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2021年12月の記事

2021年12月31日 (金)

1年を振り返って

 2021年も,コロナに振り回された1年でしたね。今日の日本経済新聞の「<コロナと世界 針路を聞く5> 社会と共に考える大学に」という東大学長の藤井輝夫氏のインタビュー内容は,共感できるものでした。多くの教育者がデジタルの利点を認識でき,国境の垣根を越えて一堂に会して,研究者だけでなく一般の人や学生も交えて議論できるフォーラムが出現したことを指摘されていたと思います。藤井氏は,対面授業の重要性を否定していませんが,むしろオンライン授業が標準で,対面授業はどうしてもその必要性がある場合の補足的な手段として位置づけるべきものでしょう。
 藤井氏は,研究環境の変化にも言及し,「コロナという人類共通の脅威に直面したことで,多様な背景を持つ専門家が一つの問題にともに取り組む現象が生まれている」というのは,そのとおりです。文理融合というだけでなく,より具体的なテーマについて,いろんな専門性をもつ研究者が知見を寄せ合って,新しい知や価値を生み出すことこそ,大学の役割だと思っています。隣接領域であっても,専門外のことは知らないという「たこつぼ」主義では,これからは意味ある研究はできません。私の例でいえば,労働法以外の法分野だけでなく,法学以外の学問分野にも関心をもって研究の視野を広げなければいけないということです。私も,定年までそれほど多くの時間があるわけではないなか,どこまでのことができるかわからないので,大学という場にはこだわっていきたいものの,かりにそういう場がなくても,研究ができる環境をいまからつくっておく必要があるように思っています。
 ところで今年は,単著を3冊上梓しました。『人事労働法』(弘文堂),『誰のためのテレワーク?』(明石書店),『労働法で企業に革新を』(商事法務)です。個人的には,どの本についても刊行できて,とても良かったと満足しています。『人事労働法』は既存の労働法への挑戦という理論的作業の成果,『誰のためのテレワーク?』はテレワークを通したDX社会への展望を一般の方に向けて書いたもの,『労働法で企業に革新を』は普通の労働法の本にはないような小説仕立てで旬の労働法のテーマを扱ったもので,それぞれ違う目的や個性をもつ本となりました。2022年には,従来の本の改訂版を出す予定ですが,新作も一つ企画しています。
 論文についても,DXやテレワークが中心でした。エッセイ的なものを除くと,1月に「旧労働契約法20条をめぐる最高裁5判決の意義と課題」をNBL1186号に,8月に「DX時代における労働と企業の社会的責任」を労働経済判例速報2451号に,9月に「テレワークを論じる―技術革新と社会的価値―」を季刊労働法274号に発表しました。判例評釈としては,9月に福山通運事件・最高裁判決を扱ったものを,判例評論で発表しました。このほか,1月にインターネット白書の2021年版で「DX時代におけるテレワークの可能性と課題」を,3月に月刊企業年に「デジタル変革と高齢者雇用」を,4月に学士会会報に「デジタル変革と日本の労働と法」を,5月に日本経済新聞の経済教室に「ギグワーカーの未来(下)―新しいルール,企業誘導型で」を,8月に月報司法書士に「私たちの働き方はどう変わるか」を発表しました。またインタビューではありますが,6月に刊行された『逆境の資本主義』(日本経済新聞社)に登場しました(錚々たるメンバーの中に入れてもらい畏れ多いです)。
 書評としては,森田果『法学を学ぶのはなぜか?』(有斐閣)が労働新聞に,水町勇一郎『詳解労働法』が判例時報に掲載されました。このほか,NBL1200号の巻頭言,Learning Solution への寄稿などもありました。
 外国語では,イタリアの「Alternative Labour Dispute Resolutions- A collection of Comparative Studies」という本に,"Labor ADR in Japan"を寄稿しました(英語),また「Lavoro Diritti Europa」という雑誌に,”Lo Statuto dei lavoratori e il diritto del lavoro giapponese"(日本語では,「労働者憲章法と日本の労働法」)を寄稿しました(イタリア語)。
 業績の自己採点としては可もなく不可もなくというところですね。今年はアウトプットの年と考えていましたが,トータルでみると,来年以降に向けた準備期であったと位置づけられるかもしれません。
 来年は授業も含めて少しずつ対面型の活動も増えていくかもしれませんが,基本的にはICTの恩恵に浴しながらムーブレスで活動していければと思っています。
 みなさん,どうぞよいお年をお迎えください。

2021年12月30日 (木)

EUの戦略

 脱炭素化に向けた欧州の攻勢に対して日本が後手を踏んでいると言われています。COP26で,産業革命前からの世界の気温上昇を1.5度以内に抑えることは,世界の共通目標となり,日本も菅政権のときにすでに,2050年に温室効果ガスの実質排出量ゼロという野心的な政策目標を掲げました。企業経営にとっては,GX(グリーン・トランスフォーメーション)は,DXと並ぶ重要な課題であり,私も労働政策との関係で,このことに触れた論文を8月に発表しています(「DX時代における労働と企業の社会的責任」労働経済判例速報2451号)。
 脱炭素や気候変動について,どのような戦略で臨むかは,各国でそれぞれのやり方があるように思うのですが,いまは欧州が主導権を握っています。昨日(20211229日)の日本経済新聞の「真相深層」では,「EUは世界に先駆けて先進的な規制を導入し,世界標準にするルール形成で存在感を発揮してきた」と書かれていましたが,確かにそのとおりです。先進的なルールへの対応を早めに準備し,それを世界標準にして,違反に対しては貿易面でペナルティを課すという形で,加盟国の企業が活動しやすいようにすることは,きわめて有効な戦略なのでしょう。この戦略の強みは,規制の内容が誰もが文句をつけにくいもの(環境など)であることであり,さらに高いレベルの基準を遵守している国が不利となるのはおかしいという不正競争防止という大義もあり,なかなか反対しにくいところです。GDPR(一般データ保護規則)のような個人情報保護の分野でも同様です。欧州には,米中と対抗し,武器を使わないで世界でのプレゼンスを高めるというグランド・ストラテジーがあり,それに基づいて,環境などの個々の分野で戦略を立て,それを実際に進めるための戦術を練りあげているという印象です。1228日の日本経済新聞「大機小機」の「省炭素で日本の強み生かせ」にもあったように,欧州の戦略に乗せられるだけでなく,「日本産業の強みを生かせる戦略を提唱すべきだ。そのスローガンは脱炭素ではなく省炭素になるだろう」という提言は重要です。日本も,まずはどのようなスタンスで国際政治に臨むかというグランド・ステラジーを構築し,環境問題をその主要な戦略を担うものと位置づけたうえで,具体的な戦術を練ることが必要でしょう。
 環境問題とならんで,人権問題も重要となっています。この分野でも欧州は先行していますが,これまでもGATTWTOや二国間・多国間協定などで貿易と労働が結びつけられることがありました。労働法研究者はほとんどやっていませんが,一部では研究の蓄積があります(桑原昌宏先生からは,関西労働法研究会で,このテーマについて何度かお話しをうかがったことがあります)。自分たちが高い労働保護を実現しているといっても,それを他国に押しつけるのは,先進国のエゴという見方もあります(先進国だって歴史を振り返れば,決して威張れたものではありません)が,これが単なる貿易の問題ではなく,相手国の国民の人権の改善につながるという大義があるのが強みです。もっとも,貿易の制裁があると相手国の国民が困窮するおそれもあるので,その兼ね合いが難しいところです。これは従来なら,国際労働基準やILOの所管事項であったのでしょうが,むしろ企業の社会的責任(CSR),ESGSDGsといった観点から国内法の問題として論じるべきものかもしれません。例えば,新疆ウイグル自治区での綿摘みの強制労働問題で,ユニクロが批判されたように,サプライチェーンの人権保障などへの意識が高まるなか,EUやアメリカに言われるまでもなく,こうしたテーマに日本の企業は取り組んでおくべきで,それは労働法の問題としてみることもできるような気がするのです(イギリスなどにある現代奴隷法のような法律を労働法に取り込んでいくなど)。私の言う「いかにして法の理念を企業に浸透させるか」(『人事労働法』のサブタイトル)は,本のなかでは企業と従業員との関係しか扱っていませんが,本来は企業の事業活動全般にかかわるもので,グローバルに展開するサプライチェーンでの人権問題なども視野に入ってくるものです。「労働法の争点」(有斐閣)でも,今後は採り上げるべきテーマかもしれませんね。

2021年12月29日 (水)

労働者性

 先日の神戸労働法研究会では,労働者性に関する二つの裁判例(芸能アイドルについてのHプロジェクト事件(東京地判202197日),劇団員についてのエアースタジオ事件の高裁判決(東京高判202093日))が採り上げられました(前者は弁護士の松尾剛行さん,後者は石田信平さん)。偶然に報告者の論点が重なる裁判例となったのですが,そのためか,労働者性をめぐる深い議論ができたと思います。
 労働者性は,その判断基準がはっきりしないので,裁判例は非常に不安定です(労組法上の労働者性との違いという一般の人にはわかりにくい論点もあります)。最近,EUではプラットフォーム労働におけるcontroll要件について5つの基準を示し,そのうち2つ以上充足すれば,要件該当性を推定するという指令案を発表しており,日本のメディアでも大きく報道されましたが,これも基準の不明確性への対応といえます。私が提案しているAI審査に少しだけ近づいてきているといえなくもありません。ただ,5つのうち2つ満たせば推定というのは,簡便ではありますが,アバウトすぎるのではないかというツッコミを,おそらく法律家ならしたくなるでしょうね。
 話を元に戻すと,どちらの判決も諾否の自由が問題となっていますが,東京地裁と東京高裁の判断は正反対で,そこからも労働者性をめぐる判断の混迷ぶりがわかります。
 個人的には,一昨日にも少しふれたようにエンターテインメント系の業種はかなり特異性があるので,立法論としては,それに応じた特別な法的ルールを設けることも,十分に考慮に値すると思っています。これを労働者かどうかという議論をやっているかぎり,裁判は不安定性をかかえます(そうしたなかで,諾否の自由を過度に重視する問題判決が登場してしまうのです)。どちらの事件も,裁判所は限られたトッププロ(要するに,自分の名前で金がとれるだけの技芸をもつ人)をめざす途中過程のある時点だけをみて労働者かどうかを論じるもので,そこに無理があるような気がします。
 とりわけエアースタジオ事件には二重の意味でおかしいところがあります。第1に,裏方業務の労働者性を,1審も控訴審も肯定していますが,これを公演業務と区別してみることが妥当かということです。一般論として,業務に応じて労働者性を判断することはありうるのです(とくに労災保険の適用など)が,劇団員の裏方業務は,公演に出演して役者として一人前になるという過程で出てくるものであり,そうしたものをトータルでみる視点がなければ,劇団員に対してほんとうに労働者として保護すべき実態があるか判断できないでしょう(劇団員が従事していたカフェ業務のように,明確に他と切断できるところは,そこだけを切り出して労働者性を判断するのはもちろん可能でしょうが)。アイドルにせよ,劇団員にせよ,トッププロになるまでの修業時代は基本的にはボランティアであり,何らかの金銭的給付があっても,それを賃金とみるのは適切ではないという見方もできるのではないかと思います(関西医科大学事件で問題となったような研修医とはかなり違います)。エアースタジオ事件の控訴審は,1審と異なり,公演業務の労働者性も否定しました。これがもう一つの問題点です。高裁は公演出演への「諾否の自由」がないという判断をしており,そこでは「劇団員らは公演への出演を希望して劇団員となっているのであり,これを断ることは通常考え難」いと述べているのですが,だからといって,企業から強制されて働くという従属性の観点からみるべき「諾否の自由」がないということにはならないと思います。この判断がおかしいというのは,おそらく異論はないところで,研究会でもそのことは当然の前提で議論していたと思います。
 私はかつて,労務提供に関係する法律関係を,すべて労働者性の判断の対象とするのは適切ではなく,前さばきとして,カテゴリカルに労働者性の判断から除外できる労務提供関係があるのではないかということを考えていたことがあります。これは無償労働契約論にもつながるもので,例えばボランティア(有償ボランティアも含む)を,最低賃金違反の労働契約とみるのか,それとも労働基準法(あるいは労働契約法)の適用から外れている契約とみるのか,という話につながります。後者のような契約を,契約の目的から判断できないかを探るために,20年ほど前に「労働判例」という雑誌の海外の判例を紹介するコーナーで,イタリアの破毀院判例を紹介したことがあります(827号。政治家の無給の秘書の労働者性を否定した判例)。解釈論としては,そのようなアプローチもありうるのではないかと今でも思っていますが,立法論としては,前述のように,エンタメ系(楽団員なども含む),ジャーナリスト,スポーツ系などは特殊な労働者として別の法的枠組みで扱うことが可能で,海外にも同様の例があります。こうした就業者を事業者とみて,そのうえで独禁法などにより保護したり,フリーランス新法のようなもので保護したりしようとする考え方もありますが,いずれにせよ芸能人などは業界が特殊なので,それを想定しながら一般的なルールを考えていくのは適切ではないし,そもそもこのカテゴリーを「保護」するという発想をどこまでもつべきかというところから,議論していく必要があると思っています(なお,おそらく問題意識は違いますが,文化庁の「文化芸術分野の適正な契約関係構築に向けた検討会議」は興味深いです)。日本音楽家ユニオンのような労働組合的な活動をするものもありますが,これも労組法上の労働組合かどうかというのとは違う観点から論じることも可能だと思われます(なお,最高裁まで争われた新国立劇場運営財団事件は,労組法上の労働者性という観点から議論されていますが,そういう問題の設定の仕方がはたして妥当であったかは議論の余地があるのです。このことは,このブログで,少し違う角度から書いたことがあります)。
 もちろん,芸能アイドルの例のように,彼らや彼女らが年少者である場合には,その点に着目した保護は必要です(研究会でも議論となりました)。この点では,いわゆる「光源氏通達」(昭和63730日基収355号)において,子役や児童タレントの労働者性について,「芸術性,人気等当人の個性が重要な要素となっていること」などの要素があれば労働者性を否定してよいとされています。この通達は,芸能人一般の労働者性を否定する趣旨に解されることもあるようですが,ごく一握りのトップタレントだけ労働者性を否定する趣旨であることは,通達を読めば明確だと思います。また仮に労働者性がないとしても,私は労働基準法56条(最低年齢)のような規定は,労働者性の有無に関係なく考慮されるべきものであり,立法論としては非労働者であっても年少者の労務(パフォーマンス)を利用することについては一定の規制が必要だと考えています(以前に同旨のことを中嶋士元也先生の還暦記念論文集に寄稿した論文で書いたことがあります)。そうでなくても,企業側のCSR ESGのSの観点から,年少者を活用した営利事業には,一定の自制が求められるべきだと思います。
 劇団員の裏方業務についても,「やりがい搾取」のようなことがないよう配慮することは重要ですが,だからといって労働者性を肯定することとは別です(当人たちの多くも,何らかのトラブルがあったときに事後的に労働者性を主張することはあっても,最初から労働者として扱ってほしいと考えている人がどこまでいるかは疑問です)。重要なのは,本人が裏方業務の厳しさを十分に理解して納得していたかであり,その点では本件では,(使用者側の主張ですが)社員での安定した地位(労働者性あり)を得る選択肢が提示されていたという事情をどう評価するかもポイントとなるでしょう(「人事労働法」では,これは納得同意の問題となります)。
 ところで,「諾否の自由」の判断について,これを限定的に解するドイツの判例があるという情報がJILPTの山本陽大さんから提供されました(JILPTリサーチアイ第61回「クラウドワーカーは「労働者」か?─連邦労働裁判所2020年12月1日判決」|労働政策研究・研修機構(JILPT))。ドイツの民法典では,労働者の定義を定めた規定があり(611a条。2017年に新設),人的従属性(persönlicher Abhängigkeit)の下で,指示に拘束され,他人決定的な労務の給付が義務づけられているかどうか(weisungsgebundener, fremdbestimmter Arbeit)で判断されるのですが,当該判例の事案では,基本契約は締結されているものの,実際に業務を受注するかどうかは本人に諾否の自由があったクラウドワーカーの事案で,評価システムにおいて継続的に労務を提供するように誘導するインセンティブシステムがあったことなどを重視して,労働者性が肯定されました。これについてはドイツの学説上も批判があるようであり,諾否の自由を限定的にとらえる立場が定着するかどうかはわかりませんが,形式的な諾否の自由があるからといって,労働者性を否定することには直結しないということであれば理解できるところです。
 労働者性については,私は立法論と解釈論を行ったり来たりするような議論をしているのですが,法律の議論でよくあるような,判例の蓄積を通して類型化して基準の精緻化を図るというアプローチには限界があると思っています。労働者性という論点をめぐっては,判例評釈は,解釈論を詰めるのではなく,解釈論の限界を明らかにする目的でなされるべきなのかもしれません。

2021年12月28日 (火)

赤木裁判の突然の終結

 多くの人がすでに批判しているので,私があえて付け加えることはないのですが,このブログで,赤木さんの自殺について,もう少し政府は誠実に対応すべきではないかということを書いていたので,今回の裁判の件についても少し書いておきます。赤木さんの奥さんの雅子さんが提起した国家賠償請求訴訟について,国が請求を全面的に受け入れて,国との関係では手続が終了したようです。裁判という場での戦いで,相手が負けを認めてしまったので,もう戦い続けることができないのは手続上仕方がありません。もっとも,この裁判を提起した目的は,赤木さんや雅子さんが被った損害の賠償ではなく,赤木さんの死の真相を明らかにすることでした。刑事裁判では成果がでなかったため(全員不起訴),民事訴訟を提起せざるをえなかったのでしょう。もちろん国は,この訴訟が,損害賠償を得ることが主たる目的でないということは知っているはずです。ただ赤木さん側が,形式的に賠償請求という形をとった以上(とらざるをえなかったのですが),それを受け入れるという対応自体は,ただちに非難できるものではないと思います。これは裁判という戦術がとられた以上,やむを得ないものであり,国がいつまでも戦うよりは,まだ誠実な姿勢といえないわけではありません。ただ,一番大切なのは,裁判で請求を受け入れて戦わないという判断をしたことで,この問題が一件落着となったわけではないということです。証人が次々と出てきて,国に不利な証言が出ることを阻止しようとする目的だけで裁判を終結したのであれば,その目的を実現させてはなりません。赤木さんの死について国民の疑念は残っているのであり(それに財務省が関係者であるから,あっさり金を出したのだろうという疑念もくすぶっています),それを晴らさないかぎり,政府の政治的な責任や道義的な責任は残るのです。お金を払うからよしということでは,決してありません。
 もしお金を払うだけで,あとは何もしないということであれば,むしろ税金から支払われる賠償金を,政治的な意図で不当に使ったという誹りを免れないでしょう。赤木さんの問題は,雅子さん個人だけで背負うべき問題ではないし,また個人レベルの問題として解決してよい問題でもありません。これは政府文書の改ざんという民主主義の根幹にかかわる政治的な問題なのであり,国民に向けても納得のいく対応を示してもらわなければなりません。それが結局は,赤木さんや雅子さんにとっての救いになるのではないかと思います(勝手な憶測かもしれませんが)。
 国土交通省の統計不正が明るみになり,財務省の公文書改ざんという前代未聞の不祥事が再び想起されるタイミングで,この裁判終結報道が流れました。岸田首相は誠実に対応すると言葉では言っていますが,どうでしょうか。改ざんに抵抗した一職員の命の重みをかみしめながら,私たちは政府の今後の対応を注視していく必要があるでしょう。

2021年12月27日 (月)

音楽の話のつづき

 音楽の話の続きですが,今年のショパンコンクールの3次予選までいって惜しくもファイナルを逃した角野隼人さんは,東大卒のピアニスト。すでに実績は十分で,YouTuberとしても有名です(「Cateen かてぃん」)。1224日の日本経済新聞でも,また25日の朝日新聞でも,彼のことが採り上げられていました。
 私は,少し前までは彼のことをあまり知らなかったのですが,ヴァイオリンの「チャルダッシュ」の演奏を無性に聴きたくなり,YouTube で検索をしていると,彼の動画に遭遇しました。ヴァイオリニストの髙木凜々子さんとこの曲で共演していて,とても二人が楽しそうであったのが印象的でした。
 「チャルダッシュ」というと,個人的には,古澤巌というイメージがありますが,女性の演奏もいいです。ちなみにチャルダッシュは,作曲はイタリア人のVittorio Montiですが,題名はハンガリー語(csárdás)です。緩急の変化があり,誰もが好きになる曲ですね。
 ヴァイオリニストとしては,やっぱり葉加瀬太郎がいいです。一度だけコンサートに行ったこともあります。ミーハーと言われるかもしれませんが,「情熱大陸」はヴァイオリン曲の楽しさを味わわせてくれますし,「ひまわり」や「エトピリカ」のように,どこか懐かしい感じがするメロディとヴァイオリンの音色は良く合うと思います。
 ところで,今朝のNHKのニュースではN響の「第九」のことが採り上げられていました(N響「第9」コンサート本番までの舞台裏 コロナ禍で渡航制限も 響け「歓喜の歌」 - NHK NEWS おはよう日本 - NHK )。そのなかで,ヴィオラの若い演奏者がインタビューされていて,現在は1年間の契約団員(試用期間)で,正式団員を目指しているとのことでした。彼女には頑張ってほしいですが,労働法をやっていると,ついつい神戸弘陵学園事件を想起してしまいます。芸術の世界のことを,すぐに労働法の話に引きつけるのは野暮なことで,本来は次元の違うことのはずですが,そうとばかり言ってられないのです。先日の研究会でも,この点が少し問題となったので,また後日書いてみたいと思います。
 

2021年12月26日 (日)

個の台頭

 1225日の日本経済新聞の「Deep Insight」は,私のお気に入りの村山恵一氏が担当で,「あなたのスキルで動く経済」というタイトルで,クラウドワークスやサイボウズのことが紹介されていました。「個の台頭」という動きを紹介し,「個人の能力をいかに開花させ,それを生かす会社の姿をどう描くか。次の10年のテーマだ」と総括されていました。
 私は,2020年の年初の日本経済新聞の企画「逆境の資本主義」で,インタビューの最後に,フリップに「○○の資本主義」と書くよう求められて,「個人が中心となる資本主義」と書きました(識者が語る「逆境の資本主義」 インタビュー一覧: 日本経済新聞 (nikkei.com)の動画の最後から2番目に登場します)。企業中心主義のアンチテーゼとしての個人中心という意味で,『会社員が消える』(2019年,文春新書)という本のなかでも類似のコンセプトで「企業中心社会から個人中心社会へ」ということを書いています(43頁以下)。この本の記念対談を,サイボウズの青野慶久社長とさせてもらったときも,青野社長がこの「個人中心」というところに強く反応されたのをよく覚えています(「上下」から「水平」に ──会社員は消え、個人が連帯して働く時代がやってくる | 特集 - 本の話 (bunshun.jp))。
 岸田首相は「新しい資本主義」ということを言っています。私の言うような意味での「個人」中心の観点からの資本主義の再構成(拙著『デジタル変革後の「労働」と「法」』(2020年,日本法令)でも具体的に展開しています)は,岸田首相のテイストには合わないかもしれません。ただ,いずれにせよ,「資本主義」という言葉をあまり雑に使わずに,「逆境の資本主義」の企画で出てくる様々な考え方も参考にしながら,自分なりにしっかり資本主義の再定義をしたうえで,政策を提示していってもらいたいですね(この企画は書籍化もされており,私のインタビュー記事も掲載されています『逆境の資本主義』(2021年,日本経済新聞社))。

 

2021年12月25日 (土)

外交問題とプロスペクト理論

 真珠湾攻撃における日本の失敗について議論をする番組を観ていたとき,『失敗の本質』(中央公論新社)の共著者でもある村井友秀氏が,ハル・ノート(Hull Note)を日本が受け入れなかったのは,プロスペクト(prospect)理論(人はなぜ宝くじを買うかという話の説明で出てくるので有名です)で説明ができると言われていました。プロスペクト理論は,行動経済学(Behavioral Economics)を勉強するときに最初に出てくる話で,人は合理的な期待値に基づいて行動を選択するのではないということなのですが,そのなかに,損失のほうに利得より大きな価値を与えるというものがあります。プロスペクト理論によると,利得場面ではリスク回避的(risk-averse)に行動する人も,損失場面ではリスク愛好的(risk-loving)に行動するのは,そのためとされています。
 番組では,詳しくは説明されませんでしたが,おそらく次のようなことなのだと思います。ハル・ノートは,真珠湾攻撃の直前の外交交渉の段階で,アメリカが日本に対して,中国とフランス領インドシナからの全面撤退をし,アジアの情勢を満州事変以前に戻すよう求めたものですが,日本は既得の領土を奪われるという「損失」の問題であったことから,その(マイナスの)価値を大きく評価していたのです。「利得」か「損失」かは,何を基準とするかという参照点(reference point)が重要です。アメリカ側は,日本側が参照点とするのは,満州事変前の領土とみて,そうなるといわば利得の確定の問題であり,リスク回避的に行動すると読んでいたのかもしれないのです。ところが,日本の参照点は,ハル・ノートをつきつけられた時点の拡大した領土であったので,そうなるとアメリカの要求を受け入れることは損失局面の話になるので,できるだけ参照点を維持しようとして,リスク愛好的な行動をとり,それが直後の真珠湾攻撃に突入したということなのでしょう。アメリカはそれほど強い要求をしたつもりはなかったが,日本にとっては,きわめて強い要求をつきつけられたと感じたのです。アメリカからすると,参照点についての読みの誤りから,損失と利得の違いが起こり,そして損失と利得に対するリスク選好の違いが,戦争を招いてしまったということです。
 このときの反省から,台湾問題にも気をつけろということになります。中国にとっての参照点は,台湾は中国の一部ということで,領土の拡張という「利得」の問題ではなく,台湾が独立に向けた動きをすることは「損失」の問題とみている可能性があるのです。損失ですから,リスク愛好的な行動がとられるおそれがあるので,そこを見誤ってはならないということでしょう。ウクライナ問題も同様です。もちろん,それは台湾,ウクライナが,中国,ロシアの領土であることを認めるべきというのではなく,外交交渉においては,相手の行動を予測しなければならないわけで,その際の相手の参照点を見誤るなということです。
 大竹文雄さんの著書に『行動経済学の使い方』(岩波新書)がありますが,行動経済学には,ほんとうにいろいろな使い方があるのだと思います。

 

 

2021年12月24日 (金)

音楽の力

 1221日の日本経済新聞の記事に,前にもとりあげたショパニストの反田恭平さんが社長との二刀流で,収益をあげて,日本の若手音楽家が継続的に活動する基盤をつくろうと頑張っているということが紹介されていました。たいへん共感します。音楽は一生楽しめますし,「住みにくい人の世をのどかにして,人の心を豊かにする」(夏目漱石の草枕)という芸術の力を,私たちはもっともっと評価したいですね。
 現在のマイブームはチェロです。ピアノとのアンサンブルのショパンの「序奏と華麗なるポロネーズ」を,よく聴いています。宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」でも有名な楽器です(「セロ」は「チェロ」です。イタリア語ではVioncelloですが,外国では,その後半の「cello」が独立して使われています)が,ヴァイオリンよりも落ち着いた音色で,ピアノとの相性もいいように思います。先日は近所の区役所のエントランスで無料のミニコンサートがあるというので行ってきましたが,チェロとヴァイオリン(2人)とコントラバスの楽器カルテットも聴けて,とても良かったです(チェリストは,地元が誇る崎元蘭奈さんでした)。 そういえば,10月終わりごろには,反田さんらに続いて,チェロでも,ジュネーブ国際音楽コンクールで,上野通明さんが優勝しましたね。チェロはもっとブームになってよいかもしれません。
 音楽の力といえば,日本経済新聞の12月20日の朝刊の「春秋」で,Netflix社が,すでに在籍する社員で特に優秀な人たちの共通点を探したところ,答えは音楽をこよなく愛する点だった,ということが紹介されていました。「論理的思考が軸となる業務だからこそ,創造性や感受性が発想の差を生む」というのです。左脳人材だけでは,経営はうまくいかないのでしょう。ほんとうは政治も同じです。林芳正外務大臣が,G7の夕食会で,イマジンをピアノで弾いて話題になりましたね。欧州の上流階級からは,ピアノなど音楽ができれば,非欧州人でも尊敬されるようです。国際的に活躍することをめざしている人は,教養の一つとして,何か楽器でも身につけるよう頑張ってみればどうでしょうかね。

2021年12月23日 (木)

研究者と入試業務

 大学教員にとって,入試業務は重要と考えられていますが,教員は研究者でもあるので,研究の時間をできるだけ削られないようにすることも重要です。そのためにはここでも「デジタルファースト」の考え方で,デジタル技術を活用できる場合には,それをできるだけ活用すべきです。たとえば入試の監督は,人間がやるより,監視カメラを用いたほうが,はるかにしっかり監督ができるでしょう。コストの問題はありますが,試験監督では,まさに人間が機械のようになれと言われるので(裁量を働かせるな),機械がやったほうがよいのです(もちろん完全に無人化はできないでしょうが)。
 採点業務も機械化が可能と思われますが,記述式が問題です。1221日の日本経済新聞で,大学入試センターの石岡恒憲教授の「記述式答案,AI採点「ほぼ人間並み」」という記事が出ていました。現在の研究レベルによると,手書き文字認識から自動採点までを一気通貫で行うことができるようです。手書き文字認識にこだわっているのは,パソコン入力の苦手な学生がいることへの配慮ですが,パソコン入力を必須と決めてしまえば,高校生はすぐに対応して,入力技術の巧拙が試験結果に影響することはすぐになくなるでしょう。文字認識のレベル向上は素晴らしいですが,そこに注力するより,解答がデジタルデータで提出できるようにすることに注力する方がほんとうはよいと思います。そのうえで自動採点をどこまで実用化に近づけるかが課題です。AIの得意とする大量のデータから帰納法的に採点モデルを構築する手法だけでなく,一定の採点基準を学習させて,演繹法的な手法で採点させることができれば,ビッグデータは不要となり実用性が高まるでしょうが,それはまだ研究途上であるようです。採点基準の意味を理解して,それを多様な具体的な答案にあてはめていくというのは,AIにはまだ難しいのかもしれません。
 もっとも,入試を前提とした研究もよいですが,前にも書いたように,AIを利用したadaptive learningで,学習到達度を判定できれば,大学教育を受ける能力があるかどうかがデータからわかるので,入試という手間がかかり不公平さも不可避的に内包する情報収集行為(入試は学生の能力や適性に関する情報を収集する手段にすぎません)は省略できます。文部科学省は,そちらのほうの研究にもっと力を入れてほしいと思います(やっていると思いますが)。
 記事に戻ると,記者(中丸亮夫氏)のコメントが付けられており,「受験生は志望大学の先生という人が採点してくれるからこそ一定の信頼を寄せる。自動採点技術の進歩には大いに期待したいが,実用化には社会からの信頼の確保が要る」と書かれていました。気持ちはわかりますが,大学入試の記述式の試験の採点は,期間が限定されたなかで大量の答案を処理する必要があり,多くの先生で分担しなければなりません。そのなかで公平性を重視するので,採点担当の各先生は,答案の正確な理解には努めるのは当然としても,あえて作業を機械的なものにしている可能性があります。志望大学の先生が採点するから一定の信頼を寄せるという受験生の気持ちはわかりますが,志望大学の先生が責任をもって合否の判定をすることは信頼できても,実際に答案を人間が採点処理することまで信用することに,どれだけの意味があるかは疑問であるかもしれません。
 ということで,目標は,入試をせずに受験生の選抜ができるシステムの実現ですが,そこに行くまでの間でも,できるだけAIを活用した試験監督や採点をし,研究者が入試業務にとられる時間を少しでも減らすことが,日本を科学立国へと回復させるためにも必要だと思います。

2021年12月22日 (水)

『エコノリーガル・スタディーズのすすめ』の英語版

 私は編者の一人ではありますが名ばかりで,実質的には,柳川隆先生と高橋裕先生が骨折りをされた『エコノリーガル・スタディーズのすすめ―社会を見通す法学と経済学の複眼思考』(有斐閣)は,中国語版に続いて,Springerから英語版が出ました。英語で出版するに足りる高い水準の教科書です(私も何かヒントを得たいと思うとき,この本を繙くことが少なくないです)。日本において,法学と経済学の共働の研究や教育がどのような水準でなされているかは,英語で発信しなければわかってもらえないでしょう。もともとは日本人向けに書かれた教科書を,そのまま翻訳して海外に発信するというのは,実に興味深い企画であると思います(翻訳は,私自身は勇上さんにほとんど任せてしまったので楽をさせてもらいましたが,全般的に,大変な作業であったと思います)。海外の方は,日本の教育レベルの高さを知って驚くのではないでしょうか。

 拙著『誰のためのテレワーク』(明石書店)が,神戸大学の広報誌「風」のVol.18で紹介されました。「神大人の本」というコーナーです。私がインタビューに答えた記事が掲載されています。テレワークよりも広い話題になっています。私があまり売り込まないせいか,私の本が神戸大学のサイトで採り上げられることはあまりなかったのですが,今回は広報の方が気づいてくださったようです。

2021年12月21日 (火)

労働組合の可能性

 濱口桂一郎さんから,『団結と参加―労使関係法政策の近現代史』(JILPT)をずいぶん前にいただいておりました。どうもありがとうございました。帯に書かれているように,世界中の集団的労使関係法制の歴史がコンパクトにまとめられていて,たいへん参考になります。これだけのものを,よくまとめられたなと驚きます。なんだか世界旅行しているような気分になります。日本のところで本土復帰前の沖縄のことも書かれていて,まったく知らなかったので勉強になりました(もちろん,このほかにも,知らなかったことは一杯書かれていましたが)。
 注目されるのは,「序章」にあった類型化です。まず集団性の否認と是認・促進という軸があり,集団性否認については,市場型個別労使関係モデルと,国家型個別労使関係モデルという分類があるとします。アングロサクソン諸国が前者で,社会主義国やナチズム時代のドイツやファシズム時代のイタリアが後者です。是認・促進には,「団結」型集団的労使関係モデルと「参加」型集団的労使関係モデルとがあり,団結と参加の組み合わせには,ドイツ型,フランス型,スウェーデン型があるとします。団結は市場の民主化,参加は組織の民主化とみるわけですが,日本は,法的には団結型であるが,企業別組合の実態は参加型であるとし,しかも外国とは違い,企業を超えるレベルでは団結も参加もなく,さらに企業レベルでも非正社員や中小零細企業では団結も参加もなく,大企業の正社員との二重構造になっており,こうした点が特徴であると分析されています。こうした分析には,まったく違和感はありません。問題は,ここから,どのような政策的インプリケーションを引き出すかです。産業民主主義は最終的には法によって確立すべきであると考えると,日本の状況は法の怠慢ということになりそうですが,私はそうは考えない立場です。
 ところで,上記の分析において,集団性否認については,市場型個別労使関係モデルのアメリカでは,労働組合カルテル論から独禁法による規制を行うものでしたが,ファシズム期のイタリアなどの国家型個別労使関係(管理者と実行者の指揮命令関係に帰着するものとされます)の集団性否認とは,どのようなものでしょうか。私はイタリア史を専門に研究しているわけではないのですが,少なくともファシズム期に制定されたイタリア民法典やその他の法律からわかるのは,企業内において労働者は,国家の生産目的にしたがうよう階層構造に組み入れられた「企業家(imprenditore)の協働者(collaboratore)」という位置づけです。そこでは個別労使関係が軸のようですが,集団性の否認の仕方は独特でした。現在のような使用者の集団的利益に対抗する労働者の集団的利益というものは観念されず,両利益は上位の国家的な生産目的に統合されました(それゆえストライキもロックアウトも禁止されました)。いわば集団性を二元的にとらえて国家レベルの集団性を高次にとらえ,社会的な集団性はそれに従属したものとみて,そこに権威主義的な制約を加えたところがファシズムの特徴だと思われます。これは国家型個別労働関係とみるのがよいのか,特殊な国家型集団的労使関係とみるのがよいのか,私にはよくわかりません。
 ちなみに,イタリアでは、こうした歴史があることから,戦後は,社会レベルの集団性が国家の集団性からできるだけ自由でなければならないとする考え方が強くなり,憲法レベルではファシズム的な労働組合の残滓があるものの,組合の自由(団結の自由)が強調されることになりました(憲法392項以下[労働組合の登録制,法人格の付与,一般的拘束力のある労働協約の締結]は死文化しています。労働組合の法人格は,ファシズム期には公法上の法人とされることにより国家統制を受けたことから,ファシズム期を想起させるのです)。ネオ・コーポラティズムの動きはイタリアでも起きて,政労使合意を重視して労働政策は進められるのですが,それでも政府とは一定の距離を置くという労使自治が,ファシズムを経験したイタリアの労使(とくに労働組合)のスタンスだと思います(最近はどうなっているか十分にフォローしていませんが)。
 さて,労働組合カルテル論の話に戻ると,これは結局,アメリカでも克服されたわけです(ワグナー法の制定など)。カルテルも絶対的な禁止ではなく,市場支配力が弱いときや,経済的弱者保護のためといった目的があれば正当化しうるものです。その意味では,カルテルは,経済政策の手段としては,ときには活用可能です(もちろん,ネオ・リベラリズムなどが台頭すると揺さぶられるのですが)。労働組合をそういう視点でみることもできます。一方,労使自治論になってくると,国家と個人や社会はどういう関係であるべきかという原理論とかかわってきて,経済政策的な観点だけからでは議論しきれないところがあります。加えて,欧州には歴史的にギルドの文化があり,いったんフランス革命後に中間団体として否認されたものの,なお脈々と残り,それが労働組合として合法化されていくわけです。労働組合は,このときから,国家による抑圧と戦かったという歴史があり,それが団結の自由の原理的な基礎であるという見方ができます(イタリアでは,その後,ファシズムに破壊され,そして奪還した)。
 このように考えると,これだけ多くの国の集団的労使関係法制が紹介されているので,次のステップは,歴史的に,①労働組合に対して国家がどのような対応をし,それをどのように克服したか(あるいは克服できていないか),②そのことが労働組合法制にどのような影響を与えているか,あるいは③従業員代表的なもの(「参加」的なもの)との関係にどのような影響を与えているか,という観点からの分析がなされればよいなと思いました。中国法も,体制は違うものの,こうした観点からみると面白い分析ができそうです。そして日本は,戦前の抑圧の歴史があり,戦後はアメリカ流とドイツ流のハイブリッドな労働組合法制を得たが,実態はどちらともかなり違う形で展開しています。私の目からは,日本は憲法によって団結の自由が広く保障されているのに,そのもつ潜在的能力を十分に活かさないまま,安易に従業員代表的なもの(参加)に走ろうとしているようにみえます。
 今日,労働組合的なものの可能性は,個人事業主たちの団結のほうにあるような気がします。個人事業主たちのつくろうとしている団体こそ,西欧型のギルド的な匂いのある労働組合(職業を共通にする者の共済団体的な組織で,職業紹介なども行う)の正統な後継者のようにも思えます(拙著『会社員が消える』(文春新書)185頁も参照)。現行法上,個人事業主の団体をどうみるかをめぐっては,いろいろな議論がありますが,より広い歴史的,原理的な観点から議論する必要があるのかもしれません。
 というように勝手に暴走しましたが,こうしたいろいろなことを考えるきっかけを与えてくれる本です。海老原さんとの共著の新書については,また後日に。

2021年12月20日 (月)

宇宙的視点

 ZOZOの創業者の前澤友作さんの宇宙旅行からのメッセージは夢がありました。私は閉所恐怖症で,飛行機に乗るのもほんとうは怖いくらいなので,宇宙まではとても行きたいとは思いませんが(そんなお金もありませんが),彼が子どものときからの夢が実現したと笑っている顔は見ていて気持ちがいいですね。夢をもって生きるというのは素晴らしいことです。大金を得ることができれば何でもできるというような言い方をしてしまえば身も蓋もなく,彼の行動をそういうように評価してはつまらないのであり,むしろ,夢に向かって邁進することは素晴らしいという視点でとらえたいですね。ちょっと違っているかもしれませんが,三浦カズが一途にプロのサッカー選手の道を極めようとしていることに感じるのと同じような,純粋な夢の追求者への共感です。
 ところで,宇宙というと,今日の日本経済新聞の記事で,宇宙開発に投資しているあのAmazonの創業者Bezos氏の,「重工業の地球外移転。太陽光を存分に使え,公害リスクは低い。そうなれば地球は住みやすくなる。そのためには安価な人やモノの輸送手段が欠かせない」という見解が紹介されていました。社会課題の解決を宇宙規模で物事を考えるという彼の視野の広さには驚かされました。GAFAの創業者たちには毀誉褒貶がありますが,彼らの視点の斬新さとスケールの大きさには感服します。宇宙開発の試みは,もうずっと前からあったことかもしれませんが,それが私たちの目の前で現実のものとなってきています。これから人々の活動が地球規模を超えていくようになると,冗談抜きで宇宙まで視野に入れた人間社会というものを考えていく必要があるのではないかと思います。社会科学はきちんとついていけるでしょうかね。
 Hannah Arendt (ハンナ・アーレント)の『人間の条件(The Human Condition)』のプロローグは,1957年に人類が初めて人工衛星を打ち上げた話(ソ連のスプートニク)から始まります。彼女は,地球に拘束されていた人間が地球から脱出するのか,という視点でこの出来事をとらえていましたが,現在は,地球と宇宙は連続的となりつつあり,そうなると“The Human Condition”も変わっていくのかもしれませんね。

2021年12月19日 (日)

M1

 日曜というと,将棋のNHK杯が楽しみなのですが,最近では,テレビはパソコンやタブレットで観ています。NHKプラスで好きな時間に観ることができるので,必ずしも「日曜」の楽しみという感じではなくなっていますが,できるだけ日曜のうちに観ておこうと思っています。今日は,兵庫県出身の新鋭の出口若武五段が近藤誠也七段に快勝しました。ベスト8進出で頂点も見えてきましたが,どうなるでしょうかね。日曜のNHKというと,「ダーウィンが来た」もお気に入りです。
 今年は,大河ドラマは観ていないので,このほかにNHKで観るのはニュースとテレビ体操くらいです。これもNHKプラスで好きな時間帯に観ています。テレビ体操は,最近は夜のテレビ体操というのが始まっていて,面白い企画なのですが,体操の内容が寝転がってやるものが中心なので,テレビ(あるいはパソコンやタブレット)を観ながらではやりにくいのです。結局,まず番組を観て動きを覚えて,そのあとから体操をするしかできないと思うのですが,皆さんはどのようにしているでしょうか。こう書くとNHKファンのようですが,NHKプラスのニュースは全国版以外は,関東甲信越版しか観ることができないのが大いに不満です。ニュースだけなら,テレ東で十分で,関西ローカルの情報を得ることができないNHKプラスは大きなマイナスポイントです。一般的なニュースだけなら,NHKプラスよりも,テレ東BIZのほうが,私には価値が大きいです。 
 話は変わり,全国中学駅伝の女子の部で,兵庫県の稲美町にある稲美中学が優勝しました。優勝候補にも上がっていたそうで,驚きました。稲美町は,将棋でも有名な加古川市のすぐ隣にある町ですが,田舎(というと怒られるかもしれませんが)の中学が大きなことをやってくれましたね。男子も加古川市のすぐ近くの高砂市の宝殿中が出場し,17位でした。来週は,高校駅伝です。兵庫県からは男子は西脇工業,女子は須磨学園がでます。男子は,西脇工業,報徳学園,須磨学園が3強で,女子は須磨学園と西脇工業が2強という感じです。最近は女子のほうが全国優勝への期待が高い場合が多いような気がします。
 またまた話が変わり,M1グランプリは面白かったですね。一番笑ったのは,ロングコートダディでしたが,最終決戦には残れませんでした。インディアンスも面白かったです。最終決戦の3組は,錦鯉は,あまり漫才になっていないような気がしましたが,ボケの長谷川のキャラが濃すぎて,思わず笑ってしまいました(最近は動きがあるほうが評価されることが多いようですね。昨年のマヂカルラブリーや3年前の霜降り明星とか)。オズワルドもインディアンスも良かったのですが,インディアンスは第1ラウンドが面白かったので,もっと高いものを期待されてしまったようです。オズワルドも同様で,最終決戦のネタは錦鯉の後なので,もっとわかりやすい内容にしてもう少し笑いが取れていれば,というところです。ということで,オズワルドもインディアンスも伸び悩んだので,一番笑いがとれていた錦鯉に票が集まったというところでしょうかね(5票入ったので圧勝でした。ただ,中川家の礼二も指摘していたように,頭を叩くところは,どうかと思いました。最終決戦では減っていましたが,やはり気になりました。子供の教育に悪いというようなこともあるでしょうが,それよりも単に見ていて良い気分がしませんでしたし,芸の貧困という感じもします。テレビ向きではないかも)。いつものように年末に笑わせてもらってよかったです。

2021年12月18日 (土)

季刊労働法275号

 季刊労働法275号は,充実していましたね。274号に続いてテレワークが採り上げられていて,今回は日弁連のシンポジウムの掲載でした。前号での私たちが執筆した特集と合わせて読んでもらえれば,理解が深まるのではないかと思います。テレワークに対する世間の関心は下がっておらず,私もテレワークに関して短い論考ですが,今月と来月締切の原稿が立て続けに3本依頼が来ています。
 275号のメインの特集は「AIと労働法」でした。やっと季刊労働法でも,このテーマがメインに採り上げられたかという感じですが,充実した論文がそろってよかったです。私が20171月に『AI時代の働き方と法―2035年の労働法を考える』(弘文堂)を刊行したときには,学会ではほとんどまともに相手にされなかったテーマで,せいぜいエッセイのネタくらいの位置づけでした。特集号のテーマとして採り上げられるようになるまでの5年は長かったですが,感慨深いものがあります。もっとも,現在の真の論点は,AIからDXに移っており,AIDXに関する問題の一分野にすぎないというのが現在の私の考えです。そのため,私も最近書くものはDXが中心で,AIにしろ,テレワークにしろ,フリーランスやフリーワーカーにしろ,そこから派生する問題の一つという位置づけをしています(プライバシーや個人情報保護も同じです)。DXの観点から包括的に労働政策上の問題をバックキャスティングな思考で論じる特集も,いつかは組まれることになるでしょう。
 ところで275号で注目されたのが,道幸哲也先生の「覆水盆に返らず」という論考です。団体交渉に関係する三つの判決・命令をとりあげているのですが,そのうちの関西外国語大学事件(第1審)と山形大学事件は,このブログでもすでに採り上げました。関西外国語大学事件は,控訴審判決(大阪高判2021122(令和2年(ネ)610号))も出ていて,控訴棄却で大学側の勝利となっていますが,そこでは「団体交渉によって要求事項の実現を図るというよりも,自らの要求事項を自力執行の形で実現する目的で本件争議行為を行ったといわざるを得ない場合には,もはやその目的及び態様において,争議行為としての正当性を欠くものと解されるのであって,許されない争議行為というべきである」と述べ,1審にあった「団体交渉を通じた労使間の合意形成を促進する目的が失われたもの」という表現はなくなっていました。争議行為の目的に着目する点は同じですが,合意形成の促進目的がないから争議行為は正当でないとするのではなく,要求事項の自力執行目的の争議行為には正当性がないとしているのです(1審でもそのような趣旨の判断は含んでいました)。
 道幸先生のご指摘は,1審のような「団体交渉を通じた労使間の合意形成を促進する目的が失われたもの」として争議行為の正当性を否定することは,団交が争議回避目的でも行われることを看過しているという点です。控訴審判決にも,実質的には同様の批判があてはまるのでしょうが,控訴審は,第1審のような,団体交渉が行き詰まりに至ったから,団体交渉が進展する状況にはなく,団体交渉を通じた労使間の合意形成を促進する目的が失われたものと評価できないという言い方はしておらず,「団体交渉における交渉の行き詰まりを打開するなど団体交渉を機能させてその内容を実現することを目的としたものとは認められない」ことから,争議行為の正当性を否定する判断につなげています。こうした目的の争議行為であれば,団交と関係のない争議行為ということなので,道幸先生のお立場からはどう評価されるのでしょうかね。私が前に書いたのは,そもそも団交と関係がないからといって争議行為の正当性がないとする第1審の立場については学説上は異論があるだろう,ということでした(人事労働法の立場からの見解はそのときに書いたので,ここでは省略します)。
 山形大学事件は,時間の経過にともない,団交の目的達成が事実上不可能になった場合に,団交応諾命令を出すのは裁量権を逸脱するとした仙台高判の判決について,道幸先生は,団交の意義には,①交渉を通じた新たな合意の実現,②交渉を通じた説明・情報開示(労使コミュニケーション)の2側面があり,控訴審判決は②を軽視していると批判されています。私は,表現は違っていますが,似たようなことを前に書いています。
 もう一つは,中労委のくれよん事件命令です(中労委命令2021427日(平成29年(不再)第9号))。チェック・オフの打ちきりを支配介入と認めたときの救済命令の内容が,チェック・オフを議題とする誠実団交応諾であったことについて,道幸先生は,チェック・オフ再開命令を発すべきであったと批判されています。誠実交渉命令では不十分であるという理由です。道幸先生が,誠実交渉命令を違法と考えられているのか,違法ではないが,適切ではないと考えられているのかは,よくわかりませんが,団交応諾命令の不十分性を指摘されてきた道幸先生の立場からは違法だと言いたいところかもしれません。団交応諾命令を出しても,組合を否認して,まったく団交に応じようとしない使用者に対しては実効的な救済にならないということです。私もこの問題意識は共有しています(組合否認的な使用者に対しては,労働委員会として全力で憲法28条や労働組合法の説明をして理解しもらうという教育的手法で対処せざるを得ないでしょう)。ただ少なくとも,くれよん事件では,組合否認型の団交拒否ではなさそうなので,そのような事案では,労使間の交渉を通して解決を図れるならば,それを模索するのがベストといえます。つまり支配介入事件であっても,誠実交渉を命じることは,労働委員会の裁量の範囲内であるし,むしろ積極的にそういう命令を出すほうが望ましいと思います。これは道幸先生が団交の意義としてあげられた,前記の②の側面を労働委員会の介入によって実現しようとすることにもなるのではないでしょうか。
 それにしても道幸先生の次々と論文を発表される執筆パワーには驚くばかりです。先生には,論点整理型の論文よりも,こういう判例や命令例をばっさり斬っていく論考で,私たちに刺激を与えていただければ有り難いです。

2021年12月17日 (金)

V. School サロン

 昨日は朝から頭が重いなと感じ,熱を測ったところ平熱でしたので,ここ数年,こういうときは血圧が高いことが多く,測定してみれば,案の定,血圧が日頃よりも30ほど高くなっていました。その前日から耳奥の痛みがあり,この日は5限に先週に引き続いてV.Schoolサロンに参加することになっていたので,それまでに何とか回復すればよいなと思っていました。昼間はずっと寝て静養して,結局,それほど血圧は下がらなかったのですが,身体は辛くなかったので,参加しました。
 高血圧の原因は不明ですが,どうも気象病や天気病と呼ばれるやつで,低気圧が突然やってくると体調不良となっているような気がします(このことは前に高血圧になったときにも書いたような記憶があります)。これまでも頭痛はときどきあったので,その原因が疲労なのか,二日酔いなのか,それとも別の原因なのか,わからないまま,自然に治っていたのですが,気圧と血圧の関係を意識するようになってから,両者に因果関係があるのではないかという気がしてきました。もう少し頻繁に起こるようになれば,きちんと記録して分析してみようかなと思っています。
 それで肝心のV.Schoolサロンのほうは,高血圧のことも忘れるほど,面白かったです(参加メンバーや内容については,V.Schoolサロン#6 | V.School Kobe 国立大学法人神戸大学バリュースクール (kobe-u.ac.jp) )。市場と倫理,コーポレートガバナンス,ESG,デジタルと労働法,教育というような広範囲にわたって面白い議論ができたと思います。カント,アーレント,アダム・スミスから,リバタリアン,リバタリアン・パターナリズム,さらにはDXAI,ギグワーカーという言葉まで飛び交う議論は,他ではなかなか聴けないと思います。学生や聴衆の方はどう思ったかわかりませんし,テーマであった働き方について学びたかった学生には,少し物足りなかったかもしれませんが,私がSDGs時代の働き方というテーマで深掘りすると,どうしてもこういう話になってしまいます。
 前にも書きましたが,異分野の研究者と議論をする場があるというのは,たいへん素晴らしいことで,学生への教育ということを忘れて,自分自身が楽しんでしまい,そしてたいへん勉強になりました。V.Schoolは社会実装につながる価値創造のプラットフォームをめざす場ですが,アカデミックな価値創造のプラットフォームにもなるなと思いました。学内でこういう研究環境があるのは有り難いことです。今回のように外部に公開しているシンポジウムやセミナーなどの企画も豊富なので,ご関心がある方はぜひ申し込んでみてください。

2021年12月16日 (木)

『不当労働行為法』

 山川隆一編著『不当労働行為法―判例・命令にみる認定基準』(第一法規社)を,山川先生,小西康之さん,土岐将人さんからいただきました。どうも,ありがとうございました。「はしがき」で 山川先生が書かれているように,「論点の詳細化」を行ったものであり, 各労働委員会の必携の書物になるでしょう。
 本書では,不当労働行為についての学説の紹介や理論的な分析がなされているわけではなく, ひたすら実務的な観点からの整理と分析がなされたものですが,余計なことが書かれていないことが本書には長所となっていると思います。
 もっとも,あえて言うと,これまでの実務が理論的に正しいとは限らないということにも留意しておく必要があります。たとえば,本書でも,義務的団交事項に「個別的人事事項」が含められていて,それは実務上確立しているかもしれませんが,理論的にはなお検討の余地があります。労働委員会の委員の方(とくに使用者委員)でも,疑問をもつ人がいるはずです。そうした疑問には(少なくとも私の立場からは)十分に理由があるのであり,そういうことを知っておくのは,実務において必ずしも邪魔となるわけではなく,和解などでよりよい解決する際の視点を提供してくれる可能性があります。
 一方,支配介入の意思のように,裁判例も学説も見解が必ずしも一致していない論点があるものについて,本書のように適切な整理がなされると,実務家にとっては頭の整理がしやすいと思います。
 また労組法7条の「使用者」性については,分類がきわめてすぐれていると思いました。まず大きく(ア)「使用者」の基本的意義と(イ)「使用者」概念の 拡張― 雇用主以外の「使用者」性―に分けて,(ア)については(a) 意義,(b)雇用主の確定,(c) 法人の構成部分,(d)清算手続中・破産手続中の法人に分け, (イ)については,(a) 時間的な近接((i)労働契約の成立前,(ii)労働契約の終了後),(b) 雇用主の内部者((i)役員等,(ii) 倒産管財人),(c) 雇用主と契約関係・資本関係等を有する第三者企業((i) 労働力の利用―業務委託・労働者派遣等,(ii) 資本関係を通じた間接的支配―持株会社や親会社,(iii) その他の事実上の関係があるにすぎない場合),(d)不当労働行為責任の承継((i)合併,(ii)会社分割,(iii)事業譲渡),(e)実質的同一性の法理等です。こうしたすぐれた分類により,個々の事案ごとに,より的確な判例や命令にたどりつきやくなると思いますし,研究者にとっても理論分析の際に役立つでしょう。
 本書は電子化して, データベースとして活用できるようにしてもらえれば, ありがたいですね。

 

2021年12月15日 (水)

『望み』

 『望み』という2020年公開の映画(堤幸彦監督)を,Prime Video で観ました。都市近郊のオシャレな家に住む石川家。夫婦と高校生の息子,高校受験をひかえた娘の4人家族。父の一登は建築士で,自宅横に事務所を構え仕事も順調で,自宅は自身の設計によるものです。妻の喜代美は自宅で出版関係の仕事(校閲の仕事)をしています。二人とも職住一体という働き方です。そんな中流のなかの勝ち組という感じの家庭に突然降りかかったのが,長男の規士(たけし)の失踪です。以下,ネタバレあり。
 サッカーに打ち込んでいた長男ですが,ケガのためにサッカーをやめます。その後,目標を失ったかのような本人は,自宅に夜遅くに帰ることが増えてきます。父の一登は「何もしなければ何もできない大人になる」と忠告するのですが,息子には届いていないようです(実はそうではなかったのですが)。規士の顔にはあざがあったのですが,親に尋ねられても理由を言いません。また一登は,規士の部屋で小刀を見つけたことから,なぜそんなものを購入したのかを聞きますが,理由を言わなかったために小刀を取り上げます。
 あるとき一登が朝になっても帰ってきませんでした。そんなとき,高校生の惨殺死体が発見されます。妹の雅は,それが規士の友人であったことを両親に教えます。現場から少年2人が逃走したという目撃証言があったことから,ひょっとして規士が犯人ではないかという思いが,家族にはよぎります。さらに,行方不明になっているのは3人であるという情報が入ってきます。3人の行方がはっきりしないなか,3人のうち2人が犯人で,もう1人はすでに殺されているのではないかと推測されました。
 喜代美は,息子が殺人犯であっても生きていてくれることを望みました。一登は,息子を信じて,殺人犯でないことを望みました(小刀は,一登が取り上げて事務所に隠していたのですが,その後,規士が持ち去ったことを,事務所の同僚がみていたので,そのときは一登は規士の犯行を疑います。ただ,その後,小刀は規士の部屋から見つかったことから,一登は規士が殺人をおかしていないと確信します)。
 どんなことになっても息子に生きていてほしいと考える母親と,息子が殺人をおかすような人間ではないと信じる父親。夫婦の間に亀裂が入ってきます。妹の雅は,兄が殺人犯であれば,目指している難関の高校に入学できないことになると考えて,兄が殺人犯でないことを望んでいます。もちろん一登も雅も規士が生きていることを願っているのですが,それぞれの立場から犯人でいてほしくないと考えているのです。
 ネット上では,規士が殺人犯であるという噂が流れ,自宅や車に落書きをされたり,卵を投げつけられたりしますし,一登の仕事にも影響が出てきます。妹も塾に行きづらくなっています。規士は犯人として逃げているのか,殺されているのかわからないなかで,犯人と決めつける世間や容赦のないマスコミの追求,しかも殺された少年は,一登の取引先の社長の孫であったという事情もあり,一登も追いつめられていきます。
 喜代美は,長男の生存を信じ,犯人の家族として,これまでの生活ができないことを覚悟してほしいと雅に言います。喜代美の母は,喜代美のことを心配して料理などを持ってきてくれますが,どんなことになろうが,夫婦が覚悟をもって乗り越えて,というアドバイスをします。しかし,覚悟の内容が夫婦では違うのです。
 実は規士は殺されていました。なぜ事件に巻き込まれたかの真相は,最後のほうで,明らかにされます。規士は,殺された高校生の暴走が発端でした。彼は,規士のケガは上級生がわざとやったということを知って義憤に駆られ,規士が知らないところで,その上級生に大けがをさせていたのですが,今度はその上級生に依頼された不良たちに狙われていました。規士は,その彼を守ろうとして巻き込まれた被害者でした。そのことが明らかになって,規士や石川家の名誉は回復されましたが,規士が帰ってくるわけではありません。
 瀟洒な家は,落書きも消され,何事もなかったようです。いろいろな意味でどん底に落とされた3人ですが,最後は規士が被害者であったという事実に助けられました。雅は受験に合格しました。喜代美は,亡くなった長男の写真をみながら,校閲の仕事を続けています。おそらく一登はこれまでどおりに順調に仕事をしていくでしょう。
 加害者と被害者の両方の視点が錯綜する複雑な構成で,しかも家族3人のそれぞれ違う「望み」が交錯し,最後まで長男が犯人か被害者かがわからず展開していく点ではサスペンス作品でもあります。
  母の喜代美は,週刊誌の記者に対して,規士には生きていてほしかっただけれど,もし殺人をしていたのなら,生きていてよかったと思うのはそのときだけのものかもしれない,という本音をもらしていました。母親の子に対する愛は深いものではあるのですが,それでも決して単純なものでないことを教えてくれます。ほんとうの「望み」は何かということを考えさせてくれる良い映画だと思いました。

2021年12月14日 (火)

FIRE

 昨日のテレビ東京のWBSでは,「働き方」の変化について特集していて,FIREをする若者が増えているということが紹介されていました。FIREというと,普通は「解雇」だと思いますが,ここは意味が違っていて,「Financial Independence, Retire Early」の略語です。経済的に自立して,早期に退職するということです。番組では,5000万円の金融資産をためてFIREした人のことが紹介されていました。30歳そこそこの年齢で5000万円は立派ですが,これで老後まで安心とはいえないでしょう。ただ,その人は,YouTuberで稼いだり,何かあれば仕事に出たりすることも考えているとのことでしたので,心構えはできているようです。
 私が『会社員が消える』(文春新書)で描いた世界も,FIREをする人たちと重なるところがありますが,小著の場合は,独立自営で働くというシナリオを描いていました。FIREする人も,完全なリタイアではなく,何らかの形で社会と接点をもっていくのだと思います。それは独立自営で働くことかもしれませんし,YouTuberかもしれません。ボランティアもあるでしょう。どんな形であれ,社会課題の解決に貢献するという要素がなければ持続しないと思いますが,一つ言えることは,会社員として雇用されるという選択肢が,着実に優先順位が下がっていくだろうということです。「会社員が消える」時期の到来は,コロナ禍の影響もあり,私が思っていたより早く到来するかもしれません。


2021年12月13日 (月)

新しい価値観にあった賢い政策を

 岸田政権の本質は,最終的に世論に迎合した政策よりも,打ち出して引っ込めた政策のほうをみて評価すべきかもしれません。今回の子育て世代の現金給付については,10万円を支払うことにより国民の支持を得ることができ,(貯蓄に回すことができない)クーポン券の利用に半額を充てることにより消費喚起の経済対策にもなり,貧困家庭への援助にもなるという一石三鳥(あるいは,もっと多くの鳥を得られるかもしれませんが)だと考えたかもしれませんが,どうでしょうか。
 クーポン券をもらっても,あわててそれほど必要でもないものには使いたくないという国民の価値観(無駄な消費を控えるというSDGs思考)についていけてないかもしれませんし,貧困対策に部分的にはなっていても貧困世帯でないところにもばらまかれるのが,節約志向を強めている国民の感覚にあわず,さらには多額の事務経費の問題などが出てくると,国民の支持を得るのは難しいのではないでしょうか。財政出動の重要性は否定しませんが,wise spendingをしっかり考えてもらう必要があります。結局,全額現金でもよいということになったようですが,政府への不信感は容易には払拭できないでしょう。安倍政権時代のアベノマスク(非常用に置いていますが,うっかり付けて外に出たら馬鹿にされそうなマスクです)に象徴されるような税金の無駄づかいをしてしまうようでは,支持率は現在の様子見的な段階が終わると,急降下するかもしれません。
 岸田政権がひっこめた政策には,金融所得課税の強化もあります。富裕層には金融所得が多いことを念頭に置いたものですが,そのねらいはともかく,メッセージとしては株式投資にネガティブなものとなりました。老後2000万円問題のときとは逆方向のメッセージです。この課税強化の話がでたときは,株式市場も敏感に反応していましたよね。賃上げ政策により上がった賃金は,消費につながるというシナリオもありますが, 株式投資がなされて,それをもとでにして,企業が将来に向けて良き投資をするというシナリオもあり,SDGs時代の価値観からは,後者のほうが優先されるべきではないかと思うのです。それにESG投資の動きは,機関投資家などだけでなく,国民にも広がってきており,まさにwise investmentが注目される時代になるなかで,金融所得課税はそれに逆行している感があります。また,国に支払う税金も同じで,未来社会に役立つことに使ってほしいという思いを国民はもっているのです。だから必ずしも減税を望んでいるとは限らないのは,減税を主張する政党が必ずしも多数の支持を得ていない点に表れています(先の衆議院選挙では,維新は消費税の5%への引下げを主張していましたが,規制改革で支出を刈り込む案を出してwise spending の道筋を示しているところが支持されたのでしょう)。
 新しい資本主義というより,新しい価値観に応えたwiseな政策を進めてほしいものです。

2021年12月12日 (日)

私の著作

 ビジネスガイドで連載中の「キーワードからみた労働法」の最新号は,「デジタル変革と労働組合活動」という「キーワード」で執筆しています。労働組合の様々な活動がオンラインを利用したものになるときに出てきそうな法的問題をいくつかピックアップして解説しています。テレワークがもっと定着すると,労働組合の活動もネットを活用したものになるでしょうし,ICTの発達(とくに5Gの普及)はリモートでの団体交渉に現実味を与えることになるでしょう。ネット上での言論による経営者批判などがどこまで許されるか,使用者側がリモートでの団体交渉を拒否したり,逆にリモートでの団体交渉でしか応じないとしたりした場合に,不当労働行為となるかといった論点を扱っています。
 来年も,新しい法律・判例に着目する一方,伝統的な論点にも新たな視点で論じるべきものなどは積極的にキーワードとして取り上げて,解説できればと思っています。
 ところで,来年1月には,最新重要判例200労働法の第7版が出ます。新しい判例・裁判例,あるいは少し前の判例・裁判例だけれど,重要性が高まっていると判断したものを採り上げています。解説で参照したものも含め,令和以降の判例・裁判例が少しずつ出てきています。当然のこととはいえ,判例に終わりはありませんね。
 最新重要判例は改訂作業にすぎないのですが,全面的に見直すので,作業としては毎回かなり多いです。また日頃から判例の情報を収集して分析しておかなければなりません。以前は,新しい判例をまとめて検討する機会として,判例六法の編集協力者としての作業があったのですが,いまはやっていないので,神戸労働法研究会や研究者コースの大学院の授業が重要な機会となっています。  

 

 

 

 

 

2021年12月11日 (土)

個別労働仲裁の可能性

 仲裁法の附則4条は,「当分の間,この法律の施行後に成立した仲裁合意であって,将来において生ずる個別労働関係紛争(個別労働関係紛争の解決の促進に関する法律(平成十三年法律第百十二号)第一条に規定する個別労働関係紛争をいう。)を対象とするものは,無効とする」と定めています。個別的労働関係では,非対等な関係の下での合意であることから,事前の包括的な仲裁合意は,労働者から裁判によって救済される可能性を奪い,適切でないということでしょう。しかし,この考え方自体は,強行規定に基づく権利の放棄の可能性やデロゲーションの議論の深化をふまえると,理論的に克服可能ではないかと考えています(労働紛争と仲裁については,さしあたり菅野和夫『労働法(第12版)』(2019年,弘文堂)1062頁以下を参照)。訴権の放棄と実体法上の権利の放棄とは違うともいえそうですが,決定的に違うとは思えません。仲裁合意についても,仲裁法の上記の規定はあるものの,山梨県信用組合事件・最高裁判決の判断基準により同意があれば,有効とする解釈ができないかは検討の余地があると思います。
 ところで最近,仲裁の価値を評価すべきではないかと考えさせられることがありました。私が神戸大学に着任したころ,ある社会人院生がアメリカの労働仲裁(雇用仲裁)を研究テーマにしており,日本労働研究雑誌にもアメリカ法に関する研究論文が掲載されています。ただ,その後の研究はされていないようです。
 仲裁の必要性を感じたのは,先日の神戸労働法研究会で,次のような議論があったからです。高年齢者の再雇用において,提示された労働条件が定年前よりも低いことなどから,条件がおりあわず,再雇用が成立しなかったケースで,現在の法制度では,十分な救済ができないのではないかが議論されました(報告者の櫻庭涼子さんからの問題提起がありました)。労働条件が合意されて再雇用されれば,通常は有期雇用なので,無期雇用との労働条件の格差の不合理性が問題となりえますし,さらに,裁判例には高年法9条の趣旨から労働条件の継続性や連続性が一定程度確保されることが前提と述べるものがあるので,高年法の観点から論じることも可能ですが,労働者が提示された労働条件を拒否して再雇用が成立しなければ,これらの点を問題とできません。せいぜい,低すぎる労働条件の提示を不法行為として損害賠償請求(慰謝料。場合によっては,逸失賃金の財産的損害の賠償)ができるにとどまることになるでしょう(九州惣菜事件・拙著『最新重要判例200労働法(第6版)』(2019年,弘文堂)の第65事件などを参照)。しかしもし使用者の高年齢者雇用確保措置義務をもう少し重視して,労働者が継続雇用を希望する場合には,使用者はそれを受け入れるべきとし,労働条件については別途に争う余地があればどうでしょうか。変更解約告知のところで出てくる留保付き承諾と類似の発想です。高年齢者の再雇用も,新規の契約の締結という「入口」の問題ではなく,雇用の終了という「出口」の問題であるとみると,変更解約告知(条件付き解雇の一種)のアナロジーでとらえることは,それほど無理はないと思います(入口と出口については,9年前に書いた,ビジネス法務Vol.12 No.11(中央経済社)の巻頭言「『入口』と『出口』―狭まりつつある採用の自由」も参照)。通常の解雇について留保付き承諾が解釈論として認められるかは学説上争いがあり,私は解釈論では無理で,立法論の問題だと考えていますが,雇用の継続性を維持したうえで労働条件の内容確定をする手続があったほうがよいとは思っています。その観点から,同じ立法論をやるなら,仲裁人指定というようなことができないかということを考えてしまったのです。紛争が起きたあとに,いちいち仲裁合意をするというのは手間であり,迅速性の点で問題があるので,事前に仲裁人指定をして,紛争が起きたときに,ただちに仲裁に付託し例えば1カ月くらいで迅速に判断してもらうという手続は導入できないかと思うのです。もちろん,現行の個別労働紛争解決手続で,あっせんによる処理も可能ですが,裁判をするくらいこじれてしまったあとから,あっせんという手続に移行することには大きな期待はできないでしょう(当事者の一方があっせん手続に付すことに同意しなかったり,あっせん案の受諾に同意しなかったりすることが起こりやすいでしょう)。
 さらに仲裁のことを思ったのは,先日の大学院の授業で扱った河合塾事件(東京地判202185)を検討したときです。有期労働契約の反復更新をしている講師が翌年のコマ数(賃金に連動)の削減についての合意ができずに,契約が不成立になったことについて,雇止めが無効であるとして争われたものです。労契法19条に関する重要な論点がいくつか含まれており,雇止め制限法理が成文化されたことの欠点を顕在化させている判決だと考えますが,その点はさておき,この事件で,もし雇止めにされた講師が契約は継続したいけれど,コマ数についてだけ争いたいと考えていた場合(このケースでは講師の意思が必ずしも明確ではありませんでしたが),やはり留保付き承諾のようなことができれば,雇止めを回避できたことになります(河合塾事件は,同じようなタイプの別の事件で最高裁判決もあり,かつては最新重要判例にも掲載したことがありました)。そして,こういう場合にも,もし仲裁人の指定が認められていれば,仲裁で決着をつけることができただろうと思ったのです。労働契約法の制定のときに,雇用契約型契約変更制度が提案されていましたが,そのなかの具体的な制度案の一つは,裁判で労働条件の変更の相当性を争うことができるドイツ型です(ドイツの解雇制限法には,留保付き承諾に関する明文の規定がある)が,それを裁判所ではなく仲裁人を使う迅速手続を導入したらどうかというアイデアです。
 労働条件の内容をめぐる紛争は,実質的には,権利紛争ではなく,利益紛争なので,裁判所ではなく,仲裁で解決するのに適しているといえます。ちなみに集団的労使紛争を扱う労働関係調整法では,労働委員会による仲裁の規定があります。労働組合が関与していれば,実質的個別紛争であっても,労働委員会での仲裁が可能なのです(実例はほとんどありませんが)。
 個別労働紛争の仲裁制度を設ける場合には,仲裁人にどのような人がなるかが重要ですし,当事者(とくに労働者側)の仲裁付託の同意の真意性の確認も当然必要です。人事労働法の発想では,納得同意は不可欠です。一般的な法的ルールにおいて労働契約の特殊性を考慮した規定を設けることは,例えば,法の適用に関する通則法にも例がありますので,仲裁法でも同じような特則を設けたうえで,附則4条を削除して事前の仲裁合意を有効とするというのはどうでしょうかね。
  労働委員会のあっせん候補者名簿(労働関係調整法10条)などと同様,仲裁人候補者名簿を,国が事前に適格性を審査したうえで作成しておくことも考えられます。
 高年齢者の再雇用にしろ,雇止めにしろ,有期雇用に関係するので,迅速な解決が必要です。仲裁手続に期限を設けて,納得同意を基礎として紛争の迅速な解決を図ることは,適切な仲裁人をみつけることさえできれば,労使双方にとって意味があります。デジタル技術を活用したADRであるオンライン紛争解決(ODR)が利用できれば,もっと迅速化ができるかもしれません。人事労働法の発想に基づく立法論として,検討をしていきたいと思っています。
  仲裁といえば,前述のようにアメリカなのですが,荒木尚志先生の「労働法の実効性と紛争解決システムの機能:集団的合意による法定基準の柔軟化とアメリカにおける雇用仲裁の機能の比較法的検討」金融研究363号(2017年)という論文において,アメリカの仲裁について実にクリアに紹介され,日本法において雇用仲裁(個別労働紛争における仲裁)を導入することの適否について入念に検討されています。荒木論文は,雇用仲裁はアメリカでも批判が多いことや,そもそも日本はアメリカと違い,個別労働紛争解決システムが整備されている(乱立ぎみ)ことなどから,新たに仲裁というシステムを導入する必要はないのではないか,という消極論です。
  おっしゃることはよくわかります。アメリカでは,エグゼクティブ層を除くと,使用者が費用負担して仲裁人を指定するタイプが多く,また仲裁人をリピートして利用するのは使用者なので,中立性が損なわれやすいなど,なるほどと思う部分が多いです。たしかに仲裁人に良い人が得られなければ,この制度は機能しません。そこはしかし,そもそも仲裁はいかん,という原理主義的な議論ではないので,克服が可能なように思います。むしろ,仲裁というのは,当事者で特定の信頼できる人(それが見つかればということですが)に判断を任せることができますし(裁判や行政の手続では,忌避できることはあっても,指定はできません),手続的な柔軟性があるので,迅速に,かつ終局的に決着をつけることができます。有期雇用労働者のように悠長な手続をやっていられない労働者のニーズに応えるためにも,うまい仲裁制度を考えていくことは一考に値するように思います。

 

2021年12月10日 (金)

身近なギリシャ語

 変異株の呼称にギリシャ語が使われていることについては,前に書きました。ところで,文科省の「GIGAスクール構想」はよく耳にします(GIGAスクール構想の実現について:文部科学省 (mext.go.jp))が,このギガというのは,情報の単位で出てくる「ギガ」(1億)とは違っています。情報のほうは,「巨大な」という意味のギリシャ語から来ているようで,英語でも「gigantic」という形容詞がありますし,gが一つ落ちて「giant」も同じ語源の言葉です。でもギガスクールのほうは,「global and innovation gateway for all」の略なので意味が違いますが,「巨大スクール」(1億人総スクール)構想と解釈しても悪くないかもしれません(そういう意味もあるのでしょうか?)。
 それで,情報の単位としてのギガはというと,109乗を意味しています。その次の単位のテラ(1012乗)は,ギリシャ語の4(テセラ:τέσσερα)から来ています。なんで4かというと,103乗の1000を基本として,その4乗だからです。その次のペタ(1015乗・103乗の5乗)は,ギリシャ語の5(ペンデ:πέντε)から来ていて,その次のエクサ(1018乗・103乗の6乗)は,ギリシャ語の6(エクシ:έξι)から来ています。ところが,その次のゼタ(1021乗・103乗の7乗)は,ギリシャ語ではありません。Wikipedia によると,イタリア語の7(セッテ・sette)から来ているそうです。その次のヨタ(1024乗・103乗の8乗)は,これもWikipediaによると,イタリア語の8(オット・otto)から来ているそうです(記号のオーが,ゼロと紛らわしいのでYをつけてヨット⇒ヨタだそうです)。
 欧米人は,何か新しい概念が出てきたときは,やはりギリシャ語やイタリア語を使うのですね。もし次の単位1027乗(3乗の9乗)が出てくれば,どうなるでしょうか。イタリア語では9はノーベ(nove)です。Nはまだ使われていないので,そのまま採用されるでしょうか。それともギリシャ語に戻って9を意味するエネア(εννέα)となるでしょうか。なお8は,実はギリシャ語でもオクト(οκτώ)で,イタリア語とあまり変わりませんので,8ではイタリア語とギリシャ語が採用されていたと,みることもできそうです。

 ところで8ottoからきた10月(ottobre〔イタリア語〕,October〔英語〕)や9noveからきた11月(novembre〔イタリア語〕,November〔イタリア語〕)など,2つずつ数がずれている理由は,ローマでは3月から1年が始まっていたからですね。

2021年12月 9日 (木)

V.School

  神戸大学には,ホームページの言葉を借りると,「価値をキーワードに分野横断的な研究・教育・社会貢献のプラットフォームを実現」するというV.School が設置されています(V.School Kobe 国立大学法人神戸大学バリュースクール (kobe-u.ac.jp))。私は,センター長の國部克彦先生(もとは大学院経営学研究科教授)にお声がけいただき,今年度から,協力教員というものになっています。これまでは幽霊教員のような存在でしたが,今日は,そこの「V.Schoolサロン」というイベントに参加させてもらい,「SDGs時代の新しい働き方」というテーマで講演をしました。法学以外の研究者との関係というと,これまでは経済学の先生方と議論することはありましたが,V.Schoolではいろんな分野の方がおられるので刺激になります。私自身,法学から離れた分野にも積極的に乗り出して勉強したいと思っているので,こういう場に呼んでいただけるのは,たいへん有り難いです。これからの時代は,文理に関係のない分野横断的な場で,新たな価値を生み出すことが必要で,V.Schoolはそのための格好のプラットフォームですし,私の現在の関心に最もフィットするものです。来週も,今日に引き続き第2弾があるので,よい議論ができればと思っています(V.Schoolサロン#6 (kobe-u.ac.jp))。
 明日は,ひょうご労働図書館の労働問題講演会にお招きいただき,「新しい人事労働法という考え方とは」というテーマで,オンライン講演をします(ひょうご労働図書館(公式ホームページ) (hyogo-roudou.jp))。『人事労働法』の出版記念講演のようなものと勝手に解釈しております。労働法学会ではほとんど完全スルーされている本ですが,私の話を聞いてやろうと主催者の方がお考えになったのだと思います。日頃の講演では,あまり法学っぽい話はしないのですが,明日は多少,そういう話をします。『人事労働法』のエッセンスを2時間でお伝えするのは至難の業ですが,なんとか頑張りたいと思います。

2021年12月 8日 (水)

日欧の違い

 日本でデルタ株を抑え込むことができた原因として,今朝のニュースでWHOの専門家の方が,日本の公衆衛生手段のレベルの高さ(マスク着用など),ワクチン接種率の高さ,若者にも危機感が浸透していることを挙げておられました。たしかに,ワクチンは国がきちんと手配さえしてくれれば,あっというまに接種率が高くなりました。また花粉症などでマスクをすることに慣れていたということに加え,ハグや握手の習慣がないということも,公衆衛生に役立っているのでしょう。欧州に行くと,親しくなるとパーソナルスペースが近いことを感じます。男女間でも親しい関係であればハグで抱き合いますし,頬をあわせることもします。日本ではこういうことはありません。食事のときに手を洗わないとか,家に入るときに靴を脱がないとかもあって,そういう小さいことの積み重ねが,ひょっとしたら影響しているのかもしれません(欧州に旅行に行くときは,ウエットティッシュは必携です。日本人ほど,きれいに手を拭かないと思います。ハンカチも鼻をかんだものを何度も使いますし)。私が住んでいたイタリアでも,初めて留学したときは衛生観念が違うなと思ったことがよくありました。それを親しいイタリア人に言うと,あまりいい顔をされませんでしたが,彼ら,彼女らも日本に来たら納得した感じでした。
 ところで,若者が警戒感をもって,感染リスクに反応してくれていることは,少し意外でした。若いときは,粋がって,感染症なんて怖くないと言いたくなるでしょうし,そういう若者もいるのでしょうが,若者も感染すると重症化するという情報が流れると,冷静な判断をする人が増えたようです。むしろ若者気分が抜けないおじさんたちのほうが,はるかに無謀な行動をとっている印象もあります。
 自由の考え方も違うかもしれません。欧州人は,政府から自由を制限されることへの抵抗感が強いです。いまはどうか知りませんが,ドイツでは,高速道路で速度制限がないと聞いて驚いたことがあります。私の知っているドイツ人は,どの程度の速度を出すかは自己決定で,その道路に来ている以上,お互い事故のリスクを覚悟のはずで,だから自分の出したい速度を決定しているというのです。これは極端な例だと思いますが,欧州に行くと,日本人の私は,もっと自由に行動してよいというモードを切り替えたりします。そういうところなので,行動制限に対する抵抗感が日本よりもはるかに強いのかもしれません。ロックダウンをやっているから,行動制限をしやすい国と思うかもしれませんが,実は逆で,強硬手段をとらなければ,行動を止められないということです。ただ,それは政治的には危険な賭で,行動を自由にしてあとは国民の自己責任としたほうが,政治的には受けがよいかもしれないからです。ただそれでは国民の生命や健康に責任をとれないという良心ある政治家が,政治的リスクを顧みずにロックダウンを選択しているのではないでしょうか。ポピュリスト的な政権がロックダウンに消極的なのは無責任の証しです。日本で,国民の意見をよく聴く(と言っている)岸田総理が,オミクロンで早速,水際対策をして,国民の帰国も封鎖して(その後,緩和しましたが),それほど大きな異論がでなかったのは(橋下徹さんは怒っていましたが),行動制限に対する日本人的な受容性の高さを示していて興味深いなと思いました。それどころか,日本人は政府が言わなくても,自ら行動制限していますしね。
 こういう日欧の違いは,日本の欠点でもありえるのですが,コロナ危機との関係では,いまのところ吉と出ているようです。

2021年12月 7日 (火)

吉田修一『怒り』

 吉田修一『怒り』(2014年,中公文庫)を原作とする2016年の映画をAmazon Prime で観ました(監督は李相日)。八王子で惨殺された若い夫婦の壁には血で書いた「怒」の文字。犯人の名前も顔写真もあるのですが,なかなかみつかりません。そんなとき,千葉,東京,沖縄で,過去がはっきりしない若い男性が現れて,現地で住む人たちと接点をもちます。千葉では水産業を営む社長の家族とそのアルバイト従業員という関係,東京では同性愛者の集まるクラブでの遭遇,沖縄では無人島に住む若者とそこにときどき遊びに来る若者という関係です。最初は不審感をもってみられていた3人の男性ですが,徐々に信頼されるようになります。そんなとき,殺人犯が整形手術を受けていて,整形後の人相が公開されます。
 千葉では,歌舞伎町で風俗産業で働いていたところを,父親に連れ戻されたばかりの娘の愛子が,父が社長をする漁業関係の会社でアルバイトとして働く田代と愛し合い一緒に生活を始めます。ただ,田代は親の借金で追われて名前を変えて生活していました。そして田代は犯人の整形後の顔と似ていました。父の社長は疑い,最初は信じていた愛子も疑い始めます。そして田代は姿を消しました。
 東京では,高級マンションに住むエリート会社員の優馬が,直人と一緒に生活を始めますが,直人は過去のことをいっさい話しません。あるとき町で偶然,直人が女性と一緒に喫茶店にいるのを目撃した優馬は,直人に不審感をもち,詰問します。さらに殺人犯の顔写真の特徴である三つの黒子が直人にもあったことから,直人のことを疑うようになり,そんなとき直人は失踪します。
 沖縄では,無人島に住む田中のもとに頻繁に通うようになる泉は,他の土地から母親に連れられてきたのですが,地元で旅館を営む家の息子で同級生である辰哉に頼み,この無人島へとボートで行って田中と会うようになります。ある日,泉と辰哉が那覇に遊びに行ったとき,酔っている辰哉からはぐれてしまった泉は,米兵にレイプされてしまいます。辰哉はそれを目撃していたのですが,恐怖で助けることができず,それを深く後悔します。その後,田中は,辰哉の旅館で手伝いをして頼りにされるようになるのですが,粗暴な行動があり,ついにある夜に旅館のものを次々とたたき壊して逃げていきます。
 3人の若者がそれぞれ疑わしい感じなのです,誰が犯人かが最後までわかりません。動機については,犯人らしき者と一緒に働いたことがあり,殺人事件のことを聴いたことがあるという男が事情聴取で警官に話します。それによると,その犯人らしき男は,日雇いの仕事である現場に派遣されたものの,1週間前の現場に間違って派遣されていて,酷暑のなか歩き疲れて,ある家の玄関に倒れ込んでいるように座っていました。そこにちょうど帰宅したその家の奥さんから,お茶を差し出されたというのが,きっかけでした。他人を見下すことで保っていたプライドが,他人から同情されたことで怒りを爆発させたのですが,それは衝動的なもので,本人はその女性を蘇らせようとしていたというのです。そうこうしているうちに夫も帰宅して,凶行にあってしまったというのです。話を聞いた男は,その犯人らしき男は,普通の顔をしながら平気で人を殺す者だと言いました。
 3人のうちの誰が犯人であったかは,ここでは伏せておきます。犯人の男は世間に怒りを感じていました。他人の不幸を何とも思わない恐ろしい性格でした。残りの二人は真面目だが悲しい過去を背負っている青年でした。犯人の男は最後は殺されてしまいます。そこにも悲劇が待っていました。
 他人を信じることの怖さと,他人を疑うことの怖さの両方を教えてくれる作品だと思います。娘への愛に溢れる父親役の渡辺謙がいいし,若い旬の俳優たちがたくさん登場しているところも見物です。

 

2021年12月 6日 (月)

護られなかった者たちへ

 中山七里『護られなかった者たちへ』(宝島社文庫)を読みました。この著者の作品は,以前に『嗤う淑女』や『テミスの剣』を紹介していましたね。今回の作品は映画化がされたみたいで,話題になっているようですが,私は本で読んでみました。久しぶりにミステリー系の本を読んで,面白かったです。ミステリーという割には,筋は比較的単純で,犯人らしき人の引っ張り方がちょっとわかりやすくて,最後のどんでん返しは軽めでしたが,ストーリーの展開がうまいのでしょうね。十分に楽しめました。
 生活保護の受給をめぐるトラブルがテーマになっています。ある公務員と県会議員が,監禁,放置され,餓死という形で発見されます。あまりにも残虐な殺し方だったのですが,二人には悪い評判がまったくありません。最初は動機が不明だったのですが,たどっていくと二人ともかつて,同じ福祉関係の部署で生活保護の担当をしていたことがわかります。二人の厳格な仕事ぶりは公務員としては非の打ちどころがなかったのですが,貧困の極限にいた者からは恨まれることもありました。犯人は,生活保護の受給を認められなかった者だと思われるのですが,対象となりそうな者は誰も犯人になれそうにありません(そのうち一人は餓死していたので,復讐のしようがありませんでした)。しかし,直接の当事者の周辺には二人を恨んでいる者がいました。それが誰かということですが,読んでのお楽しみです。
 本書は生活保護とは何かということを考えさせられます。現場の公務員が寛大な処理をしすぎることは許されないのでしょう。でも真の弱者に対するいたわりという視点を欠いてしまえば,この制度の意味がなくなってしまいます。実際の生活保護行政のことはよくわかりませんし,本書には誇張している部分もあるのでしょうが,行政実務のある種の問題点を明らかにしているところがあるようにも思えます(本書でも悪者は厚生労働省になっていますね)。
 この本を読んでいて,コロナ禍で次々と出される金銭的な給付が,どれだけ現場の公務員の負担とストレスを高めているかについて少し考えなければならないな,と思ってしまいました。政治家は国民が喜ぶので,金銭(やクーポン券など)を給付しようとしますが,現場ではその申請の処理実務に追われることでしょう。問題はみんなに支給できないことです。要件を充足しない,申請書類に不備があるなどの理由で,申請をはねつけて,恨みを買うこともあるでしょう。でもいちいち個別案件に感情移入をしていれば大変ですし,不公平な取扱いとなりうるので許されません。方針を決定する政府は,下に命令を出すだけですが,現場の負担を考えれば,できるだけデジタル化で負担を軽減し,公務員が直接住民に接触しなくてもよいように配慮することも,職場環境の改善のためには必要かもしれません(本書は,ちょっと公務員批判がの視点が強いので,ついつい弁護したくなってしまいました)。
 ただ,これは本書のメインテーマではありません。生真面目すぎる成年が,ふとしたことから前科者になってしまい,刑を終えても世間の偏見にさらされる(と感じている)なかで,二人の殺人の容疑者として逮捕されてしまうのですが……。元警察官の保護司や彼を従業員として受け入れた経営者や現場の上司の優しさが救いでした。

2021年12月 5日 (日)

日本通信事件

 ビジネスガイドの「キーワードからみた労働法」の第164回のテーマで扱った「無期転換阻止目的の雇止め」について,そこで採り上げなかった裁判例を補足しておきたいと思います。それが日本通信事件・東京地方裁判所2020101日判決です。先日の大学院の授業で扱いました。結論としては雇止めが有効とされたのですが,会社側が無期転換を阻止する目的で,更新の上限条項を設けて,かつ,最後の方では不更新条項を挿入するという念の入った手順をとっていたケースでした。客観的にも,当該有期雇用の目的とされた業務がなくなるという事情がありました(特定企業からの受注の存在を前提とした有期雇用で,そのことは労働者側も認識していました)。本件では,労契法191号の実質無期型には該当せず,2号の更新期待の合理性が問題となりました。判決は一般論として,不更新条項が,山梨県民信用組合事件(最2小判2026218)の示した基準に照らして自由な意思によるものと判断されれば,更新期待の合理性を放棄したと認められるとしたうえで,本件では,自由意思は否定されました(管理職からの不更新条項の法的効果などの説明が不十分とされました)。しかし,その他の事情から更新期待の合理性は否定されて,いわゆる雇止め制限法理の第1段階の審査をパスしませんでした(客観的合理性・社会的相当性を判断するまでもなく雇止めは有効ということです)。ただ,最後の関門は,無期転換回避目的の更新の上限設定や不更新条項の挿入が,無期転換ルールを定めた労契法18条の潜脱となるかです。これについては,ビジネスガイドの上記論考でも論じたように,そもそも労契法18条の適用要件を充足しないように5年に到達するまでに雇止めをすること自体は,雇止めの有効要件を満たしているかぎり,法的な問題がないと解すべきです。本判決も,「労契法18条は,有期契約の利用自体は許容しつつ,5年を超えたときに無期雇用へ移行させることで,有期契約の濫用的利用を抑制し,もって労働者の雇用の安定を図る趣旨の規定である。原告は,5年を超えて雇用されておらず,かつ,労契法192号の適用により5年を超えて雇用されたことになるともいえないのであるから,原告について,労契法18条の保護が及ぶことはなく,本件雇止めが同条の潜脱となるとはいえない」と述べました。法の潜脱というためには,労契法18条の要件を充足しているか,充足する可能性が高いにもかかわらず,それを不当に回避しようとしたという事情が必要で,そうした事情が本件にはなかったということです。
 本件では,会社は原告労働者が加入する労働組合との間で「有期労働契約の更新に関する運用基準」について合意をしており,それによると2014430日時点での勤続年数の長さによって,更新期限を設けない(したがって無期転換を認める)者とそうでない者とが分けられ,原告労働者は後者に該当するものでした。会社はこの基準を適用して選別したうえで,無期転換が起こりうる直前の20183月末に雇止めをしていました。この運用基準は労働協約ではない単なる労使間の合意であり,原告労働者らには通知されていませんでした。この基準により,同じ職場の有期雇用労働者でも,雇止めされる者とそうでない者との選別が起きて,不公平感が生じてしまったのであり,会社側がこの運用基準について丁寧に説明していなかった点は,労働組合の組合員であるからあえて説明する必要がないと考えたのかもしれませんが,やはり人事管理的には望ましいとはいえないように思います(実際に,裁判となってしまいました)。また理論的には,この種の運用基準を労働組合が合意できるのかという点も問題となりえます。もし労働協約として締結していても,雇用の喪失につながる内容なので,協約自治の限界論から規範的効力が否定される可能性があります。
 こうした問題点は気になりますが,これまでの判例を前提とすれば,雇止めを有効とする判断に違和感はありません。本件は,いわゆる労契法18条の副作用(無期転換ルールがあるから,それを避けるために早期雇止めが起こること)が問題となっているケースではなく,整理解雇と類似のケースですが,不更新条項の位置づけなど理論的にも興味深い論点を含むものですので,ビジネスガイドの論考の補遺として挙げておきます。

2021年12月 4日 (土)

B級1組順位戦

 藤井聡太四冠が,今年最後の公式戦を戦ったというようなことまで,いまではニュースになります。これまでの将棋界では考えられなかったことです。多くの国民が,将棋のことはよくわからなくても,藤井四冠の動向が気になっているということですね。人気も実力もうなぎ登りです。彼の場合は,人気に溺れるということはなく,おそらく先輩に悪いことを教わるという心配もないでしょうし,心配なのは対局過多からくる疲労でしょうが,若いからむしろ対局数が多い方が調子がよいかもしれません。それに,タイトル保持者になると,挑戦者になるまでに勝ち抜くというようなことがなくなり対局数は減るので,その点でもあまり心配はいらないでしょう。
 一昨日のB1組の順位戦では,近藤誠也七段に王将戦の挑戦者決定リーグでの対局に続いて勝利を収め,これで81敗となりました。7戦全勝でトップにいた佐々木勇気七段が敗れて71敗となり,また三番手だった千田翔太七段も敗れて63敗となりました。佐々木七段は屋敷伸之九段に,千田七段は三浦弘行九段に敗れ,ベテランが若手の壁となるという「鬼の住処」と呼ばれるB1組ならではの結果でした。藤井四冠は,佐々木七段よりこの時点で対局が一つ多いですが,トップとなり,昇級に大きく前進です。次の佐々木七段と千田七段との対局が重要で,ここで千田七段が勝つと,佐々木七段は順位が下なので3敗勢にも昇級の可能性が出てきます。稲葉陽八段も三浦九段も53敗で,残り全勝して9勝まで行けば逆転昇級もありえますね。
 降級のほうは他の棋戦で活躍している近藤七段が不調で6敗となりピンチです。6敗をしている棋士は,近藤七段よりも順位が下に松尾歩八段や阿久津主税八段しかおらず(上位の6敗勢には木村一基九段がいます),降級は3名なので熾烈であり,5敗勢も気を抜けないでしょう。

2021年12月 3日 (金)

石油備蓄放出に思う

 タクシー以外は自動車に乗らない私は,ガソリンスタンドのオイル価格の動きには疎いのですが,原油高は確実に私たちの生活のいろいろな面に影響を及ぼすことになりそうです。化石燃料を使わない(燃やして二酸化炭素を出さない)という政策の方向性は決まっていても,現実にはそれなしでは生活できません。COP26の後という(絶妙の?)タイミングで,化石燃料の重要性を再認識させるような石油の国家備蓄の放出は,なんとも皮肉なことですが,二つのことを考えさせられますね。
 第1は,脱炭素という政策目標は,マネージが難しい政策だということです。中長期的な目標の実現に向けた対応と移行期に混乱を生まないようにするための対応は矛盾することが多いので,そこは政治のリーダーシップが必要です。今回は石油備蓄を放出するが,国家としては脱炭素政策として化石燃料を使わない方向でいくということを,国民に,工程表を示して,しっかり納得いくような説明をして協力を求めることが必要でしょう。いずれにせよ化石燃料に関連するエネルギー事業には将来性はなく,事業への投資を集めることは難しいでしょうから,石油などの供給は今度どんどん減っていくことになるでしょう。私たちは,それを見越して,脱化石燃料にあわせた生活様式を模索しなければなりません。当面は石油に頼ることはあり,とくに今回のような石油の備蓄放出というような事態も起こりうるのでしょうが,基本的には脱石油です。
 二つ目に考えさせられるのは,今回の国家備蓄放出は,実は供給不足が原因ではなく,値段の高騰が原因です。供給量を増やして価格を抑制しようとすることが狙いのようです。そのような国家の市場介入という政策は,どのように正当化されるのでしょうか。またほんとうに供給量の増大で価格抑制が起こるのか,流通経路の途中で供給を絞る業者が出てきて価格をつり上げる事業者が出てこないか,産油国が生産・供給を減らせば効果がないのではないか,といった疑問が出てくるでしょう。これについては,おそらく心配ないという答えが用意されているのでしょうが,国民へのきちんとした説明はされているでしょうか。
 国民民主党が求めていた「トリガー条項」(ガソリンの価格高騰時にガソリン税の引下げ措置を発動する事項)の適用(凍結解除)との比較がどうなるかも気になります。たんに災害時などに供給量を増やすのであれば備蓄の放出でよいのですが,価格を抑制するという目的のときに,直接的に供給量を増やす政策と税の軽減(さらに事業者への補助金もされる)という政策(あるいは,その他の策)のどれが望ましいのかは,経済学者の方にレクチャーしてもらえればと思っています。

2021年12月 2日 (木)

ヤクルト日本一おめでとう

 ヤクルトとオリックスの日本シリーズなんて面白いわけがないと決めつけていた私の不明を恥じるばかりです。夕食後のリラックスタイムに,さほどの期待せずにみはじめた試合ですが,どれも熱戦で面白かったですね。もともとオリックスの吉田選手は好きだったのですが,これまであまりみる機会がなかったので,今回はじっくりみることができてよかったです。それにしても,ヤクルトはこんなに強かったかと思いました。投手陣がみごとで,小川や石川のような阪神戦では必ずしも活躍していなかった投手まで好投しました。打者はもともと山田や村上は要警戒で,外国人の一発を抑えれば大丈夫という感じでしたが,塩見の成長で大きく変わったような気がしますね。オリックスはエースの山本投手が印象的でした。素晴らしい投手です。
 オリックスについては,かつてのソフトバンクのように,対戦してもとても勝てそうにないというほどの強さは感じませんし,日本一になったヤクルトにも,巨人ほどの怖さは依然として感じません。ただ阪神としては,なぜヤクルトに追い抜かれたかをよく反省し,ぜひ来年こそ日本一を目指してほしいです。

2021年12月 1日 (水)

Business Lawyersに登場

 企業法務のポータルサイトであるBusiness Lawyersに,今年刊行した拙著『労働法で企業に革新を』(商事法務)が紹介されました(経営者は労働法から逃げるな 『労働法で企業に革新を』著者に聞くDX時代に生き残る術 - BUSINESS LAWYERS )。編集長の松本さんからのインタビューを受けた内容が掲載されています。本全体を紹介するというより,松本さんが本書でとくに印象に残った部分にフォーカスしたものになっています。やはりデジタルトランスフォーメーション(DX)の影響やそれにともなうリストラに関心をもたれたようです。
 インタビューでは,主人公の美智香の話はまったくでてこなかったのですが,読者の方は美智香の活躍をどう思われたでしょうか。最後には社長になるという成功譚になっていますが,美智香には社長就任を断ってほしかったという声もあり,確かにそのほうが現代の感覚に合っていたかもしれません。ストーリー的には意外性を追求したつもりでした。
 美智香の下で東畑という若い男性社員が鍛えられるというのも,今風かなと思っていたのですが,こういう男や女を意識した発想がすでに時代後れなのかもしれません(美智香と東畑のラストシーンは,アモーレ派の私には自然なものですが,これもまた賛否あるでしょうね)。
 とはいえ,本書の狙いの一つであるDXのインパクトは,今回のインタビューでも大きく採り上げられました。現実には,男性のおじさんたちが組織の中枢を占め,DXにも本気で取り組まず,さらにZ世代の価値観も理解できていないということが少なくないように思います。企業に革新をもたらすためには,根本的な発想の転換が必要です。本書の前身である『労働法で人事に新風を』とあわせて,多くの人に雇用社会の変容を感じてもらえればと思います。

 このほか,日経コンピュータ2021年11月25日「急増ギグワーカー理想と現実に深い溝」のなかで,私のコメントが掲載されています。取材を受けていたことをすっかり忘れていました。ギグワークに対する世間の関心は相変わらず高いものがありますね。

 

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