昨日の続きですが,anniversaryという英語がありますよね。「記念日」という意味です。イタリア語でもanniversario とほぼ同じ言葉で,anni はanno (年)の複数形です。年がめぐってくるというニュアンスでしょうか。Anno は「年齢」も意味しますが,昔の人は,よく「数えで△歳」なんて言い方をしていました。これで言われると,古希のお祝いをいつやったらよくなるのかわからなくなったりして若い世代は困るのです。「数え」だと生まれたときが1歳で,正月がきて年をとります。そうなると,誕生日はanniversario という感じではなくなりそうですね。日本では正式な場では「数え」ではなく,満年齢で年齢を数えるよう求められています。明治35年の「年齢計算二関スル法律」の第1項は,「年齢ハ出生ノ日ヨリ之ヲ起算ス」となっています。そして,昭和24年の「年齢のとなえ方に関する法律」では,次のようになっています。
「① この法律施行の日以後,国民は,年齢を数え年によつて言い表わす従来のならわしを改めて,年齢計算に関する法律(明治三十五年法律第五十号)の規定により算定した年数(一年に達しないときは、月数)によつてこれを言い表わすのを常とするように心がけなければならない。
② この法律施行の日以後,国又は地方公共団体の機関が年齢を言い表わす場合においては,当該機関は,前項に規定する年数又は月数によつてこれを言い表わさなければならない。但し,特にやむを得ない事由により数え年によつて年齢を言い表わす場合においては,特にその旨を明示しなければならない。
附則
① この法律は,昭和二十五年一月一日から施行する。」
この法律が実際にどのような影響をもったか私はよくわかりませんが,「従来のならわし」である「数え年齢」は,「満年齢」を標準とする方向で変わってきたようです。でも年齢の数え方も文化だとすると,公的な場でのルールは仕方がないとしても,何となく,次の世代に「数え年齢」を残してもよいかなという気もしないわけではありません。
そんな私も,元号については,西暦派です。とくに支障がないかぎり,判例の表記は西暦で表示しようと思っています。ただ元号を日本からなくしてよいと思っているわけではありません。元号を使いたい人は使ってよいし,私も大きな時代認識を示すときには,昭和,平成,令和は便利なので使っています。ただ,政府からできるだけ元号をと言われたり,とくに文化的な話ではなく,たんなる手続的な次元で元号の使用を強制されるのは迷惑なこともあります。
ところで年齢に話をもどすと,法律は出生時より年齢を起算すると言っているのですが,誕生してから1年をゼロ歳と呼ぶか1歳と呼ぶかは,この法律から決められるのでしょうか。ゼロからスタートというのが前提ですが,ゼロという概念を認めるのは,法律のどこかで定められているのでしょうか。世間には「ゼロから始める」という言葉もありますが,「1から始める」というほうが一般的な気もします。ゼロというと何もない感じがするので,ゼロ歳というのには違和感がある人がいても不思議ではないと思います。
なお9年前にこのブログの前身で『異端の数ゼロ』という本の紹介をしており,ネット上のアーカイブに残っていたので貼り付けておきます。また,そのなかにでてくる「ゼロに関する本」とは,『零の発見: 数学の生い立ち』(岩波新書)のことで,2012年3月にアップしていますが,こちらはアーカイブに残っていませんでした。
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2012年8月19日 「異端の数ゼロ」
数字を数えるとき1からでしょうか,ゼロからでしょうか。実際にあるものを数えるときは1からでしょう。ゼロは存在しないものだからです。カウントダウンは,ゼロまで数えます。どうしてでしょうか。
赤ん坊の年齢はどうでしょうか。ゼロ歳児がいます。ゼロ歳でも,存在しています。もう少し正確に言うと,ゼロというのは年齢のことなのですが,その年齢の赤ん坊は確かに存在しているのです。どうしてゼロから数えるのでしょうか。同じ年数でも,西暦はゼロから始まっていません。西暦ゼロ年はないのです。紀元前1年の次は,紀元後1年なのです。ゼロはありません。西暦1年と西暦2000年では,2000ー1=1999となり,西暦1年の1999年後は2000年と言えます。ところが,紀元前1年から西暦2000年では,同じように,2000ー(-1)=2001ではないのです。西暦2000年は,紀元前1年の2001年後ではなく,2000年後なのです。ゼロがないから,こうしたことが起こります。
ゼロは西欧世界では,ずっと忌み嫌われたものだったそうです。ギリシャ人もローマ人もゼロという概念なしに生活をしていました。ゼロの悪魔的なところは,おそろしい矛盾を引き起こすところにあります。次のような数式があります。
a=b=1とします。
a=bなので,b×b=a×b となります。
この両辺から,a×aをともに引きます。
b×bーa×a=a×bーa×a
これは,因数分解すると,(b+a)(bーa)=a(bーa)となります。
そこで,両辺に(bーa)があるので,それで両辺を割ると,b+a=a となります。つまり,b=0です。b=1だったはずが,0に早変わりです。bをどんな数にしても,同じことになります。すべてがゼロになるのです。どうして,こんなことが起こったかというと,(bーa)で両辺を割ったところがポイントです。bーa=0なのです。0で割ってはならないのです。
ゼロは,ある数字に掛ければ,その数字をゼロにしてしまうこともできます。私たちは,ゼロを掛けてはならないのです。
なんていうゼロの話を教えてくれる本が,チャールズ・サイフェ(林大訳)『異端の数ゼロ』(早川書房)です。
前にゼロは単数か複数かということを書いて,ゼロに関する本を紹介しましたが,この本のほうが断然面白かったです。実は,後半は数学,物理学の発展とゼロ・無限大との関係が論じられていて,正直なところ,かなり難しかったですし,きちんと理解できていません。速読には向きません。むしろ,古代の哲学者,神学者が,ゼロや無限大とどう向き合ってきたかが,たいへん興味深かったです。物理,特に宇宙物理関係の理解能力がない点で,本書の価値をきちんと評価できないので,☆☆☆
でも,ほんとうは,もっと☆を付けるべき本なのかもしれません。