アメリカ大使欠席問題について思う
昨年も書いたことですが,8月6日や9日を,日本のメディアが,広島や長崎に原爆が投下された日と言っているのは,誰が投下したかの主語をはっきりさせない表現で不適当だと思っています。アメリカが原爆を投下した日というようにはっきり言うべきであり,そうしないから原爆投下がまるで自然災害かのような印象を与えてしまっています。補償問題をめぐる日本政府の対応を追及する話に焦点が移ってしまい,それはそれで重要としても,原爆投下という国際法違反の行動をしたアメリカの責任こそが,ほんとうはより重大なことです。これは,当時の日本政府や天皇の戦争責任とは別の問題です。
そのアメリカの駐日大使が長崎市の式典には参加しませんでした。イスラエルの大使を招待しなかったことと,アメリカの大使が参加しないことは別の問題であり,両者を結びつけて不参加を正当化しているアメリカには,原爆投下への真摯な反省の態度がうかがえません。これこそが報道価値がより高いことです。アメリカでは,報道官にこの点に問いただすやりとりがあったということが,HuffPostで報道されていました「「長崎に原爆投下したアメリカの大使出席は特に重要では?」問いただされた米国務省の見解は」。いつまでも昔の話を引きずるべきではないという意見も理解できますし,ことさらにアメリカと喧嘩するようなことをすべきではないのですが,しかしこの人類史上最もおぞましい出来事の一つである原爆投下,しかも長崎へはトドメの投下であり,この責任について,アメリカに軽く考えられては困ります。日本人としては,せめて1年に1度(8月6日と9日)は,きちんと過去の歴史において何があったかを語り継いでいかなければならないでしょうし,同時に,アメリカの罪を忘れはしないということをアメリカに向けて発信し続ける必要があるでしょう。
ということで,長崎市がイスラエルを招待しなかったことの適否はもちろん議論があるでしょうし,アメリカ以外の国がそれにどう対応するかは自由ですが,アメリカだけは違った立場にあるというように思っています。皆さんはどう考えますでしょうか。
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