反転の重要性
物事は逆から見ることで,かえって真実がよく見えてくることがあります。写真のポジとネガではありませんが,ネガをみることによって,ポジの世界がよく見えてくることもあります。ポジばかりみていると真実に近づけないのかもしれません。
これは全く私の未熟さであったのですが,最近,かつてよく批判していた学説を読み返すと,むしろその方が優れていると感じることが多くあります。たとえば西谷先生の自己決定論は,今考えると大変優れた展開であるように思いますし,内田貴先生の関係的契約論や,その後の制度的契約論についても,その本当の意義を十分に理解できていなかったと反省しています。私的自治や個人の自己決定の視点は,近代のある時期の歴史的要請から出てきたものにすぎず,一度,これを中世の世界に降り立って反転させてみると,近代の異常性(それが現代にもつながる)がみえてくることもあります。
私はかつて2018年秋から1年間とったサバティカル(研究専念休暇)のときに,自分の労働法に対する考え方を根本から考え直す機会を持ちました。その結果,労働者の権利論を,企業の義務論として構成したらどうなるのかという試みを行いました。権利と義務は裏表の関係ですが,視点を変えると違ったものが見えてきました。現在取り組んでいるのは,「自由」というものに基本的な価値を認めないとしたら,どのような世界が到来するのかという思考です。このようなことは法学の世界では邪道に近いものですが,今や自由や民主主義,人権といった概念そのものに根本的な疑義が突きつけられていると感じます。思考実験をどこかでやらなければ,何も見えてこないのではないかと思うのです。
今は,そうした知的な格闘の最中にあり,私にとってはサバティカル以来の「第二の自己改革」を行っているところです。その成果はいずれ形になるでしょう。成功か失敗かは分かりませんが,こうした試みを経なければ,私自身の研究生活は完結しないと考えています。

