オリンピックと国籍
パリオリンピックは,毎朝起きると,Yahoo ニュースで,審判批判の問題をとりあげたものが出てくるので,気分が憂鬱になります(そういうのを1回みてしまうと,連続して出てくるので困ります)。オリンピックの商業主義を批判して,オリンピックを観ないという人もいるそうですが,そういうことではなく,スポーツの祭典らしくないところが,だんだん嫌になってきました。国別のメダルの数を競うのも,どうかと思います。これだけ人種が混じり合ってきているなかで,国別はあまり意味がありません。ラグビーのワールドカップのように,外国籍の人でも,一定の要件を充足していれば代表選手になれるというのでよいような気がします。日本人かどうかよりも,日本と深く関係している人で,日本代表として出場してくれるならウエルカムということです(とはいえ,高校駅伝でケニアからの留学生がダントツの成績を残すことにはやや抵抗感があるので,一貫していませんね)。
そんなことを思うのも,外国人の血が入っている日本人選手が,活躍しているケースが増えているからです。これは素晴らしいことであり,いまや多くの人が,何も違和感をおぼえなくなっているでしょう。テニスの大坂なおみは,日本語を話してくれないので,あまり日本人っぽい感じがしませんが,バスケットボールの八村塁,陸上のサニブラウン,村竹ラシッド,豊田兼,中島佑気ジョセフ,柔道のウルフ・アロン,村尾三四郎,サッカーの小久保玲央ブライアン,佐藤恵允,藤田譲瑠チマなど。私が知らないだけで,他にもまだたくさんいるでしょう。父親や母親が日本人でないということが,どれだけの意味があるのか。個人のアイデンティティは,人種などによって分類しきれないということでしょう。
ボクシングの性別の問題もありました。女子であるが,性染色体がXYの人について,男性的なストステロンが多いなど,競技上優位な特徴があるとして,失格になるのかどうかです。ボクシングのような打撃で競うスポーツでは,これは難しい問題で,対戦相手が怖がることは理解できないわけではありませんが,女性のなかでも訓練して強くなった人もいるでしょうから,そことの違いがどこにあるのかはよくわかりません。しかも個人の性に関するアイデンティティの問題が関係してきます。性自認を尊重するのがオリンピックの精神なのか,それともスポーツとしての公平性を重視するのか。
日本の保守派にはLGBT理解増進法に絶対反対の人たちがいますが,男性と女性の境界線がはっきりしなくなっているなか,社会では,男性と女性を区別しないことへの理解度が高まっているような気がします。むしろスポーツ界こそ,この点において対応が遅れているかもしれませんが,それは結局のところ,スポーツに競争や順位という要素をどこまで盛り込むのか,という問題なのでしょうね(参加することに意義があるのであれば,男女混合の市民マラソンのようなものでよいのであり,100メートルであっても,男性も女性も混じり合って走っていいのです。男性のNo.1,女性のNo.1を決めるという発想が,そこに性別意識があるのだと言ったりするのは,暴論なのでしょうかね)。
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