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2024年2月 5日 (月)

ペトルーニャに祝福を

 欧州の知らない言語の映画を観たいと思ってAmazon Prime Videoで見つけたのが,北マケドニアの「ペトルーニャに祝福を」です。英語での題は,「God Exists. Her name is Petrunya.」。監督は,同国の女性Teona Strugar Mitevska(テオナ・ストゥルガー・ミテフスカ)。タイトルは挑発的です。神が女性になっています。
 主人公のペトルーニャは,32歳の独身女性です。両親と一緒に住んでいます。大学では歴史を専攻しましたが,就職はできず,ウエイトレスのアルバイトをしているだけです。太めで,化粧っ気もあまりなく,男に好かれる感じではありません。父は娘の優しい理解者であり,母も娘を愛していますが過保護で,それが娘にはうっとうしく思えています。母は伝統的な考え方の女性で,娘にもそれを押し付けているようなところがあります。娘は学があるのですが,それを発揮する機会がありません。
 あるとき,ペトルーニャは,母の知人の紹介で,就職面接に行きますが,面接官の男性にはやる気がありません。コネの入社ということなので,もともとスキルなどは期待されていなかったでしょう。しかし先方の希望は若い娘だったようです。母からは25歳と言うようにと言われていました。彼女は年齢を聞かれて嘘をつこうとしましたが,思い直して正直に言いました。そうすると,面接官には42歳にみえると言われました。それでも男は彼女に近寄り太ももを触り始めました。彼女も覚悟を決めて,男の要求に応じようとしたのですが,男は手のひらを返したように,彼女に対して,そそるものがないと言い放ちました。屈辱と怒りに満ちた彼女が帰宅途中に,上半身裸の男性の行列に巻き込まれます。この日は,ギリシャ正教の神現祭の日で,司祭が橋の上から川に十字架を投げこむという行事がありました。その十字架を取った人は,その1年幸福になれるということで,半裸の若者たちは,冷たい川(冬の行事)に飛び込むのです。今年も司祭が投げ込んだのですが,たまたま十字架が,川端にいたペトルーニャの近くに流れてきたので,彼女は飛び込んで取ってしまいました。男たちはペトルーニャから十字架を取り上げますが,司祭は彼女が先に取ったとして男から十字架を取り上げます。ペトルーニャはその十字架を奪い,逃げていきます。
 この儀式では,十字架をとる資格は男性にしかないとされていました。しかし,それは法律ではありません。ペトルーニャが最初に十字架を取ったのは確かであり,彼女が十字架を持って逃げたのは犯罪ではありませんでした。しかし十字架を女性がもって逃げたということはテレビで報道されてしまい,自宅に帰っていたペトルーニャは,娘がその女性であることを知った母親から叱責されることになります。母親は宗教の伝統に反するような行為をした娘が許せず,警察に通報します。ペトルーニャは警察で事情聴取を受けることになりましたが,犯罪ではないので逮捕されたわけではありません。
 警察も司祭も,ペトルーニャの行為を非難し,十字架を返すように求めますが,彼女はそれに応じません。理由のない事実上の拘留状況に置かれながら,彼女は次々に現れる男たちの言動に冷静に応答し,理不尽な要求ははねつけます。一方,この事件を,テレビの女性レポーターは,男女差別の問題として取り上げようとしますが,ペトルーニャは,それには協力しません。彼女は,これが個人の信念の問題だと考えていたのかもしれません。
 彼女はいったん釈放されますが,警察の前には,彼女に十字架をとられた若者たちが怒り狂って集まっていました。彼らは彼女のことを激しくののしり,現れた彼女を小突き,そして水をかけます。彼女は再び,警察に逃げ戻ります。もちろん司祭も,十字架を返してもらえず困惑していましたが,基本的には暴力は許されません。司祭は若者を説得して,その場を退散させます。
 警察署長は,ペトルーニャに十字架をみせてほしいと騙して,それを警察の金庫に入れてしまいます。その後,検事がやってきます。検事も彼女の味方ではありませんでしたが,十字架が彼女の手にないことは問題と考えたようで,警察署長に返還を指示します。
 ペトルーニャは決して激しいフェミニストではありませんでした。その日の就職面接で受けたあまりにもひどい屈辱のなかで,発作的に川に飛び込んでしまったのです。でも彼女は,法律に違反したわけではありません。そして,なぜ女性が宗教行事に参加してはだめなのか,彼女が十字架をもっていてはなぜダメなのかを問いかけているのです。警察に連行したものの,誰も彼女の問いにはきちんと答えられません。警察官も司祭も,懇請するか,おどすかしかできません。署長は詐欺的手法で十字架を取り上げたので,検事に叱られたのでしょう。若者たちは暴徒と化して,暴力的な手法しかとれません。こういう男たちの情けない状況を,この映画は,ペトルーニャの落ち着いた対応と対比して巧みに描き出しています。 
 警察内にもペトルーニャの味方が一人だけいまいた。Darkoという若い男性警察官です。彼は当初はペトルーニャに冷ややかでしたが,徐々に彼女に理解を示すようになります。若者に水をかけられて寒がっているペトルーニャに上着をかけるなどして,親切にしてあげます。自分は組織の一員として上司に仕えるしかできないなか,信念をもって行動をしているペトルーニャを尊敬し,,共感したのかもしれません。
 十字架を返してもらったペトルーニャは,警察から出るときに,Darkoからまた連絡をするという言葉をかけられました。彼女は,うなずいて去っていきますが,その表情はにこやかです(恋の予感もしますが,それよりも誰かから認めてもらったという満足感が強かったのかもしれません)。ずっと暗い表情であった彼女がはじめて笑顔をみせてくれたのです。そして,警察署の外で出会った司祭に十字架を返します。彼女はもう十字架を必要としていませんでした。そして,くだらないことにこだわる男たちにこそ,幸福が来ますようにと考えたのでしょう。男性社会で押さえつけられていた自分が,男性たちと戦うなかで,確かな自信を得たのでしょう。この満足感により,男性たちの情けない姿を「あなたちこそ不幸だね」とみる余裕ができたのでしょう。このラストシーンの逆転が,カタルシスを感じさせます。
 フェミニズム映画のようでもありますが,男性の私にも,この女性に感情移入しやすかったです。男性優位の社会の掟があり,法律の外で,社会を縛っていて,それが女性の生きづらさをもたらしているという状況は,これは男女問題にかぎらず,若者が伝統や因習に支配された社会で行きづらく感じることとも共通するものといえるでしょう。とくに宗教が大きな力をもっている社会における男性優位というものは,女性にとって宗教とは何かということを問いかけるものでもありました。映画のなかで,ペトルーニャの知人の男性が,彼女を擁護しながら,神は女性かもしれないという趣旨の発言をしていました。そして,映画のタイトルは,ペトルーニャこそ神であるということを示唆しています。人々は,キリストも,当時の社会から理解されずに迫害を受けた(最後は処刑までされてしまいました)ということ(受難物語)を想起させるタイトルでもあります。

 

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