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2023年4月の記事

2023年4月30日 (日)

AI超え?

 名人戦の第2局は,藤井聡太竜王(六冠)が,渡辺明名人に勝ち,2連勝となりました。刻々と史上最年少の名人と七冠の誕生のときが近づいています(最短で5月22日)。第2局も,藤井竜王(六冠)は何度か長考していましたが,終わってみれば快勝でした。素人目には,名人の2七香成で,飛角の両取りになっており(相手の大駒のどちらかを必ず取れる),またもう片側には9九龍がいて藤井玉は挟撃されているようにもみえたのですが,そこで藤井竜王(六冠)は「両取り逃げるべからず」の格言どおり,しかも成香が利いている2六に桂を打って相手の金をとりにいくという攻めの手を指したところが,本局のハイライトでした。この桂は放置すると,王手で金がとられるので,たちまち渡辺名人は劣勢となります。しかし,この桂を成香で取ると,飛か角のどちらか取れる状況を自ら解消することになり,悔しい手となります。ここで渡辺名人は成香は動かさず,金を逃げて桂を取りに行く順を選びましたが,その後,藤井竜王(六冠)は攻めを継続し,名人は飛車をとることはできましたが,結局,飛車を使うことがないまま投了に追い込まれました。藤井竜王(六冠)の2六桂は,AIの評価値も揺れ動く難解な手でしたが,もはや彼はAIを超えている,という声も出てきています。AIはすごいですが,とびきりの人間なら,まだAIに負けないかも,と思わせるような将棋でした。藤井竜王(六冠)は,渡辺名人相手なら,ものすごく力がでるようであり,ちょっと名人が気の毒になってきました。名人が割りとあっさり投了したのも,こりゃ勝てないと脱帽した印象も受けました。プロどうしの戦いで,相手に勝てないと心から思ってしまうと,戦う前から負けているようなものなのでしょうが……。
 棋聖戦は,佐々木大地七段が,永瀬拓矢王座に勝って,初のタイトル挑戦が決まりました。初戦はベトナムのダナン(一度行ってみたいと思っていたところです)で開催されるそうですが,藤井棋聖はタイトル戦が続く中,体調を崩さないようにしてほしいと思います。
 王位戦の挑戦者決定リーグは,紅組は羽生善治九段が順調に勝ち星を伸ばし,残りの2局は永瀬拓矢王座と豊島将之九段との対戦です。あと1勝すれば,プレーオフ以上は確定となります。白組は,佐々木大地七段が4連勝で,プレーオフ以上は確定しました。藤井竜王(六冠)へのダブル挑戦も視野に入ってきました。
 藤井竜王(六冠)が名人をもし獲得し,叡王などのタイトルを防衛すれば,残されたタイトルは,永瀬拓矢王座のもつ王座だけとなります。王座戦は,決勝トーナメントに16人が残っており,順調にいけばベスト4は,羽生九段,藤井竜王(六冠),渡辺名人,豊島九段となりそうです。夢の八冠の可能性は十分にありますが,タイトル戦の過密スケジュールのなかでの体調維持が,最大の敵かもしれません。

2023年4月29日 (土)

祝日

  4月29日というと,天皇誕生日と条件反射的に思ってしまうのは,年齢を示していますね。天皇誕生日が12月23日だということに,ようやく慣れきたところで,今度は2月23日になりました。4月29日は「昭和の日」です。レトロな響きがしますが,昭和生まれの私には,ちょっと複雑な気分にさせるものでもあります。もちろん,昭和天皇の誕生日が祝日のまま維持されているのはよいことです。できれば6月あたりに祝日をつくってもらえたら,もっといいのですが。ちなみに皇位継承の可能性がありそうな人の誕生日をWikipediaで調べてみましたが,6月生まれの人はいませんでした。
 ところで4月27日の日本経済新聞の夕刊に,「『祝日大国どこへ向かう 年16日,追加要望控えめ」という記事が出ていました。日本の祝日は多いのですが,それはいろいろな事情があって増えてきたのであり,でも祝日を増やすのは手間がかかる一方,そもそも祝日が多すぎることは経済面ではマイナスとなるので,祝日を減らしたほうがよいという見解もある,というような流れだと思います。
 祝日と休日とは本来は別であり,また記事の最後には年次有給休暇の話も出てくるのですが,それもまた別のことなので,全体でわかりにくい内容の記事になっています。実際には祝日を休日にしている企業は多いでしょうが,法律上は,それは義務ではありません。労働基準法の休日の規定(35条)に関する通達は次のようになっています(昭和41714日基発739号)。「国民の祝日に関する法律は,国民の祝日に休ませることを強制的に義務づけをするのではなく,労働基準法は,毎週1回又は44日以上の休日を与えることを義務づけているが,この要件を満たすかぎり,国民の祝日に休ませなくても労働基準法違反とならない。」 
 ただし,これに続いて,次のように書かれています。「しかしながら,国民の祝日の趣旨及び労働時間短縮の見地から,労使間の話合いによって,国民の祝日に労働者を休ませ,その場合に賃金の減収を生じないようにすることが望ましいことはいうまでもないところである。」
 国民の祝日に関する法律(祝日法)は,31項で,国民の祝日は,休日とすると定めていて,紛らわしいのですが,そこでいう休日は労働基準法上,使用者に付与義務のある休日とは別であり,その日に働かせたとしても,ただちに三六協定の締結・届出や割増賃金の対象となる「休日労働」となるわけではありません。その意味で祝日法3条1項は訓示規定のようなものです。そもそも,労働時間の短縮という目的で祝日が設けられたものではなく,また,国民の祝日の多くは宗教的な意味があるものでもなく,あえて休まなければならないほどの意味のある日でもありません。実際,岸田首相はGWの祝日中外遊するそうです。祝日法3条の趣旨を浸透させるのであれば,まず政府から率先して休んでいく必要があるでしょう。
 もちろん,国民の祝日が,労働者の休みと無関係というわけではありません。就業規則の休日に国民の祝日を含めている企業も多いでしょう(神戸大学もそうです)。そういうところでは,国民の祝日が増えることは,就業規則の休日(通常は有給)の増加となるので,労働者としては嬉しいことです。6月に祝日があればと思ったのも,このためです。
 ところで,祝日を減らしたほうが,日本経済にとってよいという点について,記事ではGWの連続休暇がGDPを下げたという試算が紹介されていました。欧米ではヴァカンスの習慣がありますが,それについてはどうなのでしょうか。一時的に生産性が下がっても,トータルにみれば休息をしっかりとったほうが生産性が上がる可能性もあります。ヴァカンスでどこかに旅行に行くという目標があるので,しっかり働こうというインセンティブが働くのであり,そうだとすると長期連続休暇があることは生産性を高めるという仮説も成り立ちそうです。その点では,むしろ本人の時季指定で取得できる年次有給休暇すら完全に取得していない日本においては,祝日を減らすなどはとんでもないことであり,まずは年次有給休暇を取得するようにすることこそやらなければならないのでしょう。
 日本の休暇文化については,拙著『勤勉は美徳か?―幸福に働き,生きるヒント』(2016年,文春新書)の第6章「休まない労働者に幸福はないー日本人とバカンス」でも書いているので,参考にしてもらいたいです。

2023年4月28日 (金)

さらば学歴?

 4月18日の日本経済新聞のインサイドアウトに,「さらば学歴  DX採用はスキルで 専門人材奪い合い 大学で学べぬ『最先端』」という記事が出ていました。これはデジタル人材では,学歴が通用しないという話ですが,もはやデジタル人材だけでなく,デジタル時代におけるすべての業種や職種において,学歴が通用しなくなる可能性があります。もちろん,学歴不問ということをいう企業はかなり前からあり,学歴はあてにならないということは言われ続けていることです。そこには,大学を出ているかどうかは問わないというものから,大学は出ている必要があるが,どの大学を出ているかは問わないというものまであります。 
 いずれにせよ,大学を出ていることや偏差値の高い大学を出ていることだけでは価値がなくなる時代が,ほんとうに来ようとしています。まだ学歴コンプレックスのある人が社会の中枢(政治家,大企業のトップなど)にいる間は,いくら学歴不要とは言っていても,学歴を意識しているという点で,学歴社会は変わらないでしょうが,しかしそれも徐々に消えていくことでしょう。ここでも技術主導でみていく必要があるのです。DXが進み,ジョブ型となっていくと,そのジョブをこなすスキルがあるかどうかが勝負となるので,学歴は主たる要素となりません。これは学歴がスキルと比例しないから生じることで,大学が社会の要請にマッチしていないことを意味しています。知り合いの大手美容店に,最近,大学卒業者が入社したそうです。本人は美容師になりたかったが,親の勧めで仕方なく大学に行ったあと,美容専門学校に入ったそうです。AI時代においても,機械に代替されにくい仕事として美容師を選択するのは良い選択だと思いますが,親世代はそこをよく理解できず,子どもに大学に行かせるという遠回りをさせてしまいました(でも親の気持ちもよくわかります)。ただ,この業界も今後はAIを活用する美容テックを駆使しなければ生き延びることができません。だからやっぱり勉強が必要ですし,とくにChatGPTの活用の仕方などを学ぶことこそ必要といえますが,その場は大学ではないでしょう。
 もちろん,職業的なスキルというのは別に,本当に優秀な人材というのは,技術革新の影響などとは関係なく優秀です。そうした人たちには,社会をリードするエリート層になってもらう必要があります。芦屋市では,キラキラの学歴の最年少市長が誕生しました。エリートの底力をみせてもらいたいところです。
 大学のほうも変わりつつあります。4月25日の日本経済新聞で,一橋大学が,この4月から「ソーシャル・データサイエンス学部」を新設したという記事が出ていました。これは,デジタル時代の文理融合型のエリート層を育成しようとするものではないかと思われます。これからの大学の方向性を示すものであり,どのような成果が出るか楽しみです。

2023年4月27日 (木)

再びエアースタジオ事件

 学部とLSの授業で労働者性の判断をすることが重なりました。最近の裁判例(および命令例)としては,都労委のUberEats(ウーバー・イーツ)の事件もあるのですが,少し前の事件で,劇団員の労働者性が問題となり,裏方業務だけでなく,公演業務においても,諾否の自由がないとして労働者性を肯定したエアースタジオ事件(東京高判令和293日)のことが再び気になり始めました(20211229日に書いたブログでも取り上げています。なお,同ブログの文中に誤って労働者性を「否定した」と書いてしまっていたのに気づき,遅ればせながら直しておきました。文脈的には肯定を前提に書いていたのですが,諾否の自由の否定と労働者性の否定とがこんがらがっていて,申し訳ありませんでした)。
 この事件については,季刊労働法277号で,専修大学の石田信平さんが,たいへんすぐれた評釈を書いています(加えて,劇団員の立場に寄り添って,ほんとうに大事なことは何かについて考察されているところもすばらしいです)。石田さんの結論は,労働者性を否定すべきというものですが,イギリスの労働者概念の議論もとりいれて,このケースを間欠的な契約の一例とみて,継続する個々の契約を包括する関係の労働契約性と個々の公演の契約の労働契約性とは分けて考察できるとし,前者において労働契約性が否定されても,後者において労働契約性が肯定される余地があるとしたうえで,このケースでは,前者のみならず,後者についても労働契約性を否定すべきだとします。諾否の自由についての判断について判決に異論があるということです。ただ,近年話題のギグワークについては,後者の点で労働契約性が肯定される余地があるとしています。また,本件のケースでは,労働組合法上の労働者性は肯定される余地があるとしています。
 石田さんは,契約内容への法的介入(とくに他所で働くことへの制限)については,労働法の問題ではなく,競争法の問題としてみるべきであるが,契約内容の集団的交渉については,競争法は介入すべきではないという立場のようです。これは理論的に十分にありうるものであり,切れ味鋭い分析だと思いますし,また実質的にも妥当なものといえます。ただ,一般の人にはわかりにくいところがあるかもしれません。いったい,当該就労者は労働者かどうか,もっと簡単にしてほしいという要望もあるでしょう。学部の授業のなかでも,結局,エアースタジオ事件は,こういう判決があると言及するにとどめました。本格的にこの事例を素材として労働者性の判断についての解説をしていくと,おそろしく複雑なことになってしまい,この論点にそれほど多くの時間をさくことはできないです。
 労働者性の問題についての私見は,このブログでも何度も書いているので,詳細は繰り返しませんが,いずれにせよ大切なのは,事後的に労働者性を争うことができるだけないようにすることです。一方,労働組合のほうは,労働者と性質決定されるかどうかに関係なく,団体交渉の権利が広く個人の就労者に認められる(相手方企業には,交渉に応じる義務はある)ことにしたうえで,不当労働行為の救済手続を利用できる労働者(労働組合)は,個別法の労働者性の範囲と同じにするというのはどうでしょうかね(労働者概念の相対性というようなわかりにくい議論はやめようということですが,これはこれでややこしい議論と言われるかもしれません)。こんな話は授業ではできませんが,UberEatsの事件も含め,労働者性をめぐるいろんな問題が生じているなか,解釈論をつめていくことを模索するのではなく,立法で根本的に解決するという方法が考えられるべきです。
 私の提唱する労働者性の判断基準の事前認証手続,さらにそこでのAIの活用(拙著『人事労働法』271頁を参照)は,ChatGPTの発展などによって,現実味を帯びてきました。労働者性の判断の一次処理はAIにゆだね,異議がある場合にのみ人間(裁判官)が判断するということにできないでしょうかね。

2023年4月26日 (水)

入試問題に登場

 椙山女学園の2023年度の一般入試の現代文の問題に,拙著の『AI時代の働き方と法』(弘文堂)が使われました。入試問題集を出す出版社から,入試問題集への掲載を認めてほしいという連絡があったので,わかりました。これまでも拙著が入試問題に利用されたことは何度かありましたが,新書が多く,『AI時代の働き方と法』はこれで2回目ではないかと思います。もっとも,出題に使われたのは,AIに関する部分ではなく,労働法の誕生にかかわる部分でした。こういう部分のほうが世界史の話にもつながって問題として使いやすいのかもしれません。小問は12もあり,拙文がたっぷり活用されています。漢字の問題もあり,たとえば「夾雑物」の意味,「破綻」「享受」「勃興」の読み方も出されていました。どれもマルチプル・チョイス(multiple-choice)ではありますが,文意に合致した文章を選ぶ問題もあり,これは自分でやっても結構難しくて,受験生は大変だと思いました。正答率を知りたいですね。どなたが作成されたのでしょうか。難しくても,良い問題であり,これまで聞いたことがない大学でしたが,しっかりした大学なのだろうと思いました。

2023年4月25日 (火)

自転車ヘルメット着用努力義務への疑問

 4月から自転車乗車の際のヘルメット着用が努力義務となりました。自由を重視する私が,これに対する疑問があると言うと,努力義務とはいえ,そういう拘束をするなということのように思えるかもしれませんが,そうではありません。
 道路交通法63条の11の第1項は,「自転車の運転者は,乗車用ヘルメットをかぶるよう努めなければならない。」となっています。努力義務ですが,ヘルメット着用の重要性を知らせるうえで意味があるものといえそうです。もちろん,この義務は,自転車運転者を大ケガから守ることになり,それは社会的な損失を減らす効果もあるでしょう。しかし,ヘルメット着用で安全性が高まれば,危険な運転をするリスクが高まるように思えます。実は,自転車運転をめぐる最も重要な問題は,運転者の安全ではなく,歩行者の安全です。運転者は自分で安全をコントロールできますが,歩行者の安全は,自転車運転者の歩道走行により危険にさらされているのです。ヘルメットを着用することにより,運転者だけ安全になって,より危険な運転をするリスクが高まると思います。意図的に危険な運転をしようとしなくても,どうしても注意水準が低下すること(無謀な運転をするなど)で,事故の危険を高めることになるのです。自転車運転者に対して行うべきなのは,ヘルメット不着用の禁止ではありません。むしろそうした禁止は努力義務であっても撤廃すべきでしょう。大切なのは,歩道走行の禁止です。歩道では自転車から降りて押して進むことを罰則付きで強制すべきです。もちろん上記法条の3項の「児童又は幼児を保護する責任のある者は,児童又は幼児が自転車を運転するときは,当該児童又は幼児に乗車用ヘルメットをかぶらせるよう努めなければならない。」という規定のほうは残すべきです。児童は事故の加害者になるより被害者になるほうが多く,自分の判断でヘルメットをつけて安全を守るだけの判断能力がなく,また安全運転に必要な十分な身体能力もないために,パターナリスティックな介入が必要だからです。しかし,児童以外には,こうしたパターナリスティックな介入は,むしろ安全リスクを高める点で有害なのです。深刻な事故が続発する前に,何か実証的データでこのことを示すことができればよいのですが。

 

2023年4月24日 (月)

人工ダイヤモンド

 人工ダイヤモンド(lab grown diamonds)が,天然ものよりかなり安い価格で販売されているというニュースをみました。ダイヤモンドは環境破壊や紛争の源になるので,工場で製造できるのなら,そのほうがよいでしょう。この話を聞き,Di Caprio主演の映画「Blood Diamond」を思い出しました。かなり前に観たので記憶はやや怪しいのですが……,シエラレオネ(Sierra Leone)の内戦のなかで,反政府軍に捕まった主人公の黒人が,ダイヤモンドの強制採掘場で働かされているとき,高価なピンクダイヤモンドを発見しましたが,政府軍から襲撃を受けるなか,それを奪われないように埋めて隠しました。その後,Di Caprioが演じるダイヤモンドの密売人(武器を調達して,その代金としてダイヤを受け取る)が,この情報を聞きつけて,彼に接近し,その場所を二人で探そうとします(最後はDi Caprioは力尽きてしまいます)。反政府軍に息子が捕まえられて兵士にさせられてしまう話や兵器を売りつけてボロ儲けする白人と白人に迎合する黒人が登場するなど,考えさせられることが多い映画でした。いまスーダン(Sudan)で内戦が繰り広げられています。民主化が実現するまでのやむを得ない犠牲なのかもしれませんが,膨大な天然資源(スーダンの場合は金)の利権がちらつく点は,映画の話と似ている面があるかもしれません。 遠い国のことのようにも思えますが,日本になにかできることがあるのでしょうか。

2023年4月23日 (日)

叡王戦第2局

 叡王戦第2局は,挑戦者の菅井竜也八段が,藤井聡太叡王(六冠)に勝ち,対戦成績を11敗の五分に戻しました。菅井八段は,決して藤井叡王を苦手にしているわけではなく,大事な対局で勝ったりもしているので,この5番勝負の決着がどうなるかはわからないですね。藤井叡王は,今週は渡辺明名人との名人戦の第2局がありますが,切り替えが速いので,この敗戦が尾を引くことはないでしょう。
 この間の重要な棋戦としては,棋聖戦があります。決勝トーナメントはベスト4の戦いで,佐々木大地七段が渡辺名人に勝ち,また永瀬拓矢王座が佐々木勇気八段に勝ち,それぞれの勝者で決勝戦を戦います。勝ったほうが,藤井棋聖(六冠)に挑戦となります。佐々木大地七段は初のタイトル挑戦となるかが注目です。
 王位戦は挑戦者決定リーグが進行中で,紅組では,先日,羽生善治九段が石井健太郎六段に勝ち2連勝となっています。羽生九段は,すでに4局を終えて31敗の豊島将之九段との対局が残っており,まだ紅組優勝の行方はわかりません。白組は,佐々木大地七段が,ここでも渡辺名人に勝って4連勝で白組優勝にぐっと近づきました。優勝の可能性が残っているのは,佐々木七段以外は21敗の渡辺名人だけですが,少し苦しくなりました。なお佐々木七段は,順位戦は最下位のC2組なのですが,これまでも高い勝率を上げ,大物にも数多く勝っています。なぜC2組から脱出できないのか不思議なのですが,うまく順位戦に星を集めることができなければ,こういうことが起きてしまいます。そろそろ順位戦や竜王戦(4組)のクラスを上げることに専念すべき時期に来ているかもしれません。
 NHK杯では,神戸大学出身の古森悠太五段が初出場で,初戦にみとごに横山泰明七段に勝ちました。古森五段は,C1組に昇級し,着実に力をつけている印象があります。菅井八段や久保利明九段らに続く関西の振り飛車党としての地位を確立してもらいたいです。

2023年4月22日 (土)

NHKテレビ体操とPCとユニフォーム

 日課にしているNHKのテレビ体操ですが,4月から男女のユニフォームが統一されました。ユニフォーム(uniform)って,統一の形という意味ですから,男女統一はその文字どおりのものといえます。公共放送として,politically correctPC) を意識したものかもしれません。PCの母国ともいえるアメリカでPC疲れもあってTrump政権が誕生したということもあるなか,日本はそもそもPC疲れといえるほどPCが浸透していないことが問題であるとも言われていて(『書斎の窓』の最新号686号の「ポリティカル・コレクトネスからどこへ」刊行記念鼎談も参照),そういう状況を改善するためにNHKも対応したというところでしょうかね。202110月から男性アシスタントが入り,アシスタントは女性だけという状況に終止符を打ちましたが,制服は男女別でした(なお,この4月からは男性アシスタントが1人増えて,男女がついに同数になりました)。女性のレオタードは,いつからかなくなっていましたが,今度は男女統一のユニフォームということで,同じ色のズボンとTシャツ(そう呼んでよいのかわかりませんが)です。色は日替わりです。PCということか,男女平等ということなのでしょうが,むしろいまは個性の時代なので,こういう画一的なものではなく,アシスタントが自分で選んだ服を着てもよいのでは,という気がします。差別の問題というのは,結局のところ,個性の尊重の軽視というところに行き着くのであり,個性にゆだねるべき事柄を,マジョリティの指向で抑圧してはならないということです。そういう価値観を重視するなら,NHKの番組でも,uniform ではなく,multiforms)を導入して模範となってもらいたいところです。ニュースでは男性の服装が地味で,こちらは女性のほうが自由な感じがするので,男性はスマートカジュアルの範囲で自由に服装選択してよいとしてはどうでしょうかね。
 体操に戻ると,もちろん,身体の動きがわからなければアシスタントの意味がなくなるので,そういう点を考慮した服装は条件として課してもいいのですが,それが守られていれば,色やデザインは好きなものにしてもらってよいと思います。なお,手足の動きなどが,アシスタントのポジションによってはよくわからないことがあるので,視聴者目線で,アシスタントはその動きがよくわかるようにポジションをとってもらうことを望みます。こういうことがユニフォームの統一よりも大切なことです。

2023年4月21日 (金)

映画「タリーと私の秘密の時間」

 2018年の映画で,原題は「Tully」です。監督は,Jason Reitman,主演は,Charlize Theronです。育児における母親の孤独や辛さを教えてくれる映画です。ファンタジー的な要素もあるのですが,でも実はファンタジーではないというところに,この映画のうまさがあります。
 予期せず3人目を妊娠したMarloは,すでに小学校に通う女の子と男の子がいます。しかし男の子は,他人との協調性などに問題があり,癇癪を起こすこともあり,学校が手に負えなくなり,Marloに転校させるよう求めてきます。そんなような育児で大変なところに,新たに3人目の赤ちゃんがやってきました。彼女の兄はベビーシッターを夜だけでも雇うように勧めますが,彼女は乗り気ではありません。しかし,ある晩,Tullyという若い女性がやってきます。彼女は完璧なベビーシッターでした。おかげでMarloは夜の睡眠も取れるようになり,元気が出てきます。子供に冷凍食品以外のものを食べさせたり,性的欲求不満を晴らすために夫好みのコスプレをして誘ったりするなどの積極性が出てきます。しかし,あるときTullyは気晴らしのために,赤ちゃんをおいて二人で飲みにいうよう誘い,その場でベビーシッターはもうできないと言いはじめます。帰りの運転中に極度の疲労で寝込んでしまったMarloは,車ごと川に転落します。彼女を助けたのは,人魚のようなTullyでした。彼女はそれまでも夢の中で人魚をみていました。そして,彼女が入院している病院に,Tullyがやってきて最後の別れを告げます。
 夫は,実はTullyをみたことがないと言います。しかし,映画のなかでは,Tullyがメイドの格好で夫のベッドのところに行くシーンが出てきます。実はTullyは実在の人物ではなく,Marloの若いころの姿だったのです。出生したばかりの子に母乳を与え,おむつ替えをすることにひたすら追われ,息子の問題もあり,極度の睡眠不足とそれによる疲労のなかで,彼女は幻覚をみていたのです。TullyMarloのもう一人の人格でした。若くて自由な人生を送っていた自分と現実の人物が同居してしまっていました。しかしMarloに対して,Tullyは語りかけるのです。この繰り返しが続く毎日こそが幸せであるということを。これはMarloが自分自身に言い聞かせていたことなのです。でもTullyであるときの彼女は頑張りすぎて,ついに燃え尽きてしまいました。
 この映画では,夫がものすごく非協力的なわけではなく,妻も夫を非常に愛しています。たしかに夫は仕事をしっかりこなしていて,家族のために頑張ってくれています。とはいえ,母乳を与える作業は妻にしかできません。それがあるから,夜眠れなくなります(ミルクを使えばという意見もありそうですが,彼女は母乳を与えたいのです)。そして精神が限界を越えてしまったのです。育児のたいへんさを教えてくれる映画です。ワンオペでなんとかやりきろうとする妻。そして,すぐそばにいるにもかかわらず,あまりにも無力な夫(寝る前にベッドでやっているゲームがそれを象徴しています)。
 日本でも,夫の育児休業の促進という話はありますが,もちろん,それもよいのですが,ただ休業をとればよいということではありません。夫にできることは限られていても,妻の実情や苦悩を理解し,寄り添うことが大切なのでしょう。最後に,iPod(?) につないだイヤホンを二人がそれぞれの片耳で音楽を聞きながら,炊事をしている後ろ姿のシーンが出てきます。育児の問題で,何が大切かを考えさせる映画でしょう。

2023年4月20日 (木)

櫻田謙悟『失った30年を越えて,挑戦の時』

 櫻田謙悟『失った30年を越えて,挑戦の時~生活者(SEIKATSUSHA)共創社会』(中央公論新社)をお送りいただきました。どうもありがとうございます。面識はありませんが,櫻田氏は,言うまでもなく,経済同友会代表幹事(新聞報道では4月末に退任)で,メディアにもよく登場される方です。経団連とは違い,同友会のほうが,私の感覚に合う提言がなされることが多いと思っています。今回の提言は,「生活者(SEIKATSUSHA)共創社会」というものですが,ネーミングがわかりにくいのが,ちょっと難点ですね。
 本書の第1章の「課題解決を先送りしてきた『課題先進国』」の部分は重要な指摘で,GDPの伸び悩み,賃金水準の停滞,低い労働分配率や労働移動の低調,高齢化にともなう社会保障危機,国家財政の危機的状況,深刻な少子化・人口減少,子どもの相対的貧困,エネルギー危機などについて,読者と問題意識を共有することができます。第2章の「日本の強み」は,武士道の話とか,ちょっとどうかなという気もしますが,日本は生活するうえで,世界にも稀な素晴らしい国であることは間違いありません。具体的な提言を論じる第3章については,企業中心社会から個人中心社会へという私の立場からは,企業中心という視点を感じるところはどうかと思います(経営者の団体の提言ですから仕方ないのですが)が,「生活者共創社会」のための提言として,⑴個を尊重し将来を生き抜く力を育てる教育を,⑵人材とデジタルへの長期的投資で価値創造基盤を構築・強化,⑶利他の精神・パーパスに基づく付加価値の創造,⑷「挑戦の総量」がカギを握る,が挙げられているところは,そのとおりだと思います(152頁以下)。本書の提言は,これからの政策議論において,十分に考慮に入れなければならないでしょう。

2023年4月19日 (水)

「誰のための司法か」

 NHKプラスで,「誰のための司法か~団藤重光・最高裁 事件ノート~」をみました。元最高裁判事で,東大の刑事法の教授として数々の業績をあげ,日本の歴史上,最も重要な法学者の一人といえ団藤重光が残していた雑記帳のなかに,大阪空港裁判における最高裁内部での動きを書き記していたものがありました。そこから,同裁判における最高裁の審理が異例の展開を遂げて,司法の独立が脅かされていたのではないか,という疑念が出てきたので,それを検証するというのが,番組の企画趣旨だと思います。
 大阪国際空港での飛行機の離発着が増えることにより,空港近くの住民は騒音に悩まされていました。とくに夜間の騒音は深刻で,住民はついに21時から7時までの飛行の差止めを求めて訴えを提起しました(1969年)。第1審の大阪地裁は22時以降の差止めを認めたのに対して,控訴審の大阪高裁は21時以降の差止めも認めました。団藤がいた第1小法廷(岸上康夫裁判長)は結審して,判決は上告を棄却する方向で決まっていたようです(こういうことが明らかになってよいのかは,ちょっと疑問ですが)。ところが,その後,大法廷への回付が決まり,最終的には,原告の差止め請求の部分は却下となりました。この過程で,元最高裁長官の村上朝一(番組では,誰かから「法務省の代理人」とも言われていました)から,当時の最高裁長官の岡原昌男,そして岸上裁判長に圧力がかったことが,団藤のメモから明らかにされています。大法廷への回付は,被告の国側の上申書で求められていたことですが,実際に,小法廷で結審したものが大法廷に回付されるのは異例中の異例であり,番組では,法務省の意向を受けた村上の圧力に最高裁が屈したというストーリーになっています。国側が自身に不利な判決が出そうだと悟ったのは,岸上らが,国に和解を提案したからです。岸上は,和解をすることによって国は敗れることを回避できるので,国は和解に乗ってくるだろうと考えていました。すでに21時以降の飛行はしていなかったので,いまさらそれを戻すことができるわけでもなく,和解で解決しても国には実害はないだろうと考えていたようです。しかし,国はこの和解提案で,自身が不利となることを知り,何が何でも勝訴する戦略をとろうとしました。最終的には和解をするとしても,高裁判決にしたがった結果になってしまえば,実質敗訴であり,これからの行政の執行に影響してしまうと考えたのでしょう。岸上らが,もし和解提案をせず,あっさり国の敗訴させていれば,その後の日本の行政は大きく変わったかもしれません。
 最高裁の多数意見は,次のようなものでした(最高裁大法廷昭和561216日判決(昭和51年(オ)395号))。
 「本件空港の離着陸のためにする供用は運輸大臣の有する空港管理権と航空行政権という二種の権限の,総合的判断に基づいた不可分一体的な行使の結果であるとみるべきであるから,右被上告人[住民]らの前記のような請求は,事理の当然として,不可避的に航空行政権の行使の取消変更ないしその発動を求める請求を包含することとなるものといわなければならない。したがつて,右被上告人らが行政訴訟の方法により何らかの請求をすることができるかどうかはともかくとして,上告人[国]に対し,いわゆる通常の民事上の請求として前記のような私法上の給付請求権を有するとの主張の成立すべきいわれはないというほかはない。以上のとおりであるから,前記被上告人らの本件訴えのうち,いわゆる狭義の民事訴訟の手続により一定の時間帯につき本件空港を航空機の離着陸に使用させることの差止めを求める請求にかかる部分は,不適法というべきである」。
 差止め請求自体が民事訴訟でやることは不適法とされて門前払いとなったのです。団藤は,これに対して怒りをこめた反対意見を書いています。最高裁のなかでも差止め容認派と反対派がいたとされ,大法廷回付後,審理は長期化し,その間に裁判官の入替えがあり,反対派の裁判官がそろったところで,今回の判決がでたような印象があります(東大教授として団藤と同僚であった伊藤正己も最高裁に新たに入っており,団藤反対意見は,多数意見を支持する伊藤の補足意見に批判的なものとなっています)。
 ということなので,番組は,住民の声に耳を方向け,法律論としては多少無理筋であっても,住民側に立った判決を出すべきとした団藤は「正義の味方」で,一方,最高裁の多数は行政の圧力に屈したという印象を与えるものになっていました。番組では,憲法763項の「すべて裁判官は,その良心に従ひ独立してその職権を行ひ,この憲法及び法律にのみ拘束される」を掲げ,最後に団藤の,判決を静粛に聞いていた原告をみて述べた,「この判決は原告たちに可哀相だ」という言葉で締められています。
 番組のなかで当時の運輸官僚が,国が決めた大阪空港をめぐる航空行政について,住民が自分たちに迷惑がかかるからやめるようにというようなことは認められないと述べていました。別のところに転居しなければならないときの補償をするのは当然だが,国の行政を住民の声で変えることは認められないというのです。差止めなど論外ということでしょう。最高裁は,結果として,住民は争うなら,行政訴訟を提起すべきだとして,具体的な判断には踏み込みませんでした(明言したわけではありませんが,実質的には,そういうことを言っています。最高裁の論理で,民事訴訟の道を閉ざすことがどこまで正当化できるのかは,私は専門外なのでよくわかりません。行政法の専門家の意見を聞かなければなりません)。そもそも民事訴訟でやるとしても,差止め請求について,人格権という明文の規定のないものを根拠とせざるを得ず,法律論としては苦しいところもありました。
 私が番組にやや違和感をもったのは,団藤の原告らは可哀相という言葉で締められたことです。大事なことは,団藤はたんに原告らが可哀相だから国の上告を棄却すべきと考えていたわけではないことです。裁判はそんな感情論ではダメです。団藤は法廷の風景をみて,原告らが可哀相と雑記帳には書いたのでしょうが,裁判にそういう感情論を持ち込むのとは話は別ですし,団藤はそんなことをするつもりは毛頭なかったはずです。団藤が怒っていたのは,差止め請求を不適法として門前払いにした(「棄却」ではなく「却下」であった)ことで,「被害の大小を問わず,また,排他的な権利の侵害があつたといえるかどうかにかかわらず,およそ差止に関するかぎり,現行法上,民事訴訟の途をとざすものである」ことになる多数意見に反発したのです。そして,「本件のような差止請求について,およそ裁判所の救済を求める途をふさいでしまうことに対しては,国民に裁判所の裁判を受ける権利を保障している憲法32条の精神からいっても疑問をもつ者であり,現行法の解釈として,このような結論をとるのは,すべての可能性を検討した上での最後のやむをえないことと してであるべきだとおもう。いな,百歩を譲って,かりに行政訴訟の途がないとはいえないとしても,本件のように被上告人らが民事訴訟の途を選んで訴求して来ている以上,その適法性をなるべく肯定する方向にむかって,解釈上,できるだけの考慮をするのが本来ではないかとおもう。」というのが,団藤の考えを端的に現れています。その前提にあるのは,「司法権の使命には厳然たる限界があり,いやしくもその限界を逸脱して立法権・行政権を侵犯することがあってならないのは,三権分立の大原則からいって当然のことであるし,司法権が過大の任務を引き受けることは司法の本質そのものからいっても許されないことである。しかし,このことと,裁判所が司法の本来の任務の範囲内において,法の解釈適用に創意工夫を凝らしてあたらしい事態に対処して行くこととは,全く別のことである」という,団藤の司法に対する柔軟な考え方です。共感するところは大です。
 もっとも,最高裁が,この問題について大法廷で判断したことについては,その過程にOBからの圧力があるなど「けしからぬ」(団藤の言葉)部分があったとしても,事の重大性から慎重に判断する必要があったと考えると必ずしも非難できないところもあります。また差止め請求という強力な権利を行政に対して行使することについて,立法上の明確な根拠がないなかで,どこまで司法の解釈で対応するのが適切かというところも議論の余地があると思います。団藤は,それもふまえたうえで,でも却下はないだろうと考えたのでしょう。
 たしかに,司法権の独立という点は,この事件の重要な論点であり,番組もそこにこだわっているのですが,団藤自身は,そこよりも公害という新たな現象のなかで,国民の健康や生活環境が脅かされたとき,立法対応が遅れがちであることをふまえ,司法がどういう役割を果たすべきかについて悩み戦ったというところが重要なのだと思います。これは現在にも関係するテーマです。つまりAIなど技術革新が進むなかで,次々と新たな問題が現れてきます。それが国民の基本的な人権にかかわるような問題となることもありえます。「新しい酒は新しい革袋に」なのですが,今日の急速な技術革新のなか,どうしても立法対応は遅れがちです。司法は,その間隙を埋めるべく創造的な法形成ができるべきであり,過度に保守的であってはならないというのが団藤の考えです。これは現在の司法が向き合うテーマでもあるのです。

2023年4月18日 (火)

首相襲撃事件に思う

 岸田首相の遊説場所に爆弾が投げ込まれて,あわや大惨事となるところでした。いくら屈強なSPがいても,爆弾が投げ込まれたらどうしようもありません。今回は人的被害がほとんどなかったようですが,警官(?)がカバンではねのけた爆弾は一般聴衆のほうに向かって転がっていたようであり,おそろしいことです。今回のようなことをしでかす人は例外的ですし,こんなことで怯んでは民主主義の敗北だという勇ましい意見もあるのですが,もちろん加害者が悪いのは当然とはいえ,いくら統一地方選が重要といっても,サミットも控えた重要な時期で,すでに各地で国際会議が開かれているなかで,和歌山の漁港で魚を食べて遊説というようなことまでして候補者の応援をしている首相の行動に違和感をおぼえた人も多かったのではないでしょうか。選挙が大苦戦だから首相でも来なければ大変ということで,わざわざ来たのか,よくわかりませんが,重点の置き方がどうかという気がしますね。国会の都合で林外務大臣がインドで行われたG20の外相会議の欠席をしたときも同様の疑問がありました。プライオリティをきちんと判断できない政府は問題です。
 「高齢者集団自決」発言でも話題になった成田悠輔氏の『22世紀の民主主義』(SB新書)という本があります。彼はエビデンスにもとづき目的を発見し,エビデンスにもとづき政策を立案するという「無意識データ民主主義」を提案しています。エビデンスは,インターネット上にある膨大なデータの分析が中心であり,選挙の結果は単に目的発見のための一つにすぎないものであるとします。民意はデータで集積できるのであり,それを中心に据えることこそ,民主主義的ということでしょう。彼は選挙について「みんなの体と心が同期するお祭りなので,空気に身を任せる同調行動にうってつけである」と述べています。そして,「数百年前であれば,同調は狭い村落内に閉じた内輪ウケでいてくれた」が,現在は同調の幅が地球規模に広がり,政策論点も微細化・多様化が進んでいるのに,「いまだに投票の対象はなぜか政治家・政党でしかない」として現在の政治システムに疑問を呈し,「こうした環境下では,政治家は単純明快で極端なキャラを作るしかなくなっていく。キャラの両極としての偽善的リベラリズムと露悪的ポピュリズムのジェットコースターで世界の政治が気絶状態である」という独特の表現で現状を批判し,「民主主義が意識を失っている間に,手綱を失った資本主義は加速化している」と述べています(8384頁)。
 彼の言葉についていくことは難しいのですが,現在,すさまじい貧富の差が生じつつあるということは実感しており,成田氏の主張が資本主義による社会的な階層の分断の拡大に民主主義が十分に対応できていないというものであるとすると,そのとおりという気がします。百貨店や高級ホテルは,富裕層向けのサービスに力を入れると公言し,たいしてお金を使わない中流階級は切り捨てられつつあります。さらにその下にいるのがコロナでいたんだ貧困層であり,その範囲が広がりつつあるのかもしれません。再チャレンジや逆転が難しいと感じたとき,若者は「人生100年時代」の残りをどう生きていくかを考えて絶望し,過激な行動をとる危険性があるのです。今回の岸田首相の襲撃が,どのような動機によるのかは,よくわかりませんが,昨年の安倍元首相の襲撃をみていると,(母親が旧統一教会に入れ込んだために,家庭崩壊になってしまった)若者の絶望的な悲しみの声が聞こえてくるような気がします(だからといって,彼の犯罪を正当化できるわけではありません)。理不尽な貧困に陥り,その打開の可能性がないとわかったとき,人は過激な行動をとるのです。そういう社会的風潮が置きつつあることに鈍感な政治家が,オールドスタイルの同調を求めて国民のなかに物理的に飛び込み,テロに屈すれば民主主義の終わりと言わんばかりに,あえて果敢に遊説を続けるというのは,なにかがおかしいという気がしてしまいます。
 成田氏の見方が正しいかはともかく,私は彼の極端に思えるような民主主義論についても聞くべきところが多いと感じています(私は,『会社員が消える』(文春新書)のなかでも,別のテーマですが,成田氏の言説を引用しています[126頁])。
 いずれにせよ,今回の事故は被害がほとんどなくほんとうによかったです。しかし,どんなに警備を強化しても,一般人を巻き込む政治テロが起こる危険があります。遊説によって守られる民主主義ではなく,もっと違った民主主義を模索したらどうでしょうか。
 もし和歌山のあの事件で,はねのけられた爆弾がもう少し勢いづいて聴衆のなかに転がりこみ,そして,もっと早く爆発していたら,どうなっていたでしょうか。加害者が悪いというだけでは,すまないように思います。

 

2023年4月17日 (月)

シラバスぎらい

 4月13日の日本経済新聞の夕刊で,経済学史で著名な京都大学教授の根井雅弘氏が,「あすへの話題」というところで,「最近では,教員は自分が担当する講義科目(経済学史、現代経済思想など)について詳細なシラバスを書くことを要求される。例えば,前期15回分の予定を書いていないと修正要求が出る。予定通りに行かないのが講義の面白さなのだが,この動きに逆らえない。私が学生の頃は,教授が脱線するのが楽しかった。そこだけが記憶に残っていたものだが,もはや昔話になりつつある。」と書かれていました。京都大学も同じなのかと驚きました。神戸大学でも,数年前から,シラバスの執筆には,細かい指示がなされるようになりました。シラバスを細かく書くということは,そこから逸脱するなということでもあります。実際にはシラバスの記載はそれほど詳しく書くことはせず,授業の進め方について,ある程度裁量をもてるように工夫はしています。
 いずれにせよ,根井先生も書かれているように,大学の授業などではアドリブの要素がなければ意味がないのであり,脱線のない機械のような授業であれば,教科書を読んでおけということで事足るように思いますし,将来的にはAI搭載ロボットにまかせてよいということになりそうです。対面型にせよ,オンライン・リアルタイム型にせよ,学生の反応に応じて,ここはもう少し詳しく説明しようとか,あるいは脱線しても,ある論点について深めて説明しようとか(私はオンデマンド型のものについても,しばしば脱線してしまいます),あるいは労働法では、時事的なネタも結構関係してくるので,シラバスを作成した頃にはなかったような,新たな話題を取り入れながら授業中に詳しく解説するとか,そういうような自由さがあるからこそ,人間が授業をやっていることの意味があるのです。授業の構成にしても,今回は予定の話が全部はできなかったので,残りは次の回でというようなことで,ずれこんでいったり,当初は大切と思っていたけれど,これは自習で十分と判断して省略したりとか,そういうフレキシビリティがほしいのです。そういうことができなくなると,大学教育のクオリティを下げてしまうことになるでしょう。もちろん,シラバスがなければ授業内容がどういうものかわからなくなり,学生の科目選択のための情報が不十分となるというのはわからないではありませんが,シラバスで少々詳しく書いても,それで学生にとってどれだけ有益な情報の提供となっているか疑問です。授業の目的の情報などは事前に提供しておくことは必要ですが,具体的にどんな授業が聴けるかは,「開けてびっくり」くらいのほうがよくないでしょうか。
 シラバスは,教員がきちんと授業をしているかのチェックという面もあると思いますが,何を教えるかは教員の裁量であり,そんなものを第三者がきちんとチェックできるわけがありません。私のように,労働法は徐々になくなると思っている人間の教える労働法は,やはりそういう視点をもった労働法であり,そうでない多くの労働法研究者の教える労働法とは違うものがあるでしょう。LSでは,ケースブックに即して授業をやるので,脱線はあまりありませんが,それでもどこにどのように重点を置くかによって授業の内容はかなり変わってきます。LSでも,当初準備していたものとは違った内容になってしまうことがよくあります。シラバスが実際にどこまでの縛りをもっているかはともかく,なにかそういうものに制約されているというだけで,窮屈な気分になってしまい,よい授業ができなくなくなりそうに思えます。

2023年4月16日 (日)

献本御礼

 川口美貴さんから,『労働法(第7版)』(信山社)をお送りいただきました。いつも,どうもありがとうございます。前に第6版をいただいたばかりと思っていましたが,すごいスピードでの改訂ですね。単著だからこそのスピード感かもしれません。しかも,新しい理論的な課題も取り入れられているとのことで,その学問的エネルギーには感服します。今後の改訂版も楽しみにしています。
 もう1冊,小畑史子,緒方桂子,竹内(奥野)寿著の『労働法(第4版)』(有斐閣)も,ご著者からお送りいただきました。いつも,どうもありがとうございます。定評あるストゥディア・シリーズです。タイプの違った執筆者を一緒にして教科書を書かせるというのは有斐閣流で,そこから生まれる「化学反応」でオリジナリティを出すという企画だと思いますが,この本では内容は単著かと思うほど非常に手堅いもので,初心者の教科書としてすぐれています。
 川口さんの本は体系書で独自のスタイルで走っておられ,他の競合者はいないように思います(ただし,ファンがどこまで増えるかは未知数)が,一方,小畑さんたちの初心者向けの教科書市場は競争が激しいようにみえますが,そのなかでも本書は第4版と版を重ねていることからもわかるように,競争を十分に勝ち抜けるクオリティをもっているのだと思います。
 それにしても労働法の本は売れるのですね。それだけ世間の労働問題への関心が高いということなのでしょう。教科書が出ることにより,いっそう関心が広がり,それにより教科書もいっそう刊行されるという循環効果が起きているのかもしれません。市場規模はまだ拡大の余地があるかもしれませんね。でも,初心者向けの教科書の新規参入はもういいでしょう。すでに小畑さんたちの本のように十分にすぐれたものが出ていますから。

 

 

 

2023年4月15日 (土)

久しぶりの大人数講義

 昨日は,久しぶりに,教壇に立って100人以上の学生の前での大人数講義(学部の労働法の講義)をしました。2019年度の後期の最終回の2020121日以来で,約33ヶ月ぶりです。過去3年間のオンラインの授業(オンデマンド授業)とは異なり,学生の顔を見ながら話すということで,懐かしい感覚です。やっていると,昔のように90分ずっと,板書もせず話し続けるというスタイルとなってしまい(そうしようと思ったわけではないのですが,自然にそうなってしまいました),学生は大変だったかもしれません。前と違うのは,私はタブレットを持参し,学生もタブレットかパソコンを持参していること,レジュメは事前に配信しているパワポのスライドに変わったこと,教科書のうち『最新重要判例200労働法』は電子版でみることができて,私は持参しなくてよくなったこと(タブレットのKindleにあらかじめ入れています)などです。
 授業後の疲労感は大きく,まさに労働したという気分でした。足はパンパンで,喉は痛く,身体に悪いなという感じがしましたが,授業中は頭のほうがフル回転なので,その間は疲労は感じませんでした。集中しすぎて,途中で水を飲まなかったのは失敗です。途中で休息を入れてもよいのですが,緩んだ雰囲気をもう1回戻すのが大変なので,昔から休息は入れずにノンストップでやっています。週2回の授業とはいえ,1回はオンデマンドにしていますので,そちらのほうでは学生はゆっくり自分のペースで視聴してもらえればと思います。
 ということで,結局,大人数講義は,対面型講義のほうがよいのかということですが,やっぱりオンラインのほうがよいです。通勤を省略できることは大きいです。大学にいると教室の移動など,もろもろの無駄な時間が生じます。オンラインのほうが授業をすることに集中できます。周りに資料をしっかり置くこともできます。教室でのリアル講義は何十年もやって慣れているものであるとはいえ,これがとくにオンラインより優れているとは思えませんね。今回とは違い,少人数講義の場合は,オンデマンド型ではなく,オンラインリアルタイム型となります(LSは今学期もこのパターンです)が,これもやはりオンラインのほうが優れているというのは,過去3年間の経験からの私の結論です(少人数講義については,少なくとも学部学生からはオンラインのほうがよいという意見がほとんどです)。

2023年4月14日 (金)

道幸哲也『岐路に立つ労使関係』

 道幸哲也先生から『岐路に立つ労使関係―労働組合法の課題と展望―』(旬報社)をいただきました。いつも,どうもありがとうございます。理論的,実務的な観点から問題点を整理して指摘するという道幸スタイルの論文を集めたものです。私が誤解しているかもしれませんが,道幸先生は,旧来型の労働組合へのこだわりを強くもっていらっしゃるようであり,もしそうであると私と少し立場は違います。個人的には,デジタル化など労働の現場における大きな変化のなかで,労働者のつながりはどうあるべきかが,これからの労働組合論においては欠かせない視点であるように思います。前に三井正信さんの論文についてもコメントしたことですが,旧来型の労働組合にこだわっていると,今後の展望がなかなか開けてこないような気がしています。
 ところで,この本では,労働委員会や不当労働行為のことも論じられています。不当労働行為意思についての論考は,実務経験にも裏打ちされた知見に基づく整理がされていて参考になります。今回,道幸先生の論説を読んで,改めて考えてみたのは,1号事件で不当労働行為意思という概念を使うことはやめたほうがよいのではないか,ということです(昔の分類で言えば不当労働行為意思不要説ですが,ここでは,客観的な因果関係だけで決めればよいということではありません)。道幸先生は,不当労働行為意思は,組合結成や組合員であることなどの認識に加えて,組合への違和感のようなものが必要と言われています。認識だけで不当労働行為が成立するわけではないのですが,通常は反組合的意図や組合嫌悪の感情などが必要と言われるところ,道幸先生は「違和感」程度でよいということでしょう。私は『人事労働法』(弘文堂)では,反組合的意図と書いています(234頁)が,もしかしたら反組合的な「姿勢」というような表現のほうがよいのではないかと考え始めています。いずれにせよ,こうしたものは経営陣らの発言や日常の組合員への対応からうかがいしることができます。しかし,そういう明確な態度が示されていなくても,組合員に対して具体的に不利益な措置がなされれば,反組合的な姿勢がひとまず顕在化したと推認できそうです。これについては,使用者は不利益な措置が就業規則に根拠があるなどの正当なものであると主張してくることになりますが,ここでポイントとなるのは,就業規則に根拠があるなどの正当化が「可能」であっても,実際の運用などで,もし組合員でなければ当該措置を受けていなかったと判断できる場合には,これは不当労働行為となると解すべきだということです。そこに反組合的意図なり反組合的姿勢があるといえるからです。難問は,明確な組合嫌悪の感情などが日常的に示されている場合において,(重大な非違行為があるなどで)組合員でなくても当該不利益な措置(懲戒処分など)を受けていたというような場合です。これは不当労働行為でないとするのが通説ですし,私も『人事労働法』では,そのように書いていますが,なお議論の余地はありそうです。私法上の根拠はあっても,そこに反組合的な要素があれば拾い上げるのが,不当労働行為救済制度の意義であるともいえるからです。ただ,この解釈の問題は「故をもつて」という文言に合わないところですね(なお,この問題についての精緻な分析をしたものとして,荒木尚志『労働法(第5版)』(有斐閣)771頁以下があります)。いずれにせよ不当労働行為意思を抽象的に論じても意味がなく,何を不当労働行為と評価すべきなのかというところから考えていくことが必要です(3号の支配介入についても同様です)。
 道幸先生の本にもどると,労働委員会の労使委員の専門性について,「労使委員は必ずしも各側の『代理』ではないので,労使当事者に対し一定のアドバイスや指導をすることも期待されている。その意味では,労使委員も公益的な役割を担っているわけである」(208頁)と書かれていて,まさに我が意を得たりという感じです。多くの労使委員はそのような自覚をもって任務を遂行されていると思います。ただ同じように公益的な役割といっても,公益委員との役割分担は重要で,それはたとえば合議での意見陳述のときに関係してくるように思います。私は労使の委員が何について「意見」を述べるかが重要であると思っています。労使の参与委員には法的な観点から整理された議論よりも,むしろ生の事実関係における労使の委員ならではの認識や感想のようなものを述べていただくほうが有り難く,そうした意見が,上記の不当労働行為意思の判断などで,より的確な判断や救済方法の決定をするのに役立つと思っています。三者構成の良さを活かすためには,公益委員と労使の委員との間で,どのような役割分担をすべきかについて,きちんと議論をしたほうがよいのではないかと日頃考えているところです。

2023年4月13日 (木)

経済教室に登場

 日本経済新聞の経済教室に,昨年1月(テレワークがテーマ)以来の登場となりました。今回は労働市場の流動化がテーマとして与えられたので,久しぶりにキャリア権の議論をしました。諏訪康雄先生の議論の受け売りなのですが,そこに解雇の金銭解決の議論を組み込んでいます。デジタル時代をみて,さらに雇用大調整時代の到来が予想されるなか,キャリア権の議論の重要性がますます高まるであろうということが議論の軸です。昨今のあやしいジョブ型をめぐる議論については,JILPTの濱口桂一郎さんがいろいろ批判されているところであり,いずれにせよデジタル化,ジョブ型,流動化などはつながっていて,それを体系的に整理して,キャリア権の観点から一貫した労働政策論を展開すべきなのです。新しそうなところだけつまみ食いしてスローガンに掲げる安直な政策を展開するなというのが私のメッセージですが,首相やそのブレーンに届くでしょうかね。
 これと関連して,もう一つのメッセージは,企業を頼った政策ではいけないということです。拙著『会社員が消える―働き方の未来図』(文春新書)でも書いた企業中心主義から個人中心主義への移行を政策面でも実現し,そのために個人の力をいかにエンパワーするかを政策の主たる目標に据えるべきなのです。そのためには,教育政策が重要であり,そこにキャリア権が関係してきます。個人単位の社会保障への再編も,個人中心主義への移行の柱となります。個人がエンパワーする政策こそ,個人の自立を助けることで,これも広い意味でのSocial Securityなのだと思っています。
 今回のテーマは,法学的な観点からの議論でということを言われていたので,キャリア「権」を持ち出しました。実は見出しにこの言葉を当初は入れる提案をしていたのですが,あまり世間になじみがないということで,結局,入れることは断念しました。権利かどうかはさておき,エンプロイメント(employment)からキャリア(career)へのニーズが高まるというトレンドを押さえることは大切で,政策担当者が見落としてはならない点です。

2023年4月12日 (水)

ジュリストの重判に登場

  ジュリストの重要判例解説に,14年ぶりに登場しました。初めて依頼が来たと思いこんでいて,やっと研究者として認知してもらったと喜んでいたのですが,自分のHPに検索をかけてみると,驚くことに,過去2回執筆したことがありました。平成12年度に羽後銀行事件・最高裁判決,平成20年度に新国立劇場運営財団事件・最高裁判決を担当していました。そして,今回の令和4年度版で山形大学事件・最高裁判決です。判例評釈は基本的にはやらないこと(やる能力がない)にして迷惑をかけないようにしているのですが,ときどき興味深い判決を指定されれば,やってみようかなという気になってしまいます。きまぐれで申し訳ありませんが,それでも声をかけてもらえること自体ありがたいことだと思い感謝しています。今回の山形大学事件・最高裁判決は,多くの人が評釈を執筆していて,普通に書いても面白くないので,あまり論じられていないような視点で書いてみましたが,企画の趣旨に合っていたかどうかはよくわかりません。いずれにせよ,労働法の重要判例解説は,土田道夫先生の「労働法判例の動き」が秀逸であり,それだけでも読む価値はありますし,山形大学事件についても,土田先生の書かれたところだけ読んでくだされば十分かと思います(最初に出てきます)。
  このほか,ビジネスガイドで連載中の「キーワードからみた労働法」の第190回は「デジタル労働プラットフォーム」をテーマにしました。先日,神戸大学で開催されたシンポジウムのテーマでもあり,明日の兵庫県労働委員会の研修でもこのテーマで話をする予定です。いまは何が問題であるかを指摘するにとどめていますが,それをどう解決したらよいかの試論も今後提示していくいつもりです。

2023年4月11日 (火)

ChatGPT

 オープンAICEOが日本に来日して,首相や自民党議員と面会したとのことで,首相との面会って割りと簡単にできるのだなと驚きましたが,それくらいChatGPTは重要ということでしょうか。日本は,世界で一番「生成型AI」の利用が上手で広がっているとおだてられて,それに乗せられてはいけない気もしますが,どうも他国よりも日本での利用が急速に広がっているのは確かなようです。イタリアでは個人情報保護の観点から一時利用を禁止したようです。欧州ではGDPRの共通規制があるので,他国も同じような状況にあるのかもしれません。個人情報の適切な利用のためのルール作りは必要ですが,昨日も書いたように,この技術の利用を止めることはもはや不可能です。どううまく使うかについて考えていくことに注力すべきでしょう。
 技術はしょせん技術です。その技術をどう活かすは人間の知恵にかかっています。殺人兵器のようにしてしまうのか,人類を多くの労働から開放し,より意味のあることにエネルギーを集中できるようにするのか,それは人間にかかっているということです。その意味で,文理融合というのは,ほんとうに重要なのです。拙著『デジタル変革後の「労働」と「法」』(2020年,日本法令)では,社会学者の吉見俊哉氏の言葉を参照しながら,「工学系は目的に対する手段の学問であるが,目的と手段をつなぐ技術体系が限界に達したとき,その先を見定めることができるのは,そのような体系自体を内在的に批判していくことができる,価値を扱う文系的な学問である」とし,これを受けて私も「目的手段的な思考は,つねに目的や手段の適切性に対する吟味が必要となります。その意味で,文系的な学問の重要性は変わらないでしょう」と書いています(331頁)。この話はChatGPT時代には,よりいっそうあてはまるのであり,プログラミングもChatGPTでできる時代がきているなか,いま必要なのは,実は文系的な価値の学問であると思います。哲学の時代ともいえるのです。いっとき文系不要論も出ていましたが,それは現在の大学の文系学部が不要かもしれないというだけで,価値を扱う文系的な素養は,今後いっそう求められることになるのです。そして,そういう素養は,大学に入ってからではなく,初等教育の段階から学んでいくことが必要なのでしょう。真の教養教育,つまり現代のartes liberales の習得が大切なのです。

2023年4月10日 (月)

授業開始

 法科大学院の授業はもう始まっていますが,学部の講義は今日からですね。学生が大学に戻ってきた感じです。例年どおりであれば,5月には大きく減るのですが。私も明日から学部の講義が始まりますが,明日はオンデマンド型です。学生にはできるだけ通学時間を節約してもらい,その時間を別のことに充ててもらいたいですが,なかなかオンライン授業への規制が緩まず,今回も全30回の授業のうちオンラインが半数を超えてはいけないというようなことになっており,困ったものです。
 ところで,ChatGPTは,いろいろ言われていますが,基本的にはこれを活用しない手はないと思っています。今朝の日本経済新聞の社説でも書かれていましたが,新しい技術については,この功罪を冷静に見極めて,メリットを活かし,デメリットをできるだけ抑えるという方向で考えていかざるをえないのです。人間の好奇心は抑えられません。
 もっとも,あまりにもAIの発達速度がすごいので,ついていけず恐怖心が先立つ人が多いことは理解できないではありません。いずれにせよ,労働政策の点では,AIの発達を最大限に想定した社会を考えておく必要があるでしょう。そうなると,学校の授業も根本から変わらなければなりません。いかにしてAIを活用して,私たちの住みやすい社会をつくるかということを考えなければなりません。そこには,環境への負荷がかからないようなAI利用という視点も大切です。
 法科大学院のような職業専門大学院は目的がはっきりしているのでよいのですが,学部では,これから私がやる授業が,AIとの共生という視点からほんとうに学生たちの将来に役に立つのかを自問しています。ややネガティブな自答を得てはいますが,とにもかくにも,今年度も授業が始まります。

2023年4月 9日 (日)

労働法の規制手法の再検討      

 季刊労働法280号は,特集テーマは「再検討・労働法の規制手法」で,私が総論的な論文を書かせてもらいました。このテーマでは,山川隆一先生の優れた研究があり,それに付け加えるものはないのですが,少し「共同規制」的なアプローチにこだわってみると,面白いのではないか,またそれも含めて,デジタル時代を意識して,「規制」の概念を広くとらえ,私のいう非政府規制(非常に広い概念)の活用も含めて,もっと多様な規制手法を総動員すべきではないか,という問題意識で小論を執筆しました。もはやハードローの時代ではないだろうというのは,多くの研究者が感じているところだと思いますが,ではどのような法規制が必要かはまだ理論的に模索されている途中です。とくに私はenforcement だけでなく,rulemaking のところの多様化にもっとこだわりたいと思っていて,論文ではまだ試論のレベルにも至っていないものであり,今後さらに研究を深めていければと思っています。
 特集の執筆陣はバラエティに飛んでおり,労働政策研究の第一人者の濱口桂一郎さんは情報公表規制について,論文の表現でいえば,「使用者に一定の情報の開示を義務づけることにより,一種のプレッシャーをかける形で,間接的に望ましい方向に誘導しようという規制手法」とみて,日本とEUでの例を紹介してくださっています。また労働法でよく活用される行政機関が策定する指針について,行政法の観点からの理論的な分析した論文を,神戸大学の興津征雄さんが執筆してくださっています。労働法で最近よく使われている指針は,行政法学者からみるとどうみえるのかは,労働法研究者にとって興味深い点であり,精密な分析がされていてたいへん勉強になりました。また,民間のガイドラインの活用は,共同規制の一つですが,フードデリバリーサービスの業界が策定したガイドライン(私も関与しています)を素材として取り上げ,ガイドラインの策定を主導した業界側の西村健吾さんにガイドラインについて紹介してもらい,ワーカー側の立場からこれをどうみるかについてフリーランス協会の平田麻莉さんに検討してもらい,さらに労働法学者の土岐将仁さんに理論的な分析をしてもらいました。平田さんからの指摘や土岐論文で指揮された理論的課題は実務にフィードバックし,よりよい内容にブラッシュアップしていくことが必要でしょう。いずれにせよ,ギグワーカーにとって就業環境の改善は,ときには労働者性や使用者性で白黒をつけてフルスペックの労働法的な関係を構築すべき場合もあるのですが,新しいビジネスモデルなので,既存の枠組みをあてはめることが適切でないこともあり,だからといって政府が新たなrulemakingをしようとすることには限界があるかもしれず,そこに業界が自主的に社会的責任をはたすような誘導システムを構築する意義があると思っています。最後に,公契約条例に関する早津裕貴さんの論文も重要です。公契約条例も広い意味での共同規制の一つの手法として,労働法学においても理論的検討の対象とすべきでしょう。労使自治との関係など興味深い指摘がされており,公共部門の労働法研究で目覚ましい成果を挙げている早津さんの今後の研究の発展への期待は大です。

 

2023年4月 8日 (土)

阪神タイガース

 開幕から4連勝し,その後2連敗で今日は勝って52敗というスタートとなりました。連敗地獄で苦しんだ昨年とは雲泥の差です。岡田監督になってどこまで変化するかを注目していました。戦力的には,3番に新加入のノイジーが入り,新人の森下が6番に入ったというくらいしか変化していません。開幕のDeNA戦は,相手の戦力が十分に整っていなかったので,3連勝もそれほど喜べたものではありません。むしろ今年もヤクルトは強いし,広島にはマツダスタジアムでは簡単には勝てないという感じです。ただ,昨年より,選手の緊張感が違うように思います。みんなぴりっとした動きをしていて,これは明らかに監督の力でしょう。
 青柳はすでに2試合に投げて,エースとしての見事な働きぶりであり,今年も活躍してくれるでしょう。西勇輝,才木らも安定しています。左腕では,ソフトバンクから移籍した新加入の大竹が今日は見事なピッチングでした。ただ左腕はこれだけでは足りないので,伊藤将司や髙橋遥人に早く戻ってきてほしいところです。伊藤,高橋が戻ってきて,本来の力を発揮してくれれば,優勝争いもできるかもしれません。

2023年4月 7日 (金)

LSの講義開始

 今学期の法科大学院(LS)の講義が今日から始まりました。今年度から,神戸大学の労働法の専任教員が私一人になってしまったので責任が重大ですが,ジタバタしても私は私なりの授業しかできません。ということで,いつもと変わらない出だしです。学生にとっては,もっと若くて優秀でイキのいい教員のほうがよいかもしれませんが,私はシニアの味(?)を出しながら頑張るしかありません。
  私のLSの講義は,オンライン・リアルタイム型です。久しぶりの1限の授業ですが,オンラインですので,通勤時間がなく,その点では楽でした。今日は初回ですので,いろいろ一般的な話をしました。ケースブックで勉強する労働法判例の多くは,日本型雇用システムを前提とするものだが,今後それが変容するなか,これから学ぶものが,10年後も通用するわけではないよ,という話をしました。数年前から,LSの労働法の講義で,こういうイントロダクションをしています。前はもう少しデジタル化を全面的に押しだして,「未来の労働法」というような話をパワポをつかって解説していましたが,今年はなんとなくそういう気分ではなく,デジタル化のインパクトは少しふれるにとどめました。ただ今後の授業のなかでは,ときおり,そういう話をするかもしれません。
 ところで,私も編著者の一人に入っている『ケースブック労働法』(弘文堂)は前回の改訂が2014年ですので,かなり古くなっています。ただ判決文は,いまは学生が自分でDLして読めますので,教師がやることは,適切なQuestionを作ることです。私自身は,『最新重要判例200労働法(第7版)』で新しい判例を補い(原文を読むように求めてはいます),それについてQuestionをつくるという形で対応するつもりですし,これまでもそうやってきました。ほんとうは,法政策的な課題を考えさせるようなQuestionを入れたいのですが,学生は忙しいので,あまり試験に関係しないことを考えさせて勉強の邪魔をしてはいけないかなと思っています。今年度は,政策的なことは,学部の授業でたっぷりやろうと思っています。

2023年4月 6日 (木)

名人戦が始まる

 桜の季節というと名人戦です。今年は桜の開花が早く,もう桜の季節は終わりつつありますが,45日から第81期名人戦(2日制で持ち時間は9時間)が東京の椿山荘で始まりました。結果は,渡辺明名人相手に,藤井聡太竜王(六冠)が勝ち,七冠および史上最年少名人に向けて幸先の良いスタートを切りました。この対局は,渡辺名人が先手で,やや変わった戦型を選択しました。途中まで藤井玉は居玉でしたが,最後は手厚い防御態勢を築き,渡辺名人を投了に追い込みました。評価値的には,2日目の後半は差がついてしまいました。これで両者は20局目となりますが,渡辺名人は3勝しかできていません。これだけの大差がつくのは驚きですが,渡辺名人も,なんとか打開しなければならないですね。対局後のインタビューでは名人に元気がなかったのが気がかりです。敗戦のショックが大きいのかもしれません。
 藤井竜王(六冠)は,叡王の防衛戦も同時並行で行います。菅井竜也八段の挑戦を受けます。411日からの開始です。また棋聖の防衛戦も待っています。棋聖戦の決勝トーナメントでは,渡辺明名人が羽生善治九段に快勝して,ベスト4進出を決めました。藤井竜王に取られた棋聖の奪還を目指して,次は佐々木大地七段との対戦です。残りは佐々木勇気八段がすでにベスト4に進出を決めており,広瀬章人八段と永瀬拓矢王座との勝者と対局です。両佐々木がどこまで勝ち残れるかが注目ですね。名人戦が長引けば,6月から始まる棋聖戦も同時進行になる可能性があります。王位戦は,藤井竜王(六冠)への挑戦に向けて,挑戦者決定リーグ戦が進行中です。紅組は,羽生九段が1勝0敗で,豊島将之九段は進行が早く31敗で残り1局となっています。最終局の相手は羽生九段なので,紅組優勝の可能性は残っています。永瀬王座は12敗で厳しくなりました。白組は渡辺名人と佐々木大地七段が2勝でトップを走っています。王位戦は,紅組と白組の優勝者が挑戦者決定戦をするという流れになり,6月末からタイトル戦が始まります。

2023年4月 5日 (水)

事故防止にAIを

 少し前に自宅マンションから双子の2歳児が7階のマンションから転落するという事故がありました。ご両親の悲しみを思うと,胸が痛みます。窓に鍵をかけていたということですが,それをこじ開けていったのでしょう。事件性はないとされています。事故の原因は今後検証されていくでしょうが,2歳児の月齢にもよりますが,少しでも掴むとっかかりがあれば,2才児であればよじ登り,鍵を開けるということはありえると思います。昨日までできなかったことが急にできるようになったり,1回は失敗したことも,すぐに再チャレンジしてできるようになったり,これくらいの年齢の子の運動機能の発達は驚くべきものです。昨日の情報は捨てて,リセットして今日の子に向き合うくらいの気持ちでなければ危ないですよね。
 子どもは,てんとう虫のように,高いところに登りたがります。なぜかわかりませんが,もともと握力は赤ちゃんのころから強く,それに加えてキック力もついてきている2歳児であれば,かなりのところに登ってしまいます。登ると達成感を得て,いっそうのチャレンジをしたがります。子どものチャレンジ精神や好奇心はとても大切なものですが,危険きわまりないです。保護者のほんのちょっとした隙が大きな事故につながります。ホモ・サピエンスは,危険を顧みない好奇心があったからこそ,アフリカから出て世界中に移動していったのです。そういうDNAがあることも自覚しながら,なんとか子どもの事故を防がなければなりません。
 子どもの転落事故がなかなかなくならないことを考えれば,ここでもAI監視技術の活用はできないでしょうか。高齢者施設での夜の危険な動きの察知では利用されていますし(人手を減らすことができます),寝ている乳児が動けばアラームが鳴るといったベビーモニターは,おそらく多くの赤ちゃんのいる家庭が使っていると思います。危険性がまだ十分に認識できないまま,好奇心が勝ってしまう幼児にも,同様のモニター技術で事故防止を測ることが広がればよいですね(私が知らないだけで,すでに商品は出ているのかもしれませんが)。児童虐待防止のためのAI監視も言われていますが,まずはうっかり目を離した隙の事故を防ぐためのAIの利用促進を,こどもまんなか社会における施策にも取り入れてみたらどうでしょうか。

 

2023年4月 4日 (火)

こどもまんなか社会

 こども家庭庁が創設され,「こどもまんなか社会」をスローガンに掲げているのは,結構なことです。ただ具体的な政策が,経済支援に偏るのは適当とは思えません。経済支援の重要性は否定しませんが,経済面以外の支援こそまずしっかり考えてもらいたいと思います。それは,財源が厳しいなかで無理をすると,結局は,こどもたちに負担がかかるからです。たとえば手厚い保育のためには,保育士を増やす必要がありますが,潜在保育士が多いことにどう対処したらよいか,という問題があります。給料を上げたらよいというのが第1に出てくる発想であり,保育士の仕事に特別な最低賃金を導入し,そのうえで事業者に補助金を出すというような政策が出てくる可能性があります。ただ,ここでは安易に経済支援策に打って出るのではなく,これをいったん封印して,そのほかに何ができるかを考えてみてもらいたいです。保育士の生活はもちろん大切ですが,たとえば働く環境が良いというような,賃金以外の労働条件の改善も,実は労働者にとっては魅力的なベネフィットです。ハラスメントがない環境(ハラスメントには保護者からのハラスメントもあり,そうしたものに事業者側がきちんと対応することも含まれます),休息時間が確保できる環境,年次有給休暇が100%消化できる環境,育児休業はMax取得できる環境なども,結局はコストにかかわるものとはいえ,賃金を上げるというのとは異なるもので,それがしっかりできれば潜在保育士のなかから戻ってくる人も多いのではないかと思います。よく成果主義に対しては,かえって働く意欲が下がり生産性が下がるというクラウディング・アウト(crowding-out effect)効果が生じる(外的報酬が,本人の内発的動機をかえって減退させる)という批判がされますが,それを少し参考にすると,内発的動機をもっている保育士さんたちに,報酬面での刺激を与えすぎるのは,かえって逆効果ではないかいうこともできそうです。潜在保育士も,よい就労環境があれば働いてよいと考えている可能性が大きいのであり,どのようにして,そうした内発的動機を刺激するような就労環境を用意するか(繰り返すように賃金の重要性も否定しませんが)ということについて知恵を使う必要があると思います。 
 これは一例ですが,こどもまんなか社会というとき,このほかにも,たとえば,親に近くにいてほしいこどものためにテレワークを推進することが重要ですし(いつも言っていることです),育児や介護をしている従業員は時間どおりに行動することは難しいので,あまり時間管理を厳格にしないことも重要だと思いますし,労働以外の分野でも,無意味な騒音をまき散らす選挙カーは,小さなこどもの睡眠を邪魔するものなので,保育園近辺だけでなく,一般の住宅の近辺でも日中は禁止するというようなことが,実はこどもまんなか社会ということを言う以上,ぜひやってほしいことです(選挙活動はネットでやってください)。さらに,よちよち歩きの子が安心して歩道を歩けるように,自転車の歩道利用を禁止するとか,公共輸送機関での優先座席における一般人の利用を制限するとか,エスカレーターの歩行の禁止とか(急いでいる人に追い抜かれるときが危ないです)が,大切なことです(これは高齢者のためにも必要なことです)。罰則付で禁止するのはやりすぎでしょうが,社会的強者が弱者(こども,老人,あるいは育児や介護をしている人)に配慮できるよう,うまく誘導することが必要だと思います。6月の骨太の方針に向けて,おそらく各役所が予算をとれるための作文に注力するのでしょうが,少ない予算で成果が大きそうなコスパの高い政策はいくらでもあるように思えるので,そういうことに重点を置いてほしいものです。
 なお,児童手当についての所得制限撤廃は,難しい問題です。所得制限は差別につながるというような主張もあるようですが,非金銭的なサービスはすべての子に平等にすべきなのはそのとおりとはいえ,厳しい財政状況を考えると,個人に直接金銭を支払う支援はやや違うのではないかと思います。所得制限撤廃は,こども支援政策に対して,こどもに無関心な人たちのいっそうの離反を招かないか気になるところです。その一方で,若い世代の人に,子をもてば,公的助成があるというメッセージを送ることは重要であるという気もします。難問ですが,ここでも金銭をばらまく以外の支援方法がないかを,まずは考えたほうがよいように思います。

2023年4月 3日 (月)

感謝

 2泊3日で東京に行ってきました(今日は年次有給休暇を取得しています)。菅野和夫先生の傘寿のお祝いの会に出席するためです。ここ3年以上,神戸近辺から離れたことはなく,親族以外の人との会食というのもなかったので,ほんとうに久しぶりに社会的な交流をしたという感じでした。東京は外国人が多く驚きました。完全に田舎者ですね。
 神戸に引っ込んでいる私が今回,東京に行くことに決めたのは,菅野和夫先生に,どうしても感謝の気持ちを直接述べたいと思ったからです。お祝いの会は,菅野和夫先生の弟子が一堂にそろいました。外国からの参加もありました。会では先生に順番に近況を報告していくのですが,それを聞いていて,みなさんがほんとうに研究面や公的活動面で活躍されているなと再認識しました。また,若いころ研究室で重なっていた人たちと旧交を温めることができたのも良かったです。あれから30年以上経っているのですが,みんな老けましたし,家族をもつようになって,それなりに所帯じみてはきていますが,でも話をしているとあの頃に戻ったような気がします。10年前の先生の古稀のお祝いの時も集まっていたはずですが,そのときと違った感覚をもったのは,私自身が変わったこともあるのかもしれません。
 ところで,振り返ると,いまの私があるのは,学部生のときに先生がその年の労働法の講義の最終回で研究者の世界を勧めるような発言を聞いたからです。その発言は受講していた学生全員に向けたものだったのですが,どういうわけか私の心に刺さってしまいました。それから大学院に入れていただき,博士号までいただき,神戸大学への就職もさせてもらいました。その恩を返すこともなく,研究面では,道を踏み外して,好き勝手なことをしてきており,とても菅野シューレと胸をはることなどできませんし,先生の前にでると,ただただ小さくなるばかりでしたが,それでもこれまで叱られることもなく,それに甘えてきました。このように好きなようにさせてもらえたことに感謝なのですが,それだけでなく,学部時代に先生があの一言を発されたときに,その場に私がいたことが,いまの私のすべてを決定づけたのであり,そのことの幸運を感じざるを得ません。その意味で,先生の存在そのものが,私の感謝の対象なのです。今回集まった先輩方にはすでに定年を迎えられたり,もうすぐ定年という方もおられましたが,私もそれに近い状況になってきています。研究生活を終えるまえに,先生にこれまで有り難うございましたという感謝の気持ちを直接お伝えできたことにほっとすると同時に,もったいないことに,先生から暖かい言葉までかけていただき,これ以上にない幸福な気持ちになりました。ほんとうに参加してよかったです。

2023年4月 2日 (日)

アナログ特定保健指導の弊害

 特定保健指導は,しつこく受けろという葉書が届き,大学の本部から名指しもされたので,仕方がないから受けましたが,やっぱり前に受けたときと同じで,時間の無駄でした。私はかなり努力をしており,数値も改善しているので,まず初めにいまやっていることをすべて相手に言いました。指導側は,どういうわけか管理栄養士で,食事面ではまったく非の打ちどころがないことがもわかったようです。結局,「ブロッコリースプラウト」がいいですよということが唯一建設的なアドバイスでした。なんでこういうことになるかというと,対象者の選定を間違っているのです。私は昔の不摂生がたたり,数値は悪いですが,それでも年々少しずつよくなっています。この傾向をみてもらえれば,私に強引に指導を受けさせる必要がないことはわかるはずです。先方は2年分のデータしかもっていませんでした(どうせなら過去25年分をみてほしい)が,それでも改善していることがわかるので,なんとなくやりにくそうでした。腹囲やBMIの数値が悪いからひっかかるのですが,腹囲の検査はとてもいい加減なものです。
 劣等生が心を入れ替えて勉強し,成績が悪いながらもちょっとずつ上がってきているときに,その時点の点数だけをみて,おまえは努力不足だから,しっかり指導してもらえと言われているようなものです。どうせやるなら,栄養士ではなく,もっとトータルに健康の問題についてアドバイスをしてくれる人を配置してもらいたいものです。たとえば体質的に太りやすい人に,食べないようにと言ってもストレスがたまり,かえって寿命を縮めかねません。私は今回,太りやすい体質を改める漢方薬があればアドバイスしてほしいと言ったのですが,それはわからないということでした(そりゃそうですよね)。ちなみにChatGPTに聞くと,きちんとアドバイスをしてくれました。人間をつかった指導は無駄が多いので,個人の自己健康管理に役立つアプリを開発し,行動経済学の知見をもちいて,その利用を促すような制度をつくることを考えるべきです。ここでもDXの遅れの弊害があらわれています。

2023年4月 1日 (土)

学説批判の難しさ

 日本労働研究雑誌2・3月号の学会展望「労働法理論の現在―2020年から22年の業績を通じて」で,三井正信さんの論文「ユニオン・ショップ再考」広島法学433号・4号が取り上げられていました。この論文の存在は知らなかったので,助かりました。サイト上に掲載されていたので,すぐに読みました。三井さんは,この論文で,従来のユニオン・ショップ無効説を改め,有効説を唱えておられます(ご本人は「新生有効説」と命名されています)。従来の有効説は論拠が弱いが,無効説も理念が先走りで現実的ではないということで,労働者の代表としての労働組合の存在意義を活かすためには,どのような解釈をとるべきかについて検討し,新たに理論的根拠を強化したうえで有効説に転向したということです。
 労働者個人の自己決定を活かしながら,ユニオン・ショップの有効性を根拠づけるというのがポイントです。これは労働協約の根拠を労働者の組合加入時の意思に求める私の見解と実は親和性があります。私見では,任意加入であることが,労働協約中の組合員に不利益となる条項や労働条件の不利益変更の拘束力を根拠づけるのですが,ユニオン・ショップが有効である現行法の下では任意加入が担保されていないので,こうした拘束力の正当性根拠が不十分となり,それゆえ組合員に対する不利益制限法理が(やむをえず)必要となると分析し,そのうえで解釈論としては,ユニオン・ショップ無効説をとったうえで,任意加入を担保し,労働協約の拘束力を貫徹すべきであるという議論をしています(23年前の2000年に発表した「ユニオン・ショップ協定が労働団体法理論に及ぼした影響」神戸法学雑誌493号。その後,加筆修正したものが,『労働者代表法制に関する研究』(2007年,有斐閣)の第4章)。三井さんは,ユニオン・ショップ締結企業において,組合加入を雇用条件とする同意は,労働組合という強固な利益擁護団体の保護に包摂されることへの同意であり,それについて労働者の自由意思(合理的な理由を客観的に求める判例の理論を前提)があれば認められるとします。私の立場からは,三井さんはユニオン・ショップがあるからといって私のように正当化を諦めることをせず,ユニオン・ショップ自体を私的自治から正当化する可能性を模索したものと位置づけることができ,言われてみるとその手があったかという気がしました。もっとも,そこでいう労働者の自己決定論は,私に言わせれば真の自己決定論ではなく,山形県民信用組合事件・最高裁判決の悪しき拡張例ではあり賛同はできませんが,それは単なる学説の相違にすぎず,この論文自体は,明確な主張のある優れたものであり,今回の学会展望でセレクトされて当然であると思いました。
 ユニオン・ショップをめぐっては,有効説の側には,労働者は団結しなければ価値がないという素朴な議論から,労働組合は公的団体性を帯びており公正代表義務が(実質的に)課されるのであるから,ユニオン・ショップによる組織強制には問題がないとするタイプの議論まであり,無効説には,憲法論(13条の自己決定論や28条の消極的団結権の承認)からする議論もあるし,ユニオン・ショップ協定が過半数組合により締結される多数派の横暴であるという視点からの議論まで多様です。結論は,(過半数の)労働組合による労働者の代表という仕組みを,規範的にどう評価するかという部分に左右されるところが大きく,三井さんは衰退する労働組合運動のなかで,なお労働組合の重要性を説いたものですが,これには,強いシンパシーを感じますが,同時に,もう無理な議論かなという感想です。
 学会展望のなかでは,解雇のことや,労働協約の規範的効力のことなど,三井さんの論文中の法律構成に関する法技術的なところに議論が集中してしまった感がありますが,私の理解では,それらはあまり論文の本質的なところと関係しないのではないかと思います(もちろん解釈論の論文である以上,論評の対象にはなるのですが)。著者が最もこだわったところが,「すごく縁遠い神々の争い」(池田悠発言)として切り捨てられたように思えるのはやや残念であり,私達がこだわってやってきた団体法の研究は,おそらく次世代には継承されないのだろうなと,寂しい気持ちになりました。でも,これでよいのでしょうかね。

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