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2023年8月 6日 (日)

抑制された不寛容の重要性

 Karl Popperの言葉に,寛容のパラドックス(paradox of tolerance)というものがあります。
  「社会が寛容であるためには,不寛容な者に不寛容である必要がある」
 この矛盾は今日大きな問題といえます。自身が自由でいるためには,他者が寛容でいてくれる必要があります。私などは,私の周りの人が寛容でいてくれたから,これまで自由に行動することができたのであり,だから,私も他者に対して寛容である必要があると思っています。
 一方,寛容な社会を守るためには,不寛容であることも必要という「寛容のパラドックス」は,これを実践するのは容易ではありません。抑制された自由が必要であるし,また逸脱した者への抑制された不寛容さも大切なのでしょう。アメリカのTrump前大統領の人種差別発言などには,とても寛容であることはできないのですが,このとき彼の主たる発信手段であるツイッター(X)のアカウントを停止することが正しかったのかは難しい問題です。これは憲法論としては,ツイッター(X)はいまや社会的権力であるので,言論の自由を制限することは憲法問題となるというような議論の立て方(State Actionの議論など)も出てきますし,そうではなく私人による有害発言の自主規制の一つという見方もできます。それに加えて,ここでの私の関心は,こういう他人に不寛容な言論に不寛容であるのは自己矛盾であるのか,ということです(古くからある有名な議論ですが)。
 特定のカテゴリーの人たちを排斥するという不寛容な人たちは,社会を分断する危険分子です。かつてカトリックと非カトリックという,私たちからみれば同じキリスト教だろうと思われる人のなかで分断と不寛容が生じて30年戦争が起こり,世界史で最も重要な条約の一つといえるウエストファリア(ドイツ語ではWestfalen[ヴェストファーレン])条約が1648年に締結されて,現在の国際法秩序が生まれたと言われています。寛容の哲学は,そこから生まれてきたものです。
 日本の政治をみても,安倍政権時代,第1次政権の失敗後,多くの仲間が離れていったことをみて,安倍元首相は,信頼できる仲間を核として捲土重来を期し,それを果たしたあとも,仲間を重用したと言われています。しかし,それは石破氏の冷遇など,やはり党内に分断をもたらしました。分断は,自身のグループが圧倒的に多数派となり,吸収してしまえば解消されるのでしょうが,これは不寛容のおそろしい帰結です。自身と考え方が違う人にも寛容な姿勢をもって尊重し,その結果,数的な均衡をもって,いろんな立場の人が併存する自民党こそが,「自由民主」党という党名にふさわしいものであったのです。安倍派は最大多数政党となりましたが,数こそすべてという考え方が,旧統一教会問題を引き起こしたのでしょう(そしていま,分裂の危機を迎えています)。
 一方の野党は,排斥の論理で生まれた希望の党,そして,それを実質的に引き継いでいる現在の国民民主党は,その意味で不寛容な政党といえるでしょう。徹底した共産党の排斥は,共産党自体が不寛容な党ともいえるので,やむを得ないところもあります。もちろん,主義主張で妥協する必要はなく,これは寛容・不寛容とは別次元の話なのかもしれませんが,いずれにせよ,論戦が,互いの憎悪の感情に基づくものに感じられると(最近では,維新と立憲民主党・共産党との間でも,そういう感じがあります),国民は政治劇をみているようではありますが,それを面白がってはいられません。結局,まともな政策論議がなされずに損をするのは国民です。
 日本には縁がなさそうにも思える分断や不寛容ですが,政治の世界でみられる不寛容な態度が気になるところでもあります。抑制された寛容,抑制された自由を,個人が意識的に心がけることが大切なのでしょう。アメリカのような国になってはいけないと思います。

 

 

 

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