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2021年5月の記事

2021年5月31日 (月)

最高裁判決と経済学

 従業員が過失により交通事故を起こしてしまった場合,それが企業の事業の執行について生じたものであれば,企業も責任を負わなければなりません(民法7151項の使用者責任)。この場合,企業は支払った賠償について,従業員に求償できるとされています(同条3項)が,判例は全額の求償はできないとして,制限をしています(茨石事件・最高裁判決。拙著『最新重要判例200労働法(第6版)』の第13事件を参照)。それじゃ従業員が先に被害者に賠償したときに,企業のほうに負担するよう請求ができるでしょうか。これを逆求償といいますが,昨年2月28日に,この点についての最高裁判決(福山通運事件)が出て,求償を制限したときと同じ枠組みで,逆求償が認められるとしています。つまり求償を制限したということは,企業が損害について負担すべき部分があるということであり,ということは,従業員が先に賠償した場合には,企業が負担すべき部分について逆求償を求めることができる,ということです(この判決については,ビジネスガイドに連載中の「キーワードからみた労働法」の第154回で採り上げています)。ところで,この判決には補足意見があって,これがかなり面白いのです。とくに法と経済学の専門家でもある草野耕一裁判官が,菅野博之裁判官と連名で書いた補足意見は,経済学の匂いがぷんぷんしているものです(同裁判官は,『数理法務のすすめ』という本を有斐閣から出しています)。
 詳細は,別の機会にゆずりますが,簡単にいうと,逆求償が認められるといっても,具体的な額をどうするかが問題であり,その際に考慮されるべき視点として補足意見で挙げられているのが,リスク配分,矯正的正義,事故回避へのインセンティブなのです。最初と最後はもちろん経済学的視点です。これが補足意見とはいえ,最高裁に入ってきたのは画期的でしょう。
 実は私たちが『解雇規制を問い直すー金銭解決の制度設計』(有斐閣)で論じているのも,これに近い議論です。私たちは立法論をしましたが,その前提となる経済学的思考においては,要するに,解雇を必要とするような状況(放置すると企業に損害が生じるが,解雇すれば労働者に損害が生じるような状況)が生じたときに,誰がどのように損害を負担することが望ましいのか,ということを検討したのです。そこでは多角的視点が出てきますが,とくに重要なのは,リスク配分,所得分配,モラルハザードという視点です(229頁以下)。私たちが提案した完全補償ルールは,リスク配分の点で企業にリスクを負担させることが効率的であるということを示しています。また金銭解決とは,所得水準が相対的に高い企業(あるいはその利益の最終的な帰着者である株主)から相対的に低い従業員へと移転させることを意味し,これは公平性に資するものです。そして労働者有責解雇の場合には,完全補償ルールを適用しないとすることにより,モラルハザードに対処しています。詳しくは,本を読んでもらいたいですが,こういう思考方法と似たものが,最高裁判決において逆求償の額を決定する枠組みのなかに認められるのです。
 なお,不法行為についての法と経済学は,柳川隆・高橋裕,大内伸哉編『エコノ・リーガルスタディーズのすすめ―社会を見通す法学と経済学の複眼思考』(有斐閣,2014年)の第7章(古谷貴之・宮沢伸二郎執筆)を是非読んでみてください。法学的思考と経済学的思考を融合させることにより,たんなる損害の賠償するための法制度にみえる不法行為制度について,誰にリスクを負わせれば事故は回避できるか,事故回避のための注意の努力水準を適切なものとするには過失責任と無過失責任のどちらがよいか,などの興味深いテーマにまで視野を広げることができます。そして,これは単なる理論であるにとどまらず,いま裁判所で,具体的な紛争解決における基準に用いられようとしているのです。
 こういう動きが広がると,私たちの解雇制度改革論がいつか脚光を浴びるときも来るかもしれませんね。気長に楽しみに待つことにします。

2021年5月29日 (土)

名人戦終わる

 名人戦は,渡辺明名人(三冠)の41敗で終わりました。斎藤慎太郎八段は初戦で粘り勝ちしましたが,そのあとは4連敗です。渡辺名人が強かったですね。というか斎藤八段があまり力を発揮できなかった気もします。名人戦の大舞台ですから,初挑戦のときは仕方ないですかね。やはり数々の大勝負を勝ち抜いてきた渡辺名人とは,まだ役者が違うというところでしょう。
 渡辺名人は,名人戦を早めに終えることができて,66日から始まる藤井聡太二冠との棋聖戦に臨むことができるのは大きいです。これまでやられっぱなしの藤井二冠にリベンジできるでしょうか。いまの渡辺三冠に番勝負で勝てる可能性があるのは,藤井二冠だけですよね。
 藤井二冠は,棋聖戦と併行して,王位戦を629日から戦います。挑戦者は,挑戦者決定戦で羽生善治九段を下した豊島将之竜王(二冠)です。藤井二冠が苦手の豊島竜王とどう戦うか見ものです。
 王座戦は,挑戦者決定トーナメントの準決勝のメンバーが決まってきていますが,渡辺三冠も藤井二冠もすでに敗退して荒れ気味です。ここは永瀬王座の防衛という予測が強まってきていますね。
 叡王戦も本戦トーナメントが進み準決勝のメンバーが決まってきています。その前に,永瀬王座と藤井二冠の勝負がありますし,渡辺三冠と斎藤八段の勝負もあります。斎藤八段は名人戦のリベンジをしたいところでしょうね。
 さらに竜王戦の本戦も始まります。こちらは,渡辺三冠は2組で敗退しましたが,藤井二冠(いよいよ来期は1組昇級ですが,その前に竜王位をとってしまうかもしれませんね),永瀬王座,羽生九段は決勝トーナメントに残っています。豊島竜王への挑戦のための戦いは,これから始まります。竜王戦は下のクラスの優勝者である若手の好調者とベテランが戦うという構図もあるので,これも楽しみです。

2021年5月28日 (金)

高まるESGの重要性

 今朝の日本経済新聞の朝刊のトップ記事で,「石油メジャーに脱炭素の取り組みを求める株式市場などの圧力が強まっている。米エクソンモービルの26日の株主総会で『物言う株主』が推薦した環境派2人が取締役に選任された」と出ていました。ESG投資が言われてきているなか,ESGを軽視している企業に対して,たんに投資家が背を向けるということだけにはとどまらず,取締役を送り込んで経営改革を行おうとする動きが出てきているということです。エクソンのアクティビストは少数株主だったようですが,大株主にとっても,ESGに取り組むよう経営陣を刷新することは利益になると判断して,これに賛成したのでしょう。いまはまだ2名の取締役にすぎませんが,これは今後の大改革への第一歩なのかもしれません。
 私は昨年からDX関係の論考を次々と書いてきましたが,次はGXGreen Transformation)だと思っています。脱炭素化は待ったなしの状況になっています。EUの動きはめざましいです。もちろんEUは自分の都合のよいルールを世界標準にして競争上有利な地位に立つという魂胆があるのでしょうが,めざす方向性自体は文句が付けられないものである以上,日本もこれに乗るしかないのです。これまでは取締役に女性を入れるといったことが目標とされていましたが,それだけでなく環境派の人材をどれだけ入れられるかが重要となってくるでしょう。GXの進展が,企業に,そして雇用にどう影響を及ぼすかがポイントです。
 さらにESGSも重要です。Sには女性差別禁止なども入りますが,現在,最も重要なのが人権問題です。とくにサプライチェーンなどの取引先まで含めた人権への配慮が大切です。ここでもEUは進んでいて,立法化が進んでいます。ユニクロがアメリカから批判されているのは,海外の縫製工場での人権侵害についてです。米中問題が見え隠れしていますが,本質的にはESGの問題とみておくべきでしょう。自社では労働基準を守っていれば,取引先のことは関係ないというのは,もはや許されないのです。自社の利益につながるプロセスに人権侵害などの社会問題が起きている企業は,非難を免れないということです。一種の報償責任と言えるのかもしれません。労働法は,労働関係のあるところだけを射程としてきましたが,その他の取引関係(請負関係など)も射程に入れなければならず,さらにその取引関係の連鎖の先までも射程に入れなければならないのです。前に岡山大学の土岐将仁さんの研究を紹介したことがありましたが,彼の『法人格を越えた労働法規制の可能性と限界』(有斐閣)も,こういうテーマに関連しています。
 私は,これからの労働法のめざすことは,広義の就労者が企業の社会的「無」責任に巻き込まれないようにすることであると考えています。『人事労働法』(弘文堂)では,企業内の労働関係に限定して,社会的責任論を重視した解釈論をしてみましたが,次なるステップは,この種の議論を,立法論を中心に,企業外の就労関係にも広げていくつもりです。フリーワーカーの問題などは,そうした観点からみていくことにより,現在の議論の行き詰まりをブレイクスルーできるのではないかと考えています。先日の経済教室に書いたのも,私見の一端を示したものですが,今後も,この発想に基づく論考を少しずつ発表できればと思っています。

 

2021年5月27日 (木)

エビデンスに基づくコロナ対策を

 524日の日経新聞の朝刊第6面に,あの獺祭の旭酒造の桜井一宏社長の意見広告が出ていました。感染対策を意味のあるものにしてほしいという切実な訴えがなされていました。感染も倒産もおさえられる方法をとってほしいというものです。飲食店を守ることも,日本の「いのち」を守ることだというのです。兵庫県の感染経路別患者数のデータも示されています。飲食店の比率はきわめて低く2.9パーセントです(Microsoft Word - ○1各波ごとの状況 (hyogo.lg.jp))。家庭や職場のほうが高いのです。普通の民間企業は感染があっても事業は継続するが,飲食店は,感染率は低いけれど事業を止めろというのでは,飲食店業界は納得しないでしょう。しかも一部の公務員は,禁を破って一部の飲食店で無茶な宴会をしてクラスターを引き起こしているのです。まじめに感染対策をとって人数も制限してやっていた飲食店は,コロナと無縁なのに店を閉めているのです。これは不公平ですよね。公務員も含めて,テレワークを完全実施するから,飲食店も協力してほしいと言ってくれれば,おそらく誰も文句は言わないでしょう。でも,実際にはそうでないのです。
 ちなみに私がよく行っていた近所の店は大将が無口ですし,お客は一人の方が多く,一人で本を読みながら,お酒に料理という方とかもいます。注文するときの声だけ響くなんて店です。こんな店に休業を強いるのは理不尽です。
 私たちは,飲食店がクラスターの発生源となるということを聞いていたので,飲食業界には悪いけれど,酒類提供ができなくなったり,営業規制がされたりするのは仕方ないなと思っていました。しかし,クラスターの主たる発生源は飲食店ではないということになると話は違います。Go to Eatとか政府の助成策があったので,飲食業界は恵まれているという誤解(?)もあった気がします。これは多くのまじめな店にとっては,かえって迷惑であったのではないでしょうかね。かりに個々の飲食店は補助金とかで何とか生き延びられても,実は,その取引先などのバリュー・チェーンは補助金の対象となっていないところもあるようです。そこがつぶれてしまえば,コロナ後の飲食業界の再建も難しいのです。
 厳しい行動規制は必要です。しかし,それはエビデンスをもってやってもらう必要があります。やるなら徹底したロックダウンをして一気にコロナを収束させる。それをしないのならば,飲食店は,所定の基準を設けてそれをクリアしているところは認証して,酒類の提供も含めた営業を認めることとし,その認証手続は迅速に行い,もし違反や不正があった場合には長期の営業停止をするといった重い制裁を課すという事後的な対応にする(事前手続を厳格にやると時間がかかって意味がない)といった方法が考えられます。
 もしかしたら別のデータでは,飲食店はなお危険というのがあるのかもしれません,もしそうならきちんとそういうものを出すべきです。何となく飲食は危険というだけで営業規制をすることは,営業の自由の侵害という憲法問題にもなりうるでしょう。

労働基準法20条違反の解雇の効力

 先日,学部授業で解雇のところを扱いました。いろんな論点があるのですが,いまでも盲腸のような論点として残っているものとして,労働基準法20条違反の解雇の効力というものがあります。最高裁の細谷服装事件(1960年)が関係して,日本食塩製造事件(1975年)がでてくるまでは,解雇に関する判例というと,これでした。学部生にこの論点を詳しく説明する意味がどこまであるのかよくわからないのですが,学説がめずらしく4つに分かれるなど法学部っぽい理屈の議論ができるところなので,今年は授業のなかの課題として出して,自分で勉強してもらうことにしました(細谷服装事件は,『最新重要判例200労働法(第6版)』の58事件,日本食塩製造事件は47事件)。
 企業から「君は解雇だ,明日から来なくていい」と言われたとき,労働基準法上,どういうことになるでしょうか。いまは労働契約法16条があり権利濫用となる解雇かどうかが,まず問題となるでしょうが,かりに権利濫用とならないような解雇であったとしましょう。そうした解雇は,普通は労働者の責に帰すべき事由に基づくものであり,即時解雇が可能となる場合も多いでしょうが(労働基準法201項ただし書),かりに労働者の責に帰すべき事由はないけれど権利濫用とならないような状況で,企業が即時の解雇を告げたとしましょう。
 労働基準法20条によると,解雇するには少なくとも30日前の予告が必要であり,予告をしない場合には,30日分の予告手当を支払わなければなりません(1項。ただし,上述のように予告のない即時解雇ができる例外もあります)。ただ,企業は,予告手当を支払えば,その日数分は予告日数を短縮することができます(2項)。そうだとすると,予告をせず,予告手当も支払わないで,即時解雇することは許されないので,上記の設例のような解雇は無効であるという考え方が自然に出てきます(無効説)。ところが,学説のなかには,労働基準法は予告期間が足りない場合は,その日数は予告手当を支払うべきとしているのであるから,上記の設例の場合は,企業に課されるのは予告手当の支払義務であって,解雇自体は有効となるという見解もあります(有効説)。
 また,予告を30日とするというのは,解雇の意思表示は30日後にやっと効力が発生するということを意味しているのであり,それを早めたければ予告手当を支払わなければならないという趣旨だとすると,解雇の効力の発生時を予告手当を支払わずに即時とすることは許されないが,そうでなければ効力発生時は30日の経過時でよいという考え方もあります。最高裁が,即時解雇に固執するならば無効だけれど,そうでなければ30日後か,所定の予告手当を支払ったときに有効となると述べたのは,このような趣旨です(相対的無効説)。これは理屈のうえではよくわかるのですが,即時解雇に固執するかどうかをどう判断するのかは不明であり,これだと労働者としては解雇が通告された時点で,解雇が有効か無効かわからないことになります。本来の予告解雇は,30日は仕事をして賃金をもらうことが想定されていて,だからこそ予告期間を短縮する場合には,賃金に代わる予告手当が支払われることになるのです。ところが,「明日から来なくていい」と言われたときの解雇は,即時解雇に固執するものでないと事後的に判定されて初めて予告解雇となるわけで,つまり後からあれは予告解雇だったのだとわかるということです。解雇を通告された時点で,即時解雇と判断して労務を提供しなかった場合,賃金はもらえないわ,予告手当ももらえないわということになりかねません。賃金は民法5362項によりもらえるかもしれないのですが,企業は有効な解雇をしたことになるので,使用者の帰責事由による労務不提供とはいえないと判断される可能性が高いでしょう。そういう問題があるから,解雇無効を主張するか,予告手当を請求するかは,労働者のほうで判断できるようにしたほうがよいという選択権説が登場するのです。
 ところで,労働基準法が企業に義務づけているのは,あくまで予告による解雇であり,予告手当の支払いは即時解雇が認められるための条件であるとみると,予告と切り離して,予告手当の支払だけを義務づける有効説はおかしいという見方もできそうです。しかし,20条では,予告義務と予告手当支払義務が並列して書かれています。これは企業には予告をする義務があると同時に,予告をしない場合には予告手当を支払う義務があるということであり,両者は,一方を履行しない場合は,他方を履行しなければならないという代替関係にあります。そうすると企業が予告義務をはたさない場合に,予告手当支払義務だけを認めるとしても,おかしくないといえそうです。つまり有効説でよいということです。有効説は,予告手当だけでなく付加金(労働基準法114条)の支払いもあるというのが,一つのセールスポイントですが,これについては,裁判が起こされたあとでも,実際に裁判官が付加金を命じる前に企業が予告手当を支払ってしまうと,付加金は命じられなくなるというのが判例ですので,このセールスポイントはあまり魅力的ではありません。これは付加金の発生時期に関する判例に問題があるという考え方もありますが,ただ企業が予告手当をとりあえずきちんと払った以上,付加金まで命じる必要はないのではないか,という言い方もできそうです。いずれにせよ,これを,有効説を否定する決め手とすることはできないように思えます。
 私は労働基準法20条の強行性は,予告違反の解雇(あるいは即時解雇の要件を充足しないのに,これに固執する解雇)を無効とすることではなく,30日分の賃金保障に違反した場合に生じると考えています。相対的無効説の問題は,前述のように,30日分の賃金保障が実現しない場合があるところにあります。選択権説は労働者の保護に資するものですが,労働者に選択されるまで法律関係が確定しないという解釈は妥当とは思えません。
 基本的には,労働基準法自体は解雇を制限していないのであり,20条は解雇時において,予告期間を民法の定めより延長して生活保障を強化すると同時に,手当の支払があれば予告期間を短縮してよいとすることによって,30日間の賃金保障という趣旨を貫徹したとみるべきなのです。したがって,基本的には有効説が妥当なのです(このことと,労働契約法16条違反で当該解雇が無効となり得ることとは別の問題です)。労働基準法13条は,30日という基準に適用されるので,当事者が合意で予告期間(あるいは予告日数と手当日数の合計)を25日とするようなことをしても,25日は無効となり(強行的効力),30日が適用される(直律的効力),ということになります。つまり労働基準法の強行性は,20条については日数のところに適用されると考えるのが,最も適切な解釈なのです。拙著『労働法実務講義(第3版)』(2015年,日本法令)486頁では,こうした解釈を展開していますが,拙著『人事労働法』(2021年,弘文堂)215頁補注⑶では,この解釈を前提としたうえで,ただしこの日数規制についても強行性を緩和して,半強行規定(この概念は同書33頁を参照)とすべきであるという考え方を提唱しています。いずれにせよ人事労働法の発想では,相対的無効説や選択権説のような曖昧な取扱いは許容できません。条文を素直に読めば,有効説しかないと思います。もちろん解雇の有効性の勝負は,現行法では,解雇権濫用に関する実体要件で決まるわけです。
 ちなみに外国では,解雇の予告期間の重要性は高いです。勤続年数に応じて予告期間を長くする国もあります。予告期間は賃金保障期間であり,それが勤続年数に応じて長くなるとすると,金銭解決的な要素が入ってきているとみることもできますね。予告期間(賃金保障期間)で解雇規制をしていくという発想は,実は,私たちが提唱している金銭解決の制度設計に通じるものがあります(『解雇規制を問い直すー金銭解決の制度設計』(有斐閣,2018年))。

 

2021年5月25日 (火)

ハイコンテクスト文化

 昨日も紹介した拙著『誰のためのテレワーク?』(明石書店)では,テレワークを進めるうえでの課題として,リモート環境でのコミュニケーションの難しさがあると指摘されていることについて論じています(47頁以下)。本のなかでは,リモート環境となれば,それに合ったコミュニケーションのやり方があり,それによって情報や価値観の共有ができると述べているのですが,それに対しては,日本にはもともと自分の意見や考えを言葉に出して説明せず,コンテクストのなかで忖度しあうという文化なので,テレワークは難しいという反論もありそうです。非言語的なコミュニケーションが日本の文化だと言われてしまうと,どうしようもないのですが,それは克服していくべきではないか,と考えています。
 ところで,鳥飼玖美子さんの『歴史をかえた誤訳』(新潮文庫)という,とても面白い本があるのですが,そのなかで,かつて村山富市首相(当時)が,マレーシアに訪問したとき,マハティール首相(当時)から「日本はいつまでも50年前の戦争のことで謝罪ばかりしていないで,国連の安全保障理事会の常任理事国になってほしい」と言われたのに,沈黙でとおしたという話が出てきます(マハティールは,なおご健在のアジアの大物政治家であり,ルック・イースト政策を推進するなど,超親日派で有名です)。優秀な通訳者であれば,多少,政治家が舌足らずのことを言っても,きちんと補充することができるのです(それをやりすぎて問題を起こした例も本のなかでは紹介されていますが)が,沈黙となるとどうしようもないのです。沈黙によって,一定のニュアンスを伝えてはいるのですが,通訳者がそれを通訳することはできず,結局,そのニュアンスはコンテクストを共有しない外国人には伝わらないことになります。通訳者としては,とても歯がゆいことです。政治家が,外交の舞台で,こういうドメスティックな態度をとってもらっては困ります。
 ビジネスの場でも,言語化されていないコミュニケーションがなされて,コンテクストに頼りすぎるような状況は,スタティックな経営環境が続くのであればともかく,変革の時代には適さないような気がします。コミュニケーションをできるだけ言語化していくことは,テレワークを成功させるための前提となるだけでなく,企業がこれからのDX時代に大きな改革を進めていくうえでの鍵となると思います。
 ということなのですが,私はといえば,「これくらい言わなくてもわかってくれよ」とか,「いちいち,そんなことまで言わせるな」と思うことがなくなりそうにないのは,アナログ的体質から脱却しきれていないからでしょうね。

2021年5月24日 (月)

呪縛からの解放

 明石書店の「WEBあかし」でテレワークの連載をしたときに,サブタイトルにつけた「呪縛からの解放」は,言葉を換えれば「常識を疑え」ということでもあります。これからの社会は,「これまでこうやっていたから,それに従おう」ではなく,「これまでこうやっていたから,違うやり方でやろう」という発想が軸でなければならないのです。今回,この連載を本にまとめて刊行した『誰のためのテレワーク―近未来社会の働き方と法』は,もちろんテレワークに関する本なのですが,その基本にあるのは,私たちの働き方,生き方そのものについて,これまでと違うやり方でやろうという提言でもあります。
 1年前の連載時より,私の焦燥感というか,絶望感が高まってきています。テレワークくらいのことができなくてどうする,と言いたいところです。社会のデジタル化,オンライン化というのが,政府のかけ声の割には,国民に響いていないように思います。デジタル庁の創設といっても,スピード感がありません。デジタル技術の重要性,そしてそれに向けた人材育成は,日本でも言われていますが,アジアの諸国も同様です。ほとんど横一線での競争が始まっています。日本にアドバンテージがあるでしょうか。おそらくないのではないかと思います。社会全体にかつての成功の余韻が浸透して改革意欲に乏しいのです。日本の欠点は,人間の力を使って何とかやってしまおうというところです。個人の並外れた献身と基礎的な能力の高さのおかげで,効率的なやり方を採用しなくてもやれてしまうのです。これはもちろん利点でもあるのですが,こういうやり方ではもたないでしょう。ワクチンの大規模接種をみても,マンパワーを使いすぎという印象をいなめません。とはいえデジタル後進国ですから,人間の力に頼らざるを得ないのですが,そのこと自体が日本の国力の低下を象徴しています。霞ヶ関にしろ,地方自治体にしろ,医療機関にしろ,もう人々は疲弊の極地にあります。もっとデジタル技術をうまく使えていたらと思う人も多いことでしょう。私自身,これってなんで手書きが必要なのですか(これだけ接触を避けろと言われていながら,ペンを手渡されて書けと言われるのには抵抗があります),なんで押印が必要なのですか(押印は私の実感では減った感じがありません)など,どうしてこういうやり方(アナログ的な手法)なのですか,と問いかけざるをえない場面に,いまでもときどき直面します。そして,相手の方は苦笑しながら「私も困っているのです」と言うことが多いのです。現場よりはるかに上のほうで,デジタル化を進めることを止めてしまっているボトルネックがあるのでしょう。
 テレワークを進めることは,そういう社会の打破とあわせて始めなければなりません。まずは拙著を読んでテレワークはなぜ必要かということを確認してみてほしいです。とくにテレワークは,経済や社会のDXと密接に関係していることを認識してもらう必要があります。さらにテレワークが地域社会の活性化,環境,格差是正,ワーク・ライフ・バランス,個人の時間主権・場所主権など,私たちのこれからの社会において最も優先度が高い価値の実現につながることを理解してもらいたいです。私に言わせれば,近未来の社会がどうなるかを想定したならば,テレワークはやるかやらないかではなく,どのようにやるか,そしてテレワークをしていることを前提に,そこにどのような価値を追加できるかを考え始めていなければならないのです。そこにはアナログ的な価値も重要な役割をもちますが,ただそれは,あくまでデジタル技術を十分に活用したうえでのことなのです(さらにデジタルによる環境への負荷をどう減らすかという問題にも取り組まなければなりません)。
 ひょっとしたら日本は,その超人的なアナログ力で,このコロナ危機もデジタル抜きで乗り切ってしまうかもしれません。でも,これはDX時代の緒戦にすぎないかもしれないのです。そこで勝利をして油断してしまうと,最終的には敗戦していたということになるでしょう。自分はともかく,自分たちの子どもや次の世代の子たちに,無策のままずるずると敗れ去った日本を引き継ぎたくありません。
 こういう危機意識をもちながら,テレワークとDXのことを考えてもらえればというのが,この本のねらいです。

AIの経済学

 鶴光太郎さんから『AIの経済学―「予測機能」をどう使いこなすか』(日本評論社)をいただきました。どうもありがとうございました。経済学の立場からのAIについての議論は,AIの活用が労働市場にどのような影響を及ぼすかといったテーマではよくみられたものの,AIについて本格的に論じている人はそれほど多くなかったように思います。私が45年前に,政府関係のAIに関する会合によくでていたころも,経済学者にはほとんど出会いませんでした。実証的な研究をするうえでのデータが十分にそろっておらず,アカデミックな議論をすることが難しい分野であったからかもしれません。そのようななかで,鶴さんの本が登場しました。これは専門書というよりも啓蒙書ですね。あまりにもわかりやすく読めるので,AIとうまくやっていけそうだと思う人が多いのではないでしょうか。
 ちなみに私はAIについてどんな議論をしていたかというと,今後,AIなどの先端技術を使わない経済は考えられないという将来予想を前提に,そうなると雇用の新陳代謝が起こるので雇用政策上の課題が出てくること(「解雇は避けられないので注意せよ!」),企業内の人事でもAIが活用されることにより,それにともなう可能性と課題を検討する必要があること(「HRテックで人事は変わる!」「プロファイリングは危険をはらむ!」),従属労働が減少して自営的就労が増えることにともなう政策的課題を検討する必要があること(「フリーワーカーの時代が来る!」)を,『AI時代の働き方と法―2035年の労働法を考える』(2017年,弘文堂)以降,主として論じてきました。
 鶴さんの新著は,労働問題を専門に扱っているわけではありませんが,私の扱ってきたテーマと重なっているところも多いです。ただ私と違うのは,私は自営的就労の増加という問題を大きくとらえていることでしょうね。AIの雇用への影響は,それほど悲観的ではない展望が出されていて(第2章),経済学の分析からはそうなるのでしょう。しかし,個人で働く人が増えるという大きな流れもまた,政策的に大きな課題を突きつけるものではないかと考えています。個人で働くというと,ギグエコノミー関係の議論が多いのですが,それだけではなく,普通の人がフリーで働くのが標準的なものとなるというなかでの政策のあり方が問われているのです。雇用という働き方がAI時代の経済システムに合わないからなのですが,この視点をもつと,人々はもっとAIに警戒をして,自分の生き方や働き方や学び方を見直さなければならないということになりそうです。もちろん,鶴さんも,終章では,AI時代の経済政策のあり方を論じていて,おそらく似たような問題意識をもっておられるのでしょうが,読者は,鶴さんのような有力な学者が,きちんとAIの利点や欠点を理解されているから,政府に助言することによってしっかり対応してもらえそうだと安心してしまわないか心配です。
 それはさておき,本書は,経済学という観点よりも,AIについてのわかりやすい入門書というほうがよい本です(「あとがき」からも,そうした狙いをもった本であることがわかります)。多くの人が手に取って,AIに対する理解を高めてもらいたいです。そのうえで読者の方には,悲観はしなくてよいのはわかったけれど,でも警戒しなければね,という気持ちになってもらえたらよいなと思います。

 

2021年5月23日 (日)

戦国時代の女性たち

 渋沢栄一には関心があるものの,NHKの大河ドラマは観ていません。やはり戦国時代が好きなのです。実話かどうかということには,あまり関心はなく,おもしろければよく,素人推理をいろいろやるのが楽しいのです。でも正しいことを知りたいという気持ちもあります。この点で,『関ヶ原の大乱,本当の勝者』(朝日書店)は,とても興味深く読めました。専門家が,関ヶ原の合戦があった時代の有名な登場人物を取り上げて,ちまたの俗説を退け,何が正しいことであったかを教えてくれます。私はどうしても西軍の武将の話に興味があるのですが,この本ではむしろ東北地方の武将である上杉景勝,伊達政宗,最上義光のことが生き生きと書かれていて勉強になりました。
 これまで最上義光がどういう武将であったかということはあまり知りませんでした。本書では軍事的には弱いけれど,必死に戦国時代を生き抜こうとした姿が描かれています。私が彼について知っていたのは,彼が溺愛していた次女(三女?)の駒姫が,豊臣秀次事件で,あまりにも気の毒な最期を遂げたことでした。私はこの時代のいろいろな悲劇のなかでは,駒姫のことがもっとも悲惨だと思っています。美人の噂があったがゆえに関白秀次に狙われてしまい,義光は成人するまでなんとか待ってもらった末に泣く泣く側室に出すことになり,ところが,その途中で秀次事件が起きて,周りのものが連座となり,まだ正式に側室にもなっておらず,京都にたどりついただけなのに,捉えられて斬首というのはひどすぎます。生母もショックのあまりかどうかわかりませんが,その後すぐに亡くなったそうです。義光のショックもたいへんなものでしょう。娘をもつ親からすると察するに余りあるものがあります。しかも助命嘆願がとおって,処刑阻止のための早馬が送られていたのに,わずかのところで間に合わなかったということが事実であるとすると,その悲運に人々は心が痛みます。このあたりは本書では詳しくは出てきませんが,専門家からみて,どこまでが史実なのかという意見は知りたいですね。秀次事件についても,「真田丸」では確か自殺説が採用されており,これについては,同様に秀吉切腹命令説に疑問を投げかける本があるので,読んでみるつもりでいます。
 「麒麟がくる」では,光秀の次女のたまを芦田愛菜が,父思いの優しい娘という役をうまく演じていましたね。信長の命令で,細川藤孝の息子の忠興と結婚することになりますが,その後の人生は大変でした。父が主君を討ったということで,その立場は厳しくなりますし,キリスト教の洗礼を受けて細川ガラシャ(イタリア語のGrazie の単数形のGrazia の基となるラテン語から来ている。「慈悲」などの意味)となったことでも有名ですが,なんといってもその最期の悲惨さこそ印象的です。関ヶ原の合戦のきっかけにもなった徳川家康の上杉討伐が進められていたころ,たまは家康側の武将の妻子を人質にとろうとした石田三成に抵抗して,子どももまきこんで壮絶な自害を遂げたとされています。これは史実なのでしょうか。本書では,石田三成の失敗は,福島正則の態度について読み誤ったことだとされています。細川ガラシャを実際上殺してしまっていたとすれは,これも彼の読みの甘さを象徴する出来事の一つなのかもしれません。

2021年5月22日 (土)

人事労働法からみた出向・労働者派遣・労働者供給

 法律の議論で困ったものだなと思うものを,このブログでも採り上げてきましたが,出向と労働者派遣というテーマもその一つです。「自己の雇用する労働者を,当該雇用関係の下に,かつ,他人の指揮命令を受けて,当該他人のために労働に従事させること」が労働者派遣であり,ただ「当該他人に対し当該労働者を当該他人に雇用させることを約してするものを含まない」とされています(労働者派遣法2条1号)。「当該他人に対し当該労働者を当該他人に雇用させることを約してするもの」(二重の雇用関係)とは出向を想定していて,出向は労働者派遣の定義から外れるので,反復継続の意思をもって行われている場合(つまり業として行っている場合)でも,労働者派遣の事業許可なしにできます。しかし,すべての出向が「当該他人に対し当該労働者を当該他人に雇用させることを約してするもの」なのだろうかという疑問があります。この範囲を広く解釈することもできるでしょうが,それが裁判所によって認められるかはなんともいえません。とはいえ,出向が労働者派遣事業として,労働者派遣法の規制下に置かれるのはおかしいので,私は『労働法実務講義(第3版)』(日本法令)では,出向先との間に出向元との間の権利義務関係を一部でも移転されていて出向労働関係が成立していれば,「二重の雇用関係」に含めるとする解釈が適切と述べていました(949頁。同頁の下から2行目の262のリファーは,162のリファーの誤りです)。ただ,これは「適切」というよりは,そう解釈するしかないと書くべきものでした。
 ところで拙著『人事労働法』(弘文堂)90頁の補注⑴では,企業は出向を労働者派遣法とは別の枠組みで行う場合には,それについて,当該労働者の納得同意を得ておくべきであると書いています。出向が労働者派遣の規制に服すかどうかの曖昧性が払拭できない以上,納得規範により対処すべきだということです。これは,雇用している従業員を,他人の指揮命令を受けて働くことは異例のことなので,納得同意を得ておくことが人事面でも望ましいし,他方,納得同意があれば,どのような出向であれ,労働者派遣法の規制から外れるという意味です。一方,もし納得同意を得ずに出向させた場合には,裁判所の解釈で労働者派遣法違反の出向と判断される可能性がでてきます。裁判規範としては,私は前述のように出向労働関係が成立していれば,「当該他人に対し当該労働者を当該他人に雇用させることを約してするもの」と解釈すべきだと考えており,そう解すると,出向が労働者派遣法違反とされる可能性は大きくないかもしれませんが,違法とされるリスクが完全にはなくならない以上,企業には誠実説明をして納得同意を得るインセンティブがあるでしょう。行為規範としては,納得同意によることが望ましいのは明らかです。裁判規範の曖昧性を回避して,できるだけ明確な行為規範を企業に示すことが望ましいというのが人事労働法の思考形式です。
 ところで,出向が労働者派遣に該当せずに行われていても,労働者供給に該当する可能性があるという変な論点があります(この議論をするうえでは,荒木尚志『労働法(第4版)』(有斐閣)の572-573頁の図が参考になります)。労働者供給のなかで労働者派遣に該当するものだけが合法化されたのであり(職業安定法4条7項参照),労働者派遣に該当しなければ,やっぱり労働者供給としての規制を受けるのではないか,ということです(この論点については「キーワードからみた労働法」の第165回「出向」でも紹介しています)。厚生労働省は,普通の出向は,社会通念上,業として行われているものではないとしていますが,その理由はあまり説得的ではありません。とはいえ,出向が労働者供給として原則禁止となる(職業安定法44条)のはおかしいです。「業として」に該当するかは微妙な判断を要するもので,それによって,ある出向が合法か違法か決まるというのは適切ではありません。出向労働関係が成立したことにより労働者派遣に該当しないとされた出向は,職業安定法の規制からはずれ,労働者供給とされる余地もないとする解釈が適切でしょう。もちろん,ほんとうは出向をきちんと定義できて,労働者供給からも労働者派遣からも区別して規律できれば一番よいのですが,出向の定義は難しいので(雇用調整助成金の制度のなかでは定義はありますが),その意味でも,納得規範に基づく処理が法的安定性のためにも望ましいことになります。そして,法的安定性というだけでなく,三者関係の発生というイレギュラーな働き方をさせられる労働者にとっても,また出向人事をうまく進めたい企業にとっても,労働者本人の納得を得たうえでの出向の実施が一番望ましいでしょう。

2021年5月20日 (木)

まさかの貯金16

 今年の阪神をみていると,ここまでは,ほんとうに強くなったなという印象です。まずベテランを切ったのがよかったです。鳥谷や福留は過去の貢献度は大きいのですが,勝負の世界で大切なのはその時点での実力です。ベテランがのさばって若い人の機会が奪われるというのは組織としては最悪です。昨年までは,ずっと阪神にはそういう問題がありました。同じ程度の実力なら若手をつかうというほうがよいのです。今年の糸井は,そこそこ活躍はしてはいますが,それほど重用されている感じはありません。昨年までならもっと使われていたでしょうが,これは当然のことなのです。一方,近本は前半,全然打てなくても,ずっと1番センターで使い続けられました。守備と走力は安定的に期待できたということでもありますが,年間トータルでみて期待できる選手は,不調でもじっと我慢するのが矢野采配です。ルーキーのサトテルのような異次元の選手も,もちろん打てるかどうかなどに関係なく使い続けています。組織の将来を担う人材は,エリートコースに置くというのがよいのです。サトテルも三振は山のようにしていますが,ファンは納得しています。客を呼べる選手です。みんなサトテルをみたいのです。サトテルは打てなくも,守備もいいのです。華やかさがあります。大山には悪いのですが,大山にはないスター性があります。大山は,みんなが4番サードで育てようという願いをもって育ててきて,本人も一所懸命にやってきたのですが,サトテルは最初からスターなのです。この違いはどうしようもありません。しかし,大山も優秀な選手なので,ケガが治って一軍にあがってきたとき,今度は,この選手をどう使うかが問題となりますね。交流戦では疲れが出てくるかもしれないサトテルをDHという手もありますが,問題は,交流戦のあとですね。それに外国人も大変です。外国人が打たないのは困るのですが,打ち過ぎると枠の関係でやっかいです。ロハスJrは,いまはまだ理想の防御率という程度の打率ですが,広沢氏の予言によると,慣れてくるととてつもなく打つことになるでしょう。サンズは勝負強いですが,外野の守備という点で,少し劣るでしょうかね。マルテは打つだけでなく守備もよいので,はずせないです。大山をレフトにして,ロハスJrがライトで,サンズが代打要員となると,すごい打撃陣となります。内野も競争は激しく,阪神で一番打率が高かった糸原が戦線離脱しましたが,あまり心配ありません。ルーキーの中野はミスも多いのですが,ここも矢野監督が辛抱してつかっていてエリート教育をしています。巨人からきた山本も懸命な姿がよく,それなりに結果も出しています。木波や北條は昨年からずいぶん我慢してつかってきましたが,今後の出番はちょっとなさそうです。むしろ若い小畑がいいですし,代走要員も熊谷,植田など強力です。
 ということでベテランには容赦ない実力主義をし,同じ程度のレベルなら若手を使う,将来的に中核となる選手には監督が責任をもって特別扱いをして反対論は封じる(エリート主義),外国人も多めにとって限られた枠のなかで競争させ特別扱いはしない,というのが光ります。しかも,この監督は,選手をファーストネームで呼んだりして,選手との距離が近いです。とてもフレンドリーな感じです。これって普通の組織でも参考になるかもしれませんね。矢野無能論もありましたが,名監督になる可能性を秘めているかもしれません。長期計画で阪神のことを考えてくれているようで,本人も本気で長期政権でやるつもりかもしれません。
 矢野監督への評価を下すのはまだ早いですが,とりあえずこれだけ勝ってくれただけでも,阪神ファンとしては満足です(阪神ファンは謙虚なのです)。ほんとうに怖いのはクラスターですね。

2021年5月19日 (水)

『労働法で企業に革新を』

 今日は,私のところに,もうすぐ刊行される本が2冊同時に届きました。同じ日に届くというのは偶然で驚きました。そのうち1冊は,すでにこのブログでも少し紹介していたテレワークの本である『誰のためのテレワーク―近未来社会の働き方と法』(明石書店)です。もう1冊は,『労働法で企業に革新を』(商事法務)です。今日は,後者のほうを,紹介しておきましょう。
 『労働法で企業に革新を』は,『労働法で人事に新風を』の続編で,前作と同様,小説仕立てです。女性社労士を主人公にしたものです。前作以降,なんとなく似たようなストーリー系の労働法の本がいくつか刊行されていますが,こちらが元祖です。もちろん私は小説家ではありませんので,あくまで小説風ということですが,いっときストーリー系のものはよく書いていたので,前作はあまり苦労せずに書いた記憶があります。最近はやや硬派になってきていたので,ストーリーものはちょっと無理かなと思っていたのですが,商事法務から続編はどうかという依頼をいただいたので,やってみようという気持ちになりました(このあたりの経緯は「はしがき」を読んでください)。
 ただ『労働法で人事に新風を』で主人公の戸川美智香の話は完結させたつもりでしたし,あろうことかプロローグで東京オリンピック2020と話をくっつけていたので,東京オリンピックがなかったり,延期されたりしたら,話のつじつまがあわないのですが,それをなんとか乗り越えるところから苦労が始まりました(どうやって乗り越えたかは本を読んで確認してみてください)。小説風の良さは,2018年の時点での話をしたり(したがって法律の状況も異なる),2021年秋以降の未来の話をしたりすることができることで,普通の法律書にはないものとなっています。
 今回は,前書の価格が高すぎるという反省(?)から,価格を下げるためにページ数を抑えることになったので,少し話の展開が急になっていますが,その急展開も楽しんでもらえればと思います。
 美智香は,相変わらずの大活躍です。今回は年下の相棒を得て,ますます良い味を出してくれています。全国の社労士の方の応援歌になればいいのですが。中上社長も相変わらずですが,彼も彼なりの新たな人生を見つけることになります。こちらは中小企業の経営者の生き方の参考になればと思います。
 今回は,前作で,美智香が田辺専務をやっつけるというオチが,主たる読者層であったシニアの皆様にあまり評判がよくなかったという話も聞いたので,オチはガラッと変えました。イメージは,水谷豊主演のドラマの相棒のラストに出てくる「花の里」での会話なのですが,あのように,ほっこりする会話で終わるのはちょっと苦手だったので,お酒を飲みながら終わるというところだけを採用して,ワインバーで,美智香がイタリアワインを次々と飲みながら相棒と会話をするという設定にしました。もうこれは完全に私の趣味の世界なのですが,本書を読めば,私の好きな大衆的なイタリアワインの紹介という「おまけ」がついてます。イタリアワイン初心者の方は,参考になるのではないかと思います(ソムリエの監修は受けていませんので,素人ワイン好きの域を越えていないことは,あらかじめお断りしておきます)。実は本書の執筆にあたり,本のなかで重複しないように,登場させたワインのメモをつくっていたのですが,これを本に掲載して欲しいと言い出す勇気はありませんでした。でも,もったいないので,ここに貼り付けておきますね(赤ワイン中心ですが,もし何か別の執筆機会があれば,もっと白ワインを充実させます)。本書の中ではカタカナ表記ですが,ここでは探しやすいようにイタリア語表記にしています(ローマ字読みをしてもらえれば,だいたいカタカナ表記になります)。


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本書で登場するイタリアワイン(vini italiani)


・赤ワイン(Vino Rosso) 
 Chianti classico(第1話)
 Brunello di montalcino(第1話)
 Barbaresco(第2話) 
 Langhe Nebbiolo(第2話)
   Barolo(第2話)
   Montepulciano d'Abruzzo(第3話)
   Etona Rosso (第4話)
   Sassicaia(第5話)
 Tignanello(第5話)
 Aglianico(第6話)
 Valpolicella (第6話)
   Negroamaro(第6話)
   Nero d'Avola(第6話)
 *(番外編)ハワイのVolcano Red (第6話)    


・白ワイン(Vino Bianco)
    Soave classico(第1話)
    Gavi(第2話)
    Orvieto classico(第3話)


・スプマンテ(発泡)(Vino Spumante)
    Prosecco(第3話)
    Franciacorta(第3話)
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 もちろん,労働法の話もしっかりしていますよ。旬の話題はしっかり取り込んでいるので,『労働法で人事に新風を』をまだ読んでいない方は,合わせて読んでいただければ,「労働法」について,中上社長と同じくらいには話せるようになるでしょう。それにしても,出版事情が苦しいと思われるなか,こういう本を出させてくださる商事法務の懐の深さには感謝です。楽しく学ぶ大人の労働法入門という感じになっていればよいのですが。



 

2021年5月18日 (火)

アスベスト(石綿)訴訟と一人親方

 昨日のアスベスト(石綿)訴訟の最高裁判所判決は,マスメディアにも大きく採り上げられましたね。国家賠償法の事件で行政法の話になりますが,労働安全衛生法が関係していることと,一人親方のことも出てくるので,興味がありました。
 4つの最高裁判決がでましたが,とくにみておきたいのは,「平成30年(受)第1447号,第1448号,第1449号,第1451号,第 1452号」で展開された,労働安全衛生法(安衛法)上の労働者ではない「一人親方」も,同法22条,55条,57条によって保護される範囲に含まれるとした論点についてです。まずは,この事件の最重要のポイントである,国が適切な規制をしなかったことについての責任から最高裁の判断をみておきましょう。
 「国又は公共団体の公務員による規制権限の不行使は,その権限を定めた法令の趣旨,目的や,その権限の性質等に照らし,具体的事情の下において,その不行使が許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠くと認められるときは,その不行使により被害を受けた者との関係において,国家賠償法1条1項の適用上違法となるものと解するのが相当である」と従来の判例を踏襲したうえで,「これを本件についてみると,安衛法は,職場における労働者の安全と健康の確保等を目的として(1条),事業者は,労働者の健康障害の防止等のために必要な措置を講じなければならないものとしているのであって(22条等),事業者が講ずべき具体的措置を労働省令(平成11年法律第160号による改正後は厚生労働省令)に委任している(271項)。このように安衛法が上記の具体的措置を省令に包括的に委任した趣旨は,事業者が講ずべき措置の内容が多岐にわたる専門的技術的事項であること,また,その内容をできる限り速やかに技術の進歩や最新の医学的知見等に適合したものに改正していくためには,これを主務大臣に委ねるのが適当であるとされたことによるものである。以上の安衛法の目的及び上記各規定の趣旨に鑑みると,主務大臣の安衛法に基づく規制権限は,労働者の労働環境を整備し,その生命,身体に対する危害を防止し,その健康を確保することをその主要な目的として,できる限り速やかに,技術の進歩や最新の医学的知見等に適合したものに改正すべく,適時にかつ適切に行使されるべきものである……。また,安衛法は,労働者に健康障害を生ずるおそれのある物等について,人体に及ぼす作用,貯蔵又は取扱い上の注意等を表示しなければならないとしている(57条)ところ,この表示の記載方法についても,上記と同様に,できる限り速やかに,技術の進歩や最新の医学的知見等に適合したものとなるように指導監督すべきである。このことは,本件掲示義務規定に基づく掲示の記載方法に関する指導監督についても同様である」とします(下線は筆者)。そして,本件については,次のように述べています。
 「本件における以上の事情を総合すると,労働大臣は,石綿に係る規制を強化する昭和50年の改正後の特化則[筆者注:特定化学物質等障害予防規則]が一部を除き施行された同年101日には,安衛法に基づく規制権限を行使して,通達を発出するなどして,石綿含有建材の表示及び石綿含有建材を取り扱う建設現場における掲示として,石綿含有建材から生ずる粉じんを吸入すると石綿肺,肺がん,中皮腫等の重篤な石綿関連疾患を発症する危険があること並びに石綿含有建材の切断等の石綿粉じんを発散させる作業及びその周囲における作業をする際には必ず適切な防じんマスクを着用する必要があることを示すように指導監督するとともに,安衛法に基づく省令制定権限を行使して,事業者に対し,屋内建設現場において上記各作業に労働者を従事させる場合に呼吸用保護具を使用させることを義務付けるべきであったのであり,同日以降,労働大臣が安衛法に基づく上記の各権限を行使しなかったことは,屋内建設現場における建設作業に従事して石綿粉じんにばく露した労働者との関係において,安衛法の趣旨,目的や,その権限の性質等に照らし,著しく合理性を欠くものであって,国家賠償法1条1項の適用上違法であるというべきである」としました。政府は労働安全衛生法に基づき適切な規制権限の行使が求められるのであり,それを行使しなかったことは国賠法上違法であり,国に賠償責任が課されるとするのです。
 本判決のもう一つのポイントは,上記の国の責任は,一人親方のような労働者でない者にも及ぶのかです。最高裁は,この点について,次のように判断しています。
 「安衛法57条は,労働者に健康障害を生ずるおそれのある物で政令で定めるものの譲渡等をする者が,その容器又は包装に,名称,人体に及ぼす作用,貯蔵又は取扱い上の注意等を表示しなければならない旨を定めている。同条は,健康障害を生ずるおそれのある物についてこれらを表示することを義務付けることによって,その物を取り扱う者に健康障害が生ずることを防止しようとする趣旨のものと解されるのであって,上記の物を取り扱う者に健康障害を生ずるおそれがあることは,当該者が安衛法2条2号において定義された労働者に該当するか否かによって変わるものではない。また,安衛法57条は,これを取り扱う者に健康障害を生ずるおそれがあるという物の危険性に着目した規制であり,その物を取り扱うことにより危険にさらされる者が労働者に限られないこと等を考慮すると,所定事項の表示を義務付けることにより,その物を取り扱う者であって労働者に該当しない者も保護する趣旨のものと解するのが相当である。なお,安衛法は,その1条において,職場における労働者の安全と健康を確保すること等を目的として規定しており,安衛法の主たる目的が労働者の保護にあることは明らかであるが,同条は,快適な職場環境(平成4年法律第55号による改正前は「作業環境」)の形成を促進することをも目的に掲げているのであるから,労働者に該当しない者が,労働者と同じ場所で働き,健康障害を生ずるおそれのある物を取り扱う場合に,安衛法57条が労働者に該当しない者を当然に保護の対象外としているとは解し難い。また,本件掲示義務規定は,事業者が,石綿等を含む特別管理物質を取り扱う作業場において,特別管理物質の名称,人体に及ぼす作用,取扱い上の注意事項及び使用すべき保護具に係る事項を掲示しなければならない旨を定めている。この規定は,特別管理物質を取り扱う作業場が人体にとって危険なものであることに鑑み,上記の掲示を義務付けるものと解されるのであって,特別管理物質を取り扱う作業場において,人体に対する危険があることは,そこで作業する者が労働者に該当するか否かによって変わるものではない。また,本件掲示義務規定は,特別管理物質を取り扱う作業場という場所の危険性に着目した規制であり,その場所において危険にさらされる者が労働者に限られないこと等を考慮すると,特別管理物質を取り扱う作業場における掲示を義務付けることにより,その場所で作業する者であって労働者に該当しない者も保護する趣旨のものと解するのが相当である。なお,安衛法が人体に対する危険がある作業場で働く者であって労働者に該当しない者を当然に保護の対象外としているとは解し難いことは,上記と同様である」。
 そして上述のとおり,「労働大臣は,昭和50101日には,安衛法に基づく規制権限を行使して,石綿含有建材の表示及び石綿含有建材を取り扱う建設現場における掲示として,石綿含有建材から生ずる粉じんを吸入すると重篤な石綿関連疾患を発症する危険があること並びに石綿粉じんを発散させる作業及びその周囲における作業をする際には必ず適切な防じんマスクを着用する必要があることを示すように指導監督すべきであったというべきところ,上記の規制権限は,労働者を保護するためのみならず,労働者に該当しない建設作業従事者を保護するためにも行使されるべきものであったというべきである。 以上によれば,昭和50101日以降,労働大臣が上記の規制権限を行使しなかったことは,屋内建設現場における建設作業に従事して石綿粉じんにばく露した者のうち,安衛法2条2号において定義された労働者に該当しない者との関係においても,安衛法の趣旨,目的や,その権限の性質等に照らし,著しく合理性を欠くものであって,国家賠償法1条1項の適用上違法であるというべきである」。
 労働安全衛生法57条の趣旨としての健康障害や危険からの保護は,労働者だけでなく,同じ作業場で働く労働者でない者にも及ぶとする解釈を示し(その理由として,同法が快適な職場環境の形成の促進を目的の一つとしていることに言及している点はやや意外でした),当時の労働大臣の規制権限は,労働者に該当しない建設作業従事者を保護するためにも行使されるべきであったとしたのです。
 国賠法上の事件ではあるものの,労働安全衛生法の規制のあり方として,実に興味深い解釈が展開されています。私は,労働法は労働者だけのものでよいのかという問題提起をしてきていますが,それでも労働基準法などの労働保護法は,やはり基本的には労働者に限定されるだろうと思っていました。労働安全衛生法も労働基準法の付属法であるので同じといえそうですが,ただ同じ危険にさらされる就労者の間で,労働者だけを守るのはおかしいという常識的な発想が,本判決のような柔軟な解釈を生み出したのでしょう。もちろん,事後的な損害賠償責任の存否に関する判断であったことは関係しているでしょうが,非就労者にも,事柄の性質に応じて労働者と同じような扱いをすべきであるという議論にもつながるものであり,それは先日の日経新聞の経済新聞でも書いた「第3の考え方」にも通じるものです。またアスベストは被害が大きいので話題になりましたが,労働の現場では他にも大小様々な危険があるのであり,労働安全衛生法の役割と,それを実際に運用するための規制権限を付託されている政府(厚生労働省)の責任が大きいことを確認した判決とみることもできるでしょう。
 なお,下級審では,一人親方には労災保険の特別加入が認められているという論拠も主張されていましたが,最高裁は,これは論拠には入れていませんでした。労災保険の特別加入は,あくまで非労働者に対する例外的な特例措置であり,それこそ立法がなければ認められるべきではないといえるからです(最近は,簡単に特例の範囲を拡大させているようにもみえますが)。
 いずれにせよ,同判決は,研究会で若い研究者の手でしっかり検討してもらえればと思っています。

2021年5月17日 (月)

越境テレワークと準拠法

 今朝の日本経済新聞に「越境ワーク」といって海外に住みながら日本企業で働く人の例が紹介されていました。テレワークであれば技術的には可能でしょう。労務管理の問題は,企業が対応する気になればできないことはありませんが,法律の適用問題は結構やっかいです。
 国際的な労働関係においては,どの国の法律が適用されるかがまず問題となります。法律のルール自体は,法の適用に関する通則法という法律に決められていて,その12条に労働契約の特例があります。原則はどの国の法律が適用されるかは当事者の選択(準拠法選択)で決めることができるのですが,最密接関係地の法以外の法が選択された場合には,労働者を保護するために,最密接関係地の特定の強行規定は,労働者がそれを適用すべき旨の意思表示をすれば,その規定も適用されることになります。最密接関係地の法は,労務提供すべき地の法がそれになると推定されます。また法律に書かれていない「絶対的強行法規」という概念もあると解されており,それはその法規の適用範囲に含まれていれば,当事者の選択に関係なく適用されます。強行規定は,当事者がそれと異なる合意をしても,裁判になると優先的に適用される規定のことですが,国際的労働契約では,最密接関係地の特定の強行規定は,準拠法でない場合には,それを適用すべきことの意思表示があってはじめて裁判官は適用することができます。一方,絶対的強行法規は,そもそも何がそれに該当するかは明確ではないのですが,公法的な性格をもつ法律が当事者の意思に関係なく,その適用範囲にあれば当然に適用されるというものであり,例えば労働基準法は,事業が国内のものであれば,同法は適用されることになります。これを「絶対的強行法規」という概念をつかって説明する必要があるのかについては,私は若干懐疑的です(ちなみに『人事労働法』(弘文堂)では,「絶対的強行法規」には,あえてふれていません)。
 ところで,私が『人事労働法』(弘文堂)で問題提起したのは,今後,テレワークが広がったとき,労務提供地という概念で準拠法を決めていく発想が適切なのかということです(272頁補注⑵)。たしかにテレワークであっても,どこかのリアル空間で仕事をしているわけですから,その地が労務提供地といえるのかもしれません。アメリカの大学で教える日本人の教員が,日本の自宅からオンライン授業をして,学生はフランスに住んでいるというような場合,労務提供地は日本になるのでしょうね。もし準拠法がアメリカ法と選択されても,日本の労働契約法16条の適用の意思を表明すれば,同条が適用されます。一方,労働基準法の適用については,事業がアメリカで展開されているとなると,認められなくなるのでしょうね。
 準拠法などは,このようにして,決めようと思えば何とかなるのですが,次のような場合はどうでしょうか。ある日本の大学が外国の講師を採用して,国内で授業をしてもらうつもりであったが,コロナ禍で来日できなくなり,外国からオンライン授業をしてもらうことになりました。学生は日本の教室で大きなスクリーンをとおして受講していたとします。本来予定していた教室に学生を集めたうえで,教員はオンラインで授業をしたのですが,これは大学側がオンラインでもリアル教室で授業を行うのと同じようにできると判断したからです。そのとき,たしかに教員の労務提供地はその外国となりそうですが,授業は国内で行われたといえるでしょう。さて最密接関係地はどことなるのでしょうか。とくに外国人教師が,その本国での日本法より有利な内容の強行規定の適用を求めたときに問題となります。最密接関係地を労務提供地とするのはあくまで推定であり,推定は立証により覆すことは可能性です。ただ,そもそも労務提供地は日本であると言えないでしょうかね。大学側としては,授業はあくまで外国からオンラインを経由して日本で行っていると考えているでしょう。それなら授業をするという労務提供は日本でなされているといえないでしょうか。
 これがやや苦しい解釈としても,実は私が想定しているのは,オフィスもオンライン上にあり,経営者のみならず,全従業員もテレワークであるという場合で,主としてVR(仮想現実)を使って業務を遂行している場合です。この場合も,経営者も各従業員もリアル空間でパソコンをつかって働いているわけですが,業務が遂行・展開されているのはネット空間上です。労務提供地を,個々人のリアル空間でパソコンを使っている場所としてもよいのですが,何か実態に合わない感じがします。これが私の問題提起です。現行法の解釈でも対応は可能なものの,テレワークを想定すると,新しい発想のルールが必要なのではないか,ということです。労働基準法についても,リアル空間の「事業場」概念の根本的な見直しが必要ではないかと思っています。




2021年5月16日 (日)

花見忠『労働問題60年』

 昨日は花見先生の論文にもふれましたが,今日は,花見先生からお送りいただいた『労働問題60年―東と西の架け橋を夢見て』(信山社)を紹介させていただきます。「卒寿記念」と書かれていました。「インタビュー 花見先生に聞く」,「論説」,「花見先生を語る」の三部構成です。
 私にとって花見先生は,レジェンドのような存在で,国内で要職を歴任されるだけでなく(中央労働審議会会長,中央労働委員会会長,日本労働研究機構研究所長と,労働法学者のトップがつく三大ポストを経験されています[現在なら労働政策審議会会長,中央労働委員会会長,労働政策研究・研修機構理事長が三大ポストでしょうね]),国際的に活躍する大スター学者というイメージです。むかしむかし,あまり冗談を言われない菅野先生が,花見先生はたとえ飛行機が墜落しても生き残るような方だと言われているのを聞いたことがあって,そんなすごい人なのだと思って驚いたことがあります(菅野先生が,どの点をとらえてそのような比喩を使われたのかよくわからないのですが)。論文を書くときに花見説を引用したという記憶はほとんどないのですが,私の学識のなさが,花見先生の研究と交錯しなかったからでしょうし,先生が力を入れられていた均等法関係のものについて私がほとんど研究をしてこなかったことも関係しているのでしょう。
 実は,先月の神戸労働法研究会で,国際労働基準の実効性という話が出てきたなかで,花見先生が20年くらい前に「世界の労働」でILOの中核的労働基準は西欧的な価値観の押しつけであると批判的に書かれていたことを若手に紹介したところでした(「グローバル化時代におけるILOの役割と今後の課題」。本書では210頁以下に収録されています)。私自身,西欧の人権論のいかがわしさを強く感じてきたのですが,日本人のなかには,日本批判のために,安易に欧米のことを持ち出して欧米のようになろうという人が現在でも後を絶ちません。私はそうした議論に反発しているのですが,この論文を読んだとき,花見先生のような国際的に活躍されている方も,そういう感覚をもってやってこられたことを知って心強く思ったことをよく覚えています。
 「インタビュー」のところは,前に紹介した菅野和夫先生の『労働法の基軸: 学者五十年の思惟』のやや堅い感じとは違い,花見先生が高弟の小畑史子さんと楽しそうに語っておられる雰囲気がいいですね。関西と縁もゆかりもなさそうなのに,なぜ阪神ファンなのかという前から不思議に思っていた疑問も解けましたし,花見姓の由来もわかって面白かったです。 
 「論説」は全部しっかり読みました(上記の論文のようにすでに読んだものもありましたが,はじめて読むものがほとんどでした)。切れ味の鋭さはさすがで,たんなる解釈学者を超えた真の一流の学者とはこういうものかということを再確認させられました。「働き中毒のすすめ」は素晴らしい労働文化論ですし,随所にあるユーロセントリズム批判も,上述のように深く同感します。均等法関係のものは,女性をほんとうに尊重するとはどういうことかを追求されているのであり,半端な差別禁止規制で満足する役人への(愛ある)批判の舌鋒も鋭いです。でもこうした労働法関係のものよりも,もっと感銘を受けたのは,「『法の支配』の幻想について」(347頁以下)です。これは法律関係者もそうでない人も必読の論考ですね。日本の法学史に燦然と輝く大学者である田中耕太郎,団藤重光への失望をはじめ,権力批判と弱者へのヒューマニタリアン的な視点は,一流の法学者のもつべき徳を感じさせられました。さらに「従軍慰安婦問題」に対する「声明」に署名した海外の研究者への失望,とくにドナルド・ドーアへの率直な批判も読みごたえがあります。海外の日本通とみられる人も,日本に対する見方は西欧中心主義のフィルターをとおした偏見は除去できていないのです。自分の主張に都合がよいときだけ日本をつかっていて,だからこそ従軍慰安婦のような十分な実証的なデータのない問題について情緒的な議論に乗って批判をしてしまうのであり,実はもともと真の意味でのアカデミックな姿勢に欠けている人たちだったのではないか,という批判がこめられているような気がします。その意味で,この本にも紹介されているBob Heppleは偉大な学者だったのです(私も一度だけ海外で一緒になったことがあるのですが,真の意味の紳士でした)。
 よくある記念論集のようなものではありません。後にも先にもこうした学者は出てこないので,誰もまねはできませんが,その論説をたどるだけでも勉強になるので,若い研究者に広く読んでもらいたいですね。


2021年5月15日 (土)

三菱樹脂事件最高裁判決とプライバシーとバランス論(長文です)

 プライバシーは,なかなか法的に扱いにくい概念です。ビジネスガイドの「キーワードからみた労働法」でも,第151回のテーマに「プライバシーの保護」をとりあげましたが,理論的には未解明の部分がたくさんありました。憲法上は,古典的な「一人にしてもらう権利」から,徐々に「自己情報コントロール権」としての側面が重視されるようになってきていると言われていますが,このことが労働法上の議論にどう影響しているかはよくわかりません。情報という点では,個人情報保護法の制定・改正により,個人情報保護の充実化が進んでいるようにみえますが,実はそれほどでもないという見方もできます。労働者の同意を得ないで取り扱うことができる範囲が結構広いからです(『デジタル変革後の「労働」と「法」―真の働き方改革とは何か?』(日本法令)310頁~311頁)。それなら労働法の固有の理論のほうが,より保護されていると言えるかもしれません。
 ところでプライバシーは,同書の第7章「デジタル技術がもたらす新たな政策課題」で挙げた4つの政策課題(個人情報の保護,プライバシーと差別,格差,教育)の一つに採り上げていました。そこでは一つの法領域として発展してきている個人情報の保護を独立させ,プライバシーは,その侵害(とくにプロファイリング)が差別につながるという観点から「プライバシーと差別」をくっつけるという整理にしていますが,もちろん個人情報の保護とプライバシーはほぼ重なっていて一緒に論じるべきテーマです。『人事労働法』(弘文堂)では,第10章の「デジタル変革後の労働法」のなかで,テクノロジーを活用したプライバシー保護のあり方を論じていますが,現行法については,総論の第2章「人格的利益の保護」のなかの第4節「人格的自由の保障」のなかの「(3)私的自由の保障」のなかで主として扱っています(そのほかにも複数の箇所でプライバシーという概念は出てきます)。ただ,本格的なプライバシー論の展開はしていません。
 ちょうど学部授業で「採用の自由」のところの順番になっていて,三菱樹脂事件・最高裁判所大法廷判決の「調査の自由と思想・信条」を説明しようと準備しているのですが,同判決については,『最新重要判例200労働法(第6版)』(弘文堂)でも書いているような「今日では,プライバシー権の保護という観点から疑問がある」(19頁)というコメントくらいしかなく,ちょっと物足りなく思っています。個人的には3月に,神戸労働法研究会と神戸大学社会システムイノベーションセンターの共催で,テレワークとプライバシーのシンポジウムも開くなど,プライバシーについては関心をもっており,大学院生がこのテーマで研究をしているので,一緒についていこうと思っています。
 昨年度の大学院の授業でもプライバシーのことを扱っていましたが,そのときに,大学院生の報告のなかで文献として採り上げられていたなかに,労働法律旬報の「最高裁判例法理の再検討」という企画のなかで石田信平さんが担当した「採用の自由―三菱樹脂事件」がありました(1956号(2020年)34頁以下)。石田論文は力作で,多くの人が論じてきた三菱樹脂事件・最高裁判決に新たな理論的貢献をするものと思われます。詳細は論文を読んでもらいたいのですが,ポイントは,まず調査の自由については,思想・信条は労働者の能力評価に関係することを前提としたうえで,職業上の必要性に限定したものに限定するのか(厚生労働省の公正採用論),そのような限定を付さないのかが問題となるが,同論文では後者の立場にたつとします。その理由は,いくつか挙げられていますが,一つは,日本の雇用システムが,ジョブローテーションが予定されているものが多く,人に対する評価が人事評価の基軸となる向きがあること,という点です。たしかに三菱樹脂事件は,現在の日本型雇用システムを想定したものなのですが,もしジョブ型が進んでいくとどうなるかはわかりません。拙著『人事労働法』でも,「今後は,特定の業務の遂行のための即戦力の人材を採用するジョブ型雇用が増えていくことが予想されるので,従来の採用の自由論は修正を余儀なくされるだろう」と書いています(6364頁)。ただ私自身は,ジョブ型に移行しきっていない現状でも,厚生労働省の公正採用論でよいという立場を採っています。『人事労働法』の基礎にある「良き経営」のためには,特定の思想や信条を排除するような姿勢そのものが社会的に非難されるべきものだと考えるからです(このことと,違反に対する法的サンクションの問題は切り離すところも,人事労働法の特徴です)。
 花見忠先生はかつて,「入社試験は人物判断であり,ビューティ・コンテストの質問ではないから,思想に関係する質問をしないわけには行かない」とし,「入社試験で何を聞くかなどという問題は法の統制の範囲外の問題なのである」,と述べておられました(「思想の自由と雇用関係」ジュリスト553号(1974年)63頁)。法律で統制できないのはそのとおりですし,花見先生も社会的責任まではいわないとしても,学生時代の政治運動にこだわるような企業は次元の低い軽蔑すべきものだと書かれているので(同64頁),私とそれほど基本的な考え方は変わらないかもしれません。でも,採用を人物評価とみて思想・信条を問題にしてよいという部分はどうも納得できないところがあり,それを半世紀近く経って石田さんが再び支持しているところは驚きでもあります。もっとも花見論文は,思想差別は立法論としては規制すべきとし,司法では適切な解決ができないので,アメリカ法をモデルに,迅速・適切な救済機関を行政において設置すべきだという,均等法関係でも主張されてきた有名な提言につながっていきます。この部分は,今日ではエンフォースメントの問題として論じられるべきものであり,そのようなものとして議論はかなり進展しています。『人事労働法』では,労働者性の判断のところなどで,行政機関をつかった事前手続といった提言をしており,花見先生ともしかしたら発想が近いことを言っているかもしれません。ただ花見先生は司法では救済内容が不十分になるという認識があるのに対して,私は司法での救済は当事者の予測可能性がたたないから適切でないと考えており,そこには微妙な差があるかもしれませんが,司法ではなく行政を活用するという点では,花見説を継承しているかもしれません。
 さて本題のプライバシーのことですが,石田論文では,プライバシー概念について,上記のような「一人にしてもらう権利」から「自己情報コントロール権」に重点が移行したというのではなく,より強く前者から後者に転換したとし,後者の立場から,真実告知義務については,応募者のほうに開示情報選択権があるという解釈論を展開します。YesNoでしか答えられないような具体的な質問であればともかく,ある程度幅のある抽象的な質問であれば,その応答としてどのような情報を開示するかは労働者が選んでよいというのです。そして,差別禁止などに該当する質問には虚偽応答権もあるとします。これは従来の学説が言っていた,真実告知義務に関する「真実応答義務」と「自発的申告義務」をめぐる議論を乗り越えて,自己情報コントロール権という観点から統一的に捉えようとする発想であり興味深いです。花見先生は「ウソをつく権利」を認めるなんて非常識だと書かれていましたが,石田論文は,そこは違います。『人事労働法』では真実告知義務に言及するだけで(94頁),虚偽応答権については論じていません。『人事労働法』で追記するとすれば,応募者が答えたくないと述べた場合には,なぜその質問が「能力や適性」の判断に関係するかについて誠実説明をして,応募者への納得説明を尽くして答えてもらうことが必要だという書き方になるでしょうね。虚偽応答権を認めるのは,個人的にはやりすぎだと思います。権利というものが,出てこないような解釈論を考えるべきだというのが,人事労働法のスタンスですので(自発的申告義務も認められるべきではありません。必要な質問をきちんとするのは企業の責任と考えるからです)。でもそれは私の独特の労働法論によるものです。石田論文は,オーソドックスな労働法学の議論に乗った上で,真実告知義務とプライバシーをめぐる議論に一石を投じるものといえるでしょう。
 1点だけ気になるのは,同論文のなかで,私の「雇用強制についての法理論的検討-採用の自由の制約をめぐる考察-」『菅野和夫先生古稀記念論集 労働法学の展望』(有斐閣)97頁が採り上げられ,私の見解は「解雇に対する制約そのものが,企業者の採用の自由の根拠となっているとするもの」と紹介され,「採用と解雇の両者に対する制約が許されない根拠は明らかではない」として,萬井隆令先生の論文を挙げながら,批判されている点です。萬井先生の論文は,「『採用の自由』論復活の試み」労働法律旬報1834号(2015年)39頁以下のものです。萬井先生一流の「学説滅多斬り」ですが,個人的には,私の見解も丁寧に紹介していただき,そして「説得力がない」ということで,ばっさり斬られています。もちろん,萬井論文を読んでいただくとわかるように,私の見解への批判にはやや苦労されているようにも思いますが,説得力の有無というレベルの話だと,どうしようもないところがあります。説得力のなさはお互い様と言いたいところもあります。いちおう,石田論文で言及されているので,少し検討しておくと,私の論文では,簡単にいうと,最高裁は「出口」で規制をしているから,「入口」では自由を堅持するという形でバランスをとったのではないか,と指摘しているのに対し,萬井先生の批判は,入口も出口も規制することはありうるのではないか,ということで,実際にEUの有期雇用法制はそうであるし,日本の均等法は入口も出口も規制しているではないか,というのがその理由です。前者については,EUの規制はバランス論とは別のロジックである無期雇用原則から来るものなので,批判は当を得ていません。後者については,私の論文では,規制は2段階に分けてみるべきとし,均等法は第1段階の規制(制約をするかどうか)はあるが,第2段階の規制(制約違反の場合に採用強制があるか)まではしていない(通説)ので,そこでバランスをとれているということになるのです。この論文のポイントはこの2段階構造の指摘なのであり,その当否は議論の対象となるでしょうが,論文の全体の主張をよくみないで批判されているような気がして,だから萬井批判も私には「説得力」がないのです。石田さんも,萬井先生と同じように私見をみているのでしょうかね(どちらにせよ,二人とも私見を採り上げてくださることは有り難いことです)。
 上記のバランス論は最高裁の採用の自由論の論拠とされるものの一つであり,もちろん私は肯定的に紹介しているわけですが,この点は,『雇用社会の25の疑問―労働法再入門(第3版)』(弘文堂)の84頁以下でも,少しだけ展開して述べています。これは,解雇のときに差別をしたらダメだからといって,採用のときに差別してよいわけではなかろうという誤解にもとづく私見への批判を意識したものです。私が言いたいのは,日本の解雇規制の下では能力不足を理由とする解雇を難しくしている以上,採用段階でじっくりと本人の判断をできるようにするのはバランスがとれているというものであり,これが採用を強制しても,能力不足であれば解雇できる(実際に解雇が容易かは別の問題),アメリカとの違いだということです。これはロジックとしての話であり,ロジックですので,異なるロジックもありえます。実は私自身の学説は,『人事労働法』で示しているように,解雇についての判例の権利濫用論(現在は労契法16条)には批判的ですし,採用の自由についても見直しを求めているのであり,上記のバランス論とは逆に,解雇の規制をゆるめ,採用の自由の規制を強化するというバランスをとるべきだという立場です。規制の強化といっても,採用段階では,第1段階における制約にとどまり,第2段階では法的なサンクションをともなわない社会的責任が求められるという程度にとどまるものですが。さらに自説を説明すれば,企業は能力・適性に基準を設けて採用することはもちろん可能で,それに合致しない場合には解雇はできるが,その基準はできるだけ具体的に明確にして就業規則にきちんと明示し,採用段階では応募者にそれを開示すべきであると考えています。こうした私見については,労働法学では,採用のところは賛成だが,解雇のところは反対だという意見もあるかもしれませんが,それはそれでバランスがとれていないことになるでしょう。私の『人事労働法』で展開されている採用の自由についての考え方は,難解かもしれませんが,もし理解をしてもらえれば,萬井先生にそれほど叱られるような内容ではないと思っています。もっとも,それは三菱樹脂事件・最高裁大法廷判決の解釈をめぐる採用の自由に関するものであり,労働者派遣法40条の6などの立法に対する評価は,依然として萬井先生とは深刻な対立は残りそうです。実は,菅野古希で書いた論文は,こうした立法に対する批判をするための理論的分析を試みたものであり,三菱樹脂事件判決の当否はメインテーマではありません。そして,この論文は,「法律による労働契約締結強制-その妥当性の検討のための覚書き-」法律時報90巻7号7頁以下(2018年)という論文に展開していくことになります。



 



 



 



 



 

労働者に対する刑事罰

 しつこくこのテーマで書きます。改正公益通報者保護法において,公益通報対応業務従事者が公益通報対応業務に関して知り得た公益通報者を特定させる情報を,正当な理由なく漏らしてはならないという秘密保持義務(12条)に違反した場合に刑事罰を科すこと(21条)への疑問についてです。ただ現行法上も,いくつか同じような秘密保持義務が労働者に課されています。
 一つは労働安全衛生法で,健康診断や面接指導などの実施の事務に従事した者に対して,その実施に関して知り得た労働者の秘密についての漏示を禁止しており(105条),この義務の違反に刑事罰が定められています(1191号。「六月以下の懲役又は五十万円以下の罰金」)。これは従業員への義務とは限らず,むしろ医師や看護師を想定しているのかもしれません。刑法134条の秘密漏示罪は,1項で「医師,薬剤師,医薬品販売業者,助産師,弁護士,弁護人,公証人又はこれらの職にあった者が,正当な理由がないのに,その業務上取り扱ったことについて知り得た人の秘密を漏らしたときは,六月以下の懲役又は十万円以下の罰金に処する」と規定しています。刑法上の秘密漏示罪の対象となる者に対して,労働安全衛生法がより重い罰則を科すということであればわからないではないですが,実施事務者の範囲に一般従業員が含まれるとすると,これは重すぎるような気もします。
 職業安定法511項は職業紹介事業者等の従業者にも,正当な理由なく,その業務上取り扱ったことについて知り得た人の秘密を漏らしてはならない,という秘密保持義務を罰則付きで定めています(669号で,30万円以下の罰金)。センシティブな個人情報に接しなければならない特別な事業を行う企業の従業員の秘密保持義務を厳格に定めたということですね(そういう会社に雇用されるときには,それなりの覚悟が必要ということですかね)。なお労働者派遣法では派遣元の従業者にも同様の秘密保持義務を定めています(24条の4)が,こちらは(私の見落としがなければ)刑事罰がありません。
 ほかにも不正競争防止法上も営業秘密の漏洩についての刑事罰などの例がありますが,いずれにせよ公益通報対応業務従事者の秘密保持義務は,これらと比べても刑事罰が適切といえるかはやはり疑問なのです。労働法は労働者を保護することを目的とするものであり,たしかに今回の刑事罰付き秘密保持義務は公益通報する労働者を保護するための規定ではあるのですが,それが他の労働者の刑事罰によって担保されるということになると,今度はその労働者の保護も考えなければならないということになりますよね。

2021年5月14日 (金)

藤井聡太二冠の20連勝ならず

 藤井聡太二冠の20連勝(デビュー時に29連勝した藤井二冠としてはたいしたことがない数字かもしれませんが,普通の棋士にとってはありえないような連勝数です)を阻止したのは,意外と言っては失礼ですが,深浦康市九段でしたね。深浦九段はA級経験もあり,タイトルも複数回獲っている強豪ですが,順位戦は現在B2組であり,どうみても上り調子の藤井二冠の勝ちは堅い感じでしたが,そうはならないところが将棋の面白いところですね。先週,王座戦の挑戦者決定トーナメントで深浦九段が見事に藤井二冠に勝利しました。永瀬拓矢王座にとっては,強敵が去ってほっと一安心かもしれませんが,おそらく渡辺明三冠(名人,棋王,王将)がここでも勝ち上がってくるので,渡辺三冠にはなかなか勝てない永瀬王座としては,ヒヤヒヤでしょうね。渡辺三冠は,次の広瀬章人九段戦が山場でしょう。
 藤井二冠の三つ目のタイトルは王座かなと思っていたのですが,そうはなりませんでした。それよりも,二冠の防衛戦が始まります。棋聖戦は,渡辺明三冠が決勝で永瀬王座に勝ち,挑戦者となりました。棋聖戦は66日に始まります。渡辺三冠にとっては,昨年奪われたタイトルを取り戻す戦いとなりますね。
 藤井二冠のもう一つのタイトルの王位戦は,藤井,渡辺,永瀬と並ぶもう一人の四天王の豊島将之二冠(竜王・叡王)が紅組で優勝し,白組は若手を蹴散らした羽生善治九段が永瀬王座を抑えて優勝し,両者で挑戦者決定戦を行います。藤井二冠としては,対戦成績で分が悪い豊島二冠が来ても,また通算100期という前人未踏のタイトル獲得に挑む羽生九段が来ても,たいへんな戦いになるでしょうね。
 叡王戦も本戦のトーナメントが進行中で,ここでは順調にいけば,早い段階で藤井・永瀬戦が実現しそうです。今年もいまのところは四天王を中心にタイトル戦は動いていきそうですが,そのなかでは羽生九段の頑張りが光りますね。

2021年5月12日 (水)

経済教室登場

 ちょうど半年ぶりに日本経済新聞の経済教室に登場しました。ギグワークというテーマについて法的な観点から書いてもらえないかという依頼でした。ちょうど3年前にフリーランスの法政策のことを書いていたのですが,それと多少重なってもよいがギグワーク中心でという依頼でしたので,前に書いたような具体的な自営的な就労者への法整備についての提言はせずに,もう少し大きな観点から論じようと思いました。前半は労働者性と使用者性の話を中心にしたのですが,なにせ字数が限定されていますので,少しわかりにくい内容となったかもしれません。従来の労働者性や使用者性の議論では,いつまで経っても,裁判紛争が終わらないし,裁判紛争で決着がついて使用者性や労働者性が否定されたとしても,ギグワークを活用して事業活動をしている企業は,社会的責任を負うべきであり,政府も法制度設計をする際は,そうした社会的責任を果たせるようなシステム作りが必要だ(そうなると社会的というより法的責任になるともいえるのですが,それはこれまでの労働法的な意味での使用者としての責任とは異なるものと考えるべきです),というのが書きたかったことです。拙著『デジタル変革後の「労働」と「法」』(日本法令)では,労働者の自営化のほうに焦点をあてていて,その過程で起こるギグワークやクラウドワークについては,どちらかというと労働者に該当する場合は労働者,それ以外は新たな方法(記事で書いていた第三の立場)でやればよいということであったのですが,そこをもう少し踏み込んで,そもそも企業の社会的責任として,個人の自営的就労者の労働力の活用には,それなりの責任をもつべきで,ただそれについては労働法的な公法的な規制よりも,インセンティブをもっと活用して,企業を良き経営にするようにどうしたら誘導できるかということを考えるべきだ(この点は,拙著『人事労働法』と共通の問題意識)ということを主張しました。具体論としてギグワークにどのような法制度が必要かということを書いてもよかったのですが,その前提になるのは労働者性,使用者性の話なので,そこを論じることにしたので,いささか理念的な議論になってしまったかもしれません(このテーマでもう一人執筆者がいると聞いていたのですが,どういう方が書かれるかわからなかったので,絶対に重複しない内容にしたという意味もありました)。自営的就労者の保護として,どういうものが具体的に考えられるかは,拙著の『会社員が消える』(文春新書)145頁以下で比較的詳しく論じているので,関心のある方はそこも参照してください。
 経済教室では,これまで解雇,労働時間,派遣,非正社員,自営的就労者など旬のトピックでいろいろ書いてきました(今回が10回目ですね)。かなり尖ったことも書かせてもらい,有り難いことです。字数がきつく,読者が法律の素人ということが前提なので,その意味でも,よい訓練をさせてもらいました。ただ労力は半端なものではありません。いまは疲れを癒やすまもなく,今月締め切りの判例評釈が1本あるのに加えて,字数がたっぷりある依頼原稿が夏までに3つあり,がんばっています。加えて授業の動画の準備にも追われています。昨年から咳の発作もなく,ここまで順調に来ているのですが,コロナだけでなく,咳の原因が起こらないように,身体に気をつけて頑張りたいです(日経新聞の吉行和子さんの「私の履歴書」では,喘息の苦労のたいへんさがよく伝わってきます。よくそれを乗り越えられたなと思い,そのがんばりに頭が下がる思いです)。

2021年5月11日 (火)

家呑み

 店でお酒の提供がダメということになって,私の行きつけの店であったところの多くは,長期休業のところが増えてきました。テイクアウトのみというところもあります。先日も地元の「悠玄」で1個5000円の弁当(ご飯なし)を買いました。高かったですが,大将の取引先の人たちを支えたいという心意気に打たれました。味はもちろん素晴らしいですが,どちらかというと高級な酒の肴という感じです。家で好きな酒とあわせて飲めるので,私は5000円の元は十分にとれた気がしますが,店は料理だけでは利益が出ないでしょうね。まだ若い大将の元気のなさそうな顔をみて心配です。また六甲での中華料理の名店「アムアムホー」のテイクアウトもいただきました。絶品でしたよ(ゴールデンウイーク限定だったようです)。こちらは「料理の変態」と呼ばれる松本さんは健在のようですが,やはりお酒を出せないのは大変でしょう。その斜向かいにあり,かつて神戸労働法研究会の忘年会で貸切にしたこともあるワインバー「Pas mal」も休業中のようです。
 家呑み生活が1年以上も続くと,飲酒のスタイルも変わってきますよね。店にいくと,いろんな飲み物を少しずつということができますが,家ですとスペースの関係でいろいろは置けないので,これというものに決めて飲むことになります。ウイスキーは,前にも書いたように,現在はイチローズモルトです。焼酎は,いまは金山蔵ばかりです。日本酒は,家ではあまり飲みませんが,やはりこだわりたいのは黒龍ですね。「黒龍の龍」(大吟醸)がお気に入りですが,入手は簡単ではありません。研究会のあとによく行っていた「魚喰」で,山本君たちと(普通の)黒龍をがんがん飲んでいたのが懐かしいです。「魚喰」はHPやインスタグラムがなさそうなので,現在の状況がわからないので少し心配です。
 ワインだけは,家でもセラーがあるので,いろいろそろえて楽しんでいます。イタリアワイン中心で,ときどきスペインのテンペラニーリョ(temperanillo)ですが,白は他国のものも飲みます。近所の「いかりスーパー」はコスパの良いイタリアワインを多く置いているのですが,陳列が乱雑で残念です(店舗の責任者がワインの価値をわからずに並べているというのが,よくわかります)。オンラインでは成城石井のワイン揃えが優秀です。そのほかワイン専門のオンラインショップをいくつか使っていますが,イタリアワインを多く扱っているところがあまりないのが残念です。
 ということで,毎週の瓶缶のゴミ出しの時の量がすさまじくなっています(環境のためには,イタリアにいたときのように,瓶を持参して,ワイン屋の樽から入れてもらうということができたらよいのですが,さすがに神戸では無理そうです)。外食しなくなったので体重は減ったのですが,家で飲む量が増えて肝臓に負担がかかっているかもしれません。コロナの間接的な健康障害はいろいろ言われていますが,飲酒による肝臓被害も要注意ですね。毎日,「酒豪伝説」を飲んでいます(定期購入しています)が,これで大丈夫でしょうか。今年の人間ドックは,毎年行っているホテルオークラ神戸内のクリニックの予約がなかなかとれずに(密を避けるために1回あたりの人数を制限しているのかもしれませんね),結局7月末となりました。そのときまでには「γ-GTP」を下げておかなければ。でもグラス片手にこんなことを書いているようでは,ダメですね。

2021年5月10日 (月)

公益通報者保護法改正(続き)

 公益通報対象業務従事者への罰則適用に対する批判については,数日前に投稿しましたが,すぐに,これは自民党PTの発案であったようだということを追記していました。実は,こうした罰則の例は,2019年に制定されたEU版公益通報者保護法にあたる指令にもみられるものでした。
 同司令をみると,16条は守秘義務(Duty of confidentiality)という見出しで,その1項において,「加盟国は,通報者が誰であるかが,通報の受領やフォローアップをする権限のある定められた職員以外には,通報者の明示の同意なしに,開示されないようにするものとする。このことは,通報者が誰であるかが,直接的または間接的に推測できるようないかなる他の情報にもあてはまる」と定めています。そして,この義務に違反した場合について,罰則(penalties)を定めるものとされています(231d号)。ただ具体的に誰にどのような罰則を科すかについては,明記されていません。
 ところで,この指令には前文があり,そこでは立法の際に考慮すべきことが挙げられています。その56項において,だいたい次のようなことが書かれていました。
「民間部門の法人において,報告書を受領したり,フォローアップしたりする権限を有する者として指定されるのに最も適切な個人または部署の選択は,法人の構造によるものとなるが,いずれにせよ,その職務(function)は独立的でかつ,利益相反がないことが確保されるものでなければならない。小規模な団体では,この職務(function)は,コンプライアンス担当役員,人事担当役員,インテグリティ担当役員,法務・プライバシー担当役員,最高財務責任者,最高監査責任者,取締役会メンバーなど,組織のトップに直接報告できる立場にある会社役員が兼務することもあろう」。
 これによると通常の従業員に,こうした業務を担当させることは想定されていないように思えます。きちんと訓練を受けたり,スキルをもっていたりするプロ人材(欧州ではジョブ型であることに要注意)が従事するものであり,そういう人であれば,違反があった場合に,事の重大性に鑑み罰則を科すという選択はありうるような気がします。ただ,前定状況が異なる日本では,同じように罰則を定めることには慎重であるべきです。EU指令では,専門職のようなイメージであるのに対して,日本ではそうではないのではないでしょうか。このあたりは,もう少し調べてもらって,ガイドラインの見直しなどの際に検討してもらえればと思います。
 ところで,事前に消費者庁の人が私にヒアリングに来たときのことは,このブログか,それ以前のブログで書いたような気がするのですが,立証責任の転換とか,不利益取扱いへの罰則とか,そういうことについて意見を聴かれた記憶があります。前者はそういう裁判になったときの保護のあり方は弁護士的な視点であり,従業員が内部告発しようかどうかの決断にはあまり影響がないし,後者は不利益取扱いについて事業者に罰則があるからといって従業員は内部告発に向かうとは思えないというようなことを話した覚えがあります。労働基準法104条の例からみても,そのようにいえるでしょう。
 この論点は実は私が『人事労働法ーいかにして法の理念を企業に浸透させるか』(弘文堂)で書いた権利論から義務論へという話がぴったりあてはまりそうです。公益通報に対する報復に対して戦う権利を従業員に与えるより,いかにしたら企業がそういうことをしないか,ということを考えていくことこそ重要なのです。企業性悪論に立たないという私の立場からは,企業にインセンティブをどう設定するかが重要で,とくに内部通報体制を整備するためのインセンティブをどうするかが重要なのです。改正法では,違反すれば最終的には企業名公表があるぞという威嚇をしていますが,もう少しうまいやり方はないかなと思います(内部通報体制の整備に力を入れるようにするくらいなら,より直接的に違法行為をしないような体制の整備に力を入れるべきというような気がしないわけでもありませんが)。
 内部告発については,私は公益通報者保護法ができる前夜くらいの時期に日本労務研究会で独自の研究会を立ち上げてもらって(独自のというのは,厚生労働省の委託研究ではないという意味です),この法律の動きとは関係なく,研究をしていました。著名な実務家でおられたIBMの小島浩さんにもご参加いただき,いろいろお聞きするなかで,内部通報前置主義(内部通報優先主義)でいけるという確信をもち,研究会の成果をまとめた『コンプライアンスと内部告発』(2004年,日本労務研究会)(https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784889680584)という本のなかでも,そういう方向性を打ち出した整理をしています。あの本を読んだどこかの若手研究者が,高い値段を出して買ったのにたいしたことが書いてなかったと愚痴っていたという話を耳にしたことがありますが,値段の付け方がおかしいのはそのとおりです(これはTさんの責任ですが,いまとなれば懐かしい思い出です)が,企業性悪論が優勢な労働法理論のなかで,内部通報を重視して企業の自浄作用が機能するよう誘導しようという発想を出していた点は,もう少し評価されてもよいのかなと思っています。
 ところで,前述の『人事労働法』で採用した手法は,公益通報者保護法的な,内部通報体制をきちんと整備しなければ外部通報を保護してしまうぞというタイプの威嚇的誘導ではなく,より直接的に企業がどうすればよいかという行為規範を明確にし,それを遵守しているかぎり様々な私法上のサンクションの適用がないという形でインセンティブを与えるというものです。公益通報者保護法およびガイドラインも,これと同じように,適法な行為と評価されるための内容を行為規範として明確にして,それを遵守しているかぎり,内部告発者(公益通報者)に対して処分をしても適法となるというようなインセンティブを与えることまで踏み込むことができればよいと思います。いまもし意見を求められたら,そういう意見を述べるでしょうね。
 それはさておき,ジュリストの1552号(改正公益通報者保護法の特集号)のなかには,同僚の島村健さんが行政法学の観点から検討した論文も掲載されていました。今回の改正で,公益通報者保護法は,「行政法規の執行手段としての性格を強めた」(61頁)と書かれているのをみて,なるほど行政法の観点からは,こうみるのかというのがわかり勉強になりました。行政法規の執行体制の問題であるとすると,行政機関こそが本気で取り組んでくれなければ困ります。どうすれば行政機関やその職員たちが,企業のコンプライアンスに向けて前向きに取り組んでくれるかということが問題となり,ここでもインセンティブの設計方法が検討されるべきかもしれません。そういう意味では,この法律は,ものすごく法律家的な匂いがするものなのですが,実は経済学者の知見こそもっと借りるべきだと思えますね。

 

 

2021年5月 9日 (日)

トップアスリートはワクチンを接種するか

 IOCの委員としてセバスチャン・コーが来日していると知って,ずいぶん懐かしい名前だなと思ったのは,私と同世代以上の陸上ファンでしょう。私の高校時代は,中距離走(800m,1500m。欧米だけでやっているマイル走もあります)は陸上の花形でした。400mまでは,セパレートで走りますが,800mは途中で合流するので,そこでの格闘技的な戦いが面白いのです。短距離ではありませんが,それに近いものであり,総合的な走力のある人が勝つという感じでした。いまではこの距離もアフリカ勢が圧倒的な強さを誇っていますが,かつてはイギリス勢が強かったのです。なかでもコーとスティーブ・オベットのライバル関係はすごくて,みていて楽しめるものでした。二人とも陸上界のレジェンドです。とりわけコーの強さは記憶によく残っています。ということで,コーの名前を聞いて,懐かしい気分になったのですが,東京オリンピックを推進する立場で来ているので,少し複雑な気分です。
 オリンピックについては,池江選手に辞退を求める動きなど,困った方向に動きつつありますね。選手を巻き込んではいけません。国民に歓迎されないオリンピックは珍しくないのでしょうが,日本でそれが起きようとしているのは残念です。日本人の誰かがメダルをとれば,国民は喜ぶという政府関係者の声もあるようですが,陸上ファンの私も,オリンピックに関心を失っており,多くの国民もそうではないでしょうか。そもそも,トップアスリートは集まるのでしょうか。私はテレビが耐久年数をはるかに超えていて画面がおかしいので,買い換えようか迷っていますが,それはオリンピックのためではなく,阪神の佐藤輝明をみたいからです。佐藤はオリンピック代表に選ばれそうですが,オリンピックでの佐藤には関心はなく,あくまで阪神の4番サード佐藤がみたいのです。
 オリンピック反対論はすでにずいぶん書いてきたので,ここではもう書きませんが,一つだけ,すでに多くの人が言っていることでしょうが,あらためて言っておきたいのは,選手にワクチンを打ってもらうというのは無理ということです。トップアスリートは,厳密な健康管理をしてきているわけで,ワクチンの接種により一時的とはいえ体調不良があると言われているなか,彼ら・彼女らが接種することは考えにくいでしょう(メジャーの大谷翔平も開幕前のワクチン接種で開幕時は体調不良であったと言っていました)。ゴルフの松山選手のようなプロも参加することを考えておく必要があります。だから,ワクチン接種という選択肢は最初から排除したうえで,それでも大丈夫という展望を政府は提示すべきでしょう(みんな平等にワクチンを打てば条件は同じという意見はあるかもしれませんが,トップ選手にそれを強制できるか疑問です)。

2021年5月 8日 (土)

改正高年法の施行

 20214月に,高年齢者就業確保措置の努力義務を定めた改正高年法が施行されています。65歳までの高年齢者雇用確保措置に続き,65歳を超えても,努力義務とはいえ,企業に従業員の就業確保を義務づけており,しかも,就業形態の選択肢に,過半数代表の同意を得たうえで,業務委託契約などの非雇用契約での就業も含めた点が重要です。私はこの非雇用契約での就業をさせる措置である「創業支援等措置」に注目し,ビジネスガイドに連載中の「キーワードからみた労働法」の最新号のテーマに採り上げています。
 季刊労働法270号に掲載されていた山川和義さんの論文をみると,この非雇用契約での就業という選択肢を認めていることについて,ずいぶん辛口のコメントがされています。同論文では,雇用契約から非雇用契約へのチェンジを認めると,生活のために働き続けなければならない高年齢者に,保護の劣る働き方を強制することになるという見方をしていて,法が「働く意欲のある高年齢者がその能力を十分に発揮できるようにするための環境整備を目的とする」としているのに,それに応えられていないというのです。一方で,同論文は,企業に70歳までの就業確保を義務づけることにも否定的な見解を述べています。そして,高年齢者就業確保措置の努力義務を定めた10条の2について,「意欲をもつ高年齢者がその多様な事情を踏まえて,多様な選択肢の中から,できるだけ当人の就労意欲に沿った就業を選択できるような環境整備のために,今後も内容の充実が必要と思われる」という結びになっています。ただ,具体的にどのようにすればよいかについては,短時間就労を認めるべきということくらいしか書かれていません。
 定年が60歳という法制度の下では,65歳以降の就業にあまり法が介入することはバランスを欠きます。65歳までならともかく,65歳を超えると,そこは本人の多様な選択が尊重されるべき年齢で,雇用という働き方を標準モデルとすべきではありません。しかもデジタル変革のなかで,これからはフリーで働くのが一般化していくという流れがあるのです。今回の改正は,65歳を超えていて,就労者全体のなかでは,平均的には最も保護の必要性が弱くなる年齢層において,いわば実験的にフリーでの働き方を雇用政策に正面から取り入れるものとして,注目すべきなのです。さらに社会貢献事業とのリンクも注目されるべきです。社会貢献事業を行っているNPO法人などが,企業と連携し,その企業で65歳を迎えた経験豊富な社員を業務委託などの形で受け入れるというのは,企業が70歳までの雇用(就業)責任を果たしながら,従業員の意欲と社会のニーズに合致できるような働き方を実現できるという意味で望ましいのです。むしろ,過半数代表の同意などは不要とすべきなのです。
 これからの企業は社会課題の解決に貢献するということを旗印にしていかなければなりません。従来からあるCSRの議論だけでなく,株主からのESGの要請もあるし,SDGsも考慮しなければなりません。そうしたなかで企業にいかにしてインセンティブを与えて,そういう責任を果たすような事業活動ができるかが政策として重要なのです。こうした観点からみれば,これまで高年齢者就労の研究をしていた人(とくに年齢差別禁止論者)からは,いろいろ物足りないところもあるのかもしれませんが,私は今回の法律の精神は悪いものではないと思っています。企業にいるシニア人材(65歳以上の人であることを忘れてはなりません)と,社会貢献事業のリンクは良い発想です。私は,むしろそれが本当にうまく機能するかが心配です。努力義務だけでは不十分で,次のステップとして,しっかりとしたインセンティブもつけて,高年齢者の活用と社会貢献事業への寄与という二重の意味での社会貢献をするよう企業を誘導する政策を展開してもらうことを期待しています。働き方改革実行計画の宿題に無理矢理答えを出したという面もあるかもしれない法改正ですが,私は今回の法改正の内容は悪くないと思っています。今後の展開を見守りたいと思います。

2021年5月 7日 (金)

藤村博之編『キャリアデザイン入門』

 藤村博之編『考える力を高めるキャリアデザイン入門―なぜ大学で学ぶのか』(有斐閣)は,はじめはよくある入門書のたぐいではないかと思いましたが,せっかくいただいたので,あまり期待せずに読み始めたところ,これが予想に反して,とても面白かったです。私は大学生ではありませんが,定年も視野に入ってきているようなおじさんが読んでも,ためになりました。私が学生達に伝えたいことの多くも,この本には詰め込まれていました。
 労働の連鎖(私たちの生活はたくさんの人に支えられている)は,大切な視点ですし(第1章,第4章),「頭の体感を鍛える」(第2章)ことの重要性は,私が若い研究者に死ぬほど勉強しろ(死ぬほど働けと上司が言うと今の時代はパワハラになるのですが)と言うことに通じています。「やってみなければわからない」(第7章)というのも,そのとおりです。研究については,迷わず進んでいこうというのが私のモットーです。とくに気に入ったのは第4部「変化に挑む」です。異文化と接触することの重要性はそのとおりです。「外国に行って最も聞かれるのは日本のこと」と「相手が持っている知識の体系に合わせて説明する」(第10章)は,私自身が留学して強く感じたことで,実践的なアドバイスになっています。異文化コミュニケーションを経験することは,自分の視野を広げると同時に,知的体力をつけることになります。「自分の中に語るべきものを持っていること」(第10章)もそのとおりで,英語は下手でもかまわないのです。相手が聞こうとしてくれれば勝ちです。流ちょうな英語でも内容がなければ軽蔑されます(もちろん最低限のレベルは必要ですが)。第11章「仕事の未来を考える」も,いつも私が述べていることですが,これは大学生よりも,すでに就職してしまっている40代以下の人こそ考えなければならないことでしょうね。第12章「変化対応力を鍛える」ことも重要です。私は,たんに適応力(アダプタビリティ)といっていますが,変化に対応できるための基礎力を鍛えなければならないということです。そして第13章「世界の中の日本」も良い章です。キャリアと直接関係ないようですが,そうではありません。国際的な視野をもつことは,充実したキャリアを展開するために不可欠な教養です。こういう視野をもたないおじさんたちが日本の支配層に多いことが,日本が二流・三流国になろうとしている原因です。終章の「考える力を高める」も,月並みですが,とても重要です。日本の教育になかったものです。大学はきちんと授業を聞いてくれれば「考える力を高める」ようになるはずなのですが,残念ながら大学生はあまり授業に来てくれません。大学に入学したときに,本書を読んだ学生は,大学で学ぶ意味を確認でき,充実した学生生活を送ることができるでしょう。できれば拙著の『君の働き方に未来はあるか?』,『勤勉は美徳か?』(以上,光文社新書),『会社員が消えるー働き方の未来図』(文春新書)も合わせて読んでもらえれば,より理解が深まると思いますよ。

 

 

 

2021年5月 6日 (木)

緊急事態宣言の延長

 兵庫県も緊急事態宣言の延長がありそうですね。11日に終わると思って楽しみにしていた人にとってはがっかりでしょう。とくに飲食店の方には同情を禁じ得ません。客観的には11日で終わるのは無理だとは思っていましたが,11日という期日を示されると,ちょっとは期待してしまいますよね。緊急事態宣言が出ても,生活はあまり変わらないから,延長してもらってもよいという,あっけらかんとした意見も出ています。こうした人の行動をしっかり制限しなくては,飲食店も我慢のしがいがないですね。
 実際,自宅からみていると,中学生たちの登下校は密閉ではありませんが密集・密接で,マスクをしている以外はこれまでと同じです。ここでも行動制約がないのと同じです。おそろしく無防備な状況が放置されている感じです。ソーシャルディスタンスというのは,学生には適用されないことになっていたでしょうか。学校はどんな指導をしているのでしょうかね。対面型授業を優先というような馬鹿なことをいう役所があるから,こういうことになっている気もします。GIGAスクール構想などと言っているのに,このコロナ禍の一番危険なときに,ICTを活用しなくてどうするんでしょう。クラスターが起こる代表的な場所は,老人施設と学校だそうです。学校は要注意なのです。教育は健康に優先するものではありません。しかもオンラインで教育はできるのです。
 大阪では感染しても治療を受けられない状況で医療崩壊と言われています。神戸も似たような状況になりつつあります。治療を受けられず,座して死を待たなければならない人たちの無念さと,子ども達の無邪気な通学風景のギャップは,いったい何なのでしょうかね。  
 テレワークも残念ながら進んでいませんね。以前から予告していた明石書店からのテレワーク本が,ようやく今月末に刊行されます。タイトルは『誰のためのテレワーク?』となりました。現在のコロナ禍のことだけではなく,これからのデジタル社会においてテレワークという働き方は不可避となるというこれまでの持論を基礎に,より踏み込んで「なぜテレワークなのか」を論じたものです。経営者も労働者もフリーワーカーも,そして政府関係者も,ぜひ本書を読んでテレワークに本気に取り組んでもらいたいです。政府はもちろんテレワーク推奨を言っているのですが,自分たちがリモートで活動していないから説得力がありません。だからこそ本書を読んで,テレワークの意義をしっかり理解してもらいたいです。

 

2021年5月 5日 (水)

オンデマンド型授業

 学部のオンデマンド授業が始まってから1ヶ月弱経ちました。授業の正規のカレンダーに合わせて,事前に動画を作るという作業をしています。今日も明日の授業用の動画を作りアップしました。これで明日の授業について私がやることは完了です。私の場合は,パワーポイントのスライドに音声を吹き込むという形式ですが,1スライドに10分くらい話していたところで,外の音が入ってしまい,もう一度,やり直すというようなことも少なくなく,実際には動画の時間の2倍近くを作業に費やしています(もちろんそれ以前にスライドを作成するのに多くの時間を掛けています)。ときには何度もやり直しているうちに録画中に疲れてしまい,翌日に続きをやることもあって,学生には,突然,途中で声の調子が変わっていて聞き苦しいところがあるかもしれません。そこは我慢してもらえればと思っています。徐々にあまり細部にこだわらず,言い間違えがあったり,外部の音が入ったりしても,ひどいものでなければやり直さずにどんどん進んでいくようになっていますので,声の調子が途中で変わるということはなく,こちらも録画時間を短縮できるようになって作業は効率化しています。それでも上述のように動画の2倍近くの時間はかかりますが。
 動画はYouTubeにアップして限定公開です。視聴回数が示されているため,だんだん減っているのがわかります。ただ,これは対面型の講義でも同じですね。前期は5月をすぎると学生数は減っていきますから。また対面型の講義は後ろに座っていて,どうみても授業を聞いていなさそうな学生がいるのですが,オンデマンド型だと視聴する学生はとりあえずは授業を聞こうという意識をもっているでしょうから,ほんとうに授業に熱心な学生の数が把握できますね。オンデマンドで,一方通行になりがちのため,課題を出して提出を求めることもありますが,それにより,対面型にはない学生との接触ができている感じもします。この方式の授業しか知らない1年生であれば,これで十分と思うかもしれませんね。
 対面型の授業のときは,講演をしているようなつもりで,目の前の聴衆(学生)を相手に(とくに熱心に聴いている学生や,こちらの話にうなずいてくれるような学生に視線を向けて)話しかけるという感じで,もちろん各回のテーマはありますが,聴衆の反応をみながら脱線したり,時事ネタを盛り込んだりというようなことをしていたのですが,オンデマンドはきっちりと話すべきことを話すということになり,こちらのほうが緊張し,ライブ感はありません。ただ,どっちのほうがよいかというと微妙で,オンデマンドのほうが知識の定着という点ではよいのでしょう。今学期の学部授業は,『雇用社会の25の疑問』(弘文堂)を教科書に使っていることから,知識を体系的・演繹的に教えるということではなく,トピックから入って,そこから帰納的に必要な知識を学んでもらうという方式をとっており,最後にそれを体系的に理解できるような話をして全体像を理解してもらおうと思っています。
 それとオンライン授業だと,試験のやり方も変わります。従来は,知識問題と事例問題を出していましたが,多くの論点のなかのわずかしか出さないので,せっかくよく勉強していても,苦手な論点にあたったりしたら,成績がとれません。全部を勉強しておくべきなのですが,学生にはどれが重要な論点かわからないところがあります。授業中にここは重要だとか言って,そういうところを試験に出しているのですが,あまりきちんと聴いてくれていない学生が多いのが現実でした。しかも私の試験は,過去問からどういう論点を出すかは容易に推測できそうなものですが,そこまで調べて良い点をとろうという意欲がある学生はそれほど多くなかったのです。オンラインではTake Home型の試験もあり,これだと,たまたま勉強していなかった論点だから失敗したということはなくなります。こういう試験は採点が大変となりますが,学生の実力をしっかり評価するという点では適切かもしれません。司法試験などの国家試験は,時間が限られた試験となりますが,法科大学院以外では,同じような試験を期末試験でやる必要はありません。むしろ多くの学生は,卒業後は国家試験と関係しない一般就職であり,社会に出てからは,一定の期限までに与えられた課題をこなすことが求められるほうが多いでしょうから,Take Home 型の試験に慣れていたほうがよいのではないかと思います。
 いま大学は,普通ではなかなかできないような社会実験をしているのだと思います。コロナ禍で学生生活を送りオンライン授業で学習した学生とそうでない学生の社会に出てからのパフォーマンスの違いにどう差が出るかは興味深いところですね。

2021年5月 4日 (火)

シェーンコーポレーション事件高裁判決について(摩訶不思議な法律論)

 ずっとコメントをしたいと思いながら残していた裁判例に,シェーンコーポレーション事件・東京高裁判決(2019109日)があります。年次有給休暇(年休)に関する事件です。上告不受理で確定してしまったのですが,おかしい判決だと思いました。この判決は,昨年の日本労働研究雑誌724号のディアローグにおける両角道代さんのコメントにほぼ賛同するので,詳しくはそちらもご覧になってください。
 年休について労働基準法が定めているのは,まず付与される最低保障日数であり,次いで年休日の特定方法について①労働者の時季指定(自由年休),②労使協定の締結による計画年休,そして新たに働き方改革で導入された③使用者の時季指定という三つが定められています。②は労働者の自由年休5日を超える部分とされています。労働者の年休日数が10日とすると,労使協定の締結により5日は自由年休,5日は計画年休とすることは可能ですが,労使協定が適法に締結されていなければ10日分の年休日はすべて①(労働者の時季指定)により特定されます。
 ややこしいのは,法定外年休が加わったときです。法律で定めているのは最低日数なので,それに年休日数を追加することは可能です。例えば,法定の年休日が10日の労働者に,10日を追加して合計20日与えることは可能です。この追加の10日分は法律の縛りがないので,先ほどの①から③の特定ルールが適用されず,使用者が自由に特定方法や取得方法を決めることができます。
 この事件では20日の年休を付与するとしたうえで,5日を超える部分は計画的に付与すると就業規則に定められていました。ところが適法な労使協定は結ばれていませんでした。そのため,法的には,労働者の法定の年休が10日の場合,その10日分はすべて①の方法で特定させなければならないことになりました。一方,もともと法定外の10日分は,特定方法の制約はないので,会社が計画的に指定することは合法で,それは労使協定の有効性には左右されません。だから会社が計画的に付与してきた15日のうち5日分は法定の年休分なので会社の指定した日に年休をとらなくても問題はなく,別の日に労働者は時季指定をして年休を取得できます(時季変更権が認められる場合は除く)が,残りの10日は法定外の年休日の付与ですので,労働者は会社が計画的に指定した日にしか取得できないことになります。
 この事件の労働者は,勤続半年経過後に1年で10日,その次の1年に11日の法定年休(自由年休)があったので,就業規則は15日とされていた会社付与年休は,法的には, 1年目が10日,2年目が9日になります。それで労働者は,実際にどう休んだかというと,1年目は会社付与年休を10日,自由年休を6日取得し,2年目は会社付与年休を4日,自由年休を29日取得しました。法定年休である自由年休は正しくは101121日のはずですが,35日取得しているのです。14日は勝手に休んだということになりそうであり1審はそう判断したのですが,高裁ではそうならなかったのです。高裁は,どのように言ったのでしょうか。
「被控訴人がその就業規則において定める計画的有給休暇制度においては,法定年次有給休暇と会社有給休暇とを区別することなく,年間の有給休暇20日のうち,15日分について,被控訴人がその時季を指定することとされている……ところ,……被控訴人が時季を指定することができるのは会社有給休暇に限られ,法定年次有給休暇については,時季を指定することができない。そして,被控訴人は,法定年次有給休暇と会社有給休暇を区別することなく15日を指定しており,そのうちのどの日が会社有給休暇に関する指定であるかを特定することはできない。したがって,上記の指定は,全体として無効というほかなく,年間20日の有給休暇の全てについて,控訴人がその時季を自由に指定することができるというべきである」。

 実際には会社は就業規則どおり自由年休以外に15日の年休付与をしているのですが,先にみたように会社が年休の指定ができるのは法定年休を超える部分だけなので,1年目でいうと5日分,2年目では6日分は,超過して指定しています。その部分は会社の指示にしたがわずに,労働者が自由年休を取得できるのは当然です。ところが,裁判所は,会社は15日指定したもののうち,どの日が法律上自由年休となる部分かが特定されていないので,15日分の会社の指定全体が無効となり,結局,15日すべてについて労働者が自由に取得できるとしたのです。
 それなら,会社が実際に付与して,労働者も休んでいた日があるけれど,それはどうなるのかというと,それは会社が労働債務を免除した日だから,休んでも問題はないのであり,だからといってその日が,労働者が自由に指定できる年休日に充当されることもない,としているのです。
 結果,会社が認めた2年で40日の年休はすべて自由に取れるので,この労働者の自由年休35日の取得はその範囲内であり問題ないし,労働者はこれとは別に会社が付与した年休を14日取得しています(その結果,合計49日年休を取っています)が,会社付与年休はそもそも10919日あり,それは労働債務の免除なので,14日休んでも19日の範囲内なので問題ないということです。
 労使協定を適法に締結しなかったばかりに,会社は大変なことになったのですが,でもこの判断は法律論として正しいのでしょうか。ジュリスト1552号の判例評釈で,経営法曹の中町弁護士も,詳細な検討をしたうえで,判旨のロジックはおかしいが,結果として,この判断は正しいとしています。
 前述のように,(継続勤務半年後の)1年目のところでみると,労働基準法が使用者に義務づけているのは10日の年休を付与することで,あとは特定方法の問題となり,この事件当時は①か②だけで,②が違法であれば①の原則にもどるはずです(労働基準法13条,労働契約法13条)。だから労働者が自由にとれるのは10日だけとなりそうです。
 それではなぜ中町弁護士は,そうならないと考えられたのでしょうか。それは法定年休と法定外年休とを区別していない場合には,両者は同一に扱うべきとする判例(エス・ウント・エー事件・最高裁1992218日判決)があり,それが適用されるからだというのです。前述のように,就業規則は労使協定による計画年休ができない以上,自由年休5日+計画的(会社付与)年休15日という定めは,法律の世界では,法定(自由)年休10日+法定外年休10日と書き換えられ,法定外年休は本来,自由に取得方法を定めることができるので,会社付与でよいはずだけれど,法定年休と法定外年休が区別できない場合は,両者は同一扱いとなると解釈する判例が適用されて,結局,法定外年休もまた会社付与ではなく,法定年休と同様に労働者の時季指定によるとするのが合理的意思解釈であるとするのです。本来こうした解釈があてはまるのは,会社がとくに法定外年休の取得方法について特に定めていなかった場合です。本件では,会社には15日分は会社が指定するという意思は明確であり,そのうち5日分の会社指定は違法としても,残り10日分の会社指定のところまで合理的意思解釈でひっくり返されるのは,やや無理な法律論ではないかと思います。ただ中町弁護士は,2年で40日の自由年休は認められるとしても,なお9日分の無断欠勤はあるとして,最終的に雇止めを無効とする高裁の判断には疑問を述べられています。
 この会社が年間20日の年休を付与するのは,法定年休がマックスの20日に達している労働者を除くと,法定以上の年休を付与しようとしている点で望ましいことをしているわけですし,確かに年休日の特定方法について,労使協定の締結に瑕疵があって10日は自由に取らせなければならないところを,5日しか自由に取らせることはできないとしてしまったところには大いに問題があったわけですが,当初の就業規則で認めていた10日を超える法定年休の21日(2年分)までは無断欠勤としてはならないのは当然としても,全部で35日(2年分)も自由に年休を与え,さらに会社が付与した14日も合わせて全体で就業規則の2年分の年休40日を超える49日も休ませている会社に,年休の取得のさせ方に問題があったとして批判を加えるのは適切でないようにも思えます。法律論レベルでも上記のような疑問があるし,実質論レベルでも非常にバランスの悪い判決になっている印象を否めません。
 実務上の教訓としては,会社は,労働基準法を軽視していると,常識ではなかなか理解できないような,驚くような法解釈によって,裁判で負ける可能性があるということです。年休や割増賃金などは特に要注意です。しっかりコンプライアンス(法令遵守)に努める必要があります。
 なお人事労働法の立場からは,今回の労使協定をほんとうに違法とすべきなのか,というところは気になるところです。現行法の解釈としては難しいところはあるのですが,私自身は,労使協定は,過半数代表という制度への疑問から,協定の締結という形をとらなくても,過半数の支持を得ているかどうかの確認さえできていればよいという考え方であり,また事業場単位というのも,就業規則の適用対象者の過半数でみてよいと考えています。本件の就業規則条項は,講師を対象としたものであり,その講師の過半数が支持しているということがもし確認できるならば,少なくとも私法レベルでは,実質的な問題はないと考えることもできるのではないかと思います(『人事労働法』(2021年,弘文堂)拙著30頁も参照)。なぜ過半数要件があるのかを,もっと実質的に考えてみようという問題提起です。

 

2021年5月 3日 (月)

労働者に安易に刑事罰を定めるな

 公益通報者保護法の改正は,労働法の一分野ということでもあるので,いちおうフォローしていますが,2020年の法改正では,保護の対象が役員(+退職者)にまで広がっており,労働法からはみ出ています。中小企業では役員といっても従業員兼務であることが多いという実態があり,労働者に準じた保護が必要ということはあるのでしょう。もっとも,役員の追加は,保護の対象者を広げたというより,役員こそ重要な情報をもっているので,コンプライアンスを重視するならば,役員に公益通報をしてもらいたいということもあるのでしょう。報酬減額は禁止され,また解任から免れることはできませんが,損害賠償請求はできると明記されました。これで,どこまで役員の公益通報へのインセンティブになるかは疑問ですし,よく考えると,役員には外部通報や行政通報するより,内部で是正措置をしてもらう必要があるのです。内部の改善を目指して頑張ったけれどどうしようもないと孤軍奮闘している役員を保護する規定なのでしょうかね。こういう法律の規定があるからといって,外部通報する役員はどこまでいるのでしょうか。やる人は,法律に関係なくやるような気がしますが。
 他にもツッコミどころ満載の法改正で,人事労働法の観点から言いたいこともあるのですが,それは別の機会にします。ここでは一つだけこれはダメだという規定を指摘しておきたいと思います。それは公益通報対応業務従事者が,公益通報者の名を漏らした場合に刑事罰が科されるとしている点です。公益通報者の名を漏らすというのは,もちろん最悪のことです。ただ,公益通報対応業務従事者に守秘義務を課し,違反したら懲戒処分にするという程度までならわかるのですが,違反に刑事罰まで科されるというのは驚きです。事業者のほうには内部通報に対応した体制整備義務違反があっても,せいぜい勧告や公表などの行政措置を受けるにとどまっていることに比べて明らかにバランスを欠いています。これはジュリスト1552号の論文で東北大学の桑村裕美子さんも指摘しています。労働保護法規にみられる両罰規定もないので,企業は刑事責任に問われません。
 この業務は一般の従業員がやる可能性があります。業務に付着した刑事罰があるようなものに配属されたら,よほどの高い報酬をもらわない限り,たまったものではないでしょう。上司から誰が通報したか言うようにとの指示があり,それを漏らしてしまえば,上司も共犯となるでしょうが,本人も刑事責任が問われるというような業務なのです。
 こうした業務への配転は,人事権の範囲を超えるので,労働者の同意がなければ認められないと解すべきでしょう。ただ,これは解釈にすぎないので,指針レベルで,きちんと労働者の納得同意が必要と明記すべきでしょうが,どうも最近出た「公益通報者保護法に基づく指針等に関する検討会報告書」にはそういう記述がありません。「従事者を定める方法として,従事者に対して個別に通知する方法のほか,内部規程等において部署・部署内のチーム・役職等の特定の属性で指定することが考えられる。後者の場合においても,従事者の地位に就くことを従事者となる者自身に明らかにする必要がある」と書かれているのですが,緊張感がないですね。
 労働法の通常の感覚では,労働基準法上の使用者(刑事責任が問われ,これには人事部長など一定の地位にある労働者が含まれます。同法10条参照)とされるような立場でもないのに,労働者に刑事罰がある規定を設けるのは,従属労働論をベースにする労働法の研究者からすると,異常に思えます。「正当な理由」があれば免責されるとされていますが,指針には注でごちゃごちゃ書いているだけです。指針を作成する検討会のメンバーには労働法関係者が入っていないように思えますので,こういう反対論を言う人がいなかったのかもしれません(労働組合の関係者はいるようですが)。
 刑事罰は,行為だけをみているからそうなるのです。その人の置かれた地位というものまでみなければいけないのです。もしあなたが,公益通報者特定業務に従事してもらうと企業から通知を受けて,研修はしっかりするけれど,秘密をもらしたら刑事罰だから気をつけるようにと言われたらどう思うでしょうかね。
 公益通報者の保護は必要ですが,そのための体制を整える第一の責任主体は企業であって,企業内部で従業員にしかるべき責任を課すのはありえるとしても,国家が責任を負わせるのはおかしいです。そもそも,改正法の11条の1項(事業者が公益通報者対応業務従事者を定めるという規定)と2項(事業者に公益通報対応に必要な体制整備の義務を課す規定)は順番が逆であり,どういうわけか消費者庁は個人責任に邁進したように思えます。厚生労働省は,消費者庁所管の法律なので,遠慮したのでしょうか。それとも何も問題意識はなかったのでしょうか。

⇒[追記]最後の点は,どうも刑事罰導入は,自民党の「公益通報者保護制度に関するプロジェクトチーム」の発案だったようです。 こうなると役所の手には負えないでしょうね。国会は立法府ですが,どんなに行政のほうで丁寧に立法のための議論を重ねても,土壇場で与党が無思慮なことをすれば台無しになるということですね。

2021年5月 2日 (日)

冷たい鼻の駱駝

 家の中の本の整理をしていたら,筒井康隆『断筆宣言への軌跡』(光文社)という古い本が出てきました。何度も引っ越しをするなかでも,ずっと捨てずに持っていたものです。筒井作品は,最近は読んでいませんが,昔はよく読んでいました。ところで,この本のなかに「冷たい鼻の駱駝」という名のエッセイが収録されています。1975年のものです。「冷たい鼻の駱駝」とは,砂漠において駱駝が外が寒いので鼻だけでもテントの中に入れさせてくださいと願うのを聞いれて,いったんテントに入れてしまうと,どんどん中に入ってきてテントごと駱駝に占領されてしまうという話です。日本語では庇を貸して母屋を取られる,となるのでしょうかね。たいしたことがないと思ってうっかり認めてしまうと,実はたいへんな結果を引き起こしてしまうことを含意しています。
 当時,日本ペンクラブの会長である石川達三(第1回芥川賞受賞作家)は,言論の自由には譲ってよいものとそうでないものがあり,後者の例がポルノであるとしました。野坂昭如が「四畳半襖の下張事件」で猥褻物頒布等罪(刑法175条)で罰金10万円の判決を受けていたなど,猥褻的な表現が問題となっていたときですが,筒井康隆は石川会長の発言について,「冷たい鼻の駱駝」のことを知らぬわけではないだろう,と批判したのです。
 ポルノ表現の禁止を認めると,次々と規制が広がり,やがて表現の自由はなくなってしまうことを,筒井氏は危惧していたのです。まっとうな人権感覚です。彼自身もその表現に対して抑圧を受け,言葉狩りに抵抗して,例の断筆宣言につながったのです。「冷たい鼻の駱駝」は,まだ決着がついていない日本学術会議の任命拒否問題でも,学問の自由への権力の介入との関係で想起する必要があるように思います。憲法記念日に,表現の自由や学問の自由のことを,いまいちどしっかり考えてみたいものです。
 ところで,この四畳半襖の下張事件は最高裁まで争われ,そこで裁判長を勤めた栗本一夫は,あの『(増補版)パンツをはいたサル』(現代書館)の栗本慎一郎のお父さんです。栗本慎一郎が,この判決に示唆を与えていたことを匂わす記述が,同書のなかに出てきます(145頁)。栗本慎一郎は,まったく別の切り口から,この有罪判決を支持しています。なぜ彼はそう考えているかの詳細は,同書を読んでみてほしいのですが,そこには人類とはどういうものか,法とはどういうものかなどに関する同氏の壮大な理論体系があります。ここでの話でいうと,人類社会では,ポルノ表現くらいのものを禁止しているのがちょうどよいのであり,ポルノ表現を解禁してしまうと,人類はもっと違うことを禁止し違反者に対してもっと激しい制裁を科すようになる,ということでしょう。それに文学者たるもの,タブーに挑戦して罰金刑を受けることは名誉なことであり,それを表現の自由に対する権力の介入といった無粋なことを言わず,「いいものはお代を払ってやるべきだ」と鼻で笑って欲しいというのです。
 どちらの見方もあると思いますが,少なくとも学問の自由への制約については,やはり「冷たい鼻の駱駝」論を支持したいところです。

 

 

 

 

2021年5月 1日 (土)

争議行為の正当性

 関西外国語大学事件・大阪地判2020129日(平成29年(ワ)2949号)のなかで,争議行為と団体交渉の関係について,次のような判示部分が出てきます。
 「争議行為の態様が,団体交渉において業務命令によって命じられた義務が不存在であることの確認を協議事項としつつ,争議行為として当該義務の履行そのものを拒否するものである場合,当該争議行為は,当該義務の不存在確認に関する団体交渉を促進する手段としての性質を有することは否定できないものの,他方で,当該義務の不存在確認という目的自体は,争議行為によって,団体交渉を経ずして達成されることになるから,当該争議行為は,労使間の合意形成を促進するという目的を離れ,労働組合による使用者の人事権行使となる側面がある。そのため,上記態様の争議行為は,常に正当なものということはできず,団体交渉の実施状況や争議行為の実施状況に照らし,当該争議行為が,業務命令の拒否自体を目的としているとみることができるなど,団体交渉を通じた労使間の合意形成を促進する目的が失われたものと評価できる場合には,当該時点から正当性を有しないものというべきである」。
 「団体交渉を通じた労使間の合意形成を促進する目的が失われたものと評価できる場合」とは,本件からは,誠実交渉義務が尽くされた場合が,これに当たることになりそうです。
 常識的な判断のようにも思えますが,やや疑問もあります。まず業務命令により命じられた労働義務の撤回などを求めてストライキを行うことは目的面からは正当なものでしょう。指名ストの正当性についても,同様の議論がなされてきました。確かに,企業の指揮命令権を奪うような争議行為は問題であり,これは怠業的な争議行為の正当性がそもそも認められるのかという論点でも出てきます。ただ日本では怠業の争議態様としての正当性は認められているので,使用者の指揮命令権の部分的剥奪はその限りでは許されているともいえます。
 またデッドロック後のストライキは,ほんとうに正当性を欠くとしてよいのかというと,団体交渉と争議行為の正当性を切り離す立場も学説上は有力で,その立場からは,なお議論の余地がありそうです。
 この事件では,労働組合側は授業の負担を減らせという主張をしており,それは採用時の契約違反であるからやらないという論拠がメインで,それと並んで,契約違反でなくてもストライキとしてやるということなのですが,先に授業拒否をして,あとから大学側からの指摘を受けてストライキですと言っているようなところもあって,事案としては,そもそも授業拒否の段階では,適法なストライキとして成立していなかったという疑いがあります。ストライキの成立要件はあまり明確でないところもありますが,年休の事後請求のように(これができるかというのも議論がありますが),ストライキとしての免責の事後請求ができるのかというと,普通に考えると無理ではないでしょうか。
 争議行為の正当性をめぐっては,団体交渉を経ないで行った争議行為の正当性という論点はあったのですが,団体交渉を尽くしたあとの争議行為の正当性は聞いたことがないので,教科書的に新たに追加すべき論点なのかもしれませんが,本件は事案が特殊で,今後あまり起こりそうでもない論点なので,あえて追加しなくてもよいかもしれませんね。菅野先生の労働法の第13版で言及があるか注目です。
 人事労働法の観点からは,企業が団体交渉を尽くしたのに,なお争議行為で対抗してくることを認める解釈はなかなか受け入れがたいところがあります。拙著『人事労働法』では,「納得規範」は個々の労働者への「誠実説明」を念頭においた概念であるため労働組合との交渉の場面では出てこないのですが,もともと「誠実説明」や「納得規範」は,団体交渉の誠実交渉義務をモデルとしているので,団体交渉と密接に関係しています。そして,人事労働法では,「正当な就業規則」に根拠があるものであれば,誠実説明を尽くしていれば,人事上の権限を行使することができるとしているので,同じことは団体交渉にあてはまると考えるべきでしょう。これは団体交渉ではデッドロックとか行き詰まりの法理と呼ばれてきたものです。そうすると,事情が変わって新たに誠実交渉義務が発生するような場合でないかぎり,争議行為には正当性がない,あるいは争議権の濫用といった結論になりやすいと思います。
 企業を終わりのない争議行為に巻き込むことは,誠実交渉義務の限界を不明確にし,企業がきちんと誠実に交渉するという義務を果たすインセンティブを削ぐことになる点でも望ましくありません。
 それとは別に,そもそも争議行為という手段は,憲法に根拠をもつ重要な権利であることは間違いないのですが,それを行使することには,争議行為の正当性という法律論の前に社会的正当化という視点も必要です。ドイツの議論では,争議行為について,「最後の手段(ultima ratio)」の原則というものが登場してきます。それによると,団体交渉による解決が尽きたからこそ,争議行為に出ることが正当化されることになりそうです。ドイツで,いまでもそのような議論があるのか,きちんとフォローしていませんし,日本法で同じように議論する必要はないのですが,確かに歴史的にみると,ストライキは,資本をもたず自分の労働力を売り渡して生活するしかない労働者が,労働力の売り渡しを拒否するという究極の手段であり,それを法が抑圧規制から解放したのがストライキ「権」なのです。そうした歴史に鑑みると,ストライキには,本来は平和的な解決が望ましいものの,最後のやむを得ない手段として行使されるかぎりにおいて正当化されるものであるというultima ratioの発想は理解できないわけではありません。ただ,日本では,そこまで厳格な考え方はありません。またイタリアでは,そうした考え方は,公共部門では主張されることがありますが,民間では聞かれません。日本法の解釈としても,争議行為に訴えることに過度に消極的になる必要はなく,やるべきストライキはきちんとやるべきだと考えています(この点は,拙著『雇用社会の25の疑問―労働法再入門―(第3版)』(弘文堂)の第5話「労働者には,どうしてストライキ権があるのか。」も参照)。ただ,何がやるべきストライキかということについては,労働組合がこの権利のもつ歴史的な意義をしっかり理解し,社会的に正当化できるものであるかということを自ら判断したうえで行う必要があるでしょう。私は,企業に社会的責任をしっかり求める見解を主張していますが,そうである以上,労働組合にも相応の社会的自覚を求める必要があると思っています。

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