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2025年2月の記事

2025年2月28日 (金)

今年の阪神タイガース

 昨日のA級順位戦で,昨日紹介した菅井・渡辺戦以外では,佐藤天彦九段が敗れて63敗で,増田康宏八段に勝った永瀬拓矢九段と星が並びプレーオフとなりました。それにしても王将戦でも挑戦中の永瀬九段の充実ぶりは見事です。藤井聡太竜王・名人(七冠)を追う一番手でしょう。他の棋戦では,豊島将之九段が千田翔太八段に勝ち,自力で残留を決め,稲葉陽八段は,中村太地八段に勝ち,最後に意地を見せました。これで来期は,1位と2位は,藤井名人か,天彦九段か永瀬九段,3位は渡辺明九段,4位は佐々木勇気八段,5位は増田八段,6位は豊島九段,7位は中村八段,8位は千田八段となります。中村八段と千田八段は最終局で負けたことがどう影響するでしょうかね。
 今日は久しぶりに野球の話をしましょうか。NHKでは,アメリカのMBLのことをよく報道していますが,ちょっと飽きぎみです(ロボット審判のことは気になっていますが)。私はもちろん阪神タイガースの情報が気になります。攻撃陣は昨年と同じとなりそうですが,これで大丈夫でしょうか。打順は3番サトテル,4番森下,5番大山という並びになりそうです。近本,中野の12番は維持されるようで,6番は前川,7番の捕手は梅野,坂本の併用,8番の遊撃手だけが木浪か,小幡か,それとも若手の山田かというところで競争となっています。そのほかにも井上,野口,井坪,高寺など魅力的な選手がいますが,前川の充実ぶりで,左翼に入り込むことは難しくなっています。とはいえ,ケガで離脱もありえますし,とくにセンター近本のところは,フルシーズン近本が出るということは難しい気がしますので,若手はいつでも替わりに入れるように準備をして,いざというときにチャンスをつかんでもらいたいです。投手陣は昨年不調であった人の奮起が期待されます。開幕の広島戦は村上が先発です。エースは才木だと思うのですが,次のカードの昨年日本一のDeNA戦(甲子園)の初戦となります。このほかはビーズリー(Beasley),西(勇),大竹,伊藤(将)というのがローテンションを守ることになるでしょう。ここに及川がから
んでこれるでしょうか。ルーキーの伊原も評判が高く,また門別もいますし,このあたりが出てくると楽になるでしょう。もちろん暖かくなると高橋遥人もいます。才木と村上で25勝,高橋とビーズリーで20勝,西と大竹と伊藤で25勝,その他の投手で10勝あたりは計算できて,あと何勝積みませるかというところでしょうか。中継ぎは石井と桐敷,抑えは岩崎とゲラというところですが,その他にも良い投手がたくさんいます。でも何と言っても,サトテルが30本打って90打点をあげれば優勝できるはずなのです(昨年は16本,70打点)。森下も打つでしょうし,大山も今年はかなりやりそうです。外国人選手がいなくても,十分にやっていけます。サトテルが打って,そしてエラーを減らせば,簡単に優勝できます。
 唯一の心配は藤川監督です。解説者のときは,冷静な解説で,投手のことはよくわかっている感じでしたが,攻撃のほうはどうでしょうか。どのように采配を振るうか楽しみです。 

 

 

2025年2月27日 (木)

将棋界の一番長い日

 2月は,授業の期末試験,大学院の入試,修士論文の面接試験,学部の前期入試(後期入試は3月)などがあり,授業期間が終わったとはいえ多忙です。バタバタしているうちに,2月は終わろうとしています。しかも,この時期は鼻風邪や花粉症にも悩まされ,体調維持が難しいです。センター試験(いまの名称は忘れました)の時期も含め,入試関係は,もう少し良い時期にしてほしいですね。これは教員側だけでなく,学生にとってもプラスになるでしょう。とりわけ先週のように雪が降るときに,もし入試が重なっていたら大変なことになっていたでしょう。大雪が降る地域も大変でしょうが,瀬戸内式気候でめったに雪が降らないところで降ったら,悲惨なことになります(雪の中での歩き方がそもそもわかりません)。
 話は変わり,今日は将棋界の一番長い日(A級順位戦最終局)です。深夜になるまで対局が続くことが多いのですが,菅井竜也八段は渡辺明九段に早々に敗れてしまいました。これでB1組に降級決定です。すでに降級が決まっている稲葉陽八段と並び,関西勢は不調でした。豊島将之九段は降級を免れましたが,前期の名人挑戦者であることを考えると,降級争いをしたこと自体,残念です。この関西勢3人は今期は不調で,精彩を欠いていました。とくに菅井八段は,前期の王将戦挑戦者でもあったので,まさかの不調でした。やはり藤井竜王・名人に挑戦してスイープで敗れると,しばらくは調子が狂ってしまうのでしょうかね(棋聖戦に挑戦した山崎隆之九段もスイープで敗れて不調となり,B級1組からB級2組に陥落が決定しています)。
 このなかで関西勢でただ一人頑張ったのが糸谷哲郎八段です。順位戦では,すでに来期のA級復帰を決めています。また先日は,叡王戦で,藤井聡太竜王・名人(七冠)に準決勝で勝ちました。これまで勝ったことがなく8連敗であった藤井竜王・名人に初めて勝ちました。藤井竜王・名人は,昨年,失った叡王を取り戻して八冠に復帰しようと狙っていたところでしょうが,それを糸谷八段が阻みました。大きな勝利です。斎藤慎太郎八段と永瀬拓矢九段との勝者との挑戦者決定戦となります。伊藤匠叡王は,叡王獲得後は目立った活躍をしていないので,糸谷八段ら勝ち残っている3人は叡王獲得の大きなチャンスと思っているでしょう。
 なお,名人挑戦争いは,21時時点では,佐藤天彦九段が,対佐々木勇気戦で敗色濃厚なので,プレーオフとなる可能性が高そうです(天彦九段が勝てば挑戦決定です)。

 

 

2025年2月26日 (水)

大阪マラソン

 24日の大阪マラソンを後半から観ていましたが,折り返し地点を通り越してしまったのには驚きました。かなり余分に走ってしまいました。白バイが間違って誘導したのですが,あとで大会運営者が,カラーコーン(color corn)を置くことを忘れたために,中継カメラの固定台のところまで走ってしまったようです。この大会は,男子の世界選手権の代表選考レースでタイムも重要なので,この失態は残念です。カラーコーンの問題なのか,白バイの問題なのか,わかりませんが,「折り返し」というのは大きく書かれていても,それは日本語なので,外国の選手には読めないでしょうし,せめて係員を一人でも配置しておけばなんとかなったかもしれません。そもそも「折り返し」というのは,その直前にスピードを落とさなければならないので,ランナーには良くないですね。もっとも,このコースは記録がでるコースらしいので,その意味では問題はないのかもしれません。
 このレースでは,初マラソンの近藤亮太選手が2時間539秒の好タイム(日本歴代5位。初マラソン最高記録)で,1位と2秒差の2位でした。最後はよく追い上げていったんトップに立って,少し2位に差をつけたのですが,最後のスプリントでエチオピアの選手に負けてしまいました。ここで1位として逃げ切れなかったところに,日本選手の限界があるようにも思えました。近年,初マラソンで好記録や高順位が続出しているように思いますが,これは日本マラソンの底上げができているとみるべきなのか,それとも中堅以上の選手が停滞しているとみるべきなのか,評価が難しいところですね。でも青学の選手はすごいです。別府のときの若林選手に続いて,このレースでも,黒田朝日選手が2時間6分5秒で日本人3位(総合6位)の快走をしました(若林選手を抜いて学生初マラソン最高記録でした)。
 いずれにせよ,雪の中のレースという点は考慮しても,やはり2時間5分台のタイムでは,世界のトップからは距離があると言わざるを得ないでしょう。

2025年2月25日 (火)

ドイツの総選挙の結果

 ドイツの連邦議会選挙の結果が不気味です。連邦議会では同盟関係にあるドイツキリスト教民主同盟(CDU)とドイツキリスト教社会同盟(CSU)が第1️党となり,CDUの党首のMerz(メルツ)が次期首相になるようです。Merkel以来の政権奪還です。与党だったSPD(ドイツ社会民主党)は,予想どおりScholz(ショルツ)首相の不人気もあって第3党に転落しました。CDUCSUは,SPDと連立を組んで過半数を維持することになりそうです。 第2党が,得票率を倍増させたAfD(Alternative für Deutschland:ドイツのための選択肢)です。いわゆる極右政党であるAfDが,SPDを上回るのは,ドイツでは大変な事件ではないかと思います。私はドイツの政治に詳しいわけではありませんが,歴史的なこともあり,ドイツで,こういう政党が出てくると欧州全体に緊張感が高まることになるのではないかと思います。
 欧州でもアメリカでも,移民問題が重要な争点です。選挙の前に,ミュンヘン(München)で,アフガニスタン国籍の難民申請者が車を暴走させて多数が死傷する事件があったことも,AfDにとって追い風となったようです。いまや左派も右派も移民には厳しいところがあります。移民に寛容な政策をとる政府は支持を得にくい状況が出てきています。
  すでにイタリアでは,こちらも極右政党と呼ばれるFdI(Fratelli d'Italia:イタリアの同胞)の党首のMeloni首相が2022年の総選挙で第1党になり政権をとっています。ネオファシスト系の政党なので,これまた欧州諸国はハラハラしていたようですが,ここまでは予想よりソフトに堅実な外交政策をやっているようです。ただ,Trump大統領との近さについては,不穏な空気を漂わせています。ただ,彼女が年初に述べた言葉は力強かったです。「Solo chi non fa non sbaglia.」。「何もしない者は,失敗もしない」という意味であり,前向きに挑戦していくという姿勢を示したものです。極右政党については,どの方向で前向きに行くのかが心配です。個人的には,欧州の移民政策が気になります。旅行者は関係がないとはいえ,排外的なムードが高まると,思わぬとばっちりを食いかねません。今年はイタリアに行く機会がありそうなので,気がかりではあります。

2025年2月24日 (月)

異国情緒の三宮?

 神戸の中心の三宮あたりを歩いていると,春節が終わって,少しましになったとはいえ,中国人の多さに驚きます。駅の近くだからそう思えるのかもしれませんが,いったいどこの国にいるのだろうと思うこともあります。神戸は異国情緒が漂う街ではありますが,これは違った意味です。
 これだけたくさん日本に来てくれるのは有り難いというべきなのか,やや複雑な気持ちです。1990年ころMilanoにいたとき,日本から多くの旅行者が来ていて,若い女性が高級ブランドを買い漁っているのをみて現地の人が顔をしかめていたのを思い出しました。それとは違う感情だと思いますが,なんとなく自国に,他国の人が,私たちの生活圏に近い所にたくさん現れると,どことなく落ち着かない気持ちになるのは,自然なことなのでしょう。理解できない言語で話している人が集まっていると警戒感をもつというのは,本能的なものです(言語が違う人は潜在的には攻撃者となりうるということ)。これも認知バイアスの一つでしょう。慣れてきて,警戒をもたなくてもよいという信頼をもてれば,大丈夫なのでしょうが,でも,そうなるでしょうか。接触する機会がもっと増えてくると,やっぱり警戒しなければならないという気持ちはなくならないような気もしています。

 

 

2025年2月23日 (日)

ホワイトハウス報道官

 Trumpの第2次政権の報道官は,Karolineという若い女性です。プレス対応を観ていましたが,見事でした。毅然とした話しぶりで,Trump政権の功績を強調し,つまらない質問や答えにくい質問は適当にかわしていました。アメリカの報道官の話は,あまりきちんと聞いたことがありませんでしたが,英語の勉強になるかと思い,YouTubeでたまたま見つけたので,見てみました。明瞭な英語で,これは英語学習には適しているかもしれません。ちなみにTrump大統領の英語もわかりやすいですね。英語の勉強の必要性はあまりないと言っていますが,学校教育で優先して教える必要はないと言っているだけで,空いている時間に趣味で英語をやることは,むしろ望ましいでしょう。もちろんポケトークに頼ると決めてしまえばそれでよいのですが,まあ英語に慣れておいたら良いことはあるでしょう。報道官の話などは,ちょっと知的な外国人と英語で話すときのつかみの話をする際のネタとしても最適でしょう。
 それにしても日本の官房長官の記者会見との違いには愕然とします。官房長官のメインの仕事はプレス対応ではないのでしょうが,記者会見する人に,もっと上手な人をあてれば,首相の政策がもっと伝わるのではないかと思います。Karoline氏の会見を見ていると,Trump支持者ではなくても,Trump大統領はよくやっているなと思わされます。雄弁術は,政治家には必要です(彼女は,当選はしていませんが,選挙に出たことはあるようです)。昔は田中角栄や春日一幸などがいましたが,いま雄弁術があるといえそうなのは野田佳彦氏くらいでしょうかね。

2025年2月22日 (土)

棋王戦第2局

 藤井聡太棋王(七冠,竜王・名人)に増田康宏八段が挑戦している棋王戦第2局は,藤井王将が勝って2連勝となり,3連覇に向けて王手をかけました。藤井棋王は普通に強かったですね。増田八段は先手番だったので,作戦を考えてきたのでしょうが,通用しませんでした。
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21日には,延期されていたA級順位戦の渡辺明九段と永瀬拓矢九段の対局がありました。渡辺九段の体調が心配でしたが,激戦の末,永瀬九段に勝ちました。これで渡辺九段は44敗となり順位の関係で残留を確定させました。千田翔太八段戦や佐藤天彦九段戦では,途中で投了するなど不本意な敗戦があったのですが,前半の貯金が生きました。
 これで,すでに降級が確定している稲葉陽八段以外のもう一人の降級は,現在44敗の千田八段,35敗の豊島将之九段,菅井竜也八段の誰かとなります。豊島九段と菅井八段は順位が上なので,3人が45敗で並ぶと千田八段の降級となります。最終局は,千田八段と豊島九段が対局します。豊島九段は勝てば残留で,負ければ残留は菅井八段の勝敗しだいとなります。千田八段は勝てば残留で,負ければ残留は菅井八段の勝敗しだいとなります。菅井八段は渡辺九段と対局し,勝てば残留で(千田八段か豊島九段の負けたほうが降級),負ければ降級です。
 藤井聡太名人への挑戦争いは,永瀬九段が敗れたので,天彦九段が62敗で単独トップ,これを永瀬九段と増田八段が53敗で追いかける展開です。永瀬九段と増田八段が最終局で対決するので,勝ったほうは63敗となります。そのため,天彦九段が,佐々木勇気八段に勝てば挑戦確定で,負ければ永瀬九段・増田九段戦の勝者とのプレーオフとなります。

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2025年2月21日 (金)

森林の大切さ

 死ぬまでに一度は行ってみたいところに,イースター島があります。正式名称は,スペイン語でパスクア島(Isla de Pascua)です。スペイン語を使うチリ領だからです。パスクアは復活祭という意で,英語にするとイースターです。ちなみに2025年は420日がパスクアにあたります。
 この島に行きたいと思うのは,モアイという巨像をこの目で見たいからです。直接行けなくても,VRで見られればよいかという気もしますが,そもそも南米に行ったことがないので,もし国際会議などで招待してもらえるような機会があったら,足を伸ばして訪問してみたいところです。オーストラリア経由もあるようです。
 モアイの建造には,森林伐採などの環境破壊をともなったとされています。それが文明を崩壊させたと言われています(ジャレド・ダイヤモンド(Jared Diamond)の『文明崩壊』(草思社文庫)が有名ですが,現在では異論もあります)。どうして人類は,貴重な森林資源を次々に破壊するという愚行をしてきたのかについて,この目で確認できるところはしておきたいという気持ちがあります。モアイを見るということよりも,どうしてモアイが建造されなくなったのかということのほうに実は関心があります。
 モアイ建立は,部族が権威を示すためという説や宗教的・呪術的な目的とする説などがあるようですし,多くの巨大建造物(ピラミッド,巨大神殿,日本の古墳など)は,多かれ少なかれこうした目的があるのでしょうが,それでも古代は自然環境に制約された厳しい状況にあるので,多少の余剰生産物があり富が蓄積されていたとしても,それが非生産的なことに使われたのはなぜかということには興味があります。
 ところで,人為的ではないかもしれませんが,最近でも巨大な森林火災が世界中の至るところで起きています。火災だと,あっというまに森林が消滅してしまいます。報道では直接的な人的被害や経済的損失に言及されることが多いように思いますが,森林のもつCO₂の吸収機能,生物を育む場としての機能などが失われることの影響も負けず劣らず重要です。自然発火は避けられない面もあると思いますが,それでもAIによる予知に取り組むべきですし,迅速な消火に取り組む態勢も必要でしょう。日本では,林野庁は消防庁とともに山火事防止のための取組を進めているようですが,環境問題は国境を超えるレベルの話なので,国際的な協力が必要ですね。

2025年2月20日 (木)

猫と鼠

 阪急電車に「トムとジェリー号」があります。なんでいまさらと思うのですが,『トムとジェリー(Tom and Jerry)』は根強い人気があるようです。もともとセリフがなく,視覚的なアクションでストーリーが伝わるため,公共の施設や病院,特に子ども向けの待合室などで流されることが多いと言われています(兵庫県立こども病院でも流れていました)。英語の勉強にはならないのですが,まさにそれゆえ言語の壁を越えて楽しめる作品と言われています。
 このアニメでは,猫のトムが鼠のジェリーにやられてしまうのですが,その前提には猫が鼠を狩るということがあるはずです(強いが愚鈍な猫が,狡猾な鼠に翻弄されるところが面白いということでしょう)。ところが,最近の猫はあまり鼠をとらないようです。猫は肉食なので,鼠などの小動物も格好の餌になるはずですが,猫もペット化していて,食事に困らなくなっているし,捕獲のスキルが身についていないので,鼠をとれなくなっているのでしょう。鼠対策で猫を使うというのは,もう過去のことなのかもしれません。
 ところで,イギリスの有名な民話に「ウィッティントンと猫(Whittington and Cat)」というものがあります。貧しい男が,奉公先の商人が外国貿易に出かけるというので,自分の飼っていた猫を託したところ,寄港先のアフリカの国の宮殿でネズミが大繁殖して困っており,その駆除にこの猫が大活躍したことで大儲けすることができ,その後,ロンドン市長にまでなったという話です。生産手段をもたない労働者には,自らの労働力を売るしかできないという話は,労働法の原点として出てくることですが,実は思わぬものが「資本」となり,利潤を生み出すこともあるということです。ウィッティントンが猫で儲けたのは偶然だったのかもしれませんが,同じ物品でも,場所が変われば価値が違い,その差が利潤につながるというのは,商業の基本であり,大航海時代にイギリスが大儲けをしたのも,この差を利用したからです。
 猫が鼠をとらなくなった時代に生まれた子どもたちは,この民話がピンとこないかもしれませんね。

2025年2月19日 (水)

鈴木法相の月餅問題に思う

 鈴木馨祐法務大臣が法務省職員全員に崎陽軒の月餅を配ったとのことです。差し入れという趣旨のようですが,公務員は他人から金品を受け取ることに敏感なはずであり,もらった職員のなかには困惑した人も多いのではないでしょうか。同じ公務員の上司からの差し入れであれば,許容されることもあるかもしれませんが,まずは警戒するのが普通でしょう。一方,政治家のほうも,他人に金品を与えることには慎重であるのは当然です。公職選挙法は,199条の21項で,「公職の候補者又は公職の候補者となろうとする者……は,当該選挙区(選挙区がないときは選挙の行われる区域……)内にある者に対し,いかなる名義をもつてするを問わず,寄附をしてはならない」とされ,1792項では,「この法律において「寄附」とは,金銭,物品その他の財産上の利益の供与又は交付,その供与又は交付の約束で党費、会費その他債務の履行としてなされるもの以外のものをいう」と定められています。要するに,政治家の選挙区内の人への寄付は,公職選挙法上禁止されているのです。職員のなかには,鈴木法相の選挙区の人が少なからずいるようなので,禁止規定に該当することは明らかなように思えます(ただし,「寄附」の解釈や例外的に寄附が許される場合の解釈によっては結論が変わりえて,私は公職選挙法の専門家ではないので,詳細は詳しい人に確認してみてください)。
  
実質的にも,社会儀礼上の行為のように思える差し入れとはいえ,職員は仕事の対価として給与をもらっているわけですから,やはり給与にプラスした金銭的利益(一種の現物給与)であり,これは禁止されていると解すのが妥当と思われます。いずれにせよ,特定の人に何か特別に重い仕事を頼んだときのお礼としての差し入れには,たとえ違法であっても「可罰的違法性」はないように思えますが,職員全員にばらまくのは,やはり問題があるでしょう。この大臣も元公務員のようなので,金品の授受には敏感であるはずですが,政治と金の問題に甘い自民党に所属しているため,そのあたりの感覚が麻痺しているのかもしれません。大臣を辞任すべきほどの行為であるかについては何ともいえませんが,「法務」大臣という地位にあることに鑑みると,やはり交替させたほうがよいように思います。
 ほんとうに職員を激励したいのであれば,まんじゅうのような好き嫌いのあるものを送るのではなく,自分の気持ちをこめたメールを送るほうが心に響くでしょう。モノを送るというところが古臭い感じがします。

2025年2月18日 (火)

入れ墨と採用

 入れ墨(刺青)を入れていないことを採用条件にしてよいのでしょうか。ネットをみると,いくつかの相談事例が出ていて,様々な回答が流れています。私の行きつけの美容室で接客してくれた若い男性(スタイリストではなく,シャンプー係)の腕に刺青があり,ドキッとしたことがありました。入れ墨というよりは,おしゃれタトゥーといったほうがよさそうですが,それは言葉の問題にすぎず,入れ墨であることに変わりはありません。長袖をすれば隠せるところだったので隠していないところをみると,本人も店のほうも問題なしという判断なのでしょう。まさか反社会勢力と関係があるということはないでしょうから,きちんと働いてくれたら問題はないでしょうし,かつて反社会的勢力にいても足を洗って更生しようとしているのであれば,受け容れるべきという気もします。客の立場からは,もし選んで指名できるなら,別の人を指名するかもしれない,という程度で,今後も気にはしないでしょう。でも,日本では入れ墨に嫌悪感をもつ人は少なくないでしょうから,接客業などであれば,入れ墨がないことを採用条件とするところがあってもおかしくありませんが,厚生労働省の「公正な採用選考」の趣旨からすると,応募者の適性・能力に基づいて採用選考を行うこととされているので,入れ墨の有無という採用基準はこれに合致しないことになりそうです。入れ墨が本人の思想や信条に基づいている場合には,応募者の基本的人権を侵害するという観点からも許されないことになりそうです。
 適性や能力という採用選考基準を取るべきというのは,社会的偏見に基づく差別を防ぐためにも望ましいことです。ただ,これをあまり厳格に企業に求めるのは妥当でないと考えています。応募者の適性や能力というのは,絶対的な基準によって判定すべきものではなく,その企業の業務や(ジョブ型の場合には)職務との関係で決まるものです。入れ墨があることが,当該企業で従事させようとする業務の適性に合致していないという場合であれば,採用基準にすることは許されます。また,かりにこのような意味での適性があるにもかかわらず採用拒否をしたとしても,それを違法として企業に採用強制するのは適切ではないでしょう。そこは,採用の自由が機能します。これが採用の自由の2段階構造論です(拙稿「
雇用強制についての法理論的検討──採用の自由の制約をめぐる考察」荒木尚志他編『労働法学の展望―菅野和夫先生古稀記念論集』(2013年,有斐閣)を参照)。

 

 

2025年2月17日 (月)

王将戦第4局

 215日と16日に高槻で実施された王将戦第4局は,途中まで藤井聡太王将(七冠,竜王・名人)が優勢で,このまま挑戦者の永瀬拓矢九段をスイープするかと思っていましたが,終盤になって藤井王将に悪手が出て,永瀬九段の逆転勝ちとなりました。藤井王将も人間だということでしょうね。一手の悪手をとがめて最善手で差し切った永瀬九段の実力もすごいです。次は38日と9日です。ところで,高槻は関西将棋会館が移転して,新たな将棋のメッカになろうとしています。高槻市に在住の友人が前夜祭に参加したと言っていました。抽選だそうですが楽しそうだったので,私も機会があればいつか行ってみたいです。
 歴代最高勝率がかかっている服部慎一郎七段は,朝日杯将棋オープン戦のベスト4で井田明宏五段に敗れて(優勝は,近藤誠也八段),さらに王将戦の1次予選で,西山朋佳女流三冠のプロ棋士挑戦を阻んだ柵木幹太四段にも敗れて366敗となりました。ただ,勝率は0.857で,中原誠16世名人の478敗(0.855)をまだ上回っています。本日は,王座戦の二次予選で出口若虎六段と戦っています。
 産休から復帰した福間香奈女流王座(五冠)に,西山女流三冠が挑戦する5番勝負は,福間さんの1勝を受けてなされましたが,福間さんが勝って連勝となり,防衛に向けて王手をかけました。産休明けというブランクを感じさせない戦いぶりですね。
 プロ棋士で心配なのは,渡辺明九段です。先日も不戦敗であり,A級順位戦の残り2局をどうするのでしょうかね。離婚報道もあり,心身ともに踏ん張りどころかもしれませんが,それは余計なお世話かもしれません。ただ,渡辺九段の足のケガをみると,正式な対局は原則として正座でやるということ自体,見直しが進むかもしれません。NHK杯も椅子対局ですしね。

2025年2月16日 (日)

萬井陸令『労働者派遣法の展開と法理』

 萬井隆令先生から,『労働者派遣法の展開と法理』(旬報社)(以下,本書)をお送りいただきました。いつも,どうもありがとうございました。労働者派遣法40条の6が施行されて,そこから派遣先との直接雇用の成立をめぐる裁判例が出てくるなか,新たな問題状況のなかで立ち上がらざるを得ないという思いで本書を執筆されたようです。多くの研究者がやり玉に上がっています。学問上の見解の相違という次元のものから,研究者としての姿勢の批判まであり,落ち着かない思いをした人が多いかもしれませんが,萬井先生からの批判は,むしろ研究者として認められたものとして喜んだほうがよいでしょう。
 私との見解の相違は,すでに明らかです。労働者派遣法40条の6(労働契約みなし申込み制)に対する「採用の自由」の観点からの私の批判は,先生によって批判されています(本書141頁以下)。ただ,この議論については,私は,2020年に発表した『人事労働法』(弘文堂)(以下,拙著)で,違った観点から議論を試みています(労働者派遣のことを詳しく論じたものではないですが)。すなわち,違法派遣は,派遣元企業への制裁での対応を中心とすべきであるということです。派遣先企業のほうが強い立場にあるとしても,「みなし申込み」のような形で,労働者の承諾だけで労働契約を成立させても「建設的」な関係が成立するわけではありません。「みなし申込み」制度の存在が,違法派遣を抑止する効果があればよいのですが,そうした効果をもつためには,規範内容が明確でなければなりませんが,実際には解釈上の争いがあるなど明確な規範にはなっていません。
 ところで,萬井先生は,労働者供給の場合に,供給先との間に黙示の労働契約を認める近藤昭雄先生の見解を批判するなかで,「黙示の労働契約論は,当事者の意思が現実に合致しているから黙示のうちに労働契約が成立したと認定するというものではない。企業が労働者を指揮命令して就労させている実態を観察し,客観的に黙示的に労働契約が成立している状況だと認定し,司法機関の権限において当該認定を企業に対して受け容れるよう迫る,押し付ける,その実態に責任を有する企業には異論を述べることは許さない,それが黙示の労働契約論であり,そして裁判の意義である」とおっしゃいます(本書59頁)。黙示の労働契約は,明示的な労働契約の成立に向けた意思表示がない場合でも,労働契約の成立に向けた意思表示があると認定できる,あるいは解釈できることを指すのであり,労働者供給の成否とは関係がないというのが,現在の一般的な解釈でしょう。もちろん,萬井先生の批判のポイントは,労働者供給の場合に労働契約が成立するとすれば,それは労働者の意思によるものではなく,意思とは異なる客観的な判断によるのだというものです。そして,ここが本書における萬井先生の重要な主張と関係していて,行政の「70年ミス」として指摘しているのも,この面にかかるものです。労働者供給の原則禁止(職業安定法44条)は,企業が直接雇用をしないで労働力を利用するということの禁止(直接雇用の原則)に基づくものであり,企業が直接雇用をしている場合は含まれないというのです。そして,直接雇用をせずに労働力を利用する企業に対しては,(萬井先生流の)黙示の労働契約論や,労働者派遣法40条の6により,直接雇用を強制しなければならないというのです。
 私は労働者派遣法40条の6のポイントは,1項ただし書における「善意無過失」の場合の免責にあると考えています。派遣労働者を受け入れる派遣先は,同条1項に規定する違法行為に該当しないように特に注意しなければならないというのが,この規定のポイントであり,それを意識して派遣労働者の人事管理をしなければならないのです(それが私がいう「労使双方に納得のいく契約管理」[拙著92頁]の労働者派遣版となります)。派遣先は,違法な行為でないことに確信をもてなければ行政の助言を得ることができるのであり(40条の81項),行政は,その際に40条の6を設けた政府の担当官庁として,責任をもった助言をしなければならず,そして,この適法との助言があれば,その内容は司法機関も尊重すべきであるということです(つまり,助言に従った行動をした場合には,適法性が推定されるということです)。直接雇用の原則の立場からはこうした解釈は生ぬるいということになるかもしれませんが,法律はルールに従った労働者派遣は許容していると理解するのが正しい見方であり,その際に重要なのは,いかにして企業にルールを守らせるかにあると考えるのが,「いかにして法の理念を企業に浸透させるか」(拙著のサブタイトル)をめざす「人事労働法」の解釈姿勢です。
 さて本書の一番最後にも,私が登場します(「あとがき」の280頁)。守島基博さんとの『人事と法の対話』(有斐閣)のなかで,派遣は労働者を「モノ」扱いをしてきたと語り合っているところが引用されています(同書22頁以下)。そして,そうしたモノ扱いを,萬井先生は,本書をとおして批判しているのです。思わぬところで私たちの対話が引用されていますが,その前後も読んでもらわなければなりません。守島さんは,通常の人事管理をしていないところをみて「モノ扱い」と言っており,私は事前面接をしないようなら「モノ扱い」になるではないかという言い方をしているのです。だから私は派遣を批判しているわけではなく,事前面接できないのがおかしいではないか,つまり派遣労働者をヒト扱いをすべきだと言っているのです。つまり,事前面接を認めないことへの疑問を提起しているのです(正確には,266項の特定行為の禁止の努力義務規定への疑問)。さらには,その根拠となる,事前面接を認めると雇用関係が成立して,労働者供給に該当するから許されないとする議論への疑問があるのです。この点では,萬井先生は,上述のように,そもそも労働者供給の場合に雇用関係が成立するということ自体がおかしいと批判しており,議論が錯綜してきます。
 先生のご意見を誤解していなければよいのですが,以上のような感想をもちました。

 

 

2025年2月15日 (土)

選択的夫婦別姓

 選択的夫婦別姓にこだわる自民党の重鎮たちは,これが自民党の存続を左右する重要な問題と考えているようです。自民党のコアの支持層が,夫婦同姓にこだわっているからのようです。しかし,多くの人は,夫婦同姓になぜそこまでこだわるのか理解できないでしょう。家族の一体感が損なわれるといっても,夫婦別姓の国では,ほんとうに家族一体感が損なわれているのでしょうか。同姓に固執するのは,自分が慣れしたしんだものとは違うから嫌だというくらいのことではないでしょうか。
 法務省のHPに,夫婦同姓に関する歴史が書かれていますが,夫婦が同じ氏にするというのは,明治以降の話です。それまでは,そもそも大多数の日本人は農民であり,氏はなかったのです(苗字を勝手に名乗っていた人はいたようですが)。夫婦同姓は日本の伝統を守るというほどのことではないのです。しかも,現在提案されている夫婦別姓は強制ではなく選択制です。かりに夫婦同姓が本当に伝統に根ざしているもので,それを国民がよいと考えているのであれば,同姓を選択する人が多数となるでしょう。選択制ですらダメというのは,まさに自己決定に関わることだと思います。すでに最高裁では,婚姻の自由を定める憲法24条との関係から,合憲判決を出しています(最も新しいもので令和3623日)が,違憲性を認める4人の意見(3人の反対意見と結論は多数意見と同じだが違憲性を認める1人の意見)と,状況次第では違憲となりうるとする3人の補足意見も付いていました。夫婦同姓は憲法論としても盤石なものではないのです。もちろん自民党は,現行の民法750条が,将来,最高裁の多数意見で違憲と判断されることに備えて,旧姓の通称使用を拡大する案を出していますが,これは理屈はともかく,夫婦同姓の不都合を軽減することに力点を置いたものでしょう。ただ,不都合を感じている人(実際には女性)のニーズに合うような改正に踏み込めるか疑問ですし,そこまでして夫婦同姓を原則としなければならない理由がそもそもはっきりしないのです。
 「守るべきものは守る」というのは大切です。でも「守るべきもの」かどうかをきちんと選別できなければダメです。日本の伝統を守ることは大切で,それを外国の価値観によってぶち壊すような政治勢力とは断固戦ってもらう必要があります。保守政党の存在理由は,真に守るべき伝統を守ろうとしている点にあります。しかし夫婦同姓というのは,伝統に値するようなものではないのです。こういうものを「守るべきもの」として執拗にこだわるのは,一見,信念をもった政治家という印象を与えながら,特定の支持勢力に尻尾を振っているだけではないかという疑念を私たちに抱かせます。

 

 

2025年2月14日 (金)

ポーツマス条約

 ウクライナ戦争の解決に,Trump大統領が乗り出してきました。アメリカの介入で停戦合意をしようということでしょう。そこで思い出したのが,ゼオドア・ロ(ル)ーズベルト(Theodore Roosevelt)大統領の仲介した日露戦争のポーツマス(Portsmouth)講和条約です。1905年の当時,アメリカは,ようやく先進国の仲間入りしたばかりの時期で,国際的な紛争の仲介で存在感を示そうとしたのと同時に,中国大陸での自分たちの利権のためにも日本が勝ちすぎないようにするという思惑もあったと言われています。講和条約の内容は,日本国民が期待していた賠償金を得ることはできず,その他の領土的な面でも十分な戦利品がなかったことから,国民の不満は爆発して日比谷焼討ち事件なども起きました。日本は限界まで戦って,もはや戦争続行が不可能なところまで来ていたので,停戦以外はなかったのです。それでもバルチック艦隊(Baltic Fleet)に大打撃を加えたなどの目立った成果があったため,戦勝という形はとれたものの,国民は疲弊していました。明治維新後の国力増強はロシアという大国に勝利を収めるくらいのレベルにまでは達したわけですが,背伸びをしたところもありました。このような経験をしているのに,その約30年後,太平洋戦争に突入し,今度は木っ端微塵にアメリカに打ち負かされました。ロシアには北方領土を占拠されたままです。日露戦争で,日本人は何を学んだのでしょうか。
 ウクライナは,アメリカが乗り出してきたことに期待をもっていると同時に,警戒もしているでしょう。領土的な面では,アメリカはウクライナに厳しい態度をとる可能性があります。アメリカ自身があちらこちらで領土拡大の意欲をみせているなか(パナマ運河,グリーンランド),ロシアの同様の意欲に理解を示す可能性が高いからです。とはいえ戦争を止めることができるとすれば,アメリカしかありません。その点だけをみれば,日露戦争のときに日本がアメリカにすがったときと同じような状況かもしれません。当時の全権大使の小村寿太郎は,国民からは講和条約の内容について批判されたものの,当時の日本からすれば,日本の極東の覇権を守り,ロシアの南下を阻止したという点で,国益をよく守ったのだと思います。ウクライナも,国益を守るために,外交官たちがどの程度頑張れるかがポイントなのかもしれません。

 

 

2025年2月13日 (木)

クリティカル・シンキング

 文部科学省の学習指導要領で,クリティカル・シンキング(批判的思考)の重要性が指摘されています。他人の意見に耳を傾けながらも,それを多様な視点から妥当性や信頼性を検討することの大切さを子どもたちに教えることは,とても重要です。SNS社会において「エコーチェンバー(echo chamber)」現象が起こりがちであり,それが選挙にも影響するという時代になっていることに鑑みると,ますますその教育の必要性は高まっているでしょう。
 その一方で,「エコーチェンバー」などが起こる原因が,その人が論理的思考に欠けるとか,(より端的に)バカだからそうなるということではない点も抑えておく必要があります。これは脳のクセであり,認知バイアスなのです。集団のなかで広がっている意見に同調するのは,人類が進化の過程で身につけてきたものであり,同調しなければ村八分になったりして生きていけなかったということがDNAに刻み込まれているのです。つまり、同調圧力は人類が生き延びる知恵でした。これが、SNSが形成する特殊な閉鎖的環境において行われている点に問題があるのですが,そういう世界に入り込むと脳がある意味で誤作動してしまうのは仕方がないところがあります。だからこそ教育が必要ということなのですが,より根本的には,どうしてエコーチェンバーのようなことが起こるかということも,教える必要があるでしょう。定説はないのかもしれないのですが,認知バイアスというものが人間にはあり,なぜそういうものがあるのかということについて,いろいろなありうる見解を教えるということはやってよいのではないかと思います。
 ところでクリティカル・シンキングを子どもたちに教えるということは,教師の話に対しても,批判的に向き合うべきことを教えるということでもあります。教師は,子どもたちからの批判的な質問にも立ち向かわなければなりません。たとえば,「親の言うことは聞かなければならないと教わってきたので,親の言うことは批判的に聞くなんてできない」と生徒が言ったときに,教師はどう答えるか,ということです。批判的な精神がない人については,幼いときから,親や目上の人の言うことに素直に従う「良い子」であることが多いでしょう。そういう人が実は社会の中枢にいることもあります。「親の言うことは例外です」という答えでよいか,あるいは「親の言うことだって批判的に聞くべきなのです」と答えるのか。クリティカル・シンキングがなぜ必要かは,そうしたこともふまえて,生徒にとって説得力をもった教育しなければならないのでしょう。

 

 

2025年2月12日 (水)

切り札マンはマッドマンか

 カードゲームのトランプは,英語では「trump」とは言いません。たんに「card」です。英語で「トランプをする」は,「play cards」です。英語で「trump」は,「切り札」という意味です。法哲学者のDonald Dworkinの「切り札としての権利」論は有名ですが,英語では「Rights as trumps」となります。日本でも憲法学者の長谷部恭男先生が,「切り札としての人権」というのを唱えています。
 日本語では,トランプ大統領の姓は,カードゲームを想起して変だなと思ってしまいますが,「切り札」という意味だとすると,アメリカ人(とくに彼の支持者)はこの姓を聞くだけで,アメリカを改革する「切り札」だと思うのかもしれません。
 就任後の矢継ぎ早の大統領令については賛否がありそうですが,とりあえずは「やっている感」は十分に出していますし,すでに一定の成果を出しています。Biden政権がやっていたことを,次々と覆すということになれば,とくに対外的な関係に関するものについてアメリカの信用を損なうことになりそうです。もっとも,多くの国は,アメリカというのは,そういう国であり,政権交代があると,オセロのように白と黒が入れ替わることがあると覚悟しているかもしれません。さらに,Trump大統領については,ニクソン(Nixon)元大統領の「狂人理論(madman theory)」を採用しているという説もあります。あいつは狂人で何をするかわからないと相手に思わせること,つまり「予測可能性がない(unpredictable)」ということが交渉力を高めるという理論です。普通の交渉であればともかく,国際的な舞台で大国がとる戦略としては品のないものと思えますが,大国がやるからこそ効果的ということでもあります。そう考えると,実はTrump自体は合理的な計算をして,不合理な人間を装っているのかもしれません。しかし相手にそう思われてしまうと,この戦略は失敗に終わるので,どこかでmadな行動をとって,やっぱりあいつはmadmanだと思わせ続けておく必要があります。そこでなされるmad な行為が日本に害が及ぶものでないことを祈っています。

 

 

2025年2月11日 (火)

建国記念の日のハッピーマンデー化の是非 

 今年の建国記念の日は火曜日です。火曜日の祝日はあまり嬉しくありません。この祝日をハッピーマンデーにすべきという人もいるかもしれません。この日は神武天皇即位の日ということですが,神話の世界の話であるので,どうしてもこの日にしなければならないことではないでしょうが,だからといってハッピーマンデーのように日を変動させてよいものでもないと考えられてきたのでしょう。
 国民の祝日に関する法律によると,ハッピーマンデーになるのは,成人の日,海の日,敬老の日,スポーツの日です。その他は固定日か,春分日と秋分日にそれぞれあてられる春分の日と秋分の日です。建国記念の日は「政令で定める日」となっており,建国記念の日となる日を定める政令により211日となっています。つまり211日は,法律で決められたのではなく,法律から授権された政令で定められているのです。211日は戦前は紀元節の祝日であり,これがGHQによって廃止されたという歴史的経緯があるので,復活させようとしたのですが,紀元節の復活という形はとれなかったので,建国記念日を祝日にすることだけ法律で定め,その日は政令で定めるという形式をとったのではないかと思われます。そうだとすると,実質的には紀元節の復活とみてよいものでした。こういう歴史的経緯を考えると,211日は実質的に固定日なので,ハッピーマンデー化はできない(許されない)ということになりそうです。GHQの介入に対する抵抗という意味もあるかもしれません。
 私は建国記念日を祝日にしてもよいと思いますが,その日は2月の第2月曜にすることも検討してよいのではないかという立場です。もちろん211日に神武天皇の即位をお祝いしたい人はしてよいのですが,祝日は動かしてよいのでは,という提案です。現役の天皇の誕生日の祝日は固定日であるのは当然ですが,神話の世界の初代天皇の即位日まで同じようにする必要はないということです。もっとも,休日を連続させるという俗な理由で,建国記念日という国にとって根本的に重要な日をハッピーマンデー化して変動させることはあってはならないという批判などはありえるでしょうし,思想的にはリベラルな私(自分ではそう思っている)でも,こうした批判を理解できないわけではありません。
 ちなみに「国民の祝日」は休日です(31項)。しかし,これは労働基準法上の「休日」としなければならないわけではありません(同法35条を参照)。民間企業では,国民の祝日を休日にするかどうかは自由に決められます(ただし,神戸大学の就業規則では,国民の祝日は休日とされており,同様の規定をもつ企業は多いでしょうし,行政機関については法律で国民の祝日は休日とされています[行政機関の休日に関する法律12号])。
 国民の祝日であることの意味は,その程度のものであるので,211日を祝日にすることにこだわらず,お祝いしたい人だけ211日にこだわって,各自でやればよいという気もします。しかし,その一方で,私たちの社会において,その統合やアイデンティティを考えるうえでは,神話こそ大切という考え方もあります(人類の発達における神話の意味は軽視できません)。211日を建国記念の日の祝日とすることに,そういう意味があるのであれば,ハッピーマンデー化を求めるべきではないのかもしれません。さて皆さんはどう考えるでしょうか。

2025年2月 9日 (日)

小学校での英語教育必修化の成果について

 2020年に小学校での英語教育が必修化・教科化がなされました(5年生以上は教科化により成績評価あり)が,その成果についてはあまり良い評判を聞きません。公立学校において,他の科目でも課題はあるかもしれませんが,英語のように新しく必修化・教科化された科目では,特に教育の在り方が問題になっている可能性があります。その一因として,国語や算数とは異なり,親世代の理解や関心にばらつきがあることが考えられます。幼児期に家庭で英語学習の経験がある子と,そうでない子の間には大きな差が生じる可能性があるからです。ひらがなや足し算のような基礎的な学習は,ほとんどの家庭で幼児期から何らかの形で教えられています。しかし,英語についてはそうではありません。そのため,小学校に入学した時点での学習経験の違いが,顕著な差となって表れるのです。言語の習得は時間さえかければ一定のレベルに到達できますが,小学生の特定の時点で比較すると,先行学習の有無が大きな差を生みます。この差を問題視し,全体のレベルを低い基準に合わせようとすれば,すでに一定のレベルに達している子どもの学習意欲を損ない,結果的に平均レベルが低下する可能性があります。また,評価の際にも,妙に進んだ解答をするとになるといった困った事態が発生することも懸念されます。
 実際に聞いた話ですが,「Because」の意味を学ぶ授業で,「Because」以下を英語で続けて書いた生徒が,先生から注意されたそうです。Becauseの意味さえ理解できれば十分ということなのかもしれませんが,英語で続けて書くこと自体を誤りとするのは,学習の目的と矛盾しているように思えます。こうした事態が起こる背景には,そもそも小学校の英語教育の目標が明確でないことが挙げられます。「Becauseの意味を理解する」というのは,英語習得という大きな目標の一部分に過ぎません。目標を細かく分断し,個々の小さな課題に固執すると,学習の本来の流れが断絶されてしまいます。これは,マラソンを5キロごとにいったん全員で止まりながら走るようなもので,最終的には最も遅い人のペースに合わせることになってしまいます。この問題の背景には,「競争は悪である」という思想が影響しているのかもしれません。しかし,それ以上に教師側の指導能力の限界が要因となっている可能性もあります。例えば,Becauseの後に英語で文章を書いた生徒に,教師は適切な指導をすることが難しいため,結果として生徒の自由な表現を制限せざるを得ないのかもしれません。AIを活用すれば対応可能でしょうが,現時点では十分に普及していないのが実情です。
 また,自由に「走らせる」と,学習の進度が遅い子が劣等感を抱くという懸念もあるでしょう。特に英語は,幼児期の家庭環境の影響を受けやすいため,学校としては,義務教育の中でその差を容認することに抵抗を感じるのもわからないではありません。しかし,そのために教育の質を下げるのは本末転倒でしょう。
 そもそも,小学校で英語を必修化すること自体に問題があるのではないかとも思います。英語学習は中学からでも十分対応可能であり,しかもAIを活用したアダプティブ・ラーニングを導入して,個々の進度に応じた最適な学習が求められます。もしどうしても小学校で英語を学ばせるというのであれば,アダプティブ・ラーニングの活用は必須でしょう。
 小学校の教師には英語やプログラミングのようなことにエネルギーを使うのではなく,もっと基礎的な教育に力を入れてほしいと考えます。例えば,社会生活の重要性や,人との関わり方といったことは,学校ならではの教育内容です。
 AI時代において,真に充実した人生を送るための教育とは,知識を詰め込み,試験で評価することではありません。大切なのは,子ども一人ひとりの意欲や能力に合った教育を提供し,本人に合った真の意味での実力を身につけてもらうことです。そのために,学校現場でも文部科学省でも,AIの活用を中心に据えながら,より的確な教育手法を開発してもらえればと思います。

2025年2月 8日 (土)

王将戦第3局

 藤井聡太王将に永瀬拓矢九段が挑戦している王将戦の第3局は,藤井王将が勝ち3連勝となりました。素人には白熱した攻防でどちらが勝っているのか,よくわかりませんでしたが,最後は藤井王将が,永瀬九段の攻めを読み切っていたようです。藤井王将の将棋は,玉をあまり囲わずに,最低限の防御で攻めていき,相手の攻めをぎりぎりのところでかわすというスリリングなものです。これだと一手間違えれば「大怪我」する将棋となりそうですが,卓越した読みと勝負勘で他の追随を許さない感じですね。
 順位戦はB1組が6日に行われました。すでに昇級は,糸谷哲郎八段と近藤誠也八段(昇段)で決まっていますので,降級争いが注目されていました。この日はまず降級が決まっていた山崎隆之八段が,羽生善治に勝って,昇段後250勝という基準を満たして,めでたく九段昇段が決まりました。来期はB2組ですが,最後に意地をみせました。一方,羽生九段は敗れて47敗となり,最終局に勝てば残留,負ければ降級という瀬戸際に追い込まれました。対戦相手は,この日,斎藤慎太郎八段に勝った大橋貴洸七段です。大橋七段は65敗,斎藤八段は56敗です。斎藤八段は負けましたが羽生九段が負けて,順位が上なので残留が確定しました。降級のピンチであった三浦弘行九段は,近藤八段に勝って首の皮一枚つながりました。これで47敗で,次局に羽生九段が負けて,自身が勝てば残留です。羽生九段が勝てば,自身が勝っても順位の差で降級です。また,羽生九段と三浦九段のどちらかが勝って57敗となり,現在ともに56敗の大石直嗣七段と高見泰地七段が対戦するので,どちらかが必ず57敗となり,どちらも,羽生九段と三浦九段より順位が低いので,負けたほうが降級となります。ということで,羽生九段と三浦九段は負ければ降級,羽生九段は勝てば残留,三浦九段は勝っても羽生九段次第では降級,大石七段と高見七段は,勝てば残留で,負ければ,羽生九段と三浦九段の少なくともどちらかが勝っていれば降級となります。
 B2組は,服部慎一郎六段が勝ってB1組に昇級を決め七段に昇段すると同時に,勝率が9割に到達しました。いよいよ歴代最高勝率という大記録の達成がみえてきました。また,青嶋未来七段が絶好調であった阿久津主税八段に大逆転で勝って昇級を決めました。昇級は3人ですが,もう一人については,大本命の伊藤匠叡王が,深浦康市九段に負けて72敗で足踏みしました。最終局の相手は,63敗の丸山忠久九段です。丸山九段は今期は藤井七冠(竜王・名人)に勝って銀河戦に優勝するなど,まだまだ力は侮れません。丸山九段は伊藤叡王に勝って,63敗の及川拓馬七段が戸辺誠七段に負ければ昇級となります。及川七段は,丸山九段や伊藤叡王より順位が上なので,自身が勝って73敗となり,伊藤叡王が敗れれば昇級となります。
 
 C1組はベテランの井上慶太九段に昇級のチャンスがあるのですが,前局は,すでに昇級を決めている斎藤明日斗七段に敗れて63敗に後退しました。藤本渚五段は古森悠太五段に逆転勝利で81敗となり,昇級に王手をかけました。最終局の阿部隆九段戦に勝てば昇級。負ければ,現在72敗が2人いる(佐藤和俊七段と冨田誠也七段)ので,最終局に2人とも勝てば,順位が下の藤本五段は昇級できません。井上九段には大逆転の可能性があります。最後の一人の枠に向けて,自分よりも現在上にいるのは,7勝の2人と6勝の1人(飯島栄治七段)であり,もしこの3人全員が敗れて,井上九段が金井恒太六段に勝てば昇級となります。ありえない話ではありません。還暦超えの井上九段が昇級したらビッグニュースとなるでしょう。藤本五段の師匠は井上九段なので,師弟同時昇級ともなります。

2025年2月 7日 (金)

アナログな交友関係とダンバー数

 ダンバー数(Dunbar’s number)という言葉を耳にしたことがある人も少なくないでしょう。Wikipediaによると,これは「人間が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限」とされ,150200人程度と言われています。ハラリ(Harari)の『サピエンス全史』でも,たしか狩猟採集時代の部族の規模が150人以内だったという話が出てきた記憶があります。私はこの数字を,「アナログ的な交友関係の上限」くらいに考えています。SNS時代になり,この数を大幅に超える人も多いでしょうが,私は基本的にSNSを使っていないため,交友関係は自然と狭くなりがちです。さらに,数年前に年賀状を廃止したことで,その関係はさらに細ってきました。
 よく考えると,年賀状をやりとりしていた頃の交友関係は,ちょうどダンバー数くらいだった気がします。弁護士事務所からの事務的な年賀状もありましたが,それらも広義では「交友関係」であり,いざというときに役立つコネクションでもありました。アナログ的な交友関係は,親密なものから薄いつながりまで含め,年を重ねるごとに自然に増えていきダンバー数程度に到達していたと思います。
 最近,私の周りでも年賀状をやめる人が増えているように感じます。ただ,いちはやく年賀状離れをしていた私としては,その流れを横目にちょっと違った感想をもつようになりました。文字を書き始めた幼児は,友達から届く年賀状を楽しみにし,そこには象形文字のような解読が難しい字(記号?)や手書きの絵が添えられるもので,受け取るだけで喜んでいますし,大人がみても微笑ましいものです。子どもには,こうしたアナログな体験を大切にしてほしいと思いますし,年をとると,どこか子どもに感覚的に戻るような気もします。
 とはいえ,いまさら年賀状を再開するのは面倒ですし,当面はSNSを活用する気もないので,交友関係はアナログ的手段に頼ることになりそうですが,少しずつダンバー数に近づけることはできないかと考えています。ただ,電話や頻繁な交流はあまり得意ではありません。自分に合った,無理のない交流手段を見つけることが,これからの課題であり,そこで鍵となるのは「デジアナ・バランス」のような気がします。

 

 

2025年2月 6日 (木)

教育無償化に思う

 日本維新の会は,教育無償化を推進する前原誠司共同代表が国会議員のリーダーとなり,この政策を進めようとしています。当面は高校授業料の就学支援金制度の所得制限撤廃と支給上限の引上げが論点となっているようです。大学も含めた高等教育の教育無償化は,一見よそうさな政策ですが,賛否両論がありえます。否定論としては,「高等教育機関に行かなくてもよい人々を過剰に誘導するのではないか」という懸念があります。現代において大切なのは,特定のスキルを磨くことです。高校や大学での総合的な教育よりも,専門学校などで尖ったスキルを身につける方がよいということもあるのです。つまり教育無償化が全ての学生にとって最適であるとは限らず,多様な進路選択を支援する制度こそ求められるといえます。
 一方で,教育無償化は,人的投資という観点から極めて重要です。昨日のBSフジのプライムニュースでは,土地問題について論じられていましたが,評論家の人が,現在の親たちは,子どもに残すべき資産としては,土地などの不動産ではなく,教育であると考える人が増えているのではないかと指摘していました。金銭的なものではなく,子どもが稼得能力を高めたり,豊かな人生を送る可能性を広げたりできる教育への投資こそが,不動産に投資するより重要ということです。日本人の間では土地神話が強いといいますが,それも変わっていくのではないかということでしょう。人口が減少していく日本では,住宅が余り,住宅政策の優先順位が下がっていく可能性があるのです。多くの国民は,効果がでるまでに時間のかかる教育への投資は,ややもすれば後回しにしがちであり(現在バイアス),だからこそ国家が介入する意味があるのです。これからのデジタル時代に対応できる能力格差(デジタル・デバイド)は貧富の差に直結する可能性があり,それを防止することこそ最も優先度が高い政策なのです。
 そうみると,教育無償化の意義は小さくありません。今後は,多様な教育の選択肢を整備しつつ,デジタル社会に適応できる学びを提供することが重要です。とくに重要なのは,AI時代にふさわしい教育システムを構築すること(カリキュラムだけでなく,AIを活用した教育など)であり,それがなければ,無償化の効果もでないということも忘れてはなりません。

2025年2月 5日 (水)

睡眠とエントロピーの法則

 前に睡眠をめぐる議論について紹介したことがありましたが,よく考えると,唯脳論や『バカの壁』(新潮新書)の養老孟司氏が睡眠のことを語っています。いろんな箇所で語られていますが,たとえば新しいものでは,「婦人公論.jp」の「養老孟司 サルやイノシシが畑を荒らすようになった意外過ぎる理由とは…『一方の秩序が、他方の無秩序を引き起こすということ』」に,次のような記述があります。「意識という秩序活動が生み出した無秩序は,脳自体に蓄積する。脳に溜(た)まった無秩序を,脳はエネルギーを遣って片付ける。その作業の間,当然のことだが意識はない。それを人々は「眠る」という。眠るのは休んでいるのだ。それが通常の了解であろう。休むというのはエネルギーを遣わない。ところが寝ていようが起きていようが,脳はエネルギーを消費するのである。ということは、寝ている時間は「休んでいる」つまり「エネルギーを遣わない」時間ではない,ということである。それは「無秩序を減らして,元の状況に戻す」ということなのである。」
 睡眠をエントロピー増大の法則(熱力学の第2法則)で説明されています。脳は種々の情報をインプットしながら秩序を形成する一方,多くの無秩序を形成しています。意識がある間は,せっせと秩序形成をするのですが,脳には不要な情報もたくさんインプットされているので,睡眠中はそういうものは秩序づけないまま消去されるのでしょう。その過程でみる「夢」は,情報が整理されず無秩序のまま現れるので,現実離れしたものであるのは,それゆえかもしれません。一方で,夢のなかで数学の問題が解けたりするというのは,寝ていても秩序形成をしているのでしょう。どうしても必要なときには,寝ている間にも脳に頑張ってもらう必要があるかもしれませんが,そればかりやっていると脳は余分にエネルギーを消費し,それだけエントロピーが余分に増大し,健康に良からぬ影響を起こす可能性があるのではないかと思います。ただ,このあたりは,よくわからないところも多いので,専門家からしっかり教えてもらいたいです。

2025年2月 4日 (火)

棋王戦始まる

 藤井聡太棋王(七冠,竜王・名人)に増田康宏八段が挑戦した棋王戦の第1局は藤井棋王が勝ちました。タイトル戦初登場の増田八段は,作戦を用意していたようで,序盤から藤井棋王は時間を使わされて,途中では残り時間にかなり差がついていました。形勢は互角かやや増田有利であったようですが,1手の緩手をとらえて,藤井棋王が少しずつ優勢となりました。圧巻だったのは,93手目を指して残り3分になってから,相手が投了した127手目まで18手を1分以内で指し続けたことです。棋王戦はストップウォッチ方式で,1分未満で指すとすべて切り捨てになり,残り時間は減らないので,「永遠の3分」の発動と話題になりました。増田八段は時間攻めをしたつもりが,最後は,藤井棋王は時間がなくても勝ちきれるという終盤力を見せつけたもので,増田八段もショックを受けたでしょう。
 この将棋が行われた2日は,NHK杯でも増田八段が登場していて,梶浦宏孝七段に逆転勝ちをしていました。A級順位戦でも53敗で名人挑戦の可能性を残しています。叡王戦でも本戦トーナメントに進出して,初戦で惜しくも藤井七冠に負けていましたが,現在,最も勢いのある若手棋士の一人であることに間違いないのです(取りこぼしも多いですが)。ただ,より若い絶対王者の藤井七冠にはどうしても勝てません(棋王戦初戦を含めて,対藤井戦は1勝7敗)。
 2014年に16歳でプロになった増田八段は,2016年に14歳でプロになった藤井七冠は別格としても,それに次ぐくらいの早熟の天才でした。藤井七冠がプロになるまでは,増田八段が唯一の10代棋士でした。しかし,その後は一気に抜かれて差がついてしまいました。増田八段としては,藤井七冠を超えなければ,彼の将棋人生の先は展望が開かれません。A級棋士にはなりましたが,やはりタイトルを取りたいでしょう。第2局以降の頑張りに期待したいです。

 

 

2025年2月 3日 (月)

別府大分毎日マラソン

 節分が終わり,立春となりましたが,これから寒い日が到来します。これまでの慣行で,こういう悪い時期に試験をやり続けているのですが,そろそろ変えたらどうですかね。良い季節に試験をやったほうが学生も実力を発揮できてよいでしょう。4月入学の見直しこそ必要です。将来の教育というのは,それを専門とする役所をつくるべきで,そこで思い切った教育改革に臨んでもらいたいものです。いつも同じようなことを言っていますが。
 ところで,昨日の別府大分毎日マラソンは,ずっとみていましたが,見ごたえがありました。優勝したケニア選手(キプチュンバ)はさすがでしたが,青山学院の若林選手の激走には,多くの視聴者がくぎづけになったことでしょう。最後は少し引き離されましたが,わずかな差です。でも彼は競技生活を引退するそうで,これがラストランとしてマラソンを走り,それで初マラソン最高記録(もちろん学生最高記録)の2時間67秒を出しました。すばらしい記録です。箱根の5区の激走も印象的でした。もったいないという声もありますが,彼が競技をやめるという気持ちは,理解できるような気がします。おそらく彼は出し切ったのでしょう。それで2時間2分で走ったのならともかく(世界記録は2時間035秒),2時間6分です。トップのキプチュンバとはわずかな差であるとはいえ,その差が大きいのです。これからマラソン練習に本格的に取り組んだとしても,2時間2分レベルには到達する可能性は小さいでしょう。記録より勝負ということだとしても,オリンピックとなると,キプチュンバクラスの選手がたくさんいるのです。レースの展開によっては,8位くらいに入ることはできるかもしれませんが,そのためにこれからの生活の大半を練習に捧げるのはもったいないと考えたのではないでしょうか。そして燃え尽きていなければ競技を続けたのかもしれませんが,彼なりにもう十分に達成できたのでしょう。
 ところで,このレースでは,ノーベル賞受賞者の山中伸弥先生も走っていました。62歳で,3時間2032秒の自己ベスト更新というのは,すごいことです。ただ,なぜ彼が走っているのかというと,どうもそれは,iPS細胞研究所の名誉所長として,「iPS細胞研究基金」をマラソン出場を通じてPRし,その抱える財政的な課題を解決するためのようなのです。日本が世界に誇るiPS細胞について,その研究に対して十分な公的助成がなされていないとするならば,それは嘆かわしいことです。どのような事情があるか詳細はよくわかりませんが,教育や研究のお金をもっと戦略的に使ってもらえないかと思います。それだけでなく,山中先生が(身を削りながら?)走らなければならないというのは,夢のない話であり,若い人たちが研究の道に進むことをためらうことにならないか心配です。

2025年2月 2日 (日)

四足歩行から四足走行へ

 ロボット技術の進化に伴い,人型ロボットも進化を続けています。人間と同様の動作を求められる人型ロボットは,当然ながら二足歩行でなければなりません。しかし,機能面を考えると,四足歩行ロボットのほうが安定性が高く,実用的な場面も多いでしょう。
  
人類は,かつて四足歩行(ナックルウォーキング:Knuckle Walking)をしていた祖先から進化し,二足歩行ができるようになりました。これにより,チンパンジーとは異なり,両手を自由に使うことが可能となり,道具の使用や獲物の運搬が容易になりました。また,視界が高くなり,遠くの獲物を見つけたり,ライオンなどの捕食者をいち早く発見したりすることができるようになりました。完全な直立歩行を確立したのはホモ・エレクトス(直立したヒト)の時代であり,この進化により,ナックルウォーキングをするチンパンジーや初期の猿人とは異なり,骨盤の重心が中央に移動し,安定した歩行が可能となりました。
 二足歩行には「倒立振り子モデル」に基づく効率的な歩行メカニズムがあり,重心移動の際に筋力をあまり使わず,重力を活用して前進することができます。これにより,人間は長距離の持久力に優れ,四足で走る動物には短距離では敵わなくとも,長距離では競争できる可能性があります。
 ここからは少し妄想を交えてみましょう。オリンピックの陸上100メートル走において,「四足で走ってはならない」というルールは存在しないはずです。鍛え方によっては,人間でも四足で走ることで短距離のスピードを向上させることができるかもしれません。四足歩行ロボットの開発は,動物の動きを参考にして進められていますが,その分析結果を人間のトレーニングに応用すれば,二足よりも速く走れる可能性があるのではないでしょうか。
 もし,二足で走る人類の世界記録を,進化の過程で捨てたはずの四足走行によって塗り替えることができたら痛快でしょう。現在,四足走行による100メートルのギネス記録1566です。ウサイン・ボルト(Usain Bolt)の世界記録(958)とはまだ大きな差がありますが,将来的にトレーニング方法が進化すれば,この記録も更新されるかもしれません。

2025年2月 1日 (土)

大学教員の労働者性

 労働者の多様化や柔軟化ということが言われるなか,実は,労働者のカテゴリーに含まれている者のなかで,最も労働者性の「程度」が低いと考えられるものの一つが大学教員です。大学教員は,基本的には研究者であり,研究の知見を背景にして教育を行うものだと,私は考えています。規制・制度改革学会の雇用分科会では,当初,大学教員のことが話題となっていました。労働法規制の柔軟化を考える場合,自分たちの立場を振り返りながら規制の要否を考えるのが,思考実験としては適切といえるからです。大学教員のなかで,自分が労働者と考えている人は少ないでしょう。専門業務型裁量労働制の適用を受けて,労働時間のみなし制が適用されているケースが多いことも,労働者であるという意識を薄める効果をもつものといえます。
 告示で定める専門業務型裁量労働制の対象業務に,「学校教育法(昭和22年法律第26)に規定する大学における教授研究の業務(主として研究に従事するものに限る。)」が追加されたのは,2003年です。そこでいう「教授研究」とは,「学校教育法に規定する教授等が,学生を教授し,その研究を指導し,研究に従事すること」であり,「主として研究に従事する」とは,「業務の中心はあくまで研究の業務であることをいうものであり,具体的には,研究の業務のほかに講義等の授業の業務に従事する場合に,その時間が,多くとも,1週の所定労働時間又は法定労働時間のうち短いものについて,そのおおむね5割に満たない程度であることをいうものであること」とされています。裁量労働制の適用を受けているということは,研究業務がおおむね5割以上であるということが前提だということですが,講義等の授業の業務が5割近くあっても裁量労働制の適用となってしまうことに違和感をもつ人も多いでしょう。ただ,私立大学より授業負担が相対的に少ないとされる国立大学の教員は,おそらく研究業務の割合はもっと高いので,結果,自分が労働者であるという自覚も薄くなるわけですし,裁量労働制における最近の規制の強化は迷惑なことと思っていることでしょう(同意要件や健康確保措置など)。
  大学教員の仕事は,講義等の授業以外にも,学内業務(会議出席など)や入試関連業務などがあり,そうした研究以外の部分については,大学の指揮監督下にあります。研究面での裁量との落差が大きいです。研究成果を教育に活かすということからすると,研究と教育は業務として分離できないのであり,ましてや5割とかの数値化も無理なものです。通達の5割基準というのは実効性のないものです。分離できるのは,研究・教育とその他の業務です。
 ところで,大学の専任教員を労働者とするのであれば,ましてや非常勤講師は労働者であろうという「相場感」はあるように思います。教育という面からすると,非常勤講師も専任教員も同じであり,専任教員のなかの労働者的要素を基礎づける教育のみを担当してくれる非常勤講師であれば,当然,雇用契約で働いて労働者性が肯定されると考えられてきたと思います。非常勤講師は,「正社員」ではないので,大学組織による保護や支援の対象外となるとしても,それは法的な地位とは関係ないものです。そのような一般的な理解を覆すような判決があります。それが東京藝術大学事件・東京地裁判決(2022328日)です。非常勤講師は労働契約法上の労働者ではないとして,同法19条の適用を否定しました。つまり非常勤講師の契約は,労働(雇用)契約ではなく,有期の業務委託契約であったということです。現在ではフリーランス法の適用がある契約ということでしょう。この判決には,判断基準やそのあてはめが適切かという,労働者性の問題につきまとう,でも議論してもあまり理論的に建設的でない論点がありますが,それよりも大学教員の仕事について純粋に教育面だけみると,労働者性を根拠づけにくいということを示唆する判決のようにも思えます。これは専任教員だって同じではないでしょうか。ただ専任教員には通常は授業以外の業務もあり,そこが非常勤講師と違い,労働者性を基礎づけるものとなるのでしょう。そして,まさにその部分が大学教員の研究時間を削いでいるのです。望ましいのは,大学教員の研究の比重を高め,研究と教育は一体的なものととらえたうえで,労働法の規制を外し,その他の業務をさせる場合には別途に雇用契約を締結したものとし,その限りでは労働法の適用を受けるということにすればどうでしょうか。しかも,その雇用契約の部分は,ほんとうは大学教員がやらなくてもよく,他の人と雇用契約を締結してやってもらってもよいものなのです(たとえば入学試験における監督業務について)。
 もう一点,継続的な業務委託契約の更新拒絶については,労働契約法19条の類推適用があってもよいのではないかという論点もありそうです。これは前から議論されているものですが,19条が成文化されてしまい,雇止め制限法理は労働者にしか適用できないという誤解を生んでしまったのではないかという気がします。実質的に無期となったり,更新期待の合理性があったりする場合には,正当な理由がない更新拒絶は違法となるという考え方は,業務委託契約であってもありえます。ただ,その際には「みなし承諾」のような効果ではなく,損害賠償であるべきです。これは解雇の金銭解決の議論とも関係するもので,無期雇用の金銭解決が難しいというのならば,まずは有期雇用の雇止めについて金銭解決を考えてもらいたいです。もしそういうことができれば,有期の場合,雇用であれ,業務委託であれ,同じような枠組みで更新拒絶の違法を論じることができ,労働者かどうかの判断で考慮される事情は,端的に,更新拒絶の正当理由の枠内で考慮することができます。雇止めと金銭解決については,拙著『労働の正義を考えよう―労働法判例からみえるもの』(2012年,有斐閣)51頁で少し言及しているので,興味のある人はみてください。

 

 

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