日記・コラム・つぶやき

2022年12月 1日 (木)

寒波と第8波に備える

 寒波がやってくるということで,Uniqloのフリースとヒートテックを初めて購入しました。暖かいですね。夏の冷房回避に続いて,冬もまたできるだけ暖房器具を使わないのは,なかなか厳しいものがありますが,Uniqlo様に頼ることにしました。
 このほかにも,自宅にいることが多いので,できるだけラジオ体操をすることを心がけています。体操をしっかりやると身体は温まるので,暖房がなくても大丈夫[誤植訂正]です。
 今年はこれまで11月といってもかなり暖かく,ジャケットを着て外出することもまれでしたが,寒波が来るということで,身構えています。急激な気温の変化への対応は,加齢にともない難しくなってきているので,気をつけようと思っています。
 このように用心はしているものの,数日前から喉が少しいがらっぽくなってきて,起床時に若干咳き込むことも起きて,いやな予感がしていたのですが,熱はまったくなく,特に日中は大丈夫なので,おそらくコロナではないでしょう。一昨日は,NHKの「視点・論点」の収録がありましたが,とくに咳き込むこともなく,普通に喋ることができて,無事テイク1で終わりました(オンエアは12月の終わりのほうです)。
 インフルエンザの予防注射も終わり,明日はコロナワクチン4回目の(職場)接種です。これに安心せず,食事と休息で免疫力を高め,なるべく人混みのなかにはでないということで(といっても限界はありますが),感染の波を乗り切りたいと思います。

2022年11月 3日 (木)

西川きよし

 今日は日差しがあって穏やかな気候でした。三宮の南の海沿いのフードコートで,Chablis(今年も不作という話を聞いていますが,ほんとうでしょうか)を飲んで,Paellaを食べるという休日を過ごすことができました。どことなくBarcelonaを思い出させてくれるような心地よい風を感じる場所で,とてもよかったです。遠出をしなくても,旅行気分を味わえました。
 話は変わり,日本経済新聞朝刊の文化欄の「私の履歴書」は,経済人の方のものは,脚色された自慢話が多いような気がして,ほとんど読むことはないのですが,スポーツ選手などは,私が知らなかった裏話なども出てきて面白く読めることが多いです。10月に連載された西川きよしさんのものは,当初,あまり期待していなかったのですが,読むうちに興味をもち,そのうち朝一番に読むようになりました。
 漫才師としての彼の経歴よりも,政治家としてすごした18年間に興味がありました。政党に所属せず,ただ一人で立候補して,地元大阪(出身は高知ですが)とはいえ参議院3期連続トップ当選というのは,見事な結果です。政党に所属せずに何ができるのかという気もしますが,それなりにやりきったというのが本人の実感でしょう。本業が政治家でない人が18年も参議院議員をやったということは,すごいことです。大臣になりたいというような「出世欲」があるわけでもなく,官僚に馬鹿にされないように懸命に勉強して,自分の関心のある介護分野で少しでも何か成果を出せないかと思って頑張った姿勢は,大臣なりたい病にとりつかれている自民党の政治家に見慣れている私たちにとって,とても新鮮で清潔な感じがします。もちろん,「私の履歴書」ですから,ある程度,割り引いて読まなければならないのでしょうが。一方,本業のほうは,私は「やすきよ」の漫才は,あまり面白くなかったです。しゃべくり漫才なのですが,どこか無理して笑わせようとしているところがみえて,たとえばサンドウィッチマンのような思わず声をあげて笑わされるようなところがなかったです。西川さん自身が,基本的には面白い人ではなく,とてもまともな人だからだと思います。政治にしろ,漫才にしろ,まじめに取り組んだ方なのでしょうね。

2022年10月22日 (土)

企業の社会的責任

 学部の授業は,2年生相手に少人数で法学一般的なことをやっています。私の担当なので,デジタルと労働がメインテーマですが,広くいろんなことを論じるものにできればと思っています。最終的にはプレゼンをしてもらうのですが,それまではいろんな議論をして関心を広げてもらおうと思っています。
 先日の第3回目の授業では,落語ではありませんが,枕の話として,デジタルツインのことを採り上げました。デジタルツインの利用は徐々に広がってきていますが,今後は,人間の労働に使われるようになるだろうという話です。前にこのブログでも書いたAI美空も例に出しながら,私のデジタルツインが,オンラインで講義をしてくれると助かるなんてことを冗談のように言いながら,でも技術的にはそれほど実現が遠い話ではなく,そうなるとどんな法的な問題が生じるだろうか,というようなことを話しました。
 前回の授業では,企業の社会的責任について少し話したので,今回は資料として社会的責任否定論の代表であるMilton Friedmanの文献『資本主義と自由』(日経BP)の第8章「独占と社会的責任」を読んでもらって議論しました。授業の半分だけでやろうと思ったのですが,結局,授業時間をいっぱい使いきりました。独占とはどのような状態で,それがどういう原因で起こり,政府はどのように対応すべきかというようなことが書かれているのですが,そこでは労働組合による独占も挙げられていて,厳しく批判されています。歴史的には,Friedmanは,イギリスのThatcherやアメリカのReaganの新自由主義的な政策に大きな影響を与えており,実際,イギリスでは労働組合運動が大きな打撃を受けています。
 ということも解説したのですが,どうも労働組合に関する議論がかみ合わない感じがしたのは,学生には労働組合に対してほとんど具体的なイメージがないのがその原因です。これはずっと前からゼミなどでも経験していたことでした。労働組合はもっと存在感を発揮してもらわなきゃ困りますね。日本の労働組合のことをよく知らないので,日本の労働組合の企業別組合という形態が,欧米の産業別組合や職種別組合とは違っているというような話もピンとこないわけで,労働組合のカルテル機能の説明も大変になります。
 文献では,独占禁止法の話や法人税の減税や累進課税批判なども出てきて,非常に面白いのですけれども,肝心の企業の社会的責任の部分に関しては,Friedmanは慈善事業などは企業がやるべきではなくて,企業は利益を上げて株主に還元することに注力すべきで,慈善事業に使うかどうかは配当を受けた個人の判断に任せろといいます。つまり企業の社会的責任論は,個人の自由を制限するというのです。ただ前回,ESGの話をしたこともあり,学生は社会的責任というと環境問題をイメージしたようであり,そのため,それは企業が責任をもつ必要がある,という意見になりました。
 それはそうなのですが,この章にかぎらず,Friedmanのもつ,政府の失敗への厳しい視点は,それを批判するにせよ,個人の自由とはどういうものかを考えるためには一回は検討しておくべきものでしょう。 

2022年6月11日 (土)

遺憾という言葉

 連日,政府への不満を書いているようですが,言葉を大切にしてほしい,国民を納得させてほしいという渇望からくるものです。ついでにもうひとつ言いたいのは,よく使われる「遺憾である」という言葉についてです。北朝鮮の挑発にも,この言葉が使われたことがあります。今後,ロシアや中国との関係でも,いっそうこの言葉が使われるかもしれません。「遺憾」というのは,どういう意味で使っているのか,よくわからないことが多いです。よくわかっていないこちらのほうが,教養がないのでしょうか。
 私が座右に置いている(でも全部読み切れていない)本の一つに谷沢永一『知らない日本語 教養が試される341語』(2003年,幻冬舎)という本があります。その冒頭に「遺憾に思う」という言葉が出てきます。「日本語で最も悪用されている言葉である」という衝撃的な説明で始まります。遺憾とは,「思いどおりにならず,心残り,残念,惜しいことをした」という意味で,「そこにはお詫びの意味はまったく含まれない」のであり,謝罪の言葉ではないのです。また,他国の暴挙について「遺憾」を使うのはもっとおかしいことになりそうです。著者は,「日本の通用語から『遺憾』という二文字は消すべきだと思っている」とまで書いています。謝罪であれ,抗議であれ,「遺憾」のような相手に伝わらない意味不明の言葉を使わずに,「謝罪」ならきちんと謝る言葉を使い,「抗議」であれば,きちんと「抗議」や「非難」の言葉を使うべきでしょう。ミサイルをめったやたらに飛ばしてくる国に遠慮はいらないでしょう。
 最近の衆議院議員の「パパ活」問題について,与党の幹事長は,「事実としたら大変遺憾なことだ」と述べたと報道されていますが,これも言い直したほうがよいと思います。これは状況からすると,謝罪でも抗議でもないので,そうなると原義のとおり「残念だ」ということになりますが,何がどう残念なのかよくわからないので,取り方によっては,かなり問題議員の肩をもっていることになってしまいます。そういう気遣いをしているのであればともかく,そうでなければ,「遺憾」を使うのは,(政治村では通用する用語だとしても)国民向けにはリスクがあるのではないでしょうかね。

2022年6月10日 (金)

「しっかり」やっているかは国民が判断すべきもの

 以前にブログで,政府の答弁で「しっかり」という言葉を使いすぎることへの不快感を書いたことがあります。中身がないのに「しっかり」というような言葉で,前向きな感じを出しているだけのことが多いからです。昨日書いたこととも関係しますが,外面だけを着飾って,内容がないというのでは困るのです。現政権の岸田首相の答弁も,当初は,前の首相よりは良いと思っていましたが,最近は,不満に思うことが多いです。依然として「しっかり」という類いの言葉が多いです。官房長官はもっとひどいですが(名前もなかなか覚えられませんし,下を向いて話していることが多いので,顔もよくわかりません)。とはいえ,立憲民主党の国会議員が岸田首相の「しっかり」の回数を数えていたという産経新聞の記事をみて,ちょっと笑ってしまいました。1805回だそうです。この議員の言わんとしているところは,わからないではありません。もちろん,回数が問題なのではなりませんが,国民はもう気づいているのではないかと思います。内容のないスピーチは,聞かされるほうが時間の無駄です。
 イギリスのJohnson 首相は,パーティ問題で国内的には危機で,先日も与党内の信任投票にかけられて何とか乗り越えましたが,それでも彼はテレビでみる限りですが,国民に向かって語る姿勢はしっかりわかります。おそらく日本の政治家のようなスピーチをしていれば,とっくの昔に首相から引きずりおろされていたのではないでしょうか。もう一つイギリスでのElizabeth女王のスピーチを特集していたNHKの番組を観たとき,女王がここというとき国民に向かってスピーチをして,国民に勇気や希望を与えるのに(そして王室の威厳の向上に)大きな役割をはたしてきたことを知りました。スピーチの重要性は,彼女の父であるGeorge Ⅵ(ジョージ6世)が吃音であったためスピーチで悩んだ姿を描いた「英国王のスピーチ」という映画を観ればよくわかります。日本でも天皇のスピーチは,国民に語りかけようとする姿勢がみられてよいのですが,政治家にそういうのが弱いのが残念です。
 北朝鮮が何発ミサイルを撃っても,「全力で抗議する」とか「しっかり対応する」とか,そういう言葉を連発するだけです。しかも語調も力強さがなく,どことなく北朝鮮に遠慮しているようにも聞こえます。勇ましければよいというものではありませんが,もうちょっと「しっかり」しろと言いたいところです。国民は,一つ間違って日本の領土に着弾したり,漁船や航空機にぶつかったらどうなるのか,ということを心配しているのです。そういう現実的危機にさらされているという感覚を政府は共有していないように思えてしまうのです。
 「しっかり」という言葉を使うのなら,「国民の皆さんにしっかり対応していると評価してもらえるように努める」という表現に置き換えてもらいたいです。「しっかり」やっているかどうかは,自分でいうのではなく,国民に評価してもらうべきものでしょう。
 「平和のための新しい構想」も,どこが「新しい」のか,具体的に述べてもらわなければ困ります。防衛費の相当な増強って,それのどこが新しいのでしょうかね。ここでも,「新しい」かどうかは,自分でいうのではなく(側近たちの間だけで「新しい」と評価しあっているだけではなく),他人(国民や他国)に評価してもらうべきものではないでしょうか。昨日も書いたように,そういうようにしておかなければ,かえって信用を失うリスクがあることに注意したほうがよいでしょう。

2022年6月 2日 (木)

就活学生へのエール

 昨日の話の続きですが,学生にとって,就活が人生の一大イベントでなければよいのになあ,といつも思っています。たしかに,就職は学生にとって大きな出来事ではありますが,今後,人生で何度も転職しなければならないかもしれません。そもそも人生100年時代は,仕事をしたり,勉強をしたり,ボランティアをしたり,育児や介護をしたり,というような時期を何度も行ったり来たりすることになります。仕事をする時期は,その一部であり,今後は人生のなかに占める割合が徐々に減っていくでしょう。
 そうは言っても,学生は,目の前のことに必死で,藁にもすがる思いで,就活を助けてくれる人を頼ってしまうことがあります。それでうまくいけばと願いますが,これまた老婆心ながら,落とし穴がないかは,よくよく注意をしてもらえればと思います。
 労働基準法6条には,「何人も,法律に基いて許される場合の外,業として他人の就業に介入して利益を得てはならない」という規定があります。他人の就業に介入して(業として)利益を得る行為は,歴史的にみて,人権侵害が起こりやすかったから,こういう規定があります。今日では,職業安定法できちんと(厳しすぎるくらい)規制しているので心配ないかもしれませんが,それでも自分の就職に誰かがビジネスで関与してくることには,どこか危険なところがないかという「危機アンテナ」は張っておいたほうがよいです(自分がお金を払っていなくても,企業側が払っている場合は,それでビジネスとして成立しているし,自分が金蔓にされている可能性はあるのです)。
 もちろん仲介というビジネスは,うまく機能すれば素晴らしいものです。見ず知らずの人をとりもってマッチングするというのは,今後はAIが進出してくる可能性があるとはいえ,やりがいのある仕事であり,社会的価値の高いものです。でも,これも人によります。
 私は雇用仲介サービスを利用した経験はありませんが,賃貸住宅などの仲介サービスは何度か経験があります。物件への不満というのはあまりもったことはないですが,仲介段階で,きちんとした情報提供を受けることができなかったという不満はよくもってきました。実はそれは良い面に転んだときと悪い面に転んだときの両方があるのですが,いずれせよ情報不足のなか,入居してどちらに転ぶかわからないというような状況が残るようでは,良いマッチングとはいえないでしょう(良い面に転んだときは,貸主や売主のほうが,もっと価格を高く設定できたかもしれないという点で損をしており,それも客観的にみれば良い仲介ではないでしょう)。仲介者の方は責任感と倫理観をもって,プロとしてのスキルで,良い仲介をしたと自信をもてるような仕事をしてもらいたいですが,住宅の仲介には物足りないことが多かったのです(例外もありましたが)。就活でのサポートも同様で,もし企業を紹介するのであれば,その紹介先の就業規則の内容を十分に把握しているのは当然のことですし,これにプラスして社風,従業員の男女別の平均勤続年数,年次有給休暇や育児休業などの取得率や平均の所定外労働時間数(青少年雇用情報も参照),過去の労災認定の数(およびその内容),過去の労働裁判の数(および紛争の内容),学閥の有無などの情報もあれば学生には役立つでしょう。単なる数字だけでなく,実態的なところまで伝えてもらう必要があります。入手が困難な情報も多いでしょうが,ほんとうのプロなら,この程度の情報はもっておくべきです。もちろん学生は情報を数多く与えられても,悩んでしまうことが多いでしょう。そこでうまくサポートできてこそ,プロの仕事なのです。
 就活は,これからの長い社会人生活の第一歩にすぎません。それでも,良い企業と出会えて,良い門出ができるに越したことはないのであり,就活学生たちにエール(yell)を送りたいです。

2022年5月27日 (金)

谷川17世名人

 谷川浩司九段が,17世名人を襲位することになりました。すでに名人位5期で引退後には17世永世名人を名乗る資格はありましたが,この4月に還暦を迎え,これまでの抜群の実績を考慮して,中原誠16世永世名人の例にならって,現役での襲位が認められました。谷川九段という呼び名は,いまはすっかり慣れてしまいましたが,最初は違和感がありました。これからは谷川17世名人と呼ぶことになります(叡王の段位戦では九段戦に出るのでしょうね)。
 21歳で史上最年少の名人につき,その記録は,まだ破られていません。藤井聡太竜王(五冠)が,記録を破るかが注目されていますが,その結果は来年わかります。勝利数も羽生善治九段,大山康晴15世名人に続く歴代3位です。その偉大な業績は,まばゆいばかりです。ご本人は30代の時期にもっとタイトルをとれていればと思っておられるようです。ファンもそう思っています。でも,当時の多くの若手棋士が,打倒谷川で襲いかかっていた時期です。そのときでも谷川さんは勝って多くのタイトル戦に登場してきたのです。あと一歩でタイトルがとれなかったものもたくさんあります。谷川17世名人は,羽生九段と異なり,勝負術という点では長けているとはいえません。もっと勝負術に長けていれば,もっと多くのタイトルをとっていたでしょう。でも,そういう泥臭い勝負をしないのが谷川将棋でした。タイトル27期は,数字的にはやや物足りないですが(それでも羽生,大山,中原,渡辺明名人に次ぐ歴代5位),ファンは「光速の寄せ」にこだわり,かかんに攻め込んでいった谷川勝利に魅了されてきたのです。
 ところで谷川さんが還暦ということは,1歳違いの私ももう少しで還暦に近づくということになるのですが,労働法の世界では,どうも還暦になると何かお祝いをするという慣習があり(かつてのように本を刊行するということはさすがになくなってきていると思いますが),弟子や下の人たちがいろいろと気をまわさなければならないようです。谷川さんのように,たぐいまれな業績があり,それに敬意を表して永世名人を襲位するのは,とても素晴らしいことです。
 しかし,研究者が研究以外のことで,たんに年齢到達や叙勲などでお祝いをされるというのは,なんとなく感覚的に受け付けません。研究以外で社会貢献などをしっかりしていて,その貢献に対して,お祝いをするというのであれば理解できます。実は多くの研究者は,そういう社会貢献をしっかりしてきているので,その面でのお祝いをするのにふさわしいのだと思います。私のように自分の好きな研究をやってきているだけのような人は,主観的には,少しは社会課題の解決に貢献しているつもりではありますが,実際には害悪をばらまいている可能性もあるので,その評価は死んだときにしてもらえればと思っています。
 ところで,そういう私も,昔は他の先生の還暦祝いなどをやってしまったことがあり,いま思えば,その先生はおそらく望んでおられなかったのに,無理強いしてしまったのではないかと悔やんでいます(そのときの気持ちは怖くて聞けません。最近,このセリフが多いですが)。正直にいうと,無理強いしてもよいのではというお節介な気持ちをもっていたのですが,これは独善的なことで,本人の迷惑を考えず,結局,やったほうの自己満足でしかなかったのではないかと猛省しています。若気の至りでした。尊敬する先生方にできることは,学問で恩返しをすることしかないのです。

2022年5月21日 (土)

一太郎派

 山口県のどこかの町の誤送金が問題になっています。詳しい事情はわかりませんが,公金の扱いが杜撰であったことは間違いがないわけで,町長はかなりの責任を負わなければならないでしょう。こういう作業は途中で関わる人が増えるほどエラーが起こりやすいので,根本的にやり方を変えるべきでしょうね。報道によると,フロッピーディスクが使われていたということですが,そんなものはここ数年見たことがないので,まだ使われていたのが驚きです。デジタル化とかという以前のレベルで,よくそれで行政サービスができているなと思いますが,こういうのが日本の実情なのでしょうね。
 ところで,パソコンソフトの「一太郎」もまた,フロッピーディスクほどではないにせよ,絶命危惧種と呼ばれているようです。私は役所のようだとバカにされながらも,というか今では役所も使っていないと言われながらも,一太郎好きを公言しています。実際にはWordもかなり使っているのですが,原稿を書くときには,一太郎のほうが使いやすいので,一太郎を愛用しています。一太郎で書いた文書は,Wordで保存もできるので,相手によってはWordで送ったりしますが,文書作成のときは一太郎を使うことが多いのです。辞書もずっと使っているATOKです。日本法令の「キーワードからみた労働法」は,いまでも一太郎のままで原稿を送っているのですが,もしかしたら編集者に迷惑をかけているのかもしれません。15年も続けているので,実は困っていたのですと言われるのが怖くて,聞かないことにしています。ただ現在では,音声入力をするときは,Wordのほうがやりやすいため,最初からWordで書く割合はきちんと数えれば8割くらいになってきているかもしれませんが,しっかりした原稿を書こうとするときは一太郎なのです。
 一太郎とWordの併用と同様,私はノートパソコンも,Surface(Windows10)とMacを併用していて,これも大変です。基本的にはSurfaceなのですが,リモート会議などではMacのほうが画像がよいし,iPad やiPhoneを使っているので,その連携という点でもMacのほうがよいです。ということで,Macで文書を作成することもよくあるのですが,キーボードの配置や入力方法が違うので,最初は混乱していました(カタカナへの変換の仕方など)。いまではMacもかなり使いこなせるようになりましたが,ただ保存ファイルがどこにあるかわからなかったりするなど,1年以上使っていてもまだ十分に習熟していません。もっとも,いまは少しでもわからないことがあれば,ネットで調べればすぐに答えが出てくるので,あまり苦労しません。というか,それを当てにして,真剣に学習しようとしていないところもあります。これって,ネット時代の学生が真剣に勉強しなくなるのと同じことなのかもしれませんね。

2022年5月19日 (木)

ローカル鉄道

  関西ローカルな話です。
 516日の日本経済新聞の春秋で,「先月,JR西日本が公表した採算性の低い30の区間には同線の谷川―西脇市の約17キロメートルが含まれ,地元では存続を危ぶむ声が強まっている」という記事が出ていました。私は母方の実家は社町(やしろちょう)駅が最寄りで,父方の実家の最寄りは加古川駅だったので,幼いときは,加古川から加古川線に乗って北上して社町駅まで行ったことが何度かありました。西脇市駅までは行ったことがなく,さらに谷川駅となると未知の地なのですが,利用客が少ないのでしょうね。加古川線は,いまはどうか知りませんが,阪急電車に慣れていた者にとっては,1本ごとの間隔が長く,電車もちょっと古くさくて,乗客も少なく,田舎に来たという実感を味わうことができました。社町駅に行くのには,西宮に住んでいた私は西宮北口から阪急に乗り,新開地で神戸電鉄(「しんゆう」と呼ばれていた)に乗り換えて,終点の粟生(あお)まで行き,そこで加古川線に乗り換えるという方法もあり,そちらのほうが,時間が少し短縮され,母にもこのルートで連れられていくことが多かったと記憶しています。そのうち中国自動車道を使って,バスによって,祖母の家の近くの滝野社インターチェンジの停留所まで行くことができるようになり,神戸電鉄やJR加古川線を利用することもなくなりました。
 神戸電鉄の途中では,鵯越(ひよどりごえ)という小さくて壊れそうな駅があり(いまはどうか知りません),これが大河ドラマでも話題になっている義経の「鵯越の逆落とし」の「鵯越」なのですが,そのほかにも三木(別所長治の三木城があったところ)や小野(東京オリンピックの陸上女子1500メートルで8位入賞という快挙をとげた田中希実選手の出身地)といったところを通っていきます。三木を過ぎ,小野まで来ると,もう少しで粟生ということで,おばあちゃんの家に近づいてきたという気持ちでウキウキした気分になったことを覚えています。
 神戸電鉄は大丈夫でしょうが,JRのローカル線は,採算という点では厳しいものがあるのでしょう。一度時間があれば,加古川駅から北上して,まだ行ったことがない社町駅より北の駅まで行ってみたいです。西脇は駅伝で有名な西脇工業があるところですしね。兵庫県民であっても,県は広大であり,南のほうは東から姫路までは知っていますが,北となると城之崎や豊岡や香住・浜坂のような最北以外はほとんど行ったことがありません。労働委員会の事件でも,名前もあまり聞いたことがないし,どこにあるかもよくわからない自治体の事件などもあって,もっと兵庫県のことを詳しく知らなければならないと思っています。

2022年5月18日 (水)

時間感覚

 NHKの「クールジャパン」で,少し前に,外国人の出演者が口々に日本人はミーティングの開始時間には厳しいけれど,終わりの時間はルーズだと言っていたのを聞き,ハッとさせられました。たしかに,そうなのです。開始時間の厳しさは,ミーティングに限らないことで,時間どおりに始まらないことに,日本人の多くはフラストレーションを感じます。自分は無理して時間厳守でやって来たのに,それを遵守しない人がいることに不満がたまるのであり,遵守しなくても許されるのなら,最初からそう言って欲しいと思ってしまうのでしょう。でも,遵守しなくてもよいというと,誰も守らなくて会が始まらないので主催側は絶対にそうは言わないでしょうが。
 個人には,それぞれの抱えているいろいろな事情があるわけであり,会議の開始時刻を厳守するために,それをすべて犠牲にする価値があるかは疑問です。会議ではありませんが,朝,幼稚園の時間に間に合わせるためか,子どもを乗せてママチャリで猛スピードを出している(しかも歩道を),ママがいるのですが,危険きわまりないです。そこまでして間に合わせなくてもよいのでは,と思ってしまいます。あるいは子どもを送ったあとの出勤時間に間に合わせるための猛スピードかもしれません。これはママが悪いのではないでしょう。朝はみんな時間がないのであり,多少の遅刻には寛大となるというような余裕のある社会に変われば,おそらくママも危険なことをしなくてすむのではないかと思います。なお,テレワークにすれば,出勤がなくなるので,時間厳守というのはそれほど無理なく実現できて,みんながストレスを感じずにすむかもしれません。
 一方,終了時刻のほうは,逆に予定時刻をあらかじめ決めて,それを厳守することが必要でしょう。そういえば,10年以上前,ゼミの時間割が5限となっていたのを信じて授業をとったが,実際には,それよりも1時間以上超えてもやっていて,これでは部活に参加できないので,ゼミを辞めたいと言ってきた学生がいました。学生には申し訳ないことをしました(学期が始まった後なので,他のゼミに入り直すこともできませんでした)が,その当時は,終了時間は先生が決めるのが当たり前という感覚でした。のみならず,ゼミの場合は,議論それ自体に意味があるので,あまり終了時間をリジッドに決めてしまうのは教育効果という点で問題があると思っていました。
 一方,職場での会議の多くは,そういうものではないでしょう。ワーク・ライフ・バランスの観点からも,終了時間がずるずると延びるのは問題でしょう。神戸大学では,会議は17時を超えてはならないということが決まったようで,会議の迅速化が進んでいます。たいへん素晴らしいことです。
 神戸労働法研究会では,終了時刻は適当で,議論が尽きるまでという感じでやっています。これは職場の会議とは違い,ゼミと同様,議論することに意味があるからだと私自身は考えていますが,参加者の方はどのように考えているかわかりません。怖くて本音を聞けないのですが,実は,次回から研究会発足後初めて,開始時刻を変更することになりました。開始時刻を2時間早め,終了時刻が遅くなりすぎないようにします。これまでは神戸大学という場所がアクセスしにくいこともあり,遠方から来てくれる人の都合も考えて,あまり早い開始時間にせず,また研究会後はゆっくり会食する(ゆっくりどころか終電をリミットとする)ということにしていたので,15時開始という設定にしていたのですが,オンラインとなって状況が変わりました。きわめて健全な研究会に生まれ変わり,もう対面型に戻ることはないでしょうが,ただそれとは別にオフ会を開くということは考えてみたいですね。コロナがおさまれば,みんな家族同伴で,合宿をするというようなことも考えてみたいですね。

より以前の記事一覧