ハッシーの事件に思う
元将棋棋士のハッシー(橋本崇載)が,10月2日,大津地裁で,殺人未遂などの罪で懲役5年の実刑判決を受けました。元妻とその父親が住む住宅に侵入し,クワで2人を襲ってけがを負わせたとされています。弁護側は精神障害の影響を主張しましたが,裁判所は完全責任能力を認定したようです。
ハッシーはA級まで上り詰めた実力者であり,人気者でした。私も大好きな棋士の一人でした。そのような人が,なぜここまで転落してしまったのか。多くの人が衝撃を受けたのではないでしょうか。もちろん,彼が重い法的責任を問われるのは当然ですし,被害者の受けた恐怖は残り続けるでしょうから,これで解決ということではないでしょう。ただ,あらためて,この事件を通じて考えさせられるのは,「家庭」という空間の特異性です。
家庭は最も身近でありながら,最も閉ざされた場所です。そこでは愛情や支えが生まれる一方で,暴力や支配,そしてときとして孤立も生まれます。今回の事件の背景にも,離婚や親権などの家庭問題があったようです。家庭の中で起きることは「プライバシー」として外部から見えにくく,問題があっても周囲が気づきにくいのが現実です。 私たちは,家庭のことには他人が口を出すべきではないと考えがちですが,この考え方が行きすぎると,家庭内での暴力や心理的支配や孤立が見過ごされる危険があります。実際,日本で起きる殺人のうち,被疑者と被害者が親族関係にあるものが半数近くを占めるとされています。家庭は愛と平和の場であると同時に,最も深刻な犯罪の現場にもなりうるということです。
多くの人は,普通の人は犯罪などおかさないと思っているでしょう。しかし,私は,ハッシーの事件は特別なものではなく,誰にでも起こりうることではないかと思っています。家庭という閉ざされた場所で起きるちょっとした暴力が,少しこじれて暴走すれば,何が起こるかわかりません。
私的領域と公的領域の線引きはたしかに難しい問題です。プライバシーを守ることは大切ですが,隔離されて,みえなくなってしまうことの危険性もあります。その危険性は,ときに親族間の問題にとどまらず,無差別殺人など社会全体への脅威に発展しかねません。つまり,家庭という私的領域を完全に不可侵なものとして扱うことは,社会全体の安全をも脅かすことにつながりかねないのです。
個人も社会も守るためには,私的領域を絶対視しすぎないということも必要です。家庭の問題だから仕方がないと片づけてしまわず,かといって国家が家庭のなかにずかずかと入り込むことも許されるべきではないので,そのバランスをどうとるべきか。ハッシーの事件はまさにこうした問いを私たちに突きつけているように思えます。
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