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2024年3月 6日 (水)

「ある男」

 「親ガチャ」と言われる世の中です。どの親から生まれてくるかによって,人生は大きく左右されるという意見が強まっているようです。これはある程度は実証的な分析が可能なものでしょう(親の年収と子の年収の相関関係を調べるとか)が,「ある男」という映画に出てくるのは,そういうレベルを超えている話でした(監督は石川慶)。以下,ネタバレ注意。
   映画は,宮崎のひなびた町で文房具屋の店番をしている里枝(安藤サクラ)が涙ぐんでいるシーンから始まります。そこに暗い印象の青年(窪田正孝)がやってきて,スケッチブックを買います。里枝は,2歳の次男を脳腫瘍で亡くし,そのときの治療法をめぐって夫婦のいさかいが始まり,それがひどくなって離婚をして,実家に帰っていました。泣いていたのは,実父が亡くなったばかりだからです。谷口というこの青年は,何度かこの文房具屋に通ううちに顔見知りになった里枝に「友だちになってください」と言います。こうして二人は付き合い始め,結婚し,女の子も生まれます。連れ子の長男の悠人も,谷口に懐いており,幸せな家庭生活を送っていました。そんな生活が39ヶ月続いたところで,谷口は不慮の事故で亡くなってしまいます。谷口は,実家が伊香保温泉の旅館を経営していて,その次男でしたが,実家との折り合いが悪くて逃げ出していると言っていました。そのためか,里枝は谷口の死のことを,彼の実家に連絡をしていなかったようです。ようやく1年後,里枝はお墓を作る必要があることから,彼の実家に連絡をし,それを受けて実家の長男が焼香をしにやってきたのですが,そこで彼は,写真の谷口を見て弟ではないと言いました。衝撃を受けた里枝は,かつての離婚手続のときに世話になった弁護士の城戸(妻夫木聡)に調査を依頼します。谷口を名乗った男Xが,谷口でないことはDNA鑑定で明らかになりました。ではいったいXは誰なのか。城戸は,ひょんなことから,戸籍交換の可能性を疑い,すでに刑務所にいる戸籍交換の犯人の元締めの小見浦(柄本明)に話を聞きます。小見浦はその場では答えてくれませんでしたが,後から曽根崎との戸籍交換を示唆する絵葉書を送ってきます。しかし,Xと曽根崎がどうしてもつながりません。あるとき城戸は,自身が関係している死刑囚の絵画展において,里枝のところで見た,Xがスケッチブックに書いていた絵と同じような,目の部分をつぶした印象的な絵があるのに気づきました。絵画展のパンフレットには,死刑囚の写真も掲載されており,それをみるとXと瓜二つでした。Xはその死刑囚の子だったのです。城戸はXの過去を洗い出すことができました。Xの父は,放火殺人をしていた死刑囚でした。Xの本名は原誠です。原はボクサーとして活躍していましたが,新人王になる一歩手前のところで,自分の過去をジムの会長に打ち明けます。この会長によると,原は父と顔が似ていて,父の血が流れている自分のことを嫌悪していると語っていました。その後,自殺未遂を引き起こし,消息をたち,そして里枝の前に現れるのです。その間に,原は,曽根崎という男といったん戸籍交換し,さらに谷口と戸籍交換していました。映画では曽根崎の話はでてきませんし,なぜ二度目の戸籍交換をしたかはわかりません(原作では書かれているようです)。
 原は,死刑囚の父をもち,激しい差別を受けていたのでしょう。彼がこの世で生きていくためには,父を変えるしかありません。それが戸籍交換だったのでしょう。原は里枝の息子の悠人に優しかったです。申し分のない夫であり,父でした。里枝は,最後に,本当のことを知らなくてよかったかもしれないと城戸に言います。自分が知っている優しい原は,すべて事実だったからであり,それで十分であり,彼の過去などは関係がないからでしょう。
 この話は城戸の物語でもあります。城戸は在日三世です。裕福な家庭の娘と結婚し,可愛らしい4歳の男がいて,他人からみれば何不自由ない生活をしているようにみえますが,家庭内ではどこかギスギスしています。妻やその両親は,城戸に対し,どこか上から目線です(最後には妻の浮気も発覚します)。城戸もまた,在日という自分ではどうしようもないものに縛られていたのでしょう。映画の最後のシーンで,城戸は,どこかのバーで,たまたま隣に座った人に,自分のことを語っています。でも,その内容は,実家は伊香保の温泉をやっていて,13歳と4歳の子がいるというものです。彼は,谷口に,あるいは谷口に成り代わった原に成り代わっていたのでしょう。最後に城戸は名前を聞かれたときに,答えようとしたところで,映画は終わります。彼は誰の名を語ったのでしょうか。
 死んだ夫が別人であったというミステリー調の出だしで,それだけなら山ほど類似作品はあるのですが,本作はまったくそれとは別です。
 ところで,この映画では,Magritteの絵画である「禁じられた複製」(La reproduction interdite)が何度か登場します。鏡に写っているのは,自分の後ろ姿であるという絵です。自分の姿を正面からみることができないという不思議な絵なのですが,映画では,自分を正面から観ることができない人物が描かれています。原が,愛する女性の前でガラスに映った自分の顔(父そっくりの顔)をみてしまい,取り乱すシーンが出てきます。城戸は,刑務所で面会した初対面の小見浦から,いきなりお前は二枚目だが,朝鮮人であることはわかるということを言われます。自分の顔は,親から受け継いだものです。顔は,自分が生まれつきこの社会に置かれている位置づけを象徴しているのでしょう。映画では,城戸の後ろ姿のシーンが何度も出てきます。でも,城戸も原も,とてつもなく優しいのです。その優しさに救われますが,哀しさも感じます。
 平野啓一郎の原作も読んでみたいと思います。

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