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2024年6月12日 (水)

社会権論

 昨日の季刊労働法における石田書評の続きです。石田眞先生は,豊川義明弁護士の「社会権論」をとりあげています。石田先生によれば,「社会権論」には「国家志向型社会権論」(国家の積極的な役割を含意する社会権論)と「個人志向型社会権論」(個人の自由・自律を基底に据える社会権論)との対立があるなか,第3の「社会志向型社会権論」(国家と個人以外の社会の存在に着目する社会権論)があるとし,豊川弁護士が「社会」を重視する議論をされていることから,この第3の社会権論を志向しているとします。そのうえで,そこでいう「社会」とは何かについて,石田先生は「自然発生的人間集団」と「人為的人間集団」があるとし,そのどちらによるかで「社会」と「国家」および「個人」との関係が異なり,とくに「人為的人間集団」として社会をとらえると,個人との関係で「強制」や「排除」の契機をはらんで緊張感が生じ,また国家とは「部分社会」と「国家」との関係という問題に遭遇して緊張感が生じるとします。そして,この2つの緊張関係をどう規範的に整序するかの検討が大切であると石田先生は主張されます。

 この問題は,私のような「個人志向型社会権論」に親近感をもつ立場からは,人為的社会集団の典型である中間団体の社会学的な実在性(あるいは事実上の権力性=社会権力性)を認めたうえで,それをできるだけ個人によってコントロールできるような規範論こそが重要ということになります。具体的には,中間団体の典型例といえる労働組合でいうと,その正統性の淵源を私的自治に求め,それが機能しない例外的な場合にのみ立法や司法の介入を認めることになるのです(つまり,「国家」は,「社会」による抑圧から「個人」を守るためにのみ介入できるということ)。一方,人為的人間集団であっても,社会権力性をもたないのであれば,徹底的に国家から自由であるべきで(つまり個人のことも放任してよく),国家による介入は許されないことになります。

 ところで,今日,プラットフォームは,新たな社会権力となりつつあり,従来の国家と個人と社会の枠組みではとらえきれないものになりつつあります。取引型プラットフォームについては,政府も次々と規制を加えようとしており,EUでもこの面で積極的です。私見では,ここでも個人を守るためのときにのみ例外的に国家が介入できるという図式でとらえるべきだと思っていますが,プラットフォームの重要性に鑑みると,これは国家が管理すべき公的な存在とみることもできるかもしれません。つまり,国家の枠を超えるようなプラットフォームが登場するなか,権力と自治という枠組みは根本的な再考を求められているのかもしれないのです。さらに労働の場でもプラットフォームが登場し,それがグローバルなものとなっていくなか,どのような規範的な枠組みで対応していくかは,労働問題でもあるのです。というようなことを,石田書評を読みながら考えていました。

 

 

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