自己責任の覚悟
学部の少人数授業(2年生向け)で,東芝柳町工場事件・最高裁判決を扱いました。労働法の知識がない法学部生が,この判決をどうみるのかは興味深いところですが,驚いたことに,大半はネガティブな評価をしていました。契約で2カ月となっている以上,何回更新しても,2カ月という期間の契約をかわしていたことに変わりはないので,雇止めが実質的に解雇の意思表示とみられ,解雇の法理が類推されるということに違和感があるようなのです。これがLSの授業ですと,最高裁判決に異論を唱える学生はほとんど出てこないのですが,学部学生だと,契約は守るべしというところから出発するので,最高裁判決には賛成できないようです。法学でよく出てくる「実質論」の「いかがわしさ」を直感し,それを拒絶する潔癖感が出ているという言い方もできそうです。もちろん,それは若く未熟な議論と切って捨てることもできるのですが,それは危険なことです。安易に実質論に流れてしまうと,法学にとっての生命線といえる,法律を使った論理的な議論というものが揺らいでしまいます。ただ,法律の使い方としては,実質論をふまえたうえで妥当な結論を出すことも大切だということを学生たちに知ってもらう必要があります。最高裁が,形式論と実質論のバランスをどうとってきたかを,本講義で(批判的に)学んでもらえればと思っています。
ここ数回の授業でふと感じたのは,学生たちのなかにみられる自己責任に対する覚悟です。たとえば契約で合意をすれば守らなければならないというのも自己責任ですし,対企業関係では労働者は弱者であろうという労働法を学習した後は常識となることについても,学習前の学生たちは,そこまで労働者は弱者なのか,企業だって中小企業であれば決して強者ではないのではないか,という感覚をもっているようです。とはいえ,自分自身は強者ではないので,これから社会に出ていくのには不安があるとも感じているようです。学習前の学生たちは,労働法のようなもので守られないことを前提に,どうやって自分で生き延びていくかを考えようという姿勢があるように思います。それが,これから労働法を学んでいくことによって,そこまで頑張らなくても労働法で守られているから何とかなると思ってもらっては困りますね。
かつて『君の働き方に未来はあるか?~労働法の限界と、これからの雇用社会~』(2014年,光文社新書)という本を上梓し,労働法に頼らない働き方について論じたことがある私としては,学生たちがもっている「覚悟」を頼もしく思うと同時に,その気概をこれから学習を深めていっても失わないようにしてもらいたいと思っています。