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2022年6月17日 (金)

刑法の改正

 刑法が改正され,懲役と禁錮が拘禁刑に変わることになりました(刑法9条改正)。これにより,多くの法律の改正が必要となります。「刑法等の一部を改正する法律の施行に伴う関係法律の整理等に関する法律案」も同時に可決され,関連法の対応が書かれています。労働基準法や労働組合法でも懲役や禁錮刑が定められていたので,3年以内の改正刑法の施行に合わせて条文が修正されます。以前にイタリア語のreclusione はどう訳すべきであろうか,というようなことをブログで書いたことがありますが,今後は「拘禁刑」と訳すことができそうです。そこで,ふと以前に,イタリアの刑法のことについて,いろいろ考えたことをブログで書いたことを思い出しました。ネット上では消えてしまっていますが,手元に昔のメモが残っていたので(掲載したものと同じかどうかは不明ですが,ほぼ同じだと思います),再掲します。おそらく2018年の52日と3日に書かれたもので,ちょうどTOKIOのメンバーの事件があったころの話がネタになっています。

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201852日 起訴便宜主義について思う

 「山口メンバー」は「山口さん」になりました。起訴猶予になったからだそうです。
 日本の刑事訴訟法248条は,「犯人の性格,年齢及び境遇,犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは,公訴を提起しないことができる」と定めています。これを起訴便宜主義といいます。検察官は,状況によっては,起訴(公訴提起)しないこともできるのです。
 強制わいせつにおいて,犯罪行為があっても,被害者と示談が成立していて,初犯であるというようなことがあれば,起訴猶予となるのが相場なのかもしれません。ただ示談が成立していれば起訴しないのであれば,非親告罪にした意味がないような気がします。もちろん公訴提起により被害者が裁判に出廷することなどによる二次被害が起こらないようにするための配慮は必要ですが,性犯罪が社会にとって危険な犯罪であり,かつ加害者本人が社会復帰を望んでいることを考慮すると,社会にとっての危険性はいまだ軽微とはいえない可能性があります。
 ところで,イタリアでは憲法112条に次のような規定があります。
 「Il pubblico ministero ha l'obbligo di esercitare l'azione penale.」
  検察官は公訴提起をする義務がある,という規定です。これを起訴法定主義といいます。犯罪行為があったと確認した以上は,起訴しなければならないということです。あとは裁判官が量刑も含めて判断するということでしょう。検察官は行政官であり,犯罪の嫌疑があるのに,司法の判断に服せしめるかどうかまでを判断してしまってはだめということでしょう。
 日本の検察官を信用していないわけではないのですが,起訴猶予によって(元)容疑者の扱いが一変してしまったことで,ちょっと驚きです。禊ぎが終わったとまでは誰も考えていないでしょうが,そういうムードがやや現れているような気もします。
 性犯罪は再犯率が比較的高いようです。データは裁判で有罪判決を得た場合のものがありますが,起訴猶予になったものもありますでしょうか。別に今回の「山口さん」に個人的な恨みはありませんが,書類送検までされる性犯罪は相当悪質なものであったはずです(クラブで酔ってホステスの胸をむりやり触ったというたぐいのものではないでしょうそれでもダメですが[加筆])。マスコミも,そのあたりをよく考えたうえで,横並びではなく,各社で報道姿勢を考えてほしいものです。
 なお,直接この話に関係しませんが,イタリアでは,対象が存在してない場合(たとえばカーテンの向こうに殺そうとしている人間がいると思ってそこに向かってピストルの引き金をひいたが,そこには誰もいなかったとか),犯罪を引き起こすことに適しない行為(単なる胃腸薬を毒薬と誤信して,それを飲ませて殺そうとしたとか)である場合は不能犯(reato impossibile)とされ罪には問われません(イタリア刑法典492項),その場合には,裁判所は保安処分(misura di sicurezza)を命じることができます(同条4項)。不能犯は,当該行為については犯罪を起こす可能性がなく,問題なく無罪ですが,それでも社会への危険はある以上,裁判官は一定の処分を命じるのです。日本の刑法では,そもそも不能犯の規定がないですし,保安措置を命じるといった規定はありませんが,イタリアに歴史的に濃厚にあると思われる「新派」的な立場によれば,犯罪をする危険のある者から,いかに社会を守るかということが大事になってくるのです(刑法における旧派と新派の議論については,ぜひ刑法の専門書を読んで確認してください)。無罪であっても,起訴猶予であっても,社会を守るということが大切です。それはとくに性犯罪にあてはまることではないかということです。加害者の人権も大切というのが私の基本的スタンスですが,マスコミ報道をみながら,少しバランスをとった意見もいうべきだということで,あえて書いてみました。

201853日 請願権
 昨日,イタリアの刑法のことを語ったので,そのついでに,ぜひ紹介しておきたい本があります。それがBeccariaの『Dei Delitti e delle Pene(犯罪と刑罰について)』です。大学で法律を勉強したことがある人なら,誰でも知っているものですが,有りがたいことに,この本の訳書があります。ずいぶん前にいただいて,たぶん紹介をしていなかったと思うのですが,それがお茶の水大学の小谷眞男さんの翻訳したチェーザレ・ベッカリーア『犯罪と刑罰』(東京大学出版会)です。小谷さんには心より御礼を申し上げます。素晴らしい訳であり,解説もきわめて充実しています。
 ところで,この本のなかにBeccariaが死刑について語ったところがあります(第28章)。彼は死刑反対論者です。終身刑の支持者です(ちなみにイタリアでは死刑は憲法で禁止されています[274項])。なぜ死刑がダメなのかということが,実に説得的に論じられています。ここでは紹介しきれませんが,最も有力な論拠は,死刑では,犯罪抑止につながらないということです。
 死刑というものを,犯罪の予防という刑事政策的な観点から考えた場合(これが新派的な発想),死刑という手段のもつデメリットと,死刑により解決される政策課題との間の関係を検証するというアプローチが必要となります。Beccariaは,終身刑で長期間隷属的な状況が続くほうが,犯人に過酷なものとなり,それだけ市民に対して抑止力が働くというのです。死刑でこの世から消えることができるというのでは,本人の犯罪抑止力は弱い,ということです。[これには宗教的な背景があるかもしれません:加筆]
 Beccariaは,賢明なる君主は死刑廃止論のもつ真理性に気づくはずだけれど,それを妨害するのが中間的特権層だというのです。君主には,ローマ時代の五賢帝のような人も出てくるが,おそらく中間的特権層は徳も見識もなく,権力をほしいままにしたい存在ということなのでしょう。特権層は変化を望まず,先例を踏襲するものであり,新しい提案に耳を傾けません。Beccariaは,「もし王座にまで届くようなことがあれば,つねに傾聴されたであろう人々の率直な請願を,さえぎり押し殺してきたのは,中間層の専制なのだ!」と述べています(小谷訳)。「だからこそ,光で照らされた市民たちは,ますます熱心に君主たちの権威の継続的増大を求めているのだ」(小谷訳,100頁)。
 
君主の権威の増大をいうのは現代の感覚からはおかしいような気もしますが,当時を考えるとそうおかしいことではありません。国家の統治を社会契約的に考えた場合,ボッズブ(Hobbes)のいうような「リバイアサン(Leviathan)」が生まれますが,それをプラトン(Platon)的な哲人政治に変えるためにも,中間的な権力を排除し,権力をもつ君主を教化していくことが必要だということでしょう(この本が出た25年後にフランス革命が起きていますが,中間団体の否認が革命時の思想として重要となっています)。
 その意味で請願権というものは,ひょっとするともっと注目されてもいいのかもしれません。実は日本国憲法にも請願権の規定があります。それが16条です。長谷部恭男『憲法(第7版)』(新世社)では,「請願は,議会制度が十分に発達していなかった過去においては,被治者の意見を為政者に伝える一つの経路として機能したが,国民主権が確立し,国民の参政権が十分に保障された現代社会においては,もはや意義は有しないと考えられている」と書かれています(305頁)。
 しかし,アメリカでTrumpが登場して民主主義のプロセスに十分な信用がおけなくなりつつある現在,Beccariaのいう「光に照らされた市民たち」による請願のプロセスというのは,もっと考えられてもいいのかもしれません。CNNでアメリカの元国務長官Albrightさんが,Trump政権を暗に批判するために,HitlerMussoliniも民主主義から生まれたと言っていました。民主主義は手段ではありますが,唯一絶対的なものではないというのは,Churchillに言われるまでもなく,多くの人がわかっていることです。間違った人が選ばれたときの対策を,暗殺やクーデターのような暴力的な方法に頼るべきではないでしょう。これでは民主主義の正面からの否定です。民主主義から生まれた強大な権力を抑制するのは,最後は「知の力」であると信じたいものです。 
 翻って日本はどうでしょうか。現在の首相は,直近の選挙でも大勝し,民主的なプロセスで大きな権力をもつようになっています。側近や忖度する官僚が中間的専制者になっているとすれば賢明な市民が立ち上がらなければなりません。Beccariaなら,打倒安倍にエネルギーをかけるよりも,中間的専制者を排除して,いかにして首相を知の力で賢政に導くかを考えるべきだと言ってくれるかもしれません。憲法学者は,こうしたことは非民主的として否定するでしょうか。憲法記念日にみんなで考えてもらいたいことです。

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