法律

2023年3月20日 (月)

ディオバン事件に思う

 低気圧が来るときは,軽い頭痛が出て,立つとふらっとすることがあるのですが,そういうときは血圧を測定すると,驚くような高さになっています。どの程度の血圧が高血圧なのかについては,かつては年齢+90と言われていて,それであれば安心することもあるのですが,もっと低いという情報もあります。高血圧の基準を低くすれば,降圧剤がよく売れるそうです。そうなると,高血圧の基準は,ひょっとして営利目的で適当に設定されているのではないかという疑念も抱きたくなります。
 そんなことを考えるのは,製薬会社も医学研究者も,営利のためなら何でもやりかねないという不信感があるからです。それは,10年以上前のことですが,大手製薬会社のノバルティスファーマの降圧剤であるディオバン(一般名は,バルサルタン)について,臨床データ不正の事件があったことと関係します(同様の不正事件は,この事件だけではないのですが)。この事件では,この製薬会社の社員が大学の研究者に不正なデータを提供し,それに基づいてその研究者が論文を権威ある学術誌に出して掲載され,そのいわばお墨付きに基づいてディオバンが大ヒットしていました。データ不正を見抜けなかった研究者の責任は重いように思いますが,これをあまり言うと,STAP細胞の笹井教授のようなことが起こりかねません。
 このディオバン事件では,製薬会社とその社員が起訴されて,大学の研究者は検察の証人側に回ったようです。起訴の理由は,薬事法(現在は,医薬品,医療機器等の品質,有効性及び安全性の確保等に関する法律)66条1項違反で,同項は「何人も,医薬品,医薬部外品,化粧品,医療機器又は再生医療等製品の名称,製造方法,効能,効果又は性能に関して,明示的であると暗示的であるとを問わず,虚偽又は誇大な記事を広告し,記述し,又は流布してはならない」と定めています。これに反すると刑罰が科され(85条),法人に対する両罰規定もあります(90条)。問題となったのは,学術論文に掲載させたことが,66条で禁止されている広告に該当するのかです。2021628日に出た最高裁の第1小法廷判決(平成30年(あ)1846号)は,同項の規制する「記事を広告し,記述し,又は流布」する行為とは,「特定の医薬品等に関し,当該医薬品等の購入・処方等を促すための手段として,不特定又は多数の者に対し,同項所定の事項を告げ知らせる行為」であり,学術雑誌への論文の掲載は,「特定の医薬品の購入・処方等を促すための手段としてされた告知とはいえない」として,原審の無罪判決を支持し,上告を棄却しました。山口厚裁判長(刑事法の専門の元東大教授)は,補足意見として,「本件におけるような学術論文の作成・投稿・掲載を広く同項による規制の対象とすることは,それらが学術活動の中核に属するものであり,加えて,同項が虚偽のみならず誇大な『記事の記述』をも規制対象とするものであることから,学術活動に無視し得ない萎縮効果をもたらし得ることになろう。それゆえ,その結果として,憲法が保障する学問の自由との関係で問題を生じさせることになる。このことを付言しておきたい。」と述べています。
 憲法学の観点からは,薬事法661項は,広告規制であり,言論・表現の自由を制限するという視点が問題となります。また学術論文への掲載の準備段階でのデータにおける不正を問題とする点では,学問の自由にも関係しうるものです。もちろん不正行為が許されるわけではないのですが,今回の問題の背景には,論文を執筆した研究者側と製薬会社側との間のズブズブの関係がありそうです。私たちが求めているのは,正しいデータに基づき効果が確認された薬が使われるようにすべきということなのであり,それさえできれば研究者と業界が協力するのはかまわないと思うのです。本事件後に,臨床研究法が制定されて,一定の対応が取られているようです(https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000163417.html)が,根本的には,研究者のモラルにかかっているのかもしれません。データを提供した側が,営利企業の社員であることからすると,そのデータを活用した論文を書くことの危険性はわかっていたはずです。その道義的,あるいは学術的な責任は重いような気もします。今回,最高裁は,こうした事例に刑事罰を発動することがもたらす,まっとうな学術活動への萎縮的効果を心配し,適切な処理をしたと考えられますが,これは良い裁判長であったことにも関係しています。違う裁判官であれば,薬は人の生命や健康にかかわるようなことである以上,その責任は重いとして,66条1項の構成要件を広く解釈する立場をとることもあるかもしれません。日本国憲法には明文で規定はないものの,健康の権利は,憲法13条の幸福追求権や25条の生存権に含まれているとして,表現の自由や学問の自由と匹敵するものであるというような視点で解釈すると,今回の最高裁判決とは違った結論が出てくるかもしれません。もちろん,こういう解釈はやや無理があるのかもしれませんが,社会を大きく騒がせ,医師の処方する薬に対して重大な不信をもたらした事件であることを考慮すると,関与した研究者たちは,表現の自由や学問の自由にとてつもない大きな危険をもたらしたということを,よく自覚してもらわなければならないでしょう。たんに製薬会社側が無罪になったのはけしからんというようなことではなく,そして裁判所がそうした社会に漂う情緒的なムードに流されずに冷静な判断をしたことは,法の番人としてきわめて重要なことであるのですが,一方で,私たちはほんとうの問題は何であったかをしっかり見極めることが必要であるように思います。いずれにせよ,研究不正について,法がどのように関わることができるかを考えるうえで,きわめて興味深いテーマを提示した事件だと思います。
 さて,高血圧はやはり怖いのですが,血圧を下げるのは,できるだけ薬に頼らずに,運動や食事によって頑張りたいです。

*憲法の議論については,木下昌彦「研究不正と営利的言論の法理ディオバン事件における薬事法661項の解釈論争を素材として」論究ジュリスト2568頁(2018年)を参照。
*業界の事情については,上昌広『医療詐欺』(講談社+α新書)の第1章「先端医療と新薬を支配する『医療ムラ』は癒着と利権の巣窟」を参照。

2023年2月 5日 (日)

『解説 改正公益通報者保護法(第2版)』

 山本隆司・水町勇一郎・中野真・竹村知己著『解説 改正公益通報者保護法(第2版)』(弘文堂)を,著者の1人である水町さんからお送りいただきました。いつも,どうもありがとうございます。
 初版は2020年改正後すぐに刊行されましたが,その後の指針やガイドラインの改正を取り込み,早くも第2版が刊行されました。同法の重要性はますます高まっているので,タイムリーな改訂は実務上もたいへん役立つと思います。
 ところで,公益通報者保護法をめぐっては,先日も書いたように,神戸労働法研究会で神社本庁事件・東京高裁判決について議論をしました。そのときに出てきた論点の一つとして,あの事件は背任罪であったのですが,一般に,労働者が通報しようとする事実が通報対象事実に該当するかどうかをどのように判断するのか,ということです。背任罪は,「他人のためにその事務を処理する者が,自己若しくは第三者の利益を図り又は本人に損害を加える目的で,その任務に背く行為をし,本人に財産上の損害を加えたとき」に成立するものです(刑法247条)が,任務違背行為,図利加害目的のような解釈が難しい構成要件があるので,通報者にとっては,通報対象事実該当性の判断に迷うこともあるのではないかと思います(ただし,上記の事件では,通報者は公益通報者保護法を意識して通報したわけではなかったので,背任罪に該当するかどうかは,通報の段階では関係なかったのですが)。
 もちろん通報対象事実に該当しなくても,公益通報者保護法とは別に,一般の労働法の規定や法理が適用可能なのですが,公益通報者保護法には,労働者に対して保護を与えることにより,安心して公益通報できるようにするという目的がある以上,同法の保護要件はできるかぎり明確である必要があると思います。
 この点について,本書は,通報にかかる不正行為が通報対象事実に該当するか否かを判断することが難しい場合には,消費者庁のウェブサイトに検索ワードを入れると関連する法律が出てくる場合があるとか,消費者庁や弁護士の相談窓口を利用することが「考えられる」とか,ちょっと突き放した感じの説明をしたうえで,「もっとも,現実には,通報をしようとする者にとって,弁護士等に相談して調べることはハードルが高い」と歩み寄ってきて,でも最後は,消費者(労働者?)も事業者も,「通報の対象となる不正行為を社会通念に照らして判断した際に,違和感を覚えるか」という観点から対応を検討するというアプローチも「考えられる」という,再びやや突き放したような結論になっています(135136頁)。社会通念というのは,いかにも庶民も使える概念のようですが,実は法律用語でもあり,その判断自体,実は法律のプロがやるようなことです。ということで,これでは通報者にとって救いとならないのですが,現行法を前提とすると,これ以上の説明はできないのでしょう。
 とはいえ,通報対象事実該当性は,保護要件に関することなので,もし自分が通報をしようと考えているならば,どうすればよいかを具体的に明示してほしいと思うでしょう。「こういう方法も考えられる」というような曖昧なことを知りたいのではないのです。この点が明確でなければ,通報者も,事業者も,この法律に基づいた対応はできないでしょう。この法律が機能するためには,政府は早急にアプリを開発し,通報しようとする事実を具体的に入力すれば,AIが通報対象事実に該当するかをチャットボットで回答してくれるくらいのことができなければならないでしょう。その他の保護要件もできるだけ事前に回答してくれるアプリを開発すべきです。こうしたツールがなければ,通報者にとっては,危なくてなかなか通報できません。もちろん,この法律がきっかけで,事業者が自発的にコンプライアンス体制を幅広に整備していくという効果は期待できるのですが,それだけなら,わざわざ法律を作らなくても,政府が広報活動をしっかりやることで十分です。
 公益通報者保護法違反の裁判が増えるというのは,本来は同法の失敗なのであり,いかにして裁判に至らずに企業の不正行為をなくしていくかを法の目標としなければなりません。保護要件が明確ではなく,裁判をしてみなければわからないということになると,この法律は失敗なのです。かつて公益通報(内部告発)においては,内部通報前置主義を重視する考え方を,公益通報者保護法が制定される「前夜」に編著者として関わった『コンプライアンスと内部告発』(2004年,日本労務研究会)の第6章で書いていますが,その趣旨は,裁判による解決ではなく,法が企業の行動を変容させるインセンティブを付与するように制度設計すること(企業が,内部通報体制を整備すれば免責されやすくするようにすることなど)が必要であり,そのためにも保護要件の明確は必須の前提といえるでしょう。
 いずれにせよ,現在の公益通報者保護法を批判するうえでも,まずは同法の内容をしっかり理解する必要があり,その点で本書は貴重な情報を提供しているもので必読文献といえるでしょう。

2022年12月13日 (火)

自由意思とは何か

 先日,ナッジ(Nudge)のことをとりあげたのですが,ナッジの議論の前提にある人間の認知バイアスを知れば知るほど,法学の議論の前提にある「意思」とは,いったい何なのかということを考えさせられます。ナッジは個人の自由な選択を制限していないとはいえ,それは誘導された意思でもあるのです。はたして,それが自由意思なのか,ということです。
 ところで,労働法では,非対等な当事者についても「契約」の土俵に載せてしまうため,弱い立場の労働者の自由意思論は非常に重要なテーマとなっており,判例上も議論されています(例えば,シンガー・ソーイング・メシーン事件・最高裁判所1973119日判決,拙著『最新重要判例200労働法(第7版)』(弘文堂)の92事件)。判例上,労働者に不利益な意思表示については,自由な意思の存否が問題とされてきています(上記の最高裁判決は,労働者の退職金債権の放棄が,賃金全額払いの原則に反しないかという論点に関するもの)。法令について「自由な意思」で検索をかけると,施行規則レベルですが,医療関係のインフォームド・コンセントの文脈で二つほどヒットしました(再生医療等の安全性の確保等に関する法律施行規則8条の25号,臨床研究法施行規則95号)。
 現在,統一教会問題で,消費者救済のための法律の整備が問題となっていますが,新たに制定された「法人等による寄附の不当な勧誘の防止等に関する法律」では,その第3条で,「法人等は,寄附の勧誘を行うに当たっては,次に掲げる事項に配慮しなければならない」とし,その1号で,「寄附の勧誘が個人の自由な意思を抑圧し,その勧誘を受ける個人が寄附をするか否かについて適切な判断をすることが困難な状態に陥ることがないようにすること」となっています。マインドコントロール下での意思表示の有効性については,従来の契約論では対処が困難ですが,今回改正された消費者契約法とは別に,寄付勧誘を規制する立法をすることによって,自由意思の抑圧行為を防止しようとしています(「配慮」義務という形にしたことも議論となっていて,法の実効性確保という,これまた労働法上の重要な論点と関係しています)。
 自由な意思が抑圧されると,適切な判断をすることが困難な状態に陥るおそれがあるということですが,そこで抑圧される自由な意思とは何かは,よくわからないところがあります。私は自由意思という「フィクション」にこだわった議論をすべきではないという立場から,「労働契約における対等性の条件―私的自治と労働者保護」という論文を,西谷敏先生の古稀記念論文集『労働法と現代法の理論(上)』(2013年,日本評論社)415頁以下で執筆しました。労働者ができるだけ自律な意思決定ができるようにするためには,どうすればよいかを考えるべきであるという問題意識をもって,使用者による情報提供や説明を中心に据えた議論をしています(現在では,私は「納得同意」という言葉を使っています)。
 一方,民法の契約論における「意思」をめぐっては,どのような議論状況であるのかも知りたいところです。第18回商事法務研究会賞をとった池田悠太さん(東北大学准教授)の「事実的基礎としての意思とその法的構成:サレイユ民法学における法学的なもの(1)-(10・完)」(法学協会雑誌137巻9~12号,138巻2~7号)は,サレイユの法人論研究をとおして,法人の権利主体性に切り込んでいった大作ですが,そこでも意思とは何かということが問題となっています。法人の意思とは何かは難問です。これはAIの権利主体性の話にもつながります。
 いずれにせよ,意思や自由意思というのは,法学以外の人からすれば,得体の知れない概念かもしれませんが,なぜ法学がその概念を大切にするのかは,これを批判する立場からも,とても重要なことです。これは私には手に余るテーマですが,いつか採り上げてみたいと思っています。

2022年11月21日 (月)

近代法と日本

 前回の学部の少人数授業では,小塚荘一郎さんの『AIの時代と法』(岩波書店)の最終章「法の前提と限界」を読んで議論をしました。私は主たる教材は,拙著『デジタル変革後の「労働」と「法」』(日本法令)をつかっているのですが,これは主として予習・復習用で,授業の中では,関連する文献を指定して議論をするということにしています。今回の小塚さんの本は,2年生相手にデジタル技術と法の問題を考える際の非常に良い教材と思って指定しました。デジタル技術との関係だけでなく,一般的な「法の前提と限界」論の勉強にもなります。
 最終章のはじめに,「科学技術の発展によって新しい状況が出現したとき,専門家の中には,『それに適合した新しい枠組みが必要だ』と言い出す人と,『これまでも似たような状況はあった』と主張する人が,常に現れる」と書かれています(200頁)。デジタル技術と労働という問題においても同様で,私は新しい枠組み派ですが,従来の枠組みを活用しようとする人のほうが多数でしょう。後者は解釈論でなんとか対応しようとする人もいれば,立法をする際も従来の延長線上でという人もいます。従来枠組み派のほうが,法的安定性という点でも,また立法を手早く,比較的容易にできるという点でもメリットがありますが,法の内容が時代後れとなる危険性が高いというデメリットもあります。
 また小塚さんの本は,日本では,欧州から継受した近代法を,「サイズの合わない既製服」であるという意見があることを紹介し,その理由について,近代法の沿革やそれを日本が継受した経緯を簡潔にまとめて説明してくれています。これも学生にとって良い勉強になったと思います。
 また日本の多くの経営者は,「法的な義務がなくとも,ステークホルダーの理解を得て,納得してもらうことが必要である」と考えているとします(218頁)。ここでいうステークホルダーには従業員も含まれます。小塚さんは,日本ではこういう法的な義務ではない規範があるところに,権利・義務の体系で成り立っている近代法と違うものがあると指摘しています(220頁)。私が『人事労働法』(弘文堂)で展開している納得規範は,これを法的な義務論に組み入れていくものであり,その意味で近代法から逸脱していることになるのでしょう。周回遅れのポストモダンということでしょうかね。

 

2022年11月11日 (金)

死刑を軽く語るな

 葉梨康弘法務大臣の「死刑はんこ」発言が問題となっていますね。このブログを書いている途中に更迭というニュースが飛び込んできました。当初,首相は個人の説明責任の問題ということで,いつものように任命責任を放棄していました。国民が選んだ議員ポストの辞職とは違って,大臣は首相自身で選んだのですから,首相自ら責任をとるべきです。最初からスパッと更迭しておけばよかったのですが,いろいろ言われてから更迭ということですと,首相もやはり事の重大性がわかっていなかったと思われても仕方がありません。いずれにせよ,山際氏にしてもそうですが,大臣の質が悪いのであり,自民党の人材不足は深刻に思えますね。
  葉梨氏は,問題が起きた当初は,発言全体を聞いてもらうと,法務行政の重要性を指摘したことがわかってもらえると反論していましたが,問題はそこではなく,死刑をジョークのようにして語る人権意識の希薄さです。そこに,この人の大臣不適格性があるのです。更迭は当然ですが,首相も同じように人権意識が低いと思われても仕方がないでしょう。なお葉梨氏は発言を撤回しているようですが,撤回ということの意味がよくわかりません。
  ところで,刑事訴訟法475条では,第1項で,「死刑の執行は,法務大臣の命令による」,第2項で,「前項の命令は、判決確定の日から6箇月以内にこれをしなければならない。但し、上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であった者に対する判決が確定するまでの期間は,これをその期間に算入しない。」とされています。
 かつて鳩山邦夫が,法務大臣のときに,死刑を自動的に行うべきとした発言に民主党議員がかみついたことがありました。死刑は,法務大臣の責任でやるべきことであるということでしょう。死刑判決が裁判で確定しているのなら,むしろ淡々と行うべきということかもしれません。そうだとすると,淡々とハンコを押しそうな大臣のほうがよいことになるのかもしれません。
 しかし,それはやはりおかしいのです。鳩山邦夫の言葉のほうが,人間としてまともです。死刑という制度には,いろいろな考え方がありますし,イタリアのように死刑がない国もあります。個人の死生観にもかかわるでしょう。そう簡単に死刑の命令を出せるわけがないというのは,人間として当然です。そこを,自分自身で事件を精査し,自身を納得させ,遺族感情もふまえて心を鬼にし,最後には法の執行という自分の責務に忠実であるべきと言い聞かせてハンコを押すのでしょう。国家により禁止している殺人を,刑罰としてであれ命じるということの重みをかみしめない人は,法務大臣としてふさわしくありません。もっと言えば議員としてもどうかな,と思います。選挙民は,よく考えて投票してもらいたいです。

2022年10月 1日 (土)

営業秘密侵害罪

 かっぱ寿司を経営するカッパ・クリエイトの田辺社長が逮捕されました。容疑は,不正競争防止法の営業秘密侵害罪だそうです(21条)。法人も両罰規定(22条)により送検されるようです。
 報道されているところによれば,はま寿司の取締役であった田辺社長が,カッパ・クリエイトに移籍することになり,それにともない仕入れ先データなどを持ち出して,社内で共有し,使用したということのようであり,これをサポートした社員も逮捕されています。かっぱ寿司も,はま寿司も行ったことがありません(どちらも,神戸にはほとんど店舗はないようです)が,両者は似たビジネスモデルを採用していたそうで,ライバルに差をつけられていたかっぱ寿司はかなり危機感をもっていたようです。いかによい品質のネタを安く仕入れるかが勝負の業界だそうで,そうなると,仕入れ先のデータは,業績に直結する最重要データなのでしょう。それを盗まれては,たまったものではありません。同業他社間の移籍となると,当然,こういう秘密持ち出しの危険性は出てくるわけですが,これまで耳にすることが多かった,従業員による技術情報の持ち出しのケースとは異なり,経営幹部が仕入れ先などの営業情報の持ち出しをしたということで,カッパ・クリエイトの企業イメージは大きな打撃を受けることになるでしょう。営業秘密侵害罪では,たとえば営業秘密の取得は「十年以下の懲役若しくは二千万円以下の罰金に処し,又はこれを併科する」となっていて,決して軽い犯罪ではありません(211項柱書)。営業秘密の取得についての法人に対する罰金は,5億円以下となっています(2212号)。
 営業秘密の定義は,「秘密として管理されている生産方法,販売方法その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報であって,公然と知られていないもの」(2条6項)で,秘密管理性,有用性,非公知性という3要件が定められています。実際には,営業秘密とは何かをめぐって争われることもあります。企業としては,事後的に,損害賠償請求をしたり(不正競争防止法では,立証活動の困難性を考慮して,損害額の算定規定があります[5条]),行為者や法人に処罰を求めたりするよりも,事前に侵害を防止することが大切であり,そのためにも秘密管理の強化が求められることになるでしょう。労働法的には,退職時に秘密保持契約を厳格に結んだときの,その有効性というのが典型的な論点としてありますが,実は,これは民法90条の公序良俗違反という一般条項を用いるものにすぎず,その有効性の判断基準は明確ではありません。労働法では,この問題はむしろ不正競争防止法の問題であるという意識が強く,授業でもほとんど扱わないように思います。
 秘密保持契約を結ぼうが,不正競争防止法での刑事罰の厳格化がなされようが,一定の効果は期待できるもののやはり限界があり,根本的な解決手段は,データの持ち出しをいかにしてテクノロジーで阻止するかにかかっているように思います(デジタル・フォレンジック(Digital forensics)の導入なども予防効果があるでしょう)。

2022年9月24日 (土)

警察官の発砲

 2日前の深夜に近所で発砲事件がありました。某○○組の本拠地だったところが近くにあるので,抗争が始まれば怖いなと思っていたのですが,実は発砲したのは警察官で,コンビニの近くでカッターナイフをもって暴れていた男に対するものでした。3発撃って,1発は下腹部にあたったのですが,あとの2発は外れたということで,もしその場に居合わせていたらと思うとぞっとします。
 カッターナイフでも十分に殺傷能力はあるのですが,発砲までする必要があったのかはよくわかりません。ナイフをもった者には,まずはさすまたで対応と思いますが,手元になかったのでしょうかね。日中もっと人が多い時間でしたら,拳銃はぎりぎりまでやめてもらいたいので,警察官にはナイフ男を抑えるだけの技を身につけてもらいたいものです。
 とはいえ,これをあまり言い過ぎるのも問題があるのはわかっています。むしろ日本の警察官は発砲しないというという評価がかなり定着しているので,それを見越して凶悪な犯人が行動をエスカレートさせる危険があるからです。
 市民としては,凶器をもって暴れている者に対して発砲をするのは仕方ないと思う一方,発砲せずに抑えられる技をできるだけ身につけてもらいたいし,やむを得ず発砲するならしっかり犯人に命中するようにしてもらいたいです。
 実は警察官の武器使用については,警察官職務執行法7条に次のような規定があります。
警察官は,犯人の逮捕若しくは逃走の防止,自己若しくは他人に対する防護又は公務執行に対する抵抗の抑止のため必要であると認める相当な理由のある場合においては,その事態に応じ合理的に必要と判断される限度において,武器を使用することができる。但し,刑法……第三十六条(正当防衛)若しくは同法第三十七条(緊急避難)に該当する場合又は左の各号の一に該当する場合を除いては,人に危害を与えてはならない。
 一 死刑又は無期若しくは長期三年以上の懲役若しくは禁こ(ヽ)にあたる兇悪な罪を現に犯し,若しくは既に犯したと疑うに足りる充分な理由のある者がその者に対する警察官の職務の執行に対して抵抗し,若しくは逃亡しようとするとき又は第三者がその者を逃がそうとして警察官に抵抗するとき,これを防ぎ,又は逮捕するために他に手段がないと警察官において信ずるに足りる相当な理由のある場合。
 二 逮捕状により逮捕する際又は勾引状若しくは勾留状を執行する際その本人がその者に対する警察官の職務の執行に対して抵抗し,若しくは逃亡しようとするとき又は第三者がその者を逃がそうとして警察官に抵抗するとき,これを防ぎ,又は逮捕するために他に手段がないと警察官において信ずるに足りる相当な理由のある場合。」
 つまり,警察官は,犯人の逮捕や逃走の防止,自分や他人の防護,または公務執行に対する抵抗の抑止のために「必要であると認める相当な理由のある場合」には,「その事態に応じ合理的に必要と判断される限度」において,武器の使用が認められるのです。
 この規定をめぐって,最高裁は,1999217日の判決で,警察官が武器使用で市民Aを死亡させたケースで,特別公務員暴行陵虐致死罪(改正前の刑法196条)で有罪(懲役3年,執行猶予3年)とされた事件において,次のように述べて,発砲について違法と判断しています。
 「Aが第二現場以降前記ナイフを不法に携帯していたことが明らかであり,また,少なくとも第三,第四現場におけるAの行為が公務執行妨害罪を構成することも明らかであるから,被告人[筆者注:警察官]の二回にわたる発砲行為は,銃砲刀剣類所持等取締法違反及び公務執行妨害の犯人を逮捕し,自己を防護するために行われたものと認められる。しかしながら,Aが所持していた前記ナイフは比較的小型である上,Aの抵抗の態様は,相当強度のものであったとはいえ,一貫して,被告人の接近を阻もうとするにとどまり,被告人が接近しない限りは積極的加害が為に出たり,付近住民に危害を加えるなど他の犯罪行為に出ることをうかがわせるような客観的状况は全くなく,被告人が性急にAを逮捕しようとしなければ,そのような抵抗に遭うことはなかったものと認められ,その罪質,抵抗の態様等に照らすと,被告人としては,逮捕行為を一時中断し,相勤の警察官の到を待ってその協力を得て逮捕行為に出るなど他の手段を採ることも十分可能であって,いまだ,Aに対しけん銃の発砲により危害を加えることが許容される状况にあったと認めることはできない,そうすると,被告人の各発砲行為は,いずれも,警察官職務執行法七条に定める『必要であると認める相当な理由のある場合』に当たらず,かつ,『その事態に応じ合理的に必要と判断される限度』を逸脱したものというべきであって(なお,仮に所論のように,第三現場におけるけん銃の発砲が威嚇の意図によるものであったとしても,右判断を左右するものではない。),本件各発砲を違法と認め,被告人に特別公務員暴行陵虐致死罪の成立を認めた原判断は,正当である」。
 Aは近所でも不審人物とされていたようで市民から不安視する声が出ていたなかでの事件だったのですが,発砲は行き過ぎだということです。「必要であると認める相当な理由のある場合」や「その事態に応じ合理的に必要と判断される限度」は,判断が難しい基準に思えますが,発砲には厳しい制限をかける趣旨であることはうかがわれます。今回のケースも,法に照らして,適正に対応してもらう必要があります。そして,その結果については,市民,発表されて負傷した人,また起訴するなら当該警察官にも,当局側が納得のいくように説明をしてもらいたいです。いずれにせよ,警察官には,市民の安心と安全のために大きな期待を寄せていることに変わりはありません。

2022年8月 9日 (火)

契約と信頼とブロックチェーン

 フリーワーカーの時代になったときに,一つの障壁となるのは,日本に契約文化が根付いていないことに起因する問題です。日本人は,自分で契約書をかわして取引をするのに慣れていない人が大半であり,フリーワーカーとして契約社会にいきなり放り込まれると,いろいろなトラブルが起こる心配があります。私はフリーワーカーの契約の書面化を義務づけることを提案してきましたが,実は書面化しても,契約内容を理解するリテラシーに欠けていれば,かえって危険です。相手はできるだけ契約をうまく締結して,自分の利益を守ろうとするわけで,裁判となれば,そういう「プロ契約者」に負けてしまうのです。そのため,フリーワーカー時代の今後の教育という点では,法律や契約のリテラシーの学習が必要だということを,私は前から提案しています。
 根底にあるのは,日本人の契約リテラシーの低さです。ここでいう契約とは,口約束のようなものではなく,きちんと書面でかわしたものが想定されています。もちろん法的には,ほとんど契約は諾成契約でよく,書面などの要式性を欠いても契約は成立します(民法522条を参照)が,いざトラブルになったとき,口約束では,裁判所で契約内容を証明できないことが多いでしょう。逆に言うと,裁判を必要とするようなトラブルが起こらないという信頼関係があれば,契約書などをいちいちかわす必要はないともいえます。
 契約書というのは,信頼関係がない人と取引するからこそ必要となるものなのです。それは逆の視点からいえば,信頼関係がなくても契約書があれば取引ができるので,取引の範囲を広げることができるともいえます。日本でも借家契約では契約書をかわしますが,これにより,大家さんは見ず知らずの人にも家を貸すことができます(もちろん,それだけでは不十分なので,いろいろ信用調査をしたり,保証人をつけたり,敷金をとったりするのですが)。
 しかし,日本社会は,かつては,多くの取引が,社会のなかの構成員相互の目が届く範囲でなされていて信頼関係があったため(裏切ることが難しかったため),いちいち契約書をかわすといった契約文化が,あまり広がってこなかったのかもしれません。
 インターネットが発達して,クラウドソーシングのようなものが出てくると,見ず知らずの個人と契約をすることになるので,信頼は重要な問題となってきました。”Trust me” と言われても,そのこと自体,信頼できません(鳩山由紀夫が,首相時代にObama大統領に言った,沖縄の米軍基地移設問題をめぐる無責任な発言は有名ですね)。プラットフォームというのは,そういう信頼を担保する存在となるのです。もちろん怪しいプラットフォームを介したクラウドソーシングであれば,取引は広がらないでしょう。これに対し,信頼性のあるプラットフォームには発注側も受注側も人が集まり,ネットワーク効果で,その集中が加速化し,寡占状態が生まれてきて,Winnerーtakesーall の状態が生じることになります。
 それはさておき,フリーワーカーの時代に契約書が重要となるのは,契約書をきちんとかわせないようでは,取引を広げることができないからです。相手方も,どこの馬の骨ともわからないような者と取引をするのですから,しっかり契約書をかわそうとするでしょう。ただ契約書だけでは安心できない面もあります。契約違反の場合の訴訟コストは非常に高いからです。ここを乗り越えることができなければ,フリーワーカーとしての働き方は広がりません。上記のプラットフォームは,この問題の解決方法の一つですが,寡占・独占状態になると,プラットフォーム手数料で足下をみられやすくなります(独禁法で救うことも理論的には可能でしょうが)。
 いま注目されているのは,Trustlessを特徴とするブロックチェーン技術です。この技術は,ビットコインで有名ですが,そこでの分散型信用システムは,チェーンでつながるすべての者により信頼を担保しているようなものです。これからのWeb3.0の時代は,互いに知らない者どうしでも取引をしやすくなります。プラットフォームの「信用保証」のようなものがなくてもいいのです。これにより,取引をはばんでいた様々なリスクやコストが取り除かれていく可能性があるのです。
 Web3.0は,労働の面でもDAO(分散型自律組織:Decentralized Autonomous Organization)のような新たな可能性が指摘されています。DAOについては,日を改めて論じることにしますが,ここではフリーワーカーの就労の主たる舞台が,WEB3.0の主役であるメタバースになる可能性に言及するにとどめます。

契約と信頼とブロックチェーン

 フリーワーカーの時代になったときに,一つの障壁となるのは,日本に契約文化が根付いていないことに起因する問題です。日本人は,自分で契約書をかわして取引をするのに慣れていない人が大半であり,フリーワーカーとして契約社会にいきなり放り込まれると,いろいろなトラブルが起こる心配があります。私はフリーワーカーの契約の書面化を義務づけることを提案してきましたが,実は書面化しても,契約内容を理解するリテラシーに欠けていれば,かえって危険です。相手はできるだけ契約をうまく締結して,自分の利益を守ろうとするわけで,裁判となれば,そういう「プロ契約者」に負けてしまうのです。そのため,フリーワーカー時代の今後の教育という点では,法律や契約のリテラシーの学習が必要だということを,私は前から提案しています。
 根底にあるのは,日本人の契約リテラシーの低さです。ここでいう契約とは,口約束のようなものではなく,きちんと書面でかわしたものが想定されています。もちろん法的には,ほとんど契約は諾成契約でよく,書面などの要式性を欠いても契約は成立します(民法522条を参照)が,いざトラブルになったとき,口約束では,裁判所で契約内容を証明できないことが多いでしょう。逆に言うと,裁判を必要とするようなトラブルが起こらないという信頼関係があれば,契約書などをいちいちかわす必要はないともいえます。
 契約書というのは,信頼関係がない人と取引するからこそ必要となるものなのです。それは逆の視点からいえば,信頼関係がなくても契約書があれば取引ができるので,取引の範囲を広げることができるともいえます。日本でも借家契約では契約書をかわしますが,これにより,大家さんは見ず知らずの人にも家を貸すことができます(もちろん,それだけでは不十分なので,いろいろ信用調査をしたり,保証人をつけたり,敷金をとったりするのですが)。
 しかし,日本社会は,かつては,多くの取引が,社会のなかの構成員相互の目が届く範囲でなされていて信頼関係があったため(裏切ることが難しかったため),いちいち契約書をかわすといった契約文化が,あまり広がってこなかったのかもしれません。
 インターネットが発達して,クラウドソーシングのようなものが出てくると,見ず知らずの個人と契約をすることになるので,信頼は重要な問題となってきました。”Trust me” と言われても,そのこと自体,信頼できません(鳩山由紀夫が,首相時代にObama大統領に言った,沖縄の米軍基地移設問題をめぐる無責任な発言は有名ですね)。プラットフォームというのは,そういう信頼を担保する存在となるのです。もちろん怪しいプラットフォームを介したクラウドソーシングであれば,取引は広がらないでしょう。これに対し,信頼性のあるプラットフォームには発注側も受注側も人が集まり,ネットワーク効果で,その集中が加速化し,寡占状態が生まれてきて,Winnerーtakesーall の状態が生じることになります。
 それはさておき,フリーワーカーの時代に契約書が重要となるのは,契約書をきちんとかわせないようでは,取引を広げることができないからです。相手方も,どこの馬の骨ともわからないような者と取引をするのですから,しっかり契約書をかわそうとするでしょう。ただ契約書だけでは安心できない面もあります。契約違反の場合の訴訟コストは非常に高いからです。ここを乗り越えることができなければ,フリーワーカーとしての働き方は広がりません。上記のプラットフォームは,この問題の解決方法の一つですが,寡占・独占状態になると,プラットフォーム手数料で足下をみられやすくなります(独禁法で救うことも理論的には可能でしょうが)。
 いま注目されているのは,Turstlessを特徴とするブロックチェーン技術です。この技術は,ビットコインで有名ですが,そこでの分散型信用システムは,チェーンでつながるすべての者により信頼を担保しているようなものです。これからのWeb3.0の時代は,互いに知らない者どうしでも取引をしやすくなります。プラットフォームの「信用保証」のようなものがなくてもいいのです。これにより,取引をはばんでいた様々なリスクやコストが取り除かれていく可能性があるのです。
 Web3.0は,労働の面でもDAO(分散型自律組織:Decentralized Autonomous Organization)のような新たな可能性が指摘されています。DAOについては,日を改めて論じることにしますが,ここではフリーワーカーの就労の主たる舞台が,WEB3.0の主役であるメタバースになる可能性に言及するにとどめます。

2022年8月 6日 (土)

人権デューディリジェンスガイドライン

 ビジネスと人権は,ホットなテーマです。季刊労働法276号で,特集されていた「労働と人権をめぐる新たな動き」でも,岡山大学の土岐将仁さんが「ビジネスと人権」という論文を執筆しており,これは,このテーマの最新の状況を知るうえでの重要文献です。
 ところで85日に,人権デューディリジェンスに関するガイドライン案が出されたということが報道されていました。私も,ビジネスガイド(日本法令)で連載中の「キーワードからみた労働法」の最新号では,「企業の社会的責任」というテーマを採り上げて,そのなかで,このテーマも扱っています。いまさらCSRかと言われそうですが,これは,いま一度注目されるべきものだと考えて,いろんな論考で言及しています。
 法的な強制があるかどうかに関係なく,サプライチェーンにおける人権侵害の有無に敏感になることは,企業の社会的責任として強く要請されるものです。もっとも一般の法律家の発想では,社会的責任というだけでは,法的強制力もなく,効果は期待できないということかもしれません。そうしたなか,私は,伝統的な法的手法とは異なる形での政策目的の実現手法に関心をもっており,例えば世界人権宣言にしろ,ILOの中核的労働基準にしろ,こういうものをどうやって企業に実行してもらえるかという手法に関心があります。CSRについてはISO26000のようなガイドライン規格が興味深いですし,国連グローバル・コンパクトは,官民協力の規範実現手法という視点でみることもできます。今回の人権デューディリジェンスガイドラインの詳細はまだよくわかりませんが,国際人権問題について,政府が本格的に国内企業に働きかけるものとして注目されます。
 企業にとっても,政府に言われるまでもなく,ESG投資に傾く投資家(とくに海外投資家)を意識すると,人権問題への対応は必要ですし,ユニクロ商品がアメリカで輸入を差し止められたりした問題などをみると,海外との取引で人権対応は不可欠となっています。ただ,個々の企業だけでは,どうしようもないところもあります。例えば,悪名が海外にとどろいてしまっている技能実習制度の見直しに政府が乗り出そうとしているのは,外国人の人権保障という面だけでなく,こういう評判が立つことで,日本のフラッグが日本企業に不利に働くことを防ぐ必要があるからでしょう。同様の観点から,今回の人権デューディリジェンスへの取組も,ガイドラインであっても,意味があるものなのです。
 もちろん,より重要なのは,こういう取組を実際に人権侵害状況の改善につなげることです。その点で必要とされるのは,企業自身の道徳的・倫理的な責任とされてきたものを,どのように企業を刺激して望ましい行動に誘導していくかという,制度設計をするための知恵です。これからの法律家は,こういう問題にも取り組んでいく必要があると考えています。

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