日記・コラム・つぶやき

2022年6月11日 (土)

遺憾という言葉

 連日,政府への不満を書いているようですが,言葉を大切にしてほしい,国民を納得させてほしいという渇望からくるものです。ついでにもうひとつ言いたいのは,よく使われる「遺憾である」という言葉についてです。北朝鮮の挑発にも,この言葉が使われたことがあります。今後,ロシアや中国との関係でも,いっそうこの言葉が使われるかもしれません。「遺憾」というのは,どういう意味で使っているのか,よくわからないことが多いです。よくわかっていないこちらのほうが,教養がないのでしょうか。
 私が座右に置いている(でも全部読み切れていない)本の一つに谷沢永一『知らない日本語 教養が試される341語』(2003年,幻冬舎)という本があります。その冒頭に「遺憾に思う」という言葉が出てきます。「日本語で最も悪用されている言葉である」という衝撃的な説明で始まります。遺憾とは,「思いどおりにならず,心残り,残念,惜しいことをした」という意味で,「そこにはお詫びの意味はまったく含まれない」のであり,謝罪の言葉ではないのです。また,他国の暴挙について「遺憾」を使うのはもっとおかしいことになりそうです。著者は,「日本の通用語から『遺憾』という二文字は消すべきだと思っている」とまで書いています。謝罪であれ,抗議であれ,「遺憾」のような相手に伝わらない意味不明の言葉を使わずに,「謝罪」ならきちんと謝る言葉を使い,「抗議」であれば,きちんと「抗議」や「非難」の言葉を使うべきでしょう。ミサイルをめったやたらに飛ばしてくる国に遠慮はいらないでしょう。
 最近の衆議院議員の「パパ活」問題について,与党の幹事長は,「事実としたら大変遺憾なことだ」と述べたと報道されていますが,これも言い直したほうがよいと思います。これは状況からすると,謝罪でも抗議でもないので,そうなると原義のとおり「残念だ」ということになりますが,何がどう残念なのかよくわからないので,取り方によっては,かなり問題議員の肩をもっていることになってしまいます。そういう気遣いをしているのであればともかく,そうでなければ,「遺憾」を使うのは,(政治村では通用する用語だとしても)国民向けにはリスクがあるのではないでしょうかね。

2022年6月10日 (金)

「しっかり」やっているかは国民が判断すべきもの

 以前にブログで,政府の答弁で「しっかり」という言葉を使いすぎることへの不快感を書いたことがあります。中身がないのに「しっかり」というような言葉で,前向きな感じを出しているだけのことが多いからです。昨日書いたこととも関係しますが,外面だけを着飾って,内容がないというのでは困るのです。現政権の岸田首相の答弁も,当初は,前の首相よりは良いと思っていましたが,最近は,不満に思うことが多いです。依然として「しっかり」という類いの言葉が多いです。官房長官はもっとひどいですが(名前もなかなか覚えられませんし,下を向いて話していることが多いので,顔もよくわかりません)。とはいえ,立憲民主党の国会議員が岸田首相の「しっかり」の回数を数えていたという産経新聞の記事をみて,ちょっと笑ってしまいました。1805回だそうです。この議員の言わんとしているところは,わからないではありません。もちろん,回数が問題なのではなりませんが,国民はもう気づいているのではないかと思います。内容のないスピーチは,聞かされるほうが時間の無駄です。
 イギリスのJohnson 首相は,パーティ問題で国内的には危機で,先日も与党内の信任投票にかけられて何とか乗り越えましたが,それでも彼はテレビでみる限りですが,国民に向かって語る姿勢はしっかりわかります。おそらく日本の政治家のようなスピーチをしていれば,とっくの昔に首相から引きずりおろされていたのではないでしょうか。もう一つイギリスでのElizabeth女王のスピーチを特集していたNHKの番組を観たとき,女王がここというとき国民に向かってスピーチをして,国民に勇気や希望を与えるのに(そして王室の威厳の向上に)大きな役割をはたしてきたことを知りました。スピーチの重要性は,彼女の父であるGeorge Ⅵ(ジョージ6世)が吃音であったためスピーチで悩んだ姿を描いた「英国王のスピーチ」という映画を観ればよくわかります。日本でも天皇のスピーチは,国民に語りかけようとする姿勢がみられてよいのですが,政治家にそういうのが弱いのが残念です。
 北朝鮮が何発ミサイルを撃っても,「全力で抗議する」とか「しっかり対応する」とか,そういう言葉を連発するだけです。しかも語調も力強さがなく,どことなく北朝鮮に遠慮しているようにも聞こえます。勇ましければよいというものではありませんが,もうちょっと「しっかり」しろと言いたいところです。国民は,一つ間違って日本の領土に着弾したり,漁船や航空機にぶつかったらどうなるのか,ということを心配しているのです。そういう現実的危機にさらされているという感覚を政府は共有していないように思えてしまうのです。
 「しっかり」という言葉を使うのなら,「国民の皆さんにしっかり対応していると評価してもらえるように努める」という表現に置き換えてもらいたいです。「しっかり」やっているかどうかは,自分でいうのではなく,国民に評価してもらうべきものでしょう。
 「平和のための新しい構想」も,どこが「新しい」のか,具体的に述べてもらわなければ困ります。防衛費の相当な増強って,それのどこが新しいのでしょうかね。ここでも,「新しい」かどうかは,自分でいうのではなく(側近たちの間だけで「新しい」と評価しあっているだけではなく),他人(国民や他国)に評価してもらうべきものではないでしょうか。昨日も書いたように,そういうようにしておかなければ,かえって信用を失うリスクがあることに注意したほうがよいでしょう。

2022年6月 2日 (木)

就活学生へのエール

 昨日の話の続きですが,学生にとって,就活が人生の一大イベントでなければよいのになあ,といつも思っています。たしかに,就職は学生にとって大きな出来事ではありますが,今後,人生で何度も転職しなければならないかもしれません。そもそも人生100年時代は,仕事をしたり,勉強をしたり,ボランティアをしたり,育児や介護をしたり,というような時期を何度も行ったり来たりすることになります。仕事をする時期は,その一部であり,今後は人生のなかに占める割合が徐々に減っていくでしょう。
 そうは言っても,学生は,目の前のことに必死で,藁にもすがる思いで,就活を助けてくれる人を頼ってしまうことがあります。それでうまくいけばと願いますが,これまた老婆心ながら,落とし穴がないかは,よくよく注意をしてもらえればと思います。
 労働基準法6条には,「何人も,法律に基いて許される場合の外,業として他人の就業に介入して利益を得てはならない」という規定があります。他人の就業に介入して(業として)利益を得る行為は,歴史的にみて,人権侵害が起こりやすかったから,こういう規定があります。今日では,職業安定法できちんと(厳しすぎるくらい)規制しているので心配ないかもしれませんが,それでも自分の就職に誰かがビジネスで関与してくることには,どこか危険なところがないかという「危機アンテナ」は張っておいたほうがよいです(自分がお金を払っていなくても,企業側が払っている場合は,それでビジネスとして成立しているし,自分が金蔓にされている可能性はあるのです)。
 もちろん仲介というビジネスは,うまく機能すれば素晴らしいものです。見ず知らずの人をとりもってマッチングするというのは,今後はAIが進出してくる可能性があるとはいえ,やりがいのある仕事であり,社会的価値の高いものです。でも,これも人によります。
 私は雇用仲介サービスを利用した経験はありませんが,賃貸住宅などの仲介サービスは何度か経験があります。物件への不満というのはあまりもったことはないですが,仲介段階で,きちんとした情報提供を受けることができなかったという不満はよくもってきました。実はそれは良い面に転んだときと悪い面に転んだときの両方があるのですが,いずれせよ情報不足のなか,入居してどちらに転ぶかわからないというような状況が残るようでは,良いマッチングとはいえないでしょう(良い面に転んだときは,貸主や売主のほうが,もっと価格を高く設定できたかもしれないという点で損をしており,それも客観的にみれば良い仲介ではないでしょう)。仲介者の方は責任感と倫理観をもって,プロとしてのスキルで,良い仲介をしたと自信をもてるような仕事をしてもらいたいですが,住宅の仲介には物足りないことが多かったのです(例外もありましたが)。就活でのサポートも同様で,もし企業を紹介するのであれば,その紹介先の就業規則の内容を十分に把握しているのは当然のことですし,これにプラスして社風,従業員の男女別の平均勤続年数,年次有給休暇や育児休業などの取得率や平均の所定外労働時間数(青少年雇用情報も参照),過去の労災認定の数(およびその内容),過去の労働裁判の数(および紛争の内容),学閥の有無などの情報もあれば学生には役立つでしょう。単なる数字だけでなく,実態的なところまで伝えてもらう必要があります。入手が困難な情報も多いでしょうが,ほんとうのプロなら,この程度の情報はもっておくべきです。もちろん学生は情報を数多く与えられても,悩んでしまうことが多いでしょう。そこでうまくサポートできてこそ,プロの仕事なのです。
 就活は,これからの長い社会人生活の第一歩にすぎません。それでも,良い企業と出会えて,良い門出ができるに越したことはないのであり,就活学生たちにエール(yell)を送りたいです。

2022年5月27日 (金)

谷川17世名人

 谷川浩司九段が,17世名人を襲位することになりました。すでに名人位5期で引退後には17世永世名人を名乗る資格はありましたが,この4月に還暦を迎え,これまでの抜群の実績を考慮して,中原誠16世永世名人の例にならって,現役での襲位が認められました。谷川九段という呼び名は,いまはすっかり慣れてしまいましたが,最初は違和感がありました。これからは谷川17世名人と呼ぶことになります(叡王の段位戦では九段戦に出るのでしょうね)。
 21歳で史上最年少の名人につき,その記録は,まだ破られていません。藤井聡太竜王(五冠)が,記録を破るかが注目されていますが,その結果は来年わかります。勝利数も羽生善治九段,大山康晴15世名人に続く歴代3位です。その偉大な業績は,まばゆいばかりです。ご本人は30代の時期にもっとタイトルをとれていればと思っておられるようです。ファンもそう思っています。でも,当時の多くの若手棋士が,打倒谷川で襲いかかっていた時期です。そのときでも谷川さんは勝って多くのタイトル戦に登場してきたのです。あと一歩でタイトルがとれなかったものもたくさんあります。谷川17世名人は,羽生九段と異なり,勝負術という点では長けているとはいえません。もっと勝負術に長けていれば,もっと多くのタイトルをとっていたでしょう。でも,そういう泥臭い勝負をしないのが谷川将棋でした。タイトル27期は,数字的にはやや物足りないですが(それでも羽生,大山,中原,渡辺明名人に次ぐ歴代5位),ファンは「光速の寄せ」にこだわり,かかんに攻め込んでいった谷川勝利に魅了されてきたのです。
 ところで谷川さんが還暦ということは,1歳違いの私ももう少しで還暦に近づくということになるのですが,労働法の世界では,どうも還暦になると何かお祝いをするという慣習があり(かつてのように本を刊行するということはさすがになくなってきていると思いますが),弟子や下の人たちがいろいろと気をまわさなければならないようです。谷川さんのように,たぐいまれな業績があり,それに敬意を表して永世名人を襲位するのは,とても素晴らしいことです。
 しかし,研究者が研究以外のことで,たんに年齢到達や叙勲などでお祝いをされるというのは,なんとなく感覚的に受け付けません。研究以外で社会貢献などをしっかりしていて,その貢献に対して,お祝いをするというのであれば理解できます。実は多くの研究者は,そういう社会貢献をしっかりしてきているので,その面でのお祝いをするのにふさわしいのだと思います。私のように自分の好きな研究をやってきているだけのような人は,主観的には,少しは社会課題の解決に貢献しているつもりではありますが,実際には害悪をばらまいている可能性もあるので,その評価は死んだときにしてもらえればと思っています。
 ところで,そういう私も,昔は他の先生の還暦祝いなどをやってしまったことがあり,いま思えば,その先生はおそらく望んでおられなかったのに,無理強いしてしまったのではないかと悔やんでいます(そのときの気持ちは怖くて聞けません。最近,このセリフが多いですが)。正直にいうと,無理強いしてもよいのではというお節介な気持ちをもっていたのですが,これは独善的なことで,本人の迷惑を考えず,結局,やったほうの自己満足でしかなかったのではないかと猛省しています。若気の至りでした。尊敬する先生方にできることは,学問で恩返しをすることしかないのです。

2022年5月21日 (土)

一太郎派

 山口県のどこかの町の誤送金が問題になっています。詳しい事情はわかりませんが,公金の扱いが杜撰であったことは間違いがないわけで,町長はかなりの責任を負わなければならないでしょう。こういう作業は途中で関わる人が増えるほどエラーが起こりやすいので,根本的にやり方を変えるべきでしょうね。報道によると,フロッピーディスクが使われていたということですが,そんなものはここ数年見たことがないので,まだ使われていたのが驚きです。デジタル化とかという以前のレベルで,よくそれで行政サービスができているなと思いますが,こういうのが日本の実情なのでしょうね。
 ところで,パソコンソフトの「一太郎」もまた,フロッピーディスクほどではないにせよ,絶命危惧種と呼ばれているようです。私は役所のようだとバカにされながらも,というか今では役所も使っていないと言われながらも,一太郎好きを公言しています。実際にはWordもかなり使っているのですが,原稿を書くときには,一太郎のほうが使いやすいので,一太郎を愛用しています。一太郎で書いた文書は,Wordで保存もできるので,相手によってはWordで送ったりしますが,文書作成のときは一太郎を使うことが多いのです。辞書もずっと使っているATOKです。日本法令の「キーワードからみた労働法」は,いまでも一太郎のままで原稿を送っているのですが,もしかしたら編集者に迷惑をかけているのかもしれません。15年も続けているので,実は困っていたのですと言われるのが怖くて,聞かないことにしています。ただ現在では,音声入力をするときは,Wordのほうがやりやすいため,最初からWordで書く割合はきちんと数えれば8割くらいになってきているかもしれませんが,しっかりした原稿を書こうとするときは一太郎なのです。
 一太郎とWordの併用と同様,私はノートパソコンも,Surface(Windows10)とMacを併用していて,これも大変です。基本的にはSurfaceなのですが,リモート会議などではMacのほうが画像がよいし,iPad やiPhoneを使っているので,その連携という点でもMacのほうがよいです。ということで,Macで文書を作成することもよくあるのですが,キーボードの配置や入力方法が違うので,最初は混乱していました(カタカナへの変換の仕方など)。いまではMacもかなり使いこなせるようになりましたが,ただ保存ファイルがどこにあるかわからなかったりするなど,1年以上使っていてもまだ十分に習熟していません。もっとも,いまは少しでもわからないことがあれば,ネットで調べればすぐに答えが出てくるので,あまり苦労しません。というか,それを当てにして,真剣に学習しようとしていないところもあります。これって,ネット時代の学生が真剣に勉強しなくなるのと同じことなのかもしれませんね。

2022年5月19日 (木)

ローカル鉄道

  関西ローカルな話です。
 516日の日本経済新聞の春秋で,「先月,JR西日本が公表した採算性の低い30の区間には同線の谷川―西脇市の約17キロメートルが含まれ,地元では存続を危ぶむ声が強まっている」という記事が出ていました。私は母方の実家は社町(やしろちょう)駅が最寄りで,父方の実家の最寄りは加古川駅だったので,幼いときは,加古川から加古川線に乗って北上して社町駅まで行ったことが何度かありました。西脇市駅までは行ったことがなく,さらに谷川駅となると未知の地なのですが,利用客が少ないのでしょうね。加古川線は,いまはどうか知りませんが,阪急電車に慣れていた者にとっては,1本ごとの間隔が長く,電車もちょっと古くさくて,乗客も少なく,田舎に来たという実感を味わうことができました。社町駅に行くのには,西宮に住んでいた私は西宮北口から阪急に乗り,新開地で神戸電鉄(「しんゆう」と呼ばれていた)に乗り換えて,終点の粟生(あお)まで行き,そこで加古川線に乗り換えるという方法もあり,そちらのほうが,時間が少し短縮され,母にもこのルートで連れられていくことが多かったと記憶しています。そのうち中国自動車道を使って,バスによって,祖母の家の近くの滝野社インターチェンジの停留所まで行くことができるようになり,神戸電鉄やJR加古川線を利用することもなくなりました。
 神戸電鉄の途中では,鵯越(ひよどりごえ)という小さくて壊れそうな駅があり(いまはどうか知りません),これが大河ドラマでも話題になっている義経の「鵯越の逆落とし」の「鵯越」なのですが,そのほかにも三木(別所長治の三木城があったところ)や小野(東京オリンピックの陸上女子1500メートルで8位入賞という快挙をとげた田中希実選手の出身地)といったところを通っていきます。三木を過ぎ,小野まで来ると,もう少しで粟生ということで,おばあちゃんの家に近づいてきたという気持ちでウキウキした気分になったことを覚えています。
 神戸電鉄は大丈夫でしょうが,JRのローカル線は,採算という点では厳しいものがあるのでしょう。一度時間があれば,加古川駅から北上して,まだ行ったことがない社町駅より北の駅まで行ってみたいです。西脇は駅伝で有名な西脇工業があるところですしね。兵庫県民であっても,県は広大であり,南のほうは東から姫路までは知っていますが,北となると城之崎や豊岡や香住・浜坂のような最北以外はほとんど行ったことがありません。労働委員会の事件でも,名前もあまり聞いたことがないし,どこにあるかもよくわからない自治体の事件などもあって,もっと兵庫県のことを詳しく知らなければならないと思っています。

2022年5月18日 (水)

時間感覚

 NHKの「クールジャパン」で,少し前に,外国人の出演者が口々に日本人はミーティングの開始時間には厳しいけれど,終わりの時間はルーズだと言っていたのを聞き,ハッとさせられました。たしかに,そうなのです。開始時間の厳しさは,ミーティングに限らないことで,時間どおりに始まらないことに,日本人の多くはフラストレーションを感じます。自分は無理して時間厳守でやって来たのに,それを遵守しない人がいることに不満がたまるのであり,遵守しなくても許されるのなら,最初からそう言って欲しいと思ってしまうのでしょう。でも,遵守しなくてもよいというと,誰も守らなくて会が始まらないので主催側は絶対にそうは言わないでしょうが。
 個人には,それぞれの抱えているいろいろな事情があるわけであり,会議の開始時刻を厳守するために,それをすべて犠牲にする価値があるかは疑問です。会議ではありませんが,朝,幼稚園の時間に間に合わせるためか,子どもを乗せてママチャリで猛スピードを出している(しかも歩道を),ママがいるのですが,危険きわまりないです。そこまでして間に合わせなくてもよいのでは,と思ってしまいます。あるいは子どもを送ったあとの出勤時間に間に合わせるための猛スピードかもしれません。これはママが悪いのではないでしょう。朝はみんな時間がないのであり,多少の遅刻には寛大となるというような余裕のある社会に変われば,おそらくママも危険なことをしなくてすむのではないかと思います。なお,テレワークにすれば,出勤がなくなるので,時間厳守というのはそれほど無理なく実現できて,みんながストレスを感じずにすむかもしれません。
 一方,終了時刻のほうは,逆に予定時刻をあらかじめ決めて,それを厳守することが必要でしょう。そういえば,10年以上前,ゼミの時間割が5限となっていたのを信じて授業をとったが,実際には,それよりも1時間以上超えてもやっていて,これでは部活に参加できないので,ゼミを辞めたいと言ってきた学生がいました。学生には申し訳ないことをしました(学期が始まった後なので,他のゼミに入り直すこともできませんでした)が,その当時は,終了時間は先生が決めるのが当たり前という感覚でした。のみならず,ゼミの場合は,議論それ自体に意味があるので,あまり終了時間をリジッドに決めてしまうのは教育効果という点で問題があると思っていました。
 一方,職場での会議の多くは,そういうものではないでしょう。ワーク・ライフ・バランスの観点からも,終了時間がずるずると延びるのは問題でしょう。神戸大学では,会議は17時を超えてはならないということが決まったようで,会議の迅速化が進んでいます。たいへん素晴らしいことです。
 神戸労働法研究会では,終了時刻は適当で,議論が尽きるまでという感じでやっています。これは職場の会議とは違い,ゼミと同様,議論することに意味があるからだと私自身は考えていますが,参加者の方はどのように考えているかわかりません。怖くて本音を聞けないのですが,実は,次回から研究会発足後初めて,開始時刻を変更することになりました。開始時刻を2時間早め,終了時刻が遅くなりすぎないようにします。これまでは神戸大学という場所がアクセスしにくいこともあり,遠方から来てくれる人の都合も考えて,あまり早い開始時間にせず,また研究会後はゆっくり会食する(ゆっくりどころか終電をリミットとする)ということにしていたので,15時開始という設定にしていたのですが,オンラインとなって状況が変わりました。きわめて健全な研究会に生まれ変わり,もう対面型に戻ることはないでしょうが,ただそれとは別にオフ会を開くということは考えてみたいですね。コロナがおさまれば,みんな家族同伴で,合宿をするというようなことも考えてみたいですね。

2022年5月17日 (火)

税制調査会に登場

 今日は,政府の税制調査会でプレゼンをしました。内閣府のHPに,資料とともにアップロードされているので,関心のある方はご覧になってください(https://www.cao.go.jp/zei-cho/chukei/index.html)。私以外に,JILPTの濱口桂一郎さんとフリーランス協会の平田麻莉さんという大物が登場しています。
 私はリモート参加ですが,実はTeamsがうまくいかずに困りました。日頃は,Zoomしか使っておらず,労働委員会でもWebExですので(これもトラブルが多かったのですが),Teamsの利用経験はほとんどありませんでした。直前に画面共有機能の確認をしていたので安心していたのですが,本番では作動せずに困りました。結局,スライドは,事務局に投影してもらい,かえって楽をすることができたのですが,少しあわてました。またビデオオンにしていたのに,どういうわけか会場では私のビデオが映っていなかったようで,自分のプレゼンが終わってから事務局からのメールに気づき,結局,もう一度,接続し直したら,うまくいきました。原因は不明です。後半の質疑応答のときには間に合ったので,よかったのですが。前半も声は届いていたので,問題はなかったと思います。
 質疑応答は,3人ずつまとめて質問をいただき,それにまとめて答える方式というものでしたが,これがどうも私は苦手で,途中で質問の内容を忘れてしまうことが多いのです(私はメモをとるのが苦手なのです)。十分に答えることができなかったのが残念です。
 とくに最後のほうの質問については,社会保障制度の再編の話など,あまりきちんと答えられませんでした。言いたかったことは,企業を媒介としない個人中心のセーフティネットの構築をすれば,ポータビリティも確保されるであろうし,ここがしっかりしていれば,人々は安心していろんな形態で働くことができるだろうということです。個人ベースにしたら,企業負担がなくなるので助かるという中小企業関係の方の意見がありましたが,本音はよくわかるのですが,この場での発言としてはちょっとperplexing です。拠出が減ると,給付の内容も悪くなるのであり,そこをしっかり国民に説得するためには,中小企業の負担の軽減というような観点は出さずに,制度を個人ベースにして,働き方に中立的にすることのメリットが強調されるべきなのです。企業は,大企業であれ,中小企業であれ,様々な社会的責任をはたしてもらう必要があることは当然であり,その点では,かりに社会保障制度の枠組みでの負担が軽減されても,その他の面で,中小企業にも相応の負担をしてもらうことがあるでしょう。
 最後に,平田さんが,Public Benefit Corporation (PBC)との関係で,これ以上,法人をつくる必要があるのかという指摘をされた点は,とても重要だと思いました。私の今日のプレゼンでは,営利社団法人への疑問を述べており,その観点からは,PBCも注目されるのですが,実は非営利であっても法人というものをどう考えるべきか,ということは,できればもっと議論したいところでした。NPO法人だけなく,労働者協同組合も法人なのですが,社会課題の解決という観点からは,個人のアドホックな集合体がプロジェクトごとに集合するというものでもよいのです。法人化というのは取引の面や社会的な信用の面などでメリットがあるし,ひょっとすると法人税の徴収という観点からも何かメリットがあるのかもしれませんが,私たちの人間社会のなかに法人という無機質な存在を受け入れることへの違和感もあります(どこまで共感してもらえるか,わかりませんが)。ただ,PBCという仕組みのなかに,企業が社会的責任をはたすよう誘導するうえで,何か重要なメカニズムが組み込まれているのであれば,参考にするのに値するのかもしれません。この点は,もう少し勉強してみたいです。

2022年5月16日 (月)

燦燦

 「ちむどんどん」の主題歌で流れている,三浦大知さんの「燦燦」がマイブームです。天皇陛下のご指名で唄っていた歌手ですね。この曲をギターを弾きながら歌いたくなったために,何十年かぶり(たぶん30年ぶりくらい)にギターの弦を買い,張り替えました。いまではギターの弦も,ネットで買えるのですね(昔は楽器屋に行って買っていた記憶があります)。張り替えてみると,チューニングが大変でした。1975年に購入したものですから,骨董品ですね。おそらく耐用年数を超えているのでしょう。でも,これまで幾度の引越の際も,ずっと捨てずに持ってきたもので,いまとなれば私の中学時代に持っていたもので唯一残っているものなので,簡単に捨てることはできません。
 もちろんギターが古いだけでなく,私の指も思うようには動いてくれません。10年くらい前までは,六甲道近くのバー「Libertà」にギターが置いてあって,そこでたまに弾くようなこともあったのですが,その店もいまはなく,長い間,ギターは弾いていませんでした。コードは覚えているのですが,指の感覚が全然違うのです。Fがきれいに弾けないので,初心者レベルに逆戻りです。アルペジオもスリーフィンガーも,思っているように指が動きません。これから長い長いリハビリが必要ですね。
 話を戻すと,「燦燦」は後世に残る曲となるでしょう。沖縄ソングというわけではないのでしょうが,心に響きます。その流れで,BEGINも夏川りみもマイブームになっています。昨日のブログでは,沖縄にDXの最先端に立ってほしいということを書きましたが,それは,沖縄の豊かなアナログ文化との相乗効果も期待してのことです。たとえば,私が,沖縄から発信される素晴らしい楽曲を,インターネットを通じて,神戸においてリアル感覚で楽しむことができるというのも,沖縄のもつすばらしい財産です。沖縄は,その豊かな自然,すばらしい人や音楽という,傑出した財産があるのであり,それをうまくデジタル技術と融合させることもまた,沖縄の将来性を戦略的に考えていく際の重要なポイントとなるように思えます。

2022年5月 8日 (日)

白いカーネーション

 いまの子どもたちは,レコードプレーヤーで音楽を聴いていた時代のことなど,想像もつかないかもしれませんね。中学生くらいになってから,家に新しいステレオが届いたのをきっかけに,おこづかいでレコードを買って聞くようになりました。当初はフォークソング,とくに拓郎のものばかりでしたが,一つだけ陽水のものをもっていました。それは,自分で買ったものではなく,年長のいとこからもらったものなのですが,陽水がアンドレ・カンドレから陽水という名になって2枚目のアルバムの「陽水Ⅱ センチメンタル」でした。これは何度も聞きましたね。ギターの練習によかった「東へ西へ」もありましたし,「夏まつり」も耳に残っています。子どものころは,陽水の曲は,心にしみるということはなかったのですが,年を重ねていくと,陽水はいいなと思うようになってきました。
 「センチメンタル」に入っている曲に「白いカーネーション」もあります。短い曲ですが,頭に残っています。今日は母の日なので,ついつい私も口ずさんでしまいました。もうレコードは手元にありませんが,YouTubeで聴くことができました。とても懐かしかったですね。私の世代以上では,私と同じように思わず口ずさんでしまう人も少なくないのではないでしょうか。
 白いカーネーションという花は,亡くなった母を偲ぶものだそうですが,陽水の曲でもそういう意味で,あえて「白い」と言っているのかはよくわかりません。ただ,歌詞のなかにある「どんなにきれいな花も,いつかはしおれてしまう。それでも私の胸にいつまでも」というのは,亡き母のことをいつまでも思っているという意味で理解することもできそうです。
 私自身,この年齢になっても,9年前に亡くなった母のことを,いまでもときどき思い出すことがあります。母は偉大です。世間では,幼いときに死別したり,虐待などで離別せざるを得なかったりという理由で,母親の愛情に十分にふれることができていない子どもたちもいるでしょう。母の日が,赤いカーネーションを贈ることができない境遇の子どもたちのことを考える日でもあればと思います。

より以前の記事一覧