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2022年3月21日 (月)

権利のために闘うとは

 ウクライナ人の必死の抵抗に根源にあるものを知るためには,あの有名なJhering (イェーリング)の『Der Kampf um’s Recht』(権利のための闘争)の冒頭の一節が参考になるかもしれません。岩波文庫版の村上淳一先生(かつてドイツ法の外書講読の授業に出たことがあります)の翻訳も参照すると,それは「Rechtの目標は平和であり,そのための手段は闘争である」というものです。「Recht」は,村上先生は「権利=法」と訳されていて,研究者らしいこだわりがあります。欧州の言語では,Rechtやそれに相当する言葉(フランス語のdroitやイタリア語のdirittoなど)には,「法」と「権利」の両義があるために,通常は文脈に応じて訳し分けるわけですが,本書では両義性をもっているため,村上先生はそのように訳されたのでしょう(先生が執筆された解説も参照)。ただ本のタイトルは「権利」だけです。
 Jhering は,「闘争を伴わない平和,労働を伴わない享受は,ただ人間が楽園を追放される前にのみ可能であった。その後の歴史においては,平和と享受は絶えざる刻苦の結果としてのみ可能なのである」と述べています(岩波文庫の31頁)。ちなみに,この本には労働のこともよく出てきます。「享受」の原語は,「Genuß」です。
 国家間の闘争も,平和を求めた闘争であり,そのためには武力行使もいとわないのです。ロシアが侵攻を正当化するために自国の平和を挙げ,ウクライナが自国を守るために武器をもって立ち上がるのは,どちらも権利のための闘争なのかもしれません。そうした闘争は,Jheringによると,国民の倫理的な義務でもあるのです。権利(Recht)を守る,法(Recht)を守る,さらには正義(Gerechtigkeit)を守るというのは,それを破る者が出てきたときに,戦うということも含意しているのです。もちろん,何がRecht で,gerecht かが大切なのですが。
 私が『人事労働法』(弘文堂)において権利論を批判したのには,法学のもつこうしたマッチョな部分に対する基本的な拒否反応があったことも関係しています。むしろ法学のよさを,秩序だった法廷において,暴力ではなく,言語と論理で解決を模索する仕組みに見いだしたいのです。平和性こそが法学の良さだということです。権利論より義務論を重視する私の姿勢は,権利論のもつ紛争誘発的なものに対する否定的評価から来ています。
 とはいえ「秩序だった法廷」というイメージの法を理想に掲げても,武力で壊されてしまえば,どうしようもないとも言えそうです。ただ,このときに,現実は理想とは違うと諦め,法が目指す平和は,武力でなければ維持できないというアイロニーを嘆くだけで終わってしまってはいけないと思っています。武力なき平和の追求を,臆病者の戯言として馬鹿にする風潮もありそうな気がしますが,そうした風潮に抵抗して,「秩序だった法廷」的な平和的法学を追求する知的営みは大切なことだと思っています。これこそ権利のための(平和的な知的)闘争なのです。Jhering の掲げた「Rechtの目標は平和であり,そのための手段は闘争である」の前半だけを活かすということです。それは同時に,私たちホモ・サピエンスにある凶暴性を理性によって克服する試みでもあります。
 ……それでは,ストライキに対して肯定的であった,お前のこれまでの議論はどうなるのだ,という心の内からの批判的問いかけもあります。そこには葛藤がありますが,おそらく改説する必要があるのだろうと思っています。

 

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