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2022年8月29日 (月)

個人の命の大切さ

 日本赤軍が1977年に起こした日航機のハイジャック事件(ダッカ事件)で,当時の福田赳夫首相が,「人の命は地球よりも重い」と述べて,超法規的措置により,犯人の要求にしたがい受刑者6人を釈放して国外退去を認めたことがありました。人命よりも重いものはないということを考えさせられた出来事です。テロ犯に屈したという面もありますが,人命を尊重した判断は評価されるべきでしょう。
 現在ウクライナで起きている戦争では,ウクライナ人にしろ,ロシア人にしろ,国のために兵士とさせられ,命を危険にさらし,実際に落命しています(外国人傭兵も多いようですが)。もちろんウクライナには国土防衛という大義があり,そのためであれば個人の命が失われても仕方がないということかもしれません。自ら進んで国のために命がけで戦っている人も少なくないのかもしれません。しかし,そういう面があるとしても,戦争というのは,個人の命が軽く扱われるものであることは確かです。日本では、太平洋戦争で,多くの人が現人神の天皇のために命を落としたことから,戦後はそういう愚かなことが繰り返されないようにするために,憲法は天皇から政治権力を奪い,戦争の放棄を書き込んだのです。
 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は,昨日,ついに源頼家が殺されました。史実では残虐な殺され方だったとされていますが,それよりは普通の殺され方でした。彼は,北条家のために殺されたのです。執権の北条時政にとっては孫ですし,義時にとっても甥です。しかし,妻の実家である比企一族を滅ぼし,妻と長男一幡を殺した北条家に恨みがあった頼家は,反北条でした。時政も義時も反北条の頼家を生かしておくわけにはいかなかったのでしょう。ただ頼朝の長男の頼家の命がとても軽いと思ったのは私だけでしょうか。
 NHKの「英雄たちの選択」で,義時のことが採り上げられたときに,あの『京都ぎらい』(朝日新書)の著者である井上章一氏が,当時,京都からみた鎌倉は,テロが日常茶飯事のおっかないところで,映画の「仁義なき戦い」や「ゴッドファーザー」の世界のように思えただろうとコメントしていました。
 その「ゴッドファーザー」では,Part 2 で,Michaelの兄殺しがあります。初代Godfather,Vito の後継者であったSonnyが射殺され,次男Fredoは頼りないところがあり,三男のMichaelがボスの座を継承したのですが,Fredoは裏切り行為をします。Michaelはそれを許さずに殺すのですが,それはFredoにかわいがられていたMichaelの息子Anthony(母のKayの意向で,父とは違う堅気の道を歩んでいます)に強いトラウマを残します。Michaelの兄殺しは,Corleone家や父から引き継いだ組織を守るための苦渋の選択だったのですが,やはり人の道に反することです。その報いは,Anthonyのオペラデビューの後,Michaelを狙った2発目の銃弾が最愛の娘Maryにあたり,彼女が死んでしまうという形で受けることになります。
 家よりも個人が大切というのは,現代では,あたり前のことのように思います。しかし,歴史的には決してあたり前ではありませんでした。結婚相手は親が決めるということは普通のことでした。家の存続という観点からは,結婚はきわめて重要なことであったので,個人の勝手が許されなかったのです(天皇家では,眞子さんが,これで苦しみました)。生物として考えた場合も,種の保存のために,個の命が軽視されることは普通に起こります(人間でも,飢饉のときの,子の「間引き」などが起きてきました)。そうとはいえ,こうした個の軽視はやはり多くの現代人には耐えられないでしょう。
 家族の大切さを自民党の保守派が主張するとき,これまではそういう考えもあるかなという程度に思っていました。しかし,もしこれが合同結婚のようなことをする宗教団体の教えにしたがったものであったとするならば,激しい嫌悪感を覚えざるを得ません。そして,そうした個人軽視の主張をする政治家たちが,憲法9条改正のような議論を主導するとなると,背筋が寒くなります。
 冒頭の福田赳夫の言葉は,家制度のことや戦争のこととは関係がないのでしょうが,清和会の初代会長の元首相が,個人の生命を重視する言葉を語っていたことは,今日の清和会の議員たちにぜひ想起してもらいたいです。

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