自動運転への期待
拙著『会社員が消える』(文春新書)のなかで,ゼロリスク主義の問題点に言及しています(128頁)。自動運転技術の社会実装に対して,ゼロリスク主義的な対応で臨んではいけないということです。人間のエラーには比較的寛大で,機械のエラーに過度に厳しく対応するのはおかしいのではないか,ということです。
本のなかでは,もともとは原発裁判を例に,ゼロリスク主義をめぐる問題は難しいということを書いていましたが,しっかり書くと長くなりすぎるのでカットしました。そのかわり,ゼロリスク主義的な対応よりも,人類にとって有用であれば,リスクをとりながらも,それを減らすことに全力を傾けるべきということを強調した内容としました(なお,原発再稼働に対する,私の最終的な考え方はまだまとまっていません)。
実は自動運転だけでなく,自動車の導入そのものが,ゼロリスク主義との戦いだったことも想起しなければなりません。本のなかでも,イギリスの赤旗法の例に言及しています。リスクを過大に評価してしまうと,自動車の利便性を生かすことはできなかったでしょう。リスクをとって,そのうえで,リスクを減らす努力をしてきたからこそ,今日に至るまでの自動車の歴史があるのです。自動運転にも同じことをあてはめるべきです。
つまり,これだけ悲惨な事故が続く現状では,二つのことが重要なのだと思います。自動運転の実装化について,そのメリットの評価値を高めて,スピードアップすること,他方で,人間の運転については,いっそうのリスク軽減策をとることです。危険だけれど,有用というものとの付き合い方は,危険性をきちんとコントロールするという,ごく当たり前のことが大切なのです。
私は車の免許をもたず,運転をしないので,純粋に歩行者目線での話になりますが,車の運転をする人には,自分たちが危険なものを操作しているという意識が低いのではないかと思います。私もバスやタクシーには乗りますが,これらの運転手はプロです。プロでもミスがあり,それは厳しく断罪されなければなりませんが,普通の人の運転よりも歩行者に対する危険性は低いでしょう。自動車は,プロ以外の一般の人が,多数運転しているのです。ちょっとしたドライブという軽い気持ちで,車を運転している人も多いでしょう。多くの人は慎重に運転をしていると思います。ここ数日は,歩行者に優しいドライバーが急に増えてきました。歩行者優先という原点に気づいたからでしょう。しかし,まだそのことを忘れてしまっている人が少なくないと思います。
これだけ悲惨な事故が続出しているのに,なお車を運転するメリットを声高に言う人がいます。たとえば高齢者の免許返納は,生活に不便となるから気の毒だという議論もあります。しかし,生活に不便という程度の理由で,運転をしてもらっては困るのです。運転しているのは,ちょっとしたミスで人を殺しかねない機械です。高齢者が自動車なしでは生活できないような状況にあるとき,自動車が使えるから良しとしている現状を改めなければなりません。高齢者と自動車を引き離して,それでも高齢者が生活できるような状況を作ることこそが必要なのです。自動車を使って自立しているのは,自立とは言わないというくらいの発想の転換が必要でしょう。
高齢者のなかでも運転が上手な人はいるのでしょうが,実は巧さの絶対的なレベルはそれほど問題ではないのです。どんな人でも加齢により確実にレベルが落ちます。若いときのように運転できなくなっているときに生じる認識ギャップが事故を生みやすくするのだと思います。だから高齢者ドライバーの問題は,運転が上手か下手かは必ずしも重要ではないのです(もちろん,上手なほうが,危険は小さいでしょうが)。
一般市民の運転免許への規制などと言い出すと,人権侵害といった反論が出てきそうです。しかし,この免許は,危険なものを扱う資格にかかわるものであることを忘れてはなりません。私たちは,アメリカの銃規制が進まないのを野蛮だと思うしょう。多くのアメリカ人は,銃をきちんと扱っているのでしょうが,ときどき深刻な事件が起きています。私たちは,銃の取得が簡単にできることに違和感を覚えるのです。彼らにしてみれば,銃は自らを守るための必須の道具であり,その取得を規制することも人権問題なのでしょう。その点で自動車運転と似ています。
もちろん,銃の場合の事件は故意によるもので,自動車事故は過失によるのが通常だから次元が違うということは理解できます。しかし,歩行者目線からすると,たとえば前方不注意の自動車運転というのは,事故が起きても仕方がないと思っているようにうつり,そうなると故意と変わらないのです。
私の住む神戸で,日頃の行動範囲でいうと,安心して歩ける道はほとんどありません。いつも車にびくびくしながら歩かなければなりません。歩道でも自転車が猛スピードで駆け抜けていきます。自転車は混雑を回避できて早く到着できるから便利だという人もいますが,その早く到着できるところが危険なのです。スピードを出すことに肯定的な姿勢がうかがえるからです。そもそも自転車は歩道を走れないのが原則ということ(道路交通法17条,63条の4)を忘れている人が多すぎます。堂々と歩行者に道をあけるように要求してくるのです。
私は,一般市民が自動車や自転車を使わない社会の実現を待望しています。それは自動運転が公道を走り,人間が運転しなくてもよい社会です(道がないところの物資の輸送などでは,ドローンの開発が期待されますし,将来はドローンタクシーもありえるでしょう)。どうしても運転したい人は,歩行者が絶対来ない専用の区域を設けて,そこで楽しんでもらえればと思います。
こうした意見は暴論かもしれませんが,自動車の運転は,普通の市民がほんのちょっとした不注意で,生涯かけても償えないような悲惨な事故をもたらし,(加害者側も含む)多くの家庭を不幸にする危険をはらんでいることの意味を重く受け止めるならば,(人間による)自動車の運転のメリットを強調することなどできないと思います。早く自動運転技術を実用化してほしい,という声がもっと高まることを期待しています。
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