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2021年7月 6日 (火)

選択的夫婦別姓制と選挙

 3月くらいに選択的夫婦別姓のことを,このブログでとりあげて,同姓か別姓か選択できるほうがよいという意見を書きましたが,6月23日に最高裁大法廷は,夫婦同姓(正確には,夫婦同氏)を定める民法750条(「夫婦は,婚姻の際に定めるところに従い,夫又は妻の氏を称する」)やそれを前提とした戸籍法741号は,法の下の平等を定める憲法14条や婚姻の自由を定める憲法24条に違反せず合憲であるという判断を下しました。15人中4人の裁判官が違憲と判断しましたが,多数意見は,この問題は立法府で取り組むべき判断であるという立場で違憲とは判断しませんでした。法律を専門にしている人以外にはわかりにくい話かもしれません。本来,裁判官は法律に拘束されて裁判をしなければならないのですが,同時に憲法にも拘束されるのであり(憲法763項),憲法に反する法律は効力を有しないので(憲法981項),法律の合憲性を審査することができるのです。ただ,法律は,民主的なプロセスを経て選挙で選ばれた国会議員の手で制定されるものなので,最高裁の裁判官は国民審査を受ける(憲法792項および3項)とはいえ,民主的正統性は国会議員と同等とはいえないので,軽々しく法律を違憲で無効とする判断はすべきでないといえそうです。これに対しては,多数の意思を集約する民主的なプロセスではマイノリティの人権は侵害されやすいので,人権の最後の砦として裁判所(とくに最高裁)は必要とあらば違憲判断を躊躇すべきではないともいえそうです。憲法学では,違憲性の審査基準について実に細かで精緻な議論を展開していますが,ここでは法律の内容によって,違憲かどうかのチェックについてとるべき裁判官のスタンスが異なりうるということを確認しておけば十分でしょう。
 難しい法律論はさておき,夫婦同氏制を定める民法の規定は,どう考えるべきなのでしょうか。ここでは,氏のもつ人格的な利益をどこまで重く評価するかということが実質的には重要な気がします。夫婦同氏制の下で,氏を変えなければならなかった人の人格的な利益の侵害がどの程度のものであるかということへの想像力をどこまでもてるかが実質的には大きなポイントのような気がします。アメリカの連邦最高裁の裁判官は,通常,主要な政治的なイシュー(人工妊娠中絶,銃規制など)についての立場が明らかにされていますが,日本でも最高裁判事が選ばれるとき,例えば,憲法9条に関する考え方などと並んで,選択的夫婦別氏制についての立場も明らかにしてもらえればいいですね。
 4人の違憲判断のうち,三浦守裁判官は多数意見と結論は同じですが,夫婦同氏制は憲法違反だとしています。違憲だけれど,今回争われているのは,自治体が夫婦同氏にしない婚姻届の受理をしなかったことの違法性が問題となっているのであり,その点については夫婦別氏制の定める手続が法定されていない以上,不受理とする処分は適法とせざるを得ないということでしょう。一方,反対意見は,宮崎裕子・宇賀克也両裁判官の連名のものと草野耕一裁判官のものがあります。草野裁判官のものはとくにユニークで,選択的夫婦別氏制を導入することによって向上する国民の福利と,同制度を導入することによって減少する国民の福利とを比較すべきというところから議論を立て,前者が後者よりもはるかに大きいことが明白であり,かつ,減少するいかなる福利も人権またはこれに準ずる利益とはいえないとして,「選択的夫婦別氏制を導入しないことは,余りにも個人の尊厳をないがしろにする所為であり,もはや国会の立法裁量の範囲を超えるほどに合理性を欠いているといわざるを得」ないので,憲法24条違反であるとしました。「さすが草野裁判官」という反対意見でしたね。ただ,最高裁判事の構成の傾向をみていると,多数意見が違憲となるのは,まだ先かもしれません。藤井龍子元最高裁判事は,34年で違憲判決が出るのでは,という見通しを述べていました(日経新聞72日夕刊)が,そう楽観はできないのでしょうか。
 結局のところ,裁判闘争でこの問題を解決するのは難しい気がします。やはり最高裁がいうように,立法府でなんとかすべきなのでしょう。最高裁も「国民の意識の変化」は意識しているのですが,補足意見が述べるように,「国民の意識の変化についていえば,婚姻及び家族に関する法制度の構築に当たり,国民の意識は重要な考慮要素の一つとなるものの,国民の意識がいかなる状況にあるかということ自体,国民を代表する選挙された議員で構成される国会において評価,判断されることが原則であると考えられる」ということです。この言葉は重いです。この点で,今回の都議会選挙の低投票率は,民主主義の危機ともいえそうです。もちろん,都民が悪いとばかりはいえず,政治への絶望ということもあるのでしょう。ただ,きちんとした政治家を選ぶためには投票場に行くしかないのです。最高裁は国会にゆだねたというより,国民にゆだねたのです。あとは私たち国民の行動にかかっているということでしょう。

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