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2022年12月10日 (土)

ナッジから意思理論へ

 学部の少人数授業で,今回は,大竹文雄さんからお送りいただいた『あなたを変える行動経済学』(東京書籍)の第6章「ナッジとは何か?」をベースに,ナッジについて議論しました。この本は,一連の行動経済学に関する大竹さんの本のなかでも,とくにわかりやすく書かれている入門書です。私は,これからの労働法の政策でも,リバタリアン・パターナリズムに基づく,選択の自由と適度の誘導のコンビネーションによる「ナッジ」は有力な規制手法となるのではないかと考えています。それだけでなく,この議論は,突き詰めれば,人間とは何かということにも行き着くのであり,自分自身を知るためにも,重要なものなのです。
 学生はみな「ナッジ」という言葉を聞いたことがないと言っていました。高校までには習わないのでしょうが,大学2年生の後期でも「ナッジ」という言葉を聞いたこともないというのは,ちょっと問題かなと思ってしまいました。
 学生からは,エスカレーターでは止まるように指示されているのにそれを守る人がいないので,こういう人を止まらせるために,ナッジは使えないかという問題提起がされました(たぶん関西特有の問題と思いますが,ちなみに私は歩きません)。学生のなかには,エスカレーターの段差を大きくすればよいとか,スピードを上げればよいとか,物理的なアーキテクチャ的手法が提案されましたが,これは言っている本人たちもわかっていたように危険な方法であり,「ナッジ」でもありません。エスカレーターを歩くことによって生じた事故の動画を大きなモニターを設置して流すといった方法はどうでしょうか。「わかりやすさ」も,人間の脳に伝わりやすいので「ナッジ」の一種です。
 大竹さんの本では,「ナッジ」と「スラッジ」の違いを指摘されていました。ナッジは,「特定のアウトカムを達成するための選択アーキテクチャの意図的な変化」なのですが,その「アウトカム」は,行動者本人の利益にならないようなもの(これがスラッジ)であってはならないのです。為政者が,自分に都合のよいように国民を誘導するようなことがあれば,これはナッジとはいえないし,あるいは危険なナッジというべきなのです。学生からは,現実には両者の違いは,国民にとってわかりにくいのではないかといった意見もありました。専門家が巧みに制度設計をして,国民をマインドコントロールするようなことがあってはならないでしょう。学生たちは,そうした危険を感じて,政府がナッジを使う場合には,そのアウトカムの妥当性をきちんと吟味しなければならないとか,あるいは,現にいろいろ使われているかもしれないナッジに対して自覚をもって警戒心をもつべきではないかという意見を出してくれました。
 「意思決定決定のボトルネックを見つけることがナッジを選ぶポイントとなる」(169頁)という点も重要です。なかでも「認知的な負荷が過剰」な場合もナッジが効果的とされます。情報があっても,それを分析する知識がなければ適切な行動がとれません。ナッジは,「わかりやすさ」も重要なのです。従業員の過労状態を検知したAIが,「リフレッシュ体操の指示」をパソコン画面上に流すというのは,おそらくナッジに該当するのだと思います。本人はその指示に従わない自由がありますが,リフレッシュ体操をして疲労を軽減させたほうが本人にも,企業にもプラスになります。ただ,たんに過労状態を指示するだけでは,どうしたらよいかわからない労働者もいます。そのようなときに具体的な行動を指示するのは,それを業務命令として出せばナッジではありませんが,あくまでも提案という形であればナッジなのだと思います。私は,こうしたナッジを採り入れた仕組みを導入することを,企業の配慮義務の中心に据えるべきだと主張しています(拙著『デジタル変革後の「労働」と「法」―真の働き方改革とは何か?』(日本法令)273頁などを参照)。大竹さんの本で紹介されている看護師の残業削減の例もまた,きわめて興味深いです。二交代制の病院で,日勤の看護師は赤のユニフォーム,夜勤の看護師は緑のユニフォームを着ることにしたら,残業が減ったというのです。なぜそうなったかは本を読んでみてください。「社会規範」と「わかりやすさ」というナッジを使った例として紹介されています(177頁)。
 ナッジの文脈で出てくる「社会規範」は,社会一般に通用しているルールというようなもので,広義には法も含むでしょうが,ここで想定されているのは,法のような強制力をもつのではないものであり,道徳規範,あるいは,世間の目というようなものといえばわかりやすいかもしれません(「社会規範」については,飯田高『法と社会科学をつなぐ』(有斐閣)159頁以下を参照)。
 私は,企業の社会的責任も,「社会規範」として議論できると思っており,それを見える化することをとおして,強制力がなくても,ナッジとしての効果をもたせることができると思っています。これは,実は労働法においても,規制手法の一つとして部分的には採り入れられているとみることもできるのですが,これはまた別の機会に論じることにしましょう。
 このほか「デフォルト」の活用も,すでに法学の世界で議論されていることです。強行規定(法規)と任意規定(法規)とは,法律の規定のもつ効力の違い(前者は当事者の契約では逸脱できないが,後者は逸脱できる)という点から説明されますが,機能的には,任意規定は,契約の当事者に,適正な合意についての情報を提供するという機能があり,そしてデフォルトに支配されやすい(固着性)という行動経済学の知見も踏まえると,任意規定は「緩やか」に当事者を誘導する機能をもつのです。任意規定の活用は,労働法においては刺激的な問題提起なのですが,リバタリアン・パターナリズムを受け入れるならば,十分に活用可能であると考えています。そのためには,労働者弱者論からの脱皮が必要です(拙著『人事労働法』(弘文堂)では,任意規定やそれと同様の機能をもつ標準就業規則を活用した規制手法を活用する発想に基づいています)。

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