労働者協同組合と優生思想
一昨日紹介した「わが名はキケロ」という映画では,ナチスの優生政策「T4作戦」も扱われていたことを紹介しました。このおぞましい作戦は後のホロコーストの予行演習となったと言われています。ガス室で何もわからないまま障害のある子どもたちが殺されようとしていたシーンは戦慄を与えるものでした。日本でも,相模原事件と呼ばれる障がい者の大量殺傷事件があり,その背景には優生思想があったと言われています。犯人がどういう動機でこの犯行に至ったのかはよくわかりませんが,資本主義における競争社会において,勝者と敗者が明確につくなか,障がい者をその競争のレールに最初から乗っていないとみなして嫌悪するという屈折した優生思想が,私たちの社会のどこかにあるのかもしれません。そうなると優生思想と資本主義は密接な関係があることになります。そんなことを考えさせられたのが,ときどき採り上げているJT系の「TASC Monthly」という雑誌の551号(2021年11月)に掲載されていた,「ワーカーズコープへの想い」という坂部明浩さんの論説を読んだときでした。この論説では,最近法制化された労働者協同組合を採り上げながら,障がい者中心の協同組合活動のことを紹介されており,そのなかで「いかなる優生思想(の芽)にも抗する強靱でしなやかな地域社会づくり」というスローガン(目的)に言及されていました(なお坂部さんは障がい者に「障碍者」という正しい漢字をあてておられます。私は,通常は「障がい者」とし,法律用語としては法文にしたがって「障害者」を使うことにしています。ときどき混同してしまうこともありますが)。
ところで障害者雇用促進法は,「障害者である雇用労働者」の雇用促進のために事業主に責任を課しており,この面では事業を遂行する企業において生じる強い事業主と弱い労働者という縦の関係にくさびを打ち込もうとする労働法的なつくりを採用しているといえます。資本主義社会で営利企業で働こうとしても,普通の労働者間競争では,簡単に排除されてしまいがちな障がい者に合理的な便宜をほどこして,競争の世界に参入できるようにするという趣旨です(この点がより明確なのが,アメリカの障がい者差別禁止法であるADA[Americans with Disabilities Act]です)。一方,労働者協同組合は,企業とは異なり,「組合員が出資し,それぞれの意見を反映して組合の事業が行われ,及び組合員自らが事業に従事することを基本原理とする組織」であり(労働者協同組合法1条),そこにあるのは,組合員間の横の関係です。そして組合は「持続可能で活力ある地域社会の実現に資することを目的とするものでなければなら」ず(同法3条1項柱書),「営利を目的としてその事業を行ってはならない」とされています(同条3項)。地域への社会貢献を非営利で行うものであり,これは労働の原点となる活動だといえます(労働の原点がこういうものであることは,拙著『デジタル変革後の「労働」と「法」―真の働き方改革とは何か?』(日本法令)でもふれています)。
自らの属する共同体において自己のできる範囲で社会課題の解決に貢献するのが「労働」であるとすると,必ずしも営利社団法人である企業という場で雇用されて働くという形をとらなくてもよいのです。労働者協同組合は,企業に代替しうる「労働」の場の最有力候補といえるでしょう(組合員は労働契約で採用されるとなっていますが,本来は労働契約でなくてもよいと思われます)。そうした労働者協同組合が,障がい者の「労働」の場として適しているという坂部さんの指摘は興味深いものです。
ただ,労働者協同組合の意義は,障がい者以外にも及ぶものです。誰もが取り残されないというSDGsの理念を実現するためにも,何のために労働をするのかという原点に立ち返るべきです。資本主義にどっぷりそまり,競争に勝つことばかりに気をとられ,競争に負けたり,あるいは競争に乗れない人を下にみる人は,実は自分をとても窮屈な世界に閉じ込めているのだということに気づく必要があるでしょう。