労働事件と数学は相性が悪い?
労働委員会の仕事で扱う現実の事件は,和解で解決することも多く,そこでは労働法の専門的な知見は,正しい紛争解決の大きな道筋を立てる意味はありますが,実際の紛争の解決には,法的な論理的解決よりも,説得の技法などの心理的な要素が大きいです。和解がうまくいかなかった場合には,命令が出され,さらに取消訴訟などで判決が出ることになりますが,そこでも事実関係を意識した実質的妥当性を追求する解決を模索しており,論理だけに頼っているわけではありません。
労働法研究者は,労働委員会の委員になって命令を出す仕事をすることがある一方,今度はそうした命令や判例について,判例(命令)評釈という形で分析する仕事もします。そこでは労働法の知見が最も重要となりますが,事実関係からみて,なぜそういう解決に至ったのかという実質的妥当性もみなければ適切な分析にはなりません。これは定性的分析といえます。ただ,ある論点についての判例全般をまとめて研究するとなると,個々の事件の事実関係や結果の実質的妥当性までは細かくみていられなくなり,定性的に分析することはかなり難しくなります。だからといって,定量的な統計分析になじむかというと,そうはいえません。経済学において実証的な判例分析がほとんど行われてこなかったのは,このことに関係しているかもしれません。ただし,労働事件のような紛争一つひとつの個性が大きいものとは違い,紛争がある程度パターン化している法分野であれば,統計的な処理や定量的な分析ができるかもしれません。そういう場合は,データを集めて,AIに学習させることができ,それによって,ある程度の判決予測をできるようになるでしょう。これは文理融合の研究として,ぜひ進めてもらいたいです。
ところで,ポアン・カレ(Jules-Henri Poincaré)というフランスの有名な数学者の有名な言葉に,「La mathématique est l'art de donner le même nom à des choses différentes.」(数学は,異なるものに同じ名を与える技法である)というものがあります。定量的な分析をとおして,いろいろな出来事の連関性(因果関係など)を明らかにすることができるというのは,数学の本質です。(以下は,私が勝手に話をふくらませたものですが)黄色人種5人,黒人3人,白人4人がいて,合計で12人と算定できるのは,人種の違いを超えて同じ「名」を与えたからです。しかし,異なる人種を同じ「人」というレベルで抽象化することによって,みえなくなるものもありそうです。抽象化は平等という理念に結びつきそうですが,それは形式的な平等であり,実質的な平等とは異なります。数学のもつ形式的な割り切りは,現実の多様性に溺れてしまわずに,現状を的確に捉えるときには必要不可欠ですが,生身の人間の現実の生活からみると,見落とされる部分(たとえば差別の存在)が多いアプローチといえそうです。上記の例でいうと,5+3+4=12 は,左辺から右辺に移ったとたん,世界が変わるということであり,ほんとうに両者はイコールなのかという疑問があるのです。黄色人種と黒人と白人に「同じ名」を与えてよいのか,ということです。
これと関係したことではないのでしょうが,数学者は,かけ算よりもたし算のほうが難しいと考えているという話が,NHKの望月理論(ABC予想という難問を証明したという望月新一教授の理論)を特集していた番組で出てきました。鍵となるのは素因数分解です。(以下は,私が勝手に解釈しているものですが)例えば4×6=24という式の場合,それぞれを素因数分解すると,(2×2)×(2×3)=(2×2×2×3) となり,左右両辺は同じものといえます。ところが,同じ数字をたし算した場合,4+6=10 は,左辺は(2×2)と(2×3)で,右辺は10(2×5)なので,右辺にいくと,左辺の3と2つの2が消えて,新たに5が増えて,構成要素が大きく変わっています。たし算には,こうした変異が起こるのです。
黒人3人のグループが4つあるという場合の総人数は,3×4=12となり,このような構成要素の変異は起きません。ただ,ここでは左辺の「3」と「4」の意味が違っています。「3」はある同質グループの人数で,「4」はグループの数です。たし算のときのような異なるものに「同じ名」を与えているわけではありません。かけ算は,同質グループのものを,そのまま増やしているから,本質には変異が生じず,量的な変化が生じているだけなのです(こうみると,小学校の算数における「かけ算の順序問題」,すなわち乗数と被乗数の順番をまちがえて書くと先生が×をつけるのはおかしいかという問題は,×をつけた先生側に理があることになります)。かけ算は,左辺の被乗数(かけられる数)の選別で,異質のものを排除しているということもできそうです。かけ算には,本質的な変異が起こらず,おさまりがよいのですが,このことが私たちの社会にどのような意味をもっているのかは,よくわかりません(たとえば,右辺が一定の場合,左辺の被乗数が大きくなると,乗数は少なくなり,社会の分断が少ない状況となる,というような捉え方はできるかもしれませんが,これは除法の話でしょうかね)。
いずれにせよ,子どもたちが算数を習う前に,親たちは,たし算やかけ算とはどういうものかを,自分自身で一度よく考えてみてもよいかもしれません。とはいえ,5+3+4≠12などというと,子どもを混乱させるとして叱られるでしょうが。
話を元に戻すと,ポアン・カレのいうような数学的技法は,抽象的な思考を要するものであり,こういうことが得意な人は高度な思考も可能となり,世間では優秀といわれるでしょう。具体的な例で示してもらわなければ理解できない人というのは,どことなく頭脳レベルが低い人とみられがちです。しかし,抽象的な思考は,AIが得意とするものであり,それよりは,現実の黄色人種と黒人と白人の違いをみて,それを全部足した数字にどんな意味があるのだというような思考をする人のほうが,これからは重要となるのかもしれません(後者はAIではできないので,人間が比較優位をもっている)。労働事件の解決も,こうした具体的な思考こそが大切なのでしょう。抽象的な思考で臨むと,たいてい和解はうまくいきません。
数学教育の重要性がよく言われますが,それは実は,数学の限界を教えるというような逆説的な意味でとらえたほうがよいのかもしれません。数学素人の放言ですが。