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2021年12月21日 (火)

労働組合の可能性

 濱口桂一郎さんから,『団結と参加―労使関係法政策の近現代史』(JILPT)をずいぶん前にいただいておりました。どうもありがとうございました。帯に書かれているように,世界中の集団的労使関係法制の歴史がコンパクトにまとめられていて,たいへん参考になります。これだけのものを,よくまとめられたなと驚きます。なんだか世界旅行しているような気分になります。日本のところで本土復帰前の沖縄のことも書かれていて,まったく知らなかったので勉強になりました(もちろん,このほかにも,知らなかったことは一杯書かれていましたが)。
 注目されるのは,「序章」にあった類型化です。まず集団性の否認と是認・促進という軸があり,集団性否認については,市場型個別労使関係モデルと,国家型個別労使関係モデルという分類があるとします。アングロサクソン諸国が前者で,社会主義国やナチズム時代のドイツやファシズム時代のイタリアが後者です。是認・促進には,「団結」型集団的労使関係モデルと「参加」型集団的労使関係モデルとがあり,団結と参加の組み合わせには,ドイツ型,フランス型,スウェーデン型があるとします。団結は市場の民主化,参加は組織の民主化とみるわけですが,日本は,法的には団結型であるが,企業別組合の実態は参加型であるとし,しかも外国とは違い,企業を超えるレベルでは団結も参加もなく,さらに企業レベルでも非正社員や中小零細企業では団結も参加もなく,大企業の正社員との二重構造になっており,こうした点が特徴であると分析されています。こうした分析には,まったく違和感はありません。問題は,ここから,どのような政策的インプリケーションを引き出すかです。産業民主主義は最終的には法によって確立すべきであると考えると,日本の状況は法の怠慢ということになりそうですが,私はそうは考えない立場です。
 ところで,上記の分析において,集団性否認については,市場型個別労使関係モデルのアメリカでは,労働組合カルテル論から独禁法による規制を行うものでしたが,ファシズム期のイタリアなどの国家型個別労使関係(管理者と実行者の指揮命令関係に帰着するものとされます)の集団性否認とは,どのようなものでしょうか。私はイタリア史を専門に研究しているわけではないのですが,少なくともファシズム期に制定されたイタリア民法典やその他の法律からわかるのは,企業内において労働者は,国家の生産目的にしたがうよう階層構造に組み入れられた「企業家(imprenditore)の協働者(collaboratore)」という位置づけです。そこでは個別労使関係が軸のようですが,集団性の否認の仕方は独特でした。現在のような使用者の集団的利益に対抗する労働者の集団的利益というものは観念されず,両利益は上位の国家的な生産目的に統合されました(それゆえストライキもロックアウトも禁止されました)。いわば集団性を二元的にとらえて国家レベルの集団性を高次にとらえ,社会的な集団性はそれに従属したものとみて,そこに権威主義的な制約を加えたところがファシズムの特徴だと思われます。これは国家型個別労働関係とみるのがよいのか,特殊な国家型集団的労使関係とみるのがよいのか,私にはよくわかりません。
 ちなみに,イタリアでは、こうした歴史があることから,戦後は,社会レベルの集団性が国家の集団性からできるだけ自由でなければならないとする考え方が強くなり,憲法レベルではファシズム的な労働組合の残滓があるものの,組合の自由(団結の自由)が強調されることになりました(憲法392項以下[労働組合の登録制,法人格の付与,一般的拘束力のある労働協約の締結]は死文化しています。労働組合の法人格は,ファシズム期には公法上の法人とされることにより国家統制を受けたことから,ファシズム期を想起させるのです)。ネオ・コーポラティズムの動きはイタリアでも起きて,政労使合意を重視して労働政策は進められるのですが,それでも政府とは一定の距離を置くという労使自治が,ファシズムを経験したイタリアの労使(とくに労働組合)のスタンスだと思います(最近はどうなっているか十分にフォローしていませんが)。
 さて,労働組合カルテル論の話に戻ると,これは結局,アメリカでも克服されたわけです(ワグナー法の制定など)。カルテルも絶対的な禁止ではなく,市場支配力が弱いときや,経済的弱者保護のためといった目的があれば正当化しうるものです。その意味では,カルテルは,経済政策の手段としては,ときには活用可能です(もちろん,ネオ・リベラリズムなどが台頭すると揺さぶられるのですが)。労働組合をそういう視点でみることもできます。一方,労使自治論になってくると,国家と個人や社会はどういう関係であるべきかという原理論とかかわってきて,経済政策的な観点だけからでは議論しきれないところがあります。加えて,欧州には歴史的にギルドの文化があり,いったんフランス革命後に中間団体として否認されたものの,なお脈々と残り,それが労働組合として合法化されていくわけです。労働組合は,このときから,国家による抑圧と戦かったという歴史があり,それが団結の自由の原理的な基礎であるという見方ができます(イタリアでは,その後,ファシズムに破壊され,そして奪還した)。
 このように考えると,これだけ多くの国の集団的労使関係法制が紹介されているので,次のステップは,歴史的に,①労働組合に対して国家がどのような対応をし,それをどのように克服したか(あるいは克服できていないか),②そのことが労働組合法制にどのような影響を与えているか,あるいは③従業員代表的なもの(「参加」的なもの)との関係にどのような影響を与えているか,という観点からの分析がなされればよいなと思いました。中国法も,体制は違うものの,こうした観点からみると面白い分析ができそうです。そして日本は,戦前の抑圧の歴史があり,戦後はアメリカ流とドイツ流のハイブリッドな労働組合法制を得たが,実態はどちらともかなり違う形で展開しています。私の目からは,日本は憲法によって団結の自由が広く保障されているのに,そのもつ潜在的能力を十分に活かさないまま,安易に従業員代表的なもの(参加)に走ろうとしているようにみえます。
 今日,労働組合的なものの可能性は,個人事業主たちの団結のほうにあるような気がします。個人事業主たちのつくろうとしている団体こそ,西欧型のギルド的な匂いのある労働組合(職業を共通にする者の共済団体的な組織で,職業紹介なども行う)の正統な後継者のようにも思えます(拙著『会社員が消える』(文春新書)185頁も参照)。現行法上,個人事業主の団体をどうみるかをめぐっては,いろいろな議論がありますが,より広い歴史的,原理的な観点から議論する必要があるのかもしれません。
 というように勝手に暴走しましたが,こうしたいろいろなことを考えるきっかけを与えてくれる本です。海老原さんとの共著の新書については,また後日に。

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