東亜ペイント事件・最高裁判決の先例性
今年4月の滋賀県社会福祉協議会事件に関する最高裁判決は職種変更の事案でしたが,この判例評釈において,東亜ペイント事件の最高裁判決(拙著『最新重要判例200労働法(第8版)』(弘文堂)の第33事件)が先例として挙げられています。たとえば,ジュリスト1600号に掲載された橋本陽子さんの論考がその一例です。いくつかの有力な教科書をみても,職種変更と勤務場所の変更が「配転」として扱われ,東亜ペイント事件は配転の事案であるため,職種変更の場合にも適用可能とされているように読めます。しかし,「A」という上位概念が下位の「B」と「C」という各概念で構成されている場合,B概念に関する判例がA概念に関する判例と位置づけられ,C概念にも適用されるとするためには,やはり説明が必要でしょう。なぜなら,この場合,A概念がB概念とC概念で構成されるという整理自体が,どのような理論的根拠に基づいているのかが,必ずしも明確ではないからです。
東亜ペイント事件の最高裁判決は,勤務場所の変更,つまり転勤に関する事案に関するものです。なかでも住居の変更を伴う転勤について下された事例判決です(なお,判決内ではこの会社の就業規則に「配置転換」という言葉は出てくるだけで,その他は「配転」という言葉は登場せず,「転勤」という言葉しか出てきません。また,事案としても営業職からの変更はないという意味で職種変更の要素がない事案で,勤務場所の変更だけが問題となっているのです)。私は,東亜ペイント事件判決は,滋賀県社会福祉協議会事件とは本来は無関係であり,もし私が答案を遠慮なく採点するなら,滋賀県社会福祉協議会事件に関する検討で何の説明もなく東亜ペイント事件を先例として持ち出すと不合格としたくなります(実際には不合格とはしませんが)。
配転に職種変更と勤務場所の変更(転勤)が含まれるとする概念整理そのものの妥当性は否定しませんが,だからといって職種変更と転勤のもつ意味が大きく異なることは忘れてはなりません。職種変更は現代ではジョブ型やキャリアといった観点から論じられることが多く,企業の人事上の必要性と考量される不利益性の内容もそれに関するものが多いです。一方,転勤では,ワーク・ライフ・バランスなどが問題となり,考慮される不利益性の内容が職種変更の場合と質的に異なります。企業が人事異動に関する大きな権限を保有し,職種や勤務場所の決定について広い裁量をもっているのですが,法的な視点からは両者の異質性をしっかりと見極めたうえで(とくに権利濫用性についての)判断をする必要があります。
そもそも配転に限らず,人事上の権限行使については,就業規則の(合理的な)根拠が存在するか,特約により制限されていないか,そして当該権限行使が就業規則に則して行われているか,さらにはそれを基礎づける業務上の必要性と労働者の不利益性を考慮し,権利濫用がないかなどを判断すべきものです。この判断構造は基本的にすべての人事権に共通します(もちろん,私の「人事労働法」の立場からは,納得規範を適用するため,やや異なった判断構造をとります)。そのなかで,たとえば解雇であれば解雇の特質に応じたアレンジがなされ,懲戒や出向なども同様です。職種変更と転勤も,それぞれの特質に応じたアレンジが必要です。職種変更と転勤を配転として単純に一括りにすることには,理論的な疑問が残ります。
拙著『人事労働法』(弘文堂)では,住居の移転に伴う転勤をその他の配転とは区別し,第5章「人事」ではなく,第7章「ワーク・ライフ・バランス」の中で,労働時間や休息,育児・介護と並ぶ項目として扱っています。
LSの授業では,学生の司法試験の受験のことを考慮して通説から離れることはできるだけ回避していますが,職種変更と転勤の違いについては私としては看過できないので,その点については説明し,東亜ペイント事件の位置づけについても私見を述べました。もちろん,司法試験では通説に基づいて記述するようアドバイスしています。
このことは以前にも触れた内容ですが,少し気になったので,改めて書きました。
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