法律

2025年1月27日 (月)

法律学小辞典(第6版)

 私も少しだけ執筆に加わった高橋和之他編『法律学小辞典(第6版)』(有斐閣)が届きました。有斐閣の判例六法やポケット六法は,元編集協力者ということで現役から引退していますが,法律学小辞典ではまだかろうじて現役です。でも,次の版では,世代交代となるでしょうね。
 ところで,労働法に関する分野では,法学者以外の方もいろいろな政策提言をされることが増えていますが,法学特有の用語もあるので,法学の領域に立ち入って建設的な議論をするためには,用語については法学の用語を尊重してもらう必要があるように思います。その意味でも,こういうハンディな「法律学小辞典」はとても有用です(強行法規や任意法規という言葉は,法律の専門家以外の人は,あまり正確に理解していないように思います。そうなるとデロゲーションの議論も混乱が生じてしまいます。あるいは,「不当労働行為」という言葉は,法律家の間であっても,労働法の専門家以外の人には,よく誤解されています)。それだけでなく,法律用語の修正(平易化など)も進んでいるので,その点では,古い法学教育を受けている人間が,情報をアップデートするためにも,本書は役立ちます。たとえば刑法では,強姦罪は強制性交等罪となり,さらに最近,不同意性交等罪となり,その間に処罰対象となる行為の範囲が徐々に広がっています。もちろん新しい法律の内容を詳しく知りたければ,教科書や専門書で確認しなければなりませんが,この小辞典を読むだけでも,かなりの情報が得られます。
 私も,これまで
本書を旧版のときから座右の書としてきましたが,今回の第6版も同様です。

 

 

2024年12月 4日 (水)

マイナ保険証

 122日から健康保険証の新規発行がなくなりました。マイナンバーカードに保険証の機能を載せた「マイナ保険証」に一本化するそうです。そのようななか,厚生労働省の省令(療養担当規則)によって,医療機関に対してマイナ保険証による「オンライン資格確認」を義務付けられたことについて,その義務がないことの確認を求めて国を訴えた裁判で,先月28日,東京地方裁判所は,医師たちの訴えを退けたようです。法律論としては,省令でそのような措置を定めることは憲法41条(国会が国の唯一の立法機関であるとする規定)に違反するという主張であったようです(弁護士JP記事を参照しました)。
 マイナ保険証は,医療機関にも負担をかけているということで,困ったものではあります。ただ,デジタル推進派の立場からは,マイナ保険証はもっと活用すべきで,できればマイナンバーカードを持ち歩かずに,スマホを提示すればOKというようにしてほしいですし,政府もその方向で進めているようです。上記裁判での原告たちも,マイナ保険証一本というのが困るということにすぎず,マイナ保険証それ自体がダメと言っているわけではなさそうです。
 ところで,マイナンバーカード反対派(返納者ら)は,その主たる根拠として,情報漏洩への不安と監視社会になることへの不安を挙げていたと思います。情報漏洩については,国の安全対策への信用ができていないことが理由でしょうし,マイナンバーを活用した国家の監視の強化のおそれについても,政府への信用の問題です。とくに後者については,国家権力は権力を濫用するものだから,マイナンバーカードだって目的外利用をするにちがいないと考えて,自分たちはマイナンバーカードを使わず,できるだけ私的領域を守りたいというのは一つの考え方でしょう。ただ私は,マイナンバーカードの利用については,現時点では,リスクと利便性の天秤の問題と考えており,利便性を活かし,リスクをできるかぎり抑えるという方向で対応してもらえればと思っています。
 いずれにせよ,マイナンバーカード一般の問題とマイナ保険証は,ひとまず切り離して考えてよいでしょう。マイナンバーカードは良しとしても健康保険証は使えるようにしてほしいという意見はありえますし,その具体的な現れが,医療機関側の声(の一部)が上記の裁判ですし,利用者側にも,そのような声があるでしょう。
 ところで,健康保険証とは何のためのものなのでしょうか。私たちは医療機関で診療サービス(療養の給付)を受ければ,その対価として医療費を支払わなければならないのですが,皆保険ということで,原則として,国民健康保険か健康保険に加入して保険料を支払っており,その保険でカバーされる保険診療については,保険機関から医療費(診療報酬)が支払われ,私たちは一部負担金として原則3割だけ支払うことになっています。健康保険証は,どの保険機関から残額を支払われるかを確認するための書類ですので,医療機関からすると医療費を確実に受領できるように,保険証の確認は重要な意味をもっているわけです。逆にいうと,この書類がなければ,私たちは医療費を全額支払わなければなりません。健康保険証が新規発行されないとなれば,それに代わる保険証がなければ困ります。それがマイナ保険証(あるいは資格確認書)です。マイナ保険証は,マイナンバーカードを取得して,それに健康保険証の登録をすればよいものです。この登録作業はスマホ(あるいはPC)でやるのですが,上述のように,近い将来,スマホのマイナポータルをつかってマイナ保険証を提示できるようになりそうです。マイナンバーカードの携行率が低いことが問題であると言われますが,私のようにスマホ一つしか持ち歩かない人間にとっては,マイナンバーカードだけ携行しなければならないのは面倒です(紛失の危険大です)。同じように思っている人も多いでしょう。スマホ化ができなければ,マイナンバーカードは所有している人は増えても,利用者はそれほど増えないでしょう。
 ただ,こうしたことを高齢者にやらせるのは大変かもしれません。今後,行政サービスのデジタル化を一挙に進めることにし,必要なスマホなどでの手続ができていない家庭のサポートのために,自治体がこういうことに精通しているアルバイト職員を雇って,各家庭に訪問させて設定などをすべて代行し,そこでマイナ保険証の登録なども一緒にやってしまうということができればよいと思います(医療機関のオンライン資格確認についても,コスト面に不安のある中小の機関には補助金で支援したり,技術的な問題があるとすれば,サポート員を派遣するなどをしてもよいでしょう)。
 というように思うのですが,現実には,そう簡単にはいかないのでしょうね。ただ,結局のところは,マイナ保険証などのようなデジタル化は,どこまで政府が本気でデジタル化を進めるつもりなのか(デジタル化がなぜ必要なのかを理解することが,まずは出発点です),そして,そのために政府全体が緊張感をもって国民にデジタル化の意義や必要性を理解してもらうために努力をするのか,にかかっています。役人のなかには,なんでマイナンバーカードなんて導入するのだろうか,マイナ保険証なんてなくてもいいだろう,と思っている人が必ずいるはず。そういう人がいるかぎり,国民への対応もいい加減になり,説得力も下がります。このあたりも含めて,政府の姿勢が問われることになります。

2024年11月30日 (土)

再び公益通報者保護法について

 27日の日本経済新聞の「大機小機」は,公益通報者保護法について批判的な記事が書かれていますが,「真実相当性」の意味を取り違えているようなので,説得力のない論考となりました。同法の「真実相当性」は,通報対象者において,「通報対象事実が生じ,又はまさに生じようとしていると信ずるに足りる相当の理由」がある場合であり,これは告発対象の「社長」が「真実相当性」がないと判断するかどうかは関係がありません。上記の論考では,社長からみて真実相当性がないことが明白であったという設例で論じられており,それがそもそもおかしいのです。公益通報者保護法は,社長や経営陣が独断で判断して揉みけすことがないようにするための法律であり,告発者の真実相当性の有無は,通常は,事後的な調査をしなければわからないはずです。
 それでは悪意ある通報に対処できず,言われ放題で,株価はその間にどんどん下がったらどうするんだという疑問が,この論考の前提にあり,その問題意識自体はよくわかります。ただ,故意に虚偽の通報をした際の罰則を設ける」といった対応は,この法律がなんのために制定されたかということを考えると,やはり適切ではないでしょう。それに,公益通報者保護法は,「不正の利益を得る目的,他人に損害を加える目的その他の不正の目的」がないことが保護要件であるので,図利加害目的の通報は,同法では保護されず,就業規則に基づき懲戒解雇とすることができます。刑事罰がなくても,これで一般社員には十分に抑止効果があるでしょう。懲戒解雇くらいどうでもよいと思って悪意をもった通報する人は,刑事罰があるかどうかに関係なくやるでしょう。それに,「故意に虚偽の通報をした」ことの立証のハードルはかなり高いものです。実際にそうかはともかく,人々がそう考えるならば,罰則を設けても,あまり効果はないと思われます。
 では,どうすればよいか。従業員が会社の改善のために不祥事を外部に通報するという行為は,それだけで「社長」からすれば「悪意ある通報」に思えるものです。そうした「本能的」な反応をしてはならないというのが,公益通報者保護法の精神です(しかも同法は,不祥事のなかの犯罪行為に関係するものしか扱わないという意味で,最小限の対応しかしていません)。この法律は,企業がコンプライアンスを意識し,(理想を言えば,違法性の疑惑が生じることがないように透明性のある経営をめざして)何か問題があれば内部でうまく解決することを求める法律だということです。兵庫県知事の例を出して,「悪意ある通報」の犠牲者であるというような書きぶりは不適切であると思います。
 多くの企業内の不正行為が,企業内の自浄作用が機能せず,従業員の外部への告発などから明らかになったという事実を忘れてはなりません。しかも,それは日本を代表するような大企業においても,よく起きているのです。公益通報者保護法について文句を言う前に,コンプライアンス経営を目指し,不祥事をたとえ根絶できないとしても,これはきわめてレアなケースにすぎないと堂々と言えるような状況が出てこないかぎり,公益通報の必要性は残り,公益通報者保護法の規制強化の動きは止まらないでしょう。
 個人的には,従業員が簡単に外部に通報をすることがないよう,企業がしっかり内部通報システムを整え,そこに不祥事情報を集中させ,それへの対応を企業が自ら率先して行うという自浄作用を働かせることが大切で,公益通報者保護法は,そうした目的に合致したものだと考えています。公益通報者保護法の保護要件に照らすと,同法は内部通報前置主義を採用したといえるのです。内部通報前置主義は,企業にとって大きな意味があるのです。そして,その点からは,告発した従業員へのペナルティをまず考えるというようなことはあってはならないのです。
 以上については,公益通報者保護法の制定の直前に刊行している『コンプライアンスと内部告発』(2004年,日本労務研究会)の第6章(大内執筆)も読んでもらえればと思います。

 

 

2024年11月25日 (月)

ルールと罰金

 WBSCプレミア12は,決勝戦で台湾が日本に快勝しました。打線は水もので,これまで好調だった日本打線は沈黙し,東京ドームを本拠とする巨人の戸郷が打たれて万事休しました。日本人としては残念ですが,台湾は強かったです。もっとも,先発の林昱珉投手の入れ墨はちょっと驚きました。あれは日本人としては見ていて気持ちのよいものではなかったですが,投球は見事でした。
 林投手は,前日の予告先発投手でした。台湾は,決勝進出が決まったあと,予告先発の変更をしていました。これには約3000ドルの罰金のペナルティがあるそうです。決勝進出が決まったあとの消化ゲームに,エースを投入するわけにはいきません。最初から駅伝でいうエントリー変更するくらいの感覚だったのでしょう。約45万円程度の罰金なんて大したことはないということです。しかし,予告先発を,負傷などの正当な理由なく変えることができれば,予告先発の意味はないですよね。罰金を払えば変更してよいと考えるのか,そもそも変更はできないのであり,その違反に対する罰則なのかによって,ルールや規範という観点からは意味が違ってくるのですが,実際の機能は,どっちであれ,金を払えば変更できるということです。
 これは,ちょうど債務不履行に対する損害賠償責任について,債務を実際に履行するか,金を払って履行しないかの二択であると考えるのか,債務は履行すべきである(法的にも,あるいは道徳的にも)が,それに違反した場合には損害賠償というペナルティを課すと考えるかという話と似ています。さらに広げると,Trump次期大統領が,中国に対して,台湾を侵攻するなら関税を200%引き上げるといっているが,これは台湾を侵攻するな(侵攻すれば関税のペナルティを課す)と言っているのか,関税を支払えば台湾侵攻してよいと言っているのか,という話にも似ています。これを労働法に結びつければ,解雇の金銭解決は,雇用継続をするか,金を払って解雇をするかの二択か,雇用継続が義務であり,金銭の支払いはペナルティとみるのか,という話とも似ています。金銭解決の話でいえば,個人的には,雇用継続義務はないが,解雇が簡単に行われるのは望ましいことではないので,然るべき高い賠償額を設定して,解雇が軽率に行われないように抑止し,結果として雇用継続が増えることになれば,それでよしとする発想です。金銭にはこうした種々の機能があるということでしょう。
 これは刑罰の応報機能と抑止機能に似ているかもしれません。死刑は抑止機能には効果があるかもしれませんが,だからといって軽微な犯罪に対する応報としては死刑は不当です。逆に重い犯罪に対して罰金刑では困ります。結局のところ,ペナルティはそれによって抑止しようとするものが,どの程度の非違行為であるか(非違行為をしないことが法的ないし道徳的にどの程度強く義務づけられているか)によって,どの程度のペナルティにとどめるのかが決まるということです。
 予告先発の変更は,たいした金銭的ペナルティではないので,それほど強く履行が求められているルールではないということなのかもしれません(スポーツマンシップに反するという主張はありえますが,それだったら,罰金はないほうがよいのかもしれません)。もちろん台湾側は罰金よりも,勝利により得られる報奨のほうがはるかに大きいという計算をしたうえでの予告先発交替でしょう。そういう計算ができるということ自体が,予告先発ルールとして重要性が低いことを意味するのです。そう考えると,しっかり損得を計算し,何よりも勝利に執念をもって競技に臨んで大会を盛り上げたという点で,台湾は見事であったといってよいのでしょう。

 

 

2024年11月13日 (水)

就労の壁

 しつこく社会保障のことを書きます。103万円は壁ではないという意見があります。103万円を超えればその所得分に課税されるだけで,これを「手取り」が減ると言うのは誤解を招くと言えるかもしれません。ただ,就労を抑制するということについては,どうでしょうか。壁でなければ,就労抑制もないということになるのでしょうか。
 税金を払うのと払わないのとでは,連続性があるものではなく,0から1というのは,非連続であるような気がします。複数のパートをしているような人の場合,103万円を超えるかどうかは確定申告をするかしないかの違いになります。確定申告をするのは,毎年やっている私のような人間にとっては,それほど大きな手間ではありませんが,あまり慣れていない人ややったことがない人にとっては,ハードルが高いことでしょう。納税意識が強い人ほど,合計103万円にならないように就労調整しようと思うでしょう(納税意識がない人にとっては関係ないでしょうが,脱税していることになります)。1箇所で働いている場合には,103万円を超えると,会社が源泉徴収してくれるはずなので,問題はないということになりそうですが,それでも働いて税金を取られるという経験がなかった人が,新たに税金を取られるということになると,そのことへの抵抗があるのかもしれません。この庶民感覚を重視するならば,やはり壁というものはあると言えそうです。
 さらに,16歳以上の扶養する子どもがいる場合,子どもたちのアルバイトは,親の扶養控除との関係で,明確な影響があります。こちらのほうは,子どもが103万円の壁を超えると,親に手取りの減少という影響が出ます。これは大学生の子がいる家庭の人は気になったことがあるかもしれません。子どもが知らないうちにアルバイトをしすぎて,泣く泣く扶養控除を諦めざるをえなかったという経験をした人もいるのではないでしょうか。親は,子どもには103万円以内でアルバイトをするように求め,必要な部分は親からお小遣いが支払われるとなると,親の可処分所得が減ります(手取り減少と同じ)。また,アルバイトの就労調整は人手が減るということを意味します。いっそのこと扶養控除はやめて,児童手当で対応したほうがよいのかもしれません(この12月から,児童手当の対象が高校生にまで広げられ,その一方,2026年から高校生の扶養控除は縮小するようです)。
 もちろん,手取りへの影響という点では,社会保険に関係する106万円,130万円のほうが大きな影響があります。医療については,保険ではなく,税を基盤としたユニバーサルなシステムとなれば,この問題は解決されますが,イギリスのNHS(国民保健サービス)の問題点(医療人材不足,医療サービスの質の低下,待ち時間の長さなど)が言われるなかでは,現実性は乏しいような気がします。ただ,国民健康保険の財政面の問題などがあり,かなり苦しい自治体もあることを考えると,イギリス型の医療保障制度(あるいはイタリアも同様)を,いまから検討しておいてもよいと思います。もしイギリス型に切り替えることができれば,国民健康保険と健康保険との格差問題も解決します。ちなみに傷病手当金のような所得保障については,医療サービスと切り離してよいのではないかと思っています。
 現行制度の下で,106万円の壁がなくなると,次の壁は130万円です。こちらは被扶養者となる要件との関係です。国民年金では130万円未満の配偶者は,第3号被保険者となり,保険料を支払わなくても将来の年金は減額されません。130万円を超えると第1号ないし第2号の被保険者となり,保険料を支払わなければなりません。健康保険との関係では,被扶養者は保険料を支払わなくてもよいのですが,130万円を超えると,それがなくなり自分で保険料を支払わなければなりません。この負担はかなりのものです(配偶者に企業が支払う扶養手当についても,これにならって130万円以下を要件としていることが
あります)。130万円を超えないように就労調整する気持ちはよくわかります。
 今朝の日本経済新聞で,論説委員の柳瀬和央氏は,「『年収の壁』の正体とは」という論説のなかで,130万円や106万円が就労の壁になっている主因は,「専業主婦の優遇にある」としています。共働き時代に合わない制度が残っているということでしょう。個人単位の医療保険というのは,こういう106万円や130万円の壁をなくすことに貢献できます。国民民主党の玉木氏は,「103万円の壁」の引上げで,ちょっとやりすぎて政治的な報復を受けたのかもしれませんが,彼が失脚しても,彼のやった問題提起は無駄ではなかったということにしなければなりません。
 社会保障制度改革は,難しい課題ですが,あらゆる選択肢を排除せず,思考実験を繰り返すことが必要だと思っています。

 

 

2024年11月12日 (火)

遺族補償から社会保障について考えてみた 

 昨日の話の続きですが,個人単位の社会保障というものを考えた場合,一つの論点は,遺族補償がどうなるのか,ということでしょう。渋谷労基署署長事件でも,ヘルパーの遺族が,遺族補償給付と葬祭料の支給を求めた事案でした。
 個人単位で社会保障を考えるということにすると,生計を同一にしていた配偶者が死亡した場合の所得保障をどう考えるのか,という問題にぶつかります。ただ,共働き(ツートップ型)や独身世帯が増えていくなかで,個人で生計を支えていくのが原則になると,配偶者への給付は不要ということになるかもしれません(未成年の子については,扶養する親に,その収入に応じた手当などで対応することになるでしょう)。
 現行法では,妻が先に労災で死亡した場合,夫は60歳以上でなければ遺族保障年金の受給資格はありません(労災保険法16条の211号)。一方,夫が先に死亡したときの妻にはこのような年齢要件はありません。妻は夫に経済的に支えられているので,夫が死亡した場合には年齢に関係なく保障が必要だが,夫の場合は,60歳未満であれば,自力で生計を立てることができるので,保障は不要ということでしょう。これが生活の必要性ということからくる議論であるとすると,今後は共働き化の定着により,妻も経済的に自立するようになっていくので,夫と同様,60歳未満であれば,受給資格はないという方向での平等化も考えられそうです。実際の裁判は,夫の年齢要件をなくす方向での議論をするのですが。
 ちなみに,2017321日の最高裁判決は,地方公務員のケースですが,遺族補償年金の受給資格で妻以外に年齢要件があることを,憲法14条の平等原則に反せず合憲と判断しています。その理由は,「男女間における生産年齢人口に占める労働力人口の割合の違い,平均的な賃金額の格差及び一般的な雇用形態の違い等からうかがえる妻の置かれている社会的状況に鑑み,妻について一定の年齢に達していることを受給の要件としないことは,……合理的な理由を欠くものということはできない」というものです(
平成27年(行ツ)375)。この最高裁判決には,当然,批判もあるところです。
 ところで,最近いただいた森戸英幸・長沼建一郎『ややわかりやすい社会保障(法?)』(弘文堂)で,この点について,どういうことが書いているだろうかと思って,本を開いてみました。こちらは遺族厚生年金についての箇所で,この論点に触れていました(遺族厚生年金は,やはり夫にだけ55歳以上の年齢要件があります)。
 「ちなみに遺族年金を廃止して,年金をすべて個人単位にすれば『すっきりする』との指摘も多い。確かに遺族が誰もいないケースも増えてくるだろうし,その方が今の時代にマッチしているともいえるのだが,もしそうすると,たとえば早く死んでしまい,ずっと保険料を払ってきたのに年金をあまり(さらには「まったく」)もらえなかった場合の『保険料の払い損』の問題などが正面に立ちあらわれるだろう。」(191頁)。
 私は,老後の所得保障は,現在の基礎年金に相当するものは税金ベースとし,それ以上の部分は,iDeCo(個人型確定拠出年金)のような個人の積立てに税制優遇を認めること(拠出・給付の双方での優遇を想定していて,こうした優遇は現金給付と同様の効果があるので,広義の社会保障に入ると思っています)でよいのではないかと考えていますが,途中で死亡した場合,後者については,年齢に関係なく遺族に支給されることにすればすっきりします。これだと保険料の払い損という問題も出てこないと思います。労災保険も,医療面は健康保険に吸収し,遺族補償はなくし(個人単位の年金制度に吸収し)たうえで,使用者や第三者の帰責部分については,民事で安全配慮義務違反等を理由とする損害賠償を請求することでよいというのはどうでしょうかね(労災保険制度の趣旨の一つである無資力の危険への対応は難しいのですが,立証の負担については,労働者側に有利なルールを立法で定めることはありえるでしょう)。もちろん労働者から損害賠償請求するのが大変ということはよくわかるのですが,現行法の下でも,労災保険は全額の補償はしてくれないので,差額分(とくに慰謝料)は民事損害賠償請求をすることになるのです。そう考えると,裁判をする手間という点では,いまと変わらないといえるでしょう。詳細は詰めなければならない論点はたくさんありますし,現実無視の暴論かもしれませんが,徹底した個人単位の社会保障というものの理論的シミュレーションはやってみてもよいと思っています(すでにどなたかが,されているのかもしれませんが)。
 ところで,この森戸・長沼本は,プレップ労働法と同様の森戸カラーの強い本ですが,いつものように読み物として面白く,書名の「ややわかりやすい」という謙虚なタイトルは,社会保障の難しさを直視した正直なものなのでしょう。人生も60年以上になり,家族の介護なども経験し,自分の年金受給開始年齢に近づくと,社会保障の重要性は身にしみて感じます。その割には,この制度の複雑さには閉口することも多いです。私たちの生活において,とくに高齢になってくると最も重要性が高い社会保障制度の話は,社会保障法の素人もどんどん議論に参加して,良き社会の設計のために意見を言うことができてもよいと思っています。今回いただいた本をきっかけに,みんなで社会保障を論じてみることが必要だと思いました。森戸・長沼本の表紙の黄色は,社会保障に関心をもたなければ大変なことになるという警告を示す色かもしれません。もっとも,いきなりこの本だと,読者はびっくりするかもしれませんから,同じ弘文堂の島村暁代さんの『プレップ社会保障法』から(まだの人は)読み始めたほうがよいかもしれません。
 ちなみに,国民民主党の103万円の壁の引上げ論に便乗して(?),社会保険のほうの106万円の壁を撤廃しようとする厚生労働省の動きを素材に,みんなで議論をしてみてはどうでしょうか。これによりパート労働者が厚生年金に加入できれば,手取りは減りますが,保険料の事業主負担もあるし,厚生年金で老後の所得保障につながるという話を聞かされています(健康保険なら病気で休業したときの傷病手当金もあります)。でも,老後の保障については,手取りが減った部分は国に運用してもらうということで,若い人なら何十年も先にならなければもらえない給付を(政府から委託されたGPIFという専門家とはいえ)他人の運用任せにするのです。その金があれば,新NISAで,自分で投資したいという人もいるかもしれません。新NISAも政府は推奨していました。いま厚生年金に入っている人にとっては,加入者が増えたほうがありがたいかもしれません。少子高齢化で年金財政がますます厳しくなるからです。でも,これから加入する人は,加入資格が生じることが,どれだけ魅力的かは,ほんとうのところはよくわかりません。手取りが多少は減っても,老後は安心だよというように,簡単に考えてはならないと思います。もちろん厚生労働省からの反論もあるのでしょうが,それもふまえて,自分で考えて,社会保障制度に問題意識をもつことにしましょう。  

 

 

2024年9月 9日 (月)

公益通報者保護法の精神

 全国ニュースでも報じられているように,兵庫県の斎藤元彦知事に関する問題が大きく取り上げられています。前回の選挙で知事を支援した日本維新の会も,辞職勧告を行う方針のようであり,政治的には知事はかなり危機的な状況にあると思われます。しかし,不信任決議までは至っていないため,県議会が本気で知事を追い詰める意図があるのか,単に抗議のポーズを取っているだけなのかは明確ではありません。いずれにせよ,来年には知事選が控えているため,県民の関心は次の知事が誰になるかという点に移っていることでしょう。斉藤知事も候補に挙がるでしょうが,現在の県民の大多数は新たな知事の誕生を求めているのではないかと思います。名前が挙がっている人物としては,前明石市長の泉房穂氏,加古川市長の岡田康裕氏,芦屋市長の高島崚輔氏,西宮市長の石井登志郎氏などがいます。さらに,神戸市長の久元喜造氏や,前回の選挙に出馬した元副知事の金沢和夫氏も候補になるかもしれませんが,斎藤知事誕生の背景には井戸県政への批判があったため,井戸氏に近かった久元氏や金沢氏はやや厳しいかもしれません(本人たちも,その気はないでしょう)。
 斎藤知事に関する問題では,最近,公益通報に焦点が当たっているようです。実はちょうど1カ月前,某国営放送の取材で公益通報者保護法についてテレビカメラの前でインタビューを受けましたが,まだ放映はされていません。もしかしたらお蔵入りになるかもしれませんので,その際に私が話した内容を少しだけ共有したいと思います(以前に,このテーマでは,公務員の公益通報という観点から,少し書いたことがあります)。
 
公益通報者保護法は,世間ではあまり理解されていない法律の一つです。マスコミもこの法律について十分な知識がないまま報道しているように見えますし,県の関係者や百条委員会で追求している議員たちも当初はあまり理解していなかったように思えます。この法律は内閣府(消費者庁)の所管ですが,消費者行政に限定されないコンプライアンス全般に関わるものであり,かつその内容は,労働者保護が中心となっています。そのため,どの分野の研究者が,この法律の専門家であるのかわかりにくく,マスコミも誰に話を聞けばよいのか,よくわかっていなかったようです。
 
公益通報者保護法は,労働者等が公益通報をしたことによる報復的な不利益扱いを禁止する法律です。もちろん解雇や懲戒などの人事上の不利益があれば,通常の労働法の法理が適用されるので,それによって通報者は保護されます。公益通報者保護法の存在意義は,通報者に対して,どのように通報すれば確実に保護される(されやすい)かを明確に示す点にあります。企業内の就業規則(秘密保持義務など)に違反するリスクがあっても,保護の要件が明確になっていることで,通報者が安心して通報できるよう背中を押す効果が期待されているのです。
 
この法律の最も重要な点は,通報先に応じて保護要件が異なるということです。組織内への通報(内部通報)は要件が緩く,組織外への通報(外部通報)は厳格になります。これにより,労働者が内部通報を選ぶよう誘導されているのですが,組織が適切に対応しない場合には,外部通報も保護される仕組みになっています。このように,組織がその違法行為に対して自浄作用を発揮し,自分たちでコンプライアンスを実現できる態勢を整備するよう促すのが,公益通報者保護法の最も重要な目的なのです。
 そのことを踏まえると,通報を受けた組織は,まず通報内容を精査し,コンプライアンス向上に生かすべきです。外部通報した通報者を処分するかどうかは,公益通報が法の保護要件に該当せず,一般の解雇法理や懲戒法理などの要件にも合致しないことを確認して,最後に考慮すべき事項です。少なくとも図利加害目的がなく,組織の改善につながるような通報であれば,公益通報者保護法の要件に充足するかどうかに関係なく,一定の保護はされるべきでしょう(懲戒処分をするにしても,軽い処分にとどめるなど)。
 今回の事件については,インタビュー時点では事実確認が不十分であり,私自身の発言はあくまで一般論として断って語っていますが,県の対応に疑問の余地はありうるということは語っています。少なくとも真実相当性(外部通報の場合の保護の要件の一つ)は,組織側のことではなく,通報者側のことであり,うわさ話を集めたというのは,発言の所在をぼかすために述べたものにすぎず,それだけで通報者に真実相当性がなかったと即断するのは不適切です。
 そもそも,公益通報者保護法については,通報者が保護要件に満たされる通報をしたかどうかが問題なのでありませんし,保護要件を満たさない通報者を処分するための法律でもありません。条文だけみるとそうみえなくもないのですが,法の趣旨はそういうことではなく,通報を受けた組織がコンプライアンスのために対応をすることにこそ主眼がある法律なのです(直近の法改正で,公益通報対応業務従事者の設置を義務づけているのも,このような趣旨です)。インタビューでは,このような公益通報者保護法の「精神」を強調しました。

2023年10月 6日 (金)

フリーランス新法の立法趣旨

 ジュリストの最新号(1589号)の特集で「フリーランス法の検討」があり,その最初に4人連名での法律の概要に関する解説文が掲載されていました(「特定受託事業者に係る取引の適正化等に関する法律の概要」)。執筆分担ははっきりしていないのですが,内容は内閣官房,公正取引委員会,中小企業庁,厚生労働省ですりあわせた公式発表のようなものなのでしょう。
 そのなかの冒頭で,本法は,「フリーランスが個人で事業を行うという性質上,『組織』として事業を行う発注事業者との間の業務委託においては交渉力などに格差が生じやすいことに鑑み,フリーランスに業務委託を行う事業者に対して,最低限の規律を設けることにより,フリーランスに係る取引の適正化等を図ることを目的に制定された法律である」と書かれています(46頁)。ここでいう「個人」と「組織」の対置は,大臣答弁でもあらわれており,これがいわば契約の自由を修正して,フリーランスの取引に介入する根拠となっているようです。しかし,これは同法の目的規定にはなく,どうもあとから作った説明ではないかという疑問があります。1条の目的規定からは,「個人」の保護という要請はうかがえても,委託者側は「組織」だから義務を課してよいという説明が出てくる根拠は見いだせません。新法の制定で,最も要望が大きかった取引条件などの明示義務を定める3条は,「個人」対「個人」の取引を含むものであり,いきなり「個人」対「組織」の構図から外れてしまっています。この法律は「個人」対「組織」との間の交渉力格差に着目して制定されたものと考えるのは困難です。
 また特定受託事業者(フリーランス)として認められるためには,「従業員を使用しないもの」であることが必須の要件となっています(2条1項)。ところが,「本法における『従業員を使用』とは,『組織』としての実態があるかどうかを判断する基準となるものであるところ,組織としての実態があるものと認められるためには,ある程度継続的な雇用関係が前提となると考えられる。このため,労働者を雇用した場合であっても,短時間・短期間のような一時的な雇用であるなど,『組織』としての実態があると言えない場合には,そのような労働者は『従業員』に含まれず,本法の『従業員を使用』したものとは認められない」と解説されています。政府の説明では,どうも「従業員」として想定されているのは,雇用保険の加入資格がある人のようなのですが,人を継続的に使用していれば「組織」としての実態をもつことになり,そして個人のフリーランスとの関係で支配的な地位に立つということだとすると,相当無理な論理です。従業員という一般用語に近い概念を持ち出して,十分な根拠なく限定解釈することは,恣意的な感じもします。
 ビジネスガイドの次号の「キーワードからみた労働法」では,「フリーランス新法」というテーマをとりあげて,同法の内容を紹介しています。上記の「個人」と「組織」という構図に対する疑問は,そこでも書いていますので,参考にしてください。
 このほかにも,紙数の関係で「キーワードからみた労働法」では書けていませんが,フリーランス新法には,理論的にも,実務的にも,大きな問題点があります。そういう問題点を,すっ飛ばしたからこそ,制定にこぎつけることができともいえるのですが,研究者としては看過することができないものがあります。このことは,別の機会にしっかりと書きたいと思っています。

2023年10月 2日 (月)

興津征雄『行政法Ⅰ 行政法総論』

 本日,大学に行くと,同僚の興津征雄さんからいただいた『行政法Ⅰ 行政法総論』(新世社)がメールボックスに入っていました。どうもありがとうございました。先日紹介した経済産業省(トランスジェンダー)事件の最高裁判決についての行政法上の問題を確認しようと思い,さっそく本書を参照することにしました。
 実は研究会では,あの最高裁判決は判断過程審査論をとっているが,考慮すべき事実の重み付けが明確ではないという意見がありました。この判決のような実体審査をしている場合には,判断過程審査というのはおかしいような気もしたのですが,それは私の勉強不足でした。ただ,興津さんの本で,「『過程』という言葉が手続を連想させることからこれを避けて『判断要素』の審査と呼ぶ者もいる」(433頁)と書かれているのをみて,少し安心しました。
 ところで,この判決は,最初に,「国家公務員法86条の規定による行政措置の要求に対する人事院の判定においては,広範にわたる職員の勤務条件について,一般国民及び関係者の公平並びに職員の能率の発揮及び増進という見地から,人事行政や職員の勤務等の実情に即した専門的な判断が求められるのであり(同法71条,87条),その判断は人事院の裁量に委ねられているものと解される。したがって,上記判定は,裁量権の範囲を逸脱し又はこれを濫用したと認められる場合に違法となると解するのが相当である」と述べています。人事院の裁量が認められる根拠に「専門的な判断が求められる」という点があるということでしょうが,これは興津さんが紹介している「専門技術的」な裁量と「非専門技術的」な裁量という区分でいえば,事案としては後者にあてはまるべきもののように思えますが,なぜ最高裁が「専門的」という言葉にあえて言及したのかは,わかりにくいところがありました。いずれにせよ,最高裁は,裁量があると述べてはいるものの,87条の条文が示す基準があるなかでは,その「専門的な」裁量にはおのずから限界があるのかもしれません。
 本件で,裁量権の逸脱ないし濫用があったとされたのは,興津さんの本における,「裁量審査の観点」というところで書かれている内容が,ぴったりしていると思いました。
 「ごく一般的にいえば,裁量判断において処分の相当性を根拠づける事情として考慮された要素のうち,その根幹にあたる中心的な要素に他事考慮や過大評価があれば,その判断に基づいて行われた処分は違法となりやすいだろう.また,処分の相当性を阻害する事情(処分によって失われる利益など)の中に重要な要素があるにもかかわらず,それについて考慮遺脱や過小評価がある場合も同様である」(440頁)。
 つまり,考慮要素の重み付けがポイントとなるのです。本判決は,トランスジェンダーの職員のもつ不利益をきわめて大きく考慮しています。それは,憲法的価値とまでは言わないまでも,それに近いものが制限を受けた事案であるとする理解が根底にあったと思われます。一方で,本判決は行政裁量に関する判決によく出てくる「社会通念」という言葉が出てきませんが,これはトランスジェンダーをめぐる社会通念が確立していないことも関係しているのでしょうね。
 最近,公務員の懲戒処分に関する判例が注目を集めているように思います。もともと懲戒事件については数多くの行政判例があるものの,労働法との接点は明確ではありませんでした。ただ裁量をめぐる議論が,私が昔教わった行政法とはちがって,かなり精密化していることがわかったので,もう少し興津さんに教わって,勉強したい気持ちになりました。労働法の議論にも参考にできるところがあるかもしれません。

 

2023年8月13日 (日)

法学の課題

 前に書いた大学改革の話の続きですが,文理融合などを考えていくだけでなく,法学のなかにおいても,いろいろ検討すべきことがありそうです。
 AIの進化により,たんなる法律に関する情報の提供はもちろん,法解釈などの技術的な側面もAIを活用することになるでしょう。法律を一定の政策目的のためにどう使うかという法道具主義的なアプローチにおいても,AIが大いに活用されることになるでしょう。そうなると,法学研究は,より原理的な問題に傾斜し,実用性からやや遠くなっていくかもしれません。現時点ではまだAI社会に対応した新たなルールというような観点から,実用面に傾斜した研究が多いように思います(社会からのニーズも,こういうものが強い)が,徐々に基礎法的な議論が中心になっていくでしょう。
 一方,DX時代の一つの特徴は,学問の境界線をまたがるような論点が次々と出てくることです。法学内部でも同じであり,研究機関としての大学の法学部は,もはや民法,刑法などの○○法の専門というような分け方をすることは適さず,分野横断的に総合的な関心をもっている研究者が必要となると思います。民法はわかるが,労働法はよくわからないというようなことでは,おそらくこれからはダメなのでしょうね(Vice versa)。
 現在では,基本科目とされている民法,行政法などにおける一般性のありそうな議論も,実は現場に近い応用系の科目では,すでに独自の発展を遂げていることがあります。例えばデュアル・エンフォースメントやトリプル・エンフォースメントという議論(刑事的手法,行政的手法,民事的手法の二つまたは三つの活用)については,実は労働基準法はトリプル・エンフォースメントの代表例です。ダブルトラック(行政手続と民事手続)をめぐる議論についても,不当労働行為救済制度では,ずっと議論されてきているものです。もちろん労働法の議論が,具体的にどのように貢献できるかはわかりませんが,すでに多年にわたる実務経験の蓄積があり,そこでいろんな問題もかなり論じられているので,それをみないで議論をするのは非効率でしょう。
 労働法は特殊な分野であるので,あまり参考にならないという思い込みと,よくわからない分野なので首を突っ込むことができないという消極姿勢があり,他方で,労働法側にも遠慮があったり,どうせ周辺科目であるという屈折した感情もあったりして,分野をまたがった交流があまりなされてきませんでした。しかし,労働法は特殊とはいえ,世の中の多数の人がその適用を受けているのであり,この分野の理論を摂取していかなければ,適切な法理論の構築は難しいでしょう。
 いまフリーランス政策が話題になっていますが,これが,労働法と経済法のどちらの土俵でやるのかが議論の対象となっています。学問的に整理されていないため,フリーランス新法は両者をそのままくっつけてしまったもの(理論的には未熟なもの)になっています。既存の分野をまたがる知見を結集し,それを統合して,新たな理論を構築する必要が出てきていると思います。

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