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2022年6月の記事

2022年6月30日 (木)

SMBC日興證券相場操縦事件

 岸田政権は,「貯蓄から投資へ」と言い,個人の株式市場への参加を促してきているのですが,その一方で,金融所得への課税を強化しようとしたこともあり,ちぐはぐな感じがします。
 SMBC日興證券で問題となった「ブロックオファー取引」は,証券会社が,取引市場外で,大量の株式を購入し(持ち合い解消などの目的で大量に売りに出されることがある),それを市場価格より安価に相対で取引時間外に個人投資家に売却し,その差額を証券会社が利益として得るという取引だそうです。株が大量に出回ると市場価格が低下してしまい,ブロックオファーが成立しない可能性があるので,証券会社が株式を購入して相場を支えることがあり,それが今回の相場操縦という金商法上の犯罪(159条,197条1項5号など)に該当するのではないか,ということが問題となりました(日本経済新聞2021113日の記事「市場の公正揺るがす SMBC日興社員,相場操縦疑い 時間外取引,不成立恐れ買い支えか」も参考にしました)。
 相場の安定という名目で,相場が人為的に操縦されているということになれば,個人はそういう市場に参加することに,とても臆病になるでしょう。個人がなけなしのお金を少しでも殖やしたいと思うとき,リスクはできるだけ取りたくありません。証券投資はただでさえリスクがあるのに,その取引市場において透明感がないとなれば,「貯蓄から投資へ」はうまくいかないでしょう。
 今回,逮捕されている社員には外資系の会社からきた人たちもいたそうで,その高いスキルで会社に大きな利益をもたらしていたそうです。そのことが会社による違法性のチェックを甘くしていた可能性もあるということですと,これはこの会社の組織ぐるみの問題です。SMBCのブランドイメージも大きく傷つきました。どう挽回するのか。また政府は,証券市場に対する国民の不信感の払拭のために,どのような対応をするのでしょうか。参議院選の主要なテーマではないのかもしれませんが,注目したいところです。

2022年6月29日 (水)

尼崎市USB事件の続報

 日本経済新聞の電子版で,「BIPROGY(ビプロジー,旧日本ユニシス)の平岡昭良社長は28日,東京都内の本社ビルで開いた定時株主総会で,兵庫県尼崎市の全市民約46万人の個人情報が入ったUSBメモリーを同社の再々委託先の社員が一時紛失した問題について謝罪した」という記事が出ていました。「再々委託」だったのですね。
 この業界のことはよくわかりませんが,労働法的な観点からは,一般的に重層的な下請け構造や再委託構造というのは,いろいろ問題が起こりやすいわけです。そこに労働法上の問題があるということは,経営上の問題も当然ともなうものとなるでしょう。途中に事業者が入るほど,手数料が抜かれていくのでしょうから,末端の労働者の賃金は低いのではないかと想像してしまいます。ブラックな職場で,自分たちの個人情報を取り扱われたくないですね。
 BPO(ビジネス・プロセス・アウトソーシング)は,今後,どんどん進んでいくでしょうし,自治体が一定の苦手分野についてアウトソーシングすることは,それ自体は悪いことではありません。ただ,何をアウトソーシングするかが重要で,個人情報の重要性についての意識が低い自治体が,今回のような業務でも,安易にアウトソーシングするということがあっては困ります。そのような姿勢が,受注企業から甘く見られて,再委託禁止などと契約で定められていても,平気で無視されるということが起こるのかもしれません。
 前にも書いたように,個人情報の重要性に鑑みると,企業は,自治体内部で専門職員を育成すべきです。昨日の日本経済新聞では,データ分析や人工知能(AI)などの専門人材を別枠で新卒採用する企業が増えている,という記事も出ていました。自治体に集まっている個人情報は,デリケートなものが多いはずなので,そういうものを扱う業務は,できるだけアウトソーシングしないで自前でやってもらえないでしょうか。
 DXへの対応が遅れている自治体は,アナログ時代の仕事の仕方をひきずって,人間がやる必要のない仕事にまで多くの職員を配置している可能性があります。そういうところは,思い切って事業の再構築をすべきでしょう。業務や職場のDXを進め,それに合った人材を採用し,市民の個人情報をしっかり守る態勢を強化してもらいたいです。これは尼崎市だけの問題ではありません。私が住む神戸市も,兵庫県も,そして日本政府も,今回の事件をきっかけに,DXの推進と同時にセキュリティのいっそうの強化を進めてほしいです。人間が介在するとミスが起こりやすいのであり(だから自治体が自前でやっても不安が残ります),セキュリティ・バイ・デザインの発想で,DXの制度設計をしてもらいたいですね。

2022年6月28日 (火)

副業の促進

 625日の 日本経済新聞の朝刊の1面に「厚労省 副業兼業の促進」という記事が出ていました(今日も続報が出ていました)。副業を規制する場合には,企業はそのことを開示することが求められることになりそうです。副業は,昔ならマージナルな論点だったのですが,いまや日本型雇用システムの転換を象徴する論点といえそうです。
 そもそも日本企業が好んで副業を制限してきたことと,法律論としてみた場合,副業の制限はおかしいということの交錯が,この問題を考えるうえでのポイントとなります。企業が副業を制限したがるのは,三つの側面があります。一つは,日本の正社員の場合には,残業が付きものであり,休日労働すらもあるということからすると,副業する余裕などないはずだということです。副業をする余裕のあるような働き方は想定していないということです。また正社員はその企業の一員として忠誠を尽くすべきなのであり,別の企業にも雇用されて忠誠を尽くすという「二股をかけること」は許さないという意味もあります。さらに 企業は人材育成に費用をかけているので,そこで蓄積した技能を他の企業で使われるのは困るということもあります。副業にはいろんなパターンがありますが,蓄積した技能を生かすとすれば同業他社での副業であって,そういうものは困るということです。競業避止義務はそのために課されるのです。また同業他社でなくても 企業が副業によって新たな知見や技能を身につけると転職されやすくなります。日本の企業は,従来,教育投資からのリターンを確保するために,いかにして従業員に長く居続けてもらえるかを考えてきたのであって,そういう点でも副業は望ましくないわけです。
 ところが,この前提状況が変わってきました。日本型雇用のシステムの根幹である正社員の働き方,そして企業による人材の育成やそのための長期雇用の必要性がなくなってきていることが重要なポイントなのです。自社で教育訓練をしないから,他社での就業経験でスキルアップしてもらうことには,むしろ利益があるのです。同業他社ではなく,異業種での経験のほうがプラスになるということもあります。根本的には,副業解禁の背景には雇用の流動化があり,それは同時に日本型雇用システムの崩壊および長期雇用慣行の終焉というものを意味しています。
 もう一つの視点は,労働者にとって,勤務時間以外の時間をどのように使うかは私的自由の問題であるということです。副業制限には,職業選択の自由という憲法上の権利の制限という意味もあります。ただ,これは原理的な問題で,具体的に副業を規制する法律は存在しないので(民間企業の場合),就業規則の合理的な規定によれば副業を制限をすることはできないわけではなく,厚生労働省が作成したモデル就業規則でも,少し前までは副業の許可制をモデルとして定めていて,これが事実上の指針となり,副業制限について,厚生労働省もお墨付きを与えていたのです。そのモデル就業規則が改正され,さらに今回のような動きが出てきたのであり,厚生労働省は大きく方向転換をしたといえます。副業イコール雇用の流動化ではありませんが,上記のように副業促進は雇用の流動化と親和性の高い政策です。一方で,雇用調整助成金のダラダラとした延長をやっているようなこともあり,厚生労働省は,雇用流動化政策を,どうやって一貫したシナリオで提示できるかが,いま問われているのでしょう。

2022年6月27日 (月)

賃上げ政策

 参議院選挙の主要な争点に物価高対策があります。物価高への対応として,各党のほとんどが賃上げをあげています。年金受給者は令和2年度で4051万人もいることからすると(厚生労働省の「令和2年度 厚生年金保険・国民年金事業の概況」),年金受給者への対応も必要です(その意味で,N党の年金受給者らへのNHK受信料の減免という政策は,年金受給者には「刺さる」ものです)が,やはり現役生活者の収入の底上げも重要です。
 問題は,賃金を上げるための正しい政策は何かです。賃上げは結果であって,いきなり賃金だけ上げようとしても市場をゆがめることになるでしょう。もちろん,それは上げ方いかんであり,適度の賃上げであれば,かえって労働市場の効率化につながると言われています。生産性向上へのインセンティブとなり,好循環が生まれるというシナリオもあります。企業の設備投資を促す税制度とリンクさせることにより,効果的な循環が生まれるというのも理解できます。ただ,賃上げをどの程度の水準にすれば,こういう良い効果がうまれるかは,とても難しい問題でしょう。ここは経済学者に任せるしかないのですが,それに加えて,多くの党がふれている最低賃金の引上げについては,法律家からすれば,現在の最低賃金法の枠組みをどうするのかということも言ってもらいたいところです。最低賃金は審議会方式で決まるのであり,例えば地域別最低賃金を廃止して全国一律にするとか,1500円にするとか言ったとしても,それが審議会方式を維持したうえでやろうとしているのか,それともまったく新しい制度を考えているのか,よくわかりません。正直なところ,全国一律とか1500円とかは,単なる努力目標にすぎないのであり,1500円という数字で人を惹きつけようとするのは,よくないポピュリズムではないかと思います。
 当たり前のことですが,賃金は当事者間の合意で決まるのであり,最低賃金は,あくまで法律で罰則付きで強制する最低基準にすぎません。これを引き上げることに慎重であるのは当然なのです。むしろ,こういう法律上の賃金より,実際の賃金がどうやったら上がるかを考えるべきであり,正しい手法は経済政策をとおして賃上げできる状況をつくることでしょう。
 賃金の水準が実際に問題となるのは,中小企業の社員と非正社員です。中小企業はコロナ禍で種々の補助金で支えられてきたと思いますが,そこから脱却して,いかにしてDX時代の競争で生き残れるかというところが勝負となるでしょう。中小企業の中核は,スタートアップ企業などのDXに立ち向かっている企業であるべきであり,そういう企業を助成し,そこに人材が集まってくるようにするのが,じつは最も効果的で持続性のある賃上げ政策でしょう。そのためには人材育成も必要です。学校教育の改善というルートもありますが,大企業からの優秀な人材が中小企業に流れてくるというルートもありえます。雇用の流動化が,大企業から中小企業へ雇用移転という形で起これば,一時的には賃金が下がることもあるかもしれませんが,人々が自分の適職を求めて移動していくことが増える環境ができてくることは望ましいことであり,これにより生産性の高い企業が生き残っていくことになれば,全体として賃金は上がっていくことになるでしょう。私たちの提唱している解雇の金銭解決制度も,このシナリオに貢献できると考えています(本日の日経産業新聞に,先日の電子版にも掲載された水野裕司さんの記事「解雇の金銭解決,日本も動き」が掲載されています)。実は各党のなかで,この考え方に近いものを出している政党が日本維新の会でした。HPには,「労働移動時のセーフティネットを確実に構築した上で,解雇ルールを明確化するとともに,解雇紛争の金銭解決を可能にするなど労働契約の終了に関する規制改革を行い,労働市場の流動化・活性化を促進します」と書かれていて,これは私の主張に近いものであり,驚きました。また国民民主党も,「給与の引き上げ」を前面に出していますが,最低賃金などではなく,労働市場政策を重視しているなど,その政策はしっかりしたものだと思いました。もっとも両党とも,私からみれば,安全保障政策などに難があります。共産党と維新や国民民主党の中間のような政策を出す政党が出てくればよいのですが。
 なお消費税廃止は,賃上げと同様の効果はありますが,もし無制限に行うのであれば,無責任な政策だと思います。消費税は,逆進性がある部分とそうでない部分とがあります。一括して廃止や低減というのは,保護しなくてもよい人まで保護し,国の財政を危うくする愚策です。特定の生活必需品に限定して,明確に期限を切って消費税を低減するという政策でなければ,とても支持はできませんね。

ムーブレス・スタディ

 「中央教育審議会大学分科会は22日,大学のオンライン授業の単位上限を緩和する文部科学省令改正の骨子案を大筋で了承した」ということのようです(日本経済新聞622日電子版)。現在の60単位の上限を緩和するということには賛成です。
 昨日のムーブレス・ワークの話の延長で,大学教員もどこからでも授業をリアルタイムないしオンデマンドで提供できるようにしてもらい,学生も大学で受講してもよいし,自宅など好きなところで受講してよいということにすればよいのです。学生にとっては「ムーブレス・スタディ」です。
 これからの大学は,学部だけでなく大学院も重要なのであり,18歳以上の人なら誰でも教育資源にアクセスできるようにすることが要請されるでしょう。既存の大学のイメージを壊す必要があります。大学の成績評価では,平常点というようなものもありますが,本来は,出席しようがしまいが,きちんと一定のレベルに到達するかどうかで単位認定をするということでよいと思います。重要なのは,どの先生のどの科目で単位をとったかです。成績が甘い先生の単位は価値がないということが社会の評判として広がると,先生も厳格な評価をするでしょうし,それに応じて学生も勉強するようになるでしょう。オンライン授業の時代は,そういうようになっていかなければなりません。
 一般に,他大学から編入してくる学生について,他大学で修得した単位を,既修得単位と認めるかどうかは,授業内容と教員の名前をみて評価されていると思います。今後ジョブ型が広がり,企業の人事担当者が,当該ジョブについて学生がどのような能力をもっているかをほんとうにみたければ,習得した単位について,シラバス(通常公開されている)をみて,どの教員のどういう授業をとって,どのような成績がついているかまでリサーチしたほうがよいのです。そのためには,教員のことについても,ある程度,情報を得なければなりません。人事担当者も勉強する必要があるということです。従来は,大学での学習は重視されていなかったので,そんな細かいところまでみる必要はなかったのでしょうが。
 将来的には,例えば,教師はオンラインセミナーを開講し,受講生の到達度をテストして,TOEFLのように点数をつけて,その証明書が就職に活用される(流動型社会が想定されています)といったことが出てくるかもしれません。どこの大学を卒業したかよりも,どの先生のどのような授業を聞いてdiplomaをもっているかが重視されるようになるかもしれません。経済学なら○先生,人事管理論なら○先生というように,とくに文系であれば,著名な先生が私塾的なセミナーを開講し,その合格者のdiplomaを発行し,その分野の「品質保証」をするというようなことになるかもしれません。大学卒業資格というのは,あまり意味のない時代がくるでしょう。小さな子どもを抱えている親御さんは気をつけたほうがよいです。

2022年6月25日 (土)

ムーブレス・ワークの時代

 先日,NTTが,在宅勤務が原則で,出社は出張扱いとするという制度を導入したことにふれましたが,622日の日本経済新聞では,「アクセンチュア,社員の居住地を自由に 在宅勤務を前提」,さらに少し前の同月3日には,「DeNA,社員の居住地自由に 働き方多様化で人材獲得」という記事もあり,いよいよ「ムーブレス・ワーク」(拙著『デジタル変革後の「労働」と「法」』(2020年,日本法令)216頁以下)の時代が到来しようとしているのかもしれません。
 拙著『労働法で企業に革新を』(商事法務)では,後半はDXのインパクトに関するストーリーが展開しますが,127頁あたりに,主要な登場人物の一人である深池が,完全テレワークを導入したので,母親のいる実家の西宮市に転居したいと申出をするシーンが出てきます。同書では,人々が好きなところに住んでテレワークするという「ムーブレス・ワーク」の世界を描いていたのですが,現実も段々そうなりつつあります。
 私の予想よりも現実の進行は遅いのですが,それは「出社派」と「在宅派」が拮抗しているからでしょう。個々の企業で,「出社派」と「在宅派」が覇権をめぐって争っているのかもしれません。どちらも許容するというハイブリッド型は難しいので,原則「出社」で特別な理由があるときは「在宅OK」という「原則出社派」企業と,逆に原則「在宅」で特別な理由があるときだけ出社してよい(交通費はそのときだけ支払う)という「原則在宅派」企業に二分されていくのでしょうね。ただ,DX時代において,付加価値の大きい創造的な仕事をするのは「出社」する従業員と「在宅」の従業員のなかのどちらに多いでしょうか。私は「在宅」だと思います。いまは両者は拮抗していますが,そのうちたちまち「在宅」一色になるのではないかと予想しています。中小企業も,費用の問題はあっても,「原則在宅派」に変わらなければ,人材が集まらなくなります。いまから準備しておいたほうがよいでしょう。 

 

2022年6月24日 (金)

尼崎のUSB紛失事件

 尼崎市で全住民の情報が入っているUSBメモリスティックが,これを持ち出した外部業者の社員の不注意で紛失してしまったという大変な事件が起きてしまいました。今日見つかって良かったですが,多くの人が論じているように,非常に困ったものです。
 第1に,市民の観点としては,もし神戸市で同じことが起きたらと思うとおそろしいので,これを機会に入念な点検をしてもらいたいです。政府もそのような通達を出しているようです。市民の個人情報にアクセスするような作業を外部に委託するのであれば,それはよほどセキュリティ管理をしっかりしなければ,とても許容できるものではありません。尼崎市は,「委託時に情報管理のルールを設けていたが,初歩的なミスが次々と明らかになった」(神戸新聞NEXT),ということのようです(市の担当者は,記者会見でも,PWの桁数をもらすという大きなミスをおかしています)。ルールは設けるだけではダメで,実効的な管理体制が必要です。あまりにも当然のことなのですが,「デジタルトラスト」の重要性が言われている今日,そこから大きくかけ離れている「初歩的なミス」で今回の事故が引き起こされたのだとすると,これはほんとうに情けないことです。業者の責任は当然ですが,尼崎市にも重い責任があり,市長は事態を深刻に受け止め,早急に何らかの今後に向けた対応をしなければなりませんし,その後に自分もしかるべき責任をとらなければならないでしょう。前にもフロッピーディスクを使っていた自治体の不祥事が世間の嘲笑をまねいたことがありましたが,メモリースティックで個人情報を外部へ持ち運んでいること自体,おそろしいことです。自治体のデジタル対応の遅れは悲惨なレベルですが,今回のことをきっかけに自治体のDXを本気で進めてほしいものです(内部で処理すれば安全というわけではありませんが,今回のような事故は回避できるでしょう)。
 第2は,労働法の観点です。この業者が,従業員に対して,秘密管理についてどのような義務を課していたかはわかりませんが,就業規則に違反しているのであれば,懲戒処分を受ける可能性はあるでしょう。しかも,報道によると,今回の作業は再委託していたようです。再委託先の従業員は,きわめて低い賃金で働かされていた可能性はないでしょうか。もし,この従業員が損害賠償を請求されることになると,元受託企業も再受託企業も落ち度がある可能性があるので,その場合には,過失相殺がされるでしょうし,それとは別に,損害賠償責任制限法理がかかってくるかもしれません。その際には,従業員の賃金額も考慮要素となってくるでしょう。ただし,故意による損害惹起であれば,責任は制限されませんが,重過失があっても同様と解される可能性があります。
 話は変わりますが,東大阪のセブン・イレブンの契約解除事件については,セブン・イレブン側が第1審では勝訴したようです(判決内容は,まだわかりません)。加盟店オーナーの労働者性は労組法上のものも含めて,否定される裁判が出ていますが,継続的な契約の解除については,たとえ労働契約法の適用がなくても,一般の権利濫用規定(民法13項)は適用可能で,その枠内でどのような判断がなされるのかという点は理論的に関心があるところです。契約において解除事由が具体的に列挙されていて,その事由に該当することをフランチャイザー側が立証できていれば解除は有効となると考えるべきであり,これは実は労働契約における解雇と同じだと思っています。ただ,その場合でも納得同意を得るように誠実交渉を行うべきというのが私の立場であり(拙著『人事労働法』(弘文堂)208頁以下),これは個人のフランチャイジーに対する場合にもあてはまると考えています(このことは,同書285頁では明記されていませんが,人事労働法の準用という観点から,そのようにいえると考えています)。オーナーは,損害賠償も請求されているようですが,損害賠償制限法理は,信義則が根拠なので,雇用労働者以外の個人事業主にも,理論的には適用可能性があるといえそうですが,かりにそうだとしても,今回の事件が賠償額が減額されるべき事案であったかは,よくわかりません。

2022年6月23日 (木)

山形大学事件・最高裁判決に思う

 前にこのブログでも採り上げた,山形大学事件・仙台高裁の判決は,上告審で破棄されました。労働委員会としては一安心というところです。最高裁が,誠実交渉義務について割とくわしく述べるという副産物までありました。
 本判決は,第二鳩タクシー事件・最高裁大法廷判決の原点に返ったのだと思います。同判決を参照して,次のように述べました。
 「労働委員会は,救済命令を発するに当たり,不当労働行為によって発生した侵害状態を除去,是正し,正常な集団的労使関係秩序の迅速な回復,確保を図るという救済命令制度の本来の趣旨,目的に由来する限界を逸脱することは許されないが,その内容の決定について広い裁量権を有するのであり,救済命令 の内容の適法性が争われる場合,裁判所は,労働委員会の上記裁量権を尊重し,その行使が上記の趣旨,目的に照らして是認される範囲を超え,又は著しく不合理であって濫用にわたると認められるものでない限り,当該命令を違法とすべきではない。」
 大法廷判決は,労働委員会の裁量が広い理由を,「使用者の右規定違反行為に対して労働委員会という行政機関による救済命令の方法を採用したのは,使用者による組合活動侵害行為によって生じた状態を右命令によって直接是正することにより,正常な集団的労使関係秩序の迅速な回復,確保を図るとともに,使用者の多様な不当労働行為に対してあらかじめその是正措置の内容を具体的に特定しておくことが困難かつ不適当であるため,労使関係について専門的知識経験を有する労働委員会に対し,その裁量により,個々の事案に応じた適切な是正措置を決定し,これを命ずる権限をゆだねる趣旨に出たものと解される」としています。
 いずれにせよ,今回の判決が,「正常な集団的労使関係秩序の迅速な回復,確保を図るという救済命令制度の本来の趣旨,目的」が再確認されたことは,当然とはいえ,重要な意味をもっています。仙台高判の内容は,最高裁のまとめをそのまま引用すると,「本件命令が発せられた当時,昇給の抑制や賃金の引下げの実施から4年前後経過し,関係職員全員についてこれらを踏まえた法律関係が積み重ねられていたこと等からすると,その時点において,本件各交渉事項につき被上告人[大学側]と上告補助参加人[組合]とが改めて団体交渉をしても,上告補助参加人にとって有意な合意を成立させることは事実上不可能であったと認められるから,仮に被上告人に本件命令が指摘するような不当労働行為があったとしても,処分行政庁が本件各交渉事項についての更なる団体交渉をすることを命じたことは,その裁量権の範囲を逸脱したものといわざるを得ない」というものでした。
  団体交渉の目的を,労働条件についての合意の達成に限定し,それが事実上不可能であれば,団交を命じることは労働委員会の裁量を超えるとしたものといえますが,労組法72号で団体交渉拒否が不当労働行為の一類型に含まれ,労働委員会による救済が認められているのは,上記の大法廷判決に即していうと,団体交渉拒否が組合活動侵害行為の一類型であり,それにより集団的な労使関係秩序が乱されるので,それは専門的な知識経験に基づく労働委員会の命令により回復することが必要だということなのです。誠実交渉義務違反があったとの判断の適法性は司法審査に服しますが,いったん侵害された労使関係秩序をどのように回復させるかは,その要否も含めて,労働委員会が広い裁量をもって判断できるというのが,最高裁大法廷の述べていることです。
 仙台高判は,3重の意味で誤っていたのでしょう。第1に,誠実交渉義務によって乱された集団的労使関係秩序が,時間の経過だけで回復したかどうかという視点が欠落し,「有意な合意」の達成の事実上の可能性だけしかみなかったこと,第2に,誠実交渉義務においては,要求事項についての合意達成の可能性の真摯な模索が大切なのですが,それは要求を受け入れない,あるいは受け入れられない場合であっても,それについて労働組合の納得を得るように,十分に説明する義務があるという点を見落としていることです。第3に,根本的な話として,労働委員会が,何のために存在し,どういう点に着目して不当労働行為の救済という仕事をしているのかについての理解が不十分であったことです。
 最高裁は,当然とはいえ,まっとうな判断をしたと思います。差戻審では,不当労働行為の成立については否定される可能性が残っていますが,労働委員会の救済命令について,過剰な司法審査は排除されるべきということが確認されさえすれば,この最高裁判決は十分に意味があったといえます。
 なお,この判決をめぐっては,誠実交渉義務違反が,どのような意味で不当労働行為となるのか,という理論的な難問も実は関係しています。これは上記のように,集団的労使関係秩序の侵害という観点から説明されるのでしょうが,仙台高判(および山形地判)のような考え方が出てきたのには,団体交渉の要求事項が組合員の労働条件である場合,組合員の個別的利益と組合固有の集団的利益が交錯し,そのなかで(結果として)個別的利益を重視する視点があったのではないかということです。個別的利益の救済可能性がなければ,不当労働行為の救済も不要と単純に考えてしまったのではないかということです。第二鳩タクシー事件は,1号事件における個別的利益と集団的利益の関係が論じられたものであり,反対意見もあったことから,最高裁内でもこの点について激論がかわされたことが推察されますが,多数意見も集団的利益の固有性(独自性)を認める判断はしています。2号事件は,1号事件と違い,漠然と集団的利益を守るものと考えられてきたとは思いますが,でも要求事項に関係する個別的利益(実質個別紛争だけでなく,このケースのように集団性のある個別的利益というものもありえます)について回復可能性が事実上ないという場合に,集団的利益を軽視すると,仙台高裁のような判断が出てしまうのでしょう。不当労働行為救済制度における個別的利益と集団的利益の関係は,私の修士論文以来のテーマであり,依然として理論的に解決されていないと思っています。そして,理論的な検討が不十分であると,今回の下級審のような不適切な判決が出てしまう可能性があるということです。これは研究者の責任です。

2022年6月22日 (水)

核問題について

 NHKプラスでみた再放送番組のなかで,道傳愛子さんがJacques Attali氏やIan Bremmer氏らにインタビューをしているものがありました。それを観ていて感じたのは,ウクライナがロシアに攻撃されたのは,核兵器を放棄しながら,NATOに加盟しなかったからで,アメリカもいざというときには頼りにならないということを教訓として,日本が核兵器をもとうとするのではないかという懸念がもたれていることです。日本は, NATOに加盟しておらず,同盟国のアメリカも頼りにならないとわかれば,ウクライナの二の舞にならないように,核兵器をもつことが必要だと考えるかもしれないと思われているのかもしれません。そして,それは世界にとって最悪のシナリオであるというのが,世界の識者の意見なのでしょう。
 日本は,歴史上,唯一の戦争被爆国です。しかも2回も民間人相手に核爆弾を落とされた国なのです。この日本が,核兵器をもとうとするかもしれないと疑われていること自体,世界の平和におそろしく危険なメッセージを与えることになります。日本が原因で,泥沼の核競争の歯止めがなくなるということは避けなければなりません。唯一の被爆国である日本人が声をあげなければ,いったい誰が声をあげるのでしょうか。その意味で,核兵器禁止条約の会合にオブザーバーとしても参加しない行動は,誤解をいっそう強めてしまわないか不安です。「聴く力」ではなく,「伝える力」が必要です。
 広島出身(東京生まれだそうですが)の岸田首相には責任があります。本気で平和を実現したいと考えるならば,広島らしい,原爆の問題と向き合った解決策を打ち出す必要があるでしょう。アメリカの「核の傘」に入る選択肢を,最初から放棄せよと言いたいわけではありません。しかし,「核の傘」について日本内の少なからぬ国民が不安に感じていることも知っておいてもらえばと思います。そもそも地球上の人々はみな頭上に爆弾がぶらさがっている状況下で生きているのです。その爆弾のスイッチボタンは,どこかの独裁者も握っています。その爆弾を一つひとつ取り除いていくしか,ほんとうの平和は実現できないのです。岸田首相には,日本だからこそ,また広島出身の首相だからこそできることがあるはずです。核の問題をうまく解決して世界平和に貢献できるような,スケールの大きな平和構想を語って欲しいです。
 今回の参議院選挙でも,平和は重要なテーマです。安全保障という言い方よりも,端的に世界平和の実現というテーマで議論してもらいたいです。経済が再生しても,平和がなければ,意味がありません。この面では,共産党は良いことを言っていると思いますが,ただ,かりに共産党が政権をとっても,Japanese Communist Party という名称であるかぎり,まともな国が近づいてこず,うまく国際協調ができないであろうという点が残念です。党名変更(せめて英語表記について)を真剣に考えるべきではないかと思いますが,余計なお世話でしょうね。

核問題をきちんと議論してほしい

 NHKプラスでみた再放送番組のなかで,道傳愛子さんがJacques Attali氏やIan Bremmer氏らにインタビューをしているものがありました。それを観ていて感じたのは,ウクライナがロシアに攻撃されたのは,核兵器を放棄しながら,NATOに加盟しなかったからで,アメリカもいざというときには頼りにならないということを教訓として,日本が核兵器をもとうとするのではないかという懸念がもたれていることです。日本は, NATOに加盟しておらず,同盟国のアメリカも頼りにならないとわかれば,ウクライナの二の舞にならないように,核兵器をもつことが必要だと考えるかもしれないと思われているのかもしれません。そして,それは世界にとって最悪のシナリオであるというのが,世界の識者の意見なのでしょう。
 日本は,歴史上,唯一の戦争被爆国です。しかも2回も民間人相手に核爆弾を落とされた国なのです。この日本が,核兵器をもとうとするかもしれないと疑われていること自体,世界の平和におそろしく危険なメッセージを与えることになります。日本が原因で,泥沼の核競争の歯止めがなくなるということは避けなければなりません。唯一の被爆国である日本人が声をあげなければ,いったい誰が声をあげるのでしょうか。その意味で,核兵器禁止条約の会合にオブザーバーとしても参加しない行動は,誤解をいっそう強めてしまわないか不安です。「聴く力」ではなく,「伝える力」が必要です。
 広島出身(東京生まれだそうですが)の岸田首相には責任があります。本気で平和を実現したいと考えるならば,広島らしい,原爆の問題と向き合った解決策を打ち出す必要があるでしょう。アメリカの「核の傘」に入る選択肢を,最初から放棄せよと言いたいわけではありません。しかし,「核の傘」について日本内の少なからぬ国民が不安に感じていることも知っておいてもらえばと思います。そもそも地球上の人々はみな頭上に爆弾がぶらさがっている状況下で生きているのです。その爆弾のスイッチボタンは,どこかの独裁者も握っています。その爆弾を一つひとつ取り除いていくしか,ほんとうの平和は実現できないのです。岸田首相には,日本だからこそ,また広島出身の首相だからこそできることがあるはずです。核の問題をうまく解決して世界平和に貢献できるような,スケールの大きな平和構想を語って欲しいです。
 今回の参議院選挙でも,平和は重要なテーマです。安全保障という言い方よりも,端的に世界平和の実現というテーマで議論してもらいたいです。経済が再生しても,平和がなければ,意味がありません。この面では,共産党は良いことを言っていると思いますが,ただ,かりに共産党が政権をとっても,Japanese Communist Party という名称であるかぎり,まともな国が近づいてこず,うまく国際協調ができないであろうという点が残念です。党名変更(せめて英語表記について)を真剣に考えるべきではないかと思いますが,余計なお世話でしょうね。

2022年6月21日 (火)

読売クオータリーで紹介されました

 少し前の話になりましたが,読売クオータリー61号(2022春号)の高橋徹さん(調査研究本部主任研究員)が,「コロナ禍で深刻化 労働力不足を克服するには」という論考のなかで,拙著『会社員が消える―働き方の未来図』(文春新書)を採り上げてくださいました。この雑誌のことは,今回初めて知りました。取材はリモートで受けて,会社員が消える展望について,いろいろお話しをしましたが,ここでも最後は,教育の重要性という話になりました。高橋さんの論考では,宮本弘暁さんの「自己開発優遇税制」が興味深く,「社会保障や税制は転職に中立になるように改革すべきだ」というコメントも紹介されています。これも教育に関係しますね。
 労働法において,職業教育を正面から論じた業績は,ほとんどないと思います。職業教育を労働法の枠組みにおいて論じるときは,現在では「キャリア権」というテーマで議論するが定番となっており,日本労働法学会の『講座労働法の再生』(日本評論社)でも,「キャリア権の意義」(第4巻で,両角道代さんが執筆)という項目が採り上げられていました。諏訪康雄先生がこの概念を提唱されて以降,私も含めて,なかなかうまくこの概念を発展させることに成功できていない感じがします。いま必要なのは,企業による職業教育それ自体が,広義の職業教育の一部にすぎず,まさに憲法26条の問題として,政府が広義の職業教育にどうコミットするかを論じていくことです。そういう意味での「職業教育法」は,自営的就労者(フリーワーカー)の時代が来ることにより,いっそう重要性を高めると思います。最近の講演では,いつもそういう話で終わるのですが,問題は,これを具体的にどう政策提言に組み入れていくかです。人的資本への関心が高まっているなか,経済学者や教育学者の方たちとも共同して研究を深めていかなければならないでしょうね。

2022年6月20日 (月)

NTTのテレワーク推進に拍手

 経団連が「新型コロナウイルス感染予防対策ガイドライン」を改訂して,対策をやや緩めたようです。感染状況やウイルスの危険性に関する医学的知見の蓄積に応じて,適宜,改訂するのは必要なことです。一方で,改訂版では,「感染拡大期においては,テレワーク(在宅やサテライトオフィスでの勤務),時差通勤,ローテーション勤務(就労日や時間帯を複数に分けた勤務),変形労働時間制,週休3日制など,様々な勤務形態や通勤方法の検討を通じ,公共交通機関の混雑緩和を図る。」となっていますが,これらは感染拡大期に限る必要がないというのが私の立場です。
 おそらく経済界は,仕事にかぎらず,なんとか人に移動してもらいたいので,移動に抑制的な内容はできるだけ避けたいということなのでしょう。私は,人々が移動しなくても働けるようにし,移動するのは仕事以外のプライベートな場面に限定されるというような社会が実現しなければならないと考えており,仕事のために移動させられるのは,ちょっと過激に「人権侵害だ」(私は「場所主権」と呼んでいます)と言ったりしています。
 そういうなか,昨日の日本経済新聞に,「NTT,居住地は全国自由に 国内3万人を原則テレワーク―居住地は全国自由に 出社は出張扱い,飛行機も容認」という記事が出ていました。NTTはその前身の電電公社の時代から,労働事件の多い企業という印象がありますが,従業員に場所主権に配慮した勤務スタイルをほんとうに実現していくのであれば,これは一挙に労働面でも優良企業のトップランナーに躍り出るのではないかと思います。たしかに,業種的には,ICTの活用は得意分野でしょう。自らが率先してICTを活用した働き方を実践することにより,他企業に自分たちの提供するサービスを活用してもらえればという狙いもあるのかもしれません。ただ,同紙の別の記事で,「NTT,人材確保に危機感」とあったように,この業界では人材難であり,優秀な人材確保のためには,事業所に出てこいというような働き方では,もはやダメだということでもあります。これは来たるべきDX社会での働き方を先取りしたものでもあります。
 「やっぱり仕事って,みんなで集まってわいわいやるのが最高ね」という人もいるかもしれません。そう言える働き方ができている人は幸せだと思います。ただ,ひょっとすると,それは,知らぬ間に仕事に私生活が乗っ取られ,洗脳されているだけかもしれません。ぜひ拙著の『誰のためのテレワーク?―近未来社会の働き方と法』(明石書店)(とくにその最後に書いている「呪縛からの解放」というところ)を読んでもらえればと思います。

 

2022年6月19日 (日)

有罪率99.9%の功罪

 一昨日に続いて刑法の話です。司法統計年報(令和2年)によると,地方裁判所で無罪となった事件が72件(総数が47117件なので,無罪率は0.0015です)です。有罪率99.8%です。つまり日本では起訴されるとほぼ100%近く有罪となるとして,カルロス・ゴーン(Carlos Ghosn)やそれに乗った外国人(や日本人)が批判していました。人質司法がどうかはさておき,有罪率が高いことだけをみれば,有罪となるような事案だけが起訴されているからだと考えることは十分可能でしょう。
 ところで日本では,逮捕されても,起訴されないことが多いと言われており(不起訴処分),この点が一昨日に再掲したイタリアの事情とは異なっています。また起訴されて有罪判決となっても,執行猶予がつくことが多いと言われています。冤罪事件もあるのですが,圧倒的多数のケースでは被疑事実がほんとうにあるのであり,ただ,そのときでも,実刑をうけないことが多いという事実のほうが非常に重要だと思えます。日本の刑事司法は,犯罪をしたから処罰をするということだけを考えているのではなく,犯罪の種類によりますが,被疑事実を認め,被害者と示談をしたり,反省していたりするなど,悔い改める姿勢をとっていれば,できるかぎり許そうとしているのでしょう。このような扱いが,実は再犯を防止し,治安の維持につながっているとも言われており,そこは非常に評価すべき点ではないかと思います。ただし,ほんとうに身に覚えのない事実であるために否認している場合もあるのであり(男性諸兄にとっては,痴漢の冤罪がこわいですし,教員であれば,ハラスメントの冤罪がこわいです),そのときに否認しているがゆえに長期的に勾留され,あげくに嘘の自供をさせられるというのは,重大な人権侵害となります。とくに社会的に有名な人が関わる事件で,検察の威信をかけたものとなると,逮捕した以上は,起訴し,有罪にもちこまなければ面子にかかわることになり,そこにひょっとしたら無理が生じて,村木厚子さんのケースのような証拠捏造という恐ろしいことが起きてしまうのかもしれません。最近でも一部上場企業の社長の事件が,起訴されたものの,無罪判決で確定したものがあり,国家賠償事件となっています。
 こういうことが起きてしまうのは,実は,被疑事実を認めない人の圧倒的に多数は,犯罪をおかしているにもかかわらず,それでも自分の罪を認めないというきわめて悪質な人であり,それが99%の範囲の人なのでしょう。しかし,ほぼ100%という数字が,わずかに紛れ込んでいるかもしれない,ほんとうに無実の人の叫びを聞き落としてしまう危険性があり,検察官には,そこをきちんと見極めてほしいのです。検察官が起訴の段階でしっかりスクリーニングしているという信頼が高い日本社会では,起訴だけで社会的信頼は失墜するので,裁判で無罪となっても,そこから信頼回復するのは,普通の人は不可能に近いのです。こうしたことになるのは検察官に高い信頼があるからであり,それだけ検察官には重い責任があるといえます。
 起訴便宜主義には,メリットとデメリットがあると言われています。デメリットの一つは,巨悪を見逃しているのではないかという批判ですが,私は,検察官は,実体法の範囲でやれる限りのことはやっているのではないかと思っています。検察審査会という民主的チェックもあります。むしろ,上記のような治安面でのプラスの効果も考えて,起訴便宜主義を評価しなければならないと思っています。問題は,犯罪者の発言とはいえゴーンの批判が,海外にも大きく報道されて日本は後進的という印象を国際的に植え付けられそうな点です。そうしたことが起こらないように,検察には頑張ってもらいたいところです。
 取調べの可視化は重要ではありますが,それだけでは十分でありません。検察官にも(岸田首相流の?)被疑者の供述の「聴く力」をしっかりもってもらい,同時に供述の嘘を見破るスマートなスキルを身につけてもらえればと思います(嘘の供述を意図的にさせてしまうのは論外です)。
 そして,ここでもAIは活用されるべきではないでしょうか。刑事分野でのAIの活用というと,プロファイリングを活用した容疑者捜しや再犯可能性の予測などが典型的ですが,画像解析による供述の信憑性の判定などにおいても,利用できるでしょう。「デジタルファースト」は刑事司法でも重要な原則ではないかと思います。

 

2022年6月18日 (土)

日本労働研究雑誌

 昔はこうだったとか言いだすと,若い人から嫌がられるのでしょうが……。
 日本労働研究雑誌で,いつ頃からか,労働法関連の論文がまったく掲載されない号がときどきあるような気がします(しっかり調べたわけではありませんが)。元編集委員としては,ちょっと残念です。論文を割り当てて依頼していたが,結局,原稿が出なかったということはあるのかもしれませんが,それはきわめてレアでしょう。例えば今年の4月号の「労働統計の現在とこれから」では,労働法に関する執筆者はいませんでした。この特集テーマであれば,「労働法は,労働統計とどう向き合ってきたか」とか,「労働法研究では,なぜ労働統計をつかった議論をしないのか」くらいの論考があってもよかったような気がします(執筆者は必ず見つけられますし,どうしても見つからなければ自分で書くのです)。
 とはいえ,私が編集委員から離れて,もう10年以上が経ち,その間にすっかりメンバーも入れ替わり,雑誌の編集の仕方も変わってしまったのかもしれません。編集委員長なるものがいるのも,昔と違っていますね。私がいたころは,あえて委員長なるものをおかず,編集委員がみんな対等に,異分野間での研究会をやるように議論していて,それがたいへん勉強になりました。まあ,委員長がいても,そういう議論ができないわけではないでしょうが。いすれにせよ,この雑誌において最も重要な投稿論文の審査では,他の分野のものでも,積極的に意見を述べ,専門外の者にも価値がわかるような論文でなければ通さないというくらいの緊迫した議論をする伝統は変わらないで残っていてくれればと思います。

2022年6月17日 (金)

刑法の改正

 刑法が改正され,懲役と禁錮が拘禁刑に変わることになりました(刑法9条改正)。これにより,多くの法律の改正が必要となります。「刑法等の一部を改正する法律の施行に伴う関係法律の整理等に関する法律案」も同時に可決され,関連法の対応が書かれています。労働基準法や労働組合法でも懲役や禁錮刑が定められていたので,3年以内の改正刑法の施行に合わせて条文が修正されます。以前にイタリア語のreclusione はどう訳すべきであろうか,というようなことをブログで書いたことがありますが,今後は「拘禁刑」と訳すことができそうです。そこで,ふと以前に,イタリアの刑法のことについて,いろいろ考えたことをブログで書いたことを思い出しました。ネット上では消えてしまっていますが,手元に昔のメモが残っていたので(掲載したものと同じかどうかは不明ですが,ほぼ同じだと思います),再掲します。おそらく2018年の52日と3日に書かれたもので,ちょうどTOKIOのメンバーの事件があったころの話がネタになっています。

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201852日 起訴便宜主義について思う

 「山口メンバー」は「山口さん」になりました。起訴猶予になったからだそうです。
 日本の刑事訴訟法248条は,「犯人の性格,年齢及び境遇,犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは,公訴を提起しないことができる」と定めています。これを起訴便宜主義といいます。検察官は,状況によっては,起訴(公訴提起)しないこともできるのです。
 強制わいせつにおいて,犯罪行為があっても,被害者と示談が成立していて,初犯であるというようなことがあれば,起訴猶予となるのが相場なのかもしれません。ただ示談が成立していれば起訴しないのであれば,非親告罪にした意味がないような気がします。もちろん公訴提起により被害者が裁判に出廷することなどによる二次被害が起こらないようにするための配慮は必要ですが,性犯罪が社会にとって危険な犯罪であり,かつ加害者本人が社会復帰を望んでいることを考慮すると,社会にとっての危険性はいまだ軽微とはいえない可能性があります。
 ところで,イタリアでは憲法112条に次のような規定があります。
 「Il pubblico ministero ha l'obbligo di esercitare l'azione penale.」
  検察官は公訴提起をする義務がある,という規定です。これを起訴法定主義といいます。犯罪行為があったと確認した以上は,起訴しなければならないということです。あとは裁判官が量刑も含めて判断するということでしょう。検察官は行政官であり,犯罪の嫌疑があるのに,司法の判断に服せしめるかどうかまでを判断してしまってはだめということでしょう。
 日本の検察官を信用していないわけではないのですが,起訴猶予によって(元)容疑者の扱いが一変してしまったことで,ちょっと驚きです。禊ぎが終わったとまでは誰も考えていないでしょうが,そういうムードがやや現れているような気もします。
 性犯罪は再犯率が比較的高いようです。データは裁判で有罪判決を得た場合のものがありますが,起訴猶予になったものもありますでしょうか。別に今回の「山口さん」に個人的な恨みはありませんが,書類送検までされる性犯罪は相当悪質なものであったはずです(クラブで酔ってホステスの胸をむりやり触ったというたぐいのものではないでしょうそれでもダメですが[加筆])。マスコミも,そのあたりをよく考えたうえで,横並びではなく,各社で報道姿勢を考えてほしいものです。
 なお,直接この話に関係しませんが,イタリアでは,対象が存在してない場合(たとえばカーテンの向こうに殺そうとしている人間がいると思ってそこに向かってピストルの引き金をひいたが,そこには誰もいなかったとか),犯罪を引き起こすことに適しない行為(単なる胃腸薬を毒薬と誤信して,それを飲ませて殺そうとしたとか)である場合は不能犯(reato impossibile)とされ罪には問われません(イタリア刑法典492項),その場合には,裁判所は保安処分(misura di sicurezza)を命じることができます(同条4項)。不能犯は,当該行為については犯罪を起こす可能性がなく,問題なく無罪ですが,それでも社会への危険はある以上,裁判官は一定の処分を命じるのです。日本の刑法では,そもそも不能犯の規定がないですし,保安措置を命じるといった規定はありませんが,イタリアに歴史的に濃厚にあると思われる「新派」的な立場によれば,犯罪をする危険のある者から,いかに社会を守るかということが大事になってくるのです(刑法における旧派と新派の議論については,ぜひ刑法の専門書を読んで確認してください)。無罪であっても,起訴猶予であっても,社会を守るということが大切です。それはとくに性犯罪にあてはまることではないかということです。加害者の人権も大切というのが私の基本的スタンスですが,マスコミ報道をみながら,少しバランスをとった意見もいうべきだということで,あえて書いてみました。

201853日 請願権
 昨日,イタリアの刑法のことを語ったので,そのついでに,ぜひ紹介しておきたい本があります。それがBeccariaの『Dei Delitti e delle Pene(犯罪と刑罰について)』です。大学で法律を勉強したことがある人なら,誰でも知っているものですが,有りがたいことに,この本の訳書があります。ずいぶん前にいただいて,たぶん紹介をしていなかったと思うのですが,それがお茶の水大学の小谷眞男さんの翻訳したチェーザレ・ベッカリーア『犯罪と刑罰』(東京大学出版会)です。小谷さんには心より御礼を申し上げます。素晴らしい訳であり,解説もきわめて充実しています。
 ところで,この本のなかにBeccariaが死刑について語ったところがあります(第28章)。彼は死刑反対論者です。終身刑の支持者です(ちなみにイタリアでは死刑は憲法で禁止されています[274項])。なぜ死刑がダメなのかということが,実に説得的に論じられています。ここでは紹介しきれませんが,最も有力な論拠は,死刑では,犯罪抑止につながらないということです。
 死刑というものを,犯罪の予防という刑事政策的な観点から考えた場合(これが新派的な発想),死刑という手段のもつデメリットと,死刑により解決される政策課題との間の関係を検証するというアプローチが必要となります。Beccariaは,終身刑で長期間隷属的な状況が続くほうが,犯人に過酷なものとなり,それだけ市民に対して抑止力が働くというのです。死刑でこの世から消えることができるというのでは,本人の犯罪抑止力は弱い,ということです。[これには宗教的な背景があるかもしれません:加筆]
 Beccariaは,賢明なる君主は死刑廃止論のもつ真理性に気づくはずだけれど,それを妨害するのが中間的特権層だというのです。君主には,ローマ時代の五賢帝のような人も出てくるが,おそらく中間的特権層は徳も見識もなく,権力をほしいままにしたい存在ということなのでしょう。特権層は変化を望まず,先例を踏襲するものであり,新しい提案に耳を傾けません。Beccariaは,「もし王座にまで届くようなことがあれば,つねに傾聴されたであろう人々の率直な請願を,さえぎり押し殺してきたのは,中間層の専制なのだ!」と述べています(小谷訳)。「だからこそ,光で照らされた市民たちは,ますます熱心に君主たちの権威の継続的増大を求めているのだ」(小谷訳,100頁)。
 
君主の権威の増大をいうのは現代の感覚からはおかしいような気もしますが,当時を考えるとそうおかしいことではありません。国家の統治を社会契約的に考えた場合,ボッズブ(Hobbes)のいうような「リバイアサン(Leviathan)」が生まれますが,それをプラトン(Platon)的な哲人政治に変えるためにも,中間的な権力を排除し,権力をもつ君主を教化していくことが必要だということでしょう(この本が出た25年後にフランス革命が起きていますが,中間団体の否認が革命時の思想として重要となっています)。
 その意味で請願権というものは,ひょっとするともっと注目されてもいいのかもしれません。実は日本国憲法にも請願権の規定があります。それが16条です。長谷部恭男『憲法(第7版)』(新世社)では,「請願は,議会制度が十分に発達していなかった過去においては,被治者の意見を為政者に伝える一つの経路として機能したが,国民主権が確立し,国民の参政権が十分に保障された現代社会においては,もはや意義は有しないと考えられている」と書かれています(305頁)。
 しかし,アメリカでTrumpが登場して民主主義のプロセスに十分な信用がおけなくなりつつある現在,Beccariaのいう「光に照らされた市民たち」による請願のプロセスというのは,もっと考えられてもいいのかもしれません。CNNでアメリカの元国務長官Albrightさんが,Trump政権を暗に批判するために,HitlerMussoliniも民主主義から生まれたと言っていました。民主主義は手段ではありますが,唯一絶対的なものではないというのは,Churchillに言われるまでもなく,多くの人がわかっていることです。間違った人が選ばれたときの対策を,暗殺やクーデターのような暴力的な方法に頼るべきではないでしょう。これでは民主主義の正面からの否定です。民主主義から生まれた強大な権力を抑制するのは,最後は「知の力」であると信じたいものです。 
 翻って日本はどうでしょうか。現在の首相は,直近の選挙でも大勝し,民主的なプロセスで大きな権力をもつようになっています。側近や忖度する官僚が中間的専制者になっているとすれば賢明な市民が立ち上がらなければなりません。Beccariaなら,打倒安倍にエネルギーをかけるよりも,中間的専制者を排除して,いかにして首相を知の力で賢政に導くかを考えるべきだと言ってくれるかもしれません。憲法学者は,こうしたことは非民主的として否定するでしょうか。憲法記念日にみんなで考えてもらいたいことです。

2022年6月16日 (木)

EUの労働政策

  EUは長い目でみれば斜陽の地域であり,労働法の分野でも, EUから学ぼうという姿勢が強すぎる人が多いのはどうかと日頃から思っているのですが,そうは言っても,やはりまだ学ぶことはありそうだと思うこともあり,私の評価は揺れ動いています。とくにEUは戦略をたてるのが上手であり,たとえばデータ社会となることを見越して,GDPR(一般データ保護規則)でルール形成を主導して,競争上優位に立とうとする姿勢などは見事です。
  いま労働法の世界で最もホットなissueは,プラットフォーム労働でしょう。私もいま共同研究に着手しています。昨年12月のEUの指令案は,おそらく多くの労働法研究者がすでに分析を始めていると思います。プラットフォーム労働やフリーランス政策などで,なかなか突破口がみつからないなかで,EU労働法は,多くの研究者が参考にしようとしているでしょう。そうしたなか,濱口桂一郎『新・EUの労働法政策』(JILPT)は,最新の動向も入っていて,とても役に立つ貴重な文献です。いつも,お気遣いいただき,ありがとうございます。
 ところで,私がいま関心をもっているのは,プラットフォーム労働という新しい現象にどう斬り込んでいくかです。新たな発想が必要となるのですが,そういう問題関心からは,EUはやや保守的かもしれません。また,プラットフォーム労働は,雇われない働き方の一類型であり,フリーランス政策の一つとしても注目すべきものです(濱口さんからは『フリーランスの労働法政策』もいただき,これも大変参考になる本で感謝しております。超人的な仕事量ですね)。日本労働法学会誌の最新号でも「プラットフォーム・エコノミーと社会法上の課題」が扱われていますし,ジュリストの最新号でも「プラットフォームワークと法」が特集されており,当面は,デジタルプラットフォーム,フリーランス,EUが,労働法研究のキーワードとなりそうです。
 ところで,濱口さんからは,もう一冊,『ジョブ型雇用社会とは何か―正社員体制の矛盾と転機』(岩波新書)をいただいておりました。お礼が遅くなり申し訳ありません。先日の税制調査会でも,濱口さんのジョブ型への思いのこもった熱弁を聴いて,感銘を受けました。私の印象では,「ジョブ型」は,諏訪康雄先生の「キャリア権」と同じように,いまや「創業者」の手から離れた概念であり,各人がそれぞれ定義して使ってよいような気がします。ただいろんな人が「ジョブ型」という言葉を勝手に都合良く使って適当な議論をしていることは,「本家」としては看過できないことであり,そのいらだちは理解できないわけではありません。
 労働者の採用がジョブ限定となり,賃金も職務給になっていくという意味でのジョブ型については,政策的に誘導するかどうかではなく,DXが進むと,おのずからそうなっていきます。だからジョブ型に備えた政策を考えなければならないという点こそ重要だと思っています。ジョブ型となれば,雇用は流動化しやすいし,解雇は現行法の下でも理論的にはやりやすくなります(解雇回避の範囲が狭まるからです。もちろん,実際に解雇をどこまで自制するかは企業次第です)。この点の私見については,拙著『雇用社会の25の疑問―労働法再入門―(第3版)』(2017年,弘文堂)の第12話「ジョブ型社会が到来したら,雇用システムはどうなるか。」を参照してもらえればと思います。

 

 

 

2022年6月15日 (水)

棋聖戦

 棋聖戦が始まりました。藤井聡太棋聖(五冠)は,挑戦者永瀬拓矢王座との初戦で,タイトル戦での久しぶりの敗戦となりました。二度の千日手となるという大変な戦いとなった死闘を,永瀬王座が制しました。こういう戦いになると永瀬王座は強いです。以前にも豊島将之九段とのタイトル戦で,こういう戦いで勝っていた記憶があります。
 今日は第2局が行われましたが,藤井棋聖が勝って成績をタイに戻しました。棋聖戦は5番勝負で,1日制なので,スピーディ-に進んでいく感じがします。藤井竜王(五冠)は,叡王戦はあっさり3連勝で防衛し,この棋聖戦と並行して月末から王位戦の防衛戦も始まります。挑戦者は,豊島九段です。かつての苦手棋士でしたが,昨年は竜王を奪取するなど,最近では連勝しています。豊島九段も,ここであっさり引き下がると,もうタイトル奪取のチャンスがなくなるくらいの決死の覚悟で臨むでしょう。
 思えば,藤井竜王(五冠)は,通算タイトル獲得数でも,すでに8となっており,歴代9位タイです(豊島九段はタイトル獲得数が6,永瀬王座は4です)。もし棋聖も王位も防衛すると,通算10となり単独9位で,その上は,第18世永世名人の資格のある森内俊之九段のタイトル12で,早くもこれに近づきます。10代でここまでタイトルをとるのは驚異的です。そのうえの歴代7位は佐藤康光会長(九段)ですが,タイトル13なので,ここまでは来年中に届いてしまうかもしれません。現役では,歴代4位の渡辺明名人(2冠)が31,歴代5位の谷川浩司十七世名人が27です。ここまではちょっと時間がかかるでしょうが,20代のうちに届いてしまうかもしれません(渡辺名人はタイトル獲得数を増やす可能性はありますが)。最終的には,前人未踏の羽生善治九段の99というのがあります。藤井竜王(五冠)であれば,これを追い抜く可能性があるといっても,誰も否定はしないでしょう。羽生九段が99個目のタイトルである竜王を取ったのが47歳のときであり,それと比較すると藤井竜王(五冠)には,あと28年くらい残されていますね。

2022年6月14日 (火)

社会的責任と法的責任

 ネット情報ですが,ファミリーマート事件とセブン-イレブン・ジャパン事件の中労委命令の取消訴訟の東京地裁の第1審で,労働者性を否定した命令を維持する判決が,66日に出たそうです。判決文をみていないので論評はできませんが,どのような判断がされたのか大注目です。社会的に重要性をもつ判決文については,中労委のサイトで,できるだけ早くアップしてほしいです。またアマゾンの配達員の労働組合の結成も話題になっていますし,ウーバーイーツの配達員のユニオンの不当労働行為紛争も東京都労働委員会にかかっているようです。
 これらの動きについての,私の考え方は,すでにいくつかの媒体で書いていますが,それは要するに,労組法上の労働者性や使用者性という法的問題とは関係なく,まず企業の社会的責任として,しかるべき協議に応じて,加盟店や配達員の働く環境の改善に取り組むことが大切ということです。社会的責任が根底にあり,そのなかで法的責任とされている部分は,もちろん法的な責任をとり(その具体的な意味は,違反に対して法的なサンクションがあるということです),でも法的責任にかからない場合でも,まったく責任をとる必要がないというわけではなく,社会的責任をはたすべきであるということです。いったん裁判や労働委員会で争われるようになっても,上記のようなところをうまく取り込んだ和解ができるのがベストだと思っています。
 個人的には,現行法では,基準が明確にされず,裁判をしてみなければわからない労働者性や使用者性の問題にこだわりすぎると,かえって時間やエネルギーを空費するのであり,むしろアクションを起こすとすれば,その対象は司法よりも,立法のほうではないかと思っています。もともと労働者性や使用者性は,明快な基準で判断されるものではない以上,どう結論が出ても,どちらかの当事者に不満が残り,最高裁まで争われることになるでしょう。法的な責任にこだわるのは,私に言わせると,時代が変わって新しいルールが必要となってきているなかで,なお旧来のルールで解決を模索しようとするものなのです。個々の当事者の抱える問題を解決するという観点からは,そういう行動に意味がないとは言いませんし,私も法科大学院では,旧来のルールの下での解釈論を教えています。しかし,その一方で新しいルールを模索することも大切であり,そのことが,ひいては働いている人にとってプラスになり,またそうした人を活用して事業を営んでいる企業の持続可能性にもプラスになるのです。そうなると司法より立法となります。医学でいえば,新しい病気が現れたときに,現在の知見に基づいて,どのようにすれば良い治療ができるかを考えることも当面は重要ですが,新たな知見で治療に臨めないかを考えたいということです。
 ところで,フランスの労働法典では,2016年以降の法改正により,プラットフォーム企業に対する「社会的責任(responsabilité sociale)」として,一定の「法的な責任」を定めています(詳細は,浜村彰・石田眞・毛塚勝利編『クラウドワークの進展と社会法の近未来』(労働開発研究会)の第6章「フランスにおけるクラウドワークについての法的状況」(鈴木俊晴・小林大祐執筆)を参照)。対象となる労働者は,「travailleur indépendant」(独立労働者,自営業者)であることが明記されており,労働法典の本来の対象である従属労働者(travailleur subordonné:salarié)ではないけれど,デジタルプラットフォーム企業は、一定の「社会的責任」(労災保険の保険料負担,職業訓練の拠出金,団体権等の承認など)を負うべきであるとしています。これが私が言っている「社会的責任」と同じ意味なのかは,はっきりしません。フランス法の原理的なところは今後の研究に託すとして,いずれにせよ,プラットフォーム労働者について,労働者性がないとしても(裁判所において従属労働者として認められる余地はありますが),立法で企業に一定の「社会的責任」として具体的な義務を定めたところは大いに注目されます。
 私は,企業の「社会的責任」は,企業(会社)のもつ本来的な公共性に起因する基底的な責任であり,法的な責任は,そのなかの一つにすぎないと考えています。プラットフォーム企業の「社会的責任」の原理的根拠は,人間の労働を使って利益を上げているという点に求められるのであり,それはその労働が従属労働であるか独立労働であるかは関係ないのです(とくにICTの進行は,こうした区別をいっそう意味のないものとしています)。フランスのように立法化された部分は法的責任となりますが,そうではない部分も,なお社会的責任はあり,それについては,いかにして企業がその責任を果たすことができるようにするかを考えていくかが重要なのです(これは,私の「人事労働法」の考え方につながります)。もちろん,立法(そこにもハードローからソフトローまで多様なアプローチが含まれます)もあれば,自主規制もあるし,そういう様々な方策を視野に入れて立法構想を立てることが重要なのです。これが,まさに私が最も力を入れて取り組んでいる研究課題です(拙稿「DX時代における労働と企業の社会的責任」労働経済判例速報2451号も参照)。

2022年6月13日 (月)

電子投票の導入を早急に実現せよ

 今朝のNHKの「おはようニュース」で次の参議院選挙をひかえて,障害者の投票のかかえる問題について採り上げられていました。重要なテーマです。郵便投票の要件は厳しいようで(総務省の関連サイト),例えば私の父のように歩行が大変というだけでは,郵便投票はできないようです。父もおそらくもう何年も投票をしていないのではないでしょうか(公職選挙法施行令55条によると,居住施設によっては,不在者投票ができるところもあるようですが)。何となく見逃してきましたが,これは重大な権利侵害といえなくもありませんね。
 こうなると,いつもの話ですが,電子投票の導入です。これはどうなっているのかとググったら,総務省のHPサイトが最初にヒットしました。議論はあったようですが中断しているようです。デジタル庁がせっかくできたのですから,国民の基本的な権利にかかわる投票についてこそ,優先的にデジタル化に取り組んでほしいですね。トラブルが起きてはいけないということで,及び腰になるのもわからないではないのですが,公職選挙のようなところできちんとできるシステムを作れば,いろんなところに応用できて,行政のデジタル化も進むのではないかと思うので,そういうことをやろうというチャレンジ精神をもってもらいたいです(現行のもので何とかできるうちは,それでいこうという発想はダメなのです)。
 今朝のニュースでは,先進的な(?)自治体が,障害者への対応のマニュアルを作って対応しているということが紹介されていて,ちょっとずっこけました。もちろんないよりはるかにマシですが,マニュアルを作るという発想が,アナログ的すぎます。そもそも,マニュアルを作って事前に読むなんてことは不可能です(いつ障害者が来られるか,わかりませんし)し,障害者が来てから,マニュアルで確認しても時間がかかりすぎて,事務が渋滞してしまうでしょう。役所の発想は,危機をできるだけ事前に把握して,それへの対応を考えて,それを文章化して,現場の「兵隊」に読ませればよいと思っているのかもしれませんが,現場の「兵隊」の立場からすると,負担が重すぎますし,そもそも面前にリスクがあるという状況がないなかで,それを頭で想定してマニュアルを読んでも頭に入りません(これは,私のセンター試験の監督経験から言っていることです)。一つの対策として,動画でみせてくれるとわかりやすいというのはあります。最近では,いろんな商品の取り扱い説明書は,それだけ読んでも意味がわからないことが多くても,YouTubeで動画で確認して対応できることが多いです(一般消費者が勝手に投稿してくれているものも参考になることが多いです)。しかし,そんなことより抜本的な解決は,デジタル技術の活用です。
 選挙の障害者対応も,電子投票の導入でかなりの部分が解決するでしょう。障害者が働きやすいようにするデジタル技術を開発するというのは,今後の雇用社会における重要な課題ですが,これは電子投票にもつながる話です。これからの政策は,デジタル技術を活用することを前提に,そこで生じる問題を「走りながら」解決していくというくらいの姿勢で臨んでもらいたいです。これが私の期待している「デジタルファースト政策」です。
 最高裁判所裁判官国民審査についても,最高裁大法廷は,先日の525日の判決で,在外国民の審査を認める規定を欠いていることを違憲と判断して,立法府の不作為を断罪しました。最高裁は,「在外審査制度の創設に当たり検討すべき課題があったものの,その課題は運用上の技術的な困難にとどまり,これを解決することが事実上不可能ないし著しく困難であったとまでは考え難い」と述べて,「在外審査制度を創設する立法措置をとることが必要不可欠であり,それが明白であるにもかかわらず,国会が正当な理由なく長期にわたってこれを怠ったものといえる」とし,こうした立法不作為は、国家賠償法1条1項の適用上,違法の評価を受けるとも述べています。最高裁のいう「運用上の技術的な困難」は,デジタル技術の導入にもあてはまるものかもしれませんが,こういうものを乗り越えるべきだというメッセージが最高裁判決に込められていると思います。インターネットで投票できれば,国境を超えても問題はありません。
 海外在住者だけでなく,障害者などの移動困難者の選挙や最高裁判事の国民審査の投票について,抜本的な対応策を導入しなければ,憲法違反となりかねないのではないでしょうか(憲法学者はどのような議論をしているでしょうかね)。
 もちろんセキュリティ,本人確認など,簡単にやれることではないかもしれませんが,やれないことでもなく,しかも,やれば多くの人の公的な権利が守られるということであれば,政治家はもっと真剣に取り組むべきでしょう。現政権は,あまりそういうものに関心がないような気がしますが,「1票の格差」問題も含め,真剣に取り組んでもらわなければ,自分たちの議員としての地位の民主的正統性が揺らぐことになることを理解してもらえればと思います。

2022年6月12日 (日)

すかいらーくの新勤務時間管理方式について

 新聞報道でしか知りませんが,すかいらーくホールディングスが,アルバイトの時間管理を従来は5分単位とし5分未満を切り捨てていたのを,1分単位とすることとし,過去2年の差額分の賃金を支払うと発表したそうです。労働組合の要請を受けたものだそうですが,厚生労働省の,労働基準法上は賃金は全額払わなければならないというコメントとセットで報道されていて,すかいらーくが違法な行為を是正したというような印象を与えています。事実の詳細はよくわかりませんが,ひょっとしたら誤解があるかもしれないので,ここで,すかいらーくのケースがどうであるかとは切り離し,一般的な説明をしておきましょう。
 重要なのは,法定労働時間の枠内での通常の賃金と法定労働時間の枠を超える場合の割増賃金とで分けて考える必要があるということです。そもそも,賃金を1分単位で払わなければならないというような原則はどこにも定められていないと思います。労働者の賃金は時間給であるという誤った考え方があり,ホワイトカラー・エグゼンプションは「脱時間給」であるというミスリーディングなネーミングを付与する日本経済新聞のような立場もありますが, 法定労働時間の枠内であれば,賃金をどう定めようが,最低賃金や差別禁止規制(非正社員への均等・均衡規制なども含む)に反しないかぎり自由に決めることができます。アルバイトの時給において,5分未満を切り捨てるという合意をしておけば,それも有効となります(理論的には,民法90条により公序良俗に反すると判断されることはありえますが,結論として,そうは判断されないでしょう)。これは賃金全額払いの原則(労働基準法24条)とは無関係なのです。賃金全額払いの原則は,発生した賃金請求権を前提に,その全額を支払えというものですので,例えば3時間3分働いたのに,3時間分の時給しか支払われなかったというのは,「賃金の決め方の問題」であり,そういう契約であれば,3時間分の時給賃金しか発生しないことになる以上,3時間分の時給賃金を支払うことで,賃金を全額払ったことになるのです(ただし,きちんと1分単位で支払うかのような労働条件で契約をしている場合は,それは契約上,3時間3分に相当する賃金を支払うべきことになり,実際に契約がそのように解釈されることも多いでしょう)。「賃金の決め方の問題」は,法律マターではなく,契約・交渉マターであり,したがって,労働組合が交渉により1分単位で計算するように求めることもまた自由で,企業がこれに応じれば1分単位になるということです。そういう決め方をした以上は,今後は1分単位で計算された時間賃金を支給しなければ,全額払いの原則の違反となります。ちなみに精密に時間管理ができる場合,秒単位で支払うという合意も可能でしょう。なお,これをかりに賃金全額払いの原則とみた場合も,行政通達は独自に,1カ月単位で端数処理のルールを定めており,100円未満の端数の四捨五入を認めています。しかし,これは行政解釈にすぎず,労働基準法24条の解釈として,ほんとうに許されるかは何ともいえません。誰かが裁判で争えば,違った法解釈が示される余地もあるでしょう。通達はあくまで行政が決めた解釈にすぎず,最終的な法解釈ではありません。
 以上の話と割増賃金は話がまったく異なります。割増賃金は,その決め方について法律に縛りがあり(なお,計算方法については自由に決められるが,最終的な額は拘束されるというのが判例・行政の立場),割増賃金は時間数に連動して算定され,勝手に端数時間を切り捨てることはできません(切り上げることは,労働者に有利な扱いなので,労働基準法13条により許されます)。割増賃金にも全額払いの原則が適用されると解されているからです(この解釈には異論はないでしょう)。もっとも厳格な時間連動を求めることには無理があるということで,ここでも通達は,事務簡便のための端数処理について,ルールを定めています。ただこれはあくまで事務簡便のためのものであり,時間の端数にせよ,割増賃金の時間あたりの額を算定する際の円未満の端数にせよ,理論的には,当然に四捨五入的な扱いをしてよいというわけではありません。もっとも,どこかで区切らなければいけないわけですが,通常はコンピュータ処理がされている以上,円未満や分未満でも,できるだけ細かく計算して積み上げてほしいと考える人がでてきてもおかしくはないかもしれません(なお,以上の通達については,1988314日基発150号を参考にしてください)。
 以上のことは,法定労働時間の枠内での通常の賃金の話と枠外での割増賃金とでは,法的ルールがまったく異なるということに関係するものですが,この点について,実は厚生労働省も,疑問符がつく通達を出しています。それは,フレックスタイム制(労働基準法32条の3)の月またぎの繰り越しについて,賃金全額払いの原則違反となるというものです(198811日基発1号)。具体的には,たとえば清算期間を1カ月とするフレックスタイム制において,月の総労働時間を超過した労働をした場合,その労働時間を次期に繰り越して,次期の総労働時間を減らすという取扱いは,労働時間の貸借制としてありうることですが,法定労働時間の枠を超える場合は別として(これは法定の割増賃金の対象となる),そうでない限りは,やはり「決め方の問題」として,超過があろうがなかろうが,賃金は定額にするといった合意も有効となるのです。ところが,通達は,これが賃金全額払いの原則に反するとしています。賃金は,法定労働時間を超える時間外労働以外の部分も,時間給で計算しなければならないという法律上の根拠のないルールをもちこんでいるからです。いったい実務は,この点はどのように運用しているのでしょうか。通達には逆らえないということかもしれませんが,それなら過剰な規制となります。
 なお,ある月の総労働時間より少ない労働しかせず,次期にその分だけ余分に働いた場合,これも法定労働時間の枠内におさまっていれば,定額にする取扱いであっても「決め方の問題」として有効となるはずです。ところが通達は,これをやはり時間給の発想で,前期は過剰に支払われているとみて,翌月に定額でしか支払わなくても,前期の過払いの調整をしたという調整的相殺の考え方(これについては,拙著『最新重要判例200労働法(第7版)』(弘文堂)の第94事件の福島県教組事件を参照)で適法としています。前述したことからすると,通達の前提はおかしくて,前月の過払いもなければ,当月の過小払いもないと解すべきなのであり,ほんとうは調整的相殺の問題ではないのです(菅野和夫『労働法(第12版)』(2019年,弘文堂)の541頁を参照)。

2022年6月11日 (土)

遺憾という言葉

 連日,政府への不満を書いているようですが,言葉を大切にしてほしい,国民を納得させてほしいという渇望からくるものです。ついでにもうひとつ言いたいのは,よく使われる「遺憾である」という言葉についてです。北朝鮮の挑発にも,この言葉が使われたことがあります。今後,ロシアや中国との関係でも,いっそうこの言葉が使われるかもしれません。「遺憾」というのは,どういう意味で使っているのか,よくわからないことが多いです。よくわかっていないこちらのほうが,教養がないのでしょうか。
 私が座右に置いている(でも全部読み切れていない)本の一つに谷沢永一『知らない日本語 教養が試される341語』(2003年,幻冬舎)という本があります。その冒頭に「遺憾に思う」という言葉が出てきます。「日本語で最も悪用されている言葉である」という衝撃的な説明で始まります。遺憾とは,「思いどおりにならず,心残り,残念,惜しいことをした」という意味で,「そこにはお詫びの意味はまったく含まれない」のであり,謝罪の言葉ではないのです。また,他国の暴挙について「遺憾」を使うのはもっとおかしいことになりそうです。著者は,「日本の通用語から『遺憾』という二文字は消すべきだと思っている」とまで書いています。謝罪であれ,抗議であれ,「遺憾」のような相手に伝わらない意味不明の言葉を使わずに,「謝罪」ならきちんと謝る言葉を使い,「抗議」であれば,きちんと「抗議」や「非難」の言葉を使うべきでしょう。ミサイルをめったやたらに飛ばしてくる国に遠慮はいらないでしょう。
 最近の衆議院議員の「パパ活」問題について,与党の幹事長は,「事実としたら大変遺憾なことだ」と述べたと報道されていますが,これも言い直したほうがよいと思います。これは状況からすると,謝罪でも抗議でもないので,そうなると原義のとおり「残念だ」ということになりますが,何がどう残念なのかよくわからないので,取り方によっては,かなり問題議員の肩をもっていることになってしまいます。そういう気遣いをしているのであればともかく,そうでなければ,「遺憾」を使うのは,(政治村では通用する用語だとしても)国民向けにはリスクがあるのではないでしょうかね。

2022年6月10日 (金)

「しっかり」やっているかは国民が判断すべきもの

 以前にブログで,政府の答弁で「しっかり」という言葉を使いすぎることへの不快感を書いたことがあります。中身がないのに「しっかり」というような言葉で,前向きな感じを出しているだけのことが多いからです。昨日書いたこととも関係しますが,外面だけを着飾って,内容がないというのでは困るのです。現政権の岸田首相の答弁も,当初は,前の首相よりは良いと思っていましたが,最近は,不満に思うことが多いです。依然として「しっかり」という類いの言葉が多いです。官房長官はもっとひどいですが(名前もなかなか覚えられませんし,下を向いて話していることが多いので,顔もよくわかりません)。とはいえ,立憲民主党の国会議員が岸田首相の「しっかり」の回数を数えていたという産経新聞の記事をみて,ちょっと笑ってしまいました。1805回だそうです。この議員の言わんとしているところは,わからないではありません。もちろん,回数が問題なのではなりませんが,国民はもう気づいているのではないかと思います。内容のないスピーチは,聞かされるほうが時間の無駄です。
 イギリスのJohnson 首相は,パーティ問題で国内的には危機で,先日も与党内の信任投票にかけられて何とか乗り越えましたが,それでも彼はテレビでみる限りですが,国民に向かって語る姿勢はしっかりわかります。おそらく日本の政治家のようなスピーチをしていれば,とっくの昔に首相から引きずりおろされていたのではないでしょうか。もう一つイギリスでのElizabeth女王のスピーチを特集していたNHKの番組を観たとき,女王がここというとき国民に向かってスピーチをして,国民に勇気や希望を与えるのに(そして王室の威厳の向上に)大きな役割をはたしてきたことを知りました。スピーチの重要性は,彼女の父であるGeorge Ⅵ(ジョージ6世)が吃音であったためスピーチで悩んだ姿を描いた「英国王のスピーチ」という映画を観ればよくわかります。日本でも天皇のスピーチは,国民に語りかけようとする姿勢がみられてよいのですが,政治家にそういうのが弱いのが残念です。
 北朝鮮が何発ミサイルを撃っても,「全力で抗議する」とか「しっかり対応する」とか,そういう言葉を連発するだけです。しかも語調も力強さがなく,どことなく北朝鮮に遠慮しているようにも聞こえます。勇ましければよいというものではありませんが,もうちょっと「しっかり」しろと言いたいところです。国民は,一つ間違って日本の領土に着弾したり,漁船や航空機にぶつかったらどうなるのか,ということを心配しているのです。そういう現実的危機にさらされているという感覚を政府は共有していないように思えてしまうのです。
 「しっかり」という言葉を使うのなら,「国民の皆さんにしっかり対応していると評価してもらえるように努める」という表現に置き換えてもらいたいです。「しっかり」やっているかどうかは,自分でいうのではなく,国民に評価してもらうべきものでしょう。
 「平和のための新しい構想」も,どこが「新しい」のか,具体的に述べてもらわなければ困ります。防衛費の相当な増強って,それのどこが新しいのでしょうかね。ここでも,「新しい」かどうかは,自分でいうのではなく(側近たちの間だけで「新しい」と評価しあっているだけではなく),他人(国民や他国)に評価してもらうべきものではないでしょうか。昨日も書いたように,そういうようにしておかなければ,かえって信用を失うリスクがあることに注意したほうがよいでしょう。

2022年6月 9日 (木)

これも「人への投資」? 

 「骨太の方針」(「経済財政運営と改革の基本方針2022 新しい資本主義へ~課題解決を成長のエンジンに変え,持続可能な経済を実現~」)をみました。政策の目玉となる「新しい資本主義に向けた重点投資分野」として,(1)人への投資と分配,(2)科学技術・イノベーションへの投資,(3)スタートアップ(新規創業)への投資,(4)グリーントランスフォーメーション(GX)への投資,(5)デジタルトランスフォーメーション(DX)への投資を挙げているのは,どれも重要であり文句のつけようがありません。もっとも,その内容を読んでみると,少し違った感想が出てきます。そもそも「新しい資本主義」というネーミングが失敗でしょう。「新しい」という以上,どれだけ「新しい」かと期待させます。安倍政権時代から感じることですが,自分たちの打ち出している政策について,良さそうな形容語をつけてよく見せようとするのですが,中身をともなっていなければ,羊頭狗肉だとして,失望感を大きくするリスクがあります。
 ところで,「人への投資」というところでは,最初に,次のような文章が出てきます。

 「デジタル化や脱炭素化という大きな変革の波の中,人口減少に伴う労働力不足にも直面する我が国において,創造性を発揮して付加価値を生み出していく原動力は「人」である。自律的な経済成長の実現には,民間投資を喚起して生産性を向上することで収益・所得を大きく増やすだけでなく,「人への投資」を拡大することにより,次なる成長の機会を生み出すことが不可欠である。「人への投資」は,新しい資本主義に向けて計画的な重点投資を行う科学技術・イノベーション,スタートアップ,GX,DXに共通する基盤への中核的 な投資であるとも言える。こうした考えの下,働く人への分配を強化する賃上げを推進するとともに,職業訓練,生涯教育等への投資により人的資本の蓄積を加速させる。あわせて,多様な人材の一人一人が持つ潜在力を十分に発揮できるよう,年齢や性別,正規雇用・非正規雇用といった雇用形態にかかわらず,能力開発やセーフティネットを利用でき,自分の意思で仕事を選択可能で,個々の希望に応じて多様な働き方を選択できる環境整備を進める。」 

 経済成長を軸としたものである点は,もっと社会の持続性や国民の幸福といったものを軸としたほうがよいとは思いますが,この方針自体が,「成長と分配」をめざすものなので,「成長」に言及することは仕方がないでしょう(「成長」を強調したことで,株式市場も安心したようです)。ただ「正規雇用・非正規雇用といった雇用形態にかかわらず」は,「雇用や自営などの就労形態にかかわらず」と書くべきでしょうね。このあたりが,古くさい印象を与えます。
 ただこういう細かいことより,もっと気になるのは,この投資分野のなかで,個別の投資項目として,「人的資本投資」,「多様な働き方の推進」,「質の高い教育の実現」と,ここまではよいのですが,そこから,「賃上げ・最低賃金」と来て,最後に「「貯蓄から投資」のための「資産所得倍増プラン」」となると,どうも理解できなくなります。「最低賃金」は,「人への投資」に関係するのでしょうか。唐突に,「人への投資のためにも最低賃金の引上げは重要な政策決定事項である」と書かれています。以前にも書きましたが,賃金の引上げは,かえって人への投資にマイナスになるのではないかと思うのですが。教育への投資が生産性の向上をもたらし,それが賃上げにつながるというストーリーならわかりますが,そうなると,賃上げはあくまで政策の効果となります。それとは別に需要喚起のための賃上げというのはあるのでしょうが,それは人への投資とは違った筋の議論ではないかと思います。賃金が上がると,モチベーションが高まり,人的資本の蓄積に励みやすくなるというストーリーも考えられるかもしれませんが,そういう話なのでしょうか。
 さらに「資産所得倍増プラン」となると,「投資」の意味が変わってしまっています。「人への投資」とは無関係ですよね。
 まあ,そんなことはどうでもよく,良いことは良いのだということかもしれません。ただ,こういう関連性がはっきりしない投資目標が並べられていることに不安も感じるのです。一貫した政策方針があって,それを基にして論理的に体系づけて個々の分野の政策を展開していくということではなく,各省庁からの予算要求に対応するために,いろんなものを寄せ集め,それを一見して関連性があるように見せかける作文をして,それを「新しい資本主義」という美しい包装にくるんで,国民を煙に巻くということであっては困るのです。
 冒頭の5つの重点投資分野は,私の目にはロジカルにつながっていて,もっときれいなストーリーが書けるものです。それなのに,そういうことができていないように思えます。それは,おそらく政府が,その全体像をしっかり体系的にとらえることができていないからではないでしょうか。言葉だけが踊るというのは,近年の政府の傾向ですが,これではwise spendingができず,ただ財政を痛めるだけに終わらないかが心配です。私の理解不足で,政府の深遠な構想が理解できていないだけなら,よいのですが。

2022年6月 8日 (水)

ボクシングはPPVでの観戦でよい

 世界バンタム級の3団体統一王座をかけた井上尚弥・ドネア戦をAmazon Prime で観ました。Liveでは見逃しましたが,井上選手の圧勝という結果はわかっていたので,安心して観ることができました。モンスターはどこまで強くなるか。3団体の統一チャンピオンとなり,次は4団体の統一戦のようですね。
 と書きながら,ボクシングという殴り合いのスポーツを好むという私たちのなかには,残虐なものが潜んでいるのかなと思ってしまいました。今日,私たちが生き延びてきたのは,敵を倒して勝ってきたからなのでしょうか。そういう遺伝子が,ボクシング観戦をわくわくさせているのでしょうか。そして,ロシアとウクライナとの戦いも,そうした遺伝子のなせることなのでしょうか。せっかくの井上チャンピオンの快勝に,興ざめなことを書いて申し訳ない気もするのですが,自分のなかに,ボクシングや格闘技を観て面白いという気持ちが,前ほどはなくなってきたことも事実です。殴り合いという行為自体に,どこか違和感を感じてきているからかもしれません。
 子どものころ,テレビでボクシングやプロレスを観ていた私に,母があまり良い顔をしていなかったことを思い出します。自分を鍛えるためや護身などのためにボクシングや格闘技の練習をすることは良いと思いますが,こういう競技に対して,母のように抵抗感を示すのも,すごく健全な感覚のような気がします。
 最近,格闘技の有名な試合について,フジテレビが放映をキャンセルしたことが話題となりました。キャンセルの理由はよくわかりませんが,結果として,それで良かったと思います。格闘家たちはプライドをもって競技に挑んでおり,「子どもたちにも観てもらいたい」という気持ちをもつことは理解できますし,そのためには,地上波で無料観戦ができるほうがよいのでしょう。私も子どものときから観ていたので悩ましいところですが,この年齢になって冷静に考えれば,やはり子どもには観戦させないほうがよいなと思っています。格闘技は,それを観たい大人が,この前の村田選手の試合や今回の井上選手の試合のようにネットで有料(見放題への組入れか,PPV(Pay-Per-View))で観るということでよいのではないでしょうか(フジテレビが放映しなかった試合も,Abemaで,PPVで観戦できるようです)。
 このことと,ロシアとウクライナの戦争の話とを絡めるのは強引すぎると言われるかもしれませんが,でもこの世から暴力をなくしたいという気持ちをもつ者が増えている現状を考えると,少なくともテレビで,無料で簡単に,スポーツとはいえ,殴り合いを放送する番組はないほうがよいのでは,と思います。そして,そのほうがこのスポーツが末永く支持されやすくなり,競技者たちにも利益となると思うのです。もちろん,そういう私も,なんだかんだ言いながら,井上選手の次の試合は観戦すると思います(おそらくPPVとなるでしょう)。

2022年6月 7日 (火)

健康診断と健康診査

 法律において「健康診断」という言葉が使われることがありますが,私が不勉強なだけかもしれませんが,その定義はどうも明確ではないように思えます。 労働安全衛生法66条のように,「健康診断」の定義はされていなくても,「健康診断」として何をするかが明確になっているものであれば,そういうものを健康診断と呼ぶと考えれば済むので,「健康診断」の定義をあえてする必要はないのかもしれません。しかし,次のような場合はどうでしょうか。
 育児介護休業法は,小学校就学の始期に達するまでの子を養育する労働者に対して,子の看護休暇というものを,原則として,年間5日認めています。この休暇は,「負傷し、若しくは疾病にかかった当該子の世話又は疾病の予防を図るために必要なものとして厚生労働省令で定める当該子の世話を行うための休暇」と定義されています(16条の2)。そこでいう「厚生労働省令で定める当該子の世話」とは,「当該子に予防接種又は健康診断を受けさせること」とされています(同法施行規則32条)。「健康診断」という言葉が出てくるので,そこでいう健康診断がどういうものであるかがはっきりしなければいけません。常識的には,健康診断とされるものの範囲は特定できるのだと思います。ただ若干気になるのは,母子保健法に基づく「健康診査」が「健康診断」に含まれるのかです。いわゆる一歳半児検診や三歳児検診については母子保健法121項では「健康診査」とされており,男女雇用機会均等法12条でも「健康診査」という言葉が使われています。もし「健康診査」と「健康診断」が別の概念であるのであれば,「健康診査」のために子の看護休暇をとることはできないことになってしまいそうです。
 ネット上は「健康診断」と「健康診査」は根拠となる法令によって言葉が違うだけで内容は同じという情報が飛びかっているようであり,おそらくそういうことなのかもしれませんが,その根拠はよくわかりません。
  同じ労働法の分野の法律なので,まぎれがないようにするためには育児介護休業法施行規則にいう「健康診断」には母子保健法上の「健康診査」も含むという括弧書きを入れておいてもらえればと思います。
 前から男女雇用機会均等法の説明をする時に,12条に軽くふれて,女性労働者の保健指導と健康診査に必要な労働時間の確保することができるようにしなければならないという規定があると説明はしていました。そのときに「健康診査」という言葉への違和感(これはどういう意味であろうという,かすかな疑問)はあったのですが,あまり突き詰めて考えていませんでした。
 

2022年6月 6日 (月)

日経新聞にインタビューで登場

 今朝の日本経済新聞の電子版の「オピニオン」欄で,編集委員の水野裕司さんの「解雇の金銭解決,日本も動き 柔軟な設計で新陳代謝促せ」というタイトルの記事が掲載されています。そのなかで私たちの『解雇規制を問い直すー金銭解決の制度設計』(2018年,有斐閣)もとりあげていただき,編著者である東大の川口大司さんと私の発言が紹介されています。政府の金銭解決とは違った方向で,抜本的な解雇規制を提言した私たちの問題提起に関心をもっていただけたのは,たいへん有り難いことです。この本は,いろんな意味で実験的な本であり,内容も少し難しいところがあるかもしれませんが,きちんと説明をする機会さえ与えてもらえれば,一般の人にも理解できるものだと思っています。水野さんも,しっかり質問してくださり,うまく読者に伝えるよう努力してくださったと思います。一研究者としては,私たちの提案が労政審などで採り上げられるかどうかは,どうでもよい話ともいえるのです(研究者としての評価が高まるわけでもありません)が,一国民としては,きちんとした私たちの提案に向き合ってもらわなければ困るという気持ちが強いです。私たちの提案した法制度をそのまま導入すべきであるといっているわけではなく,そこで示している考え方をふまえて,制度設計の検討をしたほうがよいということなのです。その時期が早ければ早いほど日本の経済にとってプラスになり,後れれば後れるほど,制度導入に混乱と困難が生まれやすくなります。次の参議院選挙の結果次第かもしれませんが,その後のしばらく選挙がない時期に,ポピュリスティックな議論から距離を置いて,解雇法制も改革を進めておくことが必要です。安倍政権のときにも同じような時期があったのですが,政府はうまく制度設計づくりに取り組めませんでした。「解雇イコール労働者への不利益」という固定観念を壊し,金銭解決を労働者の保障制度に組み直すこと,具体的には,企業は十分な金銭補償をすれば解雇できるが,それができないかぎりは解雇してはならないというところがポイントなのです。しかも,労働市場の流動化が進むと,解雇による逸失利益は減り,金銭補償額も低減することになり,そういう方向へと労働市場の構造改革を進めることが必要であるというメッセージも同書には含まれています。解雇法制は,労働市場改革の最も基礎になる部分です。ここにきちんと取り組まなければ,他のところを,どういろいろいじっても大した成果は出ないでしょう。そろそろ政治家や政策担当者は,このことに気づくべきでしょう。厚労省も,労政審とは別に,若手官僚を集めて,現在同省がやっている議論とはまったく別の解雇規制改革プロジェクトを立ち上げてみてはどうでしょうか。若手にとっても,非常にやりがいのある仕事になると思いますが(余計なお世話ですね)。

 

2022年6月 5日 (日)

シビリアン・コントロールの重要性

 NHKプラスで2009年に放映されたロシアとグルジア(ジョージア)との戦争を扱った番組を観ました。旧ソ連の構成国であったジョージア(グルジア)との紛争は,同じような立場にあるウクライナとの今日の紛争を考えるうえで参考になるものでした。まさに同じことが繰り返されているのですね。ジョージア内におけるロシア人の独立派(南オセチアの人)が弾圧されているので,それを救うために軍を出すという大義名分があり,その背景には,ジョージアが西側寄りとなりNATO加盟の可能性があるという点などは,ウクライナの状況とよく似ています。すでに旧ソ連からの独立国ではバルト3国がNATOに加盟していますが,これら小国と異なり,ウクライナは大国であり,その影響ははるかに大きいものです。ロシアは,国内の独立派と戦ったチェチェン紛争では制圧に時間がかかり軍の弱体ぶりを示してしまいましたが,Putinは軍の強化を図ってきました。その成果をウクライナ侵攻でみせようとしたのかもしれませんが,思わぬ長期戦になってしまったようです。ただPutinにしてみれば,ロシアを守るためには,ロシアと国境を接するところにNATO加盟国が次々と登場することは避けなければならず,とりわけウクライナは兄弟国として特別な関係がありましたから,もはや撤退できないのでしょう。
 Putinは愛国教育をし,すぐれた軍人を育成することに力を注いだようです。軍隊の立て直しをし,クリミア半島の占領などの成果(?)もあげてきました。今回も精鋭部隊を投入すればあっというまにウクライナを降伏させることができると考えていたのかもしれませんが,そうは行きませんでした。この戦争のこれまでの戦争との違いは,戦争状況が動画付きで逐一世界でながされていることです。ロシアは国内ではマインドコートロールに成功したかもしれませんが,国外ではそれは通用しません。ウクライナに次々と最新の武器が供与され,またエネルギーや食糧に影響が出ても,できるだけ耐えようというムードが世界中に広がるなか,ロシアの勝機はどんどん小さくなっている感じがします。それに中国問題もあります。アメリカは,ロシアの行動が,中国の今後の行動に影響するとみているので,ロシアが破滅的な行動をとらず,しかし勝利を収めることもないように,この戦争を収束させたいと思っていることでしょう。もっともアメリカに,そうした戦争の終結のシナリオを実現できるだけの力があるかは疑問符も付きますが。Trump時代のつけで,ロシアだけでなく,アメリカも信用できないと考えている国は世界でも少なくないでしょうから。
 軍事力の強化を進めてきたロシアにとって,何か紛争の種があれば軍事力で解決しようとする発想になるのは避けられないことであったのかもしれません。不幸にもそれに連動して世界は,平和維持という名の下に,軍拡競争の流れに飲み込まれようとしています。フィンランドやスウェーデンのような国まで巻き込み,そしてついに日本も同じ流れに乗ろうとしています。冷戦時代,ソ連が北海道や九州に上陸してくるという声が自衛隊関係者からさかんに出されたことがありました。最近再び,中国,ロシア脅威論から,同様の声が上がってきています。自衛隊関係者には,彼らなりの論理があるのでしょうが,それが暴走すれば危険であるということは,過去の教訓から私たちは学んでいるはずです。シビリアン・コントロール(civilian control:文民による軍隊統制)の重要性は,どんなに強調してもしすぎることはないでしょう。ロシアのような実質的にシビリアン・コントロールのない国になれば,独裁者の意向で,優秀な若者が(自身の希望によるとはいえ)軍人に仕立て上げられ,戦地に送られて殺されたり,生き残っても,戦争犯罪人の汚名を着せられながら処罰されたりするのです。愛国の名の下に,大事な子どもを差し出さなければならない悲劇を繰り返してはなりません。国防をどう考えるかは国民的な議論が必要です。国防を強化するのなら,シビリアン・コントロールの砦となる防衛大臣には,棒読み大臣ではない,きちんとした人をつけることは必須でしょう。自衛隊に対して,是々非々で臨み,ときにはイヤなことも言えるような人がトップにいることが保障されなければ,自衛隊強化論には危なくて乗れません。

2022年6月 4日 (土)

「再会のマルゲリータ」

  「ちむどんどん」は第8週目が終わりました。主人公の暢子がイタリアンレストランのコックになるというストーリーで,イタリア料理の話がたくさん出てきて楽しめています。原田美枝子(最初は藤真利子と思い込んでいました)が演じるイタリアン・レストラン「Alla Fontana」のオーナーがイタリア語を上手に話しているところもびっくりしました。もし1から学んだのであれば非常に良いトレーニングを受けたのでしょうね(そういえば,三線も,子役の子も含め,出演者が上手に弾いていました。特訓したのでしょうね)。
 あのGirolamoも出てきてびっくりしました。イタリア人というと彼しかいないのか,とツッコミを入れたくもなりましたが,シリアスな演技を頑張っていました。彼が演じるAlessandro Tardelli が,新聞で連載されている「最後の晩餐」に登場して,最後に食べたい食事としてPizza Margherita を選んだところも,非常によいです。Pizza Margherita は,Pizzaの鉄板で最も基本的なものなのです。ドラマでは,Milano出身のTardelliが,なぜNapoli名物のPizzaかという疑問を提起し,Tardelliが,戦後,日本で抑留されて帰国できず,アメリカ軍のために働いていたという話にしました。Pizza Napoliからアメリカに行って,アメリカ風のPizzaが世界に広がっていくわけです。TardelliがなぜPizzaかという説明も納得でき,そこに日本人とのラブストーリもくっつけています。ベタな話で,ストーリーも見え見えの強引さはありますが,朝ドラはこれくらいのほうが安心できて良いです。
 子どものときに沖縄に来ていた和彦が新聞記者になって暢子と再会するのですが(これもちょっと強引な話です),沖縄から彼女を追ってやってきた智(→修正しました)と三角関係になるのか,暢子たちのお父さんと鶴見という場所の関係はどうなのか,ろくでなしのお兄ちゃんは,最後は成功してほしいですが,どうやってそれが実現するか。おそらく今後も強引な話が展開されていくと思いますが,それでも十分に楽しめている私は,たぶん非常に単純な人間なのでしょうね。

2022年6月 3日 (金)

みずほの裁量労働制廃止に思う

 昨日の日本経済新聞で,みずほ銀行が,企画職に20年前から導入されていた裁量労働制を廃止するという記事が出ていました。裁量労働制が,過重労働を引き起こし,行員の働きがいを奪っていることが理由のようです。
 導入されていたのは裁量労働制のなかの企画業務型裁量労働制(労働基準法38条の4)だと推察されますが,今回のみずほの動きが,大企業における企画職における裁量労働制の「失敗」を意味するものであれば,これは労働法的にも注目すべきものとなります。裁量労働制,とりわけ企画業務型裁量労働制はもともと評判がよくないところがあり,やっぱりこういう制度はないほうがよいという議論になっていかないかが心配です。
 注意すべきは,この銀行の企画職が,ほんとうに裁量労働制に適した業務をしていたのか,です。労働基準法上は,企画業務型裁量労働制について,「事業の運営に関する事項についての企画,立案,調査及び分析の業務であつて,当該業務の性質上これを適切に遂行するにはその遂行の方法を大幅に労働者の裁量に委ねる必要があるため,当該業務の遂行の手段及び時間配分の決定等に関し使用者が具体的な指示をしないこととする業務」を対象とするとしています(同条11号)。みずほでは,もしかしたら「当該業務の遂行の手段及び時間配分の決定等に関し使用者が具体的な指示をしない」というような働き方になっていなかったのかもしれません。もし,そうだとすると,裁量労働制は,企業が,割増賃金(労働基準法37条)を支払わずに長時間労働をさせることが可能なシステムにすぎないものとなります。本来,そうならないように,厳格な要件(労使委員会の5分の4以上の多数で,所定の事項についての決議をして,労働基準監督署長に届け出ることなど)が導入されているのですが。
 私は裁量労働制については,こうした厳格な要件があるため,使い勝手が悪いので見直しが必要だという主張と並んで,この制度を導入しても,日本ではこれに適したプロ人材が少ないことが問題だという観点からの懸念も表明してきました。自らの裁量で業務を遂行し,賃金は成果で評価して決めてもらうという人材がもっと増えなければならないのですが,そういう人材が少ないので,日本企業の競争力は高まらないのです(類似の問題意識で,かつて現代ビジネスに寄稿したことがあります。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55457?imp=0)。
 みずほも,結局は,企画業務型裁量労働制にふさわしい人材がいなかったということなのでしょうかね。時間管理(さらに健康管理)をきちんとできるだけの裁量が与えられていない労働者が,割増賃金のない働き方をさせられるとなると,働きがいがなくなってしまうのは当然でしょう。ほんとうは,その逆に,時間管理も健康管理も自分でやるから,しばられない働き方をさせてほしいという人材を多く抱えなければダメで,そのためにも現在の法規制は厳格すぎるという声が企業のほうから出てきてほしいのですが,今回のみずほの動きは,その逆のようです。
 そう思ってしまったのは,日本経済新聞で連載されていた「みずほリセット100日」を読んだからでもあります。記事で指摘されていたのは,閉鎖的な企業風土,「言うべきことを言わない,言われたことだけしかしない」行員たち,社内のデジタル化やデジタル戦略の遅れ,取引先への上から目線,出世のモチベーションが専用車のあるポストにつくこと,情報システムという基盤技術をベンダー任せにしていること,文系出身で占める経営企画部の力が強く,ポストは年次で決まる要素が強いことといった数々の大企業病でした。もちろん,その解決に挑んではいるものの,記事をみるかぎり,なかなか結果が出そうにありません。おそらく,これはみずほだけでなく,他の業界も含めた大企業に共通する問題であり,また役所にもあてはまるものでしょう。上記のような大企業病があるかぎり,優秀な若者は逃げていくでしょう。
 裁量労働制の廃止という時代に逆行する動きのなかに,本来なら従業員のやりがいを高めるために活用可能な裁量労働制を使いこなすことができなかった企業の「未来のなさ」が現れているように思います。

2022年6月 2日 (木)

就活学生へのエール

 昨日の話の続きですが,学生にとって,就活が人生の一大イベントでなければよいのになあ,といつも思っています。たしかに,就職は学生にとって大きな出来事ではありますが,今後,人生で何度も転職しなければならないかもしれません。そもそも人生100年時代は,仕事をしたり,勉強をしたり,ボランティアをしたり,育児や介護をしたり,というような時期を何度も行ったり来たりすることになります。仕事をする時期は,その一部であり,今後は人生のなかに占める割合が徐々に減っていくでしょう。
 そうは言っても,学生は,目の前のことに必死で,藁にもすがる思いで,就活を助けてくれる人を頼ってしまうことがあります。それでうまくいけばと願いますが,これまた老婆心ながら,落とし穴がないかは,よくよく注意をしてもらえればと思います。
 労働基準法6条には,「何人も,法律に基いて許される場合の外,業として他人の就業に介入して利益を得てはならない」という規定があります。他人の就業に介入して(業として)利益を得る行為は,歴史的にみて,人権侵害が起こりやすかったから,こういう規定があります。今日では,職業安定法できちんと(厳しすぎるくらい)規制しているので心配ないかもしれませんが,それでも自分の就職に誰かがビジネスで関与してくることには,どこか危険なところがないかという「危機アンテナ」は張っておいたほうがよいです(自分がお金を払っていなくても,企業側が払っている場合は,それでビジネスとして成立しているし,自分が金蔓にされている可能性はあるのです)。
 もちろん仲介というビジネスは,うまく機能すれば素晴らしいものです。見ず知らずの人をとりもってマッチングするというのは,今後はAIが進出してくる可能性があるとはいえ,やりがいのある仕事であり,社会的価値の高いものです。でも,これも人によります。
 私は雇用仲介サービスを利用した経験はありませんが,賃貸住宅などの仲介サービスは何度か経験があります。物件への不満というのはあまりもったことはないですが,仲介段階で,きちんとした情報提供を受けることができなかったという不満はよくもってきました。実はそれは良い面に転んだときと悪い面に転んだときの両方があるのですが,いずれせよ情報不足のなか,入居してどちらに転ぶかわからないというような状況が残るようでは,良いマッチングとはいえないでしょう(良い面に転んだときは,貸主や売主のほうが,もっと価格を高く設定できたかもしれないという点で損をしており,それも客観的にみれば良い仲介ではないでしょう)。仲介者の方は責任感と倫理観をもって,プロとしてのスキルで,良い仲介をしたと自信をもてるような仕事をしてもらいたいですが,住宅の仲介には物足りないことが多かったのです(例外もありましたが)。就活でのサポートも同様で,もし企業を紹介するのであれば,その紹介先の就業規則の内容を十分に把握しているのは当然のことですし,これにプラスして社風,従業員の男女別の平均勤続年数,年次有給休暇や育児休業などの取得率や平均の所定外労働時間数(青少年雇用情報も参照),過去の労災認定の数(およびその内容),過去の労働裁判の数(および紛争の内容),学閥の有無などの情報もあれば学生には役立つでしょう。単なる数字だけでなく,実態的なところまで伝えてもらう必要があります。入手が困難な情報も多いでしょうが,ほんとうのプロなら,この程度の情報はもっておくべきです。もちろん学生は情報を数多く与えられても,悩んでしまうことが多いでしょう。そこでうまくサポートできてこそ,プロの仕事なのです。
 就活は,これからの長い社会人生活の第一歩にすぎません。それでも,良い企業と出会えて,良い門出ができるに越したことはないのであり,就活学生たちにエール(yell)を送りたいです。

2022年6月 1日 (水)

面接解禁

 6月になり,朝のテレビ体操も内容が変わりました。今日からコロナ関連の規制も緩まったようであり,自粛していた宴会を再開しようとする動きが出てきているようです。しかし,私は,大人数の宴会には参加する勇気はまだありません。マスク着用で食事をするのは気が進まないですし,でもマスクがなければ怖いですし,席の間の距離を置いてくれればよいですが,それなら会食という感じにはならず,大声を張り上げて話すとなると,感染リスクが高まるなどと考えていると憂鬱になります。懇親を深める会というものの必要性は否定しませんが,デジタル時代における新たな懇親のあり方というものはないのでしょうか。
 61日は,採用面接の解禁日でもあります。経団連は,すでに就活ルールを廃止しているので,これは政府が定めたものです。昨年11月に発表された政府の「2023 年度卒業・修了予定者の就職・採用活動日程に関する考え方」によると,従来の就活ルールを踏襲して,広報活動開始は,卒業・修了年度に入る直前の3月1日以降,採用選考活動開始は,卒業・修了年度の6月1日以降,正式な内定日は,卒業・修了年度の10月1日以降となっています。違反しても法的制裁があるわけではありませんが,多くの企業は従っているでしょう。
 学生は,いまだに従来型の就活をしている人が多いようですが,そういう方法で就職して,10年後にその会社に残っている可能性は低いのではないでしょうか。いつも言っているように,企業の求める人材は変わりつつあります。「いま,あなたを必要としている」という企業に入っても,機械に代替するまでの一時的な雇用かもしれません。問題は,そうした時限的な需要であることについて,企業も人事担当者も実感していないところです。騙そうとしていれば,良心の呵責もあるでしょうが,心底から企業の永続性を信じて,そしてその組織に学生を迎えたいと思っているところが厄介です。デジタル代替は起こるのであり,起こらないような企業は沈没していきます。それなりの企業に就職すれば,親も喜ぶし,友だちも優秀な人がいるでしょうし,組織もしっかりしていて帰属感もあるでしょう。でも企業は営利組織です。人材は,「人財」などと持ち上げられても,しょせんはコマにすぎません。株主構成が変わり,経営者が変わると,企業文化が激変する可能性があります。企業とは,そのようなものです。幸いにも,そういう荒波に飲まれないで安定的に成長していく企業もあるでしょう。人本主義を貫徹できるような企業もあるでしょう。でも,その数はそれほど多くないと考えておいたほうがよいのです。私なら,学生たちにそうアドバイスします。結局のところ,いちばん大切なのは,自分はどのような形で社会への貢献ができるかということです。企業に雇用されるというのは,その方法の一つでしかありません。企業に雇用されるというスタイルが肥大化してしまっている社会は異常であるという感覚をどこかでもっておいたほうがよいです。あたかも確立した制度のようになってしまいっている就活のスケジュールに乗ってしまう前に,自分の人生設計をしっかり立てて,自分主体で就活スケジュールを立てなければ,あとで後悔することになるのではないかと,老婆心ながら学生たちに伝えておきたいです。

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