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2022年5月13日 (金)

『コリーニ事件』

 ロシアは,ウクライナ侵攻の大義名分として,ウクライナのネオナチをやっつけるということを挙げています。もちろん,これはこじつけなのでしょうが,ネオナチやナチスという言葉が,ここで使われるのは,なおこの言葉が強い意味をもっているからでしょう。ナチスへの恐怖や憎悪が,ロシア人の中から消え去っていないからかもしれません。
 Prime Videoで,「コリーニ事件」(原題は,「Der Fall Collini」)というドイツ映画をみました。映画の内容はフィクションですが,史実に基づいたものだそうです。以下,ネタばれあり。
 ドイツのホテルのスイートで,大物実業家で富豪であるMayerが拳銃で射殺されます。犯人は,イタリア出身でドイツ在住の老人Colliniでした。Colliniは逃げもせずに逮捕されますが,その動機を語りません。弁護を引き受けたのは,母親がトルコ人で,弁護士になったばかりのLeinenでした。Leinenは,Mayerに息子のように大事にされて育っていたため,そのMayerを殺した男の弁護をすることに最初は躊躇していましたが,弁護士としての責任から引き受けます。黙秘を続けるColliniに手を焼くLeinenでしたが,彼が殺人で使った拳銃が,Mayer家で見覚えのあったのと似ていたことから,彼は事件の手がかりをつかもうとします。Leinenは,Colliniの出身地であるToscana 地方のMontecatiniに行きます。そこで知ったのは,Colliniの父親が,ナチスの親衛隊であった若き日のMayerに無残に銃殺されていたことでした。しかも,Colliniの父親は,まだ子どもであったColliniの目の前で殺されたのです(このシーンが何度も出てきて,つらいものでした)。Colliniは,Mayerに復讐したのでした。ただColliniは,実は,姉と一緒に,Mayerを戦争犯罪者として告発していました。ところが,刑事事件にはなりませんでした。その理由は,Dreher(ドレーアー)法にありました。この法律により,ナチス親衛隊の犯罪は時効によって救われたのです。そこではちょっと難しい議論が出てくるのですが(私もよく理解できているわけではありませんが,詳しくはドイツ刑法の専門家にお聞きください),ドイツにおいて殺人は謀殺と故殺とに分けられ,ナチス幹部の殺人は謀殺(快楽殺人など)として重罪であるが,その共犯である幇助者は謀殺にあたらず,故殺にとどまることになりました。故殺となると,時効期間は謀殺よりも短くなり,ナチスの親衛隊たちは,これにより刑を免れることができたのです。Leinenは,この裁判にMayer側の弁護士として参加していたMattinger(刑事法の大学教授で,Leinenも教わったことがありました)から,あまり真相を暴かないようにという圧力を受けるのですが,Leinenはそれに屈しません。Mattingerは,法廷では,Mayerが戦争犯罪としては無罪とされていたことを強調して,Colliniの情状酌量を認めないような主張をしていたのですが,Leinenは,Mattingerを法廷で証言に立たせ,Dreher法の不当性を認めさせました。こうして,戦時時に行われた合法的な行為をした者に私的制裁を加えたという検察側の主張は崩れ,実は違法な行為をしていた者が不当な法律により救われていたことが浮かび上がり,どのような判決になるかが注目されていたのですが,裁判は最後の段階で,Colliniの自殺で終わります。家族のいない彼は,父の復讐を遂げて,人生の目的を達成したと考えたのかもしれません。
 ナチス親衛隊が,それを救う法律によって守られていたことに驚きました。身分なき幇助犯への必要的減刑(謀殺から故殺へ)という一般人にとってはおそらく理解できないような議論で,ナチスの犯罪が合法的に闇に葬られようとしていたことの恐ろしさと,それをあえて明るみにだして断罪しようとした本映画や原作者の良心に,ドイツ人の二面性が感じられます。私的制裁が許されないのは当然としても,法が制裁を与えないとき,被害者の遺族はどうしたらよいのでしょうか。私的制裁や自救行為を禁止した国家が代わりにそれを行うという責任を放棄したとき,個人の私的制裁はおよそ禁止されるべきでしょうか。映画では,Colliniは自決したことから,自分にも制裁を与えたのです。こうした私的制裁の連鎖を防ぐためにも,刑事法というものの果たす役割がきわめて大きいことを,改めて認識させる映画です。
 ところで,ナチスの問題は,いまなおドイツ人の若い世代においては,重くのしかかっているのかもしれませんが,その一方で,ナチス親衛隊の子孫もいます。子孫には,何も罪がないのです。この映画でも,Leinenは,かつての恋人であったMayerの孫娘のJohannaに,そう語りかけます。誰もが,あの時代に生まれていれば,親衛隊になりかねなかったのです。だから独裁者を生まないようにすることこそが,何よりも重要だというのが歴史の教訓です。そういう点からは,元の話に戻ると,ナチスの亡霊はなおさまよっています。ナチスの脅威を語りながら,自身が一番ナチス的な行動をとる者がいるのです。欧米諸国や日本は,Putinに対して甘すぎたのではないかという反省が必要でしょう。そして,二度とこうした独裁者が現れないようにするためにどうすればよいかを,日本人も真剣に考えていく必要があります。独裁者の及ぼす災厄は,私たちのすぐ近くに迫ってきているかもしれないのです。

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