのかもしれません)。もちろん台湾側は罰金よりも,勝利により得られる報奨のほうがはるかに大きいという計算をしたうえでの予告先発交替でしょう。そういう計算ができるということ自体が,予告先発ルールとして重要性が低いことを意味するのです。そう考えると,しっかり損得を計算し,何よりも勝利に執念をもって競技に臨んで大会を盛り上げたという点で,台湾は見事であったといってよいのでしょう。

 

 

2024年11月13日 (水)

就労の壁

 しつこく社会保障のことを書きます。103万円は壁ではないという意見があります。103万円を超えればその所得分に課税されるだけで,これを「手取り」が減ると言うのは誤解を招くと言えるかもしれません。ただ,就労を抑制するということについては,どうでしょうか。壁でなければ,就労抑制もないということになるのでしょうか。
 税金を払うのと払わないのとでは,連続性があるものではなく,0から1というのは,非連続であるような気がします。複数のパートをしているような人の場合,103万円を超えるかどうかは確定申告をするかしないかの違いになります。確定申告をするのは,毎年やっている私のような人間にとっては,それほど大きな手間ではありませんが,あまり慣れていない人ややったことがない人にとっては,ハードルが高いことでしょう。納税意識が強い人ほど,合計103万円にならないように就労調整しようと思うでしょう(納税意識がない人にとっては関係ないでしょうが,脱税していることになります)。1箇所で働いている場合には,103万円を超えると,会社が源泉徴収してくれるはずなので,問題はないということになりそうですが,それでも働いて税金を取られるという経験がなかった人が,新たに税金を取られるということになると,そのことへの抵抗があるのかもしれません。この庶民感覚を重視するならば,やはり壁というものはあると言えそうです。
 さらに,16歳以上の扶養する子どもがいる場合,子どもたちのアルバイトは,親の扶養控除との関係で,明確な影響があります。こちらのほうは,子どもが103万円の壁を超えると,親に手取りの減少という影響が出ます。これは大学生の子がいる家庭の人は気になったことがあるかもしれません。子どもが知らないうちにアルバイトをしすぎて,泣く泣く扶養控除を諦めざるをえなかったという経験をした人もいるのではないでしょうか。親は,子どもには103万円以内でアルバイトをするように求め,必要な部分は親からお小遣いが支払われるとなると,親の可処分所得が減ります(手取り減少と同じ)。また,アルバイトの就労調整は人手が減るということを意味します。いっそのこと扶養控除はやめて,児童手当で対応したほうがよいのかもしれません(この12月から,児童手当の対象が高校生にまで広げられ,その一方,2026年から高校生の扶養控除は縮小するようです)。
 もちろん,手取りへの影響という点では,社会保険に関係する106万円,130万円のほうが大きな影響があります。医療については,保険ではなく,税を基盤としたユニバーサルなシステムとなれば,この問題は解決されますが,イギリスのNHS(国民保健サービス)の問題点(医療人材不足,医療サービスの質の低下,待ち時間の長さなど)が言われるなかでは,現実性は乏しいような気がします。ただ,国民健康保険の財政面の問題などがあり,かなり苦しい自治体もあることを考えると,イギリス型の医療保障制度(あるいはイタリアも同様)を,いまから検討しておいてもよいと思います。もしイギリス型に切り替えることができれば,国民健康保険と健康保険との格差問題も解決します。ちなみに傷病手当金のような所得保障については,医療サービスと切り離してよいのではないかと思っています。
 現行制度の下で,106万円の壁がなくなると,次の壁は130万円です。こちらは被扶養者となる要件との関係です。国民年金では130万円未満の配偶者は,第3号被保険者となり,保険料を支払わなくても将来の年金は減額されません。130万円を超えると第1号ないし第2号の被保険者となり,保険料を支払わなければなりません。健康保険との関係では,被扶養者は保険料を支払わなくてもよいのですが,130万円を超えると,それがなくなり自分で保険料を支払わなければなりません。この負担はかなりのものです(配偶者に企業が支払う扶養手当についても,これにならって130万円以下を要件としていることが
あります)。130万円を超えないように就労調整する気持ちはよくわかります。
 今朝の日本経済新聞で,論説委員の柳瀬和央氏は,「『年収の壁』の正体とは」という論説のなかで,130万円や106万円が就労の壁になっている主因は,「専業主婦の優遇にある」としています。共働き時代に合わない制度が残っているということでしょう。個人単位の医療保険というのは,こういう106万円や130万円の壁をなくすことに貢献できます。国民民主党の玉木氏は,「103万円の壁」の引上げで,ちょっとやりすぎて政治的な報復を受けたのかもしれませんが,彼が失脚しても,彼のやった問題提起は無駄ではなかったということにしなければなりません。
 社会保障制度改革は,難しい課題ですが,あらゆる選択肢を排除せず,思考実験を繰り返すことが必要だと思っています。

 

 

2024年11月12日 (火)

遺族補償から社会保障について考えてみた 

 昨日の話の続きですが,個人単位の社会保障というものを考えた場合,一つの論点は,遺族補償がどうなるのか,ということでしょう。渋谷労基署署長事件でも,ヘルパーの遺族が,遺族補償給付と葬祭料の支給を求めた事案でした。
 個人単位で社会保障を考えるということにすると,生計を同一にしていた配偶者が死亡した場合の所得保障をどう考えるのか,という問題にぶつかります。ただ,共働き(ツートップ型)や独身世帯が増えていくなかで,個人で生計を支えていくのが原則になると,配偶者への給付は不要ということになるかもしれません(未成年の子については,扶養する親に,その収入に応じた手当などで対応することになるでしょう)。
 現行法では,妻が先に労災で死亡した場合,夫は60歳以上でなければ遺族保障年金の受給資格はありません(労災保険法16条の211号)。一方,夫が先に死亡したときの妻にはこのような年齢要件はありません。妻は夫に経済的に支えられているので,夫が死亡した場合には年齢に関係なく保障が必要だが,夫の場合は,60歳未満であれば,自力で生計を立てることができるので,保障は不要ということでしょう。これが生活の必要性ということからくる議論であるとすると,今後は共働き化の定着により,妻も経済的に自立するようになっていくので,夫と同様,60歳未満であれば,受給資格はないという方向での平等化も考えられそうです。実際の裁判は,夫の年齢要件をなくす方向での議論をするのですが。
 ちなみに,2017321日の最高裁判決は,地方公務員のケースですが,遺族補償年金の受給資格で妻以外に年齢要件があることを,憲法14条の平等原則に反せず合憲と判断しています。その理由は,「男女間における生産年齢人口に占める労働力人口の割合の違い,平均的な賃金額の格差及び一般的な雇用形態の違い等からうかがえる妻の置かれている社会的状況に鑑み,妻について一定の年齢に達していることを受給の要件としないことは,……合理的な理由を欠くものということはできない」というものです(
平成27年(行ツ)375)。この最高裁判決には,当然,批判もあるところです。
 ところで,最近いただいた森戸英幸・長沼建一郎『ややわかりやすい社会保障(法?)』(弘文堂)で,この点について,どういうことが書いているだろうかと思って,本を開いてみました。こちらは遺族厚生年金についての箇所で,この論点に触れていました(遺族厚生年金は,やはり夫にだけ55歳以上の年齢要件があります)。
 「ちなみに遺族年金を廃止して,年金をすべて個人単位にすれば『すっきりする』との指摘も多い。確かに遺族が誰もいないケースも増えてくるだろうし,その方が今の時代にマッチしているともいえるのだが,もしそうすると,たとえば早く死んでしまい,ずっと保険料を払ってきたのに年金をあまり(さらには「まったく」)もらえなかった場合の『保険料の払い損』の問題などが正面に立ちあらわれるだろう。」(191頁)。
 私は,老後の所得保障は,現在の基礎年金に相当するものは税金ベースとし,それ以上の部分は,iDeCo(個人型確定拠出年金)のような個人の積立てに税制優遇を認めること(拠出・給付の双方での優遇を想定していて,こうした優遇は現金給付と同様の効果があるので,広義の社会保障に入ると思っています)でよいのではないかと考えていますが,途中で死亡した場合,後者については,年齢に関係なく遺族に支給されることにすればすっきりします。これだと保険料の払い損という問題も出てこないと思います。労災保険も,医療面は健康保険に吸収し,遺族補償はなくし(個人単位の年金制度に吸収し)たうえで,使用者や第三者の帰責部分については,民事で安全配慮義務違反等を理由とする損害賠償を請求することでよいというのはどうでしょうかね(労災保険制度の趣旨の一つである無資力の危険への対応は難しいのですが,立証の負担については,労働者側に有利なルールを立法で定めることはありえるでしょう)。もちろん労働者から損害賠償請求するのが大変ということはよくわかるのですが,現行法の下でも,労災保険は全額の補償はしてくれないので,差額分(とくに慰謝料)は民事損害賠償請求をすることになるのです。そう考えると,裁判をする手間という点では,いまと変わらないといえるでしょう。詳細は詰めなければならない論点はたくさんありますし,現実無視の暴論かもしれませんが,徹底した個人単位の社会保障というものの理論的シミュレーションはやってみてもよいと思っています(すでにどなたかが,されているのかもしれませんが)。
 ところで,この森戸・長沼本は,プレップ労働法と同様の森戸カラーの強い本ですが,いつものように読み物として面白く,書名の「ややわかりやすい」という謙虚なタイトルは,社会保障の難しさを直視した正直なものなのでしょう。人生も60年以上になり,家族の介護なども経験し,自分の年金受給開始年齢に近づくと,社会保障の重要性は身にしみて感じます。その割には,この制度の複雑さには閉口することも多いです。私たちの生活において,とくに高齢になってくると最も重要性が高い社会保障制度の話は,社会保障法の素人もどんどん議論に参加して,良き社会の設計のために意見を言うことができてもよいと思っています。今回いただいた本をきっかけに,みんなで社会保障を論じてみることが必要だと思いました。森戸・長沼本の表紙の黄色は,社会保障に関心をもたなければ大変なことになるという警告を示す色かもしれません。もっとも,いきなりこの本だと,読者はびっくりするかもしれませんから,同じ弘文堂の島村暁代さんの『プレップ社会保障法』から(まだの人は)読み始めたほうがよいかもしれません。
 ちなみに,国民民主党の103万円の壁の引上げ論に便乗して(?),社会保険のほうの106万円の壁を撤廃しようとする厚生労働省の動きを素材に,みんなで議論をしてみてはどうでしょうか。これによりパート労働者が厚生年金に加入できれば,手取りは減りますが,保険料の事業主負担もあるし,厚生年金で老後の所得保障につながるという話を聞かされています(健康保険なら病気で休業したときの傷病手当金もあります)。でも,老後の保障については,手取りが減った部分は国に運用してもらうということで,若い人なら何十年も先にならなければもらえない給付を(政府から委託されたGPIFという専門家とはいえ)他人の運用任せにするのです。その金があれば,新NISAで,自分で投資したいという人もいるかもしれません。新NISAも政府は推奨していました。いま厚生年金に入っている人にとっては,加入者が増えたほうがありがたいかもしれません。少子高齢化で年金財政がますます厳しくなるからです。でも,これから加入する人は,加入資格が生じることが,どれだけ魅力的かは,ほんとうのところはよくわかりません。手取りが多少は減っても,老後は安心だよというように,簡単に考えてはならないと思います。もちろん厚生労働省からの反論もあるのでしょうが,それもふまえて,自分で考えて,社会保障制度に問題意識をもつことにしましょう。  

 

 

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