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2022年5月 3日 (火)

憲法記念日に思う

 施行から75年が経った日本国憲法をめぐっては,改憲勢力を勢いづかせるようなロシアのウクライナ侵攻があり,その見直しも視野に入れて議論しようとする意識が国民の間でも広がりつつあるようです。この機会に憲法に向き合って,自分たちの国のことを真剣に考えてみることは大切です。
 憲法は,それほど長いものではないので,一度,しっかり読んでみるのもよいのですが,いきなりつまずいてしまうかもしれません。
 本則の最初にある第1条は「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く」と規定されています。このように天皇の地位は,日本国民の総意に基づくのですが,この「総意」とは何なのでしょう。天皇を日本国民統合の象徴と認めない人が増えれば,天皇の地位はどうなるのでしょうか。あるいは象徴と認めよ,ということを憲法が定めているのでしょうか。そうなると,憲法自体が,19条で保障している思想・信条の自由を侵害していることになります。
 このように憲法を前から読み始めると,いきなり天皇制にぶちあたります。憲法と向き合うためには,天皇をめぐる議論をタブー視しないことが大切です(私は別に,ここで天皇制を見直せということを言いたいわけではありません)。
 それはさておき,憲法は人権を保障するものであり,とくに重要なのはマイノリティの人権だということが,よく言われます。民主主義社会においてマジョリティの意思により法律が制定され,執行されていくという権力構造のなかで,マイノリティの自由を守るのが,法律より上位にある憲法の役割であるということからすると,マイノリティの人権と憲法は密接な関係にあるといえるでしょう。
 人権の本来の機能は,政府が国民の権利を侵害しないようにすることにあります。人類は,社会をうまく動かしていくために,誰かに統治を委ねるということをしてきたのですが(動物の世界でも,いろいろな形でリーダーやボスがいて,その集団の安全と持続的発展のために尽くす役割をしています),そのために必要となる「権力」がときに濫用されてきたという歴史にかんがみ,権力を抑制するために,国民主権を明確にし,権力は法律に基づいて行使されるものとしたのです。法律を制定する国会を国権の最高機関とし,その国会は,全国民を代表する選挙された議員で組織されるものとし,内閣は国会で制定された法律を誠実に執行し,裁判官は法律に拘束されます。このように国家権力の行使は,究極的には,国民が選挙をとおして国会議員にゆだねているといえるのですが,絶対君主でなくても,権力がきちんと行使されないことがあるので,憲法というものが最高法規として君臨することになり,これに反する法律は効力を有しないものとされています。
 憲法のことを考えるとは,こうした統治構造の特質と,そのなかでの権力の濫用による人権侵害の危険性を考えることと同義であり,現実の政治の動きをきちんとチェックするということから始めなければなりません。たとえば政治家がやろうとしている憲法改正は,自分たちを縛る最高法規を動かそうとしていることですから,そこに不当な動機がないかは厳重にチェックする必要があるのです。最終的に国民投票で決着をつけるとはいえ,昨今のロシアの動きをみると,住民をうまく情報統制して投票を操作しようとすることがあるのであり,立憲民主党が広告規制に神経をつかっているのは,わからないではありません。
 話を戻すと,人権の意義が国家権力からの防御にあるとすると,私たちの社会におけるマイノリティ差別のような問題は,広い意味での人権問題であると呼ぶことはかまわないものの,やはり本来の人権問題とは区別したほうがよいと私は考えています。たとえばLGBTQは,法律により明示的に差別対象となっているものではないので,むしろ社会の道徳的な成熟度の問題という面が強いと思っています。もちろん,たとえば同性婚などの問題は,法律問題ではあるのですが,それは憲法論として「上から」論じるべきものではなく,私たちの社会の価値観をベースにしてマジョリティの価値観を変えながら実現していくべき問題ではないかと思っています。個人の尊重は憲法13条にも規定はありますが,これは憲法でそう書いているから守るべきなのではなく,基本にあるのは個人が人間として守るべき道徳であり,それを憲法で実定化しているにすぎないとみることもできるのです。
 この視点が重要なのは,憲法は法律による人権侵害を危険視していることからすると,個人どうしの間にある逸脱行為については,できるだけ法律に頼らずに,社会の構成員である一人ひとりの道徳的成熟により対処することを目指すべきという方向性を明確にできることです。国会議員を信用するなとまでは言いませんが,権力の危険性は忘れてはならないことです。これこそが憲法の教えなのです。もちろん,こうした憲法観は古くさいもので,憲法は法律を超越したものなので,積極的に私人間にも適用して,憲法の理念を浸透させていくべきであるという議論のほうが,いまでは普通の考え方なのかもしれません。しかし,私は道徳で対処できる問題を憲法問題にまで拡大するのは,憲法の本来はたすべき使命をあいまいにしてしまい,過剰に国家権力に「頼る」という意識を広げてしまわないかを懸念しています。前述のLGBTQに対する差別という問題も,憲法問題として取り組むよりも,個人の多様性を重視する個人の意識の向上をいかにめざすかという視点で,法ではなく道徳の問題として扱ったほうがよいということです。道徳教育は,どうしても国民の思想・良心の自由を侵害する懸念から,積極的にその重要性を指摘することに警戒感があるのは,よくわかるのです(なお,現在の道徳教育についての内容や影響については,十分な情報がないので,まだ私にはよくわかっていません)が,法も道徳も社会統制の規範であり,法学教育があるのであれば,道徳教育もあってしかるべきだと思います。国家による道徳教育の暴走の危険性を抑制しながら,いかにして民主的なルールという危ういもの(権力の正当化)に乗せずに,私たちを自律的に良き行動に導くことができるかということを考えていく必要があります(そのためにも道徳を共有しにくい分断社会にならないようにすることが重要です)。以上は,憲法の限界を考えようという議論です。
 もう一つ憲法というと,平和があります。国家権力と人権の関係を上記のように考えると,他国の侵略により人権を侵害されるというのは,本来,憲法問題ではないことになります。ただ日本では,必ずしもそういうことにはなりません。
 どのようにしたら平和を実現できるかは,憲法では答えを出せない問題であり,それゆえにみんなが自らの頭で考えていかなければならないのですが,そのときに想起されるのが,やはりカントの永久平和論でしょう。カントは常備軍の廃止を唱えています。常備軍があるということは,臨戦態勢であるということであり,他国に脅威を与えてしまい,これでは平和は遠のきます。現在,ロシアのウクライナ侵攻で自国の防衛の重要性を唱える意見が高まってきており,自衛隊の増強論も出てきそうです。しかし憲法をみると,その第9条は,永久平和への高らかな宣言でした。自衛隊の存在は,他国からみると常備軍であり,憲法9条との整合性は普通に考えれば否定されることになりそうです。だからといって憲法9条を改正すべきかというと,そこはなお疑問で,理想としての9条はあってよいという意見もあるでしょう。カントも理想主義的すぎるという批判を受けたそうです(カントの考え方を継承している国際連盟は失敗に終わり,現在の国際連合も,危機的な状況になってきています)。自衛隊に批判的な意見は,現実の脅威の下にかすみつつあるようですが,そういうなかで,日本の安全保障のあり方について,憲法9条のもつ理想主義と現実の折り合いをどうつけるかという難問に,とくに若者たちに真剣に取り組んでもらえればと思っています。

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