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2023年3月20日 (月)

ディオバン事件に思う

 低気圧が来るときは,軽い頭痛が出て,立つとふらっとすることがあるのですが,そういうときは血圧を測定すると,驚くような高さになっています。どの程度の血圧が高血圧なのかについては,かつては年齢+90と言われていて,それであれば安心することもあるのですが,もっと低いという情報もあります。高血圧の基準を低くすれば,降圧剤がよく売れるそうです。そうなると,高血圧の基準は,ひょっとして営利目的で適当に設定されているのではないかという疑念も抱きたくなります。
 そんなことを考えるのは,製薬会社も医学研究者も,営利のためなら何でもやりかねないという不信感があるからです。それは,10年以上前のことですが,大手製薬会社のノバルティスファーマの降圧剤であるディオバン(一般名は,バルサルタン)について,臨床データ不正の事件があったことと関係します(同様の不正事件は,この事件だけではないのですが)。この事件では,この製薬会社の社員が大学の研究者に不正なデータを提供し,それに基づいてその研究者が論文を権威ある学術誌に出して掲載され,そのいわばお墨付きに基づいてディオバンが大ヒットしていました。データ不正を見抜けなかった研究者の責任は重いように思いますが,これをあまり言うと,STAP細胞の笹井教授のようなことが起こりかねません。
 このディオバン事件では,製薬会社とその社員が起訴されて,大学の研究者は検察の証人側に回ったようです。起訴の理由は,薬事法(現在は,医薬品,医療機器等の品質,有効性及び安全性の確保等に関する法律)66条1項違反で,同項は「何人も,医薬品,医薬部外品,化粧品,医療機器又は再生医療等製品の名称,製造方法,効能,効果又は性能に関して,明示的であると暗示的であるとを問わず,虚偽又は誇大な記事を広告し,記述し,又は流布してはならない」と定めています。これに反すると刑罰が科され(85条),法人に対する両罰規定もあります(90条)。問題となったのは,学術論文に掲載させたことが,66条で禁止されている広告に該当するのかです。2021628日に出た最高裁の第1小法廷判決(平成30年(あ)1846号)は,同項の規制する「記事を広告し,記述し,又は流布」する行為とは,「特定の医薬品等に関し,当該医薬品等の購入・処方等を促すための手段として,不特定又は多数の者に対し,同項所定の事項を告げ知らせる行為」であり,学術雑誌への論文の掲載は,「特定の医薬品の購入・処方等を促すための手段としてされた告知とはいえない」として,原審の無罪判決を支持し,上告を棄却しました。山口厚裁判長(刑事法の専門の元東大教授)は,補足意見として,「本件におけるような学術論文の作成・投稿・掲載を広く同項による規制の対象とすることは,それらが学術活動の中核に属するものであり,加えて,同項が虚偽のみならず誇大な『記事の記述』をも規制対象とするものであることから,学術活動に無視し得ない萎縮効果をもたらし得ることになろう。それゆえ,その結果として,憲法が保障する学問の自由との関係で問題を生じさせることになる。このことを付言しておきたい。」と述べています。
 憲法学の観点からは,薬事法661項は,広告規制であり,言論・表現の自由を制限するという視点が問題となります。また学術論文への掲載の準備段階でのデータにおける不正を問題とする点では,学問の自由にも関係しうるものです。もちろん不正行為が許されるわけではないのですが,今回の問題の背景には,論文を執筆した研究者側と製薬会社側との間のズブズブの関係がありそうです。私たちが求めているのは,正しいデータに基づき効果が確認された薬が使われるようにすべきということなのであり,それさえできれば研究者と業界が協力するのはかまわないと思うのです。本事件後に,臨床研究法が制定されて,一定の対応が取られているようです(https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000163417.html)が,根本的には,研究者のモラルにかかっているのかもしれません。データを提供した側が,営利企業の社員であることからすると,そのデータを活用した論文を書くことの危険性はわかっていたはずです。その道義的,あるいは学術的な責任は重いような気もします。今回,最高裁は,こうした事例に刑事罰を発動することがもたらす,まっとうな学術活動への萎縮的効果を心配し,適切な処理をしたと考えられますが,これは良い裁判長であったことにも関係しています。違う裁判官であれば,薬は人の生命や健康にかかわるようなことである以上,その責任は重いとして,66条1項の構成要件を広く解釈する立場をとることもあるかもしれません。日本国憲法には明文で規定はないものの,健康の権利は,憲法13条の幸福追求権や25条の生存権に含まれているとして,表現の自由や学問の自由と匹敵するものであるというような視点で解釈すると,今回の最高裁判決とは違った結論が出てくるかもしれません。もちろん,こういう解釈はやや無理があるのかもしれませんが,社会を大きく騒がせ,医師の処方する薬に対して重大な不信をもたらした事件であることを考慮すると,関与した研究者たちは,表現の自由や学問の自由にとてつもない大きな危険をもたらしたということを,よく自覚してもらわなければならないでしょう。たんに製薬会社側が無罪になったのはけしからんというようなことではなく,そして裁判所がそうした社会に漂う情緒的なムードに流されずに冷静な判断をしたことは,法の番人としてきわめて重要なことであるのですが,一方で,私たちはほんとうの問題は何であったかをしっかり見極めることが必要であるように思います。いずれにせよ,研究不正について,法がどのように関わることができるかを考えるうえで,きわめて興味深いテーマを提示した事件だと思います。
 さて,高血圧はやはり怖いのですが,血圧を下げるのは,できるだけ薬に頼らずに,運動や食事によって頑張りたいです。

*憲法の議論については,木下昌彦「研究不正と営利的言論の法理ディオバン事件における薬事法661項の解釈論争を素材として」論究ジュリスト2568頁(2018年)を参照。
*業界の事情については,上昌広『医療詐欺』(講談社+α新書)の第1章「先端医療と新薬を支配する『医療ムラ』は癒着と利権の巣窟」を参照。

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