2023年9月25日 (月)

Buon Compleanno

  今日からLSの授業が始まりました。夏休みは終わりですが,日中は真夏のような暑さです。前期からの続きですので,いきなりがっつりと人事異動に関する判例を扱いました。東亜ペイント事件の最高裁判決って,やっぱり時代遅れだよなという感じで授業をやりましたが,実際40年近く前の判決だったのですね。労働法の勉強を始めたころは,出たばかりの判決だったわけで,自分がそれだけ年をとってしまったということですし,そして社会はあのころから大きく変わったということでしょう。
 労基則51項の労働条件明示義務の対象に,来年4月から,就業の場所や従事する業務の変更の範囲も含まれることになります。こうした規則改正が,配転法理にどう影響を及ぼすのか明確ではありませんが,企業からの情報提供を強化することは,労働者の納得度を高めることにつながりうるので,肯定的に受けとめることができるでしょう。さらに有期労働契約についての明示事項も追加されており,これらも企業からの情報提供の重要性にかんがみれば,方向性としては妥当と思われます。
 話はまったく変わり,Happy Birthday の歌の作曲者などはいるのだろうかと思い,ChatGPTにたずねたところ,作詞者や作曲者は特定されていました。最初は,「Good morning to all」という歌詞だったそうです。ご存知でない人は,ぜひ確認してくださいね。
 イタリア語でも「Tanti auguri」で始まり,同じメロディーです。三宮のイタリアンレストラン「Elefante」(旧「R.Valentino」で有名)では,誕生日には,店員が集まって,盛大にこの歌を歌ってくれます(「R.Valentino」の時代から同じです)。その他の国でも,メロディは同じで,スペイン語では,「Cumpleaños feliz 」で始まり,ドイツ語では,「Zum Geburtstag viel Glück」で始まります。アジアの国でも,同じメロディーですかね。いずれにせよ,世界中の925日生まれの人たちに,「Buon Compleanno」。

2023年9月24日 (日)

貴景勝優勝

 大相撲は貴景勝が優勝しました。昨日,豊昇龍に敗れて,熱海富士と1差がつき,やや厳しいかと思いましたが,千秋楽の相手は,合口のいい大栄翔が相手であったのがラッキーで,朝乃山に敗れて同星となった熱海富士との優勝決定戦は,注文相撲(というのは,ややかわいそうですが)で勝ち,逆転優勝となりました。
 逆転ではありますが,もともと前頭15枚目の熱海富士は強い相手とあまりあたらずに星を伸ばしたので,最後,上位にあてられて星が伸びなかったのは仕方ありません。むしろ,北青鵬は,早々に4敗していたので,上位陣とまったくあたらないまま,気づけばあわや優勝ということで,あわてて豊昇龍とあたり,ここで豊昇龍が意地をみせたからよかったですが,優勝しててもおかしくない勢いでした。豊昇龍は勝ち越しがかかっていたので,頑張ったのですが,もし大栄翔 と当たっていたらどうなっていたでしょうかね。番付的には,下位の力士が大勝ちしていたので,貴景勝・霧島,豊昇龍・大栄翔戦が飛んだことになります。もし千秋楽の取り組みが,貴景勝と北青鵬,豊昇龍・大栄翔となっていたら,貴景勝が負けて,大栄翔が勝って,大栄翔が本割でも勝っている熱海富士に優勝決定戦でも勝って優勝し大関に昇進し,豊昇龍は新大関で負け越しで,いきなりカド番なんてことになっていたかもしれません。 
 これは,あくまで可能性ですが,千秋楽の取組には編成会議も悩んだことでしょう。でも,こういう事態になったのは,優勝ラインが11勝あたりに落ちてくるからです。来場所は,実力のある力士が上位にいるので,こういう下克上場所(結局は下克上は起こらなかったのですが)にはならないような気がします(星を伸ばしそうな力士はきちんと上位陣と対戦し,それなりの星になっているはずです)。ずばり来場所は,私は豪の山が優勝戦線にからんでくると思います。
 下克上場所といえば,最近では,20201月場所に幕尻の徳勝龍(今場所で引退)が14勝1敗で優勝したことが印象的です。このとき,千秋楽に貴景勝に勝って優勝を決めていました。貴景勝は,そういうこともあり,今日は負けられない思いがあったのかもしれません。個人的には,1984年の9月場所で幕尻に近い多賀竜の優勝が印象的です。その前の場所に全勝優勝して綱取りがかかっていた若嶋津(先代の貴ノ花が引退後は,同じような小兵でがんばっていた若嶋津を応援していました)は,13日までで2敗で,横綱まであと一歩というところまで来ていました。しかし,14日目に1敗だった多賀竜との直接対決が組まれ,それで敗れてしまったので,優勝も横綱もとんでしまいました。若嶋津は千秋楽も負けて,114敗で終わりました。当時,横綱は,北の湖,隆の里,千代の富士と3人もいました。12勝の優勝なら内容が問われるという感じだったと思います。そのため,平幕2人(多賀竜の前に当時まだ平幕だった小錦にも負けていました)に敗れて3敗したところで,綱取りは終わっていたのです。27歳であった若島津は,その後,綱取りのチャンスはめぐってきませんでした(ただし,1985年の3月場所は12勝で準優勝で,5月場所は一応綱取り場所でしたが,10勝で終わりました)。現在は,休場がちの一人横綱ですので,横綱昇進ラインはそれほど高くありません。27歳の貴景勝が,来場所,好成績で優勝して,大願成就をはたせるでしょうか。

2023年9月23日 (土)

Digital divide

 昨日の続きですが,耳鼻科の待合室にいると,70代半ばくらいの女性が,「予約はできるのでしょうか」と受付の人にたずねていました。私よりも先に来て待っていたようですが,後から来た人が先に呼ばれていくことに疑問をもったようです。受付の人は「できます」と答えて,オンラインで予約されている方がいて,順番どおりにお呼びしています,と丁寧に答えていました。その女性は「電話で予約できますか」とたずねたところ,「予約はオンラインだけです」との答えで,「私はそういうのができないので……」という言葉に,受付の人は申し訳なさそうでしたが,どうしようもありません。
 予約は電話でも受け付ければよさそうなものですが,そういうことをすると,ややこしくなるのでしょうね。そうなると,スマホをもたず,ネットで予約ができない人は不便になります。これもデジタル・デバイドの一つでしょうが,こういう方に合わせてアナログ的なものを残していこうという議論になっては困ります。ここは行政の出番だと思うのですが,なにか手はないでしょうか。
 一方,当のクリニックも,受付後に,紙と鉛筆を渡されて住所や年齢などを書かされました(鉛筆というのが,なんとも言えないのですが,小学生になったような気分でした)。前にも別のクリニックに関して同じような不満を書いたことがあるのですが,オンラインで入力したものを,また鉛筆で手書きしろというのは,なんという無駄なことでしょうか。そして,この紙と鉛筆は,診療後に薬局に行ったときにもありました。初めての薬局に行ってしまったのが失敗でした。家の近所で以前に行ったことがあるところだったら,不要だったのでしょうが。
 クリニックの支払いは現金かもしれないと思い,そのためにわざわざ銀行で引き落として行ったのですが,やっぱり現金のみでした。現金は日常生活では使わないので,このためだけに引き落とさざるをえないのです。便利なところにATMがない時代がくると,現金払いというのは,とんでもなく迷惑なことになります。薬局は,クレジットカードが使えましたし,電子マネーもOKです。クリニックでは近所にあるその薬局を推奨してきたことからすると,両者は提携しているのでしょうから,支払い方法も提携してもらいたいものです。
 アナログとデジタルが混在していて,非効率だなと思う反面,アナログ以外無理という人たちもいて,難しいですね。行政の出番と言ってみたものの,デジタル庁は,マイナンバー問題からもわかるように,あまり頼りにならないようで,いったいこの国はどうなるのでしょうかね。このままでは,そう遠くない未来に,デジタル後進国に転落してしまうでしょう。そういえば,手帳をかかげて「聞く力」を自慢した首相が登場したことが,凶兆だったのかもしれません(森保ノート,栗山ノート……。もう十分です)。

2023年9月22日 (金)

クリニックの待ち時間

 久しぶりに耳鼻科に行きました。近所の耳鼻科が休みだったので,電車に乗って隣の駅の耳鼻科に行きました。耳の内側に痛みがあったからで,診察結果は,つめでひっかいたようなあとがあって,炎症を起こしているということでした。耳の触りすぎということですね。子どものやるようなことで恥ずかしいのですが,自分自身も自覚していて,耳を触りすぎる癖があり,でもなかなか直りません。 
 そこは初診でもオンライン予約ができて,何人待ちかはオンラインで確認できます(きちんと更新されています)。それはよいのですが,一人あたりの治療時間がわからないのと,予約していてもキャンセルがありうることから,結局,あと何人くらいのところで家を出ようかという判断ができないのです。自分の番号に,どんどん近づいたかと思うと,全然動かなくなったりもします。このオンラインシステムは,ないよりはましくらいで,待ち時間問題の根本的な解決にはならないような気がしました。
 今日の医師は,テキパキと患者をさばいていく感じです。それと老人と長話をしない医師のようです(これはとても大切です)。だから,あまり待ち時間の心配のないクリニックでした。こことは違って,老人のお話をしっかり聴いてくれる優しい医師のいるクリニックもありますが,これは困りものです。こういうところになると,オンラインシステムで,あと何人とわかっても,待ち時間の想定ができません。
 待ち時間を少なくするためには,どういう方法があるか。たとえば,患者一人ひとりが,事前にネット上で自分の症状を入力することにより(質問に答える形で入力),AIで何分かかるか予測できるようになると,自分の番号まであと何時間かわかり,待ち時間を減らすことができます。なんとなく医療業界はDXと縁遠い感じがするのですが,私がもう少し年をとって,日常的に医療のお世話になるときまで,DXが進んでいてほしいですね。それほど時間はないのですが。

2023年9月21日 (木)

内閣改造の「おぞましさ」?

 岸田政権の先般の内閣改造で,副大臣と政務官の全員(54人)が男性であったことについて,朝日新聞の高橋純子氏が,テレビ番組で「おぞましい」と述べたことが話題になっています。「おぞましい」という表現の適否はともかく,これを男性差別という(男性)議員がいるのは情けないです。そういうことではないだろうと言いたいですね。問題は,岸田首相が女性閣僚を5人入れたと自慢しているのに,副大臣・政務官クラスはゼロという極端なことをしていることにあります。世間の目を意識するなら,せめて23割は女性にしていてもよいように思いますが,それだけ女性の適任者がいなかったのでしょうか。もしそうだとすると,大臣に5人も「適任者」がいることとギャップがありすぎます。結局,目立つ閣僚ポストにだけ女性を入れておけば,それでアピールできるという,形だけの女性登用であり,これこそ女性軽視であると思えます。高橋氏が,そういうなかで,ネクタイ族だけの記念撮影をみて「おぞましい」と言ったのだとすると,理解できないわけではありません。
 日本経済新聞の920日の社説「女性登用の本気度が問われる」でも指摘されていましたが,「派閥順送りや年功序列型の人事を改め,なにより女性議員の数を着実に増やしていく努力がいる。」というのは,そのとおりです。ただ,最後に指摘されている,「女性登用の低迷打破に向け,候補者などの一定割合を女性に割り当てる『クオータ制』を含め,前向きな議論を始める時期だ」というところは,候補者の「クオータ制」はありえるとしても,やや危険のような気がします。今回の内閣改造も,56人は女性大臣がほしいという一種のクオータ制で,そういうことをすると,どうなるのかということは,実際の人事をみてわかったような気がします。もちろん候補者のクオータ制は,それだけで当選というのではないので,穏健なクオータ制ですが,いずれにせよ大事なのは,登用したいと思わせるような人を育てることです。副大臣や政務官という将来の大臣候補に適切な女性人材がいないということは,この点で大きな問題を抱えていることを示しています。日本の政治がジェンダーの観点から遅れていることは明らかですし,それが今後も続くことを予感させます。そういう状況に気づかずに,無邪気に,にこやかに記念写真におさまっている首相をみると,やはり「おぞましい」と感じる人がいても不思議ではないように思います。

 

2023年9月20日 (水)

仕事と幸福

 日本経済新聞の土曜版で連載されている,若松英輔さんの「言葉のちから」は,いつも含蓄があり,楽しみに読んでいます。916日はカール・ヒルティ(Carl Hilty)の「幸福論」が取り上げられていました。ヒルティの「まず何よりも肝心なのは,思いきってやり始めることである」「他の人たちは,特別な感興のわくのを待つが,しかし感興は,仕事に伴って,またその最中に,最もわきやすいものなのだ」という言葉を引用し,若松さんは,まずは着手することの重要性をいい,「着手さえすれば,仕事にまとわり付いていた困難という覆いが剥がれ落ちることを知っていたら,仕事に向き合う態度もまったく別なものになるだろう」と述べています。
 実は,拙著『勤勉は美徳か?―幸福に働き,生きるヒント』(2016年,光文社新書)でも,冒頭にヒルティの幸福論から,「仕事の“内側”に入れ」「仕事の奴隷になるな,時間の奴隷になるな」という言葉を引用しており,これを実現するには,どうしたらよいかということが,拙著のモチーフになっています。
 仕事に着手しなければ,着想も生まれないのであり,着手が大切だというのが,若松さんがヒルティから得た教訓のようです。気が進まなくても,仕事にまず取りかかるというのは,考えようによっては,「仕事の奴隷になる」のと同じのようですが,実はそうではなく,どうせやらなければならない仕事なら,そこから逃げていることこそが,仕事の奴隷となることなのだと思います。まずは着手し,仕事にまとわりつく困難がなくなっていき,仕事に前向きに取り組んでいけるようになることこそ,仕事の奴隷にならず,仕事の「内側」に入ることなのです。
 付け加えれば,そうして仕事と格闘していると疲れてよく眠れて,余計なネガティブなことも考えなくなるでしょう。がむしゃらに働くということは,決して「仕事の奴隷になる」のと同義ではないのです。とはいえ,ただ単にがむしゃらに「働かされる」だけで終わると,やはり「仕事の奴隷になる」おそれがあります。着想は,英語(conception)やイタリア語(concezioneconcepimento)では妊娠という意味もあります。ほんとうの仕事とは,新しい発想で何かを作り出すことなのであり(作り出されたものが,「概念」と訳されるconcept(英語), concetto(イタリア語)です),そうした仕事をしているかぎり,人は幸福に近づけるのかもしれません。

 

2023年9月19日 (火)

中国との付き合い方

 「汚染水」大臣が辞めてよかったのですが,期待していた盛山文科大臣の就任会見での不安定な答弁をみて,失望しました。自分のことを「新米大臣」というのは,謙遜から出た言葉かもしれませんが,これから文部科学行政を担っていく大臣の最初の言葉としては,頼りないです。即戦力が求められる教育行政について,新米で責任をもったことが当面はできないというのなら,大臣就任を断るべきでしょう。教員のなり手不足についても,名案がないというのは,がっかりです。これだけ教育問題が言われているなかで,常日頃から,一個人として何か思うところがなかったのでしょうか。今日も,経済産業省の方とリモートで意見交換をしたのですが,重要なのは教育であるという話になりました。盛山大臣に期待していただけに残念です。
 ところで話は変わり,中国側は,処理水問題を口実にして不当な対応をとっていて,日本の水産業に大きな影響を与えているようです。私は中国の対応に腹立たしさを感じるものの,他方で,日本政府が,中国に対して「科学的根拠」を無視した対応をとっていると強く批判していることには,やや疑問もあります。日本政府は,トリチウムの濃度が薄くなり健康に問題がないということについて,考えられる様々な角度から説明されています。私も経産省のアップしている動画をみました。政府は,科学的根拠の説明としては,これ以上やれることはないかもしれません。一方で,科学者の言うことだから信用しろと言われても,そう簡単に信じてはならないということも,いろいろな教訓から学んでいます。国際原子力機関(IAEA)事務局長のGrossi氏が出てきても,これでIAEAのお墨付きがあるからよいといえるのでしょうが,彼個人は科学者ではなく,行政官であり,なんとなく政治家っぽい匂いがするので,印象がよくないです。そもそも排出されているトリチウムが健康に無害であるといっても,ないほうがよいのですから,国土が近い中国や韓国が反対するのは理解できるところです。たとえ彼らが政治的にこの問題を利用しているとしても,利用するネタを与えてしまっているのは日本です。遠い国である欧米が日本に賛成しているのは,日本政府の科学的根拠に賛同しているというよりも,自分たちには影響がないことだと思っているからかもしれません。
 処理水の放出はどうしても日本にとって必要である以上,科学的根拠だけで攻めるのではなく,もう少し丁寧な対応もあったのではないかと思います。自分が逆の立場であったら,そう思うかもしれません(もちろん,実際の私は,日本政府の説明に一応納得して,日本の魚介類を食べて応援したいと思っています)。中国の肩をもつわけではありませんが,実は政府の外交交渉のまずさが,日本の水産業に大打撃を与えているかもしれないのです。私たちは,韓国や中国が内政の問題があれば,すぐに日本たたきに走って,国民の目線を国外に向けさせるということに不快感をおぼえていましたが,同じようなことを日本政府がやっているかもしれないということに注意すべきでしょう。
 それとは別に,日本のビジネスの中国依存も,そろそろ見直すべきではないかと思います。中国相手のビジネスだと安定的にこれを展開することは難しいでしょう。台湾有事があるかもしれません。中国人が欲しくなければ結構です,と言えるくらいの状況をつくらなければ,リスクは残るでしょう。観光業も中国からの旅行客に頼るのは,もう辞めませんか。無責任なことを言うなと言われそうですが,中国があまりにも巨大な市場なので,冷静な判断ができなくなっているかもしれません。いきなり旅行客が来なくなったり,製品の輸出できなくなったり,輸入できなくなったり,というようなことが起こる危険性があり,しかも日本政府にはそういう状況を避けるだけの十分な外交力がないとなると,中国に依存しないビジネスに向けて,少しずつ努力せざるを得ないでしょう。製造業などでは,そういう動きはすでにあるようですが,その他の製品も同じようにしなければならないでしょう。
 別に敵対する必要はないのです。依存しすぎるとお互いよくないというのは,人間社会にはよくあることです。適度の距離感をもって,警戒しながらも,うまく付き合っていくということを,政治もビジネスもやっていってもらえればと思います。

2023年9月18日 (月)

リアル回帰に警戒を

 915日の日本経済新聞の夕刊の「十字路」の欄で,東京都立大学大学院の松田千恵子教授が,「会計監査の現場離れ」というコラムを書かれていました。「リモートワークに異を唱えるつもりもない。むしろ,適宜活用して生産性を上げることは大事だ。会計など情報を扱う分野はリモートワークとの親和性も高い。ただ率直に言えば,実地棚卸しなどを含む会計監査については,当然ながら現場をしっかり見てほしいというのが本音だ。」というのは,よく理解できることではあります。ただ,そのあとに,ある監査法人の調査として,「今後は不正リスクが高まる」と感じている企業の割合が,2020年に59%だったものが,2022年には64%へと上昇したということが紹介されていて,これを現場主義の論拠とされているようですが,この5%の上昇は軽視できないものの,むしろこの程度であれば,違った方法で不正リスクに対処するという議論をすべきではないかというのが,DXとリモートの推進派の発想だと思います。
 労働者の数は今後どんどん減っていくというのは,少し前までは数字上のことのようでしたが,いまは実感が高まってきています。今回の休暇先でも,ホテルの裏方はほとんどアジア系の若者でした。外国人の活用がなければ,観光業界などはもたないようになってきているのでしょう。飲食店も同様であり,人手不足は深刻なようです。こちらは,このままでは飲食店の倒産か,価格の引上げになっていくでしょう。おそらく,今後は,接客能力の高い人間を配置して高級店に転換していくか,ロボットを導入していくか,そういうことをしないかぎり,この業界の未来は暗いでしょう。タクシーについても,前に書いたとおり,人手不足が深刻で,ライドシェア(ride share)の導入は不可避となりつつあります。
 リアルで人間の手を借りて仕事の水準を維持することは当面は必要でも,それに頼ってしまうと,人手不足に対応できません。これは観光業から会計監査の仕事まで,広くあてあまることではないでしょうか。そのためにも,コロナ禍でのリモート化は,緊急避難であったと位置づけるのではなく,来るべき社会の到来が早まったにすぎないという認識をもって,事態に臨まなければならないのです。
 ホテルで働いてくれる外国人が,いつまで日本に来てもらえるかわかりません。政府の雇用政策といえば,人間を対象としたものでした。AI問題も,AI代替による(人間の)雇用喪失が懸念されています。しかし,より深刻な問題は,人間の不足により,社会が回らなくなることです。いくら賃金を引き上げても,人が集まらない社会というのは,おそろしいです。早く機械でできるものは機械で,という意味のデジタルファーストに取り組まなければなりません。
 コロナ禍のころは,こういう議論をする機会がよくあったのですが,最近はあまりしなくなりました。デジアナバランス(digital-analog balance[造語])を追求するのではなく,アナログ時代のノスタルジー(nostalgia)から,うずうずしていた人の声が大きくなりつつあるような気もしています。ウィズ・コロナの定着により,人間のリアルでの仕事の再評価という誤った方向に動き出さないように注意が必要でしょう(なお,上記の松田氏の意見は,むしろリモートワークを評価したうえでの,デジアナバランスの追求をめざした意見とみるべきでしょう)。

2023年9月17日 (日)

遅い夏休み

 少し遅い夏休みをとりました。神戸から離れ,阪神優勝のときも,その試合を放映していないような地域に行ってしまったため,決定的なシーンはライブの映像として観ることができませんでした。
 私は「海」派ですので,休暇といえば海に行くことになります。海にいく以上は泳ぐのですが,年齢もあるので,無理はしないようにしています。若いころは酒を飲んで泳ぐというような無茶なことを普通にしていましたが,これは心筋梗塞の原因となったり,水難事故の原因となったりするので,いまでは酒を飲むと,泳がずに浸かるだけにとどめています。
 大学院時代は,菅野和夫先生が,東大の戸田寮に行かれるので,そこに合宿というか,先生の休暇に同行させていただくというか,そういうことがありました(先輩たちのころは,合宿中に菅野先生とハードに勉強されていた時代もあったようです)。私たちのころは,そういうのではなく,戸田寮で記憶に残っているのは,ひたすら泳いで日焼けをしてしまったことや,夜にトランプをしていたことです。
 神戸労働法研究会を立ち上げてからは,毎年ずっと夏季合宿をしていました。2016年くらいまでは毎年やっていたと思います。沖縄にも行きましたし,小豆島,白浜,岡山,宮崎,佐賀・唐津,知多半島,賢島,京丹後など,いろんなところに行って,昼間は勉強し,その合間に泳ぎ,夜は飲んでいました。私も自身の新たな研究テーマを,合宿で,二日酔いの状況で報告をしたというようなこともありました。懐かしい思い出です。夏以外にも,北海道大学や九州大学の研究会に参加させてもらうために遠征したこともありましたね。私も含めて,みんな元気でしたし,若い人たちは時間もありました。
 学部のゼミ生と合宿に行ったことも何回かありました。こちらは,ゼミ生が自主的に決めたものに,ゲスト参加というような感じですが,それも楽しい思い出です。
 もう昔のように,若い人たちと一緒に合宿というのは体力的に難しいですし,そもそもこういうことをやっていたのが昭和世代のスタイルの名残だったのかもしれません。

2023年9月16日 (土)

労災保険制度

 昨日の続きです。
 労災保険制度の趣旨というと,通常は,民法の不法行為から始まり,無過失責任論,それを根拠付けるための危険責任論や報償責任論などの説明をするのですが,そもそもなぜ医療保険ではいけないのかというところから考えていく必要があります。
 日本の健康保険をみると,医療の現物給付だけでなく,傷病手当金のような所得補償もしています。労災保険とかぶっているのです。もちろん給付内容は労災保険のほうがよいので,労働者は労災保険の請求を求めます。業務起因性などの業務上かどうかの判断では,労災保険か健康保険かの違いが出てきて,労働者性の問題がかかわってくると労災保険か国民健康保険かの違いが問題となります。労働者性のほうが問題は深刻であり,もし労働者性を否定されると,国民健康保険の適用になり,そこでは,たとえば傷病手当金は任意の制度にとどまり,実際には支給されていないのです(いまは新設が認められていない国民健康保険組合において,認められる例があるにとどまっている)。
 労災保険が労働者に有利な内容となっているとすれば,そもそもなぜそうなのかが問われなければなりません。労働者は保護されるべきだということで終わると,まさに昨今のフリーランスの問題に背を向けることになります。精神障害にかぎっても,心理的負荷というのは,別に労働者だけにあるのではありません。もし労災保険制度が,工場労働者の危険・有害労働だけに限定されているのならば,ブルーカラー的な仕事に従事しないフリーランスには,適用の可能性を否定してよいでしょう。しかし,今日の労災保険は,そういうのではなく,まさに精神障害に関する認定基準の拡大が示すように,どんどんホワイトカラー的な仕事でも,業務の危険性を認めて,労災によるカバーの範囲を及ぼすようにしているのです。こうなると,ホワイトカラー的な仕事に従事するフリーランスとの関係はどうなのかということが,問題とならざるをえないでしょう。だから特別加入があるのだという意見もあるのですが,これはこれで問題です。そもそもフリーランス新法の参議院の付帯決議にあるような,希望者に特別加入を広げるというのは,特別加入制度のもつ例外としての位置づけと整合性があるのかという問題があります。「みなし労働者」を無限定に広げるとなると,これは,労災保険は労働者のための制度という性格を失うことにつながります。もちろん特別加入の保険料は本人負担である(発注者側などが負担してくれれば別ですが)とか,いろいろ制限があり,使い勝手が悪いので,特別加入の拡大は労災保険の拡大だとはストレートに言えないという留保はつけられますが,それでもやはり制度の対象をフリーランス全員に広げうるということ自体が,すでにこの制度の普遍性(労働者だけのものではないこと)を示していて,そして,そのことは通常の医療保険との違いを曖昧にするのです。
 また労災保険の労災予防的な機能というのはありえても(メリット制で事業者の保険料にはねかえる),とくに精神障害の認定基準の晦渋さは半端ではないので,事業者にとって予防行動をとるインセンティブにならないでしょう(これは安全(健康)配慮義務の内容の不明確性とも関係します)。要するに,予防行動をしても仕方がないと思わせてしまうのです。私の提唱する「人事労働法」的には,これは非常に問題です。法の遵守は,そのことにメリットがなければ,うまく機能しないと思っています。精神障害の悪化に関する認定基準は,行政に対して,医学的な判断の尊重を求めていますが,これについては,裁判所のレビューもあり,行政,医学,司法と三段階のフィルターをとおして,ようやく最後の結論がでて,しかもそれは個別判断とされているので,普通に考えれば,そんなルールの遵守にまじめに取り組もうとする気はなくなるでしょう(どこまでのことをすればよいのかが,はっきりしないということです)。もちろん,企業には従業員が精神的にも健康な状態で働いてもらうことには大きなメリットがあるので,従業員の健康に配慮することへのインセンティブはあるのですが,それは義務の履行という法的な話とは別の人事管理の問題です(もっとも,「人事労働法」は,その人事管理の発想と労働法とを融合させようとする試みなのですが)。
 業務起因性や労働者性の判断が,労災の適用範囲に関係がないことになれば,上記のような問題は解決します。私は働き方に中立的なセーフティネットを構築すべきで,労災保険も改革の対象に入れるべきだと思っています。国民健康保険,健康保険,労災保険を統合し,業務起因性の有無や労働者の有無に関係なく統一的な制度を設け,そこでの給付で充足されない労働者に固有の損害があれば,そこは民事損害賠償でやればよいというのは,一つのアイデアだと思っています。厚生労働省は絶対に受け入れないと思いますが,なんでも考えてみようというのが研究者の仕事です。実現可能性などにあまりこだわらず,まずは本筋の制度はどういうものかを考えていくことも大切ではないかと思います。

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