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2022年5月の記事

2022年5月31日 (火)

名人戦終わる

 名人戦は,渡辺明名人が勝って,41敗で防衛しました。これで3期目の名人です。永世名人まで,あと2期です。届くでしょうかね。斎藤慎太郎八段は残念でしたが,力負けでした。斎藤八段は,渡辺名人や永瀬拓矢王座を苦手にしている感じで,ここを乗り越えなければなりませんね。今期は藤井聡太竜王(五冠)がA級に上がってきますが,藤井竜王の名人挑戦を阻む候補には,永瀬王座,豊島将之九段と並び,藤井竜王を苦手にしていない斎藤八段の名も挙げられると思います。
 王位戦では,先ほど,豊島九段が,挑戦者決定戦で,池永天志五段を破って,藤井王位への挑戦を決めました。昨年に続いて,2年連続の挑戦です。3期前に木村一基九段に奪われた王位を奪還することができるでしょうか。
 将棋界では,谷川浩司十七世名人の襲位に続き,大きなニュースとして,里見香奈女流四冠が,棋王戦で予選を女流棋士としては初めて突破したことがあげられます。神戸大学卒の古森悠太五段に勝って,決勝トーナメント進出です。将棋界では,予選を突破しただけでビッグニュースとなるくらい女流棋士と(男性)棋士との間の格差は歴然としていますが,ようやく里見女流四冠ともう一人の西山朋佳女流二冠という傑出した女流棋士が出てきてからは,差が縮まってきた感じがします。ベテラン棋士とこの二人とが対局すると,事前予想では,この二人のほうが勝つと予想できる場合が増えてきました。
 とはいえ,この二人とも,いったんは奨励会に入り三段リーグまで行ったものの,あと一歩のところで棋士になることを断念した過去があります。ただ,棋士になるには,このいわば正規(?)ルートとは別に,公式戦で, 10勝以上して65分以上の勝率をあげていれば(どこから数えてもよい),棋士編入試験の受験資格が与えられます。里見女流四冠は古森五段に勝ってこの要件を満たしました。彼女が受験をするかどうかはまだわかりませんが,もしするとなると,将棋界は大きく盛り上がると思います。対戦相手となる若手(男性)棋士は大変でしょうが,男女の真剣勝負をぜひみてみたいものです。

2022年5月30日 (月)

育児介護休業法は難解

 育児介護休業法の改正のうち,とくに重要な部分が10月に施行されますが,JILPTの『2022年版 労働関係法規集』(いつも助かっていますが,医療法とか余計なものが入ったのは残念でした)をみると,新旧対照ができてよかったのですが,それゆえ改めて,条文が難解きわまりないものであることが確認できた感じがします。正直なところ,条文を読んだだけでは,何が書いてあるのか,よくわからないところも多々あります。施行規則の重要性が高いのも,この法律の特徴です。法改正について情報を行政が独占し,行政にすがらなければ,どのような権利義務があるかわからないようにしているのではないかと邪推したくもなります。情報の政府独占は,民主主義社会において,最も避けるべきことなのですが。
 批判するばかりでは建設的ではないので,どういう条文を作ったら読みやすくなるかを考えるプロジェクトを立ち上げてみたいなとも思っています。市民目線での法文を,というのは,昔から主張しているので(『労働法実務講義』(日本法令)では2002年の初版のときから,このようなメッセージをこめたコラムを書いていました[初版では200頁]),いつか本格的に着手してみたいです。やってみると,現在の法律と変わらないものとなるかもしれませんが,それはそれで意味のある発見となるでしょう。

 今回の改正について,お暇な方は,次の育児休業クイズをやってみてください。初級編ですから,対象者は,労働法を専門とする弁護士や社会保険労務士以外の方です。

1 改正により育児休業が2回まで分割取得できることになります。その条文上の根拠はどこにありますか(育児介護休業法)。

2 改正により新設される出生時育児休業は,2回まで分割取得できることになります。その条文上の根拠はどこにありますか(育児介護休業法)。

3 概念の問題です。出生時育児休業は,育児休業の下位概念でしょうか,それとも並列的な概念でしょうか(育児介護休業法)。出生時育児休業申出は,育児休業申出の下位概念でしょうか(育児介護休業法)。出生時育児休業給付金と育児休業給付金の関係はどうでしょうか(雇用保険法)。

2022年5月29日 (日)

M機械事件

 追い出し部屋の実態を裁判所が克明に認定したM機械事件(別に会社名を書いてもいいですが,いちおう配慮してMとしておきましょう)の東京地裁判決は,会社側がどうして和解できずに判決にまで至ってしまったのかと思ってしまいますが,この判決文のパワハラの実態を知ってしまうと,この会社に入社しようとする人はいなくなるのではないかと心配します。それはともかく,法的には,この判決の前半部分の,試用期間の延長の可否という論点が興味深いです。裁判所は,就業規則上は明文の根拠がないもののの,試用期間の延長ができることがあるとしています。試用期間は,留保解約権が付着していて,労働者の雇用を不安定ならしめるという意味で,労働者に不利な面があるのですが,すでに留保解約権が有効と認められるような状況にあり,そのうえで能力や適性をさらに判定するために,試用期間を延長しようというのは,労働者にとって有利な面もあるので,試用期間延長イコール労働者に不利,とは決めつけられないところです。そういうことも考慮したのか,裁判所は,一定の要件下での試用期間の延長の合意(最終的に6カ月まで延長)を肯定しています。ここでポイントになるのは,就業規則における試用期間3カ月という規定と,試用期間を延長する個別の合意との関係を労働契約法12条の問題とみていることです。もし同条の問題だとすると,試用期間を延長する個別合意はいっさい認められなくなります。しかし,労働契約法12条の定める最低基準効は,就業規則に「違反」する労働契約の効力がどうなるかというを定めたもので(同条の見出しは「就業規則違反の労働契約」),その労働契約の効力を論じる前提として「違反」があったかどうかをみる必要があります。文言だけをみると,「基準に達する」かどうかを問題とすべきことになりますが,その「達する」かどうかという点も,「違反」の有無を問題とすべきことになるのです。本件のような場合に「違反」があったかどうかは,就業規則の趣旨をどう解するかによりますし,さらに労契法12条の趣旨からも,禁反言の原則に実質的に反しないような場合,すなわち労働者が自由かつ対等な立場で就業規則に抵触する労働契約を締結した場合には,12条は適用されないとする解釈も可能です。というようなことを,実はかつて毛塚勝利先生の古稀記念の論文集に寄稿した「就業規則の最低基準効とは,どのような効力なのか」山田省三ほか編『労働法理論変革への模索』(2015年,信山社)113頁以下で論じています。同論文は,日本労働研究雑誌680号の学界展望(「労働法理論の現在~201416年の業績を通じて」(2017年)でも取り上げていただいていますが,すでに労働法学ではおそらく誰からも忘れられている論文です。とはいえ,私自身は,最低基準効を突き詰めた基礎理論的な論文を書いたつもりで,こういうのが,ときどき具体的な事案の解決で「活用」可能なことになるのが,おもしろいです。ということで,この事件でも,試用期間の延長について,十分にインフォームされていて同意をしたものであれば,有効とする余地があるということになります。現在の私の人事労働法の議論では,納得同意を得ていれば有効としてよいという主張になります(『人事労働法』(弘文堂)では,40頁の補注⑶の最後に一言言及しているにすぎませんが,その前提には,上記の論文で展開した理論的検討があるのです。上記論文は,参考文献として,同書31頁に挙げています)。
 なお,試用期間の延長の合意が認められても,解雇(留保解約権の行使)が有効となるとはかぎらず,本件では,解雇を有効とするのは難しい事案であったと思います(本件では,判決は,試用期間の延長は認められないと判断し,その後の解雇は試用期間中の留保解約権の行使ではなく,普通解雇によるものと善解したうえで,結論として解雇は無効)。私は試用期間における解雇制限には副作用が多いと考えており,2007年に初版を刊行した『雇用社会の25の疑問―労働法再入門』(弘文堂)でも,実は最初に書いた原稿は,第9話「会社は,試用期間において,本当に雇用を試すことができるか」でした(第3版まで,内容を多少修正しながらも,このテーマは維持しています)。今後,ジョブ型の即戦力採用が増えてくると,試用期間の果たすべき役割がより大きくなります。長期的な労働契約関係の初期段階である試用期間の特徴を前提とした三菱樹脂事件・最高裁判所大法廷判決の射程は狭くなります。ただ,ジョブ型が増えても,企業は,試用期間中の解雇は容易にできると安易に考えてはだめです。私見では,どのような能力や適性を必要とするのかという採用基準を具体的に明確にし,その要件に合致していない場合でなければ解雇できないのであり[修正しました],ただそのハードルを超えさえすれば,解雇回避努力の要請は原則として課されず,そのあとの要件は,きちんと誠実説明を行う手続義務に収斂されるのです(拙著『人事労働法』110頁および208頁以下を参照)。本件は,採用基準の明示が不十分であった可能性があり,そうなると,人事労働法の観点からも,解雇が無効とされることになります。
 政策的には,試用期間中(だいたい6カ月くらいまで)の解雇規制は緩和してよいと思いますが,そのときでも,きちんと手順を尽くす必要があるのです。そういうことを果たしていれば,本件のような企業にとって不名誉となる判決が出なかったかもしれません。納得同意の重要性を再認識する事件だと思います。
 法律論はともかく,私のような尖った人間は,本件で解雇されたような新入社員にシンパシーを感じないわけではありません。判決も,社会人経験のない若者への暖かい目線を感じられます(裁判官も,尖った人なのかもしれません)。ただ,立場が変わって自分の部下にこういう人がいたら困るだろうというのも率直なところですね。パワハラ発言をした上司としては,内定の段階で,きちんと人物を選別していてほしいと思っているかもしれませんね。

 

 

2022年5月28日 (土)

労働判例百選(第10版)

 『労働判例百選(第10版)』は,今回は執筆者ではないので,自分の研究費で購入しました。判例百選は振り返ると,2002年の第7版で初めて執筆に加えていただき,第8版と第9版まで書かせてもらいました。事件は,それぞれ高知放送事件・最高裁判決,第四銀行事件・最高裁判決,パナソニックプラズマディスプレイ(パスコ)事件・最高裁判決でした。第9版は,すでに評釈を書いていた事件であり(第8版もそうでしたが),同じようなことを書いても意味がないと思い,自説を「180度回転させて」,すでに発表している評釈とは正反対のトーンで書いてみました。読者には読み比べてもらえると教育的効果があると思ったのですが,この試みは成功したかはよくわかりません。いずれにせよ,この原稿は,自説によるものではないので,私の業績リストには加えていません。まあ,こういうこともあって,判例百選は第9版で引退となりました。短い間でしたが,どうもありがとうございました。編者の先生には心より感謝しています。判例百選の執筆者に名を連ねるということは,現役バリバリということを意味するので,少し寂しい気がしますが,今回の執筆者には,私の知らない研究者の名前もたくさんいて,世代交代があるのは読者にも新鮮でよいことでしょう(今回はオランゲレル(烏蘭格日楽)さんも入ってよかったです)。拙著の『最新重要判例(第7版)』(弘文堂)は,ロートルの私が一人で200の判例を扱うという無謀なことをしていますが,『労働判例百選』の良い意味でのコラテラルな効果に便乗して,労働判例の理解の広がりに貢献できればと思っています。
 選択判例を見比べると,ほとんど重なっていますが,『労働判例百選』のほうが収録判例が少ないにもかかわらず,私が採り上げていないテーマも採り上げられていて(障害者雇用など),拙著の第8版がもしあるならば,判例選択の参考にさせてもらおうと思っています。また,同じ項目でも,違う裁判例が採り上げられているものもあり,私のほうが保守的な選択をしている感じがしましたが,拙著では解説で新しい動向を書こうとしている点の違いによるものだと思います。
 それはともかく,一読者としてコメントをいうとすれば,本を開けた瞬間,余白が少ないなと思いました。できるだけ多くの情報を盛り込もうとしたのでしょうかね。事件によっては,文献の引用がやや多すぎるのではないか,と思うところもありました。巻末に文献一覧を載せて,文中では引用を簡略化したほうが(菅野・2019など),読者にとっては読みやすいのではないかと思いましたが,判例百選にはすでに固まった様式があるのかもしれませんね。

 

 

2022年5月27日 (金)

谷川17世名人

 谷川浩司九段が,17世名人を襲位することになりました。すでに名人位5期で引退後には17世永世名人を名乗る資格はありましたが,この4月に還暦を迎え,これまでの抜群の実績を考慮して,中原誠16世永世名人の例にならって,現役での襲位が認められました。谷川九段という呼び名は,いまはすっかり慣れてしまいましたが,最初は違和感がありました。これからは谷川17世名人と呼ぶことになります(叡王の段位戦では九段戦に出るのでしょうね)。
 21歳で史上最年少の名人につき,その記録は,まだ破られていません。藤井聡太竜王(五冠)が,記録を破るかが注目されていますが,その結果は来年わかります。勝利数も羽生善治九段,大山康晴15世名人に続く歴代3位です。その偉大な業績は,まばゆいばかりです。ご本人は30代の時期にもっとタイトルをとれていればと思っておられるようです。ファンもそう思っています。でも,当時の多くの若手棋士が,打倒谷川で襲いかかっていた時期です。そのときでも谷川さんは勝って多くのタイトル戦に登場してきたのです。あと一歩でタイトルがとれなかったものもたくさんあります。谷川17世名人は,羽生九段と異なり,勝負術という点では長けているとはいえません。もっと勝負術に長けていれば,もっと多くのタイトルをとっていたでしょう。でも,そういう泥臭い勝負をしないのが谷川将棋でした。タイトル27期は,数字的にはやや物足りないですが(それでも羽生,大山,中原,渡辺明名人に次ぐ歴代5位),ファンは「光速の寄せ」にこだわり,かかんに攻め込んでいった谷川勝利に魅了されてきたのです。
 ところで谷川さんが還暦ということは,1歳違いの私ももう少しで還暦に近づくということになるのですが,労働法の世界では,どうも還暦になると何かお祝いをするという慣習があり(かつてのように本を刊行するということはさすがになくなってきていると思いますが),弟子や下の人たちがいろいろと気をまわさなければならないようです。谷川さんのように,たぐいまれな業績があり,それに敬意を表して永世名人を襲位するのは,とても素晴らしいことです。
 しかし,研究者が研究以外のことで,たんに年齢到達や叙勲などでお祝いをされるというのは,なんとなく感覚的に受け付けません。研究以外で社会貢献などをしっかりしていて,その貢献に対して,お祝いをするというのであれば理解できます。実は多くの研究者は,そういう社会貢献をしっかりしてきているので,その面でのお祝いをするのにふさわしいのだと思います。私のように自分の好きな研究をやってきているだけのような人は,主観的には,少しは社会課題の解決に貢献しているつもりではありますが,実際には害悪をばらまいている可能性もあるので,その評価は死んだときにしてもらえればと思っています。
 ところで,そういう私も,昔は他の先生の還暦祝いなどをやってしまったことがあり,いま思えば,その先生はおそらく望んでおられなかったのに,無理強いしてしまったのではないかと悔やんでいます(そのときの気持ちは怖くて聞けません。最近,このセリフが多いですが)。正直にいうと,無理強いしてもよいのではというお節介な気持ちをもっていたのですが,これは独善的なことで,本人の迷惑を考えず,結局,やったほうの自己満足でしかなかったのではないかと猛省しています。若気の至りでした。尊敬する先生方にできることは,学問で恩返しをすることしかないのです。

2022年5月26日 (木)

高校生の前で話す

 今日は神戸大学Dayというイベントで,神戸大学附属中等教育学校に出張講義に行くという仕事をしてきました。対象者は5年生(高校2年生)で,各学部の教員と学生が,それぞれの学部のことを話して,進路選択の判断材料にしてもらおうという企画でした。
 対面型の講義自体が久しぶりで,しかも高校の教室での授業というのは経験がないことで,少し緊張しました。「起立,礼」から始まり,びっくりしましたし,最後には「お礼の言葉」までいただきました。高校生までは,こういう礼儀正しさを教わっているのですね。
 生徒の机が教壇のすぐ近くまであり,これがどうも落ち着かなかったのですが,教室というのものは,こういうものだったのですね。
 「法学を学ぶとはどういうことか」というテーマで話をしましたが,いま思えば,もっと簡単な話をしたほうがよかったのかもしれません。むしろ雑談で話した,これからの雇用社会がどうなるのか,という話のほうが学生には興味があったようです。AIが仕事を奪うなか,どうすればよいか,というような余計なことを話してしまいました。
 ところで,5月24日の日本経済新聞で法学部離れが進んでいるという記事が出ていました。法学部の人気が下がってきているのは,理解できないではありません。法学にはどうしても保守的であるというイメージがあって,現在のような大きな社会の変革があるなかでは,あまり魅力的に映らないのかもしれません。ほんとうは新しい社会のニーズに合致した法的なルールをつくっていくということは知的刺激にあふれた作業なのですが,それは法学の枠組みから離れていくことになります。法学部離れの背景には,こういうことが子どもたちに伝わっているからかもしれません。もしいま私が学部を選択するとすれば,法学部を選択しない可能性が高いでしょう。そう考えると,法学部自身が変わっていかなければならないですし,そもそも法学や経済学といった既存の学部の分類そのものを抜本的に見直して行く必要があるでしょう。私立大学では,一見すると「怪しげな」(何を学べるのかわからないような)名前の学部や研究科が新設されることがありますが,実はそういうところのほうが,これからの社会のニーズに合致した教育を提供してくれる可能性があるのかもしれません。伝統的な学部でないからといって軽視することはできないでしょう。むしろ従来の看板を背負いつづけているほうが,知的怠慢ということになるのかもしれません。
 いずれにせよ,いまの中高生,小学生に話したいことはたくさんあります。今回は,時間も限られていて,しかもミッションがあったので,個人的にはもっと伝えることができたらという気持ちも残りましたが,それでも,とてもよい機会をいただいたと思っています。

2022年5月25日 (水)

天性を発見し,個性的に輝かせる

 これからは定型的作業が機械化され,人間は自らの才覚を発揮していかなければならない,というようなことを言うと,そのような能力がない人はどうすればいいのかという質問を受けます。この質問者の頭には,人々の能力にはある種の序列があって,高い能力をもつ人と低い能力しかもたない人がいるという考え方があるのでしょう。しかし,私は,世の中にある様々な社会課題について,それを解決するための能力というのは多種多様であり,そしてそういう能力を備えている人も多種多様であると考えています。そこには垂直的な序列があるのではなく,水平的な広がりがあるのです。それは小学校のクラスでも,かならず算数が得意な子,歌が上手な子,運動が得意な子,字がきれいな子,手先が器用な子,絵が上手に描ける子などがいて,クラスの種々の活動では,そうした能力をうまく組み合わせて取り組んでいくことができるということを,子どもたちはおそらく実感しているはずです。ところが受験なるものが,そのなかの特定の科目を重要視して評価し,それを社会の序列につなげてしまっていたのです。そもそも学校で教わるのは特定の科目にすぎず,大学入試もその中のさらに特定の科目だけを試験科目として合否判定に利用するのであり,これは非常に偏ったことをやっているのです。センター試験(現在は大学入学共通テスト)のいろんな科目についてまんべんなく総合的に良い点を取れることは,ある時代においては社会に貢献できる能力を測るうえで有用であったのかもしれないですが,これからの社会においては違っています。もっと一つのことに尖っている人が必要なのです。そういう意味で,いつも述べているように,大学入試は根本的に変えなければいけないと思っています。
 要するに,苦手を克服するのではなく,得意を伸ばすことこそ大切なのです。勉強すべきなのは得意分野なのであって,苦手分野は勉強しなくてもいいのです。これは日本人にとってみれば,大きな発想の転換になると思います。 自分の苦手分野が何かを知っておくことは大切ですが,それを必死になって克服しようとしても時間の無駄であることが多いのです。そこでうけた挫折感が,将来の生き方に悪影響を及ぼす可能性もあります。苦手なところはどうやったら他人を利用したり,機械や技術を利用したりすればよいかということを学んだ方がよいのです。例えば,私は英語のヒアリングが得意ではありませんが, 実は日本語のヒアリングも得意ではありません。聴覚検査では出てこないことですけれども,騒音がある場所や小さな声については,聞き取ることが苦手です。歳をとってくるとその弱点が一層はっきりとしてきましたが,若いころからそういう傾向がありました。日本語でさえそうなのだから,外国語がたいへんであることは言うまでもありません。私のような場合,もちろんヒアリング能力を高める訓練をすることは,一定の効果はあるわけですが,時間がかかってしまうのであり,それだったら最初から機械を使うことを考えた方がよい(いまならポケトークなどに頼る)ということになります。これは一例ですが,苦手分野は苦手分野として自分で理解して,それをどう克服するかについては,自分の能力を高めることではなく(その努力に意味があることもあるでしょうが),その時間とエネルギーは,どうそれを別の方法でうまく乗り切るかという観点で実践的なスキルを磨くほうに費やしたほうがよいと思っています。 
  たまたまノーベル賞受賞者の江崎玲於奈博士のWikipedia をみることがあったのですが,そのなかで非常に印象的な言葉がそこで紹介されていました。江崎博士の実際の発言かどうかはわかりませんが,その内容は素晴らしいものです。要点は,人間の能力は,天性という遺伝情報と,環境による育成という遺伝外情報取得の要因で決まるのであり,「天性を見いだし,育成に努める」のが 教育の基本理念である,ということです。自分の「天性」の発見(それは自分のゲノム解読)をして,それが個性的な光彩を放つよう「天性」を最大限生かすように「育成」するのが,教育の目標である,というのです。親や教師だけでなく,これこそが政府の取り組むべき教育の最も重要な目標です。私の考えていたことが,ここに見事に語られると思い感激しました。

2022年5月24日 (火)

義経伝説

 源義経は,平泉では亡くならず生き延びて,ジンキスカンになったという伝説はよく耳にします。奥州では,義経伝説はいくつもあるそうで,Wikipediaでも詳しく紹介されています。しかし,これはフェイクでしょう。
 今回の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では,義経が死亡したシーンは出てこず,義経の首桶が頼朝のところに送られてきて,頼朝が号泣するシーンだけでした。ただ,義経の死亡の直前,主人公の北条義時が義経と最後の会話をし,鎌倉攻略の戦法を記した手紙を梶原景時に渡すよう義時に頼むというシーンがありました。すでに藤原泰衡の軍勢がせまっていて,弁慶が仁王立ちで支えているという状況なのですが,義時は弁慶に案内されて義経のもとに連れてこられ,義経は義時に,いま来た道を通って帰れと指示します。そのあと義時が鎌倉に戻れたのですから,義経も脱出することは可能であったと考えるのが普通でしょう。ということは,三谷さんは,義経逃亡説も完全には捨てていなかったとみるべきなのでしょうね。判官贔屓の国民の一人である私も,義経は生き延びて,大陸で活躍したという話には,たとえ作り話であったとしても,ロマンを感じます。
 ところで,北条義時を演じる小栗旬が,頼朝や景時に反発しながらも,徐々に冷徹な武士の顔に変わりつつあるところが興味深いです。俳優としても,力の見せどころでしょう。義経を演じる菅田将暉も良かったです。悲劇のヒーローである義経ですが,その奔放さがうまく演じられていたのではないでしょうか。「麒麟がくる」のときの,信長を演じる染谷将太もそうでしたが,多くの俳優が演じてきた歴史上の有名人物を,少しイメージが違う若手俳優が演じるのは,新たな発見があって面白いです。
 義経亡きあと,いよいよ,頼朝と政子の子どもたちの悲劇の話になっていくはずです。頼家や実朝がどのように描かれていくかも,また楽しみです。

2022年5月23日 (月)

スキップされる授業

 いまはテレビ番組は,リアルタイムではなくても動画配信されるので,パソコンなどで,好きな時間にいつでも,適当に再生速度を調整したり,スキップしたりしながら,視聴するというのが普通になってきています。映画はさすがにスキップはしませんが,ときどき再視聴することもあり,そういうときはスキップもします。ということなので,学生のなかには,私のオンデマンド型の授業も,スキップしたり,再生速度を上げたりして視聴しているんだろうなと想像しています。私は,授業が長くなりすぎないように気にしながら話していて,それでも結局,長いものになってしまって学生に詫びたりもしているのですが,学生は私が思っている以上には長さを気にしていないかもしれません。
 学生も忙しいでしょうから,効率的に早まわしで視聴してもらって結構ですが,ただ学生が考えながら聞いていることを前提に話している面もあるので,復習時の倍速やスキップはよいですが,初めて視聴するときに倍速だと,理解が浅くならないかが心配です。ただ,理解しづらいときには,そのときは止めて聴き直せばよいともいえるので,こちらが心配するほどのことではないのかもしれません。こういうように,学生の方で,講義を好きなように,自分にあった方法で視聴できるというのがオンデマンドのよいところです。こうなると,大講義で聴くよりも,こっちのほうがよいということになりそうですね。もちろん学生に完全に自由にさせると,オンデマンドだと,ためこんで後でまとめて視聴しようということになりがちで,結局,試験前に超倍速で視聴しても,よくわからなかったということになりかねないので,私は授業時間割(オンデマンドでも時間割はあるのです)の日にあわせてアップロードし,それから一定期間が経てば視聴できないようにするという方法をとることにしています。
 これまでオンデマンドのときにはビデオオフにしていたのですが,対面型に近いものをということで,今回はビデオオンにしています。学生が目の前にいないので,対面に近いといっても限界があるのですが,要するに,教師の方が学生が面前にいなくても話せるかということのほうが大切で,学生側にとっては,対面であろうが,オンデマンドであろうが,オンライン・リアルタイム型であろうが,それほど差がないし,むしろ学習効果という点では,学生に好きなように対応できるオンデマンド型のほうが高いのではないかという気がします(もちろん科目の内容にもよるのでしょうが)。 
 これがこれからの学習のあり方だとすると,定年後は,どこの大学にも所属しなくても,労働法などのコンテンツを配信するユーチューバーとして頑張るという方法もあるような気がしてきました。そのためには視聴者にスキップされず,じっくり視聴してもらえるような「講義力」を身につけなければなりませんね。私のこれからの課題です。技能訓練は,生涯,続くのでしょうね。

2022年5月22日 (日)

名人戦第4局

 名人戦第4局は,渡辺明名人が勝って3勝1敗となり,防衛に王手となりました。斎藤慎太郎八段は,第3局に勝って勢いに乗れるかと思いましたが,力の差を見せられた感じです。実力的には紙一重の世界なのでしょうが,この大勝負で勝ちきれないのには,何かが足りないのでしょうかね。名人という夢のタイトルの重圧かもしれません。
 叡王戦第2局は,藤井叡王(5冠)が快勝で,2連勝となり,防衛に王手をかけました。出口若武六段はビッグタイトル獲得の大チャンスですが,相手が強すぎますね。
 竜王戦は決勝トーナメントの出場者が,だいぶん決まってきています。森内俊之九段も登場します。1組優勝の永瀬拓矢王座が挑戦権に一番近いところにいます。今年は6組優勝の伊藤匠五段も注目です。
 永瀬王座は,もうすぐ棋聖戦で,藤井棋聖に挑戦します。渡辺名人(二冠)や藤井竜王(五冠)がいなければ,もっとタイトルがとれていそうな永瀬王座ですが,おそらく全盛期にさしかかっているでしょうから,いまのうちにできるだけタイトルをとっておきたいところでしょう。
 四強のもう一人の豊島将之九段は無冠をそろそろ脱したいところであり,いま王位戦がタイトル挑戦に最も近いところにいます。挑戦者決定リーグの紅組で優勝して,白組優勝の池永天志五段と挑戦者決定戦を迎えます。新鋭の池永五段がチャンスをつかむか,豊島九段が藤井王位(五冠)から王位を取り返すかが注目です。

2022年5月21日 (土)

一太郎派

 山口県のどこかの町の誤送金が問題になっています。詳しい事情はわかりませんが,公金の扱いが杜撰であったことは間違いがないわけで,町長はかなりの責任を負わなければならないでしょう。こういう作業は途中で関わる人が増えるほどエラーが起こりやすいので,根本的にやり方を変えるべきでしょうね。報道によると,フロッピーディスクが使われていたということですが,そんなものはここ数年見たことがないので,まだ使われていたのが驚きです。デジタル化とかという以前のレベルで,よくそれで行政サービスができているなと思いますが,こういうのが日本の実情なのでしょうね。
 ところで,パソコンソフトの「一太郎」もまた,フロッピーディスクほどではないにせよ,絶命危惧種と呼ばれているようです。私は役所のようだとバカにされながらも,というか今では役所も使っていないと言われながらも,一太郎好きを公言しています。実際にはWordもかなり使っているのですが,原稿を書くときには,一太郎のほうが使いやすいので,一太郎を愛用しています。一太郎で書いた文書は,Wordで保存もできるので,相手によってはWordで送ったりしますが,文書作成のときは一太郎を使うことが多いのです。辞書もずっと使っているATOKです。日本法令の「キーワードからみた労働法」は,いまでも一太郎のままで原稿を送っているのですが,もしかしたら編集者に迷惑をかけているのかもしれません。15年も続けているので,実は困っていたのですと言われるのが怖くて,聞かないことにしています。ただ現在では,音声入力をするときは,Wordのほうがやりやすいため,最初からWordで書く割合はきちんと数えれば8割くらいになってきているかもしれませんが,しっかりした原稿を書こうとするときは一太郎なのです。
 一太郎とWordの併用と同様,私はノートパソコンも,Surface(Windows10)とMacを併用していて,これも大変です。基本的にはSurfaceなのですが,リモート会議などではMacのほうが画像がよいし,iPad やiPhoneを使っているので,その連携という点でもMacのほうがよいです。ということで,Macで文書を作成することもよくあるのですが,キーボードの配置や入力方法が違うので,最初は混乱していました(カタカナへの変換の仕方など)。いまではMacもかなり使いこなせるようになりましたが,ただ保存ファイルがどこにあるかわからなかったりするなど,1年以上使っていてもまだ十分に習熟していません。もっとも,いまは少しでもわからないことがあれば,ネットで調べればすぐに答えが出てくるので,あまり苦労しません。というか,それを当てにして,真剣に学習しようとしていないところもあります。これって,ネット時代の学生が真剣に勉強しなくなるのと同じことなのかもしれませんね。

2022年5月20日 (金)

やっぱりオンライン

 昨日は,「ビジネス+IT WEBセミナー」に登場しました。テーマは,「なぜいまテレワークなのか~その将来性と課題~」というもので,私は事前収録した動画の配信という形での参加です。拙著『誰のためのテレワーク?―近未来社会の働き方と法』(明石書店)のエッセンスを40分の講演にまとめました。大学でのオンデマンド型の授業も,同様の事前収録で,最近ではこのパターンにも慣れてきました。録画されているので,最初のころからは,ちょっとでもミスをすれば撮り直したくなるのですが,徐々に言い間違えや救急車の音が入ってきたりなどのことは気にならなくなりました。撮り直しができるというのは危険なことで,A型人間ならなかなか完了しないかもしれませんが,私はそうではないので,踏ん切りを付けることができるようになってきました(途中で声が枯れてあまりにも聞き苦しくなったときは撮り直したことはありましたが)。
 ところで,現時点でのテレワークの普及度はよくわかりませんが,出勤しない働き方は着実に増えていると思います。とくに学校でのオンライン授業がなんだかんだ言って少しずつ広がっており,そのメリットを実感している学生も増えているはずです。今朝のNHKの朝のニュースでは,北海道の地方の高校で,専門の教師がいない科目を,オンライン授業で補っているという話が紹介されていました。実家から離れず,自然豊かなところで,高度な勉強もできるというのは,まさに良いとこ取りであり,ICTの活用により,そういうことが可能となっているのです。今後は種々の教育コンテンツが,ネット配信されるようになり,自分の関心次第で,場所と時間に関係なく学習できるようになるでしょう。
 こういう学生が増えてくれば,企業だって,仕事のために特定の場所に集合させるという発想が時代後れとなる可能性があるのです。テレワークの将来性というのは,様々な点から根拠付けることができますが,オンライン慣れして,そのメリットを実感した「移動しない優秀人材」(正確には,自分の好きなところに住んだり,観光したりするためには移動するが,仕事のためという理由では移動しない人たち)に合わせた就業環境を用意する必要性からも,テレワークへの移行が進むと予想できます。

 

2022年5月19日 (木)

ローカル鉄道

  関西ローカルな話です。
 516日の日本経済新聞の春秋で,「先月,JR西日本が公表した採算性の低い30の区間には同線の谷川―西脇市の約17キロメートルが含まれ,地元では存続を危ぶむ声が強まっている」という記事が出ていました。私は母方の実家は社町(やしろちょう)駅が最寄りで,父方の実家の最寄りは加古川駅だったので,幼いときは,加古川から加古川線に乗って北上して社町駅まで行ったことが何度かありました。西脇市駅までは行ったことがなく,さらに谷川駅となると未知の地なのですが,利用客が少ないのでしょうね。加古川線は,いまはどうか知りませんが,阪急電車に慣れていた者にとっては,1本ごとの間隔が長く,電車もちょっと古くさくて,乗客も少なく,田舎に来たという実感を味わうことができました。社町駅に行くのには,西宮に住んでいた私は西宮北口から阪急に乗り,新開地で神戸電鉄(「しんゆう」と呼ばれていた)に乗り換えて,終点の粟生(あお)まで行き,そこで加古川線に乗り換えるという方法もあり,そちらのほうが,時間が少し短縮され,母にもこのルートで連れられていくことが多かったと記憶しています。そのうち中国自動車道を使って,バスによって,祖母の家の近くの滝野社インターチェンジの停留所まで行くことができるようになり,神戸電鉄やJR加古川線を利用することもなくなりました。
 神戸電鉄の途中では,鵯越(ひよどりごえ)という小さくて壊れそうな駅があり(いまはどうか知りません),これが大河ドラマでも話題になっている義経の「鵯越の逆落とし」の「鵯越」なのですが,そのほかにも三木(別所長治の三木城があったところ)や小野(東京オリンピックの陸上女子1500メートルで8位入賞という快挙をとげた田中希実選手の出身地)といったところを通っていきます。三木を過ぎ,小野まで来ると,もう少しで粟生ということで,おばあちゃんの家に近づいてきたという気持ちでウキウキした気分になったことを覚えています。
 神戸電鉄は大丈夫でしょうが,JRのローカル線は,採算という点では厳しいものがあるのでしょう。一度時間があれば,加古川駅から北上して,まだ行ったことがない社町駅より北の駅まで行ってみたいです。西脇は駅伝で有名な西脇工業があるところですしね。兵庫県民であっても,県は広大であり,南のほうは東から姫路までは知っていますが,北となると城之崎や豊岡や香住・浜坂のような最北以外はほとんど行ったことがありません。労働委員会の事件でも,名前もあまり聞いたことがないし,どこにあるかもよくわからない自治体の事件などもあって,もっと兵庫県のことを詳しく知らなければならないと思っています。

2022年5月18日 (水)

時間感覚

 NHKの「クールジャパン」で,少し前に,外国人の出演者が口々に日本人はミーティングの開始時間には厳しいけれど,終わりの時間はルーズだと言っていたのを聞き,ハッとさせられました。たしかに,そうなのです。開始時間の厳しさは,ミーティングに限らないことで,時間どおりに始まらないことに,日本人の多くはフラストレーションを感じます。自分は無理して時間厳守でやって来たのに,それを遵守しない人がいることに不満がたまるのであり,遵守しなくても許されるのなら,最初からそう言って欲しいと思ってしまうのでしょう。でも,遵守しなくてもよいというと,誰も守らなくて会が始まらないので主催側は絶対にそうは言わないでしょうが。
 個人には,それぞれの抱えているいろいろな事情があるわけであり,会議の開始時刻を厳守するために,それをすべて犠牲にする価値があるかは疑問です。会議ではありませんが,朝,幼稚園の時間に間に合わせるためか,子どもを乗せてママチャリで猛スピードを出している(しかも歩道を),ママがいるのですが,危険きわまりないです。そこまでして間に合わせなくてもよいのでは,と思ってしまいます。あるいは子どもを送ったあとの出勤時間に間に合わせるための猛スピードかもしれません。これはママが悪いのではないでしょう。朝はみんな時間がないのであり,多少の遅刻には寛大となるというような余裕のある社会に変われば,おそらくママも危険なことをしなくてすむのではないかと思います。なお,テレワークにすれば,出勤がなくなるので,時間厳守というのはそれほど無理なく実現できて,みんながストレスを感じずにすむかもしれません。
 一方,終了時刻のほうは,逆に予定時刻をあらかじめ決めて,それを厳守することが必要でしょう。そういえば,10年以上前,ゼミの時間割が5限となっていたのを信じて授業をとったが,実際には,それよりも1時間以上超えてもやっていて,これでは部活に参加できないので,ゼミを辞めたいと言ってきた学生がいました。学生には申し訳ないことをしました(学期が始まった後なので,他のゼミに入り直すこともできませんでした)が,その当時は,終了時間は先生が決めるのが当たり前という感覚でした。のみならず,ゼミの場合は,議論それ自体に意味があるので,あまり終了時間をリジッドに決めてしまうのは教育効果という点で問題があると思っていました。
 一方,職場での会議の多くは,そういうものではないでしょう。ワーク・ライフ・バランスの観点からも,終了時間がずるずると延びるのは問題でしょう。神戸大学では,会議は17時を超えてはならないということが決まったようで,会議の迅速化が進んでいます。たいへん素晴らしいことです。
 神戸労働法研究会では,終了時刻は適当で,議論が尽きるまでという感じでやっています。これは職場の会議とは違い,ゼミと同様,議論することに意味があるからだと私自身は考えていますが,参加者の方はどのように考えているかわかりません。怖くて本音を聞けないのですが,実は,次回から研究会発足後初めて,開始時刻を変更することになりました。開始時刻を2時間早め,終了時刻が遅くなりすぎないようにします。これまでは神戸大学という場所がアクセスしにくいこともあり,遠方から来てくれる人の都合も考えて,あまり早い開始時間にせず,また研究会後はゆっくり会食する(ゆっくりどころか終電をリミットとする)ということにしていたので,15時開始という設定にしていたのですが,オンラインとなって状況が変わりました。きわめて健全な研究会に生まれ変わり,もう対面型に戻ることはないでしょうが,ただそれとは別にオフ会を開くということは考えてみたいですね。コロナがおさまれば,みんな家族同伴で,合宿をするというようなことも考えてみたいですね。

2022年5月17日 (火)

税制調査会に登場

 今日は,政府の税制調査会でプレゼンをしました。内閣府のHPに,資料とともにアップロードされているので,関心のある方はご覧になってください(https://www.cao.go.jp/zei-cho/chukei/index.html)。私以外に,JILPTの濱口桂一郎さんとフリーランス協会の平田麻莉さんという大物が登場しています。
 私はリモート参加ですが,実はTeamsがうまくいかずに困りました。日頃は,Zoomしか使っておらず,労働委員会でもWebExですので(これもトラブルが多かったのですが),Teamsの利用経験はほとんどありませんでした。直前に画面共有機能の確認をしていたので安心していたのですが,本番では作動せずに困りました。結局,スライドは,事務局に投影してもらい,かえって楽をすることができたのですが,少しあわてました。またビデオオンにしていたのに,どういうわけか会場では私のビデオが映っていなかったようで,自分のプレゼンが終わってから事務局からのメールに気づき,結局,もう一度,接続し直したら,うまくいきました。原因は不明です。後半の質疑応答のときには間に合ったので,よかったのですが。前半も声は届いていたので,問題はなかったと思います。
 質疑応答は,3人ずつまとめて質問をいただき,それにまとめて答える方式というものでしたが,これがどうも私は苦手で,途中で質問の内容を忘れてしまうことが多いのです(私はメモをとるのが苦手なのです)。十分に答えることができなかったのが残念です。
 とくに最後のほうの質問については,社会保障制度の再編の話など,あまりきちんと答えられませんでした。言いたかったことは,企業を媒介としない個人中心のセーフティネットの構築をすれば,ポータビリティも確保されるであろうし,ここがしっかりしていれば,人々は安心していろんな形態で働くことができるだろうということです。個人ベースにしたら,企業負担がなくなるので助かるという中小企業関係の方の意見がありましたが,本音はよくわかるのですが,この場での発言としてはちょっとperplexing です。拠出が減ると,給付の内容も悪くなるのであり,そこをしっかり国民に説得するためには,中小企業の負担の軽減というような観点は出さずに,制度を個人ベースにして,働き方に中立的にすることのメリットが強調されるべきなのです。企業は,大企業であれ,中小企業であれ,様々な社会的責任をはたしてもらう必要があることは当然であり,その点では,かりに社会保障制度の枠組みでの負担が軽減されても,その他の面で,中小企業にも相応の負担をしてもらうことがあるでしょう。
 最後に,平田さんが,Public Benefit Corporation (PBC)との関係で,これ以上,法人をつくる必要があるのかという指摘をされた点は,とても重要だと思いました。私の今日のプレゼンでは,営利社団法人への疑問を述べており,その観点からは,PBCも注目されるのですが,実は非営利であっても法人というものをどう考えるべきか,ということは,できればもっと議論したいところでした。NPO法人だけなく,労働者協同組合も法人なのですが,社会課題の解決という観点からは,個人のアドホックな集合体がプロジェクトごとに集合するというものでもよいのです。法人化というのは取引の面や社会的な信用の面などでメリットがあるし,ひょっとすると法人税の徴収という観点からも何かメリットがあるのかもしれませんが,私たちの人間社会のなかに法人という無機質な存在を受け入れることへの違和感もあります(どこまで共感してもらえるか,わかりませんが)。ただ,PBCという仕組みのなかに,企業が社会的責任をはたすよう誘導するうえで,何か重要なメカニズムが組み込まれているのであれば,参考にするのに値するのかもしれません。この点は,もう少し勉強してみたいです。

2022年5月16日 (月)

燦燦

 「ちむどんどん」の主題歌で流れている,三浦大知さんの「燦燦」がマイブームです。天皇陛下のご指名で唄っていた歌手ですね。この曲をギターを弾きながら歌いたくなったために,何十年かぶり(たぶん30年ぶりくらい)にギターの弦を買い,張り替えました。いまではギターの弦も,ネットで買えるのですね(昔は楽器屋に行って買っていた記憶があります)。張り替えてみると,チューニングが大変でした。1975年に購入したものですから,骨董品ですね。おそらく耐用年数を超えているのでしょう。でも,これまで幾度の引越の際も,ずっと捨てずに持ってきたもので,いまとなれば私の中学時代に持っていたもので唯一残っているものなので,簡単に捨てることはできません。
 もちろんギターが古いだけでなく,私の指も思うようには動いてくれません。10年くらい前までは,六甲道近くのバー「Libertà」にギターが置いてあって,そこでたまに弾くようなこともあったのですが,その店もいまはなく,長い間,ギターは弾いていませんでした。コードは覚えているのですが,指の感覚が全然違うのです。Fがきれいに弾けないので,初心者レベルに逆戻りです。アルペジオもスリーフィンガーも,思っているように指が動きません。これから長い長いリハビリが必要ですね。
 話を戻すと,「燦燦」は後世に残る曲となるでしょう。沖縄ソングというわけではないのでしょうが,心に響きます。その流れで,BEGINも夏川りみもマイブームになっています。昨日のブログでは,沖縄にDXの最先端に立ってほしいということを書きましたが,それは,沖縄の豊かなアナログ文化との相乗効果も期待してのことです。たとえば,私が,沖縄から発信される素晴らしい楽曲を,インターネットを通じて,神戸においてリアル感覚で楽しむことができるというのも,沖縄のもつすばらしい財産です。沖縄は,その豊かな自然,すばらしい人や音楽という,傑出した財産があるのであり,それをうまくデジタル技術と融合させることもまた,沖縄の将来性を戦略的に考えていく際の重要なポイントとなるように思えます。

2022年5月15日 (日)

沖縄こそDXの拠点に

 今日は沖縄返還の日で,50周年の記念の年でもあります。「ちむどんどん」(欠かさず観ています)では,ちょうど主人公の比嘉暢子の東京出発と沖縄返還の日が重ねられていました。
  この時期は,沖縄の早い梅雨にぶつかりやすいのでしょう。50年前も今年も,5月15日は雨だったそうです。2011年に沖縄で日本労働法学会があったときも,あまり天気が良くなかった記憶があります(私もオランゲレルさんの報告の司会で行きました。その後,みんなで首里城に観光に行ったことを覚えています。首里城があんなことになるとは悲しいです)。
 沖縄返還といえば,憲法判例でも出てくる西山事件が有名です。アメリカと日本との間で,米軍基地の返還費用を日本政府が肩代わりするという密約をすっぱぬいた毎日新聞記者が,国家機密の漏洩として起訴されて有罪となったものです。国家の隠蔽体質が明らかにされ,この密約はいまなお沖縄返還後の米軍基地問題などが解決されていないことの原因にもなっているように思います(事件は,スキャンダラスなハニートラップのような報道の仕方がされましたが,この問題の本質は,そういうところにはありません)。
 ウクライナの問題があり,ロシア,中国,北朝鮮という核保有国の脅威が現実のものとなりつつあるなか,対中国という観点からの沖縄の重要性がいっそう高まっています。逆さ日本地図というものがありますが,これでみると,日本列島と台湾の中間にある先島諸島などは,中国が太平洋に出て行く際にどうしても通らなければならないところであることがよくわかります。アメリカにとっても,沖縄をおさえておくことは,対中国という点では,どうしても必要なのでしょう。だからといって沖縄に基地の負担をおしつけていてよいわけではありません。ただ,どうしても避けられない地政学上の要衝であることを理解したうえで,どう沖縄の基地問題と向き合っていくかを,私たちは考えていく必要があります。反対もいいのですが,対案が必要でしょう。
 基地問題と並んで,沖縄と本土の経済格差も大きな問題です。ただ,この点については,沖縄のほうにも戦略が必要です。WBSの原田亮介キャスターも言っていましたが,沖縄はシンガポールを目指すというのも面白い発想だと思いました。またNHKのニュースでは,沖縄でシングルマザーにITの教育をしているということも報道されていました。沖縄は,観光以外は目立った産業がないのですが,それゆえに思い切った経済政策をとることができるのではないかと思います。教育面でもデジタル産業に特化したものとし,世界から人材を集め,これからの日本のデジタル技術の発展拠点にすればよいのです。自然豊かな沖縄は,ワーケーションの場でもあります(私も移住したいくらいです)。情報インフラを徹底的に整備し,本土ではぐずぐずしてなかなか進んでいないDXの先頭に立って,引っ張る存在になってもらえればと思います。そうすれば,沖縄は20年後くらいには,日本で最も豊かな県となり,基地なくしても経済的に自立できるかもしれません。
 コロナ前の20199月に,当時からすでに出張は控えていたのですが,沖縄経営者協会のお招きで,沖縄ならぜひ行きたいということで講演をお引き受けしました。そのときのテーマは,「デジタル経済社会の到来と企業経営」というものでした。聴衆の反応は,すごく受けが良かったというものではありませんでした。あの頃は,こういう話をどこでしても,経営者の方からの反応はいま一つだったので,仕方がないのですが,沖縄は,いまこそこのテーマがぴったりあてはまるような大きなチャンスを迎えているのではないかと思います。
 残念ながら,県のホームページでみた「新・沖縄21世紀ビジョン基本計画(案)」はダメだなと思いました。官僚の作文という感じです。もっと「ちむどんどん」するようなものを書いてくれなければ困ります。沖縄を本気で変えていこうとする強いリーダーシップと斬新な発想をもった人が登場しなければ,沖縄はなかなか現状を打開できないでしょう。うまくいけば,一気にLeapfrog 的発展が期待できるのに,もったいないです。これは,沖縄への愛を込めた激励です。

2022年5月14日 (土)

東野圭吾『ラプラスの魔女』,『魔力の胎動』

 東野圭吾は,脳のことを扱った話が多いような気がしますね。『ラプラスの魔女』は,脳の手術により,特殊な能力をもつようになった人の話です。
 お父さんが著名な脳神経外科である羽原円華は,母親を竜巻の被害で亡くすという悲劇に見舞われます。そんな彼女が,温泉地(赤熊温泉と苫手温泉)での硫化水素の死亡事故の現場に現れているのが目撃されます。それを目撃したのが,この問題に詳しい大学教授の青江です。最初に亡くなったのは水城という映画プロデューサーですが,同行していた年の離れた若い妻は,途中でカメラを取りに引き返したために助かります。この妻は,多額の保険金を受け取ることになり,そうとうに怪しいのですが,硫化水素中毒で人を殺すというのは不可能というのが,専門家の青江の判断でした。もう1件の硫化水素中毒は,遠く離れた温泉地でしたが,そこで亡くなったのは,目立たない俳優でした。二人に関係する人物として映画監督の甘粕才生が浮上します。彼は,妻と長女を自宅の硫化水素事故で亡くしており,長男もこの事故で脳に重篤な障害を受けていました。事故の原因は,長女の自殺で,妻と長男はそれに巻き込まれたとされました。甘粕は,その後,この事故の顛末をブログに書いて,素晴らしかった家族に襲いかかった不幸をつづりました。ところが,このブログの内容は,ほとんど嘘で固められていたことがわかります。実は家庭は崩壊していたのです。
 青江は事故のあったそれぞれの温泉地の依頼を受けて調査に出かけます。この事件をしつこく追っている刑事からは,殺人の可能性を質問されますが,それは否定します。しかし実は,彼の想像を超えるようなことが起きていたのです。
 脳に甚大な障害を受けていた長男の謙人は,奇跡的に復活していました。羽原教授の手術の成果です。彼は単に復活しただけでなく,脳の神経回路を新たにつくる能力が格段に速くなっていました。それゆえ様々な物理法則も瞬時に分析して,次に起こることが予想することもできるようになっていました。風の動きを分析して,発生した硫化水素が次にどこに流れていくかも予想できました。
 謙人は,入院中に父親の独白を聞いていました。父親は謙人が植物状態であり,また過去のことについて記憶喪失に陥っていると聞いて安心していたのですが,それは謙人のフェイクでした。実は甘粕家の事故は,事件だったのです。才生が仕組んだことでした。謙人は姉と母を殺した二人に復讐をしていたのです。そして,最後に,父親を殺そうとしていました。
 羽原教授は,彼の手術のおそるべきインパクトに驚いていましたが,これが手術の成果なのか,謙人のもともとの能力なのかは明確ではありませんでした。その再現性を確認するために,なんと娘の円華に対して,同様の手術をしたのでした。もちろん,それは,円華が自ら望んだことだったのです。もし竜巻を予測できていたら母親を救えていたかもしれないと考えた円華は,その能力を得ることを望んだのです。
 謙人と円華は,同じ病棟で知り合うことになるのですが,謙人は失踪をします。円華は,謙人が硫化水素で二人を殺したと考えて,事故のあった温泉地に姿をみせ,そこで青江教授と遭遇していたのです。円華は,謙人が父親を殺すことを阻止しようと考えて,奔走します。最後,円華は,謙人が才生を犯そうとするところを,彼女が新たに得た予知能力を使って寸前で阻止します。しかし,才生は結局,自殺してしまいます。
 という話なのですが,その続編が,『魔力の胎動』です。こちらは短編なのですが,円華の特異な予知能力が,いろんな人を救っていくという話です。才生の映画の犠牲者といえる鍼灸師の工藤ナユタが主人公なのです(前作と同様,才生の映画への異様なこだわりが,周りに不幸をもたらします)が,青江教授もまた登場します。うまい続編になっています。私は続編のほうから読んだのですが,それでも十分に楽しめるものでした。
 久しぶりに東野ワールドに浸ることができて良かったです。 

2022年5月13日 (金)

『コリーニ事件』

 ロシアは,ウクライナ侵攻の大義名分として,ウクライナのネオナチをやっつけるということを挙げています。もちろん,これはこじつけなのでしょうが,ネオナチやナチスという言葉が,ここで使われるのは,なおこの言葉が強い意味をもっているからでしょう。ナチスへの恐怖や憎悪が,ロシア人の中から消え去っていないからかもしれません。
 Prime Videoで,「コリーニ事件」(原題は,「Der Fall Collini」)というドイツ映画をみました。映画の内容はフィクションですが,史実に基づいたものだそうです。以下,ネタばれあり。
 ドイツのホテルのスイートで,大物実業家で富豪であるMayerが拳銃で射殺されます。犯人は,イタリア出身でドイツ在住の老人Colliniでした。Colliniは逃げもせずに逮捕されますが,その動機を語りません。弁護を引き受けたのは,母親がトルコ人で,弁護士になったばかりのLeinenでした。Leinenは,Mayerに息子のように大事にされて育っていたため,そのMayerを殺した男の弁護をすることに最初は躊躇していましたが,弁護士としての責任から引き受けます。黙秘を続けるColliniに手を焼くLeinenでしたが,彼が殺人で使った拳銃が,Mayer家で見覚えのあったのと似ていたことから,彼は事件の手がかりをつかもうとします。Leinenは,Colliniの出身地であるToscana 地方のMontecatiniに行きます。そこで知ったのは,Colliniの父親が,ナチスの親衛隊であった若き日のMayerに無残に銃殺されていたことでした。しかも,Colliniの父親は,まだ子どもであったColliniの目の前で殺されたのです(このシーンが何度も出てきて,つらいものでした)。Colliniは,Mayerに復讐したのでした。ただColliniは,実は,姉と一緒に,Mayerを戦争犯罪者として告発していました。ところが,刑事事件にはなりませんでした。その理由は,Dreher(ドレーアー)法にありました。この法律により,ナチス親衛隊の犯罪は時効によって救われたのです。そこではちょっと難しい議論が出てくるのですが(私もよく理解できているわけではありませんが,詳しくはドイツ刑法の専門家にお聞きください),ドイツにおいて殺人は謀殺と故殺とに分けられ,ナチス幹部の殺人は謀殺(快楽殺人など)として重罪であるが,その共犯である幇助者は謀殺にあたらず,故殺にとどまることになりました。故殺となると,時効期間は謀殺よりも短くなり,ナチスの親衛隊たちは,これにより刑を免れることができたのです。Leinenは,この裁判にMayer側の弁護士として参加していたMattinger(刑事法の大学教授で,Leinenも教わったことがありました)から,あまり真相を暴かないようにという圧力を受けるのですが,Leinenはそれに屈しません。Mattingerは,法廷では,Mayerが戦争犯罪としては無罪とされていたことを強調して,Colliniの情状酌量を認めないような主張をしていたのですが,Leinenは,Mattingerを法廷で証言に立たせ,Dreher法の不当性を認めさせました。こうして,戦時時に行われた合法的な行為をした者に私的制裁を加えたという検察側の主張は崩れ,実は違法な行為をしていた者が不当な法律により救われていたことが浮かび上がり,どのような判決になるかが注目されていたのですが,裁判は最後の段階で,Colliniの自殺で終わります。家族のいない彼は,父の復讐を遂げて,人生の目的を達成したと考えたのかもしれません。
 ナチス親衛隊が,それを救う法律によって守られていたことに驚きました。身分なき幇助犯への必要的減刑(謀殺から故殺へ)という一般人にとってはおそらく理解できないような議論で,ナチスの犯罪が合法的に闇に葬られようとしていたことの恐ろしさと,それをあえて明るみにだして断罪しようとした本映画や原作者の良心に,ドイツ人の二面性が感じられます。私的制裁が許されないのは当然としても,法が制裁を与えないとき,被害者の遺族はどうしたらよいのでしょうか。私的制裁や自救行為を禁止した国家が代わりにそれを行うという責任を放棄したとき,個人の私的制裁はおよそ禁止されるべきでしょうか。映画では,Colliniは自決したことから,自分にも制裁を与えたのです。こうした私的制裁の連鎖を防ぐためにも,刑事法というものの果たす役割がきわめて大きいことを,改めて認識させる映画です。
 ところで,ナチスの問題は,いまなおドイツ人の若い世代においては,重くのしかかっているのかもしれませんが,その一方で,ナチス親衛隊の子孫もいます。子孫には,何も罪がないのです。この映画でも,Leinenは,かつての恋人であったMayerの孫娘のJohannaに,そう語りかけます。誰もが,あの時代に生まれていれば,親衛隊になりかねなかったのです。だから独裁者を生まないようにすることこそが,何よりも重要だというのが歴史の教訓です。そういう点からは,元の話に戻ると,ナチスの亡霊はなおさまよっています。ナチスの脅威を語りながら,自身が一番ナチス的な行動をとる者がいるのです。欧米諸国や日本は,Putinに対して甘すぎたのではないかという反省が必要でしょう。そして,二度とこうした独裁者が現れないようにするためにどうすればよいかを,日本人も真剣に考えていく必要があります。独裁者の及ぼす災厄は,私たちのすぐ近くに迫ってきているかもしれないのです。

2022年5月12日 (木)

冤罪の生まれ方

 昨日,紹介した岡田尊司『マインド・コントロール』(文春文庫)の続きです。この本では,人間を使った実験において,外界からのあらゆる刺激を遮断してしまうと,人間は簡単におかしくなってしまうことも紹介されています。脳というのは情報から遮断されてしまうと,情報飢餓状況が生まれ,そうなると,どんな情報でも受け入れてしまうのです。これがマインド・コントロールの一つの手法であり,監禁状態に置くと,その期間がそんなに長いものでなくても,こういう状況が生まれてしまうようです。拘留されて,外界から遮断されてしまい,そして連日厳しい捜査を受けると,早くそのような状況から解放されたいというように脳が欲して,捜査機関のいう情報を受け入れてしまうこともあるのです。いったんそうなると裁判でも,証言は真実を語られることがなくなります。嘘と分かっていて嘘をつくのではなく,本人は吹き込まれた情報が正しいものであると心の底から信じているのです。誤った情報の受容が無意識に行われるのが怖いところです。このため,裁判になっても,吹き込まれた情報を真実と信じて証言をしてしまうので,注意深い裁判官であっても,それがマインド・コントロールされた証言と見破ることができないのです。ただ,どこかの段階でマインド・コントロールが解けると,本人は真実を語れるようになります。それが間に合えばよいのですが,処刑されてしまうと,その機会もありませんし,独裁政の国では,絶対にマインド・コントロールが解けないようにし,とっとと処刑してしまうのでしょう。
 そういえば少し前に北朝鮮を旅行していたアメリカ人大学生が窃盗で逮捕されて有罪とされ,結局,廃人同様の状況で帰国し,そのまま亡くなったということがありました。拷問されたのではないかと言われていましたが,肉体的には拷問はされていなかったようです。しかしながら本人はやはり脳に大きな損傷を受けていた可能性があります(精神的な拷問)。彼は謝罪会見も行っていましたが,強いマインド・コントロールにより,自分が北朝鮮側の言うような犯罪をおかしたと信じ込まされていたのかもしれません。その会見の直前にはおそらく過酷な監禁や精神的な負荷が与えられて,自分の無意識の認識が書き換えられてしまった可能性があるのでしょう。脳というのは恐ろしいものです。
 ところで,この本では,マインド・コントロールの5つの原理というものが示されています。①情報入力を制限する, または過剰にする,②脳を慢性疲労状態におき,考える余力を奪う,③確信をもって救済や不朽の意味を約束する,④人は愛されることを望み,裏切られることを恐れる,⑤自己判断を許さず,依存状態に起き続ける,です。
 例えば,過剰な情報にさらされ,脳が疲労状態に陥るなかで,他人からの優しい言葉をかけられてしまい,その相手を信用し,その相手から自信たっぷりの指示を受けて,これに従えば大丈夫と言われてしまうと,簡単にそれに従ってしまうかもしれません。マインド・コントロールの罠に落ちないように,日頃から気を付けて生きていきたいものです。

2022年5月11日 (水)

マインド・コントロール

 ロシア国内では,Putinの戦争に対して多数の国民が支持をしているそうです。国外にいると,ありえないことのように思えます。ただ,ロシア人だから,あるいはロシアを愛しているから,Putinを支持しているというわけではなく,実際ロシア人のなかでも国外に逃げている人がたくさんいますし,戦争前から外国に住んでいるロシア人はPutinの戦争に反対をしている人が多いようです。 要するに,国内にいればPutin支持になるということで,そこにはロシア国民が何らかの形で情報統制を受けてマインド・コントロールがあると考えてもおかしくないでしょう。
 岡田尊司『マインド・コントロール(増補改訂版)』(文春新書)を読むと,マインド・コントロールが起こるプロセスを「トンネル」にたとえて説明する話がでてきます。 「トンネル」という言葉には,「外部の世界からの遮断」と「視野を小さな一点に集中させること」という意味が含まれています。これが,たとえば普通の人がテロリストになっていくようなときに,共通して経験することなのだそうです。オウム真理教の修行などにもあてはまるのでしょう。 そういうカルト集団だけではなく,ある特定の組織の中で,その文化にどっぷりつかまって,他の価値観を受け入れることをせず,そういうなかで,その組織のためというような限定された目標を指示され,その指示に従う者は賞賛され,そうでない者は徹底的に非難されるような環境があると,非常にマインド・コントロールが起こりやすい状況となります。もちろんマインド・コントロールされても,支配側が正しくコントロールしてくれる場合であればよいのですが(親が幼児に行う場合など),犯罪組織や独裁者などに利用されてしまうおそれもあるわけです。
 この本では,マインド・コントールの手法だけでなく,マインド・コントロールされる側の特性やする側の特性も示されています。とくに恐ろしかったのは,する側の特性です。「悪しきマインド・コントロールに走る者は,他者を支配する快楽が強烈なのに比して,それを思いとどまる共感や思いやりを稀薄にしかもたないと言える。そうした特性は,精神医学的には,一つの人格構造の特徴に一致する。それは自己愛性である。自己愛性人格構造は,肥大した自己愛や幼い万能感と,他者への共感性の乏しさや搾取的態度を特徴とするもの」なのだそうです(54頁)。そして,「万能感の肥大した誇大自己を抱えた人は,自分が死ぬときには,世界を道連れにしたいという思いを抱きやすい。その人にとっては,自分が世界より重要なので,自分が滅んだのちも,世界が存在するということが許せないのだ」ということです(57頁)。
 Putinはもはや出口のない戦争に突入しているようにみえます。世界を敵にしてもうダメと観念したとき何が起こるのか。世界を道連れに核戦争に突入する危険がないと誰が言えるでしょうか。

 

2022年5月10日 (火)

吉野家の外国籍学生排除問題について

 吉野家が,新卒採用の説明会に外国籍の大学生の参加を拒否していたことが報道されていました。拒否の理由は,就労ビザの取得が困難で,内定を出しても入社できない可能性があるため,ということのようです。これがどこまで説得的な理由となるかはよくわかりません。過去にそうした例があったからといって,そういう取扱いを一律に行うのだとすると問題でしょう。差別というのは,そういうステレオタイプな発想による取扱いから生じるのです(「君は黒人だから・・・」「君は女性だから・・・」という発想がダメということです)。
 法律論でいえば,労働基準法3条は均等待遇原則を定め,国籍を理由とする差別的取扱いを禁止していますが,通説は,これは労働契約成立後を対象とするものなので,採用前の段階には適用されないとしています。ただ,労働契約締結前を対象とする職業安定法の3条も,均等待遇原則規定を置き,「何人も,人種,国籍,信条,性別,社会的身分,門地,従前の職業,労働組合の組合員であること等を理由として,職業紹介,職業指導等について,差別的取扱を受けることがない」と規定しています。今回の吉野家のケースは,「職業紹介,職業指導等」をどこまで広く解釈するかによりますが,たとえ法律に抵触しないとしても,採用時の公正な取扱いは,企業の社会的責任として果たすべきものです。どのような基準で選考をするかは企業の裁量があるとしても,基本的には能力と適性に結びつく基準で採用選考するというのが,公正な採用のポイントです(拙著『人事労働法―いかにして法の理念を企業に浸透させるか』(弘文堂)63頁)。今回は採用基準の問題ではないともいえますが,たとえそうであるとしても,企業には,とりわけ性,年齢,障害,国籍などに関係する取扱いは差別的であると誤解されないような慎重な行動が求められ,「強い」対応(就職説明会から排除するなど)をする場合には,本人に納得をしてもらえるように誠実に説明すべきとするのが,人事労働法の発想です。
 採用前なのだから,そこまでやる必要があるのかという疑問も企業側にはあるかもしれません。しかし,就職説明会を実施するなど一般的な形で求人をしている企業は,そこに参加を求めてきた求職者との間では,信義則が適用されるべき社会的接触が生じているとみることもできるでしょう。そうなると法的な関係があることになります。かりにそこまで言えなくても,企業は求職者との社会的接触がすでに生じている以上,求職者の人格的利益に配慮した行動をとるのが,企業の社会的責任として求められるのです。こうした非法的な責任まできちんと果たすことは,企業に求められる良き経営の基本といえるのであり,それが企業価値を損なわないためにも必要なのです。ESG投資の時代の株主は,そういう点を見逃さないでしょう。
 私は吉野家の牛丼には関心がありませんが,誰もが知っている著名な企業が,今後,どのように変化していくかについては関心をもって見ていきたいと思います。

2022年5月 9日 (月)

名人戦第3局

 将棋の名人戦第3局は,斎藤慎太郎八段が一矢を報いました。ここで負けてしまうとズルズルと4連敗というおそれもあったかもしれないので,一安心でしょう。第3局も,2日目の途中までは渡辺明名人がやや優勢という感じでAIの評価値も60 を超える状況でした。このまましっかりと優位を維持して,手堅く逃げ切るということになりそうかなと思っていたのですが,終盤の入口あたりのところで,渡辺名人に緩手が出て,斎藤八段がたちまち優勢になりました。評価値は大きく変化しました(60から30に低下)。最近の将棋の楽しみ方には,この評価値の大幅な揺れというところが追加されています。斎藤八段は,優勢になってからは見事な指し回しで,最後は駒を捨てながら見事に渡辺玉を寄せました。やっと斎藤八段の良さがこの名人戦で発揮できたと思います。次戦以降が楽しみです。
 王座戦挑戦者決定トーナメントでは,藤井聡太竜王(五冠)が,大橋貴洸六段に敗れました。藤井竜王の数少ない苦手棋士で,これで4連敗となりました。大橋六段も勝率は高く,実力のある棋士ですが,藤井竜王がここまで苦しめられるのはちょっと驚きです。この将棋も序盤はほぼ互角で,終盤に入ったところで,藤井竜王が龍をつくり,相手玉に迫っていたので,好調かと思ったのですが,どうもむしろ攻めさせられていたようで,龍を切らされて,やや攻めあぐんだところで,大橋六段の優勢となりました。ところが,そこで大橋六段の緩手が出て,評価値では一気に藤井優勢となったのですが,そこで藤井竜王に受けの手でミスが出ます。7一金を打てば勝勢だったようですが,それを6二に打ったために逆転となりました(素人目には,6二のほうが良さそうだったのですが)。あとは大橋六段が時間を残していたこともあり,着実に藤井玉に迫りました。終盤での藤井竜王の受けのミスというのは珍しいのではないでしょうか。
 これで王座戦敗退で,藤井竜王の八冠への道は,少し遠のきました。永瀬王座が一番ほっとしているかもしれませんね。ただ王座戦では,渡辺名人も豊島将之九段も勝ち残っており,この二人が決勝で顔を合わせることになりそうですが,大橋六段にも初タイトル挑戦のチャンスがないわけではないでしょう。

2022年5月 8日 (日)

白いカーネーション

 いまの子どもたちは,レコードプレーヤーで音楽を聴いていた時代のことなど,想像もつかないかもしれませんね。中学生くらいになってから,家に新しいステレオが届いたのをきっかけに,おこづかいでレコードを買って聞くようになりました。当初はフォークソング,とくに拓郎のものばかりでしたが,一つだけ陽水のものをもっていました。それは,自分で買ったものではなく,年長のいとこからもらったものなのですが,陽水がアンドレ・カンドレから陽水という名になって2枚目のアルバムの「陽水Ⅱ センチメンタル」でした。これは何度も聞きましたね。ギターの練習によかった「東へ西へ」もありましたし,「夏まつり」も耳に残っています。子どものころは,陽水の曲は,心にしみるということはなかったのですが,年を重ねていくと,陽水はいいなと思うようになってきました。
 「センチメンタル」に入っている曲に「白いカーネーション」もあります。短い曲ですが,頭に残っています。今日は母の日なので,ついつい私も口ずさんでしまいました。もうレコードは手元にありませんが,YouTubeで聴くことができました。とても懐かしかったですね。私の世代以上では,私と同じように思わず口ずさんでしまう人も少なくないのではないでしょうか。
 白いカーネーションという花は,亡くなった母を偲ぶものだそうですが,陽水の曲でもそういう意味で,あえて「白い」と言っているのかはよくわかりません。ただ,歌詞のなかにある「どんなにきれいな花も,いつかはしおれてしまう。それでも私の胸にいつまでも」というのは,亡き母のことをいつまでも思っているという意味で理解することもできそうです。
 私自身,この年齢になっても,9年前に亡くなった母のことを,いまでもときどき思い出すことがあります。母は偉大です。世間では,幼いときに死別したり,虐待などで離別せざるを得なかったりという理由で,母親の愛情に十分にふれることができていない子どもたちもいるでしょう。母の日が,赤いカーネーションを贈ることができない境遇の子どもたちのことを考える日でもあればと思います。

2022年5月 7日 (土)

記憶力では勝負できない時代

 今朝の日本経済新聞で,「3メガ銀,今年度の中途採用8割増―新卒偏重から転換」というタイトルの記事が出ていました。銀行が従来型の人員(新卒採用)を減らすのは,AI時代の到来とともに予想されていたことです。新たな業務に対応した即戦力が必要となるので,中途採用が増えるのは当然です。これは新卒を採用して,企業内で人材育成するという日本型雇用システムの終焉を象徴する出来事といえます。FinTechの登場でゆさぶられる銀行などの金融機関で,こうしたことがまず起こるのですが,その後,多くの企業(とくに大企業)でも同様の変化が生じることでしょう。中小企業では,もともと中途採用が多いので,変化はそれほど顕著な形では現れないようにみえるでしょうが,ただ中途採用の質がデジタル人材に変わっていくという点では大企業と同じような変化が予想されます。
 大学も高校も,また学生もその保護者も,意識を変えておかなければ大変なことになります。学歴不問というのは,かなり前から話題になることがありましたが,結局は一般化しませんでした。だから今回も同じと思っている人が多いと思います。しかし,企業内でどのような人材が必要となるかは,生産に用いている技術によって左右されるのです。その技術の革新がとつてもない速さと規模で起きているのです。現在の学歴は従来型技術の下で求められていたスキルを前提としたものですが,求められるスキルが変わるのです。当然,学歴の内容も変わります。
 受験秀才が秀才である理由の一つは,記憶力の良さにあります。ブッシュマンの時代から,優秀とされる人は記憶力が抜群であったと思います。言語や文字の発明により,脳で記憶する必要性は小さくなりましたが,それでもなお記憶力は重要な意味をもってきました。記憶力などをつかさどる脳の部位(大脳皮質や海馬)の発達が,ヒトが生き延びるために必要であったのです。そのため,記憶力の高い人の遺伝子は,生存に有利なので,ずっと継承されてきたのだと思います。だから,そういう部位が発達していて「頭が良い」人が尊敬されるのも当然だったのです。そういう人が社会を統率していくことが,ヒトの生き残り戦略においても重要であったのです。
 しかしいまデジタル時代が到来して,記憶のかなりの部分が「外付け」のようになると,ヒトの生存戦略における記憶の価値が減っていくことになるかもしれません。そうなると,私たちにとって生存のために求められるものが変わっていくでしょう。記憶だけでなく,様々な精神活動もAIが代替できるようになると,脳はどう変化するのでしょうか。人間を人間たらしめている大脳皮質や前頭前野にも変化が生じるのでしょうか。ぜひ脳科学者に話を聞いてみたいです。

2022年5月 6日 (金)

人はなぜ働くのか

 昨日は休日の話をしましたが,やはり働かないことの価値をもっと考えたいですね。こういう問題意識は,若いときのイタリア留学体験の影響が大きいです。
 労働と失業・貧困を対置すれば,労働は良いこととなります(すくなくも収入が得られる)。山中伸弥さん流のwork hard もよくわかるのです。ただ労働の意味を,労働しないという反対の視点から再考できないかということにも,私はこだわってきました。
 実は『雇用社会の25の疑問―労働法再入門』(弘文堂)の最終話は,初版から3版まで,働くことの意味を問うテーマにしてきました。労働法の再入門というとき,最後の最後はこのテーマに行き着くのです。法律に関心のある読者にはスルーされてしまいそうなテーマですが,本人としては,単なる最後の付け足しというものではなく,真剣に採り上げてきたつもりです。
 初版(2007年)の第25話(最終話)は,「ニートは何が問題なのか。―人はどうして働かなければならないのか―」というタイトルでした。そこでは,働くことを無条件に善と考えて,働かないニートに対して批判的な目を向けることへの疑問を提起しました。しかし,働くことの意義については,結局は,読者に投げかけた形で終わっています。
 第2版(2010年)の第28話(最終話)も,タイトルは同じでしたが,終わり方は少し違っていました。「エピローグ」という小見出しをつけて,左京泰明氏の『働かないひと。』(2008年,弘文堂)にふれながら,「仕事をすることは,社会の中の役割分担である」という話を採り上げています。ここに働くことの本質があるのではないかと思ったのです。これが現在,労働とは,個人が分業して,社会課題の解決のために貢献すること,という私の労働論とつながっていきます。
 第3版(2017年)の第25話(最終話)は,第2版までのサブタイトルだけを残し,少し修正して「私たちにとって,働くとはどういうことなのか。」というタイトルにしました。もうニートという話題でもないからです。AIやロボットの出現を視野に入れながら,人間の労働とは何かということを根本的に考えなければならない,という問いかけで終わっています。そのなかには,ブッシュマンの生活にも言及しています。労働というものを,生存というものの根源的な行為に結びつける発想を,そこでは示しています。
 こうしたなかから,2020年の『デジタル変革後の「労働」と「法」~真の働き方改革とは何か?』で示した(上記のような)労働論につながっていきます。
 人が働くのは,根源的には,動物としての人間の宿命であり(食料を確保するためには動かなければならない),それが徐々に社会を形成するなかで,その一員として社会に貢献する行動へと広がっていきます。そうした貢献は社会への責務としてとらえなければなりません。労働の義務性です。しかし,どのようなことで貢献するかというところで,本人の選択の余地もあります。もちろん,適職を選択したほうがよいのですが,適職は何かは自分で見つけ出すのであり,そこに自己決定の余地があるのです。企業の事業活動も,実は労働の延長線にすぎないのですが,雇用という働き方が出てきて,個人の労働の主体性が失われてしまいました。
 私が『雇用社会の25の疑問』で初版以来ずっと問い続けてきてことの私なりの答えが,いまようやく固まりつつあります。しかし,それもまだ通過点にすぎません。さらに,拙いものであっても,自分なりの思索を深めて,世に問うことができればと思っています。

 

 

2022年5月 5日 (木)

休日は大切

 今日で連休(連続の休日)が終わる人も多いでしょう。今年のゴールデンウイークは,後半は晴天が続いて,人出も多かったようであり,いよいよコロナとの共生が始まったといえるかもしれません。マスクをつけていない人も徐々に増えているようです。私は当分はマスク着用派でいるつもりであり,マスクを付けない人が集まるところには行かないつもりです。これはコロナ対策ということもありますが,長年悩まされてきた秋や春に起こるしつこい咳の症状が出なくなったことでQOLが飛躍的に向上したので,因果関係はよくわかりませんが,いまの行動形態を変えなければ,それが続くのではないかと期待しているからです。
 明日も休みにして,来週の月曜から仕事が始まる人もいるでしょう。ただでさえ月曜は,週休2日の場合でも,これから5日働かなければならないと思うと気が重いのに,連休明けとなるといっそうでしょう。これがもし週休3日で,たとえば水曜が休みとなると,ずいぶん気が楽になるかもしれません。2日頑張れば休みがあるというのと,5日頑張れば休みがあるというのとは,大きく違うはずです。
 週休3日は,英語ではfour-day workweekと言い,アメリカなど海外でも導入の動きがあるようです。労働日の短縮がどれだけ生産性の向上に役立つかは業種によって異なるのでしょうが,テレワークなどと並び,労働者の時間主権(や場所主権)を強化する動きとして注目されています。もちろん,生産性の向上により,企業にもメリットがあることが,徐々に実感されてきているのではないかと思います。
 労働基準法は最低基準規制なので,週休は1日でよいというように,どうしても控えめになりますが,これからはデフォルト設定が法の重要な役割であるという私の発想からは,「標準就業規則」はせめて週休2日にすることは考えてもよいかもしれません(拙著『人事労働法』(弘文堂)187頁以下では,そこまでは踏み込んでいませんが)。ただ,それより重要と思うのは,労働基準法が休日労働をわりと簡単に認めていることです。週1日の貴重な休日であっても,三六協定と割増賃金という条件がそろえば,合法的に労働させることができます。もちろん就業規則上の根拠か本人の同意は必要となりますが,休日に労働をさせてもかまわないということ自体が大きな問題であるというのが,私の年来の主張です。 
 休日労働は原則禁止とし,労働基準法33条に該当するような場合を除き,納得規範に基づき例外的に許容するという規制にしていくことが必要と考えています(詳細は,上記拙著188頁)。

2022年5月 4日 (水)

労働法の観点からみた知床遊覧船事故

 知床の遊覧船事故は,14名が死亡,12名が行方不明という悲惨な結果になってしまいました。亡くなった方の悔しさや遺族の悲しみを思うと辛くなります。社長は「お騒がせした」ことを詫びていますが,根本的にズレてしまっていて,話になりません(社長も刑事責任を問われる可能性がありそうです)。
 こうした事故では,どうしても船長の責任が問われることになるのですが,船長もおそらく亡くなっており,会社の体質がいろいろ明るみになるなかで,船長も犠牲者ではないかという気がしています。
 この遊覧船の船長が,船員法の対象となるのかは,よくわかりませんが,かりに船員法が適用されても,船員の「雇入契約」は,広い意味での労働契約の一種です(そのことを前提に,労働契約法は,船員には一部適用除外がされています[20条])。
 いまかりに,この船長が通常の労働者と同じような立場だと考えてみましょう。他の会社が船をだしていないような悪天候が予想されるなかで,会社の指示で出航せざるをえなかった場合,このような指示(労務指揮)を拒否できるというのは,この種の事件でよく参照される千代田丸事件・最高裁判決(19681224日)から導き出しうることです(この判決は,事案が少し特殊なので,読み方はやや難しいところがありますが)。理論的にも,労務指揮権というのは,労働契約に内在する限界として,生命に危険のあるような業務に従事させる命令を有効に出すことはできず,したがって,労働者はそれに従わなくても債務不履行ではなく,懲戒事由にも該当しないというのが普通の考え方です。
 一方,船長は,自身のことだけでなく,多くの乗客の命を預かる面があるので,そのために行動すべきともいえます。ただ,専門家としての船長が,専門知識に基づき出航をすべきではないと判断したとき,そのことを理由として出航命令に背くことが正当化されるか(命令違反が免責されるか)というと,それははっきりしません。自身にとっての危険性ゆえに命令に従わないことは免責されても,乗客のための危険回避行動ゆえに労働契約上の義務違反を免責されるという法理はないように思います。もちろん,一般法理や条理などで船長を免責させることはありえるのであり,裁判になると,そういう法律論で事件処理を目指すべきではあります。ただ,現場ですぐに判断しなければならないとき,企業の(目先の)利益と矛盾する場合でも,乗客の生命を優先させてよいという明確なルールがなければ,どうしても危険な行動に突入するということが起きてしまうのではないかと思います。
 これと似たような問題は,実は公益通報についてもあります。企業内の不祥事を外部に告発するのは,企業に不利な行為であり誠実義務違反となりそうですが,社会にとっては有益なことで,これを優先させるべきといえます。この場合,社会のためということから,労働者の誠実義務違反が免責される(懲戒処分が権利濫用となるなど)可能性はあるのですが,それが可能性にすぎないものであれば,従業員がいざそういう場面に遭遇したときに,どう行動してよいか迷うことにあるでしょう(その結果,告発をしないということになる可能性が高いのです)。公益通報者保護法は,こういうときに,どういう行動をとれば免責されるかを示すことを目的とした法律といえます(実際には,行為規範としての明確性にやや難がありますが)。このような発想による,企業の利益より公益を優先させる行動をとる労働者を支える法律は,その業務が人々の生命に関わるような業務に関しては,とくに必要なのかもしれません。
 こういう法律がないなかで,会社の指揮命令下に置かれ,誠実義務も課されている労働者に,客の生命の保護や社会利益への貢献といったことについて大きな責務を課すのは酷です。職業倫理の問題といっても,限界があります。やはり企業が社会的責任をはたす行動をとることこそ,最も重要だと思うのですが,今回の事故で一番気になるのは,同業他社の行動です。他社は,今回の出航が危険であることは十分にわかっていました。しかし,知床遊覧船が出航するのを。結局は黙認してしまった形となっています(船長に出航しないほうがよいと忠告した同業者はいたようですが)。もちろん他社がやることだから,口を出せないということかもしれません。余計なことを言うと,営業妨害と言われてしまう懸念もあったかもしれません。それでも,この出航の危険性を,現場の近くで一番理解しているのは,同業他社やその従業員であったはずです。どうして無理にでも止めなかったのかということが,悔やまれます。ただし,詳しい事実関係をわかっているわけではないので,私の事実認識が間違っていたら,申し訳ありません。いずれにせよ今回の件で,同業他社を非難するつもりはありません。ただ今後への教訓として,こういう事故を防ぐためには,現場にいる他企業が危険な業務をする企業を止めることもまた社会的責任であるということを明確にすることが重要でしょう。そのうえで,たとえば,同業の企業で自主的なルールをつくり,それを互いに遵守させることにし,それを遵守しない企業には,他企業が客にその情報を提供すべきこととし,そうした行為は業務妨害罪にあたらず,不法行為にもならないということを法令で明確して,社会的責任をはたした企業が損をしないような法制度を設計することも一考に値するのではないかと思っています。
 これは労働法の問題ではないようですが,客を危険に巻き込むような業務を労働者に強いる企業は「ブラック企業」なのであり,そういうところで労働者が働かなくてすむようにするという点では,労働法の問題ともいえるのです。

2022年5月 3日 (火)

憲法記念日に思う

 施行から75年が経った日本国憲法をめぐっては,改憲勢力を勢いづかせるようなロシアのウクライナ侵攻があり,その見直しも視野に入れて議論しようとする意識が国民の間でも広がりつつあるようです。この機会に憲法に向き合って,自分たちの国のことを真剣に考えてみることは大切です。
 憲法は,それほど長いものではないので,一度,しっかり読んでみるのもよいのですが,いきなりつまずいてしまうかもしれません。
 本則の最初にある第1条は「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く」と規定されています。このように天皇の地位は,日本国民の総意に基づくのですが,この「総意」とは何なのでしょう。天皇を日本国民統合の象徴と認めない人が増えれば,天皇の地位はどうなるのでしょうか。あるいは象徴と認めよ,ということを憲法が定めているのでしょうか。そうなると,憲法自体が,19条で保障している思想・信条の自由を侵害していることになります。
 このように憲法を前から読み始めると,いきなり天皇制にぶちあたります。憲法と向き合うためには,天皇をめぐる議論をタブー視しないことが大切です(私は別に,ここで天皇制を見直せということを言いたいわけではありません)。
 それはさておき,憲法は人権を保障するものであり,とくに重要なのはマイノリティの人権だということが,よく言われます。民主主義社会においてマジョリティの意思により法律が制定され,執行されていくという権力構造のなかで,マイノリティの自由を守るのが,法律より上位にある憲法の役割であるということからすると,マイノリティの人権と憲法は密接な関係にあるといえるでしょう。
 人権の本来の機能は,政府が国民の権利を侵害しないようにすることにあります。人類は,社会をうまく動かしていくために,誰かに統治を委ねるということをしてきたのですが(動物の世界でも,いろいろな形でリーダーやボスがいて,その集団の安全と持続的発展のために尽くす役割をしています),そのために必要となる「権力」がときに濫用されてきたという歴史にかんがみ,権力を抑制するために,国民主権を明確にし,権力は法律に基づいて行使されるものとしたのです。法律を制定する国会を国権の最高機関とし,その国会は,全国民を代表する選挙された議員で組織されるものとし,内閣は国会で制定された法律を誠実に執行し,裁判官は法律に拘束されます。このように国家権力の行使は,究極的には,国民が選挙をとおして国会議員にゆだねているといえるのですが,絶対君主でなくても,権力がきちんと行使されないことがあるので,憲法というものが最高法規として君臨することになり,これに反する法律は効力を有しないものとされています。
 憲法のことを考えるとは,こうした統治構造の特質と,そのなかでの権力の濫用による人権侵害の危険性を考えることと同義であり,現実の政治の動きをきちんとチェックするということから始めなければなりません。たとえば政治家がやろうとしている憲法改正は,自分たちを縛る最高法規を動かそうとしていることですから,そこに不当な動機がないかは厳重にチェックする必要があるのです。最終的に国民投票で決着をつけるとはいえ,昨今のロシアの動きをみると,住民をうまく情報統制して投票を操作しようとすることがあるのであり,立憲民主党が広告規制に神経をつかっているのは,わからないではありません。
 話を戻すと,人権の意義が国家権力からの防御にあるとすると,私たちの社会におけるマイノリティ差別のような問題は,広い意味での人権問題であると呼ぶことはかまわないものの,やはり本来の人権問題とは区別したほうがよいと私は考えています。たとえばLGBTQは,法律により明示的に差別対象となっているものではないので,むしろ社会の道徳的な成熟度の問題という面が強いと思っています。もちろん,たとえば同性婚などの問題は,法律問題ではあるのですが,それは憲法論として「上から」論じるべきものではなく,私たちの社会の価値観をベースにしてマジョリティの価値観を変えながら実現していくべき問題ではないかと思っています。個人の尊重は憲法13条にも規定はありますが,これは憲法でそう書いているから守るべきなのではなく,基本にあるのは個人が人間として守るべき道徳であり,それを憲法で実定化しているにすぎないとみることもできるのです。
 この視点が重要なのは,憲法は法律による人権侵害を危険視していることからすると,個人どうしの間にある逸脱行為については,できるだけ法律に頼らずに,社会の構成員である一人ひとりの道徳的成熟により対処することを目指すべきという方向性を明確にできることです。国会議員を信用するなとまでは言いませんが,権力の危険性は忘れてはならないことです。これこそが憲法の教えなのです。もちろん,こうした憲法観は古くさいもので,憲法は法律を超越したものなので,積極的に私人間にも適用して,憲法の理念を浸透させていくべきであるという議論のほうが,いまでは普通の考え方なのかもしれません。しかし,私は道徳で対処できる問題を憲法問題にまで拡大するのは,憲法の本来はたすべき使命をあいまいにしてしまい,過剰に国家権力に「頼る」という意識を広げてしまわないかを懸念しています。前述のLGBTQに対する差別という問題も,憲法問題として取り組むよりも,個人の多様性を重視する個人の意識の向上をいかにめざすかという視点で,法ではなく道徳の問題として扱ったほうがよいということです。道徳教育は,どうしても国民の思想・良心の自由を侵害する懸念から,積極的にその重要性を指摘することに警戒感があるのは,よくわかるのです(なお,現在の道徳教育についての内容や影響については,十分な情報がないので,まだ私にはよくわかっていません)が,法も道徳も社会統制の規範であり,法学教育があるのであれば,道徳教育もあってしかるべきだと思います。国家による道徳教育の暴走の危険性を抑制しながら,いかにして民主的なルールという危ういもの(権力の正当化)に乗せずに,私たちを自律的に良き行動に導くことができるかということを考えていく必要があります(そのためにも道徳を共有しにくい分断社会にならないようにすることが重要です)。以上は,憲法の限界を考えようという議論です。
 もう一つ憲法というと,平和があります。国家権力と人権の関係を上記のように考えると,他国の侵略により人権を侵害されるというのは,本来,憲法問題ではないことになります。ただ日本では,必ずしもそういうことにはなりません。
 どのようにしたら平和を実現できるかは,憲法では答えを出せない問題であり,それゆえにみんなが自らの頭で考えていかなければならないのですが,そのときに想起されるのが,やはりカントの永久平和論でしょう。カントは常備軍の廃止を唱えています。常備軍があるということは,臨戦態勢であるということであり,他国に脅威を与えてしまい,これでは平和は遠のきます。現在,ロシアのウクライナ侵攻で自国の防衛の重要性を唱える意見が高まってきており,自衛隊の増強論も出てきそうです。しかし憲法をみると,その第9条は,永久平和への高らかな宣言でした。自衛隊の存在は,他国からみると常備軍であり,憲法9条との整合性は普通に考えれば否定されることになりそうです。だからといって憲法9条を改正すべきかというと,そこはなお疑問で,理想としての9条はあってよいという意見もあるでしょう。カントも理想主義的すぎるという批判を受けたそうです(カントの考え方を継承している国際連盟は失敗に終わり,現在の国際連合も,危機的な状況になってきています)。自衛隊に批判的な意見は,現実の脅威の下にかすみつつあるようですが,そういうなかで,日本の安全保障のあり方について,憲法9条のもつ理想主義と現実の折り合いをどうつけるかという難問に,とくに若者たちに真剣に取り組んでもらえればと思っています。

2022年5月 2日 (月)

Amazon での労働組合結成に思う

 昨日のメーデーの話の続きですが,Amazonで労働組合の結成が認められたという報道がありました。アメリカの労働組合結成については,1年ほど前にこのブログで紹介したことがありますが,日本とは法的制度が異なるので注意が必要です。とくに「交渉単位」での労働者の投票で過半数の支持があれば排他的交渉代表権限を得るというところが特徴的です。昨年は失敗したということを紹介しましたが,今回は一部の職場で結成に成功したそうです。
 ウクライナ情勢やコロナの影響から来るインフレは,当然,労働者の可処分所得の実質的な目減りをもたらすので,労働者の生活は苦しくなるでしょう。アメリカでは,ガソリン価格への反応がことのほか大きいようで,庶民の怒りは高まっているようです。不満の矛先は政府に向かうのですが,当面は雇い主に賃金の引上げを要求することになるでしょう。もちろん,それは企業業績がどの程度かということにもよるのですが,Amazonですから,そこは労働者側も強気にでれるでしょう。Amazonの今年の第1四半期(13月)が減益だったという報道が出ていましたが,Amazonが世界屈指の巨大企業であることに変わりありません。収益を労働者に回せという声に支えられた,いわば下からの組合結成は,労働組合活動の原点です。
 日本では,長らくデフレが続き,賃金交渉の必要性が小さかったために(デフレ下では,名目賃金が維持されれば,実質可処分所得は上昇する),春闘の賃金相場形成の意義が下がり,政府がもっと賃上げをと要求するほどになっていました。しかしいま,日本でもインフレの危機が迫っています。私も物価高をひしひしと感じています。エネルギー価格の本格的な上昇が始まると,国民からの賃上げの要求は高まるでしょう。
 もっとも,賃上げ圧力は,多くの業種において,いっそうのデジタル化を促進することになり,省力化も進んでいくことになるでしょう。Amazonもそういう対応をしていく可能性が高いと思われます。つまり,賃上げ要求は,労働者にとって,少し先のことを考えれば雇用を失うという形で跳ね返ってきうるのです。とはいえ,当面は急激なインフレ対応への生活防衛として賃上げ交渉は広がっていくでしょう。政府にとっては,それが労働者の怒りのはけ口になっていれば助かるでしょうが,賃上げをできる企業がどれだけあるかわからず,結局は,政府への抗議に広がっていく可能性は十分にあります。
 昨日も書いたように,労働組合は,雇用されない労働者が中心になるという展望をもって運動をしていかなければなりませんが,そこに移行するまでの雇用労働者の抱える様々な課題にどのように取り組んでいくかも重要であり,インフレ対策は労働組合にとっては,その存在感を発揮する格好のテーマです。政府は,労働組合があまりに存在感を発揮することには警戒するでしょうが,それがインフレ対策に取り組むインセンティブとなるのです。国民にとっては,労働組合が適度に強くなければ困るのです。

2022年5月 1日 (日)

メーデー

 今日もまた昨日の話の続きです。教育の目的を「社会課題の解決への貢献」と書きましたが,これは私が労働の定義として書いていたものとほぼ同じです(詳細は,拙著『デジタル変革後の「労働」と「法」』(2020年,日本法令))。つまり,私たちは生きていくために社会をつくり,その構成員は,社会に生起する諸問題を解決すべく分業して貢献する存在なのです。教育には,私たちが,そのような労働をするうえで必要な情報を伝える役割があります。
 このような労働の根源的な価値を実現するために,19世紀以降は,私たちの多くは,企業という場をとおして雇われて労働することになりましたが,雇われない働き方は,企業を媒介とせず,あるいは企業と連携して,上記のような意味での労働をするようになりつつあるというのが,私の時代認識です(このことは,上記の本でもふれていますが,先月脱稿した島田先生の古稀記念に寄せた論考でさらに展開しています)。
 ところで,本日はメーデー(May Day)です。労働者の日です。労働組合が存在感を示すべき日です。連合はすでに429日に雨天のなか,中央大会を開催していました。芳野会長は,自民党との接近を試みるなど,現実路線に走ろうとしているようにみえますね。松野官房長官もゲストで呼ばれていましたが,テレビでみる限りでは,いつものように原稿棒読みでした。連合は,こんな人でも来てくれたら嬉しいようですね。
 労働の世界が大きく変わってくるなか,この大会にフリーランスの代表者が参加したということが報道されていました。労働というものを広く捉えて運動のウイングを広げていくことは悪いこととは思えません。連合のもつ政治力を活用していくことは,フリーランスの地位向上にも有力なのかもしれません。もっとも,現実は,労と使の対立という図式ではとらえられなくなっています。デジタル技術の発展は雇用労働者それ自体を減らしていきます。雇用以外の働き方を包含しようとする前に,雇用という働き方が大きな変化を見せつつあることに,どう対応するのか。それが今後の連合,さらには労働組合運動の最大の課題ではないかと思っています。

 

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