AI時代の英語
朝日新聞デジタルに「英語信仰は「壮大なムダ」,言語学者の危惧「日本語こそ国際語」」という青山学院大学の永井忠孝教授(言語学)へのインタビュー記事が出ていました。その内容は,基本的に異論なしです。英語の重要性を頭から否定するわけではないですが,実用英語なら後からなんとかなるのであり,英語に割く時間があれば,別のことに時間を投入したほうがよいのです。拙著『会社員が消える―働き方の未来図』(文春新書,2019年)223頁では,「小学校で英語教育は必要か」という小見出しで,「英語の重要性を否定はしないが,機械翻訳が発達する状況を想定しておくことも必要だ。可塑的な頭脳をもつ子供時代の学習時間は限られている。その時間のなかで,何をどれだけ学ばせるかの優先順位を考えた場合,英語の順位がそれほど高いとは思えない(プログラミング教育についても,同様の観点から検討する必要があろう)。」と書いています。私のこの部分の記述は,職業にしろ,教育にしろ,技術の発達を見越したものにする必要があるという観点からのもので,永井教授とは観点がやや違います。ただ私自身も,もともと小学生の必修科目については,基礎的な教養に関するものにすべきで,日本人にとって英語とはしょせん道具的なものにすぎないのに,それを教養科目のように持ち上げることは疑問という問題意識をもっていました。ましてやAIの発達が見込まれるなかで,これを必修化するのは,方向性が根本的におかしいということを考えていました。
社内で英語を公用化する企業のことを耳にすることもありますが,悪いけれど,それは英語かぶれの愚かな経営者がやることで,英語だけ流暢で中身のない人を集めることになりかねません。外国語の力は,読み書きでかなりのところがわかり,会話能力ではほんとうの評価はできないでしょう。永井教授は,「言語にはその集団の物の見方が集約されていて,言語を学ぶことでその文化を味わうことができます。その重要性は機械翻訳がいかに進歩しようと,色あせるものではありません。実用的な部分を機械翻訳に任せられれば,その分,文化的なことを純粋に味わうことに注力できるようになります」というのも同感です。私も機械翻訳があるから,それで何でもいけると考えているわけではありません。
社内で英語を公用化する企業のことを耳にすることもありますが,悪いけれど,それは英語かぶれの愚かな経営者がやることで,英語だけ流暢で中身のない人を集めることになりかねません。外国語の力は,読み書きでかなりのところがわかり,会話能力ではほんとうの評価はできないでしょう。永井教授は,「言語にはその集団の物の見方が集約されていて,言語を学ぶことでその文化を味わうことができます。その重要性は機械翻訳がいかに進歩しようと,色あせるものではありません。実用的な部分を機械翻訳に任せられれば,その分,文化的なことを純粋に味わうことに注力できるようになります」というのも同感です。私も機械翻訳があるから,それで何でもいけると考えているわけではありません。
英語を学ぶことを,外国文化を学ぶに置き換えることができれば,それは意味があることです。これは留学の勧めということにつながります。日本とは違う文化のある外国に行き,居住し,そこの文化を理解し,日本文化を相対的な視点でみれる(そして,その長所を再発見する)ということが大切で,その過程で,その国の言葉を覚えることになるでしょうが,そういう形で自然に外国語を習得すればよいのであり,日本にいて,英語だけを一所懸命に勉強してもあまり意味がないように思えます。