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2021年9月の記事

2021年9月30日 (木)

NTTの働き方改革

 928日の日経新聞の電子版で,NTTが,「働き方や人事制度改革,デジタル技術の活用による業務改善など経営の改革策を発表した。働き方については新型コロナウイルスの感染が収束した後もテレワークを基本とし,転勤や単身赴任をなくしていく方針を明らかにした」と報道されていました。NTTというと,最近は総務省関係の政治家や高級官僚を接待する会社というイメージがあったのですが,個人的には,こういう会社こそテレワークを進めてもらわなければ困るので,この方針がほんとうに実現するのであれば,評価したいと思います。
 NTT関係では,51歳時点で「退職・再雇用型」(地域密着型のグループ会社に再雇用され,労働条件は低下するが,60歳を超えても再雇用される)と「60歳満了型」(現状が継続し,60歳で雇用終了)の選択をし,どちらも選択しなければ後者を選択したとみなされるという制度をめぐる紛争が,よく知られています。拙著『労働法で企業に革新を』(商事法務)のなかでも,登場人物の一人深池について,NTTの事件の事例をモデルにした話を紹介しています(同書47頁を参照)。
 NTTのような会社が,ICTを活用した転勤のない働き方を推進していかなければ困ります。ぜひ日本の働き方を変えるモデルケースを作ってもらえればと思います。どうせなら,ICTが十分に活用できていない官庁(NTTと仲の良い総務省も例外ではありません)における,テレワークの普及にも尽力してくれれば,NTTの存在感は高まるのでしょうが。

2021年9月29日 (水)

岸田総裁誕生

 岸田文雄さんが自民党の総裁に選ばれましたね。4人の候補が連日メディアに登場して国民の関心を集め,コロナも数字的には収まりつつあるなか,自民党の支持率が回復してきたことで,きたる衆議院選挙への不安が軽減し,それならドラスティックな改革はないほうがよいということになったのでしょう。有事ではなく平時だという捉え方で,かつて安倍前首相が考えていた岸田氏への禅譲が,形は違っているものの,結果として実現したという感じでしょうか。しかし,ほんとうにいまは平時なのでしょうかね。次の衆議院選挙は,それほど甘くないのではと思います。菅首相がダメすぎたので,あとは誰がやっても少しはましという印象を与えるでしょうが,すぐに良い意味でも悪い意味でも,彼の政治の本質は明らかになるでしょう。
 岸田氏はスピーチに力強さは出てきたものの,何か新しいことができるのかは,まだ未知数です。今回の決選投票では,派閥の論理が働いたようなので,そういうことに縛られてしまうと失望感を与えるでしょう。適材適所の人材を配置して,デジタル化政策や教育改革などを,様々な抵抗勢力を押しのけてどうやって進めていけるかがポイントです。他人の意見を聴くというのをアピールポイントにしていますが,他人の意見を聴くといっても,いろんな意見を聴いていると,何もできなくなるのではないか,という不安があります。自分がやりたい政策を,しっかり国民に説得して遂行していく力強さも大切なのです。しばらくは,お手並み拝見というところです。

2021年9月28日 (火)

LS講義(労働者性)

 今日はLS2回目のオンライン・リアルタイム型授業(実質は1回目)で,テーマは労働者概念でした(『ケースブック労働法(第8版)』(弘文堂)の第3講)。横浜南労基署長(旭紙業)事件の第1審,控訴審,上告審について比較をし,結論がなぜ分かれたのか,控訴審と上告審は,結論は同じだけれど,なぜ判断方法が違うのか,どちらの判断のほうがよいか,というようなことを学生に考えてもらいました。たんなる労働者性の判断基準の話をするのではなく,どうして控訴審は,当事者の意図を重視するような判断をしたのかには,少しこだわって質問をしました。また,たんに労働者性をめぐる表面的な議論にとどまらず,紛争がどうして起こるのか,たとえば偽装自営業者という議論があるが,労働者性を否定することは労働者にとっても社会保険や雇用保険の負担を免れてプラスになるので納得していることもあるのであり,それを労災保険だけつまみぐいするようなことはおかしいという実質論にどう答えるべきか,あるいは,当事者の意図を考慮するのは労働法の強行法規性という観点から矛盾することになりそうであるが,労働法の強行法規性というのは,どこまでリジッドに考えるべきなのかということにも言及しました。後者は「人事労働法」の問題意識につながるもので,LSの講義という枠で許されるかぎり,学生に考えてもらう機会を与えられればと思っています。
 横浜南労基署長事件の最高裁判決については,肯定的な意見が多かったようですが,これはちょっと困ったなと思いました。それほど良い最高裁判決とは思えないのであり(事例判決ですし),こういう判決に理論的に立ち向かえるように学生を刺激できる授業ができればよいですね。

 

2021年9月27日 (月)

王将戦挑戦者決定リーグ始まる

 王将戦挑戦者決定リーグは,最強のメンバーが集まったという声が強いです(王将は渡辺明三冠)。藤井聡太三冠が竜王を奪取し,さらに王将も奪取できるかが注目されています。初戦の豊島将之竜王と広瀬章人八段の対局は広瀬八段の勝ちでした。最近影が薄くなってきている広瀬八段ですが,王将戦は2年前に藤井聡太七段(当時)に大逆転勝ちし挑戦者になり,渡辺王将とフルセットまで行って惜敗しています。久しぶりに存在感を発揮してほしいです。そして今日行われた藤井三冠と糸谷哲郎八段の対局は藤井勝ちでした。藤井三冠は相変わらず好調ですが,ただ棋王戦の挑戦者決定トーナメントでは,齋藤慎太郎八段に負けてしまい,今期の挑戦はなくなりました。いちばん安心しているのは渡辺棋王(三冠)かもしれません。今日,豊島竜王が菅井竜也八段に勝っており,藤井敗退後,本命は最近のタイトル戦の定番で,永瀬拓矢王座か豊島竜王かというところでしょうが,齋藤八段や糸谷八段も残っているので頑張ってほしいです。
 現在,進行している王座戦(5番勝負)は,木村一基九段の挑戦を受けている永瀬王座が連勝して2勝1敗としました。永瀬防衛という感じになってきました。
 将棋日本シリーズ(JTプロ公式戦)は,ベスト4がそろい,4強と呼ばれる棋士がきっちり残りました。この棋戦は,トップ棋士12名だけが参加でき,持ち時間が短い早指し戦であるところに特徴があります。準決勝は渡辺三冠対豊島竜王,そして永瀬王座対藤井三冠です。渡辺三冠と豊島竜王は,この棋戦では複数回の優勝経験がありますが,ここに藤井三冠が割り込めるでしょうか。永瀬王座も初優勝をねらっているでしょう。過去の優勝者は一流棋士ばかりで,棋士であればそこに名を刻みたいことでしょう。

2021年9月26日 (日)

なぜオンライン授業がよいか

 急に秋が深まってきた感じがしますね。喉の調子が悪くなってきて,朝には咳がでるようになり,これは例年の症状なのですが,時期が時期だけに外にでるようなことがあるとコロナと誤解されないか心配です。ワクチン2回接種という証明書をスマホで提示できるようにしてほしいですね(もちろんワクチン接種だけで安全という保証はありませんが)。
 全国的に新規感染者はおさまってきていますが,これで安心してはいけないのでしょう。おそらく次の波はやってくるのであり,治療薬が出てくるまではじっと我慢です。個人的には,重症化しやすい体質ですので,とにかく用心しなければなりません。
 大学も対面型にしたほうがよいという圧力もあって,方針に困っているようにも見えます。依然として「social distance」 ということが言われているのですが,その一方で,リモート教育では学生の「sociality」に問題が生じるといい,どちらを優先するのか決めかねていて,最後は現場での判断をということになって困惑してしまうのです。そもそも教育の効果について,リモートのほうがよいという意見も根強いのです。なんとなく対面型が正しい方法で,いまは仕方なくリモートだという捉え方もあるようですが,ほんとうはコロナ禍でリモートのほうが良い教育ができるということを発見できたはずなのです。これはしつこく言っていることですが,リモート教育を一段下のレベルの教育という発想を捨てなければなりません。また,学生のなかに対面型を望まない人がいることに配慮しろということも言われます。感染の危険からすると,当然のことです。教員が感染する危険もあります。対面型でやろうとしても,学生がリモートでの受講を望めば拒むことは難しいのです(授業の性質にもよりますが)。ということは,最低限,ハイブリッド型の授業体制は準備しなければなりません。教員が少しでも体調不良を感じれば,やはり対面型の授業はやるべきではないでしょう。このように対面型でやっていても,リモートで対応しなければならないことが予測される以上,原則はリモートという方針に切り替えたほうがよいのではないでしょうか。リモートなら,リモートでの授業の仕方があって,最初からそれで準備して貫徹したほうがはるかに教育や学習の効率が上がります。
 ちなみに大講義授業は多くの学生が集まるから密になるのでリモートに適しているが,少人数授業ならそうでないので対面型にすべきだというのは大きな間違いです。少人数授業は,議論をするので唾が飛びやすいです。大講義は,通常は教師が一方的に話すので,唾は教師のものが飛ぶだけです。学生が隣の学生と私語をするというようなことを考えれば違いますが,教室でのリスクということを考えれば,少人数授業のほうが高いような気がします。それにリモートなら少人数のほうが全員の顔を一画面でとらえることができるので,授業がやりやすいというメリットもあります。マスクなしで話せたほうが,互いの声を聞きとりやすいというメリットも大きいです。
 テレワークが就労の可能性を広げるということと同じような話ですが,リモート授業は,おそらく学習や教育の方法を根本的に変えて,多くの人が高等教育にアクセスしやすくなるでしょう。双方向性も高まるでしょう。オンデマンド型にするならば,もっと教育の可能性は広がりますが,これにはデメリットもあるでしょう。ただ,リアルタイム型のオンライン授業であれば,デメリットは比較的小さいように思えます。高等教育は,情報(学問的知見なども含む)の提供という面があるのであり,ICT(情報通信技術)の活用になじむのです。コロナ禍のなかで,大学の後期授業も始まるなか,リモート授業を中心とする体制にできるだけ早くとりくんでもらいたいと思います。こうしたイノベーションに早く取り組んだ大学が,これから生き延びる大学となるでしょう。

ゼロ歳児

 昨日の続きですが,anniversaryという英語がありますよね。「記念日」という意味です。イタリア語でもanniversario とほぼ同じ言葉で,anni anno (年)の複数形です。年がめぐってくるというニュアンスでしょうか。Anno は「年齢」も意味しますが,昔の人は,よく「数えで△歳」なんて言い方をしていました。これで言われると,古希のお祝いをいつやったらよくなるのかわからなくなったりして若い世代は困るのです。「数え」だと生まれたときが1歳で,正月がきて年をとります。そうなると,誕生日はanniversario という感じではなくなりそうですね。日本では正式な場では「数え」ではなく,満年齢で年齢を数えるよう求められています。明治35年の「年齢計算二関スル法律」の第1項は,「年齢ハ出生ノ日ヨリ之ヲ起算ス」となっています。そして,昭和24年の「年齢のとなえ方に関する法律」では,次のようになっています。
 「① この法律施行の日以後,国民は,年齢を数え年によつて言い表わす従来のならわしを改めて,年齢計算に関する法律(明治三十五年法律第五十号)の規定により算定した年数(一年に達しないときは、月数)によつてこれを言い表わすのを常とするように心がけなければならない。
 ② この法律施行の日以後,国又は地方公共団体の機関が年齢を言い表わす場合においては,当該機関は,前項に規定する年数又は月数によつてこれを言い表わさなければならない。但し,特にやむを得ない事由により数え年によつて年齢を言い表わす場合においては,特にその旨を明示しなければならない。

附則
 ① この法律は,昭和二十五年一月一日から施行する。」

 この法律が実際にどのような影響をもったか私はよくわかりませんが,「従来のならわし」である「数え年齢」は,「満年齢」を標準とする方向で変わってきたようです。でも年齢の数え方も文化だとすると,公的な場でのルールは仕方がないとしても,何となく,次の世代に「数え年齢」を残してもよいかなという気もしないわけではありません。
 そんな私も,元号については,西暦派です。とくに支障がないかぎり,判例の表記は西暦で表示しようと思っています。ただ元号を日本からなくしてよいと思っているわけではありません。元号を使いたい人は使ってよいし,私も大きな時代認識を示すときには,昭和,平成,令和は便利なので使っています。ただ,政府からできるだけ元号をと言われたり,とくに文化的な話ではなく,たんなる手続的な次元で元号の使用を強制されるのは迷惑なこともあります。
 ところで年齢に話をもどすと,法律は出生時より年齢を起算すると言っているのですが,誕生してから1年をゼロ歳と呼ぶか1歳と呼ぶかは,この法律から決められるのでしょうか。ゼロからスタートというのが前提ですが,ゼロという概念を認めるのは,法律のどこかで定められているのでしょうか。世間には「ゼロから始める」という言葉もありますが,「1から始める」というほうが一般的な気もします。ゼロというと何もない感じがするので,ゼロ歳というのには違和感がある人がいても不思議ではないと思います。
 なお9年前にこのブログの前身で『異端の数ゼロ』という本の紹介をしており,ネット上のアーカイブに残っていたので貼り付けておきます。また,そのなかにでてくる「ゼロに関する本」とは,『零の発見: 数学の生い立ち(岩波新書)のことで,2012年3月にアップしていますが,こちらはアーカイブに残っていませんでした。

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2012年819日 「異端の数ゼロ」

 数字を数えるとき1からでしょうか,ゼロからでしょうか。実際にあるものを数えるときは1からでしょう。ゼロは存在しないものだからです。カウントダウンは,ゼロまで数えます。どうしてでしょうか。
 赤ん坊の年齢はどうでしょうか。ゼロ歳児がいます。ゼロ歳でも,存在しています。もう少し正確に言うと,ゼロというのは年齢のことなのですが,その年齢の赤ん坊は確かに存在しているのです。どうしてゼロから数えるのでしょうか。同じ年数でも,西暦はゼロから始まっていません。西暦ゼロ年はないのです。紀元前1年の次は,紀元後1年なのです。ゼロはありません。西暦1年と西暦2000年では,2000ー1=1999となり,西暦1年の1999年後は2000年と言えます。ところが,紀元前1年から西暦2000年では,同じように,2000ー(-1)=2001ではないのです。西暦2000年は,紀元前1年の2001年後ではなく,2000年後なのです。ゼロがないから,こうしたことが起こります。
 ゼロは西欧世界では,ずっと忌み嫌われたものだったそうです。ギリシャ人もローマ人もゼロという概念なしに生活をしていました。ゼロの悪魔的なところは,おそろしい矛盾を引き起こすところにあります。次のような数式があります。
 a=b=1とします。
 abなので,b×ba×b となります。
 この両辺から,a×aをともに引きます。
 b×ba×aa×ba×a 
 これは,因数分解すると,(ba)(ba)=aba)となります。
 そこで,両辺に(ba)があるので,それで両辺を割ると,baa となります。つまり,b0です。b=1だったはずが,0に早変わりです。bをどんな数にしても,同じことになります。すべてがゼロになるのです。どうして,こんなことが起こったかというと,(ba)で両辺を割ったところがポイントです。ba0なのです。0で割ってはならないのです。
 ゼロは,ある数字に掛ければ,その数字をゼロにしてしまうこともできます。私たちは,ゼロを掛けてはならないのです。
 なんていうゼロの話を教えてくれる本が,チャールズ・サイフェ(林大訳)『異端の数ゼロ』(早川書房)です。
 前にゼロは単数か複数かということを書いて,ゼロに関する本を紹介しましたが,この本のほうが断然面白かったです。実は,後半は数学,物理学の発展とゼロ・無限大との関係が論じられていて,正直なところ,かなり難しかったですし,きちんと理解できていません。速読には向きません。むしろ,古代の哲学者,神学者が,ゼロや無限大とどう向き合ってきたかが,たいへん興味深かったです。物理,特に宇宙物理関係の理解能力がない点で,本書の価値をきちんと評価できないので,☆☆☆
 でも,ほんとうは,もっと☆を付けるべき本なのかもしれません。 

 

2021年9月24日 (金)

イタリア語のすすめ

 英語とイタリア語とを同時に勉強すると効率的ということはありそうです。英語にはラテン語起源の言葉がたくさんあり,そういうものは日本でも知られているイタリア語と関連づけて覚えることができるからです。
 今日のNHKのニュースで,日米豪印4カ国の外交・安全保障の協力体制であるクアッドは,「4」を意味する言葉から来ているという説明をしていました。4はイタリア語ではquattro(クアットロ)で,4重奏を意味するクァルテットなどで英語でも出てきます。ちなみに40のイタリア語quaranta (クァランタ)ですが,英語の検疫のquarantine は,ほとんどそのままですね(かつてペストが流行したとき40日の隔離をしていたことに由来します)。
 ついでに3はイタリア語ではtre で,三人組をトリオ(trio)というのは,このためですね。2はイタリア語ではdue で,二人組をデュオ(duo)というも,このためです。1はイタリア語ではuno で,英語のunique などの語源になっています。unique には「他にはない,ただ一つのこと」というニュアンスがあります。
 図書館をlibrary というのは,中学生のときには少し難しい英単語であったかもしれませんが,これもイタリア語の「libro」(本の意味)と関連づけるとわかりやすいです。もっともイタリア語では図書館を「biblioteca」というギリシャ語起源の言葉を使っているのでややこしいですが。
 もう少し難しい英単語としてimmortal という言葉もあります。不死身,不滅というような意味です。これもイタリア語のmorteという普通によく使う単語と関連付ければすぐに覚えられます。morte は死という意味です。動詞はmorire で,有名な「ナポリを見て死ね」は,「Vedi Napoli, e poi muori」です。「Sono stanco da morire」 もイタリアでよく使う言葉で,「sono stanco」は疲れたで,「死ぬほど疲れた」という感じです。 
 もし小さな子に外国語を勉強させるなら,イタリア語あたりから入ったほうがよいかもしれませんね。日本人にとっては音が聞き取りやすいのが魅力です。それにイタリア語をやっていると,英語の理解が深まるでしょう。受験には使えない言語でも,語学が楽しくなって,人生が豊かになるでしょう。何と言っても音楽用語はイタリア語抜きでは無理です。ピアノの速度用語として学ぶ,largolentoandanteallegrovivaceprestoなどは,日常用語でもあります。幼稚園児や小学生でも,音楽用語として暗記するだけではもったいないです。そこをきっかけに,もっとイタリア語を本格的に勉強すればどうでしょうかね。その前に,まずは乳幼児くらいの子は,You Tube でCarolina のダンスソング「Vedo Vedo」でイタリア語に親しんでみるのがよいでしょう。

 

2021年9月23日 (木)

山梨県民信用組合事件

 現在の労働実務のなかで最も重要性が高い判例は,山梨県民信用組合事件(最高裁判所第2小法廷2016219日判決)ではないかと思います。労働者に不利益な同意は,広くこの判決が示した判断基準(拙著『最新重要判例200労働法(第6版)』(弘文堂)の82事件を参照)が適用されています。類似の裁判例はありましたが,最高裁がこれを取り入れたことによって,労働者が形式的に同意をしていても,そう簡単には,同意があったと判断されなくなりました。「積極的合意原則」について懐疑的な目をむけるのは労働法学の伝統ですが,裁判官の感覚にもあうのでしょう。無知な労働者と,顧問弁護士もついて法的な対策もしっかりできている企業との間において,労働者に不利な内容の合意がかわされたとき,裁判官としては「自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するか否か」を問題としたくなるのもわからないではありません。労働者への情報提供または説明の内容も考慮するとされているので,当該具体的な事案において妥当な結論を導き出すためには,使いやすい法理なのです。
 実は私は『人事労働法―いかにして法の理念を企業に浸透させるか』(弘文堂)において,この判例を労契法旧20条と並んで,行為規範を重視する私の立場からは問題があると指摘しています(第1章,とくに22頁など)。情報提供や説明というのは,私の提唱する「納得規範」に通じるところもあるのですが,最後は「合理的な客観的な理由」が必要とされるところが問題なのです。これは多くの場合に裁判において妥当な解決を導きだすのに役立っているのでしょうが,行為規範としてみた場合に,企業にとって良き経営をするよう行動させる妨げとなっていないか,というのが私の問題意識です。公序良俗よりは具体性があるだろうと言う人もいるかもしれませんが,最後の最後に投入される公序良俗違反(民法90条)という切り札と違って,山梨県信用組合事件・最高裁判決の示す基準は,労働者に不利益な同意がなされたケースで標準的に適用されるものとなりつつあるのです。私はこれでは企業にとって必要とされる労働条件の不利益変更がある場合において,労働者にしっかり説明して納得を得られるよう(納得を得られなければ,変更内容を見直したり,変更を撤回したりするよう)努めるインセンティブが働かないと考えるのです。インセンティブを与えるためには,納得同意を得るよう努めたこと自体を評価する規範が必要だというのが,私の立場です。山梨県信用組合事件・最高裁判決も,その解釈いかんでは,私のいう「納得規範」と整合的なものとなりえるのですが,どうも現在の裁判例の状況からは,そうは言えないのではないかという懸念をもっています。裁判規範として機能しても,行為規範として機能しなければ,労働者全体にとってのプラスにはならないのです。このように考えると,現在の山梨県信用組合事件・最高裁判決がいまのような形で定着してくることは憂うべきではないかと思っています。

 

山形大学事件

 山形県労働委員会が,「平成27年1月1日からの55歳超の教職員の昇給抑制」や「平成27年4月からの給与制度の見直しによる賃金の引下げ」などに関する団体交渉において,大学側の交渉態度が不誠実であったとして,「どの程度昇給を抑制し,どの程度賃金を引き下げる必要があるのかに関する適切な財務情報や将来予測資料を提示するなどして,自らの主張に固執することなく,誠実に応じなければならない」という内容の誠実交渉を命じた事件(平成31115日)の取消訴訟において,第1審の山形地裁は,各交渉事項に関する規定の改正はいずれも既に施行されており,これについて改めて合意を達成するなどということはあり得ないから,これについての団体交渉に応ずるよう大学に命ずることは,不可能を強いるものというほかないので,救済命令は裁量権の範囲を超えるとしてこれを取り消し,その控訴審においても,仙台高等裁判所は,令和3323日に「各交渉事項に係る昇給抑制又は賃金引下げの実施から4年前後を経過した平成31年の時点において,各交渉事項について法人と組合とが改めて団交をしても,組合にとって有意な合意を成立させることは事実上不可能であったと推認することができ,このような推認を覆すに足りる証拠はない。そうすると,仮に,法人と組合との各交渉事項を巡る団交において法人に救済命令が指摘するような不当労働行為があったとしても,救済命令が,平成31年の時点において,法人に対し,各交渉事項について,組合と更なる団交をするように命じたことは,労働委員会規則3316号の趣旨にも照らし,裁量権の範囲を逸脱したものといわざるを得ない」とし,またこの「認定判断は,一般に,使用者が一方的に団交を打ち切って交渉事項に係る就業規則を使用者の意図どおりに改正すれば,労働委員会は使用者に不当労働行為が認められても更なる団交を命ずることができなくなるとするものではなく,本件に現れた具体的な事情により,団交の目的達成が事実上不可能になったと認められることによるものである。また,正常な集団的労使秩序の回復は不当労働行為救済制度の目的とするところではあるが,団交が最終的には労使間の一定の合意の成立を目的とするものであることからすると,使用者に対し,事実上,労働組合にとって有意な合意の成立が不可能となった事項に関して労働組合との団交を命ずることは,目的を達成する可能性がない団交を強いるもので行き過ぎといわざるを得ないし,このような命令によらなくとも,いわゆるポスト・ノーティス命令によって正常な集団的労使秩序の回復を図ることも考えられ,それが効果として不十分であるともいい難い」と述べて,控訴を棄却する判決を出しました。上告されているかわかりませんが,これは上告してほしい事件です。私が大学教員だから事件に関心があるということではなく,労働委員会の仕事をしていくうえで支障が出てきそうな判決だからです。
 労働委員会の救済命令に関する広い裁量については,第二鳩タクシー事件の最高裁大法廷判決で明言されていますが,実際にどこまで裁量を認めるかについては,はっきりしていません。本件は,一見したところ,合意達成が事実上不可能なので,団交を命じるのは行き過ぎだという,もっともな理屈が展開されているようですが,合意達成が事実上不可能という判断が適切なのかという疑問に加え,そもそも本件のような場合における合意達成の事実上の不可能性が,「請求する救済の内容が,法令上又は事実上実現することが不可能であることが明らかなとき」(労働委員会規則3316号)という却下事由に該当するのかは,なお検討の余地があると思います。団体交渉義務とは,使用者に譲歩を求める義務ではなく,要求が受け入れられないときでも,その理由を誠実に説明して,合意を得るよう真摯に努める義務であり,労働組合の要求に対するゼロ回答であっても,それがゼロでもやむを得ないという納得を得るよう説明する義務であると思います。物理的に不可能な要求をかかげた団体交渉などは,もちろん却下事由となるでしょうが,山形大学事件のケースはそういうものとは違うでしょう。また請求する救済の内容は,誠実な団体交渉なのであって,誠実交渉自体は不可能ではありません。組合側がかなり無理な要求をしたとしても,それがなぜ無理であるのかをしっかりと説明することが使用者には求められるのであり,それが不十分であったとするならば,なお誠実交渉義務を命じることはできるのではないかと思います。要求事項の事実上の実現困難性と団体交渉の有意味性は切りはなすことはできないものの,あまり強くリンクさせてしまうと,団体交渉の価値を損なってしまうおそれがあります。
 加えて,仙台高判は余計なことを言っています。かりに誠実交渉義務違反であっても,救済内容はポストノーティスでいいだろうと言っているのです。ここには救済命令の内容についての裁量を軽視する姿勢があるように思えてしまいます。確かに誠実交渉義務違反があったからといって,常に誠実交渉命令を出すというのは短絡的であり,ポストノーティスだけで十分という判断を労働委員会がやることはもちろんありえます。確認的命令というものもありえるでしょう。しかし,それは裁判所が言うべきことではないのです(裁判所としては,これを言っておかなければ,救済命令を取り消すのに無責任と思ったのかもしれませんが)。
 山形県労働委員会が,ポストノーティスを命じたほうがよかったかどうかは,労働委員会内部で検討する価値はあるでしょうが,違法となるほどの裁量権の逸脱があったといえるかとなると,何ともいえないところです。いずれにせよ,裁判所によって適切な命令内容まで指定されてしまうと,ちょっと困ったなという感じがするのです。
 この事件は,不当労働行為の中核といえる団体交渉拒否の類型について,団体交渉の意義は何か,使用者の義務の内容はどういうものか,救済命令を出す場合の裁量はどういうものなのか,ということなどについて,第二鳩タクシー事件から半世紀近く経とうとしている現在,いま一度,理論的に検討する必要があることを教えてくれたような気がします。ジュリストの特集テーマにするのに,十分に適したものといえるでしょうね(ジュリスト編集部の裁量に介入する余計なことと言われそうですが)。

 

2021年9月21日 (火)

LS講義始まる

 今日は兵庫県の新規感染者が2桁となり,とりあえずは一安心ですが,まだ油断はできないですね。LSの講義も,まだ緊急事態宣言下であり,オンラインで始まりました。今日は初回なので,私が一方的に講義をするという形をとりました。オンラインですと学生の疲労も考えて時間を短めにと言われていたような記憶もありますが,100分ぶっとおしで話してしまいました。学生にはビデオオンを呼びかけたのですが,みんなビデオオフでした。聴衆の反応がないなかで話すのは,手応えがなくやりにくい面もありますが,すでにオンデマンドの録画で慣れていますので,とくに問題はないです。ただ誰か一人でもビデオオンにしてくれて,反応を見せてくれたほうが,教師としては非常にやりやすく,その学生に非常に親近感をもつでしょうが。
 初日の講義は,古代ローマの労働の話からAI時代の話まで幅広い内容を薄く広く駆け足でやりました。次回からは判例中心の典型的なLS型授業となるので,初回くらいは私が話したいことで,おそらく学生にとっても将来に役立つであろうことを話そうと思いました。
 コロナが収束して,治療薬も現れるというようなことになれば,対面型講義になるのでしょうが,当分はオンラインは続くのではないでしょうか。例年ですと,私は10月あたりから咳き込むことが増えて,これまでは,あまり他人は気にしていなかったでしょうが,今後はコロナの疑いをもたれて,いやがられるかもしれません。自宅にずっといれば咳き込むことはないでしょうが,外に出るようになると例年の症状がでるおそれがあります。他方で,学生のほうでも,少しでも体調に異変があれば対面型の授業には出てきてもらうと困るのですが,オンラインであれば,その場合でも(症状次第ですが)授業に参加できることになります。いずれにせよムーブレス派としては,選択できるかぎりオンラインを継続していきたいと思っています。

2021年9月20日 (月)

敬老の日

 敬老の日はかつては9月15日でしたが,ハッピーマンデーの影響で特定の日ではなくなりました(第3月曜日という意味では特定されていますが)。今年は9月20日でした。実は,この日は亡くなった母の誕生日で,私たち家族には忘れられない日です。生きていれば86歳で,「死んだ子の年を数える」じゃないですが,「死んだ親の年を数える」という感じです。父は何度か危機を乗り越えてまだ頑張ってくれていて,90歳を突破しそうな勢いです。ただ,このコロナに感染したら一発でアウトですから,家族も細心の注意を払っています。父は基礎疾患があるので,ワクチンを打たなければ危ないとはいえ,ワクチンを打つのもかなりリスクがあり,病院で打たなければならないようです。ということで,まだワクチンを打てていないので,心配ではあります。
 今年の夏は雨の日が多かったせいか,比較的涼しく(といっても30度を超す日が続いたのですが),夏のダメージが比較的小さかったかもしれません。母は酷暑の夏で弱ってしまい,次の冬に亡くなったので,私たちも夏の過ごし方には気をつけなければと思っています。8月上旬にリビングの冷房が故障したときにはヒヤリとしましたが,幸い,翌日に修理業者が来てくれて助かりました。修理業者の方が神に思えましたね。
 昨日,散髪にいったときに聞いたことですが,そこは10月に新店舗を出す予定だったのですが,給湯器の部品が不足しているため,当初の予定より延期になりそうなのだそうです。アジア諸国のロックダウンが影響しているということでした。この冬,もし給湯器が故障したらどうしようと心配になってきました。できるだけ自然の暑さ・寒さに順応して,冷暖房に頼らずに生きていかなければならないと思ってはいるのですが,お湯がでない生活はちょっと厳しいですね。今後,災害等でどんな厳しい生活が待っているかもしれないので,体力をつけることを重視し(といってもテレビ体操と自衛隊体操が頼りですが),免疫力を高めておきたいと思っています。

2021年9月19日 (日)

スーツとネクタイ

 少し前に紹介したアルゼンチン映画の直訳が「最後のスーツ」だったのですが,そもそもスーツとは何なのでしょうか。もし上下揃いという意味ですと,実は私はこれを持っていないのです。昔は黒の礼服を持っていましたが,太ってしまってズボンのサイズが合わずに捨ててしまってから,その後,別の黒のズボンを新たに買って,葬儀などには,まにあわせてきました。これでもスーツなのでしょうかね。ましてや黒以外のスーツはありません。ということで,自分ではあまり気づいていなかったのですが,どうも正式な場というものに出ることがないまま人生を過ごしてきたようです。スーツが似合うのは,体格もよく,着こなしもばっちりできるような人で,そんな人はあまりいないでしょう。ましてや中年以上のおじさんが着るとみっともなくなるだけです。服装に多少なりともこだわる人であれば,スーツを着ろといわれると「罰ゲーム」と思うかもしれません。私自身は,自分の着る服の選択は,自分の人格的自由に属する事柄と考えており,他人にとやかく言われたくはありません(服装の件では,若い頃に,常識派の母と衝突したこともありました)。
 スーツと並んで問題なのは,ネクタイです。ネクタイの起源は,いまでは広く知られていると思います。イタリア語では,cravatta といいますが,これはほとんどのイタリア語がそうであるラテン語やギリシャ語が語源ではなく,フランス語のcravateから来たものです。フランスのルイ13世の時代に,傭兵であったクロアチア人が首に巻いていたスカーフのようなものが起源で,それがその後,流行したということのようです。クロアチア人ということから,cravateという名称になりました。
 ということなので,ネクタイは,傭兵が首に巻いていたものが格好いいというノリで始まったものを,それがどこかで正式なものになって,いまでは西洋かぶれした日本でも正式な男性のスタイルになっているわけです。ところで,女性のスーツというのは,あまり言わないし,女性はネクタイもしめません。正式な場に出るときでも,女性の服装にはあまり規制がありません。これは男性差別ですよね。男性だってTPOはわきまえながらも自由なスタイルでいたい人もいるのです(将棋界では,永瀬王座が,タイトル戦でも,正装の和服ではなく,スーツで通していますね。前は最初だけ和服でいて,その後着替えていましたが,いまは最初からスーツですね。和服では余計な神経を使うので,良い将棋を指すのに邪魔ということでしょうかね。もちろんスーツはタイトル戦でも正装なのでしょうが)。
 私は,正式な場所に出るときは,ワイシャツは下着とみるべきなので,必ずジャケットは着ますが,ネクタイは気分次第です。もちろん上限そろえたスーツはないので,ジャケットとズボンはその日の感覚で色を合わせるということにしています。クールビズということで,ノーネクタイはいいのですが,ノージャケットはやりたい人は勝手にしてよいですが,他人に強制してはいけませんね。

総裁選について思う

 自民党の総裁選で,岸田氏の決意に注目すると書きましたが,そのあと,菅首相の立候補辞退(これは良い決断と思います)を受けて,4人の立候補となりました。自民党員はいろいろ選択肢があってよいと思います。自民党員ではない私たちには投票権はありませんが,派閥が機能していないので,外野からみている分には,面白いですね。ただ面白がってばかりはいられません。実質的には首相を選ぶことになるからです。とくに,いくつかの論点に絞っても,気になるところがあります。
 政策の現実性です。現実的な感じもする高市氏ですが,「美しい国土」というような情緒的な言葉が気になります。安倍氏の忠実な継承者ということなのでしょうが,「美しい」の意味がよくわかりません。保守というのは,国民の自由を守るために現実的な政策を示すところに意味があるわけで,「美しい」というような言葉を封印しなければ,彼女は保守というより「ただ昔はよかった」という懐古趣味的な人たちだけにしか支持されないのではないでしょうか。伝統を重視するのはよいのですが,ぜひ未来志向で,何を切って何を守るかをきちっと示してくれればと思います。
 河野太郎氏は,その点は比較的明確だと思います。原発について現実的な対応をするということには,批判もありますが,私は支持できます。私も基本的には原発反対派ですが,いますぐにというのは無理です。これまでのエネルギー政策に問題があるとはいえ,電力供給の不安は,現代社会においては大混乱を引き起こしかねません(停電が起こると,どうなるか想像してください)。原発依存からの出口戦略を明確にし,堅実に実行していくことこそ,次の首相に期待されることで,それさえしてくれれば,首相としては合格でしょう。
 ただ河野氏に大いに失望したこともあります。それは,森友問題の再調査をしないとしたことです。赤木氏の件は,菅政権の誕生時にも書いたように,政府の人権感覚の試金石です。検察が不起訴としたとしても,それは刑事事件にならないというだけです。民事訴訟(国賠)はありますが,それは政治が動かないから,やむを得ずやっていることではないかと推察します。いまさら当時の上司に民事的な責任があって国の国家賠償責任が認められても,遺族にとって得るものは何もないでしょう。政治家が司法に任せるというのは,多くの場合,正しいことでしょうが,この問題については,まったくポイントがずれています。前代未聞の役所による文書改竄があったということと実直な公務員が自殺していることの重みを感じないような人には,首相になる資格はないでしょう。その点では,野田聖子氏が,再調査の必要を認めたことは,きわめて高く評価できます。私は,この方が首相にふさわしいかというと疑問も抱いていますが,原発と森友問題というチェックポイントでは,彼女は有資格者になります。
 もっとも未来への投資や未曾有の変革の時代への対応という点では,やはり河野氏への期待も捨てがたいものがあります。岸田氏は,スピーチに力強さが出てきてよいですし,他人の意見を聴くのもいいのですが,国民に向かって,耳の痛いことでも,しっかり説明して納得させるだけの力があるかが気になるところです。でも一番気になるのが,「皆さんから伺った大切な言葉を,ノートに書き込み,読み返す。この一年だけでも,ノート3冊分,10年間で30冊近い,大切な言葉をいただいてきました」というところです(岸田氏のHP)。これに反応するのは,かなり上の世代です。アナログだなというのが,正直なところです。岸田ノートはアピールポイントのようですが,誰が戦略を描いたのでしょうね。多くの意見をメールで聴いて,AIに分析してもらい,未来志向のよりよい政策を提言します,くらいのことを言わなければ,自民党では勝てても,選挙では勝てないかもしれませんよ。紙に書いてどうする,30冊もあって覚えているのか,と言いたいところです。この種のアナログ感覚が,日本が最も捨てなければならないところです。岸田氏の側近は,すぐにでも戦略を変えるよう進言すべきでしょうね。

2021年9月17日 (金)

刑罰について

 刑法の侮辱罪の法定刑が引き上げられることになりそうです。侮辱罪は,公然と事実を摘示して人の名誉を毀損した場合に成立する名誉毀損罪(230条)とは違い,事実を摘示しなくても,公然と人を侮辱した場合に成立するものです(231条)が,定められている刑罰は拘留(1日以上30日未満)または科料(千円以上1万円未満)であり,刑法において最も軽いものとなっています。SNSでのきわめて悪質な侮辱行為で,他人を自殺に追い込むことなどがあっても,この法定刑では軽すぎるという批判が高まっています。
 刑罰には,犯罪行為をした人に,それに応じた報いを受けさせるという応報的な機能(目的)がありますが,同時に,刑罰の威嚇により犯罪を抑止するという機能(目的)もあります。侮辱罪の厳罰化は,インターネット時代の新たな人権侵害行為に対して,それに応じた厳罰を科すことを可能とするという意味と,それにより,そうした行為が重大な人権侵害であるということを国民に自覚させ,その抑止につなげるという意味があるのでしょう。
 もっとも後者の抑止的機能をどこまで期待できるかには疑問がないわけではありません。強盗をして人を殺してしまえば,強盗殺人で法定刑は死刑か無期懲役しかないので(240条),これはかなりの抑止力になりそうなものですが,現実にはどうでしょうか。法定刑を知らないということもあるし,かっとなって殺してしまう人には,刑罰の程度などは気にならないかもしれません(刑罰の程度を冷静に判断できる人は,そもそも強盗などしないでしょう)。犯罪の抑止のためには,月並みとはいえ,道徳や倫理を教えることが重要で,さらに社会の目や意識が,重大な反道徳的行為や人権侵害行為などに対して敏感になることが大切なのだと思います。
 もう一つ,犯罪の抑止という点で問題となるのは,責任能力です。心神喪失者の行為は罰されません(刑法391項)。これは,刑法で最も有名な規定かもしれませんね。心神喪失とは,精神の障害により,事物の理非善悪を弁識する能力がない状態,または弁識にしたがって行動する能力がない状態をさします(大審院の判例)。このような人には刑罰の抑止力は働かないわけですし,報いも受けないということで,刑罰は機能しません。こういう人に殺されてしまった人の家族は救われないことになります。森田芳光の映画「39」では,幼い妹が精神異常者に殺されてしまったが,本人は責任能力がないとされ,社会復帰もしていることに納得できなかった兄が,多重人格者になりすまして,妹を殺した男に復讐を遂げるという話です(鈴木京香が演じる精神鑑定人が,この詐病を見破るのがみものの20年前くらいの映画です)が,この映画(およびその原作)は,詐病を見破ることの難しさから刑法39条は犯罪を誘発するおそれはないか,一方,被害者の復讐感情が満たされないことから,刑法39条は私的復讐を誘発するおそれはないか,という問題提起をしているように思います(原作については,ずいぶん昔に,このブログの前身で書いたことがあると思います)。
 もちろん有罪となっても,遺族の感情はいやされません。池袋の交通事故も,いたましい事件です。個人的には,あの年齢になって車を運転させていた周りの者の責任が重いと思います。いまさら90歳になる者を収監(収容)してどうするか,という意見もありそうですが,犯罪抑止という点では,厳正な刑罰を科すことも必要であると思います。
 この加害者は,自分には過失はなく,車のほうに問題があると主張したそうです。とかく高齢者になると,自分のミスを,機械のミスにしがちです。判断能力がそもそも減退しているため,自分が判断した範囲では自分には問題がないのだから,問題があるとすれば機械のほうだろう,という発想になりがちなのです。パソコンがうまく使えないのは,自分の使い方が悪いだけなのに,すぐにパソコンに問題があるからとメーカーなどに苦情をいうのも同じです。ただパソコンと自動車では次元が違います。いつも言うように自動車は殺人マシーンになりうるものなので,判断能力が劣る高齢者には,そもそも使わせないようにしなければなりません。俺は大丈夫だよ,という人も,人生の最後は獄死ということにならないようにするため,免許は返上したほうがよいです。ここは刑罰の抑止的機能に期待したいところです。他方,メーカーにも,交通事故をできるだけ起こさない自動車を開発する責任があると思いますので,頑張ってもらいたいです。コロナ感染だけでなく,交通事故(自転車事故も含む)もおそれていて,ますます出不精になりそうな私からのお願いです。

2021年9月16日 (木)

「El Ultimo Traje」

 アルゼンチン映画の「El Ultimo Traje」という映画を観ました。邦題は「家に帰ろう」で,前に紹介したイタリア映画「Quo Vado?」よりも,はるかに良いタイトルです。
 映画の内容もよかったです。ホロコーストの生き残りで現在アルゼンチンに住んでいるユダヤ人のAbraham。かつてポーランドに住んでいて一族が集まっていたところをナチスに襲撃されて,父も叔父も殺され,そして妹も連行され殺されました。彼は何とか生き延びて,不自由となった足をひきずりながら,かつての家に戻ってきたのですが,そこには,父の弟子(仕立屋)が住んでいました。Abrahamは家に入れてもらえなかったのですが,その息子のPiotrekが助けてくれて,かつての使用人の部屋で寝かせてくれました。彼は叔母がアルゼンチンにいるという情報を知らされます。
 それから70年後。多くの子や孫に囲まれているAbrahamですが,実は娘たちに家は売られ,88歳の彼は老人施設に預けられようとしています。右足が悪く切断を勧められ,そうなると自活できなくなるからです。しかし,彼は娘たちに黙って,こっそりと片道切符でポーランドに行くことにします。彼はPiotrekとのいつか会うという約束をはたすために,スーツをもっていこうとするのです。ポーランドに行き着くまでの旅は,苦難の連続で,たとえばマドリードで泥棒にお金を奪われる,パリでドイツ経由の列車に乗りたくないという話がうまく通じず馬鹿にされてしまうなどですが,ドイツ人の文化人類学者に助けられもします。最後はワルシャワの優しい看護婦に,かつて彼が住んでいたウッチに送ってもらい,そこでPiorekたちが住んでいるはずの家を探します。Piotrekはまだ存命でした。再会した二人はほとんど無言で抱擁します。
 ホロコースト映画の一つでしょう。頑固なAbrahamは,いろんなところで衝突をするのですが,みんな優しいのです。とくにドイツ人の文化人類学者はイディッシュ語を話し,Abrahamに話しかけて助けてくれようとするのに,Abrahamからはドイツ人とわかったとたん毛嫌いされます。彼女は,Abrahamがドイツを経由したくないという思いをかなえるために,ドイツの経由地のプラットフォームで,自分の服を並べてその上を歩くようにして,彼が直接ドイツの地を踏まなくてすむようにしてあげます(日本人からすると,裸足ではなく靴を履いているのだから,直接ドイツの地を踏んだことにならないだろうと思いたくなりますが,西欧人は靴で歩くのが当たり前なので,それでは直接踏んだと考えるのでしょうね)。それだけドイツが嫌いというAbraham。一族や自身が受けた仕打ちを考えれば当然でしょう。
 彼は理不尽に家族も家も奪われ,そして,アルゼンチンでは自分の家族からも家を奪われ,さらに右足まで奪われようとしていました。ホロコーストで負傷した右足は,彼にとっては戦友なのでしょう。彼は右足を「ツーレス」と呼んで,一緒に旅をしました。そして,恩人であるPiotrekに会うための最後の旅をしたのです。「家へ帰ろう」というタイトルは,心のふるさとに帰るための旅をしたAbrahamの心情をよく示していると思います。ちなみに原語のスペイン語のタイトルの意味は「最後のスーツ」です。仕立屋のAbrahamと,父の弟子の息子であるPiotrekをつなぐ「スーツ」(Abrahamは,ずっと彼に届けるスーツを持って旅をするのです)をタイトルにしているのですが,これに何か深い意味があるのかは,私の教養ではよく理解できませんでした(この映画は,リア王を意識したもののようですが,たとえば彼が泥棒にあってすっからかんになったときに,かつて追放した三女とマドリードで会って助けてもらうシーンは,これが意識されているようです)。

2021年9月15日 (水)

季刊労働法の最新号

 季刊労働法の最新号(274号)の第1特集のテーマが「テレワークの拡大と法的課題」です。今年3月に神戸大学でテレワークとプライバシーをテーマとしたオンラインシンポジウムを開催しました。今回の特集では,そのときのゲスト報告者3人(石﨑由希子さん,松尾剛行さん,河野奈月さん)の論文と,基調報告をしてくれた大学院生の劉子安君の文献研究が掲載されています。私は報告者ではありませんでしたが,今回の特集にあたり総論的なことを書いてほしいと依頼されたので,最近よく書いているテーマではありますが,「テレワークを論じる」という導入的な論文を書きました(ご関心があれば,『誰のためのテレワーク?­近未来社会の働き方と法』(明石書店)と合わせて読んでいただければ幸いです)。労働組合の資格審査に関する論文を書いて以来2年ぶりの登場です。
 大学にはしばらく行っていないので,実は季刊労働法の現物は見ていませんが,シンポジウムのときの議論をふまえたものですから,私以外の論文は力作がそろっているはずです。テレワークとプライバシーは,よくありそうなテーマではあるのですが,それほど論じられているわけではないので,今回の特集をきっかけに議論が深まっていけばよいなと思っています。
 最新号には,このほか,山本陽大さんが,神戸労働法研究会で報告してくれた,労契法旧20条に関する判例を分析した論文も掲載されています。読むのが楽しみです。また石田信平さんがイギリスのUber判決に関する論文を書いているようなので,それも楽しみです。

2021年9月14日 (火)

Learning Designにプチ登場

 先日の日経新聞に続いて,プチ登場が続きますが,Learning Designという雑誌(20183月までは「月刊人材教育」という名前の雑誌で,その後,現在の隔月号に生まれ変わったそうです)の2021910月号の「議論白熱」というところに登場しました。特集タイトルは「ギグワークの課題と可能性」ということで,立場が異なる4名の短いエッセイが掲載されています。
 たぶんこの雑誌には初登場です。人事や人材に関する雑誌というのは,いったいどれくらいあるのかわかりませんが,次はどんなところから依頼が来るのか楽しみでもあります。
 それにしてもギグワークは旬のテーマですね。今日も一つギグワーク関係の取材の依頼が来ましたが,この雑誌をみたからかもしれませんね。いっときはフリーランス関係の取材依頼が多かったのですが,最近はテレワークとギグワークが多く,世の中の関心の変化を表していますね。
 ところで,取材にしろ,講演にしろ,いまは100%オンラインですが,予定を入れやすくなったがゆえに,かえって忙しくなった感じもあります。リモートでの会議が14時で終了するというとき,14時から別の会議をリモートに入れることも可能です。実際にはそんな無理なことはしませんが,予定を調整できる余地が大きくなりました。リアル型の予定が入って移動しなければならないとすると,その前後の時間が使えなくなるわけで,そういうのはかつては当然のことと諦めていましたが,オンラインに慣れてくると,リアル型の仕事というのが,いかに非効率なものであるかという問題意識が出てきます。そうして,どうしてリアル型でしなければならないのか,という疑問を人々が持ち始めると,急速にオンラインが広がっていくように思います。
 取材側はオンラインでやるのは相手に失礼と思っている感じもあるのですが,こちらは逆であって,オンラインでなければ困ると言うと,取材者が安心するということもあります。彼ら/彼女らだってオンラインのほうがよいのでしょう。まだ取材のデフォルトは対面リアル型なのかもしれませんが,それもすぐに変わっていくでしょう。ちょっと気になるのは,取材にはカメラマン同行というときがありましたが,写真はこちらで送るというのが普通になってきたことです。カメラマンの仕事が減っていないでしょうか。iPhoneのポートレートモードを使うと,結構それっぽい写真が撮れてしまうので,私のように元々写真嫌いで,写真に無頓着な者は,スマホ写真で十分なのです。

藤井三冠

 叡王戦の最終戦,藤井聡太二冠(王位,棋聖)が勝ちましたね。終わってみれば,やっぱり強かったという勝ち方でした。これで史上最年少の三冠となりました。豊島将之竜王は,王位戦でタイトル奪取に失敗したのに続き,叡王戦でタイトルを奪われてしまい,大ピンチです。というのは,次にまた,残された最後のタイトルである竜王の挑戦者に藤井三冠がなったからです。先日の竜王戦の挑戦権決定三番勝負では,藤井二冠が永瀬拓矢王座に2連勝し,3戦目をするまでもなく挑戦者となりました。豊島竜王は,このタイトルを守れないと無冠となってしまいます。世間では,史上最年少の4冠への期待が高まるなか,豊島竜王は踏みとどまれるでしょうか。
 一方,藤井,豊島と並び4強の一人とされてきた永瀬王座(あとの一人は渡辺明名人・三冠)は,藤井二冠に勝てないし,王座戦の第1局も挑戦者の木村一基九段に負け,また昨日のNHK杯でも,日浦市郎八段には失礼ですが,まさかの敗戦でした。永瀬王座は,このままでは4強から陥落となるかもしれません。
 NHK杯については,こういう持ち時間が短い棋戦は,反射神経が重要で,ベテランはなかなか若手に勝てないので,バリバリの現役タイトルホルダーに日浦八段のような50歳代のベテランが勝つのは「事件」なのです。ただ研究が行き届いた場面に誘導されてしまうと,若手は強いのですが,いわゆる「手将棋」になると経験がものをいうこともあります。日浦八段は,かつては羽生善治九段の天敵とされて「マングース日浦」と呼ばれるほどの実力者でしたが,タイトルをとるような目立った活躍をしてこなかった地味な棋士です。同じ50歳代の私としては,彼の勝利はちょっと感動的でした。永瀬王座は悔しくて眠れないかもしれませんが(ただ日浦八段は安恵照剛八段同門の兄弟子です)。

2021年9月13日 (月)

「Quo vado?」

 今日も映画の話をしましょう(毎日映画ばかり観ているわけではありません)。
  イタリアの2016年の映画「Quo Vado?」の邦題は,「Viva! 公務員」なのですが,イタリア人は怒るかもしれませんね。「私はどこに行くのか?」というのが直訳ですが,たしかにこれでは何のことかわからないのですが,それなりに意味があるのです。
 主人公の公務員Checcoは,財政を立て直すために政府が打ち出した公務員のリストラの対象となったものの拒否したために,彼を退職させる目的で,様々な僻地に配転を命じられます。しかし,いくらお金(退職金の上乗せのようなもの)を積まれても,頑として退職に応じません。一方,リストラ担当となった行政官のSironi女史は,成果をみせたい上からの圧力も受けながら,必死にCheccoを退職させようとするのですが,成功しません(最後は色仕掛けになるところが笑ってしまいますが)。
 Checcoはなぜ辞めないかというと,彼にとって公務員は,その安定ぶりから絶対に捨ててはならないと考えていたからです。彼はいい年になっても,両親が全部生活の面倒をみてくれていますし,彼が公務員で安定していることに魅力を感じて付き合ってくれている彼女もいましたが,結婚はする気はありませんでした。仕事はハンコをおすだけで,こんな楽な人生はありません。彼はこれを捨てる気などないのです。ところが,突然のリストラの動きで,結婚もしておらず,障害もないなど,現在のポストに残留できる条件に何一つ合致しなかったCheccoはリストラ対象となったのです。
 映画は,アフリカのサバンナでCheccoが原住民につかまったところから話が始まります。彼はその酋長に,彼がなぜそこにいるかということを通訳を介して話すという形で,ストーリーが展開します。
 Checcoは,最初はイタリアからノルウェーの研究基地のようなところに配転を命じられ,研究者をシロクマから守るというような任務を与えられるのです(さすがにこれならCheccoが退職すると考えたのでしょう)が,そこで一人のイタリア人女性Valeriaに会って恋に落ちます。彼女はまじめな研究者で,また3人の異なるお父さんの人種も異なる子を育てているなど,進歩的な生き方をしていて,Checcoとは正反対です(でもValeriaは,そんなCheccoも受け入れるのです)。Checcoはノルウェーでのcivileな(英語でいえばcivilizedという感じでしょうか)生活を知って自分が変わろうとします。ノルウェー語も勉強し始めます。ところが,徐々にイタリアが恋しくなります(信号で前の車がとろとろしていればクラクションを鳴らすというようなことが,懐かしくなるのです)。やっぱりイタリア的な生き方のほうが,自然なのでしょう。civile naturale はなかなか両立しないという感じなのが,にやっとするところです。彼はSironiの猛烈な圧力をかわし,旧知の上院議員(公務員のポストを捨てるなと,要所要所でアドバイスしてくれます)から,休職(aspettativa)に入れというアドバイスを受けます(イタリアの公務員のaspettativa の制度がどういうものか,よく知らないのですが)。イタリア政府は長くCheccoを外国に置いておくと,かえって費用がかかるということで,彼をイタリアに戻すことになります。こうしてCheccoはイタリアで動物のケアの担当の仕事を与えられ,Valeria 3人の子もイタリアで一緒に住むのですが,その後,自治体はカネがないということで(ここもイタリア的なのですが),この仕事を支えることができず,そんなこんなで,結局,彼女はイタリアを去ることにします。でもCheccoは公務員の仕事を捨てられません。その後,政府が替わり,Checcoは元のポストに戻ることができました。そんなときアフリカのValeriaから電話がかかってきます。彼の子を妊娠しているというのです。ようやく彼は決断しました。Valeriaに会いにいく途中で原住民に捕まってしまったというわけです。
 彼はValeria や子どもたちと一緒に現地に住むことにします。そこにSironiがやってきて,ようやく彼は辞職に応じます。最後は彼女個人の小切手で退職金を上乗せさせます。彼女は渋々これに応じるのですが,彼女が追加したお金は現地の医療のために使うという条件をつけていました。ようやくCheccoを退職させるというミッションを完遂しただけでなく,Sironiは自腹を切ったことで,現地からあとでたいへん感謝されることになるのです。
 という話なのですが,Checcoが公務員のポストにしがみつこうとしたために,退職させる目的で,あちらこちらに配置転換されるという話と,彼自身が自分の生き方に迷うという点をひっかけて「私はどこに行くのか?」というタイトルになっているので,「Viva!公務員」はちょっとひどいタイトルだと思ったわけです。ただ,現地に住んだことのある私としては,この映画にみられる「公務員天国」は誇張とは言えない気がするのも確かですが(加えて,映画とはいえ,ここまで苛烈な退職強要を受けても,たくましく耐え抜くイタリア人の個の強さというものをみて,イタリア人たちにはじめて接したころに感じた彼らの個の強さを思い出したような気もしました)。

2021年9月12日 (日)

「A beautiful mind」

 経済学を学んだことがない人でも,少し経済の話を耳にしたことがある人であれば「囚人のジレンマ」という言葉くらいは耳にしたことがあるかもしれません。私も経済学のことはよく知りませんが,「囚人のジレンマ」と関連して「ナッシュ均衡」という言葉くらいは聴いたことがありました。2人の共犯者は,監獄のなかで,互いに協力ができない状況にあります。自白すれば刑は軽減されるが,相手も自白すれば刑は重くなります。しかし黙秘していて,相手が自白すれば,一番刑が重くなります。この場合,黙秘と自白について4通りの組み合わせがありますが,相手が自白をすれば,自分が黙秘を選択すると,自白のときより刑が重くなります。相手もそうです。もちろん相手が黙秘をしているときも,自白をしたほうが得です。相手もそうです。互いにとって自白するという戦略を変更するインセンティブがありません。これが「ナッシュ均衡」です。ただ,ともに黙秘したほうが,ともに自白したときより刑は軽くなるので,この組み合わせはパレート最適ではないのです。
 Nashは,1994年にノーベル経済学賞をとります。その彼の伝記的映画が「A beautiful mind」です。2001年の映画です。経済学の話が出てくるわけではありません。テーマは統合失調症の話です。彼は若いときから軍により暗号解読のような任務を与えられていました。これは家族にも秘密の極秘任務なのです。そんな彼があるとき,精神異常とみられて病院で治療を受けさせられます。ここまで観ていると,ナッシュが可哀想という話になるのですが,徐々に彼が統合失調症であることがわかります。そして,彼が軍の極秘任務をしているとか,大学でのルームメイトのチャールズとかはすべて幻覚であることが明らかにされていきます。このあたりは,実際にもNashが統合失調症であったということを知っていればともかく,知らなかった私は,サスペンス映画的な気分で観ていました。彼は自分がみているものが幻覚であることを,いつも出てくるチャールズの姪がいつまで経っても成長しないことから気づきます。こうして彼は幻覚の事実と向き合えるようになります。そんな彼を支えたのが,妻のAliciaでした。時が経ってノーベル賞の授賞式で,Nashが妻に感謝の気持ちを伝えるシーンは感動的です。
 天才数学者の人生は,病気との闘いでした。教師としても,夫や父としても,十分ではなかったのかもしれません。しかし周りの支えもあって,Nashは,研究面では偉大な業績を残していて,それはきちんと評価されていたのです(それに,息子も立派に成長していました)。
 ずっと昔に紹介したことのあるHawking博士の伝記的映画の「The Theory of Everything」(2014年)も天才学者の病気との闘いというテーマでしたが,Hawkingの映画のほうは,やや夫婦関係のわかりにくさがあったのですが,こちらのほうは,病気をともに克服してきた夫婦の愛と絆というのが重要なテーマになっていましたね。この手の映画はよくありますが(この映画の影響なのかもしれませんが),やはり感動させられます。

2021年9月10日 (金)

起業の連鎖

 9月9日の日本経済新聞の朝刊において,村山恵一さんが「起業の連鎖が始まる予感」という興味深い記事を書かれていまいた(村山さんの記事は,いつも注目しています)。私が『会社員が消える』(文春新書)で書いたのも,個人事業主や起業家が増えていくという展望でしたし,最近,プレジデントオンラインで書いたのも,同じようなコンセプトでした(「転勤も残業も嫌がらない」それしか取り柄のない会社員ではこれから確実に仕事を失う ギグワーカーを下に見る人ほど危険 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン))。
 デジタル技術の発達によって,産業構造が大きく変わるなかでは,工業時代とは異なり,土地,工場,機械などがなくても事業は遂行できるのであり,起業へのハードルは低くなってきています。会社員として働くという人生は,日本型雇用システムが終焉を迎えつつある今日,一転して,人生における危険な選択肢となりつつあります。世代間の違いも大きいと思いますが,30代までの人にとって,かりに会社員として働くとしても,ゆくゆくは独立するという考えをもっていなければ,その後の未来がないという時代になってきています。オセロの石のように,これまで白であったものが,黒にひっくりかえるような働き方の大転換が起こりつつあるのです。これが,村山さんの言われる「起業の連鎖」でしょう。記事では,「まだ局地的だが,大学に加え,会社でも周囲に起業する人が現れ,『ならば自分も』との気分にさせる環境ができつつある。起業の連鎖が始まる日は意外に近いのではないか。日本にプラスだ。」と結ばれています。いったん勢いがつくと,あっという間に変化が広がる可能性があると思っています。
 河野太郎氏が自民党総裁選への立候補を正式表明し,自身の政策を打ち出しましたが,そのなかに「全国でテレワークできる5Gネットワークをつくる」というのがありました。政策全体のなかでは,やや目立たないかもしれませんが,これこそが日本を変える政策なのです。DX社会では,個人がデジタル技術を活用して自律的に働くようになります。政府がやることは,そのための環境整備です。河野氏がほんとうにそれをやるのならば,ぜひ総裁・総理になってもらいたいですが。

 

2021年9月 9日 (木)

日経新聞にプチ登場

 今朝の日本経済新聞の「シェアエコで再点火㊥」に一言だけコメントが出ています。テレワークとサテライトオフィスのようなテーマで取材を受けて,それだけではどうかということで,テレワークのこと一般について話をしました。記事をみて,ここだけを載せるのかと思いましたが,いつものように,新聞の取材というのはそういうものなのでしょうね。
 ビジネスガイドで連載中の「キーワードからみた労働法」の最新号では,「待機時間の労働時間性」というテーマをとりあげました(第171回)。労働時間性の判断について,大星ビル管理事件・最高裁判決(拙著『最新重要判例200労働法(第6版)』(弘文堂)の第100事件)以降,かなり判例が積み重なっていますが,今回はとくに北九州市のバスの事件を主としてとりあげました。この職場での待機時間の労働時間性は今回が2回目の裁判で(原告労働者は違っています),しかも1回目の地裁(労働時間性を肯定),2回目の地裁(労働時間性を1割だけ肯定),高裁(労働時間性を否定)と判断が分かれました。とくに2回目の地裁の1割だけ肯定というのは,不法行為による損害賠償ならばともかく,賃金請求においては可能なのかという疑問もあります。ただ,この判決の裁判官は,労働時間性を完全に否定する決断ができなかったのでしょうね。こういうグレーゾーンについては,本来は労使で運用する余地を認めるべきなのですが,なかなかそうはなりません。だから裁判をしなければわからないという状況が続き,裁判官もどう判断してよいかわからず,悩み続けることになるのです。こうなると,裁判官が適用する法律のほうを見直すべきという話が出てくるべきなのですが,なかなかそうはなりません。もっというと,労働時間規制によって守ろうとしているものは,ほんとうにいまのような法制度でしかできないのかという問題もあり,この観点からは,デジタル技術を活用すべきといういつもの話になっていきます。

 

2021年9月 8日 (水)

臨死体験

 今年亡くなられた立花隆さんの本は,おそらく数え切れないくらい読んでいると思います。ただし,田中角栄のロッキード事件についての本は読んでいませんが,私の世代くらいで,立花さんの本をまったく読まないで成長するのは難しいくらい,いろんな分野の本を書かれていました。若い頃,『アメリカ性革命報告』という本を,性的興味だけで買ったことがありましたが,たしかフィストファックの描写があって,すごいなと興奮したことを覚えています。
 ところでNHKプラスで,立花さん出演の「臨死体験」という2014年の番組を観ることができました。人が死ぬとき,心がどうなるのかということを,立花さんらしく丹念に追っていくのです。人間は死ぬとき,セロトニンなどのホルモンが大量に出されるために,とても幸福な気持ちになるそうです。臨死体験で幻覚が生じるのものこの影響だそうです。立花さんは,このことを知って,死ぬことが怖くなくなったと言われていました。亡くなられるとき,どんな感じであったか,立花さんにインタビューをしてみたいですが,それは無理なことですね。
 番組のなかでは,ノーベル賞学者の利根川進さんへのインタビューで,「fake memory」という話も出てきました。脳は誤るということです。脳の記憶を意図的に書き換えることも可能なようです。これですぐに思いついたのは,刑事事件での自白です。自白偏重はえん罪を生むというのは,よく言われてきたことですが,科学的にも証明できることのようですね。
 ところで,生まれたばかりの赤ん坊は,1年間で劇的に成長しますが,とくに脳の成長が劇的にすごいと言われています。たしかに観察していると,寝返りをするようになること,首がすわるようになること,発声するようになること,親を認識するようになること,手足を徐々に意図的に動かせるようになること,ハイハイをして移動できるようになり,つかまり立ちなどができるようになること,そして1年をすぎれば,歩行したり,言葉を発したりするなどなど,多くのことができるようになりますが,それを支えるのが脳なのです。これらの多くは運動に関することですが,徐々に情報処理もするようになり,高度なコミュニケーションができるようになるのですが,この脳が最後に死ぬときに,幸福をもたらしてくれるというのは,神秘的な話です。
 番組の話に戻ると,この番組をみていると,立花さんの,仮説を立て,それを検証するために関連する重要文献を読みこんだり,実際に専門家にインタビューをしたりするという手法がよくわかります(『立花式読書論、読書術、書斎術 ぼくはこんな本を読んできた』も参照)。立花さんのようにしっかり事前に勉強している人の仮説は的を射ていて,こういう人からのインタビューだと,専門家も本気になって答えてくれて,よりクオリティの高い情報が得られるのでしょう。取材というのは,取材される側からすると,取材する人のレベルによって,こちらの出す情報も変わってきます。立花さん相手だと,研究者相手と変わらぬようなつもりで相手も話すのではないでしょうか(しかも立花さんは外国人相手でも通訳をつかわずに英語でやっておられました)。ジャーナリストの域を超えて,研究者レベルの作業をしておられます。あらゆることに関心をもち,この手法で知的好奇心を充足されてきたのでしょう。
 立花さんの残した多くの著作で,読んでいないものもたくさんあります。また立花さんが読んで勧めてくれているものもあります。自分が生きている間には,とても読めきれないでしょうが,少しでも読むことができればと思っています。

2021年9月 7日 (火)

司法試験の合格発表

 今日は司法試験の合格発表でした(001355254.pdf (moj.go.jp) 。合格者数と合格率のトータルでみる上位校は,順位の入れ替わりは多少ありますが,顔ぶれほぼ定着していますね。法務省のデータをみると,日本にまだこれだけ多数の法科大学院があることを知って驚きました。いまの3分の1くらいでよいのではないでしょうか。
 昨年,私の労働法の授業を受講した学生は7割が合格していました。5割くらいかなと思っていたので,嬉しいサプライズです。成績上位の学生は順当に合格していました。今回,不合格であった学生は,成績的には十分に合格するチャンスがあると思いますので,コロナ禍の勉強の環境は厳しいですが,粘り強く頑張ってほしいです。
 そのように言っているなか,また,後期の法科大学院の講義が始まります。今学期も,兵庫県や神戸市の現在の感染状況からは,オンラインになるでしょう。昨年もオンラインリアル型でやりましたが,私のようなソクラティックメソッドをする限り,オンラインのほうがやりやすいのです(とくに学生の声を聴きやすい)。学生によっては,自宅ではやりにくい人もいたようで,それは気の毒でしたが,学生のほうも,在宅でのオンライン学習というスタイルに慣れると,通学の時間を節約できるメリットは大きいのではないかと思います。もちろん,登校して仲間と話をしたり,図書館に行ったり,気分転換をしたりというようなことは必要でしょう。要するに授業はオンラインで受けて,授業以外のことは大学をはじめ,自分がその時々で好きな場所を選択してやるというのが,これからの学習スタイルで(大学に行ってオンライン授業を受けるという選択肢もあります),アフターコロナでも,これでよいのではと思っています。
 弘文堂の『ケースブック労働法』はすいぶん長く改訂しておらず,今学期もいちおう教科書にはしますが,授業のなかで新しい判例を補充する必要がありそうです。とくに昨年は旧労契法20条関係の最高裁判決がどっと出ていますので,これにはふれざるを得ないでしょう。もっとも,まだ流動的な要素もある判決ですので,あまり深追いせず,むしろ基本的な判例をしっかり学んでもらうことに力を入れたいと思います。
 個人的には,判例ばかりやらずに,もっとDXAIなどにからんだ立法政策論的なことも話したいのですが,それは学部生相手の授業でやることにして,法科大学院では職業専門教育ということに頭を切り替えてやることにします。
 最近,「両利きの経営」という言葉をよく耳にします。新規事業の開拓と既存事業の深掘りの両方をめざす経営のことですが,研究や教育もいまの時代は「両利き」でやる時代になってきています。つまり,新しい研究分野の開拓と既存の分野の深掘りの両方を進めていくことが必要なのです。法科大学院では深掘りのほうを,学部や通常では深掘りもしますが,新規開拓の成果を伝えていくということになりそうです。

2021年9月 6日 (月)

パラリンピックが残したもの

 オリンピックとパラリンピックが終わりました。賛否両論があるなか,強行開催された大会です。無事に終わったから,これでよしというわけにはいきません。オリンピックが始まってから,医療への負担がどれだけ高まってきたか。因果関係はよくわかりませんが,何も影響がなかったとはいえないでしょう。そして,いま最高責任者である首相は,無責任に政権を投げ出していきます。コロナ対策に「専任」(「専念」の間違い?総裁選に出ることも任務の一つだったが,それをやめるから専任と言ったのか,たんに優秀な官僚のつくった文書を読まなかったから言い間違えたのか)という意味不明なことを言ってますが,いまごろコロナ対策に専念(専任)して,彼に何ができるのでしょうかね。自民党では,党内の権力争いが始まり,いっそうコロナ対策から遠ざかります。
 オリンピックを開催したことで,日本は世界の信頼を維持できたという評価をする人もいます。そういうことならば,なぜオリンピックをする必要があるかという理由を,もっとしっかりと国民に説明しなかったのでしょうか。説明して納得をさせるということを怠った以上,いくら事情通らしき人がオリンピックのメリットを言ってくれても,十分に信用できません。バッハに対する異常な厚遇も,オリンピックのうさんくささをかき立てます。メリットがなかったとは言いませんが,それについて国民は納得のいく説明を受けていませんし,メリット以上のデメリットがあるのではないか,という疑念にとらわれているのです。
 もちろん,とくにパラリンピックは,障がい者を身近に感じることができたという点はとても良かったと思います(個人的には,アスリートだけでなく,もっといろいろな分野で活躍している人もいるのであり,たとえばほとんど毎日そのピアノ演奏をYouTubeで聴いている辻井伸行さんのような人にこそ金メダルを捧げたい気分です)。私がNBL1200号の巻頭言で「ダイバーシティ」のことを書いたのも,障がい者やその他の社会で差別されやすい人たちもとりこんで共生していくことが,私たちに必要なことだという意識からです。別に企業経営や労働問題だけの話ではありません。
 パラリンピックで選手の紹介をするときに,障がいの程度やその理由についての説明がありました。これについては反対論もあったようですが,本人が秘匿していないのなら,伝えたほうがよいと思います。これにより,実にいろんな理由で障がいを負う可能性があることがわかります。これはいつも書いていることですが,交通事故の多さを考えれば,明日自分に起こることかもしれないのです。それに高齢化は,少しずつ障がいをかかえていくことでもあります。障がい者は,他人から同情される対象などではないのです。そもそも,法律の定義はさておき,障がいとはいったい何かということもあります。人それぞれ得意,不得意があります。たとえば視力がなければ,モノをみて何かをすることは不得意でも,別の得意なことがあるかもしれません。障がいとは,不得意な分野が比較的きわだち,その原因が本人の心身の特徴に起因していることがはっきりしているにすぎないという言い方もできるかもしれません。そして,そういう部分こそ,テクノロジーの発達でカバーしていくことが期待されているのです。
 障がい者に優しい社会は,多くの人に住みやく,持続可能性が高い社会となるでしょう。SDGsの観点からも,このことは重要なのです。共同体社会への貢献という労働の本質は,構成員それぞれが得意な分野で,互いに不得意な分野をカバーし合うことではないかと思っています。

 そういえば先日,コロナワクチンの接種の1回目が終わったあと,2回目の予約をいれてほしいと突然言われて,あわててスマホで予定を確認しようとしたのですが,会場が暗くて,どうしても自分のGoogleカレンダーに書きこんでいる予定が読めません。拡張できない画面であったので,担当の若い方に,私のスマホの画面を見て読んでもらいました。ちょっとしたことですが,こんなことも自分でできなくなって,他人の手を借りなければならないんだと思ってショックでしたが,でもこれからはどんどんそういうことが増えていくのでしょう。デジタルだけでなく,アナログ的な人間の絆が大切だと感じました。また,前にも書いたことがありますが,海外でオペラをみているとき,やはり暗くてプログラムを読みにくそうにしていた私に,横の年輩の女性がそっと老眼鏡を差し出して,私に向かって微笑んでくれたという暖かい体験がありました。国籍を超えて,男女を超えての助け合いは,素敵なことです。そういうことが普通の社会になればと思いますね。

2021年9月 5日 (日)

「The Guilty」

 デンマーク人の知り合いは,いませんね。むかしFlexicurity の議論がはやったときに,東京であったシンポジウムで,デンマーク人が呼ばれていて,デンマークは素晴らしい制度を導入しているので,日本人も学んだほうがよいというような,上から目線の勘違いスピーチをした人を見たことがあるくらいですね。
 それはともかく,Prime Videoで観た「The Guilty」というデンマーク映画は,とても暗い雰囲気なのですが,面白いサスペンス小説を読んだような感じでした。
 主人公のAsgerは,裁判を待つ身の警察官で,いまは緊急通報司令室で勤務しています。市民からの通報をさばくだけで,つまらない仕事のようです。彼がどういう裁判を待つ身なのかは,最後のほうでわかるのですが,若者を射殺していたのです。正当防衛かどうかを同僚が証言をしてくれる予定ですが,その証言は偽証なのです。
 そんなAsgerですが,Ibenという名の女性から電話がかかってきます。彼女は娘に話しているかのようですが,Asgerは,彼女が誘拐されていて,横に犯人がいるのではないかと考えます。AsgerはIbenの自宅の電話番号を割り出して電話をかけると,娘のMathildeが出てきました。Asgerは,Mathildeから,別居しているお父さんのMichaelがやってきて,赤ん坊のOliverのいる部屋に入ったあと叫びながら,Ibenを連れて行ったということを聞きました。Michaelには犯罪歴があり,子は妻が引き取っているようでした。夫による妻の誘拐で,Ibenの命も危ないと感じたAsgerは,なんとかMichaelの居所を突き止めようと,翌日に証言をしてくれる予定の同僚に調査を依頼するのですが……。
 結局は,事実はまったく違っていたのですが,ネタバレとなるので,ここで止めておきます。


 この映画は,Asgerの勤務する緊急通報司令室の場面しか出てきません。電話の会話だけで,話が進行していくのです。ロケが不要なので安上がりとなるというような見方をしてはだめで,電話だけで,これだけの緊迫感を出せるのは,すごいことなのです。電話の向こうから聞こえてくる様々な音とAsgerが相手に話しかける言葉だけを手がかりに,小説を読んでいるときのような想像力を働かせていくことになります。もちろん映画の見所は,電話の向こうで進行している事件よりも,顔がみえているAsgerのみせる様々な表情です。一人芝居を映画でみたような感じでもあります。珍しい手法を採った映画ではないでしょうかね。


 


 


 


 

2021年9月 4日 (土)

解雇権濫用法理

 過去1年間の労働判例を振り返るとき,有斐閣の別冊ジュリストの「重要判例解説」が大変参考になります。数年前から,労働法は,土田道夫先生が全体の解説(労働判例の動き)を担当されていて,私もこれを読んで勉強しています。日頃,いちいち判例を追いかけているわけではないので,信頼できる先生が概観されているものがあると,たいへん助かります。先日,令和2年版を読んでいたのですが,そこでちょっと気になる裁判例がありました。それが,みずほビジネスパートナー事件(東京地方裁判所2020916日判決)です。土田先生は,「解雇権濫用を肯定する理由を丁寧に説示しており,先例性が高い」と評価されています。ただ,この判決は,ちょっと結論に疑問がないわけではありません。労働法研究者の端くれとして,解雇を無効とする判決に疑問と言うのは,少しはばかられますが,少なくとも判決文を読んだとき,なんとなく昭和52年の高知放送事件・最高裁判決(拙著『最新重要判例200労働法(第6版)』(弘文堂)の第48事件)と同じような匂いを感じました。問題となっている労働者は,みずほ銀行から子会社に出向し,その後,転籍した人で,おそらくは日本型雇用システムにどっぷりつかっている正社員でしょう。判決によると,多くの業務ミスがあるし,セクハラなどで懲戒処分を受けたこともあり,これで解雇が有効にならないのはなぜだろうと疑問をもつ人も多いでしょう。
 しかし,判決の結論に理由がないわけではありません。会社が根拠とする解雇事由が,「その他社員として勤務させることが困難もしくは不適当と認めたとき」という一般条項なのです。高知放送事件では,もっと抽象的な一般条項でしたが,それに近いものがあります。これだと解雇事由該当性の判断が非常に難しくなってきます。一つひとつの業務ミスがあったことの立証はできても,解雇事由該当性あるいは解雇理由の客観的合理性にまでたどりつくのが大変となりそうです。
 会社側は,解雇の有効性について,「普通解雇の事案であるから,事務ミス等と個々の服務規律違反行為を峻別したり,個々の言動を細分化して個別に評価を行うのではなく,本件解雇に至るまでの一連の言動が,被告との信頼関係を破壊するものであったか,原告の被告における業務継続を困難にしたかという観点から,本件解雇の有効性を検討すべきである」と主張しました。一方,労働者側は,「信頼関係の破壊という概念は極めて抽象的主観的であり,採用できない」と主張しました。たしかに,一連の言動をみろという会社側の主張はそのとおりだと思うのですが,信頼関係の破壊が抽象的主観的という労働者側の主張もそのとおりだと思うのです。それで裁判官はどう言ったかというと,「信頼関係が破壊されているとして普通解雇事由に該当するというためには,原告につき被告との信頼関係が破壊されたことを理由として解雇を相当とするだけの客観的事情が存在することが必要と解される」としたのです。信頼関係破壊論にのりながらも,それを客観的に判断するとしたのです。これもありうるアプローチですが,結局,この信頼関係破壊論が,裁判所によってきわめて厳格に解されたのです。
 問題は,ここでいう信頼とは何なのか,です。裁判官がどう考えたのか必ずしもよくわかりませんが,日本を代表する銀行が正社員として雇用したのは,採用時にそれなりの人物と評価をしたからでしょう。能力不足や適格性不足があったとしても,それも企業が織り込み済みで雇っているのであり,多少のセクハラをしようが,非違行為をしていようが,本人が反省し改善する見込みがあれば,企業はその正社員への信頼を失ってはいけないということなのでしょう。主観的な信頼というのは,一連の言動の積み重ねで失われていくということになりそうなのですが,そういうことではなく,一つひとつの言動だけで信頼を失ってはならず,社員に改善の余地があれば,企業はそうするように努めろということなのでしょう。こういう発想が,企業に求められる解雇回避の本質なのです。ただ,こうなってくると,企業が自信をもって解雇できるのは,一つの言動で懲戒解雇にできるようなもの(つまり信頼関係を一発で崩壊させてしまうような言動で解雇回避を求める余地がないもの,たとえば業務上横領)が存在する場合にかぎられてしまいます。私は『解雇改革』(中央経済社)という本のなかで,日本型雇用ステムの下における現在の解雇ルールでは,能力不足や適格性不足の解雇は難しいが,懲戒解雇は実際にそれだけ重大な非違行為があることさえ認められれば,比較的簡単に解雇は認められると書いています。懲戒解雇のほうが簡単というのはおかしな話にも聞こえるのですが,上記のようなことからわかるように,そういう面もあるのです。
 こういう普通解雇に対する厳格な姿勢を引き継いだのがこの判決なのです。しかし,こういう解雇法理でよいのでしょうか。解雇権濫用法理(労働契約法16条)はしょせん権利濫用論に依拠する法理であり,社会の変化に応じた弾力性が求められます。この事件の処理はこれでよいとしても,これが規範として一般化していくとやはり弊害が大きいと思います。
 人事労働法的な観点からは,うまく合意解約に至らなかったことに問題があるという評価になりそうです。一般条項的な就業規則の解雇事由による解雇で勝負するのには限界があったともいえるわけで,このあたりについては,経営者が就業規則をきちんと整備し,「退職のマネージメント」(守島基博さん)をきっちりして,円満な退職を図るべきだったというコメントになります(人事労働法的に望ましい解雇ルールについては,拙著『人事労働法』(弘文堂)の205頁以下を参照)。合意解約に失敗して,裁判になると,こういう判決が出る可能性は十分にあるのです(もちろん事案によっては,そう簡単に合意解約できないこともあるでしょうし,この事件もそうだったのかもしれませんが)。
 それと,一つ気になったのは,会社側は当該労働者のたくさんの問題行為を主張したのですが,これはひょっとすると裁判官には逆効果になった可能性もあります。業務ミスというのは,教育指導で改善できると考えやすいからです。以前に労働委員会で扱った事件のなかで,問題のある社員について,その社員の行動をこと細かく記録した文書を,その社員の落ち度を示す証拠として提出してきた企業がありました。それはそれで意味はあるのですが,そもそもこの社員にだけそういう記録をしていたのはいかがなものか,ということになりますし,問題行為を記録しているだけで,改善のための教育をしていないので,それも企業側に不利に働くおそれがないかなと思ったことがあります。
 解雇をする企業は,本人の能力不足や適格性の不足をきちんと立証することは重要ですが,もともと正社員については教育して活用することが前提なので,それさえもできないほどの能力不足や適格性不足であったということを立証しなければ,とくに本人が教育を受ける姿勢を放棄しているような場合でないかぎり,会社は勝ちにくいことになるでしょう。
 これが解雇権濫用法理の本質ですが,これがよい法理とは思えません。すでにいろいろなところで書いているので,ここでは詳論はしませんが,私はこの法理は日本型雇用システムどっぷり世代のところで終わりにして,今後は新しい解雇ルールを構築していくべきだと思っています(当然,解雇の金銭解決も含まれます)。この判決を契機にして,解雇ルールの現状を認識したうえで,その見直しをめぐる議論が高まればと思います。
 信頼関係論にもどると,解雇をしたところで信頼は崩壊しているのです。裁判官が,信頼を失ってはならないと考えても,失ってしまった以上,仕方がありません。裁判では,今回のような解決になっても,失った信頼は回復できないのであり,そうした関係を無理に継続させても良いことになりません(拙著『解雇改革』のエピローグも参照)。もっとも,この事件での労働者は定年退職間近だったので,この点は関係ないのかもしれませんが……。


2021年9月 3日 (金)

判例評論に登場

 予告していましたように,判例評論(判例時報)の最新号に,福山通運事件・最高裁判決(令和2228日)の判例評釈が掲載されています。7年ぶりの登場です。ビジネスガイドで連載の「キーワードからみた労働法」でも「逆求償」というテーマで,この判決を取り上げていましたが,今回は判例評釈ですので,書きぶりや視角が異なります。この判決については,多くの評釈や解説が出ていて,民法学者のものも含めて,すべてに目を通したつもりですが,労働法的な観点からは,この問題のエキスパートである細谷越史さんの著書と本判決の評釈,それと季刊労働法の富永さんの論文が最も参考になったので,紙数の関係もあり両文献のみを挙げました。不法行為については,個々の論文以外は,同僚の窪田充見さんの決定版といえる本とよく参照されている潮見佳男さんの本(信山社の本のほうが,情報量が多いようですが,より最近に改定されている新世社の本にしました)を参照しました。
 私の論考は,多くの方とはやや違い,補足意見に割と多く言及しています。たくさん評釈があるので,同じようなものを書いても仕方がないからです。本判決のインプリケーションも私の視点で書いています。
 民法715条の使用者責任自体は,労働契約関係以外も含む広い射程をもつ条文ですが,本来はメインの領域は労働契約関係となるはずで,私たちももう少し関心をもってよいかもしれません。とりわけ逆求償は労働法にとってはほとんど未知の領域です。労働者が先に不法行為の損害賠償をしたあと,どこまで使用者に求償できるのか,というのは,ほとんど検討されてこなかったのです。民法における代位責任論にしたがっているかぎりは,使用者にも不法行為責任がある共同不法行為の場合以外は,逆求償は無理なことなのですが,ここはむしろ民法のほうが,逆求償の可能性を模索してきていました。これをどう労働契約論の観点から理論構成するかが今後の課題で,國武英生さんが本判決の評釈で言及していたと思いますが,これまではこのテーマは細谷さんしかやっていませんでした。
 昔々,関西労働法研究会で,たぶん細谷さんが大学院生のときだったと思いますが,報告を聴いて,指導教員の西谷先生にこのテーマにした理由をうかがったとき,こういう事件が増えている(使用者から労働者への直接損害賠償請求の話です),というようなことを言われた記憶があります。ドイツでも議論があるので,西谷シューレの比較法のテーマとしてもよいのでしょう。
 私自身も,その後,この種の事件の裁判例が出てくるなか,このテーマは面白いので,ドイツ以外の国の比較もやってみればどうかと神戸労働法研究会の場で若手に声をかけたことがあるのですが,冷ややかな反応で,がっかりしたことを覚えています。
 それはさておき,判例評論はどういうように割り当てをしているのかわかりませんが,とくに私の専門とするテーマ(といっても,実はとくにないのですが)で依頼してこられるわけでもなく,これまでも管理監督者,外国人研修生(労働者性),雇用保険法上の被用者,そして逆求償というテーマで,どことなくマニアックな論点の判例を担当してきました。
 判例評釈は苦手ですが,ある程度,好きに書ける枠をいただけるのならば,声がかかれば今後もやってみたいという気持ちはもっています。

2021年9月 2日 (木)

東リ・シグマテック事件

 昨日も採り上げた中央労働時報の最新号では,上智大学の富永晃一さんによる,東リ・シグマテック事件の兵庫県労働委員会の命令の評釈も掲載されていましたね。今年の1月に神戸労働法研究会で報告してくださいましたが,今回,改めて活字になったのをみて,労働委員会の委員としては身の引き締まる思いです。研究会では,東リ事件の東京地裁判決がメインで,その延長で兵庫県労働委員会の命令も論評してくれたのですが,論点的には,この命令のほうが面白いということで,中央労働時報という雑誌の性格上も命令の評釈だけが掲載されました。
 一つは,労組法上の使用者性について,労働者派遣法40条の6の労働契約のみなし申込みが認められれば,派遣先(発注会社)にも使用者性が認められるものの,あくまでも労組法7条との関係では,朝日放送事件・最高裁判決の枠組みで判断し,40条の6の解釈については,併行して行われている神戸地裁での民事訴訟の判断にゆだね,兵庫県労働委員会があえて判断をしなかったことは実務的かつ理論的に妥当であったか,また,事業を実質的に承継したが組合員は採用しなかった派遣会社に不利益取扱いの使用者性を認め,かつ不当労働行為意思まで認めた点について,前者はJR採用差別事件の判例との整合性,後者は発注会社の不当労働行為意思の承継のような形になっており,そうした判断の妥当性といった論点について,丁寧に論評してくれています。
 労働委員会として,常日頃,理論的に可能な枠内で,できるだけ紛争の実質に適した解決をめざそうとしており,和解もそうですが,命令を出すときでも同じで,そこで苦労して出した命令について,富永さんのような第一線で活躍する研究者に論評してもらったことは,とても有り難いことだと思っています。本命令について残された理論的課題も多いので,それは私自身も,研究者として取り組んでいかなければならないと思っています。
 ところで,昔々,花見忠先生から,JR採用差別事件で中労委が不当労働行為を認定する命令を出したことについて,たしか年賀状だったと思いますが,あの命令の補助機関論(国鉄はJR設立委員の補助機関であり,国鉄の不当労働行為はJRにも帰責される)に言及して,必死に考えましたというような趣旨のことが書かれていて驚いた記憶があります。私のような下っ端のものにまで書いてくるのはよほどのことであり,命令が裁判所だけでなく学説においても,どのように受け止められるかを,気にされていたのかもしれません。労働委員会の事件処理では,これまでの判例や通説では適切な処理ができない場合,一歩踏み出ささなければならないことがあるのですが,それができるのは,理論的な知見と決断が必要なことだと思っています(もちろん,それについては後から学説による批判にさらされる必要があります)。おそらく補助機関論は,そういう知的格闘の成果だったのでしょう。
 花見先生の偉大さは,少し前のブログでも紹介したとおりですので,ここでは繰り返しません。偉大な先生に少しでも近づけるよう,精進していきたいと思います。

2021年9月 1日 (水)

労働審判での口外禁止条項

 中央労働時報1278号に,中川拓弁護士が,労働審判において,労働者が強く拒絶していた口外禁止条項を入れたことについて,労働者の幸福追求権を侵害するなどの理由で国家賠償請求をした事件(長崎地方裁判所令和2年12月1日判決)について紹介されていました(日本経済新聞でも,採り上げられていました。労働審判で口外禁止は違法 長崎地裁、賠償は認めず: 日本経済新聞 (nikkei.com))。彼が大阪で在間弁護士(労働側弁護士のなかで,最も優れた方の一人と思っています)の事務所にいたときに,兵庫県労働委員会の不当労働行為事件で顔をみかけたことがありました(その前から彼のことは知っていましたが)。事件名は忘れてしまいましたが,使用者性が関係する難事件で和解ができずに審問にまで突入したことを覚えています。そのあと,たしか中労委の地方事務所関係の仕事で在間弁護士とご一緒する機会があり,彼のことが気になったのでうかがったところ,長崎に行ったということを聞いて驚いたのですが,久しぶりに名前をみて活躍されているのを知って嬉しく思いました。
 ところで,労働委員会でも和解をするとき,使用者側が,口外禁止条項を入れるよう求めてくることはよくあります。労働組合側は労働委員会で一定の成果を得たことを宣伝したいのですが,それを大々的にされることは困ると使用者側が考えるのも状況によっては理解できることがあります。不当労働行為の案件は,双方に非があることもよくあり,そうした事案では口外禁止条項に労働委員会としても理解を示すことがありえます。最近ではHPもありますので,これに掲載されると世界中の人に知らされます。事件の内容にもよるのですが,多くは実質個別紛争で,個別性の高い案件ですので,使用者側のこうした要望にはもっともなところもあるのです。他方で,労働組合としては,労働委員会での活動の結果や内容について組合員に対して報告する義務があるということも,またよく理解できます。落としどころを探るために,第三者には口外しない,その第三者には労働組合の内部の者は含まない,かりにHPに掲載するとしても,具体的なことは掲載しないなどの細かいすりあわせのうえで合意に向かう努力をします。私の記憶では,自分が担当した事件では,こうした条項の挿入やその内容によって和解が決裂したケースはなかったと思いますが,途中でもめることは何度もありました。口外禁止条項は,使用者がなかなか和解に乗ってこないときに,労働者側の譲歩の条件として使うこともあり,それが効果的であったこともあります。いずれにせよ,労働委員会としては,和解時には,労使双方の意向も十分に考慮し,当該事案で一番良い解決方法を模索することになります。
 ところで,長崎の事件は,労働審判なので状況は違うのですが,中川弁護士の書かれた内容によれば,調停段階で,雇止めの金銭解決について額はほぼ合意できていたようで,ただ使用者側からの口外禁止条項の挿入リクエストがネックになってしまいました。労働審判委員会側は,使用者のリエクストに理解を示したようですが,労働者はお世話になった人へのお礼もできなくなるといって拒絶したようです。労働側は口外禁止条項付きの調停案をリジェクトして,労働審判になったのですが,「正当な理由なく第三者に口外しないこと」という口外禁止条項がそのまま入ってしまったようです。和解や調停では,この種の条項はありえると思いますが,本件では,労働者側が拒絶していたにもかかわらず,それでもこうした内容の審判を出すことができるのかが問題となりました。具体的には,労働審判法201項の「労働審判委員会は、審理の結果認められる当事者間の権利関係及び労働審判手続の経過を踏まえて、労働審判を行う」という規定をふまえて,2項の「個別労働関係民事紛争の解決をするために相当と認る事項を定めること」という要件に抵触しないかが問題となり,長崎地裁は,労働審判の相当性は,「申立ての対象である労働関係に係る権利関係と合理的関連性があるか,手続の経過において,当事者にとって,受容可能性及び予測可能性があるか」という観点から判断するとして,このケースでは受容可能性がないとしました。裁判の結果は,労働審判委員会に違法または不法な目的があったわけではないとして,国家賠償の請求は棄却されましたが,中川弁護士の裁判の目的はそこにあったのではなく,当事者が明らかに拒絶していた口外禁止条項を労働審判に挿入したことの違法性を確認してもらいたいということであったので,裁判には負けましたが,実質では勝ったというところでしょう。おそらく裁判で負けるのは予測していたのであり,それでもいわば正義のための戦いをしたというところでしょう。
 

 事件の詳細はわかりませんので,推測で言わせてもらうと,やはりこの事件はなんとか調停で終わらせるべきであったのではないかと思います。上記の和解の経験からも「第三者」の範囲と「正当な理由」の範囲をすりあわせて,どうしても労働者側が伝えたい人と,使用者が許容できる範囲とを限定したうえでの口外禁止条項の実現ができるよう時間をかけるべきではなかったかと思いますが,そういうことが難しいほど使用者は強硬だったのでしょうかね。労働審判は迅速な手続が求められているのですが,こういう細部の詰めで時間がかかるときには,多少時間をかけるのはやむを得ないでしょう。今回は異議申立てはしなかったようですが,こういう細部のことで異議申立てがなされ通常訴訟に移行するとなると,長い戦いになりかねません。このケースはさておき,双方の説得に時間をかければ何とかなるというときには,労働審判法152項の「特別の事情」(3回以内の期日での審理の終結の原則の例外)は緩やかに認めて,労働審判を出す前に「一呼吸」を置くという手もあるように思えますね(労働審判実務はよく知らないので,的外れなことを言っているかもしれませんが)。
 労働委員会でも「適切かつ迅速な審査の実現」のための審査計画の策定が求められ,その計画に実務上ある程度は縛られるのですが(労組法27条の64項),和解ができそうなら,徹底的に粘って和解の実現を図るべきでしょう。それによって終結までの期間が長くなっても仕方がないです。結果として和解に失敗すれば,迅速性は損なわれたことになって,終結までの日数があとで公開されて,数字的にはみっともないことになるのです(迅速な解決ができていないと言われる)が,迅速性の要請は,紛争の和解による解決の可能性を阻害するものであってはならないと思っています。紛争解決の迅速化はあくまで努力目標であり,最も大切なのは,どうすれば正常な労使関係を実現できるかです。多くの場合,命令を出すよりも,和解のほうが,この目的に資するのです。
 もちろん事件によっては和解になじまないものもあるのですが,とくに誠実交渉をめぐる紛争は,多くは実質個別紛争で,しかもその多くは和解になじむものです。こうした事件については,和解の成功率が高いことこそが,労働委員会が誇れることではないかと思います。労働審判も,調停の成立率が高いところが,その評価を高めているのであり,そのためにも労使双方の合意を得るという努力が実務においては重要となるでしょうね。
 なお,中川弁護士の論考のタイトルは「口外禁止条項付き労働審判は違法である」となっていますが,正確には「労働者が強く拒絶している口外禁止条項を労働審判に付すことは違法である」というべきかもしれませんね。

 

 

 

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