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2021年11月23日 (火)

大谷のMVP受賞に思う

 大谷翔平選手の二刀流については前にも書いたことがあると思いますが,とにかく素晴らしいです(政府が人気取りのために使いがちな国民栄誉賞を辞退したのも立派です)。それと同時に,彼をみていると,日本で規格外の人をどう育てるかということの難しさも感じます。日本にいるときに彼の二刀流を許してくれる日本ハムに入団したことや,メジャーリーグでも出番を得やすい比較的弱いチームに入ったのがよかったのでしょうね。日本で巨人や阪神などの人気チームにドラフト指名されていたり,アメリカでヤンキースなどに入っていたりしたら,結果が出なかったときに辛抱強く使ってもらえなかったかもしれません。大谷選手はきちんとしたキャリアプランをもち,それに合った就職先を探したといえるでしょう。目先の報酬などを重視しなかったのも,ぶれない基準があったからでしょうね。
 メジャーリーグでも二刀流に対しては批判があったようです。それでも二刀流をとおすことができたのは,大谷選手の実力や人柄もあるでしょうが,先例がないからダメという発想が日本よりアメリカのほうが弱かったからではないでしょうかね。先例がないからダメではなく,先例がないからこそやってみな,という雰囲気が,突出したパフォーマンスを生み出したのでしょう。
 今年ノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎さんは,アメリカに行った理由として,日本人は,調和を重んじる関係性を築きたがって,いつもお互いのことを気にしているから,自分には合わないという趣旨のことを言われていました。要するに,日本にいると,自分のやりたい尖った研究ができないということでしょう。ノーベル賞をとるような規格外の研究をやるような人は,どうしても周りと衝突してしまいがちなのかもしれません。
 もちろん周りとの調和が大切でないと言いたいわけではありません。日本人は調和できる力があるから,個々の才能が多少足りなくても,大きなことができるという面もあるのです。ただ,これからは研究にしろ,スポーツにしろ,プロフェッショナルな仕事において尖っている個人が,もう少し居場所があるような環境がなければいけないと思います。
 しかも,これからのデジタル社会は,普通の人でもプロフェッショナルにならなければならない時代です。プロスポーツの選手のような意味でのプロではなく,自分の専門の職業をもつという意味でのプロです。先例がないという理由で新たなアイデアがつぶされることが多い日本社会は,いまのままでは優秀な若者に背を向けられてしまうでしょう。若い人たちがもつ才能を,旧来の基準や価値観で評価せず,本人が存分に才能を発揮できるよう支えることができる日本になることを願っています(それにしても,日本経済新聞でいま連載されているような若手官僚の働きぶりは,前から私が問題視していることですが,才能の発揮という面と正反対であり,人材の無駄遣いも甚だしいです。これでは良い人材は集まらないでしょう)。

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