« Uber Japan ほか事件 | トップページ | 羽生・藤井の夢のタイトル戦が実現 »

2022年11月26日 (土)

リスクコントロール

 学部の少人数授業で,AIとリスクという問題について少し議論をしました。新しい技術のリスクを重視しすぎると,利便性を高めるチャンスを逸することになりますが,それはリスクの内容と程度によるということでしょう。日本人はリスク回避的な傾向があると言われますが,それが悪いことばかりとはいえません。もっとも資産形成において,あまりにリスク回避的であると,老後の生活資金が不安になることはあります。学生たちは金融教育を受けていないようであり,したがって投資についても,やたらとリスク回避的になったり,逆に無謀なことをしたりする可能性があるのです。岸田政権はNISAの恒久化などを言っていますが,金融教育がもっと広がらなければならないでしょうね。
 ところで技術とリスクの話に戻ると,そこで必ず出てくるのが,原発のリスクです。私は原発問題については,定まった意見がないのですが,この夏に岸田政権が原発稼働に積極的な立場を打ち出しこともあり,少し不安になりはじめているところでした。
 ということで,かなり前に入手していた樋口英明『私が原発を止めた理由』(旬報社)を読んでみました。元福井地裁裁判長で,福島の事故後において,大飯原発の運転の差止めを命じた裁判官が書いた本です。裁判官が自分の裁判の内容について解説するのは,非常に珍しいことでしょうが,それだけこの裁判は,樋口氏の魂がこもったものだったのでしょう。樋口氏の考えや裁判官としての姿勢に賛同するかどうかはともかく,この本は読むに値すると思いました。
 樋口氏は,原発稼働の判断は,専門技術者にゆだねてしまうべきものではく,普通の人であっても理性と良心に基づき行うことができるものだと述べ,その理由を丁寧に説明しています。要するに,原発の想定している地震は700ガル以下であり,それ以上の地震が来れば安全ではないが,そうした地震が来る可能性はないので,原発は安心だという電力会社の論理は,おかしいだろうということです。過去に700ガルを超える地震は起きており,原発の耐震性はきわめて脆弱であるから,彼は原発を止める判断をしたのです(しかし,控訴審で覆されました)。
 興味深いのは,裁判官の役割とは何かについての,樋口氏のスタンスです。共感したのは,専門的なことだからといって,専門家の判断に任せてしまってよいのかという疑問をもち,専門外であっても自分なりに納得できる判断をしたいという姿勢を貫いていることです。文系には理系コンプレクッスがあり,専門技術的な話に入り込むと手も足も出なくなりますが,実はほんとうに優秀な専門家は,理系,文系に関係なく,素人にわかりやすく説明できるのであり,それができないということは,実は専門技術的な話に巻き込んで素人を煙に巻いてしまおうという作戦である可能性もあるのです。賢い人は,プライドもあって,自分がわからないことにはノータッチであろうとしますが,それは知的怠慢なのかもしれません。
 樋口氏は,この本の最後のほうで,「この本を読んでしまった皆さんにも責任が生じます。自ら考えて自分ができることを実行していただきたいのです。」と書いています。私も自分でまずはしっかり考えてみたいと思います。
 いずれにせよ,樋口裁判長の判決は,たんなるゼロリスク信奉からくるバランスの欠いた判断であるという批判が的外れであることは,よくわかりました。理系の人からは,そうした批判もあるのですが,樋口氏がゼロリスク論者でないことは,この本を読めば明らかです。むしろ人間の生命や健康に多大な影響をもたらすリスクを,どうコントロールするのかに真摯に向き合っています。それについて国民を安心させる「説得責任」は,やはり原発推進派のほうにあるのでしょう。高校生にもわかるようなロジックで説明してもらいたいですし,もし岸田政権が原発推進論に乗っかるのであれば,首相自らきちんと説明をする責任があると思います。電力供給不足(一時的な問題にすぎない)や脱炭素(原発事故の環境破壊のほうがすさまじい)などをもちだすのは,論理のすり替えであり,ぜひ原発事故のリスクについて,それをきちんとコントロールできるということを正面から私たちに対して説得してもらいたいのです。要するに私たちは安心したいのですが,政府にそれができるでしょうか。

 

« Uber Japan ほか事件 | トップページ | 羽生・藤井の夢のタイトル戦が実現 »

社会問題」カテゴリの記事