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2025年10月 6日 (月)

政治と透明性

 昨日の私的領域と公的領域の続きです。両者の区別ということを聞くと,古代ギリシャにおけるオイコス(oikos:家)とポリス(polis:都市・政治共同体)の区別を思い浮かべる人も少なくないでしょう。古代ギリシャの民主制は、市民がアゴラ(agora:広場)に集まり,互いに弁論を戦わせて意思決定を行うというものでした。そこでは政治が透明な場で行われることが重要とされ,個人的な感情や利害が入り込むことは戒められていました。民主制とは,本来「市民がみんなで決めること」を重んじる政治制度であり(ただし,市民には,女性,外国人,奴隷は含まれていません),個人の能力が最大限に発揮されることが重視されるため,そこに私的な政治的取引(談合)があってはならないのです。
 このような観点から見ると,今回の自民党総裁選には少なからず違和感を覚えます。表向きは透明性を重視した手続のようにみえても,実際には特定の政治家や派閥が主導し,「貸し借り」の文化や露骨な論功行賞人事がなされようとしています。自民党に根強く残る村社会的な文化が,いまだに政治の透明性を曇らせているのでしょう。そうした構図は,まさに公私混同と呼ばれても仕方がないでしょう。
 とはいえ,現代社会では「私的領域の尊重」もまた一つの価値です。昨日も書いたように,プライバシーや個人の自由が過剰に守られた結果,逆に社会全体の利益に反することもあるかもしれませんが,それほど私的領域は強くなっています。ただ,少なくとも政治の場は,社会全体の利益(公益)を考えるものであってほしいです。  
 誰もが透明な場で議論しながら意思決定をしていく。そうした政治空間をどう再生するかが問われています。そう考えると高市自民党はすでに最初から,躓き始めているようにみえます。どこかで村社会の論理から脱却して,透明で開かれた政治に飛躍できるか。それとも,このままズルズルと古い自民党の体質をひきずるか。もちろん後者であれば,自民党に未来はないでしょう(今回はとりあえず首相には選ばれるのでしょうが,それを許す野党も情けないのですが……)。

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