一宮労基署長(ティーエヌ製作所)事件
大学院の授業で,一宮労基署長(ティーエヌ製作所)事件の名古屋高等裁判所の判決(2021年4月28日)を扱いました。業務上の負傷から2年経過後に発症した適応障害について業務起因性が認められるかが問題となった事件です。行政のだしている「心理的負荷による精神障害の認定基準について」(2011年)によると,業務上の疾病と認められるための要件は,①対象疾病を発病していること,②対象疾病の発病前おおむね6か月の間に,業務による強い心理的負荷が認められること,③業務以外の心理的負荷および個体側要因により対象疾病を発病したとは認められないこと,です。本件で問題となっているのは,②の要件であり,それによるかぎり,事故が2年前であったことから,適応障害の発症に業務起因性を認めるのは困難とも思えます。実際,労基署長は,精神障害(労働者はPTSDと主張)について,まず療養補償給付を,ついで休業補償給付を請求しましたが,いずれも不支給決定がされ,第1審もその判断を支持していましたが,控訴審はこれを覆しました。判決は,労働者の精神障害は適応障害であるとしたうえで,事故による心理的負荷と事故による左眼の負傷による心理的負荷は,負傷後の疼痛と視力の低下も含めれば,当該労働者と同程度の年齢,経験を有する平均的労働者にとっても相当強度なものであったというべきであり,「とりわけ視力の低下が本件事故から約2年後の発病当時も継続していた状況にあったことも総合的に評価すれば,……本件事故と適応障害の発病との間の相当因果関係を認めるに足りる程度の強度なものであったと判断される」としました。認定基準との関係では,「業務上の出来事(本件事故)による左眼の当初の傷病の発生自体は精神障害発症の6か月より前であるが,左眼の症状が精神障害発症当時も悪化を続けて苦痛を生じている場合も,除外するのは相当でない」として,6カ月基準はあくまで標準にすぎず,その例外を許容しない趣旨ではないと捉えているようです。おそらく本件のように,2年前の事故による負傷でも,そこから生じた症状がなお悪化を続けて苦痛を生じているという場合には,6カ月よりも前の出来事も評価の対象に入れてよいという判断を示したものといえます。
本判決も含め,裁判例は,認定基準には合理性があるとしてその内容を参考にするといいますが,なお個別具体的な事情に応じて総合的に考慮した判断をするとも述べています。労災行政の実務では,公平性や判断の迅速性という観点から,その処理が認定基準に基づく画一的なものとなり,それがややもすれば労働者の救済の面で物足りない結論になることもあるのですが,そうした場合に,しばしば裁判所は行政の不支給決定を取り消すことをして救済を図ってきました。まさに個別具体的な事情による総合的な考慮をしてきたのです。また,脳・心臓疾患の事案のように,最高裁の判断が,認定基準の改正をもたらすこともありました。とはいえ,今回の精神障害の認定基準における6カ月基準は,業務起因性においてとても重要なポイントとなるところなので,それに従わなくてよい場合がどこまであるのかが明確にならないと実務は混乱する可能性があります。加えて,本件では,適応障害発症の原因は複合的であり(5つの原因が挙げられ,そのうち2つが本件の事故によるもの),業務以外の原因も関係していると認定されており,第1審は,そのうちの休業補償の打ち切りによる経済生活への不安が発症原因であると特定していました。高裁とは判断が異なるのです。2年も経過してしまうと,発症原因が曖昧になりがちであることも,判断が分かれる原因になった可能性があります。その点で,認定基準が,6カ月と評価期間を区切っているのには理由があるのです。
いずれにせよ,本件では労働者に有利な結論になったから良しとするのではなく,高裁判決の結論が妥当であるとしても,どうして行政段階で労働者を救えなかったのか,また高裁判決の結論に問題があるとすれば,どうして高裁判決のような判断が出たのかを,じっくり検討することをとおして,精神障害(あるいは脳・心臓疾患)を労災保険制度で扱うことをめぐる問題点について考えを深めていく必要があると思っています。
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