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2021年9月 4日 (土)

解雇権濫用法理

 過去1年間の労働判例を振り返るとき,有斐閣の別冊ジュリストの「重要判例解説」が大変参考になります。数年前から,労働法は,土田道夫先生が全体の解説(労働判例の動き)を担当されていて,私もこれを読んで勉強しています。日頃,いちいち判例を追いかけているわけではないので,信頼できる先生が概観されているものがあると,たいへん助かります。先日,令和2年版を読んでいたのですが,そこでちょっと気になる裁判例がありました。それが,みずほビジネスパートナー事件(東京地方裁判所2020916日判決)です。土田先生は,「解雇権濫用を肯定する理由を丁寧に説示しており,先例性が高い」と評価されています。ただ,この判決は,ちょっと結論に疑問がないわけではありません。労働法研究者の端くれとして,解雇を無効とする判決に疑問と言うのは,少しはばかられますが,少なくとも判決文を読んだとき,なんとなく昭和52年の高知放送事件・最高裁判決(拙著『最新重要判例200労働法(第6版)』(弘文堂)の第48事件)と同じような匂いを感じました。問題となっている労働者は,みずほ銀行から子会社に出向し,その後,転籍した人で,おそらくは日本型雇用システムにどっぷりつかっている正社員でしょう。判決によると,多くの業務ミスがあるし,セクハラなどで懲戒処分を受けたこともあり,これで解雇が有効にならないのはなぜだろうと疑問をもつ人も多いでしょう。
 しかし,判決の結論に理由がないわけではありません。会社が根拠とする解雇事由が,「その他社員として勤務させることが困難もしくは不適当と認めたとき」という一般条項なのです。高知放送事件では,もっと抽象的な一般条項でしたが,それに近いものがあります。これだと解雇事由該当性の判断が非常に難しくなってきます。一つひとつの業務ミスがあったことの立証はできても,解雇事由該当性あるいは解雇理由の客観的合理性にまでたどりつくのが大変となりそうです。
 会社側は,解雇の有効性について,「普通解雇の事案であるから,事務ミス等と個々の服務規律違反行為を峻別したり,個々の言動を細分化して個別に評価を行うのではなく,本件解雇に至るまでの一連の言動が,被告との信頼関係を破壊するものであったか,原告の被告における業務継続を困難にしたかという観点から,本件解雇の有効性を検討すべきである」と主張しました。一方,労働者側は,「信頼関係の破壊という概念は極めて抽象的主観的であり,採用できない」と主張しました。たしかに,一連の言動をみろという会社側の主張はそのとおりだと思うのですが,信頼関係の破壊が抽象的主観的という労働者側の主張もそのとおりだと思うのです。それで裁判官はどう言ったかというと,「信頼関係が破壊されているとして普通解雇事由に該当するというためには,原告につき被告との信頼関係が破壊されたことを理由として解雇を相当とするだけの客観的事情が存在することが必要と解される」としたのです。信頼関係破壊論にのりながらも,それを客観的に判断するとしたのです。これもありうるアプローチですが,結局,この信頼関係破壊論が,裁判所によってきわめて厳格に解されたのです。
 問題は,ここでいう信頼とは何なのか,です。裁判官がどう考えたのか必ずしもよくわかりませんが,日本を代表する銀行が正社員として雇用したのは,採用時にそれなりの人物と評価をしたからでしょう。能力不足や適格性不足があったとしても,それも企業が織り込み済みで雇っているのであり,多少のセクハラをしようが,非違行為をしていようが,本人が反省し改善する見込みがあれば,企業はその正社員への信頼を失ってはいけないということなのでしょう。主観的な信頼というのは,一連の言動の積み重ねで失われていくということになりそうなのですが,そういうことではなく,一つひとつの言動だけで信頼を失ってはならず,社員に改善の余地があれば,企業はそうするように努めろということなのでしょう。こういう発想が,企業に求められる解雇回避の本質なのです。ただ,こうなってくると,企業が自信をもって解雇できるのは,一つの言動で懲戒解雇にできるようなもの(つまり信頼関係を一発で崩壊させてしまうような言動で解雇回避を求める余地がないもの,たとえば業務上横領)が存在する場合にかぎられてしまいます。私は『解雇改革』(中央経済社)という本のなかで,日本型雇用ステムの下における現在の解雇ルールでは,能力不足や適格性不足の解雇は難しいが,懲戒解雇は実際にそれだけ重大な非違行為があることさえ認められれば,比較的簡単に解雇は認められると書いています。懲戒解雇のほうが簡単というのはおかしな話にも聞こえるのですが,上記のようなことからわかるように,そういう面もあるのです。
 こういう普通解雇に対する厳格な姿勢を引き継いだのがこの判決なのです。しかし,こういう解雇法理でよいのでしょうか。解雇権濫用法理(労働契約法16条)はしょせん権利濫用論に依拠する法理であり,社会の変化に応じた弾力性が求められます。この事件の処理はこれでよいとしても,これが規範として一般化していくとやはり弊害が大きいと思います。
 人事労働法的な観点からは,うまく合意解約に至らなかったことに問題があるという評価になりそうです。一般条項的な就業規則の解雇事由による解雇で勝負するのには限界があったともいえるわけで,このあたりについては,経営者が就業規則をきちんと整備し,「退職のマネージメント」(守島基博さん)をきっちりして,円満な退職を図るべきだったというコメントになります(人事労働法的に望ましい解雇ルールについては,拙著『人事労働法』(弘文堂)の205頁以下を参照)。合意解約に失敗して,裁判になると,こういう判決が出る可能性は十分にあるのです(もちろん事案によっては,そう簡単に合意解約できないこともあるでしょうし,この事件もそうだったのかもしれませんが)。
 それと,一つ気になったのは,会社側は当該労働者のたくさんの問題行為を主張したのですが,これはひょっとすると裁判官には逆効果になった可能性もあります。業務ミスというのは,教育指導で改善できると考えやすいからです。以前に労働委員会で扱った事件のなかで,問題のある社員について,その社員の行動をこと細かく記録した文書を,その社員の落ち度を示す証拠として提出してきた企業がありました。それはそれで意味はあるのですが,そもそもこの社員にだけそういう記録をしていたのはいかがなものか,ということになりますし,問題行為を記録しているだけで,改善のための教育をしていないので,それも企業側に不利に働くおそれがないかなと思ったことがあります。
 解雇をする企業は,本人の能力不足や適格性の不足をきちんと立証することは重要ですが,もともと正社員については教育して活用することが前提なので,それさえもできないほどの能力不足や適格性不足であったということを立証しなければ,とくに本人が教育を受ける姿勢を放棄しているような場合でないかぎり,会社は勝ちにくいことになるでしょう。
 これが解雇権濫用法理の本質ですが,これがよい法理とは思えません。すでにいろいろなところで書いているので,ここでは詳論はしませんが,私はこの法理は日本型雇用システムどっぷり世代のところで終わりにして,今後は新しい解雇ルールを構築していくべきだと思っています(当然,解雇の金銭解決も含まれます)。この判決を契機にして,解雇ルールの現状を認識したうえで,その見直しをめぐる議論が高まればと思います。
 信頼関係論にもどると,解雇をしたところで信頼は崩壊しているのです。裁判官が,信頼を失ってはならないと考えても,失ってしまった以上,仕方がありません。裁判では,今回のような解決になっても,失った信頼は回復できないのであり,そうした関係を無理に継続させても良いことになりません(拙著『解雇改革』のエピローグも参照)。もっとも,この事件での労働者は定年退職間近だったので,この点は関係ないのかもしれませんが……。


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