« 2021年7月 | トップページ | 2021年9月 »

2021年8月の記事

2021年8月31日 (火)

形だけの民主主義からの脱皮

 昨日紹介した映画「新聞記者」の最後のほうで,官僚の多田が「この国の民主主義は,形だけでいいんだ」と杉原に言うのですが,その言葉には深いものがあります。ただ現実の日本で,少なくとも最近の選挙においては,民意の現れ方が変わってきた感じもします。先日の横浜市長選もそうです。昔なら,なんだかんだ言っても自民党,小此木さんでしょう,というところを,コロナ対策の専門家ということから,新顔が勝ってしまったわけです。政治家としての能力は未知数ですが,市民はそこは問題とせず,本人の資質にかけたというところでしょう。旧来の政治にそまらず,民意に近い意識があり,それなりの能力があれば,市の政治を任せてもよいということでしょう。
  一昨日の池田市長選は,ハチャメチャなことをやって辞職に追い込まれた前市長が再び選挙に出るという恥知らずの行為をしたのですが,そうはいっても前職なので,ある程度の票はとるかなと思っていたら,大惨敗でしたね。民意が常識的なところと一致するようになってきています(明石市長選のときは,表面的なパワハラのイメージに市民は惑われず,きちんと辞職した市長を再選させていますが,これも市民の目が確かだった証しでしょう)。ちなみに辞めた前池田市長と今回の市長は,どちらも維新なのです。前市長は離党していますが,また維新かという声もでそうですが,新市長は市議会議員で,女性でまだ若く,ここも人物本位で選ばれた感じです。維新は外れも多いのですが,良い人材もいるということで,そういうところに可能性をみている人も多いのでしょう。そうなってくると自民党の看板を背負うのはかえって不利で,いかにして自分が既存の政治とは距離をおいていて,フレッシュな感覚で政策を実行できる能力があるかを示していくことが,選挙に勝つためには必要なのでしょうね。
 映画「新聞記者」には,内閣情報調査室がSNSで情報操作をして世論を誘導していくシーンが出てきますが,実際にそんなことをしているかどうかはともかく,かりにそうだとしても,そういうことに騙されないで個々の候補者が何を言うのかをネットを通して確認し,自分が納得できる人を選んでいくというのが,これからの有権者の行動パターンとなることでしょう。最大の党派である無党派層が本気で動き出すと,政治が変わります。
 「この国の民主主義は,形だけでいいんだ」が仮に少しでも説得力をもつとすると,それは政府が安定と秩序を維持できているときです。その前提が崩れた現在,民主主義は形だけではダメなのです。

2021年8月30日 (月)

新聞記者

 AmazonのPrime videoで「新聞記者」を観ました。話題になっていた映画で,ずっと観たいと思っていましたが,なかなか時間がみつかりませんでした。別に暇になったわけでもないのですが,抱えている原稿がやや減ったタイミングで,観てみました。
 新聞記者が主役のようですが,若き官僚の苦悩を描いたというほうが適切な感じもする映画でした。ストーリーは,現実の森友加計問題や,伊藤詩織さんの事件などを想起させるだけでなく,元文部官僚の前川喜平氏や原作者の東京新聞の望月衣塑子記者も登場するということで,現実と虚構が交錯する展開でした。内閣情報調査室も,実際にどういう仕事をしているのかわからないのですが,おそらく現実とはかなり違うフィクションでしょう。
 松坂桃李が演じる,外務省からの出向で内閣情報調査室に来ている杉原は,かつての上司で,その家族との付き合いもあった神崎が突然,自殺をして衝撃を受けます。神崎は内閣府で大学新設をめぐり汚れ仕事をさせられていたようなのです。神崎が,この件について匿名で東都新聞に情報をリークし,それをきっかけにシム・ウンギョンが演じる吉岡が取材を始めます。神崎の通夜のときに杉原と偶然出会った吉岡は,その後,杉原が内閣府の人間だと知り,神崎の自殺の真相をつきとめるために協力を求めます。吉岡は,神崎の自宅で,新設大学が生物兵器の研究のためのものであることを示唆する証拠を得て,そのことを杉原に伝えます。決定的な証拠が欲しい吉岡は杉原に協力を求め,杉原は証拠となる機密情報を無断で撮影して吉岡に手渡します。政府がこれを誤報として圧力をかけてくることをおそれた上司は,記事にするのに難色を示しますが,最後は杉原が実名を出してよいと言ったので,上司も決断をします。そして,一面トップでこの記事が出ました。
 吉岡のお父さんは優秀なジャーナリストでしたが,政府の不正に関する記事で誤報を流したことが原因で自殺していました。しかし,娘の吉岡は,このことに納得できていませんでした。彼女のジャーナリストとしての真実へのこだわりは,父の自殺のことも関係しています。一方,杉原は,子どもが誕生したばかりで,家庭生活は幸福に満ちているはずですが,仕事の面では,一般人を対象とした調査や情報操作の仕事にストレスを感じていました。そうしたなか,神崎の件は,杉原の知らないところで内閣情報調査室が動いていて,それが自殺の原因になったかもしれないということを知り,自分の仕事への疑問を募らせていきます。
 吉岡はスクープ記事が出たあと,社外に出たところで電話がかかってきます。杉原の上司の多田からですが,彼は,名乗りはしません。ただ吉岡に対して,お父さんの情報は誤報ではなかったと告げます。これは吉岡には複雑なメッセージであったことでしょう。父のジャーナリストとしての信頼を回復できたかもしれませんが,誤報でないのに自殺に追い込まれてしまったこともまた明らかになったからです。権力は,誤報をしていなくても,これを誤報であると事実をねつ造し,スクープ記者を一転,自殺に追い込んでしまう恐ろしさをもっているのです。吉岡はしばらく混乱してしまったかもしれません。とにかく杉原に電話をかけようとします。
 このとき,多田は,(おそらく)その直前に杉原に,ほとぼりを冷ますために外務省に戻り,海外で過ごすよう勧めます。ただし,条件をつけます。それはいま持っている情報はすべて忘れるということです。多田は,杉原がリークしたことを知っていたのでしょう。彼が実名を出す覚悟を持っていることも知っていたのでしょう。だから杉原に対して,撤回は恥ずかしいことではない,という言葉を最後に投げかけて,吉岡に協力することをやめろという圧力をかけたのでしょう。杉原も官僚です。外務省に戻ってほんとうにやりたいことをやれると言われると,心が動くことでしょう。そして,何よりも大事な家族のこともあります。でも家族,とくに生まれてきたばかりの子に恥ずかしい自分でありたくないという気持ちもあります(実名を出す覚悟をしたのは,そのためでしょう)。だから悩んだのです。
 電話をかけ続けていた吉岡は,遠くに杉原をみかけます。杉原も吉岡に気づきます。そこで苦悩に満ちた表情をしている杉原が,つぶやくのです。その口の動きから「ごめん(ね)」と言ったのでしょう。もう君には協力できないという意味でしょう。それに対して吉岡が何かを言おうとしたところで,映画が終わります。 
 政権批判の映画なのかなと思っていましたが,それほどのものではないと思いました。むしろ新聞記者とは,こうあってほしいなということを伝えてくれた映画ですね。アメリカ映画にときどきあるようなタイプのストーリーです。アメリカ映画とは少々違うのは,エリート官僚の生きづらさを感じさせてくれているところでしょうか。
 この映画には,もちろん賛否があるでしょうが,私は観るに値する良い映画だと思いました。

2021年8月29日 (日)

山口観光事件・最高裁判決

 昨日の神戸労働法研究会では,古い判例である山口観光事件・最高裁判決が検討されました(拙著『最新重要判例200労働法(第6版)』(弘文堂)の第25事件)。この判決は,懲戒当時に使用者が認識していなかった非違行為は,特段の事情がないかぎり,当該懲戒の根拠の理由とされたものでないことが明らかであるから,その存在をもって当該懲戒の有効性を根拠付けることはできない,と述べています。この判決がどれだけ重要なものであるかはさておき,この判旨のロジックが必ずしも明快ではないことから,様々な読み方がされてきました。実際に問題となるのは,懲戒処分として通告した理由が当該処分をするのに不十分であるとき,あとから理由を追加することができるかです。この点,最高裁は,追加はダメと言ってはいるのですが,例外も設定していて,処分当時に認識していなくても,懲戒の根拠の理由とされていると認められる特段の事情があればよいとします。その後の裁判例では,実質的に同一の理由であれば追加してよいとしています。この例外が,懲戒の理由の追加を認めたものなのか,実質的に懲戒の追加とならないような軽微な(追加的)修正のみを認めたというべきなのかは,はっきりしません。
 一方,この判例を,使用者の認識が問題なのではなく,懲戒が労働者に不利益性が大きい罰であるということから,適正手続の保障が求められるという観点でとらえていくべきだとすると,労働者にとっての弁明手続が保障されているかが重要となります(例えば,Aの非違行為について弁明機会があれば,Bの非違行為についても改めて弁明をしなくても,労働者の手続保障に問題がないという場合であればBを追加してよい)。もっとも判例は,手続保障そのものを懲戒の必須の要件とはしていないので,山口観光事件判決の理解の仕方としては手続保障を重視する見方は妥当でないといえるでしょう。
 山口観光事件判決では,認識していないことは理由にできないとしているので,それじゃ認識していたけど,あえて理由にしなかった場合はどうかということが問題となります。炭研精工事件の控訴審判決(大内・前掲書の29事件)は,犯罪歴に関して「禁錮以上の刑に処せられたとき」は懲戒事由に挙げられていなかったとしても,使用者は認識していたので,裁判で懲戒事由として主張してよいとしており,最高裁もこの判断を正当として是認しています。
 ただ適正手続の保障を重視する立場からは,企業が認識をしていたからOKというわけにはいかず,弁明機会があったかなどの観点からチェックが必要であったように思います(ただ,このように考えても,炭研精工事件の場合には,結論として,問題なしとされる可能性は高いでしょう)。
 一方,企業が認識していなかった場合でも,例えば労働者が真実告知すべきことをしなかったために企業が認識し得なかった事実が後から判明し,それを懲戒事由として追加した場合は,特段の事情があるといってよいでしょうし,また適正手続の保障を重視する立場でも,これを強調するのに適さないかもしれません。
 研究会では,このほかにも,いろいろな角度から議論をしました。いまや古典的な判例ともいえますが,さらにつつけば,もっといろいろな論点が出てきそうですね。

王位防衛

 藤井聡太王位が,挑戦者の豊島将之二冠に勝ち,41敗で防衛しました(7番勝負)。同時進行の叡王戦は22敗のタイで(5番勝負),豊島叡王に勝てば,最年少3冠が誕生します。豊島二冠は,ここのところずっと藤井二冠と対戦し,快勝した勝負と完敗した勝負があり,ただ数的には完敗した将棋が増えていますね。913日に行われる最終戦はなんとか勝って叡王を死守したいところでしょう。豊島二冠のもう一つのタイトルの竜王についても,藤井二冠が,挑戦者決定3番勝負で,永瀬拓矢王座と戦っており,すでに先勝して,あと1勝で竜王挑戦というところまで来ています。次の対局は8月30日です。もし叡王も竜王も奪取して四冠となり,豊島二冠を無冠にするようなことがあれば,大変なことになるのですが,そういうことが起きても誰も驚かない状況になっています。
 名人への道といえる順位戦では,藤井二冠はB1組で4局終わったところで3勝1敗で,現在4番手です。昇級は2人で,序盤ですので,まだわかりませんが,佐々木勇気七段が快調に4連勝していて,千田翔太七段も藤井二冠より順位が上で31敗で,この二人を追い越せるかがポイントとなりそうですね。このほか,棋王戦も勝ち残っているし,王将戦は挑戦者決定リーグ入りを果たしています。今期の王将戦は,豊島二冠,永瀬王座,羽生善治九段,広瀬章人八段がシードで,これに糸谷哲郎八段,近藤誠也七段,藤井聡太二冠が参加するという豪華メンバーです。渡辺明王将も含め4強+羽生九段に,若手A級棋士の広瀬八段,糸谷八段,さらなる若手の実力者で次期のA級昇進を狙っている近藤七段が参加するということで,将棋ファンには目が離せません。王将戦は藤井二冠はそれほど負けているわけではありませんが,彼にしてはやや苦戦しているので,今年こそという気持ちがあるでしょう。

2021年8月27日 (金)

岸田氏の勝負

 自民党の岸田文雄氏が勝負に出ましたね。自民党の総裁選に立候補するようです。紙を見ないで,多少力強く話しただけで,ずいぶん頼りがいがあるようにみえるのは,とてもラッキーかもしれません。若手重視や,二階切りをにおわせるところも,党員や国民に響くでしょう。自民党の内部での政権交代は,昔の政治スタイルに戻るのかもしれません(安倍から菅は政権交代とは言えないですよね)が,立憲民主党でいますぐ首相ができそうな人はいないので(枝野氏は優秀だと思いますが,言葉が響かないという点で,現首相と程度は違うものの,やはり難があります),消去法で岸田氏になるのでしょうかね。
 男が勝負に出た(この表現が昭和的かもしれませんが),ということですので,その勝負の行方をしっかり見守りたいと思います(私が見守りたいと言った人は,だいたいうまくいっていないのですが)。それにしても政治家というのは,高齢になっても勝負できるので,少し羨ましいです。岸田氏は64歳ですよね。民間サラリーマンなら定年後の嘱託職員か,65歳定年を間近に迎えようとするときです。私は岸田氏よりはまだかなり若いですが,定年後どうやって生きていこうかというようなことが,ちらちら頭をよぎっています。それなのに,岸田氏はここから首相をめざそうというのです。政治キャリアは文句なしです。ただ禅譲を待っていたがそれもかなわず,自力で政権奪取に動かざるを得なくなったのです。政治家としての岸田氏にはあまり期待はしていませんが,人間岸田には関心があります。勝ってもよし,負けてもよし。悔いなき戦いをしてもらいたいです。
 改正高年法では,70歳までの就業という方向性が出されています。そうみると岸田氏の64歳なんて,まだ若いほうかもしれません。60歳半ばで人生のピークというような生き方をみせてくれれば,いまの50代や40代の人に夢を与えてくれるでしょう。

2021年8月26日 (木)

完全オンライン株主総会

 あのミドリムシのユーグレナが,やってくれましたね。本日,完全オンライン株主総会を開催したそうです。私が昨年刊行した『デジタル変革後の「労働」と「法」―真の働き方改革とは何か?』(日本法令)では,政府のデジタル化の取組みの重要性を指摘した箇所で,バーチャルオンリー株主総会への期待をにじませていました(248頁注15)。会社法には,総会招集にあたって定めなければならない事項に「株主総会の日時及び場所」があるのです(29811号)が,この規制がバーチャルオンリーの障害になっていたのです。ところが,なんと経済産業省は,今年,産業競争力強化法を改正して,新たに会社法の特例として,バーチャルオンリー株主総会ができるようにしていました(新66条)。それが施行されたので,早速活用したのがユーグレナだったのです。
 それにしても,会社法本体を変えずに,別の法律で特例でやってしまうというのは,どう評価してよいかよくわかりませんね。会社法自体で,バーチャル対応にしていくか,「場所」の解釈をもう少し緩やかにするとか,そういう方法はないものか,という気もしますが,産業競争力強化という何でも入ってきそうな名前の法律の下で特例的に規制改革を推進していくのも,スピードアップという点では意味があるのかもしれません。後から本体の法律で改正があれば,そこに吸収されていけばよいのです。ただ他の省庁からみれば脅威かもしれませんね。自分のところで所管する法律が,特例扱いで骨抜きにされていくおそれもありますので。労働法も改革をぐずぐずしていると,産業競争力強化法など経済産業省系の法律で特例が設けられてしまうことになるかもしれませんね。

2021年8月25日 (水)

プレジデント・オンラインに登場

 プレジデント・オンラインに,記事がアップされました(「転勤も残業も嫌がらない」それしか取り柄のない会社員ではこれから確実に仕事を失う ギグワーカーを下に見る人ほど危険 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) )。私にとっては,何度やっても,難しい媒体ですが,今回はどこか懐かしい内容の記事を書いたような気分です。例によってネットに特有のタイトルですが,これは私も了承済みです。コンセプトは2年前の『会社員が消える』(文春新書)で書いたものとほぼ同じです。実は当初は編集者からギグワークでの依頼があり,1本別の原稿を書き上げていました。ギグワークの未来は明るくない,というコンセプトで書いたのですが,その原稿について,編集者と話しているなかで,これは本当は会社員自身の問題なのだけれどね,ということを言うと,結局,そっちのほうが面白いということになって,大幅に内容を修正して今回の原稿になりました。私としては,もう古いテーマかなと思っていたのですが,どうもそうではないということなので,時計の針を少し戻したようなつもりで書いてみました。ちなみに元の原稿では,カリフォルニア州のProposition 21(個人事業主の要件を厳格にして実質的にライドシェアサービスのドライバーの労働者性を広く認める法律を,部分的に廃止する法案)が可決されたことを書いていたのですが,ちょうど数日前に,これを違憲とする判決が出たようなので,このネタで書かなくてよかったです。
 このほか,月報司法書士という雑誌には,「私たちの働き方はどう変わるのかー仕事の未来と課題」という論説が掲載されました。こちらはデジタル経済と仕事の未来というようなテーマでの執筆依頼でしたので,それに沿ったものを書いてみました(結果として,プレジデントに書いたものとも重なっています)。これも,よく書いているテーマではあるのですが,司法書士の方を意識して書いてみました(4年前に弁護士の方に向けて「自由と正義」でも似たようなコンセプトの原稿を書いています)。ぜひ,これからの労働のことを考えるための材料にしてもらえればと思います。より詳しくは,前に紹介した労働経済判例速報の論説,また上記の『会社員が消える』,あるいは『誰のためのテレワーク』(明石書店)などの小著を参考にしてください。

2021年8月24日 (火)

試験の採点

 昔は,原稿は締め切りに間に合わせるようにし,試験の採点は期限前に完了するようにして,こういうことができないようではダメだなどと言っていた私ですが,だんだん他人に偉そうなことが言えなくなってきています。原稿については,締め切り直前に,もう少し待ってもらえますか,という情けないお願いをすることにもすっかり慣れてしまい,連載している「キーワードからみた労働法」だけは事前にある程度準備をしているので,締め切りを守れなかったことはないはずですが,単発の原稿で,それほど前から書き始めることができていないものについては,どうしてもあと23日欲しいというようなことを言わなければならないことが出てくるようになってきました。もちろん本の執筆や改訂のように,ざっくりした予定しかないものは,一応の締め切りを大幅に超過することが増えています。ただ,トータルでいうと,私は締め切りを真面目に守るほうだと自負しています。それは私に規範意識が高いというような立派な理由ではなく,他人のことを待つのが苦手な私は,自分が人を待たせるのも苦手であるということ,もう一つは期限の到来とクオリティの天秤において前者を重視していることです。主観的満足度100%を目指せば,おそらく何も書けなくなります。90%で満足しようというのが私の方針です(90から100への引き上げがとても大変なのです)。足らない部分は後で補訂すればよいと考えているので,期限のほうを重視できるのです。
 採点は執筆とは少し違うのですが,似たようなところもあります。記述式の採点などは完璧を求めていると,時間がいくらあっても足りません。やはり期限のほうを重視せざるを得ないですし,期限があるから完了できるのです。
 ということですが,今日,今学期の試験の採点を終了しました。事務の設定した期限のぎりぎりでした。今回は,担当したのはLSではなく,法学部と全学(法学部以外)の授業であり,その関係で,いつもより受講者が多く,どの授業も,オンデマンド式の授業で,数回にわたり課題を出してレポートを提出させ,最終試験がテイクホーム式試験にしたので,膨大な量のレポートを読むことになりました。私大で学生が多いところでやっている先生は慣れておられるかもしれませんが,国立大学のような学生数の少ないところでは慣れていないので,きつい作業でした。採点基準がぶれないように,短期間で集中してやらなければならないのですが,なかなかその短期間をみつけることができず,結局,締め切りギリギリになってしまいました。レポートだと,学生はよく調べてくるので,答案のレベルはそれほど差がないのです(手抜きしたものはすぐわかるので,そこで差がつくだけです)。だから答案を丹念に読んでもほとんど差がつかないのですが,だからといって,学生は先生に読んでもらおうと思って書いているのですから,きちんと読まなければいけないと思って疲弊してしまいました。今後もオンラインが続くと思っていますが,学部の試験のやり方をもう少し工夫しなければ(期末試験以外の全部の課題レポートを読むのはちょっと無理ですね),こちらがもたないなと思ってしまいました(昨年は受講者が少ない授業が中心でしたので,この問題を感じていませんでした)。ここも,うまくデジタル技術を使えないかと思っています。

2021年8月23日 (月)

予備校の小論文試験に登場

 新書を何冊か出しているので,大学の入学試験や予備校の試験などの小論文で使われることは,これまでもありました。ただ,今回,代々木ゼミナールの名大入試プレ(20216月)の小論文で,『AI時代の働き方と法―2035年の労働法を考える』(弘文堂)が使われているのをみて驚きました(内容は圧縮されています)。設問は「労働法誕生の経緯を踏まえつつ,労働法の性格について,本文に則して300字以内で説明しなさい」「あなたの考えるこれからの労働法のあり方について,本文を踏まえて,具体例を挙げながら600字以上800字以内で述べなさい」です。どちらも,労働法の過去や未来のことを正面から聞くものになっていて,難度はかなり高いなと思いました。しかし予備校の試験とはいえ,高校生相手にこのような問題で文章を書かせようとするのは重要なことで,出題者の意識の高さがわかります。解説もみましたが優れたものでした。「出題のねらい」は,「本問のテーマは,将来,皆さんが生計を立てる上で欠かせない,働くことに関する法律,すなわち『労働法』を扱った。皆さんの中にも,経営者側に対する労働者側の権利を保障した,労働基準法,労働組合法,労働関係調整法の労働三法を覚えている人も多いだろう。労働法の成立過程や今日における問題点,今後のあり方などについて本問を通じて考えてほしい」となっていました。学部の労働法の試験でも使ってみたいですね。『AI時代の働き方と法』は,プロにも読んでもらえるような内容で書いたつもりですが,このレベルの本まで予備校で扱ってくれるとなると,労働法というものの裾野は,私が思っている以上に広がっているのかもしれません。もちろん時代の先端は,「beyond 労働法」というところにあるのですが。

2021年8月22日 (日)

横浜市長選のインパクト

 国民の危機意識を政府に伝えるには選挙に行くしかありません。横浜市長選は,たんに横浜市の首長を選ぶという選挙にとどまるものではありません。政府に対する不満がぶつけられたとみるべきでしょう。そもそも自民党の候補者が悪すぎましたね。オリンピックの前に国家公安委員長の座を放り出して,横浜市の市長選に出るという無責任さには驚きます。政治の世界の論理はあるのでしょうが,国民の常識からはかけ離れています。立憲民主党は,良い候補者を出せばチャンスがあるということがわかったでしょう。私は新しい横浜市長がどういう人かまったく知りませんが,小此木氏よりも期待がもてそうであるという雰囲気はあります。無党派層の怒りの受け皿は,これまでの政治家ではダメなのです。来たる衆議院選挙でも,よく考えたほうがよいです。先の兵庫県知事選も,自民党の推薦候補が勝った印象がありますが,実質は維新の勝利です。兵庫県民は,実は自民党にノーを突きつけたのです。自民党自身が分裂気味となっていて,誰が勝ったかはっきりしないようなところがありますが,いずれにせよ古い支持層に頼った選挙をしていると,無党派層(自民党支持者だったが,ふらついている層も含む)にノーをつきつけられることでしょう。これまで選挙に行かなかった人が選挙に行くとき,誰に投票するかというと,何かを変えてくれそうな人ということになるのは,ごく自然なことでしょう。靖国に参拝するのは自由だとは思いますが,そういうことを大臣でありながらやることを,一部の支持者は喜ぶでしょうが,国民の多くがどうみているかということを考えて行動したほうがよいでしょう。
 自民党は,横浜市長選の結果を受けて,総裁を変えざるを得ないでしょう。ここで思い切った後継人事ができるかが,自民党の生き残りのために必要なことです。政治はしばらく混乱するかもしれませんが,このままの政治が続けば,コロナはいっそうまん延し,経済は衰退し(先週末の日経平均は年初来安値です),まじめにステイホームをしている人はストレスが募って爆発しかねません。政治が混乱しても,そこから希望の光が現れるなら,そのほうがよいと考える人が多いはずです。
 40代から50代前半くらいでエネルギーと改革マインドをもち,しっかりした見識をもっている人(とくに人権と環境は重要です)というのは,なかなか見つけにくいかもしれませんが,探せばいるはずです。立憲民主党との取り合いとなるかもしれません(立憲民主党も,いまの所属議員では,国民はなかなか投票しないでしょう)。どちらの党でもよいですが,しっかりした人材に,これからの日本を託したいですね。国際政治についての見識も期待したいですが,これはプロの世界でもあるので,よいブレーンをみつけてサポートしてもらえればよいと思います。

2021年8月21日 (土)

日経新聞で拙著が紹介されました

 日本経済新聞の書評欄の短評に拙著『誰のためのテレワーク?―近未来社会の働き方と法』(明石書店)が採り上げられました。ちょうどこのブログでも,政治家も含め,多くの人に読んでもらいたいと書いたところだったので,このタイミングで目立つところで紹介してもらい,有り難く思っています。

 ところで神戸大学で感染症の専門家である岩田健太郎先生は,感染症対策として人流抑制は効果的で,テレワークはそのための有効な手段であることは政府の言うとおりだけれど,ロックダウンは効果がないといって選択肢から初めから排除しているのは,メッセージの出し方としてわかりにくいのではないかという趣旨のことを言われています。同感です。それに,なぜ政府は最初から自分たちの手を縛るようなことを言うのでしょうかね。ロックダウンはできたら避けたいのですが,やむを得ない場合のカードとして残しておかなければならないはずです。どういうわけか,この政権は,自分の手を先に縛って,それで無理なことをやって,良い結果を出せないということを繰り返しているように思えます。できれば避けたいということと,最初からやらないと決めつけることとは区別しておく必要があるでしょう。オリンピックのときも,不開催というカードを最初から放棄して,結局,強行開催したわけで,現在の感染状況をみると,これが成功だったと喜べる状況にはないでしょう。パラリンピックは,これから開催に突入してしまうのでしょうが,最悪の可能性も考えて,プランBCを用意しておく必要があるでしょう。そこには不開催,中止というものも含めておかなければなりません。学校の全国一斉の臨時休校も,政府としては要請しないと言っていますが,これだってやらないほうがよいに決まっていますが,全国的に感染が広がっていて先が見通せない現時点で,最初からこの選択肢を放棄してよいのか疑問です。
 出口が明確にみえていれば,テレワークだけでなく,ロックダウンや一斉休校のような強い人流の抑制も国民は受け入れます。ただ,そのまえにまずは政治家がオンラインを活用して,移動しないでも活動を継続できるという見本を示すべきです。なぜ首相や大臣は会見を,オンラインでやらないのでしょうか。それができないかぎり,テレワークは絶対に進みません。経済団体にテレワークを要請しにいくのに,首相が経済団体を訪問して,そこで対面でやっているということ自体,テレワークは無理だというメッセージになっていることを,どうして周りにいる人は教えてあげないのでしょうか。わざわざ首相が訪問していることが危機意識の表れだと考えているとすると,完全にズレているのですがね。

2021年8月20日 (金)

アフガニスタン問題に思う

 アフガニスタンが大変なことになっています。米軍の撤退は計画どおりなのかもしれませんが,軍がいなくなり始め,タリバンがたちまち首都を制圧したのを想定外であるとBiden大統領が述べているのを聴くと,日本の防衛についてこの国を頼りにしていてよいのかということが不安になってきました。Bidenは,アフガニンスタン人が自分たちの国を守ろうとしないことに驚いたと言っていましたが,アフガニスタン政府や軍への影響力をもっていたアメリカの責任も大きいはずで,都合のよいときだけ乗り込んできて,確かに平和と秩序の実現にはある程度役立ったのでしょうが,20年経って自分たちにとって駐留する意味がなくなったら,とっとと撤退して,最後は自己責任として放置してしまうところは,明日の日本をみるような気がしないわけではありません。これが米軍の駐留を減らすか,費用を負担せよと言っていたTrumpであればわからないこともはないのですが,民主党のBidenも同じだったのです。要するにアメリカとはそういう国だということなのでしょう。もちろん日本人は,日本に原爆を投下したアメリカのことを,安易に信用するようなことがあってはならないのは当然です。自衛隊の増強をせよということではありませんが,少なくとも外交力を高める必要は緊急の課題でしょう。
 ところでタリバンが支配すると,女性の人権が抑圧されるということが言われています。確かに前のタリバン政権のときは,そういうことが起きていました。ただ現代において,ほんとうにそんな抑圧的統治が可能かは大いに疑問です。25年くらいしか経っていないとはいえ,世界の状況は変わっているはずです。タリバンも,ここを間違ってしまえば,世界から孤立してしまうでしょう。 
 むしろ,あまり報道されていませんが,アフガニスタンの少数民族のハザーラ人のことが心配です。20013月に世界中に衝撃を与えたバーミヤンの石仏爆破ですが,あの地域に住んでいたのがハザーラ人でした。ハザーラ人は,イランでは主流のイスラム教のシーア派の民族で,アフガニスタンでは宗教的少数派であるだけでなく,アジア系の顔をしていることなどから,社会的差別を受けてきたようです。スンニ派のタリバン(パシュトゥーン人)の復活で,いっそう過酷な状況となるのではないかという不安が出てきています。女性の人権は仮に認めることがあったとしても(イスラムの許す範囲で?),宗教対立や民族対立は止めることが困難でしょう。日本に住んでいると,こういう少数民族が武力で虐殺される危険があるという状況はなかなか想像ができないのですが,それが世界の現実というものです。
 アフガニスタン問題は,現在の国際社会が,現代人の人権感覚などに照らして受け入れられない政権の誕生に直面したとき,どれだけの力を発揮できるかの試金石となりそうです。もちろんイギリスがこの地域の問題について率先して解決に乗り出すべきなのは,かつてアフガニスタンを保護国としていた歴史からみても当然のことでしょう(パシュトゥーン人は,イギリスにより,パキスタンとアフガニンスタンに分断されました)。

2021年8月19日 (木)

深水黎一郎『トスカの接吻』

 『トスカの接吻』(講談社文庫)は,私にとって深水黎一郎の3作目となります(閉鎖前のブログで4年前に『美人薄命』,『最後のトリック』を紹介していました)。この本も長く本棚に埋もれていたものを引っ張り出してきたものです。オペラ・ミステリオーザ(opera misteriosa)というサブタイトルがついていますが,メインタイトルのトスカは,PucciniのオペラのTosca のことです。
 「トスカの接吻」というのは,歌姫Toscaが,恋人のCavaradossiの救命を口実にToscaをものにしようとする為政者Scarpiaに対して,ローマから脱出するための安全通行許可書(Salvacondotto)を書かせて,そしていよいよ彼女を自分のものにしようと迫ってきたScarpiaの胸をナイフで刺したときのセリフ「Questo è il bacio di Tosca! 」(これがトスカのキッスよ)からとったものです。
 欲望丸出しでサディスティックにToscaに迫るScarpiaを殺して,Cavaradossiへの貞節を守ったToscaは,彼を助けることができたと思ったのですが,最後には悲劇が待っていて(見せかけの処刑のはずが,ほんとうに殺されてしまったのです),そしてみんな死んでしまった・・・というオペラです。ご存じの方も多いでしょう。私もかつて法学教室で書いた「アモーレと労働法」(3回だけ連載)で,Toscaのことに一言触れたことがあります。
 さて,本書の紹介に移りましょう。本書『トスカの接吻』では,このオペラの劇中で,ToscaがScarpiaを刺殺するシーンにおいて,もちろん劇では偽物のナイフが使われるはずが,本物のナイフにすり替えられていて殺人が起きてしまいます。Tosca役の女性は,もちろん犯人ではありません。ナイフをすり替えることができる人間は限られています。そんなかで,第二の殺人が起きます。今度は監督の郷田が殺されるのです。犯人は誰か。これはなかなか分かりそうにないですね。
 ところで,郷田は,Toscaについて新解釈を加えた演出を考えていました。Scarpia の部下のSpolettaが実は黒幕だったというストーリーです。これは単に作品のなかの一アイデアというのではなく,ほんとうにPucci のオペラの新解釈として使えそうなすぐれたアイデアです。あとがきで著者も,誰か演出家がこのコンセプトを採用してくれないだろうか,ということを書いていますね。
 作品のなかでは郷田がこのアイデアをどこで手に入れて使おうとしたかが,彼が殺された理由と関係してきます。
 ところで,研究会で,論文の構想になりそうなアイデアをいろいろ出し合いながら,誰かの意見に触発されて,自分の意見を発展させるということがあります。それに基づいて論文を書くときには,触発されたアイデアなどがすでに論文で書かれていると,引用や参照もできるのですが,そうでなければ「ネタ元」を,はっきりさせることができません。基本的には私たちの業界は,「先生」世代の人間は,若手には自由に使ってもらってよいつもりでアイデアを出すものであり(しかし年をとると,若手に対して魅力的なアイデアをだんだん出せなくなっていくことになるのですが),それが研究会の効用だと思っていますが,問題は,その反対のことが起こった場合です。若手のアイデアを「先生」世代が使ってしまうのは,あってはならないのです。若手の頭のなかにある論文の構想は,それがすぐれたものであれば,しっかり熟成できるよう指導したりしながら,こちらは書くとしても,せいぜいその周辺のことにとどめるべきなのです。若手がしっかり論文を書いて,それをこちらが先行文献として引用しながら,自分の議論を展開していくというのは,とても嬉しいことで,そういう引用に値する文献が若手の中からどんどん出てくることを期待しています。
 この話が,この本のストーリーとどう関係しているかは,ぜひ読んで確認してみてください。それはさておき,久しぶりにTosca のビデオを観てみたい気分になりましたね。

 

2021年8月18日 (水)

テレワークの協力要請を成功させるためにやるべきこと

 首相が経団連に行って,テレワークへの協力を要請したと報道されていました。ただ,テレワーク(ここでは主として在宅勤務)を人流を抑えるための手段と捉えているだけではダメなのは明らかです。テレワークをしようにもできない企業もたくさんあるわけです。それに経団連に行っても,会員企業の多くは大企業で,テレワークを既にやっている可能性は高いのです。問題は日本の企業の大半を占める中小企業です。そこでのテレワークを広げるにはどうすればよいかです。政府に,それについての知恵がないから,いつまで経ってもテレワークは広がらないのです。では,どうすればよいのか。
 テレワークは,DX時代の標準的な働き方になるというのが,私の主張です。先日のトークイベントでもその話をしましたし,詳しくは拙著『誰のためのテレワーク?―近未来社会の働き方と法』(明石書店)を読んでもらいたいのですが,首相に謹呈しましょうかね(読む時間はないでしょうから,スピーチライターに送ればよいのでしょうかね。それが誰か知りませんが)。テレワークは単なるコロナ対策ではなく,DX時代に適合していくための不可欠の要素であるということを首相自身がしっかり理解し,咀嚼して,自分の言葉で,国民(経営者や労働者たち)に伝えてほしいのです。首相はデジタル化ということも言っていましたが,これをテレワークと連動させることはできるのです。ほんとうは,もっと前にやっておくべきだったのですが,テレワークをコロナ対策としてしかみておらず,コロナ対策はワクチン接種で十分という大きな戦略ミスをしていたから,いまのような状況を招いてしまいました。テレワークの普及に地道に取り組むことをしていれば,現在の状況は大きく変わっていたかもしれません。
 テレワークの普及は,突貫工事的にやるとしても,最低1年はかかるでしょう。まずDX(デジタルトランスフォーメーション)を少しでも前に進めていくことです。行政から始め,中小企業には助成金をつけるべきです。企業には10年後も生き残りたいのなら,絶対に必要な投資であると説明し,政府も金銭的に後押しするのです。そうしたDXへの取り組みの延長にテレワークがあるのです。テレワークをコロナ対策の緊急避難的なものと位置づけて,せめて短期的でも我慢してやってほしいというような協力依頼ではどうしようもありません。そもそもコロナとの戦いはまだまだ続くのです。
 季刊労働法の次号で,「テレワークを論じる」という論文を執筆しました。3月にテレワーク関係のシンポジウムを二つやり,その総括のようなものです。上記の拙著『誰のためのテレワーク?』は一般の人向けなので,これをやや専門家向けの論文に書き直したものです。政府や世間にうまくメッセージが届けばよいのですがね。

2021年8月17日 (火)

中止の決断が遅い主催者

 もう10年近く前でしょうか。ブログにも書いたことがあることです。台風が近づいているときに,東京で日帰りの仕事がありました。帰りは飛行機で,2時間くらいまえの段階で欠航となっていなかったので,品川から京急で羽田空港に向かっていました。ところがその途中で雨足が急速に強まり,青物横丁あたりで電車が動かなくなりました。その後,ネットで欠航ということはわかったものの,電車は動かないので品川に引き返すことができず,結局夜遅くになってようやく品川に帰ることができました。ただ,あわててホテルを探すも,なかなか見つかりませんでした。もっと早くに欠航を決めてくれていたら,電車に乗ることもなく,着替えも買えたし,おそらくもっと楽にホテルを見つけることができたでしょう。帰りが夜中になってしまったために,悲惨なことになりました。翌朝はなんとか新幹線が動いたのですが,満席で,学生時代以来という立ったまま新幹線で新神戸まで帰るはめになり,そのまま,着替えをする時間もなく,労働委員会の調査に向かったことを覚えています。気象予測はできるのだから,責任者はもっと早く決断してほしいと強く思いました。
 将棋の王位戦(藤井聡太王位と豊島将之竜王との対局)は明日から佐賀の嬉野温泉の和多田別荘で行う予定でした。私も8年くらい前に一度だけ宿泊したことがある良い旅館です。ただ,今回の王位戦については,連日,嬉野は大雨に見舞われているということだったので,王位戦はやるべきではないと思っていました。日本将棋連盟は16日に会場変更を決めたようですが,決定が遅いです。いろいろ準備されてきた人の気持ちもあるので,簡単には決められないのはわかるのですが,気象予報からするととても将棋のタイトル戦をやるような状況でないのは明らかだったので,決断はもっと早いほうがよかったでしょう(対局会場自体は雨の被害を受けていないということでしたが,会場の問題ではなく,そこまで移動する安全な手段があるのか,被災者が周辺にいるなかで,多くの人が集まってきて将棋のイベントをやってよいのか,というようなこともあり,さらに大雨が続くという予報も出ていたので, 2日制のタイトル戦をやることは,どう考えてもありえないことでした)。
 夏の高校野球の今日の第1試合は,8時の段階ではなんとか試合ができそうでしたが,試合中に大雨になることが予想されていました。試合がさくさく進んで90分くらいで終われば問題はなかったのでしょうが,大阪桐蔭と東海大菅生という優勝候補どうしの対戦なので,そう簡単には終わらないことは十分に予想できました。結局,最後は8回表に,平凡なショートゴロの打球が水たまりで止まってしまってヒットになり,これをみてようやく審判は試合を中断し,結果,コールドゲームになりました。そのかなり前から試合の続行は不可能な状況でしたが,負けている側(東海大菅生)が点数を入れて追い上げたので,試合を止められなくなってしまったようです。コールドゲームで試合が成立して,そこで終了となるのは,ルールですので仕方がないのですが,気象予測からみて,9回までもたない可能性がある場合には,試合をやるべきではなかったのではないでしょうか。これは結果論ではありません。12日の明桜と帯広農の試合は4回で降雨ノーゲームでした。圧倒的に有利に試合を進んでいたのにノーゲームとなった明桜が再試合で勝ったからよかったですが,どっちにしても選手には気の毒でした。昔のように天気は神の決めることというような時代ならともかく,誰でもインターネットで数時間後までの雨雲の動きをピンポイントで把握できる時代です。甲子園球場の水はけの良さを考慮しても,気象予測をふまえ,平均的な試合時間を考慮して試合を最後までやり通すことができない可能性があるならば,試合を開始しないというような選手たちへの配慮が必要ではないでしょうか。
 それにしても,主催者ってなかなか中止できないものです。これも前にブログで書いたことがありますが,ある講演に台風がぶつかったとき,主催者が中止を決断しないものだから,私もぎりぎりまで自宅で様子を見ていましたが,駅まで行く途中で傘が飛ばされ,電車には乗ったものの,雨足が強まるのをみて,これは危険だと感じて,自宅に戻ってキャンセルしたことがありました。自分の身を守るのは自分です。実際,もし講演に行っていたら,帰りの電車は止まっていたので,帰宅難民になっていました。それ以降,講演を引き受けるときには,台風などの災害があって,帰りの足が確保できないおそれが少しでもあれば講演はキャンセルするという条件をつけることにしました。リモート講演しかしないと決めたいまとなっては,気象に左右されることはないので,関係のないことですが。

2021年8月16日 (月)

NBLに登場

 NBLの巻頭言に登場しました。1200号記念号で,その巻頭に書かせてもらうというのは,たいへん光栄なことです。コーポレートガバナンス・コードの改訂をうけて「中核人材の登用等における多様性の確保」に関して何か書いてくれないかという依頼を受けましたので,私はそれをダイバーシティの問題として,自分の関心に引きつけて書いてみました。企業が人材のダイバーシティに本気で取り組む必要があるのはなぜかということを,かぎられた字数のなかで精一杯書いたつもりです。この種の非法的要素が強い社会的規範に私が関心を深めていることに着目して依頼してくださったのかもしれません。とても有り難いことです。
 商事法務からは,今年5月に,『労働法で人事に新風を』の続編の『労働法で企業に革新を』を刊行し,その前には1月に同じNBLで,旧労契法20条関係の最高裁5判決に関する論文も書くなど,最近はよく仕事をさせてもらっています。
 とはいえ,NBLは有斐閣のジュリストなどと違って,日頃読んでいる雑誌ではないので,書かせてもらうのは申し訳ないのですが,私に良いテーマで声をかけてくださる編集者がいることは有り難いことです。
 ところで,この原稿でも言及した性的少数者(LGBTQなど)の差別のような問題については,ハードロー的なアプローチでがんがん攻めていっても解決できないと思っています。一番効果的なのは,企業倫理・CSRといった非法的な規範で,社会的に圧力をかけていく方法です。拙著『人事労働法』(弘文堂)でも,基本的には「強制される規範」だけでなく,「履行が望ましい規範」に数多く言及しています。差別に関しても,現在の法規範では,具体的に何をやったらいけないかが明確になっておらず,合理性があれば差別にならないので,裁判になれば,企業は原告労働者の非をどんどん挙げて,自己の合理性を主張してきます。これにより,原告は傷つくことになります。もちろん原告労働者も,企業の非をいうのであり,互いに不幸なことになります(これは離婚裁判にも似ていますね)。こういうことを避けるために私の提唱する解決方法は,拙著『人事労働法』(とくに61頁以下)を読んでもらいたいのですが,まずは上記のような裁判紛争に対する問題意識を共有してもらいたいところです(私の納得規範による解決方法も,もちろん欠点はあると自覚していますが,重要な問題提起をしているつもりではあります)。
 商事法務から出した上記の二冊の本も,実は,法律を意識しながら,いかにして法律紛争とせずに人事上の問題を解決できるかを,ストーリーで示したものです。とくに前著の『労働法で人事に新風を』では,そのことが強く出ていると思います。『労働法で企業に革新を』は,企業をとりまく新しい動き(DXやテレワーク)も取り入れているので,そのほうに目が向きちになるかもしれませんが,やはり基本は,企業人事とは法律を意識しながらも,どうやって従業員と対話をして納得を得ながら進めていくかにあるというモチーフで書かれています。それを私に代わって,スーパー社労士の美智香が語ってくれています。

 

高校野球

 かつてあった西宮市の実家は,少し高台にあったのですが,南のほうにある甲子園球場は遠くにみることができました。西宮市にある報徳学園が春(選抜)に住谷投手・東投手で優勝したとき(1974年)や,夏に金村投手(私と同学年)で優勝したとき(1981年)などは,ずいぶんと興奮したものです。あの頃は,東洋大姫路も強くて全国優勝をしました(1977年)。その後は育英が1度優勝しています(1993年)し,報徳学園は,もう一度,2002年の春に大谷投手で優勝していますが,その後は,兵庫県勢は,すっかり優勝から遠ざかっていますね。
 兵庫県の大会を勝ち抜くのがたいへんで,そこで力を使い尽くしてしまっているのでしょうか。あるいは,県内の優秀な選手が,全国に散らばってしまい,兵庫県の高校に残っていないということもあるかもしれません。
 この夏は神戸国際大学附属が出ています。春に続いて初戦で北海高校と対戦し,なんとか勝つことができました(4年前の夏にも初戦で対戦しており,なんと3季連続です)。北海高校はとても良いチームで,神戸国際附属は負けてもおかしくないような接戦でした。
 それにしても,昨日まであれだけの雨が降り,朝方もまだ雨が降っていたのに, 11時から試合ができるなんてすごいですね。阪神園芸の整備の力は神業です。でも,これがあるから,夏のこの時期に甲子園で大会をやれてしまうのですね。ほんとうは,良い環境で野球をやってもらうなら,台風が多いこの時期を避けるか,気象の影響を受けないドームの球場でやるとかにしたほうがよいように思いますが,球児たちは甲子園球場でやることに価値があると思っているかもしれないので,余計な心配ですね。

2021年8月14日 (土)

法学部卒の存在意義

 コロナがいつ終わるかわかりませんが,個人的には来年の末ぐらいかなと覚悟しています。治療薬が出てくるまでは安心できませんよね。その後,いったいどこに旅行しようかと考えていますが,国内ならば宮古や石垣に行きたいし,福岡や唐津も行きたいし(呼子のイカを食べたい),函館にも行きたいと思っていますし,海外であればまずハワイに行きたいし,ヨーロッパにも行きたいし,タイやマレーシアの,できたら離島に行ければ最高なんて思っていますが,このリストの中に香港は本来上位に入るべきなのですが,入れることができません。コロナのどさくさの中で,香港はすっかり変わってしまいました。前は中国の領土であることを意識しないで行けたのに,もう行くことは難しいでしょう。私は別に中国に敵対する勢力でもないし,心配はいらないのかもしれませんが,あえて今の香港に行きたいという気持ちにはなれません。言論の自由がない国に行くのは,なんとなく怖いです。
 言論の自由や表現の自由が,なぜ憲法において他の人権よりも高い価値があるかということは,法学部の学生なら教わっていますけれども,本来はすべての国民が知っておくべきことです。表現の自由がない国では,政府を批判すれば,刑務所に入れられます。自分の思想を自由に表現することができないのです。日本にいればあたりまえのことが,あたりまえではなくなります。香港の現状は,表現の自由がないことの恐怖をまざまざと私たちに見せつけています。
 それじゃ日本には表現の自由が憲法上書かれているだけでなく,実際にもほんとうにあるのかというと,もちろんいまはあるのですが,でも日本学術会議の問題など,権力者が,学問の自由に介入し,表現の自由に脅しをかけてきています(学問の自由には,政治権力を批判する学問の成果を表現する自由も当然に含まれます)。この問題はいまだに解決していないのも不気味です。
 憲法は不磨の大典ではありません。ただ,権力者を縛るということこそ,憲法に期待されているものであることを忘れてはなりません(改憲を急ぐ政治権力には,危険な匂いがあります)。現在の頼りない政府に怖さを感じるのは,頼りないけれど権力は持ち続けているということです。そういうなかで,国民はこの頼りなさを嫌って強い権力を求めがちにならないか心配です。きちんとした統制ができないなかで,権力を求めてはいけません。そんなことをすれば,どういうことになるかは,ヒトラーのナチスなど歴史が語ってくれています。
 ロックダウンをしたければやってもらっても結構です。でも,いまの政権がその判断をするようなことでは不安なのです。ロックダウンという政府の強力な権力行使について,きちんと事前ないし事後の検証がなされることが必要です。三権分立のなかで,議院内閣制をとる以上,立法府による民主的統制では頼りないので,司法府の役割が大きいものとなります。
 日本は香港のようにならないと思い込んではいけません。あっという間に表現の自由は奪われてしまうことがあるのです。権力者が最も狙うのは表現の自由です。行動の自由も重要ですが,それ以上にこれだけは譲ってはならない自由というのが表現の自由であり,それへの強固なこだわりの支えとなるのが憲法なのです。憲法はそのままでは紙切れにすぎません。それを守っていこうとする意識や行動をともなっていなければ,簡単に蹂躙されかねません。
 法学部卒業者の存在価値というのは,実はこういう価値にこだわるところにあると思っています。法学部卒の人には,それっぽい匂いがあり,話してみると,価値観は違っていても,どこか通じる部分はあるものです。そういえば,いまの首相も,前の首相も法学部卒だったような気がしますが,あまり法学部卒的な匂いを感じないのは,なぜでしょうか。

2021年8月13日 (金)

究極のダイバーシティ経営

 女性活躍推進法は,まだ性別を意識した法律なのですが,ユニリーバ・ジャパンのやっているような,履歴書に性別欄をなくすというような取組みは,今後どんどん広がっていくでしょう。肉体をつかう仕事であれば,性差は関係するかもしれませんが,事務系の仕事や知識労働となると,性差は関係ありません。デジタル化が進み,テレワークが主体となっていくと,性別を問う必要はますますなくなっていくでしょう。もちろん写真も不要です。名前も,住所も,不要です。一昨日に対談したヌーラボの橋本正徳さんは,それでも過去どのようなことをしてきたかという情報は必要ではないかと言われたので,この点について少し議論をしました。私は,履歴書に書くようなことが何もない人であっても,意外にそういう人が新しい発想をもちこんでくれるのではないか,というようなことを言いました。ニートでやっていて,何も履歴書に書けるようなことはしてこなかったが,心を改めて貴社で働きたいと言ってきて,そのことが志望動機などにきちんと書かれていればどうかということです。時代がstaticなときであれば,学歴は不要としても,これまで何をやってきたかという情報は必要ということもわからないではないですが,dynamicに時代が動いているときは,むしろ何もやってこなかったが,いまこれをやりたいというエネルギーをもっている人のほうが,可能性があるのではないかと思います。私がこういうことを言うと,橋本さんも,そういう採用もありかな,という感じでした。
 ダイバーシティというのは,極端に言うと,これまで自社には合わなかったような人材であっても採用しちゃうというようなことまで含むのでしょう。経営者にとっては,自分と同じような考えの人は不要なのです。自分と違うからこそ必要なのであり,自分から距離のある人ほど可能性があるのです。もちろん,そういう採用はリスクがあるので,合わなかったから解雇ということはできなければ困ります。私は,現在の法律がどうかということはさておき,採用の際に聞いてよい情報は極端にまで絞り込んで(これこそが人事労働法のめざす究極の公正な採用です),そして解雇については,明確な基準を事前に設けて開示しておき,その基準に合致すれば有効におこなうことができるというのが望ましいように思います。
 これは橋本さんも言われていたことですが,対面というのは,余計な情報が入ってきてしまうのでマイナス面が多いのです。対面だからこそ伝えられる情報もあるけれど,それは正しい判断を狂わせる情報である可能性もあるのです。この点で二人は完全に意見が合致しました。何よりも能力以外の情報があるからこそ,偏見がうまれ,差別が起こります。対面でしか伝わらない情報もあるけれど,対面にはマイナスもあり,トータルでみると,対面はやらないほうがよい場合が多いのです。そのうち企業は,世界中から必要な人材を採用することになるでしょう。テレワークで一度も対面で会ったことがない人を採用することになるでしょう。一回は顔をみておかなければね,というようなことにこだわっている企業は,良い人材を逃してしまうかもしれません。リモート環境でも,しっかり相手の情報を得ることができて,それを的確に評価できるというスキルも,これからの企業や人事には求められることでしょう。
 そういえば,私は現在,オンデマンド型の授業の期末試験(テイクホーム式試験)の採点をしています。学生の顔は一度もみたことがありませんし,名前はわかりますが,名前だけをみては男女の区別がつかない人も多いです。Wordで提出なので,筆跡もわからないので,ますます男女の区別は難しいです。ただ名前から,自分の知っている学生かどうか,外国人かどうかはわかります。今後は,学籍番号だけで管理して,名前の記載も不要とすることにして,答案はすべて電子ファイルで提出させるというのが,公平な試験だと思います。企業の採用の場面でも,企業のパーパスさえ明確になっていれば,こうした完全匿名採用試験ということもありえるのではないでしょうか。これこそ究極のダイバーシティ経営であるような気がします。

2021年8月12日 (木)

飲み二ケーションはアンフェア?

 昨日のヌーラボの橋本正徳さんとの対談は,視聴者の方に楽しんでもらえたかはよくわかりませんが,私個人としてはとても楽しめました。拙著『誰のためのテレワーク?』(明石書店)の刊行記念のイベントですが,対談の内容は,サブタイトルにある「近未来社会の働き方と法」という内容に近く,デジタルトランスフォーメーションが進んだあとの働き方が話題の中心でした。この対談内容は,どこかで発表できれば面白いと思いますね。
 それはともかく,橋本さんはさすがにバリバリの経営者というだけあって,有益な話をたくさんしてくださいましたが,なかでもハッとさせられたのが「飲み二ケーション」はフェアでないと言われた点です。テレワークになると「飲み二ケーション」ができなくなるという問題があるよね,という文脈での話で,一般には「飲み二ケーション」のなかで上司や先輩から重要な話を聞くことがあるので,その効用は大きいと考えられていますが,橋本さんは,それはフェアではないというのです。飲みに来ていない人は,情報から排除されてしまうからです。
 私も振り返ると,例えば学生のゼミコンパというのは,公式行事ではありませんが,事実上,公式に近いもので,そのコンパの場で大事なことが決まっていったりします。そのため学生は酒を飲みたくなくても参加をしなければならず,参加すれば酔っ払いにからまれたりもするわけです(セクハラの温床でもあります)。酒を飲む,飲まないにかかわらず,学生のときからこういう場にうまく適応していくことが大切と教わっていくのですが,それってやはりおかしいことです。コンパがいやでゼミに参加したくないという学生もいたかもしれません。職場でも,飲み会に参加しなければ仕事に関する大事な話を聞いたりできないというのは,フェアではないという指摘は,そのとおりだと思います。私は,酒席で突然,学生への研究指導を始めたりするというところもあり,それについて何も問題だと思っていませんでしたが,そういうことではいけないと反省すべきだと思いました(もう遅すぎるのですが)。酒を飲んでいるほうが口が軽くなり,学生に役立ちそうなことを言ったりすることもあるのですが,やっぱり大事なことは素面で伝えるべきなのでしょうね(だいたい酔っていれば,私は何を話したかほとんど覚えていないので,責任をもてません)。それに,飲み会では,学生に対して余計なことをペラペラ喋ってしまうリスクが大きいです。不用意なことを言ってSNSに書き込まれる危険もありますし。
 神戸労働法研究会では,研究者どうしなので,飲み会は研究会の延長という感じです。また私は学会の情報とかに疎いので,アフター研究会は貴重な情報収集の場でもありました。コロナ前は1回も欠かさずにやっていた飲み会も,オンライン会議になり1年半以上やっていません。少し寂しい気もしますが,酔っ払って帰ってくることがなくなり,二日酔いになることもなくなりました。健康のためにはよかったです。とはいえ,コロナ後は,研究会はオンラインでも,研究会仲間との飲み会は,オフ会でときどきやりたいですね。

 

2021年8月11日 (水)

トヨタのすごさ?

 表見訪問にきた女子ソフトボールの金メダリスト後藤希友選手のメダルをかんだ名古屋市長が,大バッシングとなっていますが,当然でしょう。おじさんは唾液をつけたあと,どうするつもりだったのでしょうね。
 女子ソフトボールは,決勝はライブでみていましたが,そのほかはネットなどで観戦しました(個人的にはメキシコ戦が印象的です。悲壮感あふれる日本選手と比べて,陽気なメキシコ選手が印象的でした。彫刻のような顔の先発のO'TOOLE 投手の豪腕もなかなか忘れられません)。女子ソフトボールで名前を知っていたのは,上野投手と,宇津木監督くらいで,今回まだ上野投手がエースとして投げていることに驚きましたが,さすがに上野だけでは勝ち上がれません。左腕からの剛速球の後藤投手なしでは金メダルはなかったでしょう。最年少で将来性豊かなこのポニーテールの女子選手の金メダルが可哀想なことになってしまったのです。
 ここで株を上げたのがトヨタでした。さっそく市長の行動を批判し,世間から喝采を浴びました。ここからは勝手な想像です。なぜトヨタかというと,後藤選手はトヨタの女子ソフトボール部所属だったのですね。知らない人も多かったと思うので,トヨタの抗議で,後藤選手がトヨタ所属だということが世間にわかりました。トヨタのイメージアップです。
 20歳の若い女性が,権力者である市長に「ご無体な」仕打ちを受けたとたん,ただちに庇護者として行動するのは,まさに正義の味方であり,社員の人権を守るというイメージをふりまくことができました。
 スピード感もよかったです。例の表見訪問の翌日に社長名義で抗議文を出したことで,迅速に正義を実現するというイメージも与えました。
 後藤選手はもしかしたらあんまり気にしていなかったかもしれないのですが,これはトヨタにとっては絶好のチャンスと思ったのでしょう。私が経営者なら,そう考えたでしょう(金メダルを交換することになったようですが,これは政府の人気取りのためで,これも後藤選手本人は望んでいるのか疑問であり,もし望んでいなければ二次被害ですね。政府は,トヨタの評判をみてまねただけかもしれませんが,もちろん政府の人気上昇にはまったくつながらないでしょう)。
 並の経営者なら,市長を批判してしまってよいか,しばらく世論の動向をみてから判断しようということになりそうなものですが,そこは世界のトヨタです。社長のリーダーシップが発揮されたのでしょう。
 トヨタはオリンピックとの距離の取り方もうまかったです。オリンピック関連のCMを中止しましたが,普通の会社ならなんだかんだいってオリンピック関係での宣伝効果は大きいでしょうから,こういう決断はなかなかできないでしょう。すでに世界的な会社であるトヨタだからこそということでしょうが,会社のイメージを下げることは極力避け,一方,イメージアップとなるとわかれば果敢に攻めていくということでしょう(前にこのブログでも採り上げた社員の自殺案件での社長の謝罪もその一つとみることができます)。
 勝手な推測ですが,こうみていくと,トヨタという会社のすごさがわかるような気がします。

 

追記:今朝のNHKのニュースによると,「関係者によりますと,こうした状況を受けてIOC=国際オリンピック委員会やJOC=日本オリンピック委員会,それに東京大会の組織委員会などの関係機関が調整した結果,後藤投手の金メダルを新たなものに交換することになったということです。後藤投手も交換について了承しているということで,今後、必要な手続きを経て交換が行われることになります。」とのことでした(名古屋市長がかんだ金メダル 新たなものに交換へ|NHK 東海のニュース )。後藤選手が了承しているのであれば,他人がとやかく言うべきではありませんが,「了承」というのは,「希望」とは違うので,政府の希望(形式的には,IOC,JOC,大会組織委員会の決定になるのでしょうが)にやむなく了承したという可能性も捨てきれないように思います。ただ真相はわかりません。いずれにせよ,後藤選手にとっては,とんだ災難でしたね。

 

2021年8月10日 (火)

労経速に初登場

 ビジネスガイドの最新号の「キーワードからみた労働法」のテーマは,「フリーランス」です。今年3月に出た「フリーランス・ガイドライン」(内閣官房・公正取引委員会・中小企業庁・厚生労働省「フリーランスとして安心して働ける環境を整備するためのガイドライン」(2021年3月26日) )の内容を検討するものです。とくに労働者性の判断と優越的地位の濫用を扱っています。
 また労働経済判例速報(労経速)の最新号では,その論説の欄で「DX時代における労働と企業の社会的責任」という論考が掲載されました。労経速には初登場です。原稿の内容は,最近よく書いているテーマに関するものですが,労経速という雑誌の性質を意識して,企業経営者や経営法曹の方に問題提起して,何か新たな発想につながる材料を提起できればと思って執筆しました。法的な議論としては,5月の日経新聞の経済教室に書いたものとも関係していますが,労働者性や使用者性の問題を,これまでの蓄積をいったん捨て去って,企業の社会的責任を原理的根拠として,そこから新たな法的なルールを構築していくべきであるという方向性を提示しています。拙著の『デジタル変革後の「労働」と「法」―真の働き方改革とは何か?―』(日本法令)と合わせて読んでいただければと思います。
 明日はいよいよ,テレワークのライブトークです。皆さんのご参加をお待ちしています(大内伸哉×橋本正徳「働く場所は自分で決める──働き方の多様性とコラボレーション」 『誰のためのテレワーク?』(明石書店)刊行記念 | 本屋 B&B (bookandbeer.com) )。


 




 

日本陸上再生?

 オリンピックが閉幕しました。いったい今回のオリンピックは何だったのでしょうかね。あれほどの反対がありながら強行し,安全は大丈夫と胸を張っていた割にはボロが次々と出ていました。おそらく五輪やその関係者が直接の原因での感染爆発というのはなかったのでしょうが,人々に行動抑制の必要性を真剣に訴えるという点では明らかに逆効果であり,それが感染者の急速な増加につながっているのでしょう。札幌でも,そりゃ誰だって,自分の家の近所でオリンピックランナーが走るとなれば,みにいきたくなるに決まっているわけで,人が集まるのは止められません。札幌で,今後,感染爆発が起こらないことを祈るばかりです。
 おそらく多くの国民は,私と同様,スポーツ観戦を楽しめたのはよかったものの,それを政府が五輪を強行したおかげだとは思っていないでしょう。別に五輪はなければないでよかったのです。でも試合をやっている以上,ネットやテレビで観戦して応援をしたというだけです。アスリートには罪はないわけで,実際に頑張っているのですから,応援するのは当然でしょう。
 こうしてオリンピック後に残ったのは,感動を与えてくれたアスリートの賞賛と,IOCや大会組織委員会や政府への不信です。後者の観点から,もう日本での五輪はこりごりと思っている人も多いのではないでしょうか。自宅でみて楽しめたので,これだったら自国開催にこだわる必要はありません。
 今朝の日経新聞で大島三緒氏が書いていたように,57年前の東京オリンピック1964のような多幸感がないオリンピックでした。大島氏は次のように書いています。
 「この大会をなぜ,なんのために開催するのか。問われ続けた大義は曖昧なまま現在に至る。通奏低音として流れていたのは,やはり64年の再来を望む意識だろう。五輪の呪縛が,政治家や官僚を捉えて離さないともいえる。
 このパンデミックは,そういう幻想を揺るがせた。続『1964』への疑念は名古屋や大阪への招致時にも生じていたが,コロナ禍はそれを噴出させた。人々は競技に感動しても,五輪という仕掛け自体には酔っていない。
 つかの間の夢から覚めれば,コロナ対応に手間取り,デジタル化は大きく遅れ,多様性尊重も掛け声ばかりという現実が目の前にある。そして急速な高齢化を伴った人口減が進んでいく」。
 同感です。そして大島氏は,「この異形の五輪は,日本人にようやく64年幻想からの脱却を果たさせるかもしれない。それは戦後史の転換点ともなる変化だ。」とし,若いアスリートの自由さに,その可能性をみています。
 そうなのかもしれません。五輪が終わって残ったのは,かすんでゆく政府の存在感と,それを埋め合わせるような,たくましい若者たちのエネルギーです。男子体操の橋本選手,女子卓球の伊藤選手のように,大きな可能性を感じさせる選手がよかったです。陸上好きの私としては,女子1500メートルで入賞した田中希実選手(兵庫県小野市出身で,西脇工業で活躍)や男子3000メートル障害で入賞した三浦選手も賞賛したいです。ちょっと前には考えられなかったような偉業です(ちなみに,田中選手は予選,準決勝,決勝と3本走り,準決勝で日本人女子初の4分切りの35919を出し,さらに決勝でもほぼこれに近いタイムで走りきるという安定ぶりです。これくらい力を発揮できると世界でも勝負できるということですね。彼女はすでに国内では無敵ですが,世界記録は1000050001500メートルで3冠かと言われていたオランダのHassan35195で,とてつもなく遠い記録です。これが現実ではあります。Hassan1500は銅メダルで,結局,2冠にとどまりましたが,1500の予選で,ラスト1周で転倒したのに,そこから追いかけてトップ通過という離れ業をやってのけたことは,彼女の強さを世界中に知らしめましたね)。
 そのほかにも女子選手で,これまでは世界との距離がありすぎていると思っていた種目でも,少しずつ勝負できる選手が出てきたことが頼もしいです。10000メートル入賞の廣中選手ややり投げ決勝の北口選手なども含め,ちょっと低迷した水泳(でも大橋選手の400メートル・200メートルメドレーの二冠は日本女子アスリートの最高峰の成績でしょう)に比べて,メダルとかに関係のないものの日本陸上の再生を感じさせます。マラソンも,近年はアフリカ勢に引き離されるなかで,一山選手の入賞は見事でした。陸上の力強さは,昨日も書いたように大トリで大迫選手も示してくれました(ただ,服部選手の体調は心配です。箱根駅伝や福岡国際マラソンで勝ったときの強さを知っているだけに,後遺症が残らなければよいのですが。東京から札幌へのコース変更になった原因にもなった2019年の灼熱のカタール(Qatar)・ドーハ(Doha)の世界選手権で,50キロ競歩で金メダルをとった鈴木選手は後遺症に苦しみ五輪は出場辞退となってしまいました)。そうそう,走り幅跳びの橋岡選手の入賞も見事でした。ほかにも挙げ忘れている選手がいるかもしれませんが,とにかく鍛えられたアスリートたちには,とても素晴らしいものを見せてもらい,刺激を受けました。

2021年8月 8日 (日)

予定変更

 女子マラソンの開始時間が前日夜に1時間早まるとか,男子サッカーの3位決定戦の開始時間が前日に2時間早まるとか,びっくりするようなことがありましたね。女子マラソンは,暑さ対策ということでしょうが,あまりにも突然すぎるし,男子サッカーは,ただでさえ疲れている選手に,たとえ2時間とはいえ突然の前倒しは気の毒です。とくに後者は,女子サッカーの決勝の時間の移行のとばっちりを食ったということで(なぜ競技会場も違う男子の試合を変更する必要があるのかよくわかりませんが),こういうこともあるのですね。オリンピックというのは,アスリートファーストではなく,組織の決定がすべてという感じですね。
 ひどい話だと思いましたが,それとはちょっと違うことも感じていました。日本にいると,いろんなことを事前に精密に計画して行動することができますが,海外にいると,そんなようにはいきません。公共交通機関が時間どおりに行かない国では,待ち合わせの時間をきっちり決めると,相当,余裕をもって行かなければならず,結果として無駄が多くなります。そこで,無駄をなくすかわりに,待ち合わせもおおらかにという発想になります。イタリアでの懐かしい感覚として,ローマのテルミニ(termini),ミラノの中央駅(stazione centrale),フィレンツェのSMNSanta Maria Novella)駅などでは,ホームがたくさんあり,自分が乗ろうとする列車がどのホームに来るか直前までわからず,旅行者は重いスーツケースをもって,あわてて移動することになります。アナウンスはなかったり,直前にあるにすぎないので(しかもイタリア語だけなので外国人には不親切です),ずっと掲示板をチェックしておかなければなりません。日本人的な感覚では,荷物が重いので,あらかじめ所定のホームの所定の車両の前に移動して列車の到着を待ちたいところですが,そういうことはできません。いちおう予定されているホームがあったりするのですが,それが突然変わるのです。移動は大変ですし,長距離線は車両も長いので,最後尾と思っていた1等車が最前だと,重い荷物をもって走るように移動しなければならないこともあります。高齢者には厳しいでしょうね(カートで運んでくれるサービスもあるようですが)。これは客に優しくないです。何が言いたいかというと,オリンピックの試合の時間変更とは次元が違うかもしれませんが,これも,なんとなく人に優しくないな,という感じをもったのです。男子サッカーの試合についていえば,選手たちや日本の試合を楽しみにしていたサポーター(テレワークをしておらず,スポーツバーで観てもならない(ノンアルコールならよいのでしょうが)と言われている日本人は,どうやって18時から観戦できるのか)に優しくないですよね。
 ただ,アバウトな言い方ですが,世界ってこういう感じなのだと思います。日本は自然災害などの予測可能性がないことが多すぎる国ですが,人間でコントロールできることについては,きわめて精密に予測可能性をもたせようと努めている国です。それに慣れてしまっていると,理不尽な予定変更などがあったときに影響を受けやすくなってしまいます。精密さにこだわらず,どんなこともありうるという気持ちで対応できる強さが大切だなというようなことを思ってしまいました。
 それはさておき,今日のマラソン男子の大迫選手は強かったです。メダル争いとかそういうものに関係なく,大迫選手のベストを尽くして走りきるという力強さに勇気を与えられた人は多かったのではないでしょうか。大迫選手は,どんなことがあっても対応するという強さをきちんと身につけている選手に思えました。1年開催が延期されようが,天候がどうなろうが,アフリカの選手にどう揺さぶられようが,その場でベストの力を発揮できるということが,結果を出すうえで必要なのでしょう。これは予定変更に強いというより,そういうことも含めて予定内にしている強さかもしれません。こういう力強さが世界で戦っていくうえでは必要なのでしょうね。

2021年8月 7日 (土)

原爆投下は主語を明記したほうがよい

 昨日は,76年前に,アメリカが広島に原爆を投下した日でした。あさっての9日は長崎が犠牲になりました。小倉も原爆が落とされていたかもしれませんでした。
 原爆に関する報道では,日本に原爆が投下されたということは伝えられますが,誰が投下したかを明確にしているものは少ないように思います。もちろん,みんな知っているのですが,やはり誰が原爆を投下したかは明記して報道すべきです。アメリカが、軍事上の必要はないのに,民間人をターゲットに無慈悲に原爆を投下したのです。いまでも苦しんでいる人が多数います。日本でオリンピックが開かれているというのに,黙祷を呼びかけることはできなかったようです。どこかの五輪貴族は広島まで行ったそうですが,どれだけ真剣に原爆の問題に向き合う気持ちになったのでしょうか。もちろん,原稿を読むことしかできないような日本の首相も,大事な式典でその原稿すらきちんと読めない醜態をさらしました。オリンピックが開催され世界から注目されているチャンスなのに,なんていうことでしょう。
 私はいつまでも過去のことを引きずるべきだと言っているのではありません。しかし,せめて原爆投下の日くらい,もっと真摯に過去の痛ましい日本人の犠牲者の怒りと悲しみに寄り添い,原爆を投下したアメリカを糾弾するくらいのことはしてもよいのではないでしょうか。
 昨日の日本経済新聞の社説は,核なき世界は遠いということにふれたうえで,「流れを変えるために日本がすべきことは,唯一の戦争被爆国として核兵器の恐ろしさを訴え続けることである」としました。それは正しいことです。ただ,そのあとがいただけません。「そのためには私たち自身も過去と向き合わなければならない。五輪開会式のショーディレクターがかつてユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)を揶揄(やゆ)したとして解任された問題では,負の歴史が共有されていないことがあらわになった。戦時中の日本による加害行為を含め,歴史教育の大切さも再認識したい」。これも正しいことではあります。ただ,ホロコーストはもちろん人類史上の大きな悲劇であり,共有すべき負の歴史ですが,アメリカにより原爆が投下されたという負の歴史をアメリカ人やその他の国の人々の間でどれだけ共有されているのかということも大いに問題とすべきです。まともな感覚であれば,オリンピアンの中から,黙祷をしようというような動きが出てきてもおかしくないでしょう。ホロコーストは,アメリカの団体からクレームがついてすぐ日本(五輪組織委員会)は対応しました。日本もきちんとやるべきことをすべきです。日本人は,まずはあの悲惨な戦争を引き起こした当時の日本の支配者層(そこには,もちろん天皇も含まれます)への徹底的な批判をすべきですが,同時にアメリカが原爆を投下したという人類史上最大の負の歴史を,もっと真剣に世界中で共有するよう訴えかけるべきなのです。
 日本の上の世代は,戦後の日本の繁栄は,アメリカのおかげという意識が強いのかもしれません。しかし,それによって冷静な判断が曇らされている可能性があります。もっというとアメリカに洗脳されている可能性もあるのです。そういうマインドコントロールを受けていないであろう若い世代は,あの戦争で最後にアメリカが何をやったのか,もちろん,それまでに日本が何をやったのかも含め,歴史をしっかり見直して,そのうえでこれからの日本はどうやっていくべきかを考えるべきなのです。そのようにすると,日本人がアメリカに対してどういう態度をとるべきかという方向性もみえてくると思います。
 もちろん,私はせめて原爆投下の日はアメリカを糾弾してもらいたいと言っているだけで,ずっとアメリカ人と対立すべきと言っているのではありません。日本人がもっとアメリカ人に原爆のことについて,言うべきことを言うと,おそらくアメリカ人からも反応があると思うのです。そのようにして互いに理解を深めることによって,よりよい関係を築いていくことをこれからの世代に託したいと思います。
 もし10日敗戦が早ければ,広島や長崎の悲劇は避けられたでしょう。敗戦が遅れたのは,日本の支配者層の読みの甘さが原因です。この点については,以前のブログ(今年の114日に以前のブログを再掲しました)で紹介した半藤一利さんの『昭和史』をぜひ読んでもらいたいです。それにより,おろかな支配者をもつと,とんでもないことになるという歴史の教訓を学べます。コロナ禍の現在にも参考になるところが多いです。

2021年8月 6日 (金)

イベント告知(再)

 前にも告知しましたが,BBという本屋さんの主催されるオンライン・ライブイベントが来週11日(水),19時から21時まで開催されます。拙著『誰のためのテレワーク?―近未来の働き方と法』(明石書店)の刊行記念イベントです。
 昨日,私とトークをしてくださるヌーラボの橋本正徳さんと,オンライン上ですが初めて対面しました。簡単な打ち合わせのためのものですが,いきなり盛り上がりそうになり,本番にとっておくために抑える必要があるほどでした。
 二人の間には,おそらく接点となるところは,これまでなかったと思いますし,キャッチコピー的には「異色の対談」なんてことになるのでしょうが,でも話してみると,テレワークについての考え方に異論はなさそうです。もちろん当日は,私はどちらかというと理屈の話をし,橋本さんは自由な働き方の実現に実際にコミットされてきたので,そういう実践的な観点からお話をしてもらうという役割分担になるのですが,実際には,そういうことにあまりこだわらず,これからの働き方というものを熱く語ることができればと思っています。
 橋本さんは,拙著について,テレワークといっても,実はDXの話ですよね,と鋭く本書の本質を洞察されていました。まさに,そのとおりです。テレワークというのは,これからのデジタル技術社会にとって不可欠なものなのです。ただ,現実にはテレワークは,コロナ禍の緊急対策程度に思っている企業が多いようです。そういう企業の経営者の方々,またテレワークはあまりやりたくなくて,通勤していた頃に戻りたいと思っている会社員の方々,そういう人たちに,この対談をとおして,新たな発想をもってもらうきっかけになればと思います。もちろん,たんにテレワーク万歳という話にはならず,むしろテレワークの普及に向けてどんな問題があり,それはどのように考えていくべきか(思想),そしてそれをどのように克服していけばよいか(実戦)というところまで議論をするつもりでいます。時間があれば,参加者からの質問にも答える予定ですので,ぜひ多くの人にこのイベントに参集していただければと思います。詳細は,大内伸哉×橋本正徳「働く場所は自分で決める──働き方の多様性とコラボレーション」 『誰のためのテレワーク?』(明石書店)刊行記念 | 本屋 B&B (bookandbeer.com) をご覧ください。

2021年8月 5日 (木)

若者の幸福と孤独

 Tasc Monthly546号に掲載されていた土井隆義氏の「格差社会に拡がる諦観の心性~若年層の犯罪減少と自殺増加をめぐって」というエッセイを読みました。若者の間に幸福感が増えているのに,自殺も増えているのはなぜか,という分析です。幸福感については,犯罪減少の傾向ということに現れているのです。土井氏によると,若者のなかには努力しても報われないという諦めがあります。努力をすれば報われるという社会では,努力へのモチベーションは高まりますが,努力しても報われないこともあります。この期待と現実のギャップが不満感を生み出すのです。いまの若者は努力をしても無駄であるということで期待をしないので,不満も生まれないのです。私たちのような昭和の高度経済成長の余韻のなかで成長した世代の人間には,やはり努力神話がありますが,右肩上がりが終了した時代に生まれ育った若者にはそういうところがありません。こうした若者をみていると,頑張らないところに驚くこともありますが,これはそういう時代背景から来る諦観の心性なのかもしれません。土井氏がもう一つ指摘するのは「内閉化する人間関係」です。人間関係がかつてより自由になってきているのですが,その反面,不安定にもなっています。そのことが,自分を選んでくれやすい同質的な相手としか付き合わないという傾向を強めているのです。これはその閉じた関係にいる間は幸福度を高めるのですが,その関係でいったん躓いたりすると,居場所がなくなってしまいます。若者の自殺が増えている背景には,こういう事情があるというのが,土井氏の分析です。同質的な相手とだけ付き合うのは危険だということです。「異質な他者との間に橋を架けていく精神」の重要性を説くことには,納得させられるものがあります。
 異質な相手と付き合うのはストレスが多いのでしょうが,それは自分を鍛えるという精神で臨んでいく必要があるのでしょう(若者からは,そんなことをして何かいいことがあるのか,と言われそうですが)。これといわば逆のことが,孤独であることでしょう。閉じた人間関係のなかで孤立するのはつらいのですが,人間関係の輪のなかにはいても,別につるむことなくソロでやっていくということであれば,たとえ人間関係に躓いたとしても打撃は小さいです。むしろ複数の人間関係のなかを軽やかに行ったり来たりできるような生き方のほうが,リスクが小さいともいえます(親友はいないけれど幸せ,という生き方です)。
 土井氏については,かなり前に買っていたベストセラー『友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル』(ちくま新書)を,偶然にも最近読み終えたばかりでした。若者の間にある「優しい関係」が生きづらさを生んでいるという指摘は,なかなか理解しづらいところもありましたが,そういうものかと思いました(ただ,最後まで,高野悦子と南条あやの自殺の分析は,私にはよく理解はできませんでしたが)。
 安定と拘束が一体というのは,日本型雇用システムの話とも似ています。拘束を避けて自由のほうに走れば,不安定になり実力の世界になります。勝者と敗者がはっきりして敗者はつらくなります。他方で,拘束的な安定にすがっていても,どこかで関係に躓けば「いじめ」にあいます。ハラスメントという現象が多いのは,拘束的で安定的な職場の人間関係の危険性を示しているのかもしれません。では,どうすればよいか。他者との関係はできるだけべったりではなく,良い距離をもって広くつきあうということが大切なのでしょうね。副業はそういう意味でもとてもよいことかもしれません。「柔らかい個人主義」の山崎正和が提唱した「社交による人間関係」が,いま一度想起されるべきなのかもしれませんね。

 

2021年8月 4日 (水)

「労働弁護士『宮里邦雄』55年の軌跡」

 宮里邦雄先生が偉大な労働弁護士であることは誰もが認めるところでしょう。おそらく,いままで一度も直接議論をさせてもらったことはなく,事件などで関係したこともなかったと思いますが,今回,先生からいただいた「労働弁護士『宮里邦雄』55年の軌跡」(論創社)を読んで,先生のことを深く知ることができたような気がしました。会社側は,相手方の弁護士に宮里先生がつくと大変だろうなと思いました。宮里先生は,学会などでおみかけしたときは,とても柔和な紳士でいらっしゃいますが,今回の本のなかにも出てくるように,反対尋問では知らぬ間に会社側に非を認めさせるような「凄腕」をもっておられるのでしょう。
 最近のトピックとして採り上げられていた,フリーランス,正社員と非正社員の格差,解雇の金銭解決については,いずれも私とはまったく相容れませんし,労働者の権利にこだわられるところは,弁護士という立場上,当然ともいえますが,権利論だけでは労働者は幸福になれないという私の立場からは,もう過去の議論かなと思わぬでもありません。
 そういう法律的な点は横に置くと,一度しか行ったことがないのですが,日本で最も美しい島と思っている宮古島のご出身であることで,勝手に親近感をもたせてもらいましたし,本の最後に出てくるエッセイから,ラフテー,藤沢周平の「蝉しぐれ」,モーツァルト,『鉄道員』など,おそらく一緒にお会いする機会があれば話がはずみそうな話題も発見できました。
 ところで,本書のなかで1点だけ気になるところがあったので書かせてもらいます。先生が新国立劇場運営財団事件の上告審の弁論で,米,独,仏,伊,英,墺などの「どこの国でも,歌劇場の合唱団員は,労働組合に加入し,労働組合を通じて歌劇場の経営者と労働条件を交渉していることが判明しております」とし,そこから,「合唱団員が労働者であることは,世界の常識といえます」と主張されています(176頁)。これは,ほんとうに正しいのか疑問があるのです。
 音楽家の労働組合というのは,それぞれの国の原語でどう呼ばれているか知りませんが,職業団体(professional association)の一種ではないかと推察されます。ギルド以来の伝統のある欧米では,職業に従事する者は団体をつくるものです(日本語にすれば,一般的な意味での「労働組合」になってしまいそうです)。こうした職業団体は,構成員が法的に労働者かどうかに関係なく,歴史的に存在しているものであり,職業上の利益を守るために,団体交渉をすることもあります。しかしそれは,日本法でいう団体交渉と同じとは限りません。日本法では団体交渉の権利は憲法28条で保障され,正当な理由のない団体交渉の拒否は不当労働行為となります(労組法72号)。このような意味で,使用者には団交応諾義務があるのです。しかし,すべての国を調べたわけではありませんが,おそらく音楽家の労働組合に対して,団交応諾義務が認められている国は(特別法でもあれば別ですが)ないのではないでしょうか(ただし,不当労働行為制度のあるアメリカは認められているかもしれません)。
 基本的には,職業団体は,国家権力の介入からの自由という意味で結社の自由はありますが,不当労働行為の救済というような特別な保護的介入は受けていないはずなのです。新国立劇場運営財団事件は,音楽家ユニオンが労組法上の団体交渉にこだわっており,そういう団交応諾義務が財団側にあるかという,日本法独特の法的論点が問題となっているのであり,そういう特別な保護的救済を受けるに適した労働者とはどういうものかが事件の本質でした。私は,労働者概念が,現行労組法への改正のときに不当労働行為の行政救済制度が認められたことにより変質したと考えるべきではないかということを,ジュリスト1540号の「フランチャイズ経営と労働法―交渉力格差問題にどう取り組むべきか」という論文で論じています。
 たしかに,国家が介入すべきでない職業団体の範囲は,それを労働組合と呼ぶとしても,その構成員は,狭義の従属労働者かどうかに関係なく広く認められるべきであり,これは結社の自由の保障にもつながることです。こうした労働組合も団体交渉は行いますが,その交渉はいわば力勝負のもので,行政委員会による救済などが予定されているものではありません。日本法でいえば団体交渉というより,話し合いや協議といったほうがよいでしょう。上記の海外の実情は,音楽家の職業団体が,劇場とかと話し合いや協議がなされているというだけのことであり,法的に団体交渉権が保障されていて,正当な理由がなく拒否されたり,不誠実交渉をされたりすれば,行政委員会から救済命令を受けられるというようなものではないはずです。新国立劇場運営財団事件では,財団側は話し合いなら応じると言っているので,とくにおかしなことをしたわけではなかったとも言えるのです。
 要するに,海外の音楽家ユニオンは,団体交渉はしているとしても,それはその構成員が労働者であるから,団体交渉の権利を行使しているというのとは,まったく違う論理によるものである可能性があるのです。ここのところは,いつかお会いする機会があれば,先生に確認させてもらいところです。

 

前期の講義終了

 今学期のオンデマンド型講義の配信は今日で終わり,これから期末試験に入ります。試験はテイクホーム型となります。提出はWordなので,悪筆の学生に悩まされなくて助かりますが,達筆の学生が印象点(?)を稼ぐということはできなくなりますね。個人的には,手書きの字を読むことはつらくなっています。手書きではありませんが,大学の図書館は暗いので,書庫に入って文献の読むのも苦痛です。明るい場所に持ち出すほどではなく,その場でちょっと確認したいという程度のとき,助かるのはiPhoneです。カメラで撮影して拡大して見ることができます(面倒ですが)。デジタル化の恩恵は,視力が低下しているシニアに大きいです。いずれにせよ,大学教育でも,手書きの答案というのはなくしてもらえれば有り難いです。
 テイクホーム型の試験については,学生どうしが相談したらどうするのか,カンニングしほうだいではないかという意見もあるのですが,これはそういう不正が見破れないような問題を出すことに,問題があると思っています。
 ところで,新型コロナ感染者の数がじわりと増えていて,不気味です。ワクチンの2回接種を終え,いまのところモデルナアームとなることもなく,副反応は比較的軽くてすんだので,個人的には一安心というところですが,だからといってこれまでの行動を変えるつもりはまったくありませんし,後期の授業もオンラインでできるものなら,そうさせてもらいたいという気持ちです。とはいえ8月には,やむを得ず自宅外で仕事をしなければならない日が少しあり,どちらも技術的にはオンラインでやれることだと思っているので,納得できないところもありますが,仕方がないので,とにかくできるだけ密にならず,暑くても喚起を優先してもらい,感染リスクを避けたいと思っています。現時点で,世の中のテレワークはどれだけ進んでいるのでしょうかね。

 

2021年8月 2日 (月)

割増賃金

 今日は,今学期の労働法の最終回のオンデマンド講義の収録をしました。最終回は,現在の労働法全体を概観するということで,要点を絞りに絞ったつもりですが2時間を超えるものになってしまいました。これはオンデマンドの場合は2回分です。いまは長時間のオンライン授業は,学生の負担が重いとして許されないようですが,オンデマンドなので大丈夫かなと思っています。前回の授業がやや短めであったので,差し引きしてちょうどよいということにしたいと思います。
 ところで話は変わりますが,先日の神戸労働法研究会ではトールエクスプレスジャパン事件の大阪高裁の判決が採り上げられました。国際自動車事件の2つの最高裁判決を下級審がどう受け止めていくかということをみるうえで格好の事件でした。振り返ると,この研究会でもずいぶんと割増賃金をめぐる判例については議論をしてきたのですが,いまだによくわからないところが多いです。
 現在の割増賃金をめぐる主たる論点は,まず①最高裁判決が次々と出てきているので,それをどう体系的に整理して理解するのか,また②そうして理解した判例が適切なのかという評価の問題があります。さらに,③割増賃金という制度は,いったい何のために存在して,それはきちんと機能しているのかという根本的な問題もありますし,もっというと,私が次の学会で報告する内容にも関係しますが,④労働時間制度というものの意義や機能とは,いったい何なのかという,より根源的な問題もあります。研究会では①と②が主たる議論のテーマになるわけですが,ほんとうは③まで議論しなければならないのでしょう(④までやると,いわば土俵の設定から議論することになるので,研究会のテーマには適さないでしょうね)。国際自動車事件にしろ,トールエクスプレスジャパン事件にしろ,出来高を基本とする賃金体系において,時間比例の割増賃金を支払うというのが,どうもしっくりこないことから,労働組合と話し合って割増賃金分は基本給的な部分から控除するということをしているわけですが,労働基準法37条というものがある以上,この規定は労使間の合意があっても超越的に介入してくるのです。ただその規定の規範内容が明確でないから問題が生じます。ということで,規範内容を明確にすべく,研究会で議論するわけです。
 企業がこういう賃金体系を導入することも理解できないわけではありませんが,他方で,時間外労働をしても労働者の収入は増えないので,これっておかしいぞという感覚をもつのも,労働法研究者であれば至極まっとうなことです。企業は,立法論であるエグゼンプションを,勝手に実現してしまっているという面もあるのです。高額の賃金を支払っている労働者に,割増賃金込みとするという取扱いが,本人がどんなに契約締結当初同意をしていても,認められないことがある(判別可能性という論点がかかわります)というのも,似たような話です。高額収入者にはエグゼンプションを認めてもよいかもしれないのですが,それはあくまで立法論だということです。
 拙著の『人事労働法』(弘文堂)では,割増賃金の支払いに関する法規範を,行為規範としての明確性に乏しいものの代表として挙げ,そこから行為規範としての明確性を志向する法律論の必要性を主張しています(3頁以下)が,裁判規範を重視し,強行規範なので客観的に解釈しなければならないとし,その結果,裁判をしてみなければわからないようなことになっても(ある程度は)仕方がないとする伝統的な裁判法学的労働法では,私のような問題関心がなかなか出てこないかもしれません。
 もちろん法律家の端くれとして,私も①と②の問題について関心がありますし,実務的にも重要な意義がある論点でしょうが,それだけだと法律家の自己満足で終わってしまうのではないかと思えますね。

新知事への期待

 昨日は早めにベッドに行き,久しぶりにぐっすり眠れました。身体が衰弱していたのでしょうね。そのおかげで,朝は快調で,筋肉痛も倦怠感もきれいになくなっていました。ワクチン接種前よりも体調が良くなった気分です。ここ数年は,老化のせいか,なかなか長い時間続けて眠ることができなくなっていたので,副反応の思わぬ御利益があったという感じです。
 8月に入り兵庫県知事が代わり,さっそく知事会にも出席していたようですね。神戸市は,井戸さんの置き土産という感じの酒類提供禁止で,なじみの店の悲鳴が聞こえてきそうです。彼らは政府の感染対策が不十分ななか,自分たちばかりに犠牲を求めてくると不満に思っています。新知事には,県庁全体でできるだけ完全テレワークをするように号令をだし(オンラインでできるものはオンラインでやる),まず自分たちがやれることをやっているという姿勢を示して,県民に範を示してもらいたいです。そうしなければ,いくら広報を充実させても,人流は減らず,若者にも説得力はないでしょう。首相をはじめ社会の上に立つ人の必死さや危機感が伝わってこないことが,現在の感染拡大の原因だと思います。若き知事が県民にどういうメッセージを出すかに注目です。

« 2021年7月 | トップページ | 2021年9月 »